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はてなキーワード: 空虚とは

2018-09-26

日本人破滅はすべて「ちゃんと謝れない」に集約されるのではないか

 子どものころ大人から叱られたときにいつも思うのは、


申し訳ないな」、「自分が悪かったな」


 ではなかった。


「めんどくさいな」、「いやだな」、「理不尽だな」、「早く終わらないかな」


 だった。


 怒られている最中、泣きもした。泣くのは罪悪感の表明ではなかった。

 むしろ相手に罪悪感をなすりつけ、叱られを早めに打ち切るためのテクニックであり、

 効果の如何にかかわらずよく使った。頭ではっきりそこまで打算してはいなかったが、意識化ではぬけめなく計算していたはずだ。

 ずるかった。ずるい子どもだった。でも当時はずるいのは高所大所から反撃の余地なく子どもを詰められる大人のほうだと感じていた。


 今となってはもはや怒りを買った理由も忘れてしまったけれど、

 現在の己をかんがみるに、最低でも九割くらいは自分に非があったのではないかと思う。



 そんなこんなで、大人になった。大人になって、何年かたった。

 上は政治家から下は会社の同僚に至るまで、やらかし事例をそれなりに見聞きした。日本近現代史特に旧日本軍の「失敗」をつまみ読んだりもした。

 それでなんとなく感得したことがある。


 日本人はちゃんと謝らない。

 謝っているときも謝っていない。

 謝り方を知らない。


 ネットとかでよく見かける文言だ。ネットでよく見かける主語の大きい言葉うそだったり不正確だったりするものが大半だけれど、これに関してだけは肌で真実だとわかる。なぜなら自分もそうだから。おそらく、人生を通じて本当に心底相手に対してお詫び申し上げたことがないから。謝るにしろ謝らないにしろ、我が身のかわいさしか考えたことがないから。


 

 日本人は、という主語を使いたい。

 日本人は、謝れないとして、責任を取りたがらないとして、なぜそうなのか。


 あらゆる面倒ごとを「天災」として捉えているからだ。

 因果律直視しないせいだからだ。


 人災には因果があり、理由がある、ということをしんじ認識できていない。

 百万歩ゆずって因果があったとしても、それは前世の業めいたもので、自分の手では届かないどうしようもないことであり、どうしようもなかったのだから、私個人は悪くない。そういう責任逃れの前提があらかじめ内面化されている。


 私は関係ない。

 私は意図していない。


 機序は知らないがその面倒ごととしての「結果」は私とは関係ないところで発生した災害なのだから、私を怒らないでくれ、叱らないでくれ。


 そういう意識がある。

 そういう意識が怒られの前触れを察知したときに怒られ者にどういう感情を引き起こすか。


「めんどくさい」だ。


 自分には関係からめんどくさく感じる。理不尽に思う。

 だから避けようとするし、早く打ち切ろうとする。それが空虚謝罪姑息謝罪逃れにつながる。

 そうすることで失敗を原因を直視しないままうやむやに過ぎ、次なる大災害の種を育んでしまう。人災だったもの天災に変えてしまう。

 第二次世界大戦敗戦とはまさにそれだった。

 福島原発事故もまさにそれだった。


 

 新潮45の件もそれなんだろうな、と思う。

 最悪なのは、謝られる側も「ちゃんと謝れなさ」に最適化されてしまっている風土だ。

 原因やプロセスに向き合わないままうやむやに終わらせることに慣れてしまっている。

 口では「原因究明を」「まだ終わっていない」「説明責任」などと欧米から輸入したような言葉を吐くが、結局一歩も進めず忘れてしまう。

 ちゃんと謝れないでいい空気を保存しておいたほうが後々自分も謝る立場になったときに都合がいいのだ。

 そうやって多分、日本人はこれからも同じ小規模な失敗を積み重ねていき、いくらか貯まったところで大惨事を引き起こすのだろう。

 そういうことをえんえんと繰り返すのだろう。

 僕が言いたかったのは永遠。 

 

2018-09-25

勉強したくない

猛烈に勉強したくない

いや何故勉強するのかがよくわからない

どうやらわたし来年受験生なるみたいだけど、なんで勉強するんだろう

何か目標がある人はそれに向かってまっしぐらでいいけれど、なんの目標もないような人は何に向かって走っているんだ

将来の夢とか久しく持ってないなあ

大学行って何を何のために学びたいかなんてねよくわからないよ

オープンキャンパスとか行ってみてすごいな〜〜とか思ったけれどすごいな!止まりでこれを学びたい!!にはならなかった

家に近いから、成績、偏差値

それで選んで入ったとしてもきっとまた今みたいになんでなんでって考えることになるんだろうな

学歴はそりゃああったほうがいいだろうな〜ってなんとなくは思うよ

それにせっかく頑張って頑張って上位の高校入学したのにね

大学行きたいとか勉強したいとか全然思わないんだ

入学してから一気に成績とか落っこちたな

それは笑えるくらいド底辺まで

同じ学校友達に話してみても「やばいね」って言われるだけだし

他校の友達には「それは自分レベルが下がったからじゃなくて学校レベルが高いからなんだよ」って言われた

絶対違う 私が一気に腑抜けになったんだ

優等生のメッキが剥がれて怠惰わたしがあらわになったんだ

親は「目標も無いのに無理して勉強しなくていいんだよ」ってどんな酷い成績でも怒らないし干渉してこない

ありがたいことだけれど親にそこまで言わせてしまってなんかそれはそれで申し訳ない

いつだったかな誰かに

勉強したくてもできない人がいるんだよ

ここに入学したくてもできなかった人がいるんだよ

自分は恵まれてるんだよ

って言われたような記憶がある

そんなこと百も承知なんだ

今は他の人の想いとかそういったもの背負ってまで頑張る気になれない

そもそも誰かのためじゃなくて自分のために頑張るべきなんだよなきっと

もうなんで勉強してるのか学校に通ってるのかなにもかも分からなくて空虚毎日だしつらいし学校行きたくない

これからどうしたいかもどうすればいいのかも分からないことづくし

あたしゃ一体何がしたいんだろう

言ってることもみんなみんな我儘で支離滅裂

2018-09-11

新卒看護師ホスピスで働き始めて燃え尽きた話

身バレが怖いので具体的な話はほとんど書いてない上に長文です。

看護師になり、ホスピスで働き始めてもう半年になる。

同期が出来ていることが全く出来ず、優しかった先輩がだんだん呆れ顔になってきた。

大学時代から気付いていたが、はっきり言って要領は悪いしミスも多い。患者とのコミュニケーションも下手だ。

新卒ホスピスという選択自体無理があったかもしれない。

しかしそうした点ではなく、もっと根本的な部分で医療者に向いてないなと思い始めた。

一つ、患者に対して興味が持てないこと。

そしてもう一つ、どうしても患者に対して「生きていることそれ自体が無条件で尊い」とは思えないことである

こんなことを言うのもみっともないが、高校時代の成績から言えばどこかの医学部に入れたと思う。

それでも「五感を使って患者さんをアセスメントし、医者とは違う側面から患者さんの生活を支えるクリエイティブ仕事」という看護師像に憧れ、親族の反対を押し切って看護師の道を選んだ。

患者さん一人ひとりが自分らしい死を迎えられるように手助けしたい」と思ってホスピスで働くことを選んだ。

しかし実際に看護師になってみると、患者に対してケアをすることに全く喜びを見出せない。

患者の病状が良くなろうが悪かろうが感情が動かない。

一つ一つのケアがただの業務に成り下がっており、勉強する意欲も失ってしまった。

から経済的な面や安定性を求めて看護師になったのであればそれでも耐えられるのだろうが、高い志を持ってこの仕事を選んだ(つもりだった)ために余計に辛い。

医学自体は嫌いではない。

基礎研究をしている研究者の話を聞くと楽しそうで羨ましくて仕方がなく、選択を誤ったという思いが強い。


そしてもう一つのなのだが、もし良ければリンクで紹介する記事を先に読んで欲しい。

ホスピスケアを中心として活動されている新城拓也先生がお書きになったものだ。

「生きる価値のない病人」という発想はどこから生まれるのか

この記事趣旨はこうだ。すなわち、

医療従事者が『こんな生産性のない病人には生きている価値がない』と考えるのは未熟と無知によるバーンアウトが原因であり、十分な教育があればそのような考えには至らない」

というものである

本当にそうなのだろうか?

実は私は大学時代から生産性のない病人を生かすことに社会的価値があるのだろうか」とずっと考えていた。

生産性がなくても、生きていてほしいと誰かに思われているのなら医療は全力を尽くすべきだろうとは思う。

では、例えば長いこと寝たきりで、家族にも嫌われないまでも重荷だと思われているような場合はどうだろうか?

そんな事を考えてしま自分が嫌で、きっとホスピスに行って現場を見ればそんなことも考えなくなるだろうと思っていた。

しか現場に出てみてもその疑問は解決されないばかりかますます私の頭を圧迫している。

それでも救うべきだ、と断言できる人間けが臨床には必要とされている。

新城先生の言う「教育」とはコミュニケーション技法なのだと私は解した(もちろんそれだけではないと思うのだが、具体的に大きなウェイトを占めるものコミュニケーション技法だろう)。

しかしその解釈場合、「コミュニケーションが取れない人間は生きている価値がない」という思想を持つ植松聖の凶行は止められなかっただろう。

なにせ患者コミュニケーションが取れないのだから

真に必要ものは「医療倫理が善しとする方向に感情を向ける技術である

患者がどのような状況であっても善行・無危害原則に則って行動し、患者権利擁護することに専念するための感情操作技術

それでもダメなら、もう終末期医療には携わらないしかない。

医師しろ看護師しろ介護士しろ、終末期医療にはそういう燃え尽きてしまった人間を弾く制度必要なのではないか(「医療」という枠とはまた別で)。

少なくとも医療という世界に限れば、それくらいのことが許されると思う。

最近良く祖母葬式を思い出す。

普段祖母を嫌うような言動をしていた両親と兄とが沈痛な顔をして座っていて、もしかするとここにいる誰も祖母の死を悲しんでいないのではないかと思った。

それ以来、死んでも誰にも悲しまれない人間というもの存在するのではないかと思うようになった。

今も見舞いに来る家族に対して「この人は本当に患者に死んで欲しくないと心から思っているのだろうか」と疑問に思ってしまう。

私がやがて死ぬ時、心から悲しんでくれる人はいるだろうか?

もし将来家族がいないか家族に疎んじられていたら、働けなくなった時点で自殺したい。

とりあえず、ホスピスで働くのはもうやめようと思っている。

患者のためにも私のためにもならない。

出来ることな大学院に行き、看護系の基礎研究をしたい。

少しだけ提言染みたことを言うならば、コミュニケーション技法教育というのは本当にしっかりやったほうが良いと思う。

アレをただの情報収集技術だと思って大学時代まともに聞いていなかった私は大馬鹿だった。

そうした技術論は患者パターン化しているように思えて、一丁前に不誠実だとも感じていた。

熱いハートさえあれば十分だと思っていた。

どうやらそうではなかったらしい。

国試に出るだけの空虚理論だと思っていたら私のように完全に燃え尽きてしまうかもしれないぞ。

2018-09-07

anond:20180907001231

かにそれは別の重大な問題だよな

オタク連中は自分の好きなものがあるから社会自分関係性がどうにかなりゃ、後は自分趣味に打ち込む充実した人生が待ってる

幸せ基準他者依存しなくてもいいので人生謳歌できる

一方、好きなものも無ければ周囲に必要ともされてない奴は、当然自己完結幸せも味わえないし誰かに認められることによる幸せも感じることはない

疎外と空虚

疎外に関しては周囲の目線時代とともに緩和されてきて幾分楽になってきてる感はあるけど、空虚に関しては自分問題から熱中できるものを見つけるなり他者に求められる能力を備えるなりの努力必要となる

偶然熱中できるもの出会うことが出来た運の良さやひたむきに努力できる才能がない人間は、うーん、辛い!

2018-09-01

anond:20180901134415

空虚な楽観論とか嘘を吐かれると、あの時に捨てられたんだって病むよ。

2018-08-27

自分人生自分の力で生きようという人間が乏しいからな、はてなという場所は。

常に「誰か」に「何か」をしてもらうことばっかり考えてるから、「自分存在」そのもの空虚空っぽ・稀薄になる。

生き方のもの受動なのだ。だから生きる意義など見いだせるはずもない。

自分」を感じられなければ「その自分にとっての意義」がそもそも存在しない。

奴らにあるのは徹頭徹尾「快・不快」の原始的動物的反応に過ぎない。

自分人生自分努力で何とか切り開こうという意志がなければ、そりゃ人生むなしくなるだろう。

というか、それはもはや「自分の」人生じゃないだろうからな。

それも分からずに、でも満たされないかイライラするから

いつまで経っても人のせいにし続けて生きていくつもりなのだろう。文字通り「死ぬまで」。

そりゃ「生きている意味」など分かるまいな。

自分人生を生きていないのだから当然の帰結だ。

から40歳という人生の折返し地点で漠然とした悩みを抱えているが、

しかし具体的な解決策にまで辿り着くことができない、つまり

自分人生責任が持てない」

から

40代以後を話題にした増田に食いつきはするが、

しかしどうしたらいいかからないみたいなみっともない醜態晒すことになる

勝ち犬の遠吠え

「金を稼いでも意味がない」「学歴があっても意味がない」と言えるくらい金を稼ぎたい。

稼いでからその無意味さ、空虚さを実感したい。

負け犬の遠吠えが一番ダサい

2018-08-19

anond:20180819025305

キムタク映画見てもその周りが空虚だろ?そういうことだ。

2018-08-18

明日に対する心(著:高橋是清

欧州大戦世界各国がそうであるように、日本もまた新興の機運に際会し、何者かをつかもうとして焦燥し、ぐるぐる舞いをしてきた。なお世界のどよめきにつれて動き、世界とともに悩むことは、時勢としてやむを得ないだろう。けれども、もうまねごと時代は過ぎた。(中略)

ねごとの慌ただしさ、落ち着きのない悩ましい日本の現状、こうした社会はいったい何によるものかといえば、人間の持ち前の物質意識精神意識より起こる。二つの欲のばっこするに乗じて、この二欲を正しく制御すべき肝腎な心の修行がたりないかである

すべてにおいて、過渡時代の悩みにある日本国民は、何をもって明日に対する心としているのであろうか。我々は常に正しき、建設的な理想をもたねばならぬ。そしてどんな悩みの中にあっても、その理想への道を一歩ずつたりとも貫き進む覚悟がなければならない。その理想を求めよ。精神的に空虚なその日暮らしほど恐ろしいものはないのである

2018-08-16

anond:20180816154415

大阪人は頑なに訛りを使おうとする。やめたら自分が無くなってしまうのかのように。そんな空虚を守っても仕方あるまい。

2018-08-14

anond:20180814102817

自分の充実感のために生きている限りその空虚はきえやしない。

友とか家族のために生きよ。人間は人に尽くすと幸せになるようにできている。

anond:20180814102817

その空虚感はこの先ずっと誰といても何をしてても止むことはない。焦って行動してそれがたまたま上手く行っても結局は空虚になる。つまり、気にしないことだ。

20代後半特有の、なんともいえない空虚

大学卒業して、会社員として4年目。

丸3年間働いてきたことになる。

最近、このまま働き続けていいんだろうかという空虚感に襲われる。

20代前半の、

「なんでもやってやるぜ!」という気力と体力

就職活動というイベントによる、何にでもなれる感覚

そういったもの20代後半にはなくなってくる。

自分の将来の選択肢が徐々に狭まっていることに危機感を覚えつつある。

これまでの自分選択はすべて将来の選択肢を広げるためのものだった。

勉強を頑張っていい大学に入るのもそう。

大学エピソードを積み上げて就職活動を頑張るのだってそう。

会社で頑張って、新人賞なり会社の賞を取るのもそう。




だけど

最近は、特に仕事に関わる勉強には力が入らない。

昔の頑張ろうという気力がなくなってしまたから。

今の会社の決められたレールの上をふわふわ歩いて行けば

30代もくいっぱぐれることはないんだろうな、と思う。

でも、こんなのは

田舎高校生自分が夢見ていた自分人生ではないと思う。

どう生きればいいんだ。

そういう空虚感、なんにでもなれたのに、何者にもなれなかった、何にもなれないんだろうなという絶望感を

お盆出勤しているときに感じたのだ。

2018-08-13

友達珍走団に殺された。

在学中の友達が死んだ。

友達は数年前…卒業した後に仕事関係でひどいうつ病になってしまったらしく、僕もたまに会いに行っては気をつかいながら遊んだりしてた。

いつかまた在学中のようにわいわい楽しくできたらいいなーとか思ってた。

それでもここのところは回復の兆しがあって、彼も笑ってくれる機会が多くなってきてた。

回復の兆しが見えたちょっとから珍走団が毎夜来るようになったらしくて、だいぶ怖がっていたみたい。

そしてまたそのせいで眠れず、調子が悪くなっていって…その夜の珍走団が走ってきたタイミングで、錯乱してマンション屋上から身投げ自殺

珍走団はこういうようなことも見越して、空虚な悦楽に浸ってるんだろうか。

2018-08-09

無職としての学問

 特に文系において、大学研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。

* * *

 研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。

 例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるもの生活はすべて僥倖支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。

 このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日日本においても、同様である。むしろ人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識たからに他ならないが——に直面している極東島国の方が、研究生活を取り巻く環境過酷であるといえるだろう。

 博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しか低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である

 日本より恵まれ研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単であるしかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマ選択制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである

 当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである

 ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクスそもそも学歴のなかったピエールプルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在であるしかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである

 尤も研究者も所詮人間であるからして、研究のものの「客観性」や科学位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。

* * *

 さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである

 収入がないなどもっての外であり、亡命収監失踪放浪なども、家庭生活とは相容れないものである

 歴史を顧みれば、自死発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。

 できれば平穏無事に、昭和時代理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。

 しか今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームマイカーも持たず、年金制度破綻を前に怯えながら年老いるのである

 もしあなた結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナー無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。

 さら子供がいるとすれば、当然あなた研究生活放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれいるかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)

 多くの研究者たちにとって、結婚出産研究生活首にかけられた縄である

 女性研究者の研究生活性別役割分業的発想や家庭生活に対する支援パートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別役割分業的発想や金銭支援パートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。

 いずれにしろ他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである

 だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である穂積陳重来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するもの定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である

 しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。

 その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。

 実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである

 当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。

 あるいは「家庭」という理想像の崩壊高齢者二人世帯や単身世帯シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体空虚ものになっているという批判があるかもしれない。

 しかし反面で、なお結婚出産経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚出産を前提とした私的領域生活モデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。

* * *

 収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。

 では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。

 前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。

 後者方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラー炭水化物摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活否定しかない。

 研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。

 そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである

 家事労働ワークライフバランス長時間労働問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大であるワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないか低賃金かつやることのない中途半端余暇をもたらすだけである長時間労働改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである

 とにかく、家庭生活の求めるもの根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである

* * *

 では、解決方法は何か。家庭生活問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働女性が支えるという構図が出来上がった。

 しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族から支援収入不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。

 もし家庭生活に関与してから研究生活継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からリソース調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)

 ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソース調達である大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達個人能力に帰せられることで、研究能力とは別にそれに取り組む環境規定されてしまうということである

 この二つの問題解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。

 どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである

 アカデメイアリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティ形成されていたはずだ。修道院のようなものである

 いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なもの国外へ出て行ってしまっている。もう最後タイミングである

 いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。

いや、それとももう、研究生活を諦めるべきなのか。

空虚感をどうすれば良いのか

空虚感はコンテンツの消費で埋まらない説

さっきみた夢

おれすげー、おれかっけー、おれ正義、おれ理解ある、系の発言の数々に

学友、地元の旧友、元カノの面々が首肯しまくる。

ニッコニコで自説をたれ流すと絶妙リアクション肯定してくれることに

一瞬の空虚を見つけると、一気に覚醒

 

誰もいないいつもの部屋で目が覚める。

あああ仕事行かなきゃ。

違うわ、辞めたんだった会社

 

覚醒

2018-08-04

変態!」と言われて嬉しい理由

罵倒は時としてご褒美になる

 

罵倒してくれたということは相手自分の一部を理解し感動させられたということに他ならない

その一連の流れを理解する瞬間相手自分はある種分かりあえたのだと思い嬉しくなってしま

しかしその嬉しさはどこかこそばゆいものなので

リアクションは「げへへ」となる

非常に気持ちが悪い

 

なお別に理解もせずに音として発せられた「変態!」はあまりにも空虚

そういう状況を生んだことに失望し、相手には同情する

心を込めて言ってもらわないといけない

2018-07-30

安倍首相って無敵の人だよな

これまでの対応をさかのぼって見ると、安倍首相無敵の人しか見えない。

無敵の人

http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%84%A1%E6%95%B5%E3%81%AE%E4%BA%BA]

失うものが何もない人という意味で捉えると、

すでに一度、首相の座を追われて、尊厳を無くしている。

今の地位を守って伝えるための子供もいない。

奥さん(ファーストレディはいるのだが、守るべき対象とは認知されていないように見える。

これまでの無敵の人たちとの共通点として、人の死に対してなんの感慨も持っていない点も挙げられる。

安倍首相の目を見ていると、なんと空虚を見ているのだろうと思う。

何もかもを捨てれば、群衆をどれだけ操れるか試している。そんなふうに見えてくる。

無敵の人が何をするかといえば、自身を育てた社会を憎み壊すこと。目的を違う人と戦うことは容易ではない。(H×H31巻)

2018-07-28

2007年から2010年頃の動画を見たくない

実況プレイ動画、というものをご存知だろうか。

知らない人は検索してほしい。(説明しようと試みたが、私の貧弱な語彙では簡潔に説明できなかった。申し訳ない)

私は、それが好きだ。最初に見たのは確か六年前。元々ゲームが苦手で、父や姉がプレイするのを眺めているのが好きだったから、実況プレイ動画というものは私の趣味にぴったり合致したと言える。

勿論最近動画を見るのが好きだ。

けれど、一つ変わったことがある。

2007年から2010年の間に投稿された動画

それらを見ると、どうしても悲しくなってしまって、見ることができなくなった。

無論、動画内容がつまらないわけではない。面白い。すごく。

けれど、だからこそ私は、どうしようもなくつらくて、悲しくて、見たくなくなってしまう。

だってそれは、一切思い出せないような遠い過去でもなく、つい昨日のことのような思い出でもなく。

頑張れば思い出せるような、けれどただ、きらめきだとか、暗い気持ちとか、そんな抽象的なものばかりが浮かんでくるような、無くしかけた記憶の時期なのだ

私は見ると、その頃の動画を見ると、

何も残さずに生きてきてしまった自分がひどく情けなくて、現実日常といったものを浪費してきた自分がただ空虚で、死にたくなる。

から、見たくない。

きっと今日台風のことも私は忘れてしまう。

思い出した時は日記を書くようにしているけれど、読み返すたびに、まるで誰か別の人の辿ってきた道をなぞっているような気分になる。

なにをのこせばいいのかな。

2018-07-26

リベラルだけど杉田水脈氏を擁護する

結論

杉田水脈氏の意見全体に賛同するわけではないけれど、「LGBT生産性がないから、結婚制度による社会的優遇には適さない」という主張は、重要な主張であって、暴言失言扱いで軽く片付けられる話ではない。

LGBT結婚を認めるかどうかは、社会制度設計問題としては非常に難しく、かつ、本質的問題はらんでいる。そして、賛成にしても反対にしても、「非常に難しい」ということを認めた上で、議論しないとそもそも議論のもの非生産的ものになってしまうのだが、最近の論争を見ていると、まさにそういう非生産的議論になっていると思う。

議論

そもそも結婚個人間の契約だという立場に基づけば、結婚に対する公的支援は、せいぜい、公証人制度のような形で、契約正当性担保する程度の話のはずで、結婚した人を税制社会福祉の受益者として優遇する措置自体が、平等原則に反するという見方もできる。

では、なぜ結婚制度があるのか。平等原則に反する優遇措置には、理由がなければいけない。これを正当化するロジックとして、2つの立場が考えられる。

1. 結婚次世代の子供を産み育てる個人の営みを、公的支援するためのものであり、公共性観点から結婚した人を優遇することの正当性が確保される。もちろん、結婚制度を利用しながら、子供を産まない、育てないことで差別されるべきではないが、結婚制度最初からそうした目的で利用することは、制度上期待されることではないという立場

2. 結婚は、個人の親愛の情に基いて、生活をともにしたいと考える個人性質に基づく普遍的権利であり、子供を産むか、育てるかという個人選択とは切り離されて考えられるべきであるという立場

最近社会の風潮としても、特にリベラル」の立場からの主張としても、2の立場が取られることが多い。でも、1はそんなに間違っているのだろうか?契約保証という観点からは、2の立場理解できるけれど、たとえば、配偶者控除など税制上の優遇制度を、2だけで、1と切り離して正当化できるのだろうかという問題はあると思う。

また、2の立場理念として正しいとしても、むしろ、それはLGBT<だけ>を結婚制度の枠内にしようという中途半端な仕組みではなく、友人同士であっても、3人以上であっても、共同生活をする人たちが、社会的優遇を得られる制度一般化することでしか正当化されないのではないかという疑問がわく。そして、この立場は、(陰謀論的な意味ではなく)結果として結婚制度解体という方向に結びつかざるをえないとも思う。

こういう議論全体について、自分が言いたいのは、2はダメで1が正しいということではなくて、これがすごく難しい問題だということ。1と主張するにしても、2と主張するにしても、そこには掬いきれない問題があり、それを無視して片方の立場の主張をしてもそれは空虚であるということ。

その上で、昨今の論争について言うと、「LGBT生産性がない」という言葉が独り歩きしているけれど、そもそも結婚制度は、社会の「生産性」のために設計された制度という見方もできるし、現状の結婚制度はむしろそのように設計されている。結婚制度自体解体して、「共同生活支援」のような制度を目指すのなら話は分かるけど、そうじゃないのであれば、「生産性」という言葉尻をとらえて批判するのは、態度として一貫しないだろう。

自分はどちらかというと、杉田水脈氏のような「エセ保守」は滅びてほしいと思っているし、擁護したくもないのだけど、批判する側がきちんと批判できてなければ、批判したつもりでも、むしろ彼らを助長させることにしかならない。だからこそ、この論点に関しては、杉田水脈氏の側にも一理あると指摘したい。

2018-07-21

anond:20180721093221

全然わかってないブコメとか多すぎだな

絶対に言うことを聞かない生徒がいる」ってのが前提なんだよ

その前提の中で考えなきゃダメなんだって

こうしたら前提を覆せるよ、みたいな空虚な話はしていない

2018-07-19

熱中症で一人死亡。「命が大切だ」があまり空虚

内心は他人なんて知らないよでも演技で建前を貫くのが義務じゃないのかな。

あいうのを放置しとくからボランティアの集まりが悪くなって質も低下すんだよ。

2018-07-18

anond:20180718025334

空虚に感じたからじゃない?

俺の両親もとてもまともでよい人たちだけど、それゆえか一般的血縁の情を第三者的擬態しているような、家族のものに対して他人ごとのような感覚しかない。故に結婚している自分想像できない。

良い悪い、というか悪い面ばかりだが、愛憎の深度という観点から考えると、親との関係がこじれている人のが拘りを感じて羨ましくさえ思う瞬間があるよ。

無論それは安全地帯から搾取なのだろうけど。

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