はてなキーワード: 堤防とは
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
えーとですね、延岡市富山町の I SHOP店長の、浜田重子は、平成26年に経営していましたが、断固として佐藤に従わないという価値観でやっていたので、令和に入ってから病気療養中に
死去しました。その店も最近になって、おまえの命令で解体されました。国友基子の母親も、延岡市内の弁護士だった郁子と、佐々木も最近になって死にました。基子は2010年頃は、
延岡市の堤防に佇んでいましたが、平成26年以降に、おまえのいうとおりに生活しているので死なずに長生きしています。うちの母親の郁子もおまえのいうとおりに生活を開始したので64歳
とか66歳になっているが中々死にません。英行は秀司のように生活しようと思い始めたので65歳ですが死なない。久美さんの義父の桑原などですが多分、花火大会でみたというか、似たような
奴を、死んではいないけど、寝ている間に死んで、お前の命令通りに生活しているのでまだ生きているのではないか。町子も、本当は馬鹿がしたかったがやると脳高速でのたうち回ると言われて、
お前の言うとおりに生活してるので91歳で、養老と同じように安定飛行でまだ生きている。俺は大暴れしたから石村智とかに規制されたりして大暴れしているのになんとか生きています。
本件の被告人らの主張というのは、要するに、高齢化が激しい東京、さいたま、千葉の住人は何もできないから実質的には地方の学歴のない人間が働いている場所で仕事をさせ
一般社会は、見たとしても、どこに住んでいてもほとんど一緒で変わらないし、警察官を含めてほとんど自作自演であり、その自演がばれそうになったときには背後に潜んでいる犯罪者をも
利用して全力でやっているというような趣旨の話であり、なおかつ、花火大会における、52万人の善良な市民がいるとみせておきながら、翌日からはまるっきり姿を見せず、東京都内の
犯罪者による自作自演が平然と開始されるといったような始末であり、とりわけ、花火大会のある8月5日だけ、52万人の善良な市民がいるということを、観光協会と、でかぺちの
主導の下に2時間だけみせるものの、それ以外の日は存在しない、スギ薬局の広告でも、プレイステーション5に恋来いとしている善良そうな子供の絵が描いているが、その子供は都会を
全然支配していないという支離滅裂な話であり、不合理に過ぎると言わざるを得ない。
にんかいおぺちは実質的には警察の信号を通じて、延岡でも板橋でも、そうだぞ、ないぞという指令を出してくるようにしているし、リバージュシティの右下に見えるようにしているが、戸田の堤防に
いたばし花火大会で、ナイアガラの滝をやるところは通常は、陸上競技場というんですか、確かにそこには草が生い茂ってるが、生活資源の草なのか枯草なのか分からないですね
それからナイアガラの滝の後ろ側はどうなってるかというと普通に自然道があって、ホームレスが寝ている小屋などがあります あの辺は草原とかしかないので、それからものの関係として
5日にあの堤防に50万人出たと言いますが、ものの関係として、それ以外の平日でそうなることはないんで、令和元年8月3日にも開催されてますが以来4年も開催されなかったし
それ自体が恐怖ですね。おそらく祭り自体がほとんど何らかの機械を用いた自演というのですかね、実際に現場にいくとその大勢の人がいて祭りみたいになってるところだけはそれらしいけど
少し外れて誰もいないところに間違って行ったらすかすかで何もないっちゅんですかいつも通りの感じだから、当日に行ってうるさくしてるところに入っていくとやってるように見えるけどちょっと外れると
いつも通りだから存在してないといっても過言ではないのではないか。あの現場では数か月前に消防が出ていて草むらのところでなんかあったらしんですが消防のオヤジが臭くて質問はできなかったと
警察車両も道路にいたというかねあのときは 戸田市花火大会と合わせて13000発あがるって書いてあったけど、そんなにあがらなかったですね、終始だらだらといった感じ、ただし、
炎上発覚前までは普通に、でかいのが何発か上がっていて板橋区北部の工場が大量にあるところを帰ろうとしてた人は、ぎゃーぎゃーいってましたが、アナウンスまではきこえてこなかったね
プリンの屋台とかが出ていたところで、そこでやきそばを座って食っていた若者がいたとか 色々屋台はだったが、平成26年8月の延岡の奴ほど過激なのはなかったていうか、26年8月の
屋台の場合はなんか焼き肉屋みたいなところに超絶美人が立っていたのをみたんですが、平成26年8月では、おおぬきで、いぶりだされてきた若者がいて、うわーおれこういうの苦手なんだよー
って感じで、それで平成26年8月は花火と同時におおぬきのコンビニが大繁盛だったけど板橋区範囲内ではそうでもなくてけっこう人が入ってなんか買って帰る感じ
荒川河川敷の立ち入り禁止になってる入り口に対しては、無理やり入って行こうとする若者が多かったですが、あの公衆便所が新しくできたところに入っていくとやはりそのポイントで自演がばれる
荒川が洪水になったら、先に埼玉側が決壊して水が流れ込む設計。
(参考)
http://www.kensetsu-plaza.com/kiji/post/2715
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1044413670
(2)おそらく、運営者は、観光協会で、警察が主導しているから当日は多くの人出となるが、観光協会が主導しなかったら通常はみられないような行動や人出が多く不審
(3)観光協会がやるということで、やるとなったら色々な人が出てくるが、恐怖
(4)どこから出てくるか? わざわざ堤防に出てこなくても、マンションの玄関から見ている老人とか、透析患者なども、家から出てきて見ています。
7時50分に舟渡2丁目の透析患者、厳かな感じで花火を見ていた。
(5)8年前の延岡で開催の花火大会ではもっと凄まじいものがあったと思う
(6)花火師がいるところは、観覧が大量で接近できない。
(7)花火大会開催前日の、8月4日午後22時ごろには、サッカー場の水門が開けられていて透析患者の車が停車していた。
(8)嘘松のわりには実際にいくと、がち松で怖い。
(9)ファミリーマートの横の横断歩道では、でかぺちが案内をしている。
腰の曲がった警備員が立っていることもある。
火事が起きて途中中止になったけど花火は最期まで上がっていたといういたばし花火大会だが、実は戸田市との共同開催になっていて、荒川を挟んで板橋側だけが中止になったのだ。荒川を挟んで両岸で打ち上げまくるのね。
でも板橋区の方では「いたばし花火大会」としてしかアナウンスされないし、戸田市側の方は「戸田橋花火大会」としてしか案内されないから、東京都民or板橋区民の中には戸田市の方でも打ち上げてるのを知らない人が結構いるし、反対側の埼玉県民、戸田市民の方も然りで、「中止になったのに最後まで打ちあがってたのは何故???」というなぞなぞみたいな事になってしまった。
そして両岸で共同開催という珍しい形になったのは、荒川の改修工事が元になっている。
赤羽の岩淵に岩淵水門という隅田川入口を締め切る水門があるんだが、そこから下流の荒川は大正から昭和初めに掛けて開削した放水路だ。それまでは荒川の全水量が今の墨田川に流入していて水量が増えると東京の下町の方が洪水になってその都度大損害を出していた。
そこで荒川放水路を掘るという大工事に至ったのだ。普段は岩淵水門を開けておいて水は隅田川の方に流れているが、水量が増えたら水門を閉めて全部放水路の方に流れるようにする。
同時に岩淵水門の上流も大改修する必要があった。荒川がうねる様に大蛇行していて、当時の堤防というのは河道から500m~1kmも離れた所にあり水が溢れたら堤防までの土地(堤外地)は水没、という扱いになっていた。
これを止めて直線的に流れるようにして堤防に対する攻撃力を下げる。そしてちゃんとした高い堤防で完全に水を封じ込むようにする。
ついでに合流する河川も改修する。新河岸川は彩湖の付近で合流していたが、荒川の堤防だけ高くしても洪水時は新河岸川の方に逆流するからそこから洪水になって無意味だ。
そこで新河岸川の堤防を荒川準拠に高くする代わりに、新河岸川の合流地点を延長して荒川と平行して流し、赤羽まで持って行く。そして岩淵水門の下流で隅田川に合流させるのだ。確かに荒川の水量の影響を受けなくなるがすごい工事である。
で、その河道はどうするかというと、蛇行している荒川の頂点に接線を引いて、北側接線を荒川、南側接線を新河岸川にした。
すると接線の間にはサインカーブで分断された土地というのが出来る。
そしてそれまでは荒川が埼玉県と東京府の境だった。荒川の位置を変更して北側接線にしたから、東京府側に下に凸型の埼玉県飛び地がいくつか出来たって事になる。
このサインカーブ飛び地問題、今の埼玉県川口市&東京都北区、埼玉県戸田市&東京都板橋区が影響を受けるが、川口市&北区側は早々に解決した。
今の埼京線浮間舟渡駅~北赤羽駅の浮間地区は元は埼玉県横曾根村の浮間だった。だが荒川改修直後に横曽村と川口町の合併(川口市へ)が控えており、その時に東京府に割譲すると取決めがされてその通りになった。
一方、戸田村の船渡地区は東京府との協議が難航していた。浮間の方は横曽村がほぼ丸ごと東京側に行くのに大して、戸田村の集落は埼玉側にあり、その船渡地区だけが東京側に行く。
時折線が入り組んだ複雑な県境があるが、それが出来る理由というのは同じ地主の土地が県境で分かれないようにする為というのが多い。この場合は地主の土地を引き裂く県境引き直しだから難しい訳だ。更にその土地が工場に売られたりして更にややこしくなった。
そうするうちに戦争が始まってしまう。東京府と東京市は無くなって東京都と板橋区が出来て話し合いの主体もリセット。もう解決不能である。
戦後になって流石に復興する前にあれ何とかすべきだという事になり、1950年、難航の末に戸田町と板橋区の間で県境を荒川にする事で合意。今の地図を見ても蛇行の名残は見える。
https://goo.gl/maps/uEMgZazGCHPmMV2Q6
新河岸川の角みたいなのと浮間公園の池が蛇行の跡で、戸田葬儀場があるU字型の土地が戸田町から板橋区に割譲された船渡地区だ。
そこでこりゃ目出度いって事で、戸田橋花火大会を開催することになり、板橋区もそれに協賛という形で加わる形となった。後に協賛じゃなくて戸田市側の戸田橋花火大会、板橋区側のいたばし花火大会同時開催という形に変化。
そしてこのいたばし花火大会の開催&打ち上げ地点というのはこの戸田市からぶん捕った土地の河川敷なのである。これは飛び地問題解決を祝って始めた花火なのでここじゃなきゃいけないわけだ。
荒川の河川敷は今の経緯から見ても判る通り、元は農地だった。戦後すぐまでもそのままで農民は河川敷の農地を所有し堤防を越えて農業をしに来ていた。
だが堤外地で増水時には水没する土地でもあり自治体は土地を購入して運動公園への転用、ゴルフ場や教習所など水没前提の事業者への売却を促してきた。つまりは「平地」として活用されてきた。
だがそのうち荒川旧河道は誰の土地でもないから放置されて荒れ地のままになっていた。それも昭和後期あたりから公園や払下げなどが進んできた。
だが現河道と旧河道の合流部は敢えてそのまま残される事になった。水面が切れ込んでいるので水生生物が流されにくい。そしてその周辺は敢えてそのまま荒れ地のままにしてバードサンクチュアリにする。
という事で、他の部分は運動場などで使うので綺麗に芝刈りされているのに「一か所だけ荒れ地のままにしているところでナイアガラをする」という条件が揃ってしまったのだ。
旧河道付近は荒れ地のままにして、戸田市からぶんどったこの土地でやるのが元々の花火のテーゼだから仕方がないのだが条件が悪いな。
増田の推測だと他の悪条件も重なったと思われる。
まずは2019年の台風19号。これによって荒川は増水し、昭和初期の堤防の高さを超える位置まで水位が上がった。
水が引いた後は河川敷の教習所もゴルフ場も泥まみれである。これらは2~5cm以上にも達し、人力で除去されたのだが、荒れ地の泥はそのままだったはずだ。
そして洪水の泥はナイル川デルタに文明を発生させるほどに肥沃であって、泥がそのままの荒れ地は猛烈に雑草が繁茂したはずだ。
更に2020~2022は東京五輪とコロナの為に開催中止。肥沃な泥で荒れ地の雑草たちは伸び伸びと繁茂しまくり、その中には葛も含まれていた。こいつが来たらもう手に負えない。
そんな悪条件で更に当日は風が強かった。堤防下に管理用道路があり、その脇の数mは普段から草刈りされていて、そこでナイアガラするのだが、そこを遥かに超えた所まで火が飛んでしまった。そしてそこには台風19号で肥料を大増量されて3年以上も繁茂しまくっては枯れと繰り返した雑草、特に葛が居たのである。悪条件が重なりすぎなのだ。
戸田市側の堤防の向こうには戸田のボート場があるが、これは東京五輪用に作られたものだ。
だがこの五輪は2020大会でもなけりゃ戦後の1964年大会でもない、幻となった戦前の1940年大会用に作ったものである。日中戦争激化でキャンセルされた幻の五輪に向けてこれだけ大きなボート場を作ったのだ。でも当時は埼京線は無いし交通はどうするつもりだったのか?都電が戸田橋の南詰まで走ってたがこれは戦後開通だし。
今は西側1/3をギャンブル競艇、東側の残りの水面を大学や実業団の漕艇部が使うという形になっていて、それらの艇庫がズラリと並ぶ。
飛び地問題を早々に解決した川口市の方は荒川での花火大会は無かった(最近出来た)。
だが戸田&板橋の花火大会が羨ましくなった川口市はたたら祭りという祭りを開催。その〆に花火を打ち上げている。
これは川口オートレース場で行われるが、狭いところで打ち上げるので尺玉などは無くて、数も3500発位と、スペックだけ見たらしょぼく見える。
だがオートレース場は観客席と防音壁で囲まれており(数年前までマフラー無しの直管だった)、そこで打ち上げるので音が反響してもの凄い迫力である。また打ち上げ場所が近いので灰や花火の殻がバラバラと沢山降ってきてかなりワイルドなんである。
これは高級スポーツカーよりレーシングカートの方が楽しいとかジャンボジェットよりもセスナやブリテン・ノーマン アイランダーの方が体感的というのに似ている。
先のgooglemapsの航空写真では船渡地区のU字の丸い底の方に工場群が写っているのが見える。
これは新日鉄の工場で、新河岸川は舟運が出来るので戦後すぐに出来たものだが(貨車、トラックに乗らない長物が運搬できる)、実は今は解体されて無くなっている。
都内最大の超巨大物流センターになる予定で、ドローン配達の基地にもなるそうだ。
ただ、ここは実はスーパー堤防予定地である。また、対岸側の川口市の方にはやはりスーパー堤防予定地にタワマンが数棟建っている。
いいの?と思うがスーパー堤防の整備年数は400年、タワマンや工場の耐用年数は60年で、修繕しても120年くらいだから建てちゃっていいそうなのだが、スーパー堤防の壮大さというよりも大言壮語さに驚いてしまう。
花火会場の直ぐ近くを東北新幹線と埼京線が鉄橋で渡っており、埼京線は打ち上げ中は徐行して渡る。新幹線は普通に走っているので乗客へのサービスと思われる。
韓国の雑踏事故とコロナのせいで有料席だけとして無料の人は出ていけとしている大会が増えていて今いたばし&戸田橋もそうだが、これだと市街地の道に人が溢れ、トイレやゴミ箱の設置が無いからその始末を住民がする事になって運営が無責任だ、見えなくしただけだという感じで結構ヘイトを買っている。このやり方はまずいんじゃないのか?
鴨林郁美っていう延岡に住んでいる女の腐ったようなボイラー会社の息子がいるんですが、日本世間的に自分が金儲けできる時代がきたと思っているのでそのオヤジというんですか
なんかどこにでもいるのですね。町子の家の横の家は昔は老夫婦が住んでいたんだけどみんな同じようなオヤジになっていて、あれはなんなのかと。るろうに剣心とかに興味を持っていたただの
バカな女子供も前野町のマンションにいることはいるんですが意味は分からないと。多分人でも殺したような女だと思いますが、るろうに剣心に興味を持っていたといっても20年くらい
前の話だからね。現在では女子供といってもただのばばあだし、マリーガーデンのには、ざーちゃんの老兄弟とか、検察官のおばさんしかいないのですね。で、なんていうか、横の横にある店に
こうなんていうかイキっている若造がいるんですけど、なんの商店か分からないというか、それがおぺちかも知れないとは思ってるんですが、佐藤がそいつを使って頻繁に悪戯をしてくるし
仲がいいのか悪いのか分からなくて何の生産性もないんすね。その若造は私が武蔵野病院の須佐のところから自転車で帰ってくるときに露見していますが何の店かも分からないし、その者が
「なあ」とか言ってても分からないんですね。同じことしか言わないし。今日一番最初にみた警官は、finalventじゃないかと思うのですがTwitterは故障していて日付も滅茶苦茶だし、行ってることも
理解不能で何の会話にもならなかった。愕然として理解できないというかね。本日finalventに見えた人というのは最初はただのおっさんにしか見えなかったが次第に様相が変化してfinalventに
みえるようになるんですね堤防のところで。しかし最初は赤羽に停車していてしつこく追いかけてきてどこがfinalventか分からないし、15分話して堤防の上で、やっとfinalvntに見えてくるだけ
というか、あの人って鼻でも整形してTwitterでいきってて本を読んでる女の子が好きであると言うようなことを一時期言っていたじゃないですか。別に興味はないんだが。
何が言いたいのか分からんのですね。私が好きなのは大もぐら界を構成している佐藤でもないし高野伸でも中嶋康弘でもなんでもないんですね。私が好きなものなんかねえんですよ。
寝ているときは、あすかきららじゃなくて、ずっとおぺちのことだけ考えてますね。山之内隆樹は多分、あの2階で寝ているときに、その化粧お化けのことを考えてると思いますが、何言ってるか分からない
ですね。finalventじゃ確かに平成16年に、ボツネタが流行っていた時の書いていた量は凄かったが、書きすぎて禿げたらしいし何で今日出現したかも分からないしね。
そういえヴぁフェルマー予想でも、タオの定理でも、素数の中に等差数列が撃ち抜くように入ってるわけじゃないですか、だからそういうのを愕然というんですよ。愕然というのはただ驚くのではなくて
撃ち抜くというかね
きもたとも戸田とも、くまがいとも、49歳(オイラー法)とも、誰とも河川敷では特に仲が悪いですね。くまがいというのは戸田が言っていた名前で昔は松重豊と呼ばれていた警官で
松本というのは32歳の警察官に激似のキチガイですが、そんの、最初は、体当たりしてきて、その後に検察官みたいな顔になるというか、松本というか、魔津本と読んだ方が、well-defined
だと思いますが、その、とにかく、自転車できて、それしか言わなくて帰っていくのが、魔津本なんですね。それで、そんの、頭は丸刈りで、自分の家で自分でバリカンでやっているとかいうのですね。
確かに私も、あの、捕まる前は自宅で、母親にバリカンでやってもらっていた時代がありましたがあれは平成22年頃の話で今はやってないというか、自宅じゃなくて1000円カットに行って
やればいいと思うのですが、それと戸田は警察署で生姜焼き弁当を食べたと言っていましたが、あすかきららが好きな美容お化け?が、生姜焼き弁当を食べることがあるのかどうか分からないし
にんかいが、山之内隆樹が、戸田の中に出てくるようにするときには、わたしがなぜか強制的に勇吉になるようになるわけでそういうのが分からないんですよね。それで私の夢の中に勇吉が25回くらい
出てきたのですが、わたしが小さいころに勇吉が嫌いだったはずなので、しかし、敬一が、出所後の私を見て、勇吉に似ているとかいって、それから勝手に勇吉になったわけですが
山本が14階のぷちくらのことを水死体であるとか幽霊であるとかいう趣旨のことを言っていたぞ
ちなみに山本の言動は3年前からお前の背後にいるなどという社会通念上不合理なもので理解できなかった。わたくしがあの場所に行くことにつき運動のためというのは
社会通念上合理的であるが、山本の言動は不合理に過ぎる。次に不合理にすぎるのが、山本及び自らのことを本官と呼ぶ者が戸田橋地域センターにいって話をしようとするときに
限って高速道路の向こう側から高校生3名が出てきて騒いでいたり、本日に限って荒川の通路に中学生3名が出現するなど。荒川のゴルフ場から赤羽に通じる道路は、公共のもので
私道ではないからそこを管理したり占有している者はいない。この道路は公共として維持されておりここに立ち入ることが違法とは言えない。当該道路は赤羽の方向に向けて公人のために
供されており、100メートルくらいいくと、赤羽と記載のあるなんらかの箱が置いている。さらに200メートルをいくと、右に曲がって堤防に出られるがそこにはゴミやがらくたが散乱しており
使用していないダンプカーなどが置いている。その堤防に出る場所の付近にあるテントで雨が降っていた日に見たと言っているが、雨が降っている日にそこにいたのではなく、テントに入ってから
雨が降り出したので、その際に、どつめて泣かそうとした若い警官と、間接暴行を主張する本官がいただけ。どつめて泣かそうとした警官はトラメガについて執拗に触ろうとしてくるなどした。
埼玉県戸田市の路上で2021年11月、警察官4人を刃物で切り付けたとして、殺人未遂などの罪に問われた無職梁賢秀被告(56)は10日、さいたま地裁(中桐圭一裁判長)の裁判員裁判初公判で「全て捏造です」などと述べた。弁護側は起訴内容の認否を留保するとした。
検察側は冒頭陳述で、被告が妄想性障害による心神耗弱状態で、行動を監視されていると考え「警察官に敵意を抱くようになった」と指摘。弁護側は心神耗弱を理由に刑を軽くするべきだと主張した。
おい、14階、お前の家の前でこれあったってマジ? 令和3年11月って何してたか覚えてないんだよなあ。 梁賢秀って多分付近の家に住んでいる塾講師かなんかだと思いますね。
確認はしてないが、リバージュシティには行ったことがあるし、一戸建てから傘を借りたような気がするし、堤防に、梁賢秀が出てきていた時代もあったしね。
志村警察署の松重が次の通り事件概要をまとめているのでこれについて検討する。
(1)対象者は荒川河川敷の特定の場所で何か月にもわたって拡声器で演説をしており、対岸のマンションの住民が迷惑をしている。
そこで検討するに、確かに、河川敷側から対岸マンションをみると人がいるように見えるが、戸田橋をわたって、戸田市川岸堤防からみると、該当マンションの間には電気が消えていて人が住んでいる
かどうか分からない一戸建てが大量にあり、その向こう側にマンションが2棟ある。名称はリバージュシティで2003年に建築されたと認められる。河川敷から見た場合の印象とは全く違い、該当マンション
には人が住んでいるか分からない空き家のような印象。対象者は拡声器で対岸から演説しているが、戸田市川岸側から見ると相当な距離があり、トラメガの拡声がマンションまで届くとは思えない。
荒川河川敷側からみると届いているようにみえるが、川岸からみるとマンションまで相当な距離があり、しかも、マンションは人が住んでいるかどうか分からない。
黒羽刑務所の思い出ですかねえ、入ったときにもうぐでんぐでんになっていたので数学の問題を見ても分からないというかね、あそこでやったのは、長谷川と森脇がもうダメになっていた日本人のバカ
にリハビリをしただけなんで10か月にわたって。森脇のいじめは、10工場とか黒羽の体育館の上の方から森脇が監視してるんですが、そこから嫌がらせが飛んでくるわけですね。
で多分というか森脇がそういうことをしていた時代に、やっくんが自殺しているので、やっくんというか藤圭子もそうですが、しかし、やっくんにしても藤圭子にしても、何を苦にして自殺したのか
理解できないのですね。
それだけ最近はなんも理解できないのですよ。確かに平成24年頃はバカばかりでなんかわいせつな行為とかが流行っていたからそれが嫌だったのだと思いますが、最近は誰も言わないから
見ないんですね。 I can not see な状態なわけですよ。誰も言わないんだから。あと、河川敷で遊んでいるときに舟渡の堤防から自転車で出現して必ず来る奴おるじゃないですか、あの警官
自転車で出現してくる奴は巡査部長としかseeしてないというかね、あの服を着ていたら巡査としかrecognizeしていないから、それと元々あの軽犯罪って最高裁の鬼丸かおるが用意したものだからね
平成29年3月15日に最高裁に行ったら、鬼丸から、 あなたは(ろ)で18だから軽犯罪やれって言われたんですね。傍聴席の番号が (ろ)ー18だったからです。
当該大法廷の判決は鬼丸はいたようないなかったような、長官は、寺田逸郎で写真を見たらただのろりでね。で、警察官による探知機械を自動車につけるのが憲法違反かどうかという奴でめったに
ない大法廷だったんで、寺田逸郎の実物を見たが、 滅茶苦茶機嫌悪そうに判決理由を朗読してそれで終了だったと思いますが。
令和5年5月1日に荒川河川敷に自転車で運動に行っていたら自転車のチェーンが脱輪した。自転車が使用できなくなり自宅まで運転できなくなったので、どこかで自転車を借りようと思った。
板橋区蓮根にある天地歯科という看板のあるマンションに付属する駐輪場を下調べし、施錠のない自転車を認めたので、自分の自転車はそこに置き、それに乗って帰った。
5月2日に、都営三田線で蓮根に行き、自転車を蓮根駅前の修理屋に持っていき修理してもらい、その自転車で家に帰った。3日に、借りていた方の自転車を、3日のAM3時ごろに返還する
意思でその自転車に乗車して荒川河川敷に行った。同河川敷で拡声器を用いて遊んでいたところ、挑発を受けた巡査が自転車でしつこく追跡してきて、舟渡2丁目の堤防から相当離れたところ
において自転車を停止させ、警官に対応した。最初の警官は1名だったが、同警官が無線連絡をしたことにより、最終的に6名の警官が集合した。
6名の警官のうち一人は、当初、家に帰れ、家に帰れと連呼し、それ以外のことは言わなかった。しかし、私が、お前の命令に従う筋合いがない、と申し向けたところ、同警官は、やおらに、
自転車について登録を確認し、その自転車は自分のものか、などの質問をしてきた。B警官は、当該自転車について窃盗の容疑がかけられている旨を口頭で述べたが、この時点で自作自演に過ぎる。
それ以外に発生している現象と総合しても、明らかな自作自演だった。C警官に対して、お前はゴミだ、と言ったところ、「自分はそのゴミに興味がある」などと述べた。そうこうするうちに、D警官は、
自分を有形力で舟渡堤防まで強引に連行した。その際に、堤防の坂をそのまま通過した。堤防の上に差し掛かると、自分が、「自分でちゃんと行くから放せや」と言ったところ、D警官は、つかんでいた
腕を離した。警察車両は、堤防の向かい側の舟渡の住宅街に停車していた。自分がD警官に対し、「お前、里見先生に似ているな?里見先生はどうなったんだよ」という世間話をしようとしたが
Dは応じなかった。D警官は、該当車両で志村警察署に向かうまでの間に、車両内で、自分が、「お前、今日俺が色々なところで活動していたから5月に入ってから大量に110番通報