はてなキーワード: さぶとは
深夜に狂気に任せて書き殴った排泄物みたいな怪文書を色んな人に読まれるのめっちゃはずいな!!!
で、その怪文書は帰宅途中にラジオでこのニュースを聞いて衝動的に書いたものなんですけど
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230530/amp/k10014082521000.html
ニュースの内容がどうというより、ラジオから聞こえてくる当事者や支援者たちの嬉しそうな声に涙ぐみハンドルを持つ手が震えるくらい気持ちを揺さぶられ、晩ごはんも喉を通らないくらい興奮しました
彼らの気持ちが凄くわかるし、羨ましいなと思ったので
なぜその友達に拘るのかというと、彼女が私の初恋の人でずっと片思いしてるからです
そして凄く情けなくてキモいこと言いますけど、東京で彼氏作ってバイバイされるのが怖くて怖くてたまらないからです
だから絶縁なんて到底無理なんですけど、ただ金銭的な支援をするのは確かに私の一方的なエゴなのでもう止めようと思います
でも高2の頃から着衣での身体接触、一緒にお風呂に入って脱衣での身体接触、性的なニュアンスを含んだ手付きでのボディタッチや軽めのキスに対する彼女の反応を探り探りじっくりと6年かけて調べた結果、この子絶対素質ある(じゃなきゃ同居なんかしないでしょ)と確信してるのでまだ諦められないなあ
「君の名は」は、東日本大震災を事前に知って回避したらどうなるかっていう話。題材を変えているだけで、あれは不謹慎な話でもある。
街が破壊される描写も東日本大震災が元ネタ。日本でウケたのは、皆東日本大震災を経験して、あの空気感を思い出して心が揺さぶられるから。
東日本大震災で誰も死ななかったら?という、もう起きてしまった事に対して過去を否定する話。
「天気の子」は、ポリコレ社会に対してのアンチテーゼが元ネタだった。ポリコレを大事に思っている人は苦々しいだろうし、
責任のある立場で色々犠牲にしてきた大人は批判されているようで気持ちよくないだろう。
東日本大震災から離れつつ、相次ぐ自然災害を「異常」だと言うことと、社会の正義を1つに定めることを重ねた。
「青空(正しい世界)よりも俺はひな(間違っているが信じている存在)がいい!天気(社会)なんて狂ったままでいい(間違ったままでいい)んだ!(だって世界は元々間違っているのだから)」
という主人公の言葉は痺れた。個人主義の皮を被った全体主義に対する強い批判のように感じた。
「すずめの戸締り」は正直駄作だった。ネタが尽きたんだろう。イケメンの声優は下手糞だし、話も先が読めるし、感情移入できないし、テーマ性も問いかけるだけで終わっている。
結果的にダイジンは世界の為に犠牲になり、すずめはダイジンをうちの子じゃないと言い放ち。
ただこれは、「君の名は」が「あったことをなかったことにする」、つまり「3本脚の椅子を4本に」ということはせず、傷ついたものは傷ついたまま、あったことはあったまま、
前に向かって歩くと言うテーマには、平凡なストーリーが合っていた。
3部作を閉じるにあたり、始めてしまった「嘘」を「閉じる」、贖罪の為にこの作品を作ったと考えれば納得できる。いつか新海のインタビューで「君の名は、は一時の傷を癒す絆創膏のようなもの」という言葉を見た気がする。
新海はその傷痕を傷痕のまま、絆創膏を剥がす痛みをこの映画で描きたかったのだろう。l
勿論それは君の名のように劇的ではなく、天気の子のように動的でもない。
源氏物語を書いた紫式部は、仏教説話によると地獄に落ちたらしい。
現実に向き合うべきなのに、人の心を惑わし夢の世界に閉じ込めたと。
新海誠はその点、物語の扉を閉じてみる人を夢の世界から引き揚げた。すずめの戸締りは駄作だけど、新海誠は嫌いになれない理由がそれだ。
育児本と母親教室には「生後1ヶ月以内は子供を外に出すな、床もあげるな(=療養中の自覚をもて)」っていわれるよ
うかつに外でて母親がたおれると全員共倒れで旦那転職とかも可能性あるわけよ
基本的に注射がひととおりおわってから保育園とか検討になるとおもう
でも歩ける前でもおんぶして外にいったら風にあてただけで疲れて寝るから、「そんなんじゃ外に連れて行けないじゃん」というのは一理はある 言い方にしろ大部分ははずれだけどな
自動車にのせれば振動・騒音で寝る子もいるが今のハイブリッドはわりとしずかだしな
ChatGPT:
捕鯨の従来の概念を覆すアイデアとして、ウミガメを利用した逆捕鯨を考えてみましょう。通常、捕鯨では人間が船を使って鯨を追い、捕獲しますが、このアイデアでは逆に鯨が人間を追い、捕まえるという発想です。
具体的には、特別に訓練された巨大なウミガメを使用します。これらのウミガメは、人間を認識し、高速で泳ぎ、特殊な装置を使って捕鯨船を追跡します。ウミガメが船に追いつくと、巨大な鰭を使って船を引っ張り、船体を揺さぶったり転覆させたりすることができます。
また、ウミガメは特殊な装置を使って、船からネットやトラップを展開し、人間を捕らえることも可能です。捕獲された人間は一時的にウミガメの背中に乗り、その後適切な場所に移されるか、エンターテイメントの一環としてリリースされるか、もしくは科学的な研究目的で利用されるかもしれません。
俺さ、いわゆる白よりグレーゾーンなんだけどさ、流石に人生辛いし西洋医学パワー使おうと思ってた所はあったんだよ。
人生で何回か医者かかってその度に「いやお前には要らんだろ」って止められたんだけど、まあゆーてシャブ漬けで儲けてる奴らもいるっぽいからソイツら出るまでガチャやろっかなって。
異常すぎるよお前。
精神面というよりも身体感覚そのものがバグってるとしか思えん。
ウンチしてお尻拭かないと尻穴にウンチの感覚が残り続けることに対して何も感じないってことでしょ?
というかパンツにウンチついてたらその臭いで周りからウンチ漏らしてるって思われるんじゃないかって怖くなるでしょ。
その感覚がないっていうのは、他人からどう思われるのかが気にならないし自分が今どうなってるのかも気にならないってことじゃん。
それってつまりは、「自分の精神」が「肉体感覚」「人間社会」の2つから完全に独立してるってことでしょ。
もう無敵じゃん。
ある種の天才だろ。
俺にそんなのはない。
普通の人が簡単にできることが簡単には出来ないけど、それをやらないで生きていくことに耐えられないからやるだけやってる状態だ。
強いて言うなら友達ゼロ・恋人ゼロ・酒ゼロ・ギャンブルゼロで暮らしてるのが一部の人種からみたら僧侶並みの生活なんかも知れんが、俺はそういった精神を不必要なまでに揺さぶるものに耐えられないんだ。
でもさ、それってやっぱ普通の範疇っていうか、白よりグレーゾーンでしかないんだってよく分かったわ。
赤ん坊ですらウンコしたらオムツ変えろって泣き出すのに、大人がウンコまみれのパンツを履いて暮らしてるのって凄い光景だよ。
たとえばロケットや戦闘機のパイロットは下手にオナラを我慢して体内のガスが膨れたらマズいからブーブーブリブリしながら空を舞うっていうけど、それはそういう世界に暮らしてる特別な生き物の話じゃん。
地に足をつけたまま宙空に暮らす生物と同じ生態を維持してるとか未知の存在じゃん。
本当凄まじいな。
言いたいことはタイトルで言い切ってしまったので、以下は蛇足である。
5/8で新型コロナが5類感染症に移行となる。時を同じくしてWHOの緊急事態宣言も終了となり、世界的に猛威を振るったパンデミックもひとまずは収束と言えると思う。
自分なりにこの3年を振り返ってみて、楽しかったと思えるファクターはいくつかある。
台風だの大雪だのに不謹慎なワクワク感を覚える人はそれなりにいると思うが、まさにそれの最上級。世界的なパンデミックという、一生に一度遭遇できるかどうかの非日常イベント。
何気ない国際ニュースのひとつとして武漢の新型肺炎(当時は肺炎がフォーカスされていた)が報道されたのが19年の12月末だったと思うが、年の瀬の賑やかさに紛れて不穏なニュースがカットインされる、まさにスリラー映画やSF漫画の導入にありそうなシークエンス。
年を越して2020年、武漢の状況が悪化するにつれて報道の扱いも大きくなってきても、この時点でまだ大多数の人は対岸の火事、せいぜいが以前のSARSや新型インフルのような、それなりの騒ぎにはなっても所詮は限定的な影響で終息すると考えていたと思う。
「これは何かが違う」と思い始めたのは1月下旬、中国全土への拡大から欧州に飛び火し、日本国内でも感染者が報告されたあたりからと記憶している。
マスクが品薄になり、テレビでは連日クルーズ船内の状況がトップニュースに。都市封鎖などという物騒な(しかし蠱惑的な響きの)言葉も飛び交うようになってきた。
日常がじわじわと崩壊していく感覚は極めてスリリングで、眉間に皺を寄せ、表向き深刻を装いつつ、内心に抑え難い高揚感があったことを覚えている。
自分の状況でいえば、2月から在宅勤務が推奨されることになり、急遽work form homeの日々が始まった。並行して外出自粛の風潮が広がり、4月にはついに緊急事態宣言。生活のすべてが自宅に集約されることになった。
幸いなことにコロナ前年に家を買ったばかりで、自宅に引き篭もることに不便がないどころか、快適な自宅を24時間満喫できることは僥倖であったと言える。
とはいえリモートワークに耐えられるだけの設備はなく、当初はダイニングテーブルでPCを開いていた。1ヶ月もせずに硬い椅子に腰が悲鳴を上げたことでオフィスチェアを購入。不用品を片付け、部屋を空け、家具を購入して4月ごろには快適な仕事環境を整備した。
仕事中に仕事そっちのけねデスク整備のブログを参照し、Amazonやヨドバシでアイテムを精査しながら少しずつ環境を整えるプロセスは楽しかった。
通勤という概念の消失は、日常生活に不可逆的な変化をもたらした。これまで通勤に費やしていた毎日往復1.5時間が突如として可処分時間としてカウントされることになったのみならず、「起床してひとまず勤務開始、2〜3のチャットを返したら顔を洗い、洗濯。カメラオフのオンラインMTGに出席しながら朝食」とか、「勤務終了後、夕食を食べてまったりしていたら、メールの返信忘れを思い出した。PCを開いてメール送信だけを行い再び勤務終了」といった極めて柔軟な動きが取れるようになった。
通勤含め10時間近くを毎日無意味に拘束されるオフィス勤務にはもう二度と戻りたくない。
この三年間、世界はコロナを中心に回っていた。政治や経済は当然のこと、社会活動や家族の営み、個人の価値観に至るまでがこの未曾有の疫病に激しく揺さぶられた。
コロナ禍の初期には「ソーシャルディスタンス」が合言葉となり、これまで当然と疑わなかった人と人の近距離での接触が絶対悪となった。
他人との物理的な接触、特に人混みに対する忌避感が急速に醸成された。
飲食店は休業を余儀なくされ、観光地は軒並み閑古鳥が鳴き、興行という興行が中止になり、ついにはオリンピックが延期となった。
全国民に微妙にサイズが合ってないマスクが届き、(結局、その旗振りをした首相を除き、あのマスクを着用している人を見たことがない)、その後10万円が振り込まれた。
公衆衛生と経済停滞のチキンレースの中で、緊急事態宣言が出て、まん防が出て、東京アラートで東京タワーの色が変わった。GoToが始まって終わり、ワクチン接種と副反応は国民の共通体験となった。そして、そのすべてで国民を巻き込む大論争が展開された。
毎週のように状況が変わり、トピックが移り変わる状況には飽きることがなかった。
他にも、欧米諸国での大混乱や中国のゼロコロナ政策を対岸の火事的に眺めることや、未だ謎めいている発生源やそれにまつわる陰謀論の百花繚乱など、不謹慎ながら楽しんでしまったトピックは尽きない。
無論、COVID-19という疾病がなくなるわけではないし、現に今でも着々と感染者は出ている。これからも残り続けるだろう。
ただ、人類史に確実に残るであろう「コロナ禍」というタームは終わる。長かった非日常が終わり、日常が戻ってくる。
それ自体は歓迎すべきことでありまったく異論はないのだけど、一抹の寂しさがあることもまた事実であり、2023年5月6日時点の思いとして増田に残しておく。コロナ禍は楽しかった。
さっきTwitterで、実の親じゃないって両親から告白されてびっくりー!って呟いてる人を見かけて、ずっと目を背け続けてきたけど自分もそろそろ言わなきゃなーーって思ってめちゃくちゃ憂鬱。
子どもたちの実の両親と祖母(増田にとっての兄、兄嫁、母)は上の子が1歳下の子が0歳のときに交通事故で死んじゃった(祖父はもっと前に病気で死んでる)ので代わりに育ててきたんだけど、自分のことを母親だと信じてる子たちに本当のこと言えなくて、シングルマザーのふりをして過ごしてズルズル16年経っちゃった。
でもさ、なんかの拍子に戸籍とかとられちゃったらバレるじゃん。
さすがにバレる前にこっちから言いたいんだけど、めっちゃ言いにくい〜〜。気まずい〜。タイミングも分かんない〜。
昔は義務教育が終わったら言おうと思っていたけど、いざ子どもたちが高校生になってみると今はまだ多感な時期だしなー、などと思ってしまい言えず。
ならばと成人(18歳)を区切りにすることを考えても、大学受験を迎える中で精神面をゆさぶりたくないしなあ、とか。次の区切りの20歳は就活の時期だしなあ、とか。言い訳ばっかり考えちゃうんだよね。
やっぱ両親が本当は死んでるって知ったらショックだよなあ。言い出せないよー、はあ。
適切なタイミングと切り出し方を知りたいよ〜。誰か〜〜アドバイスくれよ〜〜。
やっぱり早い方がいいよなあーー。分かってる、分かってるんだけど……。
上にはタイミングが分かんないって書いたけど、本音は本当の事を話して子どもたちとギクシャクしてしまったらどうしようって思って、怖くて勇気が出なくてずっと後回しにしちゃってただけなんだ。。こんな大事な事なのにね、本当に情けないですすみません。
ここに書いてちょっと背中を押してもらえた気がするよ。みんなありがとね。
でもやっぱり高校生のうちに言うのは難しい…から、下の子の大学受験が終わったタイミングで言おうと思う。頑張ります。
でもきっと同じ立場になったら誰だってしのごの言っていられないと思うので、そんな褒められるほどのことじゃないかも…。
事故は自分が大学卒業直前のことで、学費は親が払い終えてくれていたし、就活も終わってたから金銭的な苦労はそれほどなかったよ。
子育ては最初こそ波乱だったけど、大学の友人たちが代わりばんこで手伝いにきてくれたり、就職してからは社宅に住んでいたのもあって先輩家族や管理人さんたちが気にかけて色々と手助けしてくれたので、みんなが思うほど大変ではなかった…と思う。
子どもたちが小さい時に一度だけ父親のことを聞かれたことがあるんだけど、「遠いところにいて、今はまだ会えないよ」って答えてからは父親の話はされなくなった。
子どもなりに思うところはあったんだと思う。どう答えるのが正解だったのかは今でも分かんないな。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
結局また再開した
ただ運ぶだけでいいってのが放置ゲーに似た気楽さがあるかも
多分効率やらさぶくえ全部クリアとか目指すとストレスになるからメインだけ進めてるけど
たまーにボスとかあるけど、基本バトルないからスキル要求されないのもラクだわ
だからってわけじゃないけど、小島監督の自慰ゲーっていうのは必ずしも悪いことじゃないんじゃないかと思った
コナミっていう内部で自分の趣味前回で売り上げ度外視だったら問題だけど今は自分の会社で全部自分で責任もってやってるわけだし
それに全く売れてないこともなくて売り上げ自体は結構いいらしいしね
メタルギアがあんま自分にあわないと思ってたけど逆にこっちはいいわ
ぱっと思い出すのはグラビティデイズかなー
人間ってのは儚いもんだと思ってる。いや、人間だけじゃない。宇宙に存在するものすべてがそうだ。
何故なら結局何もかも無に帰るからだ。エントロピーの減少は今の人類の科学技術では抗いようのない終焉だ。
どんな偉人も、死後100年経ったらその人となりを知る人は居なくなり、偲ぶ人も居なくなり、行為の事実のみが残る。
ああ儚い。
ところでおれは人間として生きてきたので、人間が生きる意味についてよく考える。
たぶん、こういうことを漠然とでも考えない人は世界中のどこにも居ないだろう。
どのように生きたら意味があるのか。金を稼いだら。子を残せたら。名を残せたら。後代の人類に役に立つ技術を残せたら意味があるのか。
今の社会においては、上のどれかでも達成できたら充分、最期の時は「おれはよくやった。」と思って死ねるだろう。でも今のご時世、こんなことができるのはほんの一握りの人間なのは、誰だってわかる。
おれのような凡人が、生きる意味……ってなんだ?と目を閉じて考え始めると、心の中に冷たい風が吹きすさぶ。
金は、大した額は残せない。諸事情により子を残せない。名は、よっぽどのことをしない限り残らないだろう。役に立つ技術なんて思いつきようもない。ついでに、趣味とかやりたいことも特に、ない。
でも、死ぬときに、「ああ、よく生きたなあ、俺」と思いながら静かに死にたいという願望はずっとある。
そうだ、攻殻機動隊でこういうセリフがあった気がする。人類が残せるのはミーム(どう生きるか)か、ジーン(遺伝子)だと。
どっちか残せたら意味のある人生になるだろうか。おれが出来ることは、ミームを残すしかないと思った。具体的には愛情だ。愛はエロスの愛じゃなく、フィリアとか、アガペーの方の愛だ。
かと言って、道行く人々に「愛してるぜ」と叫ぶわけでは勿論ない。あくまで自分の社会的生活範囲で、感謝の意を伝えるだけだ。細かいことでも、なんでも。
いろんなお店の店員さんにはもちろん、ありがとうという。道を譲ってもらったら、ありがとうだ。公園を自発的に掃除している人たちには、直接ありがとうというのは何だか変なので、心の中で手を合わせる。
一緒に暮らしてる人にも。何か細かいことでも、やってくれた仕事に気づいたならすぐにありがとうと言うようにした。
これはいい。ありがとうを言われて気を悪くする人はあまり居ないだろうし、言った俺も気持ちが良い。自己満足にしては、周りに迷惑をかけないやり方だろう。
こうした生活を数年続けてたとき、生活している中でこころが充実していることに気づいた。
お礼を言い続けていた人たちが、少しだけ+αで話してくれるようになった。会計時におはようございます、いってらっしゃいとか言われれば、その日一日幸せだ。
仕事の周りの人も、少しずつお互いにお礼を言うようになった気がするが、これはバイアスかもしれなく定かではない。
はじめは、何か残せればそれが人生で、最終的に満足するんだと思っていた。でもそれは違った。いま生きている自分に満足すること。多分、それだけなんだ。
芸能人の私生活に付きまとって勝手に写真撮って世間にばら撒いていく週刊誌の発刊と報道に関わってる人間は全員今すぐ地獄に堕ちろって思ってるし
芸能人と不倫してそれを必死に隠すどころかSNSに書くような脳みそミジンコ以下のクソ発情期女はこの世のあらゆる病にかかって苦しんで死んでくれって思ってるし
顔と名前と声と歌で売ってる男とよりにもよって音楽業界で出会って交際して結婚して人気アニメのおかげで分不相応にアニソン界の歌姫とか散々持ち上げられたあと
悲劇のヒロインぶって信者の同情票集めて暢気に暮らして幸せに子供産んだ女も、頼むから世界から消えてくれって心底祈ってる。
でもこの女に何かあったら元推しも生まれたばっかりのお子さんも悲しむだろうから結局健やかに長生きしてもらうしかない。
やってられねー。この世で一番憎い女がネット上で祝福される世の中、最悪すぎて泣いて暴れて吐いた。
芸能人だろうがなんだろうが恋愛して結婚して子供産むのはその人個人の権利で、同じ業界にいれば出会いがあるのは当然で
そんでどこまで本当か嘘か知るよしもないただの一般人どもにいつまでも元推しのことねちねちねちねち叩く権利があるか?
お前らの同僚が不倫したって別に通報も報道もする必要ないじゃん。
そんなん個人の家庭の問題であって、正直仕事に問題が出てなかったら別にお前らの人生に関係無いだろ。
●●ッ子です!って言って同情して生活上関わりのない人間のこと好き勝手非難してるオタク全員キモイ。
お前らみたいに他人の失敗とか不幸とかを娯楽にするゴミカスのせいで、自分は何年も好きだった人が突然この世から消えた。
コロナも落ち着いてきて、オンラインライブやってくれてた。もうすぐ現場も行けるようになるかもって楽しみにしてた。
それがいきなり犯罪じゃない、けど誰にも擁護できないようなことやったって暴露されてさぁ。
声と歌を売り物にしてた人であって、人間性はその人の自由だろ。お前らに関係ないだろ。
でも世間的には元推しが100パーセント悪だから、擁護の声なんか上げられなかった。実際悪いことではあったし。
この絶望がお前らにわかるかよ、わかんねーだろ。好きな人のこと好きって言い続けられないんだよ。
発表間近だった曲は発表されなかった。最後の曲はシングル発売すらされず起用作品のサントラに突っ込まれた。
解散ライブも無い。会える場所がどこにも無いまま永遠にお別れになった。ずっとずっと好きだったのに。
元推しって言ってるのは、自分が好きだったのはバンドでフロントマンやってる推しだったから。
主の仕事の方は正直そんな興味無い。アニメは作品で好きになるから声で推したこと無いし。
だから音楽業の方が完全に絶えた時点で元推し。だってもうこの世にいない。
確かにさぁ現場何年も通ったけどMCとかたまにン?って思うような発言あったりブログとかSNSもアレな時あったりしてて
めちゃくちゃ良い人だったのに、とかは言えないよ。
でも売り物にしてたのは声と歌とパフォーマンスじゃん。少なくとも自分が金払って受け取ってたのはそれだった。
ガチ恋してた時期もあったけど、だからって人格とか生活まで売り物にしろとは思ってなかった。
だからマジで、パフォーマンスの低下とかじゃなく、本来なら世間に曝されることが無かったはずの事象で潰されたのが耐え難い。
逆恨みなのは100も承知してんだけど、奥さんがあの人じゃなかったらなんぼかマシだっただろってずっと思ってる。
ていうかそもそもクソ週刊誌記者に撮られることもなかっただろ。声豚女ついてる若手と違ってもういい歳だったし。
あんな異常な持ち上げられ方して世間に注目されてる女が妻だから、追っかけられたんじゃん。大々的に叩かれたんじゃん。
だから交際報道出た数年前から大嫌いで、名前ミュートにしたし歌番組も出たらすぐ音消してやり過ごしてるけど
それでもあのアニメ始まってからは街に出たらどの店入っても流れてくる曲が堪らなくおぞましかった。
歌姫って持ち上げられるほどの声でも顔でもねーだろ。ここは完全に私怨籠ってるけど。
それでもあの報道出るちょっと前にはさすがに諦めついて、あのアニメは2期で主題歌変わってからやっと原作読む気になれてた。
現場が無いのはコロナのせいだから、また現場行けるようになったら完全に気にならなくなるだろって思ってた。
でも今こうなんだよな。推しときちんとお別れさせてもらえなかった元オタクの成れの果てだよ。
元推しと奥さんがどういう私生活でどういう会話しててどういう経緯でああなって今に至ったのか、そんなん1ミリも興味無い。どうでもいい。
別れろとかもあんま思ってなかった。そんなんされたところで元推しが経済的に困るだけだろうし。
ただいつだったか奥さんの希望で結婚式やったって報道チラッと流れてきたときは嫌悪だったな、憎すぎて。
不倫後に結婚式ってそれ針の筵みたいなもんじゃないの?参列者知らんけど双方の家族はいたんだろうし。
でもそれも忘れてかけてて、曲はずっとずっと聴いてるから、そういう良い思い出だけ繰り返してそれなりに平和に生きてたんだけどさ。
子供の報道見た瞬間、自分でもちょっと意味わかんないくらい泣いた。泣いて暴れて最終的に吐いた。
持論なんだけど、子供産むってマジで覚悟決めないと罪だと思ってて
子供って生まれたいって願って生まれてくるんじゃなくて親側のエゴでこの世に連れてこられる被害者だから
産んだ以上、その後に親が暴力振るうとか育児放棄とか別れるとか、絶対ありえなんだよな。
だからもう、元推しと奥さんって別れられない。別れたら子供が可哀想だから。
さすがにそれは無いだろって思ってるから、マジで絶望したんかなと思う。
子はかすがいって言うじゃん。鎖でもあると思ってて、子供いたらもう絶対「家族」じゃん。
そんでまたキモイ信者たちが「不倫されたのに許してあげる●●ちゃん優しい!」とか「子供まで産んでもらってこれで一生頭上がらないね」とか
本当に本当に本当に本当におぞましい。どの立場なんだよ。キモイよ。
一生あのキモイ信者どもの玩具にされるんだと思うと、堪らなく憎い。
ずっとずっと好きなバンドです!っていろんな人に紹介したかった。
ライブハウスで世界一好きな声に内蔵揺さぶられるような、あの時間をずっとずっと味わいたかった。
なんでバレるような不倫なんかしたんだよ。そんな頭ゆるゆるなバカ女に釣られたんだよ。
なんで解散したんだよ。ふざけんなよ。
せめて名前も顔も知らない女が良かった。なんで名前も顔も避けられないような女なんだよ。
坂本龍一の死後、彼の音楽的評価の以外の部分で、反原発・左翼的志向のダブスタ糞親父という評価をTwitterでみかけた。
同意の意味か分からないがfav/RTともにそこそこあったので目にした人もいたかと思う
さて、本題である。坂本龍一に限らず、音楽家や芸術家はなぜ左翼的思考や発言が多いのだろうか?
今、自分はサイコパスという10年前のアニメを見ていた、ちょうど12話である
この回では作中での世界で反社会的思考を持つ音楽家がこのようなセリフをするのである、
(大雑把に略)『(このクソみたいな社会にみんな気が付いてない)でも、わたしたちの音楽はきっと大きな力になるわ!みんなのこころを動かすことができる、あたしたちの音楽で世界を変えるのよ!』
もしかしたらこれなのか?芸術家・音楽家として人の心を揺さぶる、動かす者たちが持つ衝動が形を変え、左翼的思考と発言になるのだろうか?
傷口を洗ったあと、できるだけ早めにキズパワーパッドを貼ろう
かさぶたを作って治すのは10年以上前の治療法だから、やめよう
今は湿潤療法が主流だ
一家に一箱持っておこう!
マツコ会議最新回でマツコが「印度とかアフリカとか自分が想像出来ないようなものがある場所に行ってしまうと、脳天直撃を食らう可能性がある」と言っていた
しかし
たぶん大丈夫だ
人間五十年と言うが、Around50ともなると本当に体も心も全く別物になってしまう。余裕であと30年生きるとしても、実際のところは人として終焉を迎えているんだと思う
現代の人間は「マイナス20歳くらい」の感覚があるので割と精神も肉体も若い人はいるが
実年齢に沿っている人だと「ああ…終わりだな」と実感してるはずだ
ほんで、冒頭に述べた様な「衝撃的な物事」を見聞き体験したとしても「感性が死んでいてボンヤリとしか感じ取れない」状態になっている。全てが茫洋としている
マツコ会議最新回はかつて年商100億を誇ったビジネスマンが唐突に出家したという話だったんだが
わざわざ出家して心の平穏を求めずとも、人生末期を迎えている人間は「何に関しても心を揺さぶられることが無くなってしまっている」のだ
熱意が無いのは哀しいことだけれども、代わりに平坦な心で居られる
そら、一応生きているので瞬発的な喜怒哀楽は多少あるだろうが、持続性が無い
精神肉体マイナス20歳のAround50以外は、もはや何も生み出さないし新規のことに着手したりしない
全て惰性
だから、北極行っても南極行っても一時的に興奮するかもしれないが(それよりもその行程で「どんだけ時間かかるんだ」との思いの方が強いかもしれない)
帰ってきたら「あー…行ってきた。行ってきた。疲れた」で、心裡に変革を起こすようなことは無いだろう
宇宙とかまで行けたら凄そうだけど(そもそも行くための訓練で「いや、そこまでせんでもいいし」と思ってやめると思うけど)、それでもダメそうだもんなー
この状態、良いのか悪いのか。まあ、どうでもいいが
(つーかもしかしてそんなふうに思うのは歳のせいというよりも精神やられてるのかな。ほんと心が動かない。医者には鬱状態って言われたけれども
幸か不幸か強く「死にたい」とかも思わなくなったから、やっぱり歳のせいで繊細さが無くなったんだと思うわ
みんなこんなもんじゃないのかな)