はてなキーワード: 主題とは
小1の子が学校から「メディアコントロールデー(ノーメディアデー)に取り組みましょう」というプリントを渡されて帰ってきた。
そういうのがある、というのはなんとなく聞いたことがあったし、家族と会話をしたり、非電源ゲームなどをして団らんを作りましょう、という趣旨はまぁ解る。
こういうのは未就学児の頃から習慣になっていないとなかなか難しい面があると思うが、うちは普段からタブレットの時間制限をかけたり(iPad でスクリーンタイムを設定している)、食事中はテレビを点けないようにしているので、普段から意識して出来ているといえば出来ている、といってよいのではないかと思っている。
思うに、メディアコントロール(ノーメディア)とは言うが、要は「家族との生身の団らんがどれだけあるか」というのが大事なのであって、別に会話しながらタブレットでゲームをしたっていいし、テレビ視聴やゲームをしながらワイワイしたって、それも立派な団らんではあるはずだ。
のだが、どうも「ノーメディアであることが大事」というのが主題なようで、前述したような機器を介しての団らんは「メディアコントロールデー」の趣旨に反するらしい。
小1の子は絵を描くのが好きで、放っておくとずっと会話もなく描き続けている。これはノーメディアではあるが、団らんであるとは言い難い。描き終わった絵を見せてきて、こちらが描いた絵の感想を述べたりはするが、描いている途中はアレコレ会話するのが嫌なようで(そりゃ集中していればそうなる)局所的なコミュニケーションになってしまいがちだ。
ゲーム悪者論ではないが、目的よりも手段の方が重要視されているのがなんか引っ掛かる。が、あまり真面目に取り組まない家庭も多いとのことで、うまい落とし所がないというのも理解はできる。
とりとめもない日記です。
思春期のガキ共が良く分からん能力で異空間に飛ばされて阿鼻叫喚なアニメ「Sonny boy」のラストが弱者男性オチのWeakly boyでクソ過ぎるから見ろ
11話もかけて馬鹿ほど時間と手間かけて苦労して現実世界に帰った結末がネグレクト+周囲はこちらを見下して嫌味言ってくるクソ共+低賃金重労働ブラックバイトでパワハラされて半額弁当食うクソみたいな生活+ヒロイン寝取られとかいう地獄で誰も得しないオチだから凄い
最後の最後で主人公がいやまだまだ人生これからだぜ!みたいな事いうがほざけよクソガキが
そもそもまさに俺たちが生きてるこの現実世界が人生これからだ!つって結局は何にもならなかった弱者男性まみれでその結果として国レベルの衰退起こしてるのがこの大日本帝国だろうが
こんな現実がある状況でラストのラスト、クソ地獄な描写連発された後になーにがまだまだ人生これからだぜ!だよ喧嘩売ってんのか?もはや「現実」は気の持ちようでなんとかなる世界じゃねぇんだよボケが
厳しい現実世界と異空間を主題にした作品にも関わらず、現実世界とそこで生きる弱者男性に対するこの冷やかしみたいな浅い描写には反吐が出るわ
このクソガキは自分の未来は自分で決める!だからどんな結末になっても受け入れる!みたいな事も言うんだが、結局これただのしょうもない自己責任論じゃねぇかふざけんな、思考がもう樹海首吊りコースのダメなパターンそのものなんだよ
これらのセリフはなんの気休めにもなってねぇしなんの希望も光もねぇよ、何を伝えたいメッセージなのか知らねぇがマジで限りなく薄っぺらすぎんだろオブラートか?
11話かけてやってきた人間ドラマも描写も全部意味を成してねぇだろこれじゃ
結末がウンコ過ぎて存在価値が消え失せてんだよ1話から11話までの物語の全てが
終わり良ければ全て良しなんていうがこれは終わりクソなら全てクソって事でもあるんだわ
話がつまらないとか演出が意味不明とかそういうのじゃない、単純に物語がクソだ馬鹿野郎
意味有りげに出てきたキャラクターが特に何もせずフェードアウトするとか
後半はBGMの代わりに歌流して会話シーン無くして省エネする場面が増えるとか
そんなもんはこのクソなオチに比べりゃ些事も些事だわ
厳しい現実の描写入れ込んで何か語った気になってやがるのは意識たかいたかーい系のゴミ作品共が軒並み患ってる病気みたいなもんだが
このゴミはそいつをラストにまでしつこくぶっ込んで来た挙げ句ズレた終わりにしてて余計に質がわりぃ
現実厳しいです→異空間行きました→現実に帰る為に努力して現実帰りました→現実厳しいです
なんだこれ?海から塩取ってそれでスープ作って最後に大量の海水入れたみたいな話だな?セルフ賽の河原か?
sp_fr_v7_2011 相手の話から何を想起させられるか次第、かな。話の主題そのものには何も掻き立てられず、たまたま出てきたワードやフレーズの方に、そういうパワーがあったってことだな。気のない相槌だけの方が良かった?
2022/04/1
こういう人は、そもそも会話に入って来なくていいということをわかって欲しい
https://anond.hatelabo.jp/20230912005213
上の記事について、たくさんコメントが来てびっくりした。初めてかもしれない。いくつか追加したい。
以降、アロマンティック・アセクシャルは長いのでAro/Aceと表記する。記事で「Ace」とアセクシャルのみの書き方をしてしまった。訂正します。
人間は30年くらい生きてたら同じコミュニティじゃなくても、一目惚れや片思いがあると思っていた。自分にはその経験が無い。中高大バイト先職場路上すべて無い。それでおかしいのではないかと思い始めた。自分に自信が無いせいで、好きになる前に諦めている可能性があっても、マジで無いのはおかしいと思った。
彼には大変悪いことをしたが、付き合ってるとき(一緒に出かけていたとき)も恋愛感情は無かった。向こうが好きだというので「ありがとう!」と思ったが、恋愛も性愛も含めた「好き」という意味であることをわかっていなかった。優しくて写真が上手なところは好きだったが、その「好き」は恋愛感情ではなかったので本来は「写真仲間でいましょう」と答えるのが正解だった。
「彼氏」としたのは、そういう呼び名をつけておくと対外的にまとまりが良かったことと、彼氏ができるのが初めてだったので「私のことを好きだという異性」を彼氏と呼んでおけば良いのかと漠然と思った。あと一緒にいるうちに何か私も心情が変わるのかなと期待して付き合っていた部分もあったと思う。幼い考えで恥ずかしい。
Aro/Aceの多くは「自分はこれから絶対恋愛をしないぞ!」と決めているわけではないと思う。恋愛感情が「無い」からいって恋愛感情を「悪い」とするわけではないからだ。恋愛感情(と思われる感情)が芽生えたら、何かがどうかなるかもしれない。全然目測は立っていないけど。過去の行動や現在の気持ちの動きに基づいてAro/Aceを自認しても、未来についてはわからないと言いたかった。
自分ももしかしたら今晩スーパーの店員さんに一目惚れして、自分は恋愛感情が無い人じゃなかった…というオチで終わるかもしれない。その時「ほらやっぱり」って言われたら申し訳無いとしか言いようがない。そう言う意味でもカミングアウトで良いことが無い。
関連してAro/Aceをカミングアウトしても、「いつか良い人が」「いつか恋愛できから」と返されて「うーん」となるシチュエーションもあるあるらしい。それを聞くとやっぱりカミングアウトで良いことは無いと思う。
確かに混同していた。自分の言いたい方は「恋愛弱者」にニュアンスが近いので直した。ありがとうございました。
自分は「好きなキャラがこう振る舞っている様子を見たい」というキャラ解釈の一つを示す動機で夢小説やBLを書いている。BLと呼んでいるが、「Love」にあたるところがわからないのでもしかしたら自分の書いているものはBLでないかもしれない。
解釈をたくさん出したいので「こういう人物が相手だったら?」「また違う人物だったら?」と主人公(夢主)も相手も色々なパターンで書いている。自分をヒロインに据える型だったら主人公設定に一貫性などが出てくると思うが、よくわからない。
自分の小説を恋愛・性愛を持つ人が読んだら「変な小説だな」と思われている可能性は十分にある。
書きながら思ったが、そもそも自分の詳しくない恋愛が発生するようなシチュエーションにわざわざキャラを入れる必要は無いかもしれない。気づきを得た。
インプットする側としては、恋愛が主題になるコンテンツを選んで読むことはほとんど無い。たまたま読んだ本の短編集に恋愛エピソードが入っていたり、映画本編の中の一つの要素としてある場合にしか恋愛コンテンツをインプットする機会は無い。
好きな俳優が出演している作品であれば見る時もあるが、恋愛モノだとよくわからないので恋愛パートについては具体的な感想が出てこない。辛そうだったら「辛いんだなあ」と思うし、嬉しそうだったら「嬉しいんだなあ」と思っている。感情移入はできないが、話を進める要素として観ているので嫌悪感は持たない。
「イキイキしている」は一喜一憂も含めてだったので、辛いを思いをしている人にとっては確かに嫌味だな。ごめん。
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思考整理を兼ねたいたずら書きのような記事に色々突っ込んでもらえたので面白かった。ありがとうございました。
ところでカミングアウトへの考え方は正反対だけど、「ブサイクのアセクシャルがどんどん出てきてほしい」はものすごい共感してる。
整合性というか、さっき言ってたことと違うこと言ってるやん…、
ギャグ漫画みたいなものなんだ、と思えばマシなのかもしれない。
こういうの何ていうんだろう、メランコリーというのも違うか。
感情がブレてる、ふらついている、というのが芸なんだろうか。
その段階で違和感があると、共感どころか文の解釈の段階で違和感を禁じえない。
あと、私がペドフィリアであること、主観でないと抜けないことから、
彼女のAVもいくつか眺めてみたが、視聴する興味さえわかなかった。
でも、AVに好意的ならジュニアアイドルにも肯定的なんだよね?
だったらJSはピークなんじゃないかという考えだっておかしくないよね?
何か主題があって論じている文章だとするなら、読んでてつらい。
ギャグなんだ、これは読者のツッコミを待っているんだ、と思わないと読めない。
あと、他人とは分かり合えないことを強調するけど、
それって、あなたの文章、というか、あなたが良く分からないと他人に言われることが多かったのではないか。
他人と大きく価値観がづれているけど、慶応東大元日経元AV元風みたいな肩書で、
一方で、その肩書だけでも感動したり評価してくれる人もいるわけで、
巨匠が描いた意味のない意図のない落書きに勝手に客は感動するみたいなもので、
無意味な数列を勝手に意味があるものとして解釈したりとか、そういう感さえあって、
本当にそんな意図があるんだろうか、なんとなく観て、なんとなく読んで、
そのとき琴線に触れなかったら、それはnot for meなんだし、
つまらなかった、理解できなかった、と素直に述べること=バカ、扱いされる恐れ、
脳内ダンプしたので、この自分の文章も無茶苦茶だし、論理的に破綻しているかもしれない。
いずれにせよ、文章がちゃんとしていても、自分はペドフィリアな時点で、
文章が破綻している時点で共感できるできないまでたどり着くのが遠いと思った。
なんか、こういうのがあるから、だから女性は駄目なんだ、みたいなのを逆に引き出していないか?
ペドフィリアの自分としても、優れていたり尊敬できる成人女性はいる。
寧ろ、多くいる。
あと、他人の評価を凄く気にしている、気にしすぎている、自意識過剰なのがどの文とかインタビューからも滲み出ていて、
承認欲求魔神というか、近年のバカや暴力行為を自慢するTwitterとかYouTubeとかバイトテロとかと原理は同じで、
そこまで他人に振り回されるの辛くない?と心配にまでなるレベル。
というか、他人の評価を気にする割に、AVや風俗で働く気持ちが自分にはまったく理解できない。
だとすると、根底にあるのは自己破壊衝動的なものなのかな、と思いもするわけで、
だとしたら、この世の多くの他人は、大衆は、あまり共感しないのではないかとさえ思ったり。
他人の人生だから、コンテンツとして、ピエロとして消費されるというのはあるだろうけど。
まあ、だから文章で見返してやりたい、みたいな感情が奥底で支えている人生なんだろうし、
それはそれで幸せではあると思うんだけどね。
小児性愛が先天的と言ってしまうと、子供時代からずっと歳下が好きっていうことになってしまう気がして、意味がわからないなと思った。
同性愛者は幼少期から同性にしか惹かれなかったということ?とか思って、
幼児期には歳下が好きというと胎児や赤ちゃんが好きだったってこと?と疑問に思う。
小児性愛者にも幼児だった時代があるはずなので、恋愛対象と同世代の時期があったことになるはず。
なので、小児性愛が先天的なものと言われると、何を言ってるのか意味がわからなくなった。
自分には、小児性愛者は恋愛対象の幼児と同世代だった時期から大人になれなくて、子供時代の精神状態から抜け出せてないだけに思える。
幼少期に同世代の異性(または同姓)に何らかのトラウマを植え付けられ性の対象にできなくなったか、
幼児が好きなんじゃなくて、自分より強い人、自分と対等な人、自分に反抗してきそうな人が怖いだけなんじゃないの?
自分に逆らわなくて、
お願いしたらなんでも言うこと聞いてくれるくらい無知で、
そんな都合がいい性の対象がほしいだけに思える。
そんなのを相手に期待することが愛なの?
反応をするダッチワイフや虐待用のペットが欲しいみたいに思える。
オナホよりも高等な、リアクションが返ってくる性玩具が欲しいみたいに思える。
そんなのとセックスしたい気持ちを愛だと思えないから理解できない。
同性愛と小児性愛を並べて語る人を見ると腹が立ってしまうくらいだ。
小柄で従順で、体つきや性器の見た目が子供みたいな状態の、無知で抵抗してこない、都合の良い大人がいればその人が相手でも満足できるんじゃないの?
小児性愛者は大人が怖いから、自分より弱そうな幼児に逃げてるように思えてしまう。
話が通じない人だなと思って非表示にしたはずなんだけど、自分が絡まれてみるとやっぱり話が通じてなくて面倒くさい。
自分は性的嗜好は後天的なものだから治療しろという話はしていない。
小児性愛は同性愛と違って性的指向じゃないと思うって話は多分している。
あと男→女の小児性愛に限定した話にすり替えてる人がいるけど、
自分は女→男の小児性愛も同性の小児性愛も全部同じと思って話している。
昔Twitterをしていた時に、友人の女性が美少年の画像をツイートするアカウントをフォローしていたのを見つけてしまったことがある。
半裸の男の子や全裸の男の子の画像がたくさん無断転載されたアカウントだったのでその友人を軽蔑してしまった。
あれを好きでみている人も性加害者の仲間だと思う。
それから、幼児=大人に勝てない生き物として考えているだけであって、年齢が離れている人同士の恋愛についてが主題じゃないから熟女趣味の話は関係ない。
熟女は万が一のことがあれば相手の男を包丁で刺し殺せるかもしれないけど、幼児が大人を刺し殺すのは難しい、
みたいに、幼児というものは大人から見て絶対に格下の相手だから問題視している。
あなたが誰に対して何を主張したいのか全く分からないけど、私は「黒人の差別問題を主題にするなら、普通は白人と比較するんだよ。それをわざわざイエローと比較してる時点で察するべき」というのは正しい議論だと思いますよ。
まあLGBTをペドフィリアと比較することを強要してくる連中は
という無敵論法を駆使してくるので、とにかく徹底的に「話題に触れない」「無視する」のが正解というのはその通り。
そもそも「ペドフィリアに対する差別とは何か」というのは簡単な話じゃないので、よほどの前提知識がないなら答えを保留するくらいでちょうどいい。
ペドフィリアも含めて、一般論としてセクシュアルマイノリティの差別問題を主題にするなら、普通はセクシュアルマジョリティと比較するんだよ。
狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なりとは、「狂人の真似だと言って大路を走るのならば、その人は狂人である」という意味の言葉である。
ネット上では「狂人の真似だとしても、周りから見て本当の狂人と区別がつかないなら、その人はすなわち狂人である」という意味と解されることがあるが、これは原典の意味とは少し異なる。詳しくは後述。
この前には、「人の賢いところを見てねたむのは世の常だ」「とても愚かな人は、賢い人に会うと憎んでしまう」「こんな人は賢くなるはずがない」という意味の文章が書かれている。
そして、「即ち悪人なり」のあとは、以下のように続く。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
驥は「一日に千里を走る馬」、舜は古代中国の伝説上の聖帝であり、どちらも優れたものを指す。
つまり、「形だけでも賢人に学ぼうとする姿勢がある人も、賢人なのである」というのが第八十五段の本来の主題である。
ここで重視されているのは、外面的な振る舞いではなく、むしろ内面的な動機付けであり、「結果としての行動が同じなら、傍から見て区別がつかない」という一般的な使われ方とは重点の置き方が異なっている。
また、本来の意味に従うなら、真似の内容である「大路を走らば」はそこまで重要ではなく、「狂人の真似」を実行しようという考えこそが狂っているという趣旨になる。
現在は、「ジョークと言いながらも大衆には本物の狂人と受け止められうる行動」を指すときにインターネット上でよく使われる文章となっており、現状「偽りても賢を学ばんを賢といふべし」よりも多く引用されている。