はてなキーワード: 4コマとは
独仏は参考にならなかったので英国や米国の学校内運動部方式を参考にした。
あくまで仕組みを参考にしただけで、英国のエリート養成学校のいわゆる嗜みとしてのスポーツという精神や、米国のスポーツ参加の平等性や公正性は無視された。
戦後の高度成長時期からは、学校の運動部活動は、一部私学のマーケティングとして利用され、公立学校では非行防止の一環と位置付けられた。
しかしそういった真の目的はウラの話としてささやかれるだけだったため、合理的で科学的なスポーツ環境は育つことはなかった。
十年以上前から、国民のスポーツする権利を保障するため、地域スポーツの強化が国の計画で打ち出され、ヨーロッパ型の地域総合型スポーツクラブを推進されてきたがうまくいかなかった。
そこに教員の労働時間短縮をカネをかけずにやり過ごしたい国が、教員の代わりに地域に押し付けようとという発想で生まれたのが、今回の運動部の地域移行である。
地域移行にあたっては、国民の健康や文化的な生活向上にスポーツを活かすという本当も目的がお題目として掲げられる。だが、真の目的が不純だからだ。
本当に地域移行しようとするなら、
本気でスポーツを国民に根付かせ健康や文化的な生活向上につなげたいなら、
まずは大学や実業団の運動部を廃止することから始めないといけない。
大学や大企業では、もっぱら一部の者だけが利用するために、体育施設や運動場が整備されている。
それらは、新法をつくり、無償で地方自治体に贈与させたらいい。
大学の運動部も結成自体は結社の自由があるから設立や活動自体は自由であるが、彼らのために特別な優遇措置を図る必要はない。いわゆる文化系サークルと同様の扱いをしておけばよいだろう。
私学にも国の助成金で運営されているのだから、運動部活動優遇措置を継続させたい私学には、助成金ゼロにしたうえで、固定資産税はじめ高額の税を課せばよい。
大学一般教養の体育の授業で利用するためだけなら体育施設の整備は認められようが、せいぜい大学共同利用施設として整備されれば十分だろう。
もっとも一般教養で実技としての体育の授業をすること自体に大いに疑義がある。なぜなら同年代の大学進学をしていない者は、年に24コマの体育をする権利が保障されておらず、大学生と職業人との間でスポーツ権に差が生じるからである。
大学で実技体育を必修科目とするなら、労働関係法を改正して雇用者に対して従業員のスポーツする時間を有給保障させる義務を負わせるべきであろう。
中学校の運動部活動は、中学校が義務教育機関であるため、大学や高校とは異なる視点が必要だろう。
12~15歳の者にとって、推奨されるべき運動量が、授業の体育だけで十分なのかは科学的に検証すべきであって、授業時間だけで不足するなら、それはやはり学校教育の場で対応するのがよいだろう。それも、運動部活動の形態を取るべきではないのは言うまでもない。
そして、推奨運動時間を超える部分は、学校が行うべきではなく、他の行政機関が社会体育として実施するべきものであろう。
高校や中学の運動部は無料で利用できたが、地域移行により保護者負担が増加することや、地域移行の受け皿に企業が進出することを懸念する声もある。
しかし、学習塾や進学塾にはカネを出すが、必要以上のスポーツ活動にカネを出さないのは理屈が通らないので、そういう声は無視すればよい。
企業進出については現状やむを得ないだろうが、企業と利用者(生徒・学生の保護者)が直接契約するのでなく、あくまで自治体の教育委員会社会教育部門が業務内容を決定し、それを企業に委託し、利用者は教育委員会に申込む、というスキームにすべきだろう。
そして、十年以上かけて、徐々に地域スポーツ指導員を育成し、市の正職員として雇用するなり、自治体出資のスポーツ振興事業団職員として採用するなりしていけばよい。
まあ、いままで無償で教員に押し付けていたものを、他のスキームでやるのだから膨大なカネがかかる。
そこはビッグデータやAIを活用して、国民の健康力がアップして医療費総額が何兆円減りますと計算させればよいし、米軍思いやり予算をゼロにして軍事費をGDP1%程度のままにしておけば何とか財源は確保できるだろう。
スポーツ科学不在の、このカネ儲けと浪花節と集団主義的運動部活動を眺めていつも思うのは
独仏は参考にならなかったので英国や米国の学校内運動部方式を参考にした。
あくまで仕組みを参考にしただけで、英国のエリート養成学校のいわゆる嗜みとしてのスポーツという精神や、米国のスポーツ参加の平等性や公正性は無視された。
戦後の高度成長時期からは、学校の運動部活動は、一部私学のマーケティングとして利用され、公立学校では非行防止の一環と位置付けられた。
しかしそういった真の目的はウラの話としてささやかれるだけだったため、合理的で科学的なスポーツ環境は育つことはなかった。
十年以上前から、国民のスポーツする権利を保障するため、地域スポーツの強化が国の計画で打ち出され、ヨーロッパ型の地域総合型スポーツクラブを推進されてきたがうまくいかなかった。
そこに教員の労働時間短縮をカネをかけずにやり過ごしたい国が、教員の代わりに地域に押し付けようとという発想で生まれたのが、今回の運動部の地域移行である。
地域移行にあたっては、国民の健康や文化的な生活向上にスポーツを活かすという本当も目的がお題目として掲げられる。だが、真の目的が不純だからだ。
本当に地域移行しようとするなら、
本気でスポーツを国民に根付かせ健康や文化的な生活向上につなげたいなら、
まずは大学や実業団の運動部を廃止することから始めないといけない。
大学や大企業では、もっぱら一部の者だけが利用するために、体育施設や運動場が整備されている。
それらは、新法をつくり、無償で地方自治体に贈与させたらいい。
大学の運動部も結成自体は結社の自由があるから設立や活動自体は自由であるが、彼らのために特別な優遇措置を図る必要はない。いわゆる文化系サークルと同様の扱いをしておけばよいだろう。
私学にも国の助成金で運営されているのだから、運動部活動優遇措置を継続させたい私学には、助成金ゼロにしたうえで、固定資産税はじめ高額の税を課せばよい。
大学一般教養の体育の授業で利用するためだけなら体育施設の整備は認められようが、せいぜい大学共同利用施設として整備されれば十分だろう。
もっとも一般教養で実技としての体育の授業をすること自体に大いに疑義がある。なぜなら同年代の大学進学をしていない者は、年に24コマの体育をする権利が保障されておらず、大学生と職業人との間でスポーツ権に差が生じるからである。
大学で実技体育を必修科目とするなら、労働関係法を改正して雇用者に対して従業員のスポーツする時間を有給保障させる義務を負わせるべきであろう。
中学校の運動部活動は、中学校が義務教育機関であるため、大学や高校とは異なる視点が必要だろう。
12~15歳の者にとって、推奨されるべき運動量が、授業の体育だけで十分なのかは科学的に検証すべきであって、授業時間だけで不足するなら、それはやはり学校教育の場で対応するのがよいだろう。それも、運動部活動の形態を取るべきではないのは言うまでもない。
そして、推奨運動時間を超える部分は、学校が行うべきではなく、他の行政機関が社会体育として実施するべきものであろう。
高校や中学の運動部は無料で利用できたが、地域移行により保護者負担が増加することや、地域移行の受け皿に企業が進出することを懸念する声もある。
しかし、学習塾や進学塾にはカネを出すが、必要以上のスポーツ活動にカネを出さないのは理屈が通らないので、そういう声は無視すればよい。
企業進出については現状やむを得ないだろうが、企業と利用者(生徒・学生の保護者)が直接契約するのでなく、あくまで自治体の教育委員会社会教育部門が業務内容を決定し、それを企業に委託し、利用者は教育委員会に申込む、というスキームにすべきだろう。
そして、十年以上かけて、徐々に地域スポーツ指導員を育成し、市の正職員として雇用するなり、自治体出資のスポーツ振興事業団職員として採用するなりしていけばよい。
まあ、いままで無償で教員に押し付けていたものを、他のスキームでやるのだから膨大なカネがかかる。
そこはビッグデータやAIを活用して、国民の健康力がアップして医療費総額が何兆円減りますと計算させればよいし、米軍思いやり予算をゼロにして軍事費をGDP1%程度のままにしておけば何とか財源は確保できるだろう。
単純に面白さが足りてない。
アニメ版の丁寧な面白さがなく、ただその場その場のアイディアが羅列されているだけ。
作者なりの知識が作中で生かされている感じも少なく、ただ「ロックをする女の子達の4コマ」以上のモノになってない。
言ってしまえば「バズらないツイッター漫画」ぐらいのレベルで終わり。
事あるごとにぼっちちゃんの胸を強調するような絵や、それに対して他のキャラがいちいち嫉妬しているのもオッサン臭さが強くて無理。
アニメで一部のストーリーが順番を組み替えられているけど、たしかに原作で読むと全体的にチグハグで流れがあまりよくない。
アニメの良い所はぼっちとそれぞれのキャラとの関係性、音楽や青春との関わり方がいい意味で場面ごとに切り分けられて描写されていること。
ペルソナシリーズのコミュのように、今進めている物語がどの部分との関係性が進展しているシーンなのかが非常に分かりやすい。
基本的に一度に大きく関係が進むキャラや状況とは1vs1になれるように世界が融通を効かせてくれている感じがする。
原作だと4コマかつ月ごとの話数が少ない中でなんとか話を進めようと必死になりすぎてしまっていて、今何の話しをしているのかが強調しきれていない。
なによりギャグ漫画であることに意識を引っ張られすぎて必死にオチをつけようつけようとしてしまっていて物語への意識が散漫になりがちだ。
アニメ版では物語を展開しつつ随所の描写の仕方を工夫することでテンポよくギャグを挟むことが出来ている。
これはそもそも青春ロックアニメと4コマギャグ漫画というジャンルの違いによって発生しているのだから仕方ないと言えば仕方ない。
ランチパックの◯◯味に対して、「惣菜パンの形に固執してしまっていて◯◯の良さが消されている」と感じるような状態であり、ぶっちゃけこっちこそがズレている悪なんだろう。
でも自分は名作アニメに対しての原作として高まった期待をぶつけてしまったのでその差に振り回されてこんな事を書いてしまった。
反省している。
ぼっち・ざ・ろっくの原作はアニメと比べれば面白さの密度や創作的な工夫は足りていないが、「承認欲求の強い巨乳のコミュ障がロックをする話」を淡々と読み進める分には密度で圧倒的にまさる。
アイディア先行で肉付けが足りていないが、それは見方を変えれば骨子だけを素早く読み進められているということだ。
ある種の逆転現象によりアニメ版のファスト映画バージョンのようになっているわけである。
それはファスト映画や5分要約には絶対にないもの、純然たる「作者の書きたかった要素だけを抜き出したもの」となる。
ぼっち・ざ・ろっく原作は単純な評価としてはアニメより劣るが「巨乳の陰キャがチヤホヤされる様子を描きたい」という欲望を摂取することの効率においてはアニメとは段違いの強さを持つ。
だが自分はその濃度に耐えられなかった。
それだけの話しのようだな。
自分で書いてるうちになんとなく分かってきた。
ドーン!!!って来る所と淡々と進む所があってリズミカルなの。
でも原作漫画は4コマだから基本的にリズムとかそんなんねーの。
「輝いてない!」とか普通の漫画だったらページ半分を縦にぶち抜くコマなのに右上にちっちゃく一コマあるだけなん。
でもこれって逆に言えばコマ割りを読み解くのに脳を使わなくていいからそういう空気が読めない人には良いんだろうなと思う。
あとそこで誤魔化してないからストーリーそのものの面白さを素直に楽しめると思う。
小説に近いんだろうね。
逆に普通の漫画ってコマ割りで自由に読者のリズムを操れるから、言い方変えれば卑怯だよね。
泣きゲーや犬映画でとりあえずピアノでポンポン鳴らしておけば条件反射で客は泣くだろってしてくるような狡っ辛さを隠そうともしてない。
でもそれに慣れるとそうじゃない作品の鑑賞が難しくなるんだなあ。
あえて「アレ」呼びする。
アレが一般人からしたら沖縄の基地反対運動してる人と同じくらい異常な存在に見えるのはわかる。
ただ、アレの気持ちは一応わかってほしいのだ。共感しなくていい、こういうことかと思ってくれればいい。
わざわざ単行本を買って裏表紙を見なければ気づないところにある「裏設定」みたいなものだ。
この裏表紙にこっそり描かれた設定が「作者と読者の特別なやりとり」のようなものだと感じる性質がある。
つまり「先生が読者向けに特別に書いてくれたサービス」だと思うのだ。
そのために単行本を買っているといってもよい。
多くの作家さんが、本編とはちょっとイメージの違う4コマを載せてたりするのも
ここが特殊な層のファンへのサービスであることはある程度は認識しているはずだ。
とはいえ、一般的な腐女子は「それはこっちの勝手な妄想である」ということはわかっている。
妄想を膨らませて身内で盛り上がる一方、それが妄想であるということはちゃんとわきまえている人が多い。
だからそこで解釈違いが起きた場合、残念ではあるが「ちぇー。ちょっと夢が壊れた」くらいで納得する。
アレはおそらくtwitterでフェミ活動とか浴びすぎてそっち方向に思考が偏っていたのだろう。
twitterでアクティブな腐女子はどうしてもフェミっぽい話を浴びやすい。
アニメオタクにおける作画厨と同じくらい、浅い腐女子ほど安易にフェミ解釈にとびつく。
そのため中にはそういう思考を多かれ少なかれ内面化してしまうものもいる。
なんせ、いまだにクローズドな世界だからね腐女子ワールドは…。
いろんな作品に触れるうちにそれだけではないということは学習する。
むしろtwitterで暴れているようなフェミっぽいことをいう腐女子は
最近はどうか知らないが、少なくとも私の年代では腐女子に縄張り意識も階級意識も非常に強かった。
そのためtwitterで暴れている人たちは腐女子としてオタクとしてレベルが低いが
なんとかしてカーストの上に行こうとしてフェミ言説に飛びついた人間が多い。
だいたいそういうことを言っている人間のイラストのレベルが低いのは決して偶然ではない。
一時期フェミニスト教授と組んで解説イラストを描いている人がいたが
仲間内では「お前のようなレベルの低いオタクが腐女子代表みたいな顔をするな」と言い合っていた。
身内についてあんまりいうのもなんだがちょっと陰湿なところあるよね。
このあたりはもう少し風通しがよくなると良いなとは考えている。
・ワートリの胸サイズ表記は裏表紙にこっそり描かれているもので強調したものではない。
・腐女子はフェミ的なことを言う人間ばかりではないのであれが腐女子の総意だと考えないでほしい
そうそう。今回の「アレ」はこんな感じの人なんです。
何か一つの表現が気に障ったら他の何もたのしめなくなっちゃう人ってのがいてね。
もうそれで頭いっぱいになっちゃって他に何も考えられなくなるの。
脳のメモリ容量が極端に少ないんだろうけどお気の毒だわね
最初にハッキリ言っておくと「何も考えていないんじゃないか」と疑っている。
駄目だ。
もう言いたいことを全部言い終わったと脳が認識した。
全ての根源を最初に書くべきではなかった。
最近の展開なんてまさにそうだ。
笑いと共にミリオンを救うと語るルミリオン、彼が自分の師にして嘗てのオールマイトの相棒であるサーナイトアイとの誓いを守るために選んだ行為が尻で笑いを取ることであったというオチに対してどういう感情を抱けばいいのかが分からなかった。
それは俺の感じていたミリオのキャラクターとはあまりにもかけ離れていた。
彼は、ミリオンを掲げるような熱さを一見したコメディタッチな佇まいとは裏腹に胸に秘めていると思っていた。
その切り札が、心持ちが、ヴィラン相手に笑いを取るようなものだというのは私のイメージからはかけ離れていた。
笑いをたたえながらヴィランを叩きのめして、助けた誰かの心を覆った恐怖の影を吹き飛ばすように横で笑顔を見せて安心させるようなキャラクターだと、彼の語る笑顔の世界はそうだと思っていた。
でも違ったんだ。
彼の最大の見せ場として用意されたであろうシーンは、売れない芸人が冷え切ったステージでヤケを起こして繰り出した低俗な下ネタそのものだ。
作中最大の宿敵はそれを見て吹き出し、そのすぐ横に我らが主人公が現れている。
どんな感情を持てば良いんだ……。
凄いシーンであることを表さんと大胆に使われた全4コマだけの6ページ、その中で行われるアメコミのようなコマ送り。
また一つハッキリ言わせてくれ、「形だけ真似ているような感じがしてかえって興が削がれる」と。
ああわかっているんだ。
この漫画の読み方の正解は。
わかっているんだ。
「ただ黙って作者の意図通りに流されてやれば良い」ってことだ。
でもその意図を探すのが難しいんだ。
この漫画は変に逆張りだったり読者に考えを委ねたりを繰り返すんだが、その実として作者に都合の良い解釈を必死に読者が探して打ち返してやる必要があるんだ。
酔っ払って意味不明の言葉を繰り返す友人の夢の話に「わかるよわかるよ」と気のない愛想笑いを返しながら自分もさっさと酔いつぶれてしまえば良いとばかりに酒を煽るようなそんな態度を取れと言わんばかりだ。
まあヒロアカだけをずっと読んでいるならいいんだろうが、ジャンプの漫画は他にもある。
呪術廻戦は若干熱めにそれでいてやや俯瞰的な頭で読みたいし、アオのハコは美しい敗北に自分も傷つくためにも感性を研ぎ澄またい、マッシュルや夜桜は気持ちを若く保ってペラペラと絵を楽しむように、そしてPPPPPPは概念の奔流をしっかり脳の奥に流し込みながら、ONE PIECEは求められるものがコロコロ変わりはするが王道は抑えているのでこれこそ本当に流されればいい。
そうやって色んな漫画に合わせて読み方を変えていく中で、ヒロアカはあまりにも特異すぎてこれに下手に合わせると他の漫画を読みにくくなってしまう。
なんなんだ。
これが好きだと言っている人達はどうやってこんな漫画を読んでいるんだ。
トップクラスヒーローがただの学生のために自分の命を決戦の場で安易に投げ捨てるような無責任な物語だぞ?
俺はどういう気持ちで読めばいい?
私は当映画を見ていないし、その周りもあまり知らないから、どうこう言える立場じゃないだろうけど、藤島じゅんさんの場合は、映画そのものではなく、よかったと思える人(と言うか自分とは違う感想を持っている人)をバカにしたのもあるから、言われたんじゃないかなと思う。
逆に映画そのものの批判だけや、人が絡んでも「周りは絶賛しているけど、私にとってはおもしろいとは思えなかった。」など言い方が違えば変わっていたかと。
あと「シン・ゴジラ」の件以外でも、この人は個人誌である「今日のふじしま」(ブログの日常4コマをまとめたもの)の巻末コメントで、自身の商業誌の某ネットショップレビューに対して、ボロクソに書いていたことがあるからね。
しかもどこの誰のことなのかわかる内容だし、レビュー側も決して誹謗中傷ではなく、その商業誌の題材の界隈に詳しい人からのしっかり読んだ上の書き込み(ダメ出しだけではなく改善点も書かれた、建設的な意見)だったんだよね。
その個人誌の件は「シン・ゴジラ」の前の話だから、そう言うのがつい出してしまう人なんかなと思う。
そりゃあ建設的な意見でも不快に思う気持ちはわからなくはないけど、せめて読者などの外部の目にも触れるところではなく、身内や漫画家仲間内で愚痴るなりで留めて置いて欲しかった。