はてなキーワード: 再生とは
そういうのが完備されると「女」ってもはや「1か月でまともなの1週間だけです! ぴええええん!!」ってわめいてるだけの、単なる障害者になってしまうんだよな
再生産を人質に日本死ねと言ってみたり萌え絵燃やしたりしてきたのに、そこを外部化されたら単純に入口としての価値しか残らないと思うんだが
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何かとても逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムみたいなものが何かしらあるんだろうと俺にはどうしても思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年ちょっと前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも猪瀬直樹が『日本国の研究』で建設省に典型的に表れる特別会計の闇を浮き彫りにした時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その犬と鬼の著書のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海にぜいたくな別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ、明治の開国後、対外侵略に夢中になったかというメンタリティーに触れてゆく。
「徳の逆説」は、結構身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげる団体が行っている活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、お前がいうな問題。
これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を正しく規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権、平等といった、あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んでいったメカニズムを決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきところなのだろうと思う。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を、真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じて、繰り返し繰り返し、憲法の価値観をテストする、という設計は本当に優れたものだと思う。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と契約法の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出しているのだが、それは他方で外付けされて実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
そこがあいまいだったのが、逃げたような印象につながったのかもしれない。内田はいう。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも、親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのかを整理するほうがいい。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは、明治以来、洪水のように入ってきて、民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものが丸ごとアメリカの経験に基づいたものになった。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げ過ぎてしまって、そもそも誰の経験がもとになっていたか、誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じてもほとんど生産的な議論はできない。
戦後、人権を外付けとして実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちのような、歴史や背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは、古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。
そのテーマに対して、新天地アメリカにやってきたプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界ではやったことのない、壮大な実験的な制度設計だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提が必要だということが再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、裁判の蓄積によって、自由市場の比喩が生まれてくる背景となった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは、今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深いのだ。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があって生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だ。
それは、実は国によって微妙にニュアンスが異なるものであり、普遍的な価値として昇華できなくもないけれども、むしろ裁判などを通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が多ければ多いほうが、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な契機だったりするのだと思う。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易なことではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、もっとシンプルにいってしまえば開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験。
歴史というと大げさだが、要するに、「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
国レベルで言えば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁大法廷判決で、行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、というのは裁判所の仕事として、とても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験がいやでも風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と振り返る、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして、60年安保闘争を支えたし、外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、欧米の歴史を振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて1980年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数とどいたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日Always的な振り返りであった。そして、あさま山荘であり、学歴社会であり、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧が、戦争の記憶と結びつきにくくなってしまった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範がなかなか結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりのふりかえりとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会のひとびとと共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、自分がどうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理をついているように思えてならない。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
書式なしテキストとして貼り付け
「csvを読み込んで~、該当列を指定してsumifs関数を使ったんですけど~、0になるんですよ~」
「ああ、たぶん金額のところがテキストになっているから、csvを読み込みなおして、数値に変換するか、クエリ自体をコピペして別のシートに書式なしテキストとして張り付けて、該当行をvalue関数で変換してからsumifsをつかってやるといいよ」
わたしは聞くに堪えないと思い、説明している最中の同僚の胸倉をつかみ、頬を2回叩いた
「round関数が~」、「マクロで~」、「ピボットを~」、それでも同僚は話すのを止めないので、同僚の髪の後ろの主電源を切ったのち、電源を入れなおす
蛍光灯が明滅し、セミの鳴き声が逆再生され、私の思考も溶けていく
「あたいが読み込まれる~」と新人がつまんねえことを言いながら窓を突き破り、宙へ飲み込まれていく
世界は再起動され、0と1が書き込まれ、新世界が想像されていく
政策や制度の実現には約5年±2年ぐらいかかります。安楽死制度賛成派の人は、そもそも「安楽死制度がほしい」と考えるくらい困窮、生活に難を抱えているなど、賛成するだけの理由があります。
政策や制度の実現にはロビー活動が欠かせませんが、途方もない時間がかかるようなロビー活動をする余裕なんかありません。
それをするくらいなら自死するか、家族や医者に殺してもらうか、無敵の人になって死刑になることを考えるようになります。
これらは自分の実行力のみ(介助を受ける場合は周囲の協力を得ること)なのでロビー活動より楽です。
実は2019年の参議院選挙で「安楽死制度いるよね」というワンイシュー政党がありました。
得票を見てみると、約26万弱で得票率は0.5%。政党要件を満たせず消えました。
おそらくこの26万は安楽死制度がほしい人たちの数と見て間違いないと思います。厳しいですね。
ちなみに、2019年の参議院選挙では尊厳死制度反対の所属議員がいるれいわ党が228万、得票率4.6%でした。
まあ無理な理由あげてもキリがないので、「安楽死制度」をどう作るか考えたいと思います。
まずは政党を作る必要があるでしょう。現状、れいわ党は尊厳死制度反対の議員がいる政党になるので
安楽死制度反対と≒と思います。なので、それに勝る政党を作っていかないとスタートラインにすら立てないです。
最初から「安楽死制度を作る党」では勝てないことが2019年参議院選挙で明らかになっているので別方向から攻めます。
「犯罪被害者を救済する党」みたいなのを作って参議院選挙で戦うのが良いと思います。「犯罪被害者、被害者家族の救済」に反対する人はいません。
次に「政府や与党の犯罪被害者救済が不十分だ」ということをとにかく前面に出します。こうすることで政権反対勢力の支援を得やすくします。
もちろん犯罪被害者や犯罪被害者家族の中には表に出たくない人もいますが、「生きていた証を知ってほしい」とメディアに出ている人たちもいます。
あるいはちょっと別のケースとして、過労死やいじめ自殺で加害者側が犯罪者として裁かれず泣き寝入りしているストーリーは胸糞悪く、賛否両論になりづらいですね。
このような状況にあった人たちと接触し、意見や考えを政策に反映したり、宣伝させてもらったりします。なんなら候補者にしちゃいます。
「ニュース番組で何か言っても明日には皆忘れているのが日本でした」というような言葉を当事者から言ってもらえると心強いですね。
あとは犯罪被害者になると生活はどう変わるのかとか、被害者遺族になると生活はどう変わるのか、とか政見放送で話してもらいます。
「政党要件を満たすと6年で総額約20億円の政党交付金が入るので、この20億円を選挙対策と犯罪被害者や犯罪被害者家族の救済に当てます。」
というような感じでN党と同じ戦略であることをぶっちゃけます。N党はこうした戦略をぶっちゃけた上で政党要件満たしたので通用するはずです。
なんなら「得られた寄付金もこれらの取り組みに使っていきます」とかやっていきましょう。
政党要件が満たせたら「安楽死制度の重要性」も訴えていきます。犯罪被害者党をするなら「犯罪が起こらない社会にすれば犯罪被害者は0になるので、安楽死制度も重要ですよ」みたいな流れなので自然です。
(次の参議院選挙時までには世界各国でも安楽死制度が実現したり議論が白熱したりしてると思うので、政党ができるまでの間にデータを収集して理論武装しないとだめですね)
方法は分かりませんが、通り魔事件加害者から「安楽死制度があれば事件は起こさなかった」というようなコメントを引き出せると大きいと思います。
とくに重大事件であればあるほどです。ただ加害者が加担する政党ということになると賛否両論とかオワコンの方向に進むのでもし使う場合は慎重になる必要があります。
日本に安楽死制度を用意するなら、まずは政党を作らないと厳しい
↓
「安楽死制度党」は過去に参議院選挙で負けた実績があるのでストレートは無理
↓
ストレートじゃない形で政党を作って行動していくことが必要になるが、そもそもその資金力や行動力がある人の頭の中に
「安楽死制度の実現」とかない。「自分の人生をどう豊かにするか」とか「お金を増やすか」しかない。
現状を俯瞰するとこんな感じかなと思ってまとめてみた。
最近のGoogleは貴族階級かつ仕事はそこそこでライフ重視で生きたい(だけどそれなりに贅沢に暮らせるだけの金は欲しい)と思ってるタイプ専用のサロンみたいになってて本当にどうかと思うわ。
ライフ重視で子供10人くらい育ててくれるならまだいいんだけど、実際はせいぜい1人2人の子供にリソース死ぬほど突っ込んでサロンに入れる人間を再生産してるだけで、社会に対して何も還元していない。
そらピチャイもキレるわっていう。
ぼく「おう・・!?チャット欄は表示されないし、動画も5秒再生・10秒停止・5秒再生・・の繰り返しやんけ!こんなんまともに観られるか!」
ぼく「ふう、やっとまともに観られるやつ来たやん・・」
ぼく「おう・・まともに観られんやつやん!」
ぼく「おう・・。。。・・・?まだまともに観られんやつやん!」
どうなってんの・・・
・内海聡(国民主権党に入れるな(根拠は一切示さず複数回悪口(おそらく捏造を多く含む)、平塚にコラボを求められていないのに、求められたけど断ったかのような嘘を必死に流す、根拠を示すとしたらヤフーニュースの嘘記事を貼り付けるだけ、そして若年出産悪の概念で人口削減推進、リテラシーの低すぎる内海聡と参政党信者もヤフーニュースこそが真実で高齢出産すべきと言うだけ、内海聡と参政党信者は、なんら反論せず荒らすことしか能がない信者しかいない。)/参政党に入れろとYouTTUBE、ラジオ、メルマガなどでしつこく誘導、複数回に渡り平塚のデマを垂れ流し嫌がらせを行ってきたことの合点が行く。/内海聡は新型コロナウイルスはゼッタイ実在で人工ウイルスであるという説を流す、感染症対策を推進する紐付きの陰謀論者です。めいこに新型ウイルスの実在を証明しろと言われたときも逃走/人口削減など存在しない←おまえが推進しとる高齢出産が人口削減だろ)
内海聡はかなりおかしいと見て普通です。イルミナティであるロバート・ケネディJrと本を出した(あの本が売れたことも怪しいですよ。かんたんに操作可能ですから。)/WeRiseでもロバート・ケネディJrとつながっている。WeRise/Heaveneseは最初から参政党へ誘導することが目的です。内海聡はWeRise/Heavenese/参政党の番組であるCGSにも複数回出演しています。Heavenese、キックバックカフェ、参政党、WeRise、ここらへん、同じですが、2020年、2021年、感染症対策を辞めさせるための活動は一度も行っていません。感染症対策に疑問を持っている人、人工ウイルス説でイベルメクチンを飲んで予防しようと言った考えを持っている人たちをただただ囲い込んでしまっただけで、街宣など一度も行っておらず、最初から感染症対策から大衆を救う気など無いのです。2022年になっても、参政党の街宣では感染症対策の話題を全然しておらず、どうでも良い話題ばかりをしています。内海聡は生配信でも参政党について質問されたら逃げました。感染症対策・ムーンショット計画に反対する国民主権党を妨害するメチャクチャなデマを複数回に渡り流した挙げ句、ゴリゴリの感染症対策・ムーンショット推進である参政党への誘導をした。内海聡はゴリゴリの感染症対策推進者であることがバレバレですw
本や動画で「イルミナティになって人口削減したい」と複数回発言していましたが、参政党誘導、感染症対策推進、高齢出産賛美、若年出産抑制していることからも「冗談じゃなかったんだ」と確信しました。2020年頃、吉野敏明を自分の番組に呼んで「よしりん」という名前で呼ばせ、親近感を持たせました。このときから参政党は計画済みだったということです。
通報しても何度でもあげますよ?まあこの動画は通報しても消せませんけどね。
最初から参政党誘導で本当に感染症対策に反対している人を潰すことが目的なことがバレバレなんですけどw
しかも、参政党の信者は参政党を応援すれば感染症対策が終わるとか言ってましたけど、全く終わってないですよ?w
ごぼうの党も完全なゴミです。バリバリのムーンショット推進団体である参政党と令和新選組を大絶賛しましたからね。
あと、荒らしてる信者ね。それから、信者、ホントゴミだよね。YouTUBEで再生数を跳ね上げさせられている陰謀論者の信者、ホントゴミだよ。支配者層の紐付きだったり、変な方向へ誘導するようなやつだけを、都合がいいから伸ばしているだけなのにね。まともなやつは消されてるよ。
ケンブリッジ・アナリティカ方式で騙されているゴミな陰謀論者が溢れかえっていて愕然としましたね。
一応管理職をやっているんだけど、20代前半~半ばくらいの子って
ちゃんとしてる子かそうじゃない子か極端だなーって常々感じている。
挨拶できない、お礼言えない、敬語つかえない子が複数いる。ガチで。
注意したらむくれて仕事にならないし、思わず怒鳴ったら泣き出すし、家に行けば平気で居留守を使われる。
そうなると困るから、みんな大人な対応してる、からますます付け上がるし悪循環。
先日仕事帰りに飲みに誘った時も、会計で新人がお金を出した時に、何と、長財布じゃなくて曲がる財布を使っていた。
俺が「いや、普通こういうお店での支払いで折れた札で払ったら恨まれるでしょ。分かれよガキ。」
でも「すみませんでした。でも……」
「でもじゃねーよ。大人は普通長財布。札はピン札、オッケー?もう次ないからな」
と若干きつーく言ったら新人は一応はいとは言っていたが、あからさまに嫌な顔をしていた。
これ、俺が悪いのかな?
最近DALL・E2やmidjourneyなどの高性能お絵描きAIが一般公開されて「AIと創作」というトピックがかなりTLを賑わせている。
一方ニコニコでは、去年の暮れ頃から「AI拓也」という淫夢派生のコンテンツが安定した人気を得ている。
扱っている題材がガチで倫理的に終わっているので気になる人は勝手に調べてくれって感じだが、簡単に言うとAIのべりすとを活用して、拓也というAV男優のブログの特徴的な文体を模倣しつつ様々な短編を生成するコンテンツだ。
この最悪なコンテンツは「AIと創作」というトピックに関してそこそこの知見を与えてくれるような気がするので、現在AI拓也界隈で使われている手法について簡単にだがまとめてみる。
なお、俺はAI技術に関しては完全に門外漢なので技術のところは信用しないで欲しい。
AIが参照する学習データを偏らせることで、文体を模倣することが出来る。
これはAIのべりすとではMOD機能として実装されており、太宰治や村上春樹などがプリセットとして用意されている。
お絵描きAIでも「油画風」とすればそれっぽいのが出てくる。AI拓也ではブログを大量に学習させたMODを使用することが半ばデファクトスタンダードになっている。
AIの文章生成は、多分人間が理解している意味内容からの推論ではないのだと思う。そのため、突飛な表現が頻出する。これは多分緊張と緩和みたいな話?(よく知らん)
文章の意味は理解できるが内容の意味がわからんという齟齬が面白いんだと思う。
AIのべりすとは数字が本当に苦手らしい。そのため、〜なもの3選!とか言って平気で4とか5とか続けてくる。
これと突飛な表現を掛け合わせることで意味は分かるが脈絡のない項目が無限に生成できる。これはAI拓也界隈では「松本人志現象」という謎の名称が当てられていてかなりウケている。
AIが望み通りの結果を出力してくれることは稀である。そのために数をこなすことで望みの結果を得ようとしている。恐らくAI拓也もバズってるAIイラストもそれなりの試行回数を重ねた上でのものだと思う。
また、リセマラの過程自体が突飛で面白いものもある。何度やっても主人公が死ぬ結末になる天丼ネタなど、不謹慎ではあるが面白い。
そこで、より望みの結果を出力するためにAIに与える情報を上手くコントロールすることでより望みの結果に近づける確率が上がる。
AI拓也界隈では、語尾の設定を霧雨魔理沙にすることで元ブログに特有の〜だぜ口調を導入するとか、「Wikipediaより」と記入することで地の文を真面目にしつつ内容を突飛なものにすることでより面白い文章を生成している。
また、適宜人力による修正を加えることで方向性を調整することもある。(更には、人力による修正をAIのボケに対するツッコミと捉えて1つのウケに昇華しているものもある。こういう発想できる人がAIを使うのが上手い人だと思う)
先日「AAAゲームのスクショの方が母数が多いからそっち指定した方がより雰囲気似るよね」という趣旨のツイートがバズってたが、多分仕組みとしては同じ。
AI生成コンテンツはここが1番作者のセンスによる部分が大きい。黎明期である現在では、小技は知見として広く共有されているが、時代が下るにつれ属人性が高まったり、小技の価値が高まって情報商材としてやりとりされたりするんじゃないかなと思ってる。
ここも作者の手による部分がかなり大きい。
AI拓也は画面には基本的に文字しか表示されない。そのため、視聴者は読み上げボイスを無視して先を読むことが出来る。
適当な作者は生成した文章をそのまま貼り付けて音声をあてて投稿していることが多いが、再生数の多い動画では笑いどころとなる部分を意図的に表示させなかったり、読み上げ直前で文章を変えるなど、見せ方に創意工夫が見られる。
お絵描き界隈にはまだ見られないが、展示とかインスタレーションみたいなより規模がでかい話になるとこの辺の話も大事になってきそう。
未だにニコニコで淫夢動画を見ているやつなんて本当にひと握りなので、コミュニティがかなりクローズドなものになっている。
そして投稿される動画はさらに少ないので、伸びてる動画はみんな見ているのが前提になっている。
そのため、動画Aでの面白要素が別の投稿者による動画Bでも参照されることが多々ある。「松本人志現象」のような語録の形成はまさにコミュニティの形成によるものだ。
コンテンツの多様化みたいな話があるが、AIは無限にコンテンツを作ってくれるのでさらに多様化が進むと思う。例えばマイナーCPのBL創作界隈とかで、界隈の小説を参照させることで理論上は無限の供給が可能になる。お絵描きAIでも、特定のモチーフによるコミュニティが形成されたりするかもしれない。
以上簡単に述べた。多分もうちょっと丁寧に検討したらよりAI創作一般に拡張できる理論みたいなものが見えてくるのかもしれないが、俺にその能力は無いので誰かに任せる。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
#国は安楽死を認めてください
というハッシュタグが盛り上がってるらしい。まあ、こういうのはあまり信じていない。いくらでも操作可能だからだ。死にたい系のツイートがたくさん出てきているわけだが、こういう有害な投稿わざわざ見せつけないで勝手にしたらいい。
#国は安楽死を認めてください というタグで盛り上がるバカ、アホ、まあ邪魔なわけだけど、勝手にしたらいい、ツイッターで迷惑かけてないで。安楽死なんてないよ。どんな死に方も全部同じだよ。これは安楽死、これは苦痛死なんて、あんたらの頭ででっち上げているだけであり、そんなものは無い。
小型マイクだと良くなくて結局前のマイクに戻った。ほんのほんのすこし歌進んだ。血染めのマリア録音中。
マイクなんてなんでもいいということはなくちゃんと聞いてみると全然違うわけで、今まで使ってたやつ、いいってなるわ。小型のやつのもっといいやつなら違うのかわからんけど。値段も全然違うから。
黒川敦彦さん。
とは、なんですか?
黒川敦彦さん
新型ウイルスは実在でpcrは有効ってあなた言ってたのになんですかこれは。
浸透国森という感染症対策バリバリ推進の団体を応援している人がいるなんてビックリです。
元々山本太郎信者で、2020年一瞬だけ平塚を応援して、それ以降、ずっとQアノンというおばさんがいます。見る目がないっていうかね、残念な人だなーって感じです。ああ、それ以外に佐々木なんちゃらって有名な?Qアノンの人も全く同じで。
行政の紐付きである参政党の関連団体のHEAVENESEの生放送がケンブリッジ・アナリティカ方式でおすすめされてきた。みてみると信者が接種者差別で盛り上がっていた。
うちのコメントや他でも良く見かけるのが、日本のpcr検査はct値が高すぎるから値を下げて使えばコロナ感染しているか正しくわかるとかいう奴、これ誰が言い出したんだろうね?全く使えんよ。陰謀論業界を見渡すと、これ系の、新型ウイルス実在、Pcr 有効説が滅茶苦茶多い。誘導されすぎだよね。
フェミニズムとソーシャルディスタンスを蔓延させるため、カート・コバーンの変な動画がオススメ表示され数日で数十万再生されていました。怒りを覚えました。
新型ウイルス実在説の証明とPCR有効説の証明をお願いします。
新型ウイルス
新型ワクチン
新世界秩序
全部新で始まる。
興味深いことに?いや深くないけど、マッドフラッドっていうのが流行ってて、でもその言葉使ってる人全員ふらっとアーサー。今の所例外ゼロ人。
参政党信者でずっと荒らしてきてる人がいるんだけど、その人が言うには私はサクラを大量に雇っていて、動画にコメントしている人は全部サクラとのことです。衝撃的なコメントですねえ。
mct飲みまくって気待ち悪い。さしみくった。気持ち悪い。むしろ吐きたい。
最近陰謀論にハマった人で、ワクチンが伝染って危険だから輸血しないようにしますみたいなやつをものすごい数見かけるんだけど、輸血自体超危険だからお話間違ってます。
警察が1匹だけ、マスクから鼻が出てた。むしろ警察は何枚もマスクしてほしい。
合成洗剤使ってるなんて許せません!
いやまってwおれが突っ込んだら、献血っぽいマークから注射器のマークに名前を変更したやつがおるwめっちゃ気にしてるやんw
誹謗中傷ですよってコメントしてきたやつ、消えろよって思いました。
血染めのマリア、もうアップしようかな、これで完成でいいでしょ、とか思う、でも、まだまだ、できることはある、あともう少し考えよう。
魚油で味付き匂いつきじゃないやつ探してる。しってるやついる?
トヨタの社長がワクチン云々に関して、最初から嘘とわかった。そもそもトヨタって職域接種してたような?感染症対策を進めたい勢力があの記事を書いた可能性もある。嘘だ嘘だと騒がれているけど、別にいいと思う。そもそもヤフーニュース自体全部嘘なのに必死にみんな信じてるじゃん。全く問題ないね。
ごぼうの党とかウザいのがどんどん出てくるねぇ。。
血染めのマリアあげたんだけど、YouTubeめちゃくちゃ音質よくあげれた。全部あげなおそう。
コロナが治らないという売春婦と話してみた。PCRで陽性がでて、処方された薬を飲んだら1周間高熱が出たって。何の薬か知らないけど全部のんだって言ってた。
この動画でもやはり驚いたんだけど、エボラと新型コロナが全く同じだと知らない人がいることに驚きました。
みんなわかってると思うけど、よく、コロナよりインフルエンザのほうが多かったからインフルエンザのほうが怖いとかいうやついるよ。だがそれは、前はインフルエンザの検査キットが流行ってたからインフルエンザの陽性数が多かっただけで、今はコロナの検査キットが流行ってるからコロナ陽性が多いだけ。
ツイッターほんと文字数制限で書きにくいよね。まあわかると思うけど、エボラ検査キットが流行れば、日本でもエボラ陽性がバンバン出るよ。エボラ検査キットが流行ってないからエボラ陽性になる人がいないだけで。コロナもエボラも全く同じなんだよ。その検査キットを使って陽性反応を惹き起こせば、
大衆を見渡してみるとね、ある意味では、新型コロナって本当にあるんだよ。検査キットで陽性が出て薬を飲まされてしまえば本当に重篤な症状を引き起こせるわけだから。それで信じ込んだバカから更にコロナ怖い怖いって概念が蔓延してしまう。そしてなぜか感染症対策に反対している人に攻撃がいくwwwwww