「共時性」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 共時性とは

2019-02-18

マグリットの絵になんjがいた

凌辱』というマグリット作品最近見て、その瞬間に驚いた。

ネットで”なんj民”と呼ばれる総体人物像と非常に似ていたからだ!

巨匠が描くシュルレアリスム人物相とネット肥溜め闊歩するなんj民が、まさかこのような共時性を見せるとは!

大抵の人はびっくりし、なんj民はニッコリとするだろう

2019-02-13

東京福岡ひよこ

東京お土産で有名なひよこ福岡にもあることを増田で初めて知った。

ちょっと調べたら偶然同時期に両地域で作られたらしい。

こういうの時代共時性っていうのかな。

偶然ってすごい。

2018-03-30

anond:20180330021658

共時性と通時性と議論でしょうか。

ざっくり言えば、ストーリーがある物語は通時性の性格を持っていて、元増田のいうキャラクター世界観は、共時性性格が強いのでしょう。

これって、神話など、伝承的な物語とかでもはっきりしたストーリーのないものがあったりするので、そうおかしなことではなくて、むしろこれまでのあり方が通時性に偏重していたと考えてもよいのかもね。

ネットを通じて、不特定多数の人と、共時的な場の共有ができるようになったけれど、それまでは、直接にあったときしか共時的体験をすることは難しかったんじゃないかな。

もうちょっとにわか知識をひけらかすならば、通時性の共時性に対する優位を主張するのは、サルトル実存主義の負の側面であって、両者に本質的な違いはないと構造主義的に(ないしはレヴィストロース的に)思います

2017-12-05

チャットルームってどこに行ったの

2000年代初頭の中学生~高校生の頃はよくチャットルームに居た。

まだwikipedia認知度が低かった時代アニメ趣味の分野などひとつテーマやワントピックについて語るために作られたサイトは無数にあって、もう廃れてしまった検索エンジンinfoseek千里眼やgooを使って気になる分野の単語を調べれば、管理人のまとめた情報考察掲載された小規模な個人サイトが一軒家のように乱立していた。

決まってそういうサイトはページを開けばMIDIが流れ出し、アクセスカウンター訪問者数をお知らせ、キリ番を踏んだらBBS投稿プレゼントとしてイラストをもらったり、管理人同士でバナー交換をしていた。そして何よりサイトの中心にはチャットルームがあった。

同じチャットルームに集った人同士で共通趣味や好きなアニメについて喋りつつ、日常出来事個人的な悩み、時には荒らし対応をしたり喧嘩仲裁をしたりと、面識もない人間同士の部室のような空気の居心地が良くて入り浸っていた。

instagramfacebooktwitter等のサービスも好きなんだけど、あの頃の気持ちが満たされない。人がたくさん集まる活気のあるチェーン店みたいな感じで、明るい場所しか存在しない。

SNSなんて根本的には馴れ合いなのかもしれないけれど、スターいいね承認をしあう事、優しくし合う事、好意を返報し合う事、共感支配している。

明るい場所に居続けると、共感の美しさがたまに、とても、味気なく感じられてしまう。

どうしても心がチャットルームを求めてしまう。

あの一見さんが入りづらい、よく分からない近所の小さなスナック飲み屋のような雰囲気。実際勇気を出して踏み入れてみるとその場にいる人や状況によって楽しかったり、楽しくなかったり、娯楽として当たり外れが多く、共時性のある会話はほぼ現実と同じ様で、それでも同じ趣味を持つ人同士で交流を重ねていく。

インターネットって情報を保存したり、永遠性のある場所だと思っていたけど、サービスの終了や404エラーを見つけるたび実家の近所の親しんだ建物が取り壊されてしまった様な感覚になる。

チェットルームの様な場所はどこに行ったんだろう

2013-02-04

まおゆうアニメ化されたしVIPSSスレについて考えてみた


といっても例のSSではなく(つーか読んでない)、SSスレッドという媒体についての考察だけども。


まず、個人ブログ小説投稿サイトで発表される「SS」や「ケータイ小説」と、
2chの主にニュー速VIP板に投下される「SSスレッド」は別物である

前者と比べてVIPSSスレは劣る、という論旨ではない。
質がどうこう文章力がどうこうといった比較じゃなくて、
そもそもハナから別の表現媒体だと捉えた方がわかりやすいということだ。
両者の比較映画落語を比べるようなもので、どこかズレている(と思う)。

では、他のネット小説SSスレッドはなにが違うのか。
まとめブログSSスレをいくつか読んでネット小説と比べると、次のような特徴がわかる。

  1. 執筆と投下(=発表)が同時に行われる
  2. 読み手の反応レスも同じスレッド内に逐一書き込まれる
  3. 作品は1レス単位(約30行)で分割され、細切れに投下される
  4. 台本SS」と呼ばれる台詞だけの形態が多く、地の文を使ったSSは少ない
  5. 文章以外の要素(AAや挿し絵、BGMなど)も使える


このうち特に重要なのは2と3だ。
「文章による創作物」を発表する媒体書籍投稿サイトなどいくつもあるが、
作者が書いてるそばから読者の反応が“同じ画面上に”書き込まれる媒体SSスレッドぐらいだろう。
まりSSスレを読む者は、
作者が見せる登場人物の声」と、「読者の反応の声」という、二者の声を同時に聞くことになる。

また、作品自体も他の媒体と違って一度に全文を発表することができない。
2ch掲示板システムには行数と投稿間隔に制限があるからだ。
たとえばニュー速VIP板なら、3~5分おきに30行以内で書き込まなくてはならない。
この「量と時間の制約」が、作品に“間”を与える。

強制される時間的な制約と、その間にも挟まれる読者の声というノイズ
この二つがSSスレッドを仮想上の演劇空間として成り立たせている。

ようするに、VIPSSスレッドは「小説」ではなく「演劇なのだ

ここでなにかライブ映像を思い出してみてほしい。
演劇でもお笑いでもバンド演奏でもなんでもいい。

ライブでは、上演の時間やペースは作り手が決めるものであり、
受け手は同じ立場の観客たちとともに声をあげて反応を返す。
演者はあらかじめ予定していた作品を披露するが、
ときに観客の声に反応して、上演中にアドリブ差し込むこともある。

これは「完成品を一方的に送って、受け手自分のペースで楽しむ媒体
たとえば小説文庫本CD音源映画DVDなどとは全く違う。
(記事のはじめで通常の「SS」を映画に、「SSスレッド」を落語にそれぞれたとえたのもこの違いからだ)

まりSSが投下されるスレッド仮想的な“ライブハウス”として機能するのだ。
となると、まとめサイトはそれを事後的・俯瞰的に楽しむ“公演DVD”に当たるだろう。
仮に他の媒体で発表される小説作品を映画とたとえるなら、
読者との双方向性共時性が備わったSSスレッドは紛れもなく演劇である
(ちなみに、このようなスレッドという媒体演劇性は「ゲーセン少女」などの擬似体験談スレでも発生する)

残った特徴4、5もまた、基本的にはSSスレッド演劇性に由来するものである
VIPPERは3行以上読めない」といった言葉があるように、2chで長文は避けられる。
それはSSについても同じで、空行の少ない長文はまず読まれない。
だがSSスレについていうなら、長文が読まれない理由もスレッド舞台に似ているからだと思っている。

SSスレッド一期一会の軽いもので、イメージとしては道ばたの大道芸を見るようなものだ。
では、舞台上にだれ一人立たず、長ったるいナレーションけが延々と続くさまを想像してほしい。
話のつかみから無駄風景描写を重ねる語り方は、スレッドという舞台上ではこのように映るのだ。
これがSSスレ地の文が避けられる理由だと考えている。


そんなわけでワナビだったりときどきSS書き手だったりする観点から私感をまとめてみた。
まおゆうはよく分からないけど、いい機会だと思ったので。わかりづらくてすまん。
媒体演劇性はSSスレだけでなく、擬似体験談スレ解釈に関しても応用できる気がする。
特徴4や5で触れたSSスレッド特有の演出法(と、できれば具体例)については、気が向いたらそのうち。

2011-07-19

なでしこJAPAN優勝おめでとう!といいたかったのに。

 俺、未だにハイライトシーンでも、盛り上がった一連の試合というのをまったく見ていないです。ずいぶんと盛り上がったらしいですが、むしろ試合が終わってもしばらくはその存在を知らなかったくらいで。Twitterでやけにタイムラインが盛り上がっていたのを、後日、気が付きました。

 

 俺は、引きこもりみたいな生活していて、テレビをあまり見なくなりまして。情報はもっぱらネットから仕入れてます。といってもはてブまとめブログtwitterのみ。やばいですよね。それと怠惰性格ゆえに、せっかく目にする情報でさえも恣意的なものでありまして、しかも他人にペラペラ話せる類の情報でもないので、およそ世間話といったものが出来る自信がない。恥ずかしいことに原発問題だっていまいち把握していない。けっきょくあれってどうなの?危険なの?大丈夫なの?グレーソーンが広すぎて細分化しても議論が捗らないほどに問題が複雑化してるの?それは大変。

 という感じで、ある意味社会性の喪失。超狭義での社会性。去年から、引きこもるような生活をしてからは簡単にそれを達成できたけれども、果たして社会性を取り戻すときにはどれほどのコストがかかるのだろう。世間話に必要なのは共時性が強くて、即時的なテレビ情報。そしてその情報がどういったテンションで伝えられたのかのコンテクスト。もう俺はやばいってノリで論を進めようとしてたけど、よくよく考えると、たいして気にすることもない気がしてきました。それよりももっと気にすることがある。

 しかし、国民なでしこJAPANの消費の仕方について色々と不満がとんでいるようですが、興行としてはとてもとても面白かったようで。こういう良い機会では、楽しいに加えて都合のいい感情をこっそり追加して消費する便乗者がいるのは仕方ないのでしょう。勇気でも元気でも貰えるものはもらっときましょー。俺もその感興の渦にまざって、勇気を貰ったとかいって、この生活からやり直しの機会を狙いたいところ。でも、ああいうのは生でみないと楽しみが半減どころか楽しさが暴落ですから、もうまったく興味ないですわ。

 まあ、なでしこJAPAN優勝おめでとう !俺たちの、私たちの、日本人の、なでしこJAPANが優勝しました! これは喜ばしいことです。 見てないけど! 

2011-07-02

結婚拒否に同時代性はあるか

から結婚しない人というのは一定存在していたが、自分がそれに該当するようになると、

やはりそこには何らかの共時性、同時代性を盛り込みたくなっちゃう。

女性よりも楽しいものがある』というのもある。今はネットだけやれてれば楽しいし、

女性のオマンコも、Googleで『マンコ』と検索をかけて、フィルターオフにすれば

いつでも無修正オマンコを見ることができる。現実よりも簡単ポンだ。

性欲処理には困らない。性的サービスを超えた温もりが欲しくなるときもあるが、

それでも結婚したくはならない。子どもが欲しいときもあるが、

それもやっぱり子どもに優しくされたい(もしくはやらしくされたい)とき

一瞬あるだけで、ありとあらゆる可能性を考慮すると、やっぱり欲しくない。

女性を求められない根源的な理由を考えてみると、

女性の神秘性・救済性の喪失

セックスによる承認制度崩壊

ってのが一番デカいと思う。個人的には。

でもこれ結構当てはまる人居そうだ。

セックスという行為は、互いを受け入れる行為である

セックスによって存在存在承認する。

でもインターネットやその他のメディアの登場によって、

セックス承認を保障するという幻想は、あっという間に崩れてしまった。

だってみんな『世界秘密』を見てるんだ。インターネットで。

結婚目的を『存在承認』だとするのなら、

その『存在承認』の保障が崩れてしまった今、

結婚』にメリットなんて感じられないと思う。

から、神や神秘性が宿るものに、性的興奮を覚える。

この文化や風潮は、今後増えるんじゃないだろうか。

もう人間になんて期待できないんだ、きっとさ。

2011-02-16

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」

つい先日、卒業研究を終えました。この日記は後輩やこれから卒業研究を自由に決められる人のためになればいいな、程度に書きました

私は卒研テーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せしたですので、後輩にもぜひ好きなテーマ卒研をして欲しいと思っていました

私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいましたしかし、後輩に「今の自分研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました

どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした

そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOwikipedia考察いかに素晴らしかたか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO - wikipedia ((http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%A7%E6%81%8B%E3%82%92%E5%94%84%E3%81%86%E5%B0%91%E5%A5%B3YU-NO&oldid=28528480))

また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです

CiNii 論文 -  マルチシナリオゲームにおける並列世界モデル ((http://ci.nii.ac.jp/naid/110002942865))

これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)

他にもネットを探すとユニークテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります

卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです

しかに、「好きだからテーマしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。

学生のあり方について、素晴らしい文章があります

修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist... ((http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733))

=====以上が、今回の日記意図です

もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。

論文とは「問い」です。一般的に論文テーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。

ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなラノベが好きか」ということになるのでしょうか?

これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。

「「好き」は理性ではなエモーショナル部分依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」

無趣味のすすめ - 情報考学 Passion For The Future ((http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1021.html))

つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです

そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです

さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義ですが、混沌としているようですね。

青少年を対象にした娯楽小説

程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性20~30代)でしょうから。(成人男性青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)

また、文学物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念引用することが結果を導く前から既に必要となります

例えば、物語的に観れば大塚英志提唱した物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。

れとろげーむまにあ: アドベンチャーゲームを振り返って思ったこと((http://nesgbgg.seesaa.net/article/185700949.html))

ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。

また、純文学の外に広がるキャラ萌え世界について詳しい

オタクたちのメンタリティには、教養主義文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。

東浩紀動物化するポストモダン|FRAMES INTERVIEW ((http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html))

ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワードカテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。

ところで、先ほどラノベ定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義文学に「SF」がありますね。

サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました

ここで一つのSF批評を紹介します。

小谷真理の『女性無意識』に対する松岡批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。

最初ハーバード大学フェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノイネシスはそれにもとづいて提案した概念で、

父権的な社会蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。

長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動セクハラ問題が噴出してきた。

では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性無意識を象徴するガイネシスになるのではないかと見た。

(中略)著者はこんな出だしで手をゆるめない。次から次へとバウンダリートランスグレッション(境界侵犯)を見せつけた。

また、女性SFに関してこういう考察もなされています。

それにしてもいつのまに、女性こそが文学可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。

まずはエレイン・ショーターが父権文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した

(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。

しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。

松岡正剛の千夜千冊『女性無意識小谷真理 (( http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0783.html ))

ということで、ここでは「外部の他者」たる女性文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとはないのではないでしょうか?

では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます

そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は

「【デリダとは】仏哲学者20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」

ツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))

デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要はないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)

ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。

女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである

女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性本質存在せず」、「女性の真理は存在しない」。

女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分存在しないということを知っているということである)。

実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニスト女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)

ニーチェの『善悪彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。

真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。

そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか

デリダ女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした

つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。

(知の教科書 デリダ 著者 林好雄 廣瀬浩司

見事にややこしいこの解釈から女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。

ニーチェ芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。

つまり、オタク男性)にとって、ラノベとは

女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置

であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)

十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレート表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる

オタクが豚になった――「萌えるからブヒる」へ - シロクマの屑籠(汎適所属) ((http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110215/p1))

という指摘もあります

例えば、オタクにとっての現実における外部性インターネットがあります

オタク男性であろうツイッターユーザーアイコンが、イラストアニメ美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性無意識に象徴しているのではないでしょうか。

また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユング提唱したアニマ(男性女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。

このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性

先程のツイッターイラストアニメ美少女アイコン無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?

以上より「ラノベ読者はなラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです

ラノベ本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?

私はそのことについて考える限り、とても意義ある研究だと断言できると思っています。

 
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