はてなキーワード: 目的意識とは
職場での女性社員・女性管理職の在り方の理想と現実をどのように捉えているか。
ゆとり世代だからであろうか、学生時代も就職活動も自分の性別が「女」であるからこうしなければ/しなくてよいという意識を持ったことのないまま、メーカー総合職として30代を迎えた。
私の在籍する部署は企画管理系で男女比率は半々、仕事は適正や経験年数によって割り振られ一人一人が自分の案件を持つ。
故に男女での違いは産休育休を除いては体感できないのだが、事業部門においてはまだ管理職になるような世代の女性は思うように育っていないようだ。
いまの40歳前後が境目なのか、先輩女性方は主体的な営業というより営業事務のような仕事を任されており、当人たちがそれ以上業務の幅を広げることに消極的だ。
一方で若手(〜30代前半?)女性社員は男性社員と肩を並べ切瑳琢磨している。
こういった状況を見ると、入社以来上司から重要な業務を任されることもなく将来的に部署を牽引するマインドが養われるような教育を受けていない世代から無理矢理女性管理職を出せなんていうのは、誰も幸せにならないと思うのだ。
ロールモデルがいたら心強いけれど、単なる神輿でなく実力があり周囲や本人の心構えができていないと反発を招き逆効果である。
これから先は確実に、同じ目標を掲げて切瑳琢磨してきた仲間から性別に関係なくリーダーが輩出されていく未来が見えるので、急いだり無理やり行うものではないと強く感じる。
東野圭吾氏が、執筆の際に最後の1行を書かずに翌日まで持ち越すという方法は、非常に興味深いですね。この手法には、いくつかのメリットが考えられます。
最後の1行を書き残すことで、翌日の作業開始時に、前日の物語の世界観や登場人物の感情にスムーズに戻ることができます。まるで、中断した夢を見続けるような感覚かもしれません。
執筆の勢いを途切れさせずに、自然な流れで物語を紡いでいくことができます。思考の断片が失われるのを防ぎ、よりスムーズな文章作成が可能になります。
翌日に改めて文章を見ると、新たな発見や改善点が見つかることがあります。一晩寝て、冷静な目で作品を見つめることで、より客観的な評価が可能になります。
意識的に書き残したことで、思わぬインスピレーションが湧き上がり、物語が予想外の展開へと発展する可能性も秘めています。
翌日の課題として残しておくことで、執筆に対するモチベーションが維持されます。「続きを書きたい」という欲求が、新たな創作意欲へと繋がります。
翌日に残りの部分を書き上げると、小さな目標を達成したという満足感を得ることができます。
東野圭吾氏のこの手法は、単なる執筆テクニックにとどまらず、クリエイティブな作業全般に活かせる考え方と言えるでしょう。
大きな仕事でも、小さな単位に分割して取り組むことで、モチベーションを維持し、質の高い成果を出すことができます。
一旦作業を中断することで、新たな視点を得たり、アイデアを整理したりする効果が期待できます。
目標を意識することで、行動意欲を高め、目的意識を持って取り組むことができます。
東野圭吾氏の執筆方法は、単に文章を書くだけでなく、創造性を育み、質の高い作品を生み出すためのヒントに満ちています。この手法を参考に、あなた自身の創作活動に役立ててみてはいかがでしょうか。
非常に長文です。読み辛ければ申し訳ない。
昨日、個人の意見や感想が身近な上に大量に見られる現代で、情報の取捨選択ができず、それらの大量の他人の意見に沈黙できないのは病的だ、と書いている人を見かけた。
はっとして、そしてまさに自分のことだ、と思った。
自分は、自身の考えを第三者の前で表明しないと自身が歪んでいくようだと思い込むようになって久しい。
表明する内容も、ジェンダー論や人間性の話など、答えの無い人それぞれ考え方が異なるものばかりだ。
そんなことを発表せずとも幸せに生きている人は多くいるにも関わらず、自信を省みるともはや強迫観念の域に達していると自分でも思える。
「あくまで自分は」を常套句に、ネットの海に放り込まれた誰へ向けるかも明確ではない見知らぬ人の呟きに対して「自分はこう思う」と表明し続けている。
今思うと、今まで表明してきても良い反応も悪い反応も帰ってこなかった。
周りの一生懸命に真っ当に生きて人生を楽しんでいる(ように見える、きっと苦労も経験してきている)人たちは、そんな表明をせずとも健全な精神を得ている。
自分は、交流があまり無い人や関係が続いている親しい人からは元気で親しみやすいと言われる。
場が沈黙するくらいならと、自分から話し始めることは当たり前。
一人での旅行は当然楽しめるし、初めてやる仕事の教えを乞いに上司に声をかけることもどんどんする。
そんな陰キャにしては歪で悩みの種の一因でもある自分の性格を形成する根底にあるものは、家庭環境が大きい。
両親が家にいる事は少なく、父親は仕事で別に住居を構えており、電話もメールも年に数回するかどうかだった。
母親は子育てをしながらも家事を全て一人でこなし、子供の手間が減ってからはパートタイム程度に留めていた仕事を夜勤有りのフルタイム勤務に切り替えた。
上のきょうだいが居るが、訳あって母を伴い施設や病院に行くことも多かった。
そして、五体満足な自分が一人。
自分は基本的に家では一人のことが多く、家に母親が居ても人を呼ぶ余裕など当然無い。
でも小学生の頃の自分は、記憶が曖昧ながらもそれらに悩んだ記憶はあまりない。
なぜならそんな自分には何も与えられなかったわけではなくて、小学生の頃にパソコンを買い与えられていたからだ。
みんなは携帯やスマホで家に帰ってからもゲームをし合っている。
撮った写真をすぐにSNSに載せて、それに反応をして笑っている。
中学生の自分は学校でそれらが行われているのを見ているしかなかったが、急いで家に帰ってパソコンを付ければその輪に自分も加わることができた。
そのためか多少不便を強いながらも自分をハブるような友人はおらず、楽しい生活を送ることができた。
関係がほとんど自然消滅していった今でも、当時の友人達には感謝が尽きない。
問題はその後だった。高校時代から陰りが見え始め、交友関係に失敗する経験をし始めるようになった。
高校生になってしばらくしてから電話機を買い与えられたため、問題はそこではなかった。
きょうだいは居ても、母親が居ない時は部屋が別なのもあり最低限の必要な会話しかしない。
誕生日も年齢も電話番号も覚えていないくらいに関係の薄い父親。
家族に話しかける機会があまりなく、また話しかけた時に相手が迷惑だと考えることを意識してしまい、最低限の会話しかしなくなった。
そしてそのうち、話さないことが当たり前になり、自分も家族への興味が失せてしまって、それ以降話すきっかけを取り戻せていないのを今でも明確に認識している。
家庭での居心地の悪さを自覚しているなら、中学生の頃のように自分から行動を起こせばよかったのに、その発想は頭に浮かばなかった。
家族であるにも関わらず、邪険にされない楽な方へと逃げて、結果的には家族を見捨てたようなものだ。
腹を痛めて産んだ実の子供を邪険にする母親がいるにも関わらず、自分の母親は素っ気ない実子が生きるためにとてつもない努力をしていた。
きょうだいとは喧嘩する事はあれ、きょうだい自身は普通のレールを歩めない体であるにも関わらず心の余裕を持ち、こちらを邪険にすることはなかった。
それらを見てきたのに、自分は自分自身した行動で残った事は、何も行動を起こさず逃げたという事実だけだった。
そんな流れで、学校以外で人と会話をする機会がほとんどなくなった。
家庭で静かに一人で失敗をして学ばず、その孤独感から本ばかり読んで人間関係を学んだ気になりそれを実践していた声の大きい自分は、学校の友人達はさぞ面倒な相手だったことだろう。
鈍感で距離を取られていることに気付かず近寄ってきて、意思のキャッチボールができず一方的に話すことを対話だと思い込んでいて、小説では省略されるリアルの付き合いで起こるやり取りが円滑にできない、そんな人間が煩わしく思われるのは当たり前のことだ。
それでも周りの人達は直接的な何かを言ってくるわけでもなく、それとなくいつものメンツからは省きながらも、さまざまなグループに属する人達がちらほらと自分と浅い付き合いを続けてくれていた。
10代の頃から、10代の頃でも、周りの人達は頭を使い、時にはぐっと我慢をして自分のような化物をいなしながらも人間関係の折衝をしていた。
自分はずっと気付けておらず、当時を振り返って自分の察しの悪さと無神経さを心から反省できるようになったのは社会人になってからだった。
こんな歳になってから自分の愚かさがわかったってどうすればいいんだよ、と思った。
一人で旅行をしても楽しめるのは、目的意識がありそれが一人である必要があるというわけではなくて、一人だと好き勝手できて気楽だから。
周りが緊張している中でも率先して話せるのは、他人の感情を軽視し興味を持てていない無神経さから来ている。
そして悩みに悩んで失敗し続けて今も絶賛落ち込んでいる人間関係の軋轢を作りがちな原因は、自分が人生の中で選択してきた間違いを間違っていると認めるどころか認識すらしてこなかった思い込みの強さと、視野の狭さと愚かさだ。
この日記の冗長さだって、きっと自己保身をしたい気持ちから来ている。
自分を形成しているものがこんなにも身勝手で出来上がっていること、自分自身ですら他人から煙たがられて当然だと感じていることに、今までの人生はなんだったんだと足元が崩れていくような感覚がしている。
自分の自己肯定感が薄く、でもそれをカバーするように間違いを疑わないほどの思い込みで自信を保ち、それを全世界に発信して非難を受けない事で認められたと思い込む。
初対面で自分のことを元気で親しみやすいと感じただろう人達が、その後親しくなっても半数以上に軋轢が生まれ険悪なまま別れることになるのは、相手が誰であれ、こちらのファーストインプレッションと異なる偏りすぎた二面性とそれを隠さなくなっていくことに幻滅したであろうことは確かだ。
家族ですら放り捨てるようなコミュニケーションの取り方、距離感を掴むのが上手くないのに一方的な形で距離感を操作しようとして不安にさせてくる行動、「あくまで自分は」と言って予防線を張りながら自分の偏った意見を非難されないように堂々と述べる。
これをされて、なぜ相手が親しみを感じて喜ぶと思うのか?
さらにそれだけではなく、ただ相手を不安にさせるに留まらず、それを行なった自分自身もそれらの行動に対し利点がほとんどなかった。
その場その場で一時的な自尊心は満たされても、継続しないから自分の立場は悪くはなれど良くはなっていかない。
本で見たような、親しい友達と特別な関係を持ち合い楽しく過ごしたいという自分の理想を得るための行動とあまりにも乖離していることにやっと気付いたのだ。
目標もなく結果も出ない行動は、本当に無益どころか無駄でしかない。
どうしたらいいのかわからなかったが、より落ち込むとしても今までの自分の行動とその意図と、それに対して起きた周りの反応を振り返った結果がこの日記だ。
自分がこのままではいけないと感じ、ではどうするべきかと散々自分の失敗を省みて出した結論は「努力して愚痴を控え、愚痴を言う原因になる交友関係は広く浅くに留め、自分の成果に数えられることに挑戦する」というとりあえずの目標を持つことにした。
これは周りに迷惑をかけず、また他人から自分のことを深く意識されることも減らし、「また自分が同じような失敗をして落ち込まないために自分自身を見つめる必要があるでしょ、またいずれ誰かと深く交流することもあるかもしれないでしょ」と自分に言い聞かせ、自分自身が認められるような形で自分の価値を上げ、自分に合っていそうなその過ごし方に慣れて、余裕のない自尊心の低さからくる失敗をする自分から離れるための挑戦だ。
自尊心が低く余裕がないと、自分を最優先で守ることに固執し、脇目も振らず逃げを選ぶことになって、手元に残るのは周りに不快をまき散らし逃げ回った自分だけだったのは結果が物語っている。
そして徒労をする度に落ち込み、自尊心はどんどん低くなっていくのだ。
孤独感は感じても、自分の言動が人と深く交流することに向いていないのであればその先は失敗しかない。
深い仲の人がいなくとも問題なく生きていける世の中で、それを利用して自分を見つめ直す事ができることを心からありがたいと思う。
もう遅いのではと感じても、生きていくのならば必ず自分のような意志を持った誰かと関わる必要があり、その際に失敗が減ることで友人関係を長く続けられるという経験はいずれ自分の心に余裕をくれることになるのではないだろうか。
「匿名でない自分自身が皆の前で堂々と考えを表明する」ことに固執していた一人の人間が自分の視野の狭さや醜さを認め、自分が変わる挑戦の最初の一歩として、匿名でここに残させてください。
がむしゃらに書き殴ってしまった長文にも関わらず、反応ありがとうございます。
自分はまさにこのような自分は〜だけどといった不必要な主張を、匿名でもない趣味のアカウントでしてしまっていたんですよね・・・自分のことを腫れ物だと考えている人はきっと多い。
自分のための会話ばかりして長文でお気持ちを吐いてしまう所は直したいと強く思っいます。
保身ばかりを考えた会話や主張をせずとも胸を張って生きられるように、この日記以降は吐き出す習慣を無くし、感化されやすい情報の多いSNSを見る時間を減らすなど少しずつ環境を変えていくつもりです。
コメントを読んで、慰めてくれる方や汚点をスルーして付き合いを続けてくれている人達をこれ以上幻滅させないよう意識していこうと思いました。
コメントでご意見をくださった方々、本当にありがとうございました。
原作は75年に出たアメリカのベストセラー小説。作者のジェームズ・クラベルは映画の脚本家メインのとして有名だったたらしく、「蝿男」とか、見た事ないけど「大脱走」「いつも心に太陽を」の脚本家らしい。
ゲースロなど大河物好きとしては、「真田広之と一部以外の人間みんな頭良くなさすぎね?」とか、全体的に各登場人物の野望や思惑が深掘りされないのが気になったけど、
原作者がハラハラドキドキの名手(多分)だし、「これはある種の冒険ものなんだ!」と思い直したら非常に納得できてすんなり入り込めた。
戦国時代の架空の日本が舞台で、時代としては秀吉っぽい人が亡くなり、その部下の五大公(五大老)の覇権争いが勃発した時代。五大公の一人の家康っぽい人(真田広之)が「俺は天下なんてほしくねーのにやれやれ他の欲深い奴らには任せらんねーな」しながら様々なピンチを切り抜け天下を掌握するまでの話。
ハラハラドキドキしながら見れたのだが、基本暗い。誰がいつ死ぬか分からない時代だからか”宿命”という「無常感」に似た考えが全体を支配していて、死にたがり多いし大層暗い。
日本人らしい死生観から、「まあいいか」的な明るさや忘れっぽさを取り除いたような思想なので、「合ってるけどなんかちょっとだけ違う」感じもする。時代のせいかもしれない。
「神道」「天皇」が出てこないせいか、「守ったり立てたりする相手がいないから五大公達も目的意識が希薄なんじゃ?」と思ってしまったりしたが、その代わりにShogun(征夷大将軍)がなんかド偉い「人類の最高地点」みたいにナレーションで言われてて、海賊王か何かみたいな言われようだった。そのわりに前Shogunだった大公殿下(秀吉)も、大した奴っぽくない描写もあったけど…。淀殿ももちろん出てきます。
で、シンプルなドラマかとおもいきや人物の感情は繊細に描かれていて、マリコ様(第二の主人公たるこの人が暗いから雰囲気が暗い)とか、マリコ様の夫の文太郎、浅野忠信演じる荒くれ武将の甥っ子あたりの複雑な思いに「んんん・・」となりながら観るのが良かった。
プロットのご都合感やシンプルさと、「それはそれとして人間の感情はしっかり描きますよ」感は、なんかアメリカっぽい。アメリカの小説を読んだりしてて時々感じるのだが「話自体を難しくすると幅広い層の人が楽しめないから・・」という配慮はあるような気がする。スタトレ(TVドラマの方)をみてても思うが、わりと”視聴者に共感させてヒーローを作ること”を大事にする文化はある気がする。
みんな演技が上手いし、全体的に自然な演技という印象。安針(家康の部下のイギリス人船乗り)も若者らしさが溢れててある意味一番フツーでよかったし、若いクリスチャン役の人がいい味だしてた。
ちょっと設定にやりすぎ感があるものの、浅野忠信のキャラもとても味があってチャーミングだった。(ラムジー・ボルトンだけど。)
文太郎役の人(阿部進之介)がイケメンすぎるし、マリコ様も美しいが、藤様役の若い女優さんもいかにも日本人らしい風貌で美しい。
演技的な一番の見どころは、真田広之と西岡徳馬の二人のシーンかもしれない。このシーンで「このドラマみて良かったな」と思った。
クロコダイン増田の詳細はこちらを参照 → [謎増田シリーズ]クロコダイン増田 anond:20240820162825
クロコダイン増田を始めた動機は、増田内でおもしろいキャラクターを作りたかったから(あるいは、やべーやつ番付狙い)だと推測する。
それと、学生だか社会人だかわからないが夏休みで暇になったのもきっかけだと思う。
だとすると、ハイペースな投稿頻度では精神が保たなくなったり、あるいは単に飽きたりしてやめてしまうのも時間の問題だろう。
なぜならクロコダイン増田はやべーやつなどではなくまともな人だからだ。
クロコダイン増田のトラバ先の見極めだったりトラバ先の文章に合わせた返信内容だったりからは、狂気ではなく真面目さしか感じられない。
字下げ増田・パリコレ増田のような時間を持て余した人間特有の狂気は感じないし、ニーターパン連呼増田や弱者男性連呼増田や複垢フェミのように強い目的意識も感じられない。
クンニ増田やタフ増田のように、お手軽で他の人がマネしたくなる増田でもないから、他の人を巻き込んで一つのキャラクターを作り上げることも難しいだろう。
ちなみに、タフ増田の2割ほどの投稿は私がやっているし、クンニ増田もたまにやることがある。
それと、クンニ増田やパンティー増田やミニ四駆増田あるいはその他のコピペ投稿だけのお手軽なやべーやつでも、1日に1回も投稿しないこともままある。
やべーやつは何度も投稿を繰り返して増田に迷惑をかけているというイメージを持つ人もいるだろうが、番付上位クラスでも意外と投稿頻度は低いものである。
どうして、こうした分析ができるのかというと、私はやべーやつ番付に載っている増田をいくつかやっているからだ(やめてしまったやべーやつもある)。
強力なインパクトを残しても、セルフクンニ軟体開発女学院増田のように活動期間が短ければ番付には載ることができないのだ。
番付は1年に3回しかないから、継続できるように無茶しないことに留意すべきだ。
とはいえ、番付そのものの存続がわからないから(前回は中止かと思われたが別人が引き取る形で存続した)、あまり番付に依存するのも良くないだろう。
知恵は、非常に多くのことを包含しているため定義するのが難しい資質の 1 つである。
心理学者は、知恵には知識、経験、深い理解の統合、そして人生の不確実性に対する寛容さが含まれるという点で同意する傾向がある。
賢明な人は一般的に、人生の問題は解決できるという楽観主義を共有し、難しい決断に直面してもある程度の平静さを感じる。
知恵には知性が必要かもしれないが、それだけでは十分ではない。
全体像を把握する能力、バランス感覚、知的謙虚さ、そしてかなりの内省も知恵の発達に貢献する。
知恵は経験を通じてのみ獲得できるが、経験自体が自動的に知恵を与えるわけではない。
知恵を測定およびモデル化しようとする理論が数多く登場している。
心理学者のポール・バルテスらが開発した有力な理論では、知恵を「複雑で不確実な事柄について優れた洞察、判断、助言を可能にする、生活の基本的な実用性に関する専門知識」と定義している。
これには、豊富な手続き知識、豊富な事実知識、さまざまな生活環境の理解、価値観と優先順位の相対性に対する認識、不確実性を認識して管理する能力という 5 つの主要な要素が含まれる。
これらの基準は、仮想シナリオを提示し、参加者がそのような状況で何を考え、何をするかを評価することで測定される。
社会学者のモニカ・アーデルトは、個人は反省、思いやり、真実の追求を含む性格特性として知恵を発達させると考えている。
心理学者のロバート・スターンバーグは、知恵とは自分と他人の間のバランスであり、行動が共通の利益に向けられることだと理解している。
知恵には、知識や経験などの認知的要素、状況や自分自身を分析する能力である反省的要素、そして慈悲や思いやりを意味する向社会的要素が含まれる。
知恵は、視点の転換、心の広さ、知的謙虚さなどの能力にも関連している。
賢明な人は過去の観察や意見をより微妙な思考スタイルに取り入れ、白か黒かの選択肢ではなく複数の視点を考慮する。
新しい考え方にオープンであること、つまり現状に挑戦することは、知恵の特徴であり、知恵を培うのに役立つ。
賢明な人は一般的に公益のために行動するが、同時に自分自身のニーズも満たされるようにし、競合する要求や目標の間で調和を図る。
また、賢明な人は他人の行動を単に判断するのではなく、他人の動機を理解しようとする。
他人への理解と尊敬を育むことに加えて、知恵は充実した目的意識をもたらす。
仕事上の重大な決断を下したり、辛い人間関係の葛藤を解決したりするなどの経験を積むことで、より多くの知識が得られる。
また、教育の場で批判的に考え、視野を広げることを学ぶことで、スキルを磨くこともできる。
決断を下す際、偏見を持たず、客観的な視点を持ち、知的謙虚さを持つことは、すべて適切な結論に到達するのに役立つ。
これらの特徴により、全体像が生まれ、特定の状況の要求と、さまざまな状況に対処する方法に関する知識との適合性を判断するのに役立つ文脈的要因が明らかになる。
すぐ笑う人間から「キミはユーモアを理解出来ない人なんだね。ヤレヤレ……」とか言われたら、いや理解した上でつまらんと感じたんだけど?理解出来れば必ず笑えるはずだなんて、お前の思い込みでしかないよね?って腹が立つ。
全然笑わない人間から「その程度で笑っちゃうんだ?フーーーン……」とか言われたら、何?バラエティとかは笑うのを我慢するゲームだと思っちゃってる訳?笑いたくて見てんだから笑って当然だろバカが。って腹が立つ。
まあ笑いがどうとかより、さも相手の基準や目的意識が当たり前であるかのようにして上から目線の発言を食らうとイラつくなって思う。理屈を並べた所で主観でしか受け取れないものだと。
殊それが自分にとって興味関心の深い領域の話だったり、それこそ笑いや音楽や食事みたいな「センス」が問われる(と少なからずの人が思っているであろう)トピックだと過敏になりがちな気がする。
おれは割と「他人の目なんて気にしてませんけど?」なタイプの方ではあるけど、それでもやっぱ上段から偉そうに来られたらそう思っちゃう。
夏休み前の教育ラッシュの中にハラスメント防止テストってのがあってですよ。
その中にこんな問題がありました。
Q.
「女性はスカートを履いたほうが良いんじゃないか?」と部下に言った。
A.
わ~~~~~お。
馬鹿なんじゃないの?
わざわざ防止教育と題してまでアレコレ基準を示す中に「女性は女性らしい服装をすべきなのは明白だし、それを指摘するのは社会通念上何もおかしくない」だってさ。
凄いね。
もしこれが逆に「男がスカートを履くのは流石に悪目立ちするのではないか?」だったら、俺もセーフ判定するとは思うよ。
だって男がスカートを履いてたら悪目立ちしちゃうのは事実で、それに対して誰かが早目に指摘しておかなかったせいで表彰式にスカート男子が参列とかになったら「おっ、おう・・・この部隊は進んでるな・・・」って感じで空気が違う方向に塗り替えられて厳粛さみたいのが損なわれる可能性とかもあるしさ。
街行く女性100人いて全員がスカートってことはまずないだろ?(逆にスカート履いてる男は不特定多数で1万人集めても1人も出てこない可能性があるぐらいに少ないよね)
つまりさ、女性がズボンを履くのって別におかしくないことのはずなんだよ。
あえてこの時代に「女はスカートを履いたほうが良いぞ」って指摘するのは、ギリセーフ判定になるとしても、それは本当にギリギリのセーフ51:49ぐらいでしかなくない?
今日まではセーフでも、明日になったらどこかのファッションリーダーの発言がバズった影響によって突然世論がアウト判定を出すようになるかも知れないぐらいのギリギリさでしょ。
それを公式見解として「女性へのスカート強要はセーフ。なぜなら女はスカートを履くべきだから」はだいぶ頭がおかしいよね。
たとえばこれが、「この期間は警備訓練してるから男女を問わずズボンを履きなさい。スカートよりもズボンの方がいい意味で威圧感を与えられる気がするので」とかだったら、まあ微妙っちゃ微妙だけど目的意識が『特定の性別に対してのロールの強制』じゃない以上はセーフ何じゃないかと思うし、それに対して「女にスカートを履く自由を!男の服装はダサイから着られねえ!」と言い出す人がいたらそれはまあソイツの意識のほうが駄目なんだろうなって感じるよ俺は。
成長してない。
パワハラ防止教育の中に「昭和脳?」とか「平成生まれは怒られた経験が少ないから」とか「意識高い系はダサイですよ」みたいな言葉も出てきてマジで終わってる。
昭和生まれだったらハラスメントするみたいな考えはエイジハラスメントですよね?
「意識高い系」って表現として「チー牛」や「アスペ」と同じレベルなんだからそもそも使うのを控えるべき表現では?
まずはご自分の思考が以下にもハラスメントやりそうな差別意識バリバリのモラハラ野郎だってお気づきになられてから人に教育を施したら?
まあ、増田ちゃんが感じてる「会社でやりたいことがない」ってのはごく普通っすよ。でも、それを理由にフリーランスになるのは、ちょっと逃げっぽい感じがするっすね。フリーランスになるのも結構大変だし、自己管理とかクライアント獲得とか色々やることあるっすよ。
ただ、会社で働いてる人たちを「すごすぎ」とか思う必要はないっす。彼らもきっと自分のやりたいことや目的意識を見つけられずに悩んでる人も多いっす。でも、面接で目的意識や熱意が見抜かれて落とされるのは、確かにあるかもね。「お金が欲しい」だけだと、相手に響かないっすから。
フリーランスでもっとお金を稼ぎたいなら、自己投資を考えるのもアリっす。スキルアップのための勉強とか、ネットワーキングとかね。何かしらの専門性を持ってると、もっとクライアントに評価されやすくなるっす。
あくまで個人的な考えではあるが、二つのポイントがあると思っている。1つ目が「自分の目的のためだけに相手を扱わない」、2つ目が「相手が独立した他人であることに焦点を置く」ということである。
一つ目について、例えば、あなたが誰か女性に話しかけるとする。女性がその会話に応じてもいいかな、と思う場合には、そこには大抵、明確な目的意識はない。例えばちょっと時間を潰すとか、クラスメイトと仲良くしておこうとか、その程度のゆるい意識がある程度だろう(つまり、会話するという手段そのものが同時に目的でもある)。その結果としてお互いのことを知り、親密性が上がることはあるかもしれない。けれども、もしあなたが、その女性と交際する、というステータスを得るという自分自身の目的のためだけに手段として会話をしている、というのであれば、お互いの意図は噛み合わないことになる。あなたが自分の目的だけを強く推し進めるのであれば、その女性は、自分の意思は無視された、と感じるかもしれない。あなたが極端にも「交際というステータスを得られないのであれば、会話など意味がない」という態度を取るのであれば、彼女は、あなたの一方的な目的のためにコミュニケーションリソースを利用された、と感じるかもしれない。
あなたがもし自分が「非モテ」側だという自覚があるならば、まだ一度も話したことのない異性が、あなたを恋人候補として意識しているという可能性は極めて低い。だから、明らかにお互いが恋愛を目的としている、という確実なコンテクスト(例:婚活・マチアプ)がない限りは、まずは「特に目的もない会話をできるようになり、すること」というのが人間関係の第一歩になるはずだ。
もう少し関係性が深くなり、交際を意識するようになったら、今度は2つ目のポイントが重要だろう。これは要は「一般論的な、あるいは自分自身の願望を、ノータイムで相手に投影しない」ということだ。
例えば、女性は割り勘を嫌うから、という一般論を踏まえて、今日の食事は奢るよ、という態度をあなたが取ったとする。ところが、相手の女性は、自分とあなたはただの友達だし、奢られる理由はないから割り勘にしよう、と返してきた。ここで、意地でも奢りを貫こうとするならば、相手の女性は「わたし」ではなく「女性一般」を見ていると感じるだろう。あるいは、あなたは贈り物をもらうのが好きで、だから相手に贈り物をあげたら喜ぶだろうと考えて、何かを渡してあげる。しかし、相手の女性は人からものをもらうことを、「借りを作る」と考えて苦手に思う人間で、それを拒否してくるかもしれない。こういうときに、おかしい、ものをもらったら僕は喜ぶのだから、あなたも喜ぶはずだ、とあなたが突き通すなら、それは相手の個人としての人格・思考を無視していることになる。
いや、じゃあなんで奢り奢られ論争なんてもんがあるんだ、と思うかもしれない。そりゃまあ、例えば、多数派の異性がそう考えているであろう信念を一手目の根拠にする、というのは楽な戦略だろう。楽な戦略だから、多くの人がそれを推奨する。とはいえ、もしそこで相手が「私はNoだ」と言ってきたら、相手の主張を一旦真剣に受け入れる必要があるよ、というのがここで言わんとすることだ。
それから、相手の考えは「常識的に、察すべき」だと女性は言うじゃないか、という反論もあるかもしれないが、個人的にはお勧めしない。というのも、互いの欲望の言語化ではなく、察し能力のみに依拠するコミュニケーションは、早晩破綻しがちだ。結婚まで至ろうものなら、必要なのはすり合わせの連続である。セックスレスで揉める夫婦を見てほしい。「一般的な夫婦は経常的にセックスすべきだだし、自分もそう思っていた」「一般的な夫婦は出産を機にセックスは必要でなくなるし、自分もそう思っていた」両方、一般論としてどこかで聞いたことないだろうか。どちらも、「はっきり確認させていなかったけれど、相手も同じ信念を持っているだろう」と思い込んでそういうことを言ってしまう。けれども、どちらの信念を持つか、その違いがわかるのは、できれば早い方がいいに決まっている。
注意点としては、ここに書いてあることすら必ずしも「万人の正解」ではないということだ。これを書いている人間自身、基本的には「ある程度コミュニケーションが取れてから相手を恋愛対象として考える(一目惚れをしない)」という信念に基づいていて、その分のバイアスがある。世の中には、「感情的なつながりがない時だけ性的好意を持つ(フレイセクシャル)」という人種もいるらしい。そうしたら、人間関係を徐々に構築する戦略はうまくいかないかもしれない。要は、誰にでも100%うまくいく方法なんてない、ということである。ここまで長文を読ませておいて、と思われるかもしれないが、2つ目のポイントの本質はそこにある。すると必然的に試行錯誤が必要になるし、失敗にめげない胆力がカギになってくる。
相手はあなたと同じ、思考する人間である。しかし、その思考の様式、前提、ひとりひとり大きく異なっている。今、目の前の相手がどういう人間なのかをどれだけの解像度として知ろうと思えるか、そこで人間個人としてのコミュニケーションの深さが測られる。もちろん当然、それはあなただけが頑張るべきことではなくて、お互いが意識すべきこともである。あなたがもし、相手に蔑ろにされたと思う時には、怒っていい。自分を大切にすることもまた、相手を大切にするための一歩であるのだから。
一作目からいきなりバズりまくるとか商業デビューとかは流石に狙ってないやろ?
ぶっちゃけ一作目なんて完全に黒歴史になってゴミ箱シュートが関の山なのは分かりきってると思う。
それでもなんとなーく筆が乗らなくて動き出せない奴多いんとちゃう?
そういう人にオススメなのが「自分のことを書いてしまうこと」。
日記をちょっとばかし小説風にしてもいいし、半生をストーリーっぽく描いて見せてもいいよ。
自分を題材にすれば取材はほとんどいらなくなるからすぐ始められるし、人生からいくらでもネタを取ってこれるから短編集っぽくやるのも長編っぽくするのも自由。
とりあえず簡単に一作目っぽいのが作れるわけよ。
一作書いて読み返してどうしてこんなにつまらないのかってのを考えるとさ、次はここを改善しようって目的意識で動けるようになる。
今まで漠然としてた「なんか書こう。とりま面白いやつ」みたいな意識から、「前回駄目だったのをひとまず改善したやつ」という具体的な目標へと変えていけるわけ。
一つ目を作るのは本当大事なんだけど、なかなか踏み出せないもんなんだよね。
同級生は結婚がどうとかキャリアが云々なのに自分はさァ!的な自虐的にヘラヘラクネクネするやつ
本気で恥だと思ってんならその中途半端に内面化された「成熟した大人像」だとか、社交性や社会貢献への義務意識を捨てるかガッチリ持つかどっちかにした方が良いと思う
創作活動とインフラの関係性は、第三に控えている収益管理の組織や団体が両者の繋がりをもたせるだけで
有名な展示会や発表会や会とか技法の流派に属するというのがこれまでにあったその礎だったし
あなたがもし唐突にSNSで大量の新規顧客を獲得したとしても、その芸術文化について寄与するところがないなら
たまにバカ売れする運のいい一発屋以外のなにものでもないわけでしょう?
売れない創作活動も趣味で好きだからずっと続けてる人だっているし、だれかに届けたいと漠然と考えている人も多いだろうし
それについて目的意識があるならSNS以外にもっと力をいれて発表していくべき場所があると思うんだけど
どこで死のうが勝手かもしれないけどあなたの敷地でないところで勝手に死なれるのも困りものだよ
自分の分野、自分のジャンル、自分の作った会や展示で死ねばいいじゃない
Xがただ消費するだけのオタクが消費するための餌をさがすためのチューブだとして
どうしてあなたが自分の血肉をオタクに啜らせて死ぬために自分が納得できるオタクの吸引口の形に不満なのかって考えたら
好き嫌いや愛憎は、個人の価値観を反映する。価値観は快・不快と損得(利益と損失)を二軸とするマトリクス図で表せる。マトリクス図には「快く、利益を得る」「不快で、損失を受ける」「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」という四つの区分ができる。このうち「快く、利益になる」が好き、「不快で、損失を受ける」が嫌いに分類される。ちなみに快・不快は生まれつきの性格によって決まり、損得は目的意識によって決まる。すなわち価値観は先天的な性格と後天的な人生の目的の二つが揃って初めて確かなものとなる。
快・不快と損得の正負が一致せず、好き嫌いに分類することのできない矛盾した感情がある。「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」の2つである。この2つの感情は、個人の内面では明確に区別されない、ほぼ同一のものである。この感情を元にした行動が対象の利益になる場合、その感情は愛と呼ばれ、行動が対象に損害を与える場合は憎しみと呼ばれる。
すなわち愛憎は自己と他者(あるいは行動主体と対象)の快・不快や損得が対立する場合のみ生じる。対象の快や利益が自らの不快や損失となる場合、あるいはその逆の場合に、どちらを選んでどちらを犠牲にするかを選択した場合にのみ、愛や憎しみは生じる。
また、一人の人間の内面にも対立する快・不快や損得が存在するため、しばしば自己への愛と自己への憎しみが同時発生する。いわゆるトレードオフである。この対立は、意識して調整する必要がある。
例えば食事について、食べ過ぎて太ることに悩む人がいるとする。食べることが快いのは先天的なことなので簡単には変化しない。太ることにより利益を得ていればそれは「食べることが好き」であり、問題は生じない。しかし太ることにより損失を受けると感じる場合は、自己への愛と自己への憎しみが同時に生じる状態となる。この時、調整の方針は3つある。一つは、愛憎を逆さまにすること、すなわち食べないという不快を選び、太るという損失を受けない状態にすることである。二つ目は、快を得たまま利益を得られる方法を考えることである。三つ目は、食べることの快さそのものを否定するものであるが、これは生まれつきの性格を否定するため実現は難しい。そして現実には、一つ目の方針として食事制限や拒食、二つ目の方針として有酸素運動または過食嘔吐を選ぶ人がいる。そして愛と憎しみを調整せず、好きなだけ食べて自分の体型を嫌悪する人もいる。
愛憎の調整は難しいが、放置はやがて破滅を招く。どの方針を取ってもうまく調整できない場合は、損得の軸を見直す必要がある。すなわち人生の目的を見直し、場合によっては変更する必要が出てくる。しかし人生の目的を変え、損得の軸を変更することは、既存の価値観全体が変わることであり、好き嫌いの変化が生じることもある。一人の人間にとって多大なストレスであるため、このような転換はそれを上回るストレスに遭遇しない限りは滅多に行われない。
最近は依存先を増やすといって、損得の軸を増やして複数の価値観を行き来する方法が紹介されている。価値観の切り替えには、アスリートが用いるルーティンの手法が参考になる。