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はてなキーワード: 毛利とは

2024-04-27

anond:20240427094340

2024-04-23

anond:20240422175357

毛利ストレスのない明るい家庭持って灰原を依存体質の愛人としてキープするのが理想やね

2024-03-04

戦国武将ってキラキラネームなすぎでは?

織田輝星(きらりん)とか

毛利直球(すとれいと)とかいて欲しいし。

2024-02-19

もし今川義元桶狭間で死ななかったら

確定事項

起こりそうなこと

よくわからないこと

このシナリオエンディング

2024-02-10

戦国時代兄弟

秀吉・秀長兄弟

 能力信頼関係とも安定の最強コンビ。秀長死後の秀吉の態度がちょっと怪しいが。信長協奏曲の秀長は新解釈すぎる。なお、秀長は改名する前の名乗りが長秀であり、羽柴長秀では丹羽長秀にパルワールドしすぎである

毛利三兄弟

 他にもたくさんいた兄弟パージして三人!だから三人の結束は固い?

島津兄弟

 お前ら本当はそこまで仲良くないだろ?実力も実久以外は…?その実久も統制の面ではちょっと

三好兄弟

 ああ短命…。我ら生まれた日は違えども死すときは同じ日・同じ時とまでは行かないが近い時期(3年以内)に死ねたね。

織田兄弟

 最終的に信勝が誘殺された信長と信勝の争いは有名だが、信広も一度反乱している。一方で信長のために戦って死んだ弟たちも多数。

みんなはどの戦国兄弟が好きかな?

2024-02-08

anond:20240208083652

豊臣の四奉行石田三成増田長盛長束正家前田玄以)は当然として、

本多正純とか浅野長政とかの奉行職、たとえば宮部継潤、富田一白、佐々行政、寺西正勝、毛利吉成堀田一継、石田正澄、片桐貞隆、石川光元、山中長俊、木下延重あたりはプレゼンがうまくなければ奉行にはなれない。

武将としては主に戦略会議の点で池田輝政福島正則黒田孝高藤堂高虎、このあたりの有名どころは全部うまかっただろうよ。

2024-02-06

anond:20240206095406

上洛はできたと思うけど天下は取れなかったのでは

なんとなく今川義元上洛したら甲相駿三国同盟パワーバランスが崩れて東側が不穏な空気になりそう

その間に毛利が東に進軍して、京都目前まで来てそう

てか今川義元そもそも天下取る気があったのかね

隣接する国と同盟結べて駿河平和だったらそれで良かったんじゃね

2024-01-07

anond:20240105203713

関東平野って本当に平野なんだなあ、と感心したのはいつのときだったか

まだグーグルマップもなかった子供の頃、信長の野望リアル日本マップとして採用したときだったっけ?

うわー、こんなに平地だらけで田んぼばっかり作れるのはチートやろと思ったときだったか

よくもまあ、こんな土地徳川家康みたいな外様にくれてやったもんだよな、みたいな感情もあったような気がする。

豊臣秀吉政治感覚京都を中心とした地域西日本方面に向かいすぎていて、

関東というのは辺境である、という感覚が濃かったのかもしれない。

それは秀吉信長の部下として西へ西へと進出していったことがひとつの要因かもしれない。

尾張を起点として、

信長の勃興期に奮闘し、

近江領地をもらい、

毛利攻略を命じられ、

筑前守は九州制覇ををその任務とさせられる官位だ。

きっとその先、というもの身体感覚としてすでに持ち合わせていたのだろう。

高度な文明を持つ東アジア大陸文明へと近づいていくことの指向性をもっていたのだろう。

まり秀吉にとって文化文明とは常に西に向かっていくことで獲得していくものだったのだ。

そのような感性の持ち主に関東というのは甚だしく辺境に感じられ、

日本国というものを正しく治めるためには最重要地域とはいえ魅力を感じなかったのだろう。

辺境伯、というもの欧州にはあったらしいが、きっと秀吉家康辺境伯にでも任じた気持ちだったのだろうか?

しかし、辺境伯というものはやがて力をつけて中央政権を取るもの相場は決まっている。

そのことを秀吉が知らなかったのは致し方ないことだが。

2023-11-13

anond:20231113231540

恵瓊、秀元、長宗我部「ふぁっ!?

輝元「まぁ弁当なら仕方ないか(もう家康と和睦している)」

小早川ちゃん弁当食ってるな、よし、行こう、刑部を殺りに」

毛利吉川小早川三本の矢の結束は本当に硬かったんだな

2023-10-15

20231015[アタック25]Next 2023年10月15日 #82 なんでもペア大会 2023-10-15結果

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

日曜日の本放送だけ1時「25」分から

BS1からボタン2回(今だけ?)とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

ジャパネットアプリ放送同期・見逃し配信あり

 

大和田武伸 千葉弘絵 カップル@青森

[吉]田寛章 元村謙介 上司・部下@兵庫大阪

平田侑夏子 武正奈菜子 友達@東京

土居悠希 山浦孝一 先輩・後輩@広島兵庫

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある建造物名前]シドニー・)オペラハウス

・02 ツタ(蔦)

・03 卓球

・04 ガリレオ

・05 兼近大樹 かねちかだいき

・06 [すべて][5答]チリ フランス スペイン イタリア オーストラリア

・07 フィート

・08 布袋寅泰 ほていともやす

・09 [近似値]9.93(メートル

10 [ドイツ語から]コッヘル

11 [3択]毛利 元就 もうり もとなり

12ハイキュー!!

・13 [英語]アイボリー

・14 [ペアクイズ]2番と7番

・15 ニーチェ

・16 [アルファベット3文字]UMA ユーマ

17 LiSA リサ

・18 [ふるさとクイズ][愛知県蒲郡市]砂

・19 C

20 『翔んで埼玉 ~)琵琶湖(より愛をこめて~』

・21 ヨシタケシンスケ

・22 CANOE カヌー

23 [AC][アルファベット4文字]ISBN

24 ランボー

・25 [3択]フルート

・26 [国]タイ

・27 10(通り

・28e 遠藤航 えんどうわたる

・xx [ある人物名前]有島武郎 ありしまたけろう

 

81→82 10.29 14:30前 回数補正

2023-10-10

最近(?)の石田三成関ヶ原の戦い周りの説



こういうのを読むと何となく石田三成忠義の人というより、超可哀想中間管理職って感じがする

もし家康が重家を大阪に送らず自分の手元に置いていたら東軍についてたifもあったりしたのかな

上の説もどこまで本当がわからないけど

ただ、どうする家康はこのルートで行きそうな気がしなくもない

どうする家康の三成は秀吉のこと慕ってはいるけど、違うかもって感じてそうだし

2023-08-19

anond:20230819113627

本能寺の変明智自分で起こしているわけだから情報統制が効くだろうな

でも、その後は、明智としては毛利との挟み撃ち企図するわけで、当然に信長が討たれた情報を流そうとするだろうと思う

羽柴はその情報を統制しきったのか、それとも情報が流れても自陣をまとめあげたのか、いずれにしても尋常ではない

明智細川筒井蒲生を味方につけられなかったのと好対照

2023-07-22

anond:20230722010211

1479年 毛利次郎の乱 赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。

 

ンンッ?(プスッ)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2023-06-02

弁護士選び

弁護士企業法務系と昔ながらの町弁と新興系に分かれる。

企業法務系】

複雑な金融企業買収、税務、外国案件などを得意とする。仕事内容はコンサル証券会社銀行に近い。ドラマ映画に出てくる「弁護士」のイメージとはかなり違う。高級サラリーマンという感じだ。いわゆる四大法律事務所西村あさひ、森濱田松本、アンダーソン毛利友常、長島大野常松)がこれだ。他にも安定した顧客を握っている中規模事務所がたくさんあり、東京大坂大都市に生息している。

就職人気は高い。犯罪者貧乏人の「底辺クライアント相手にしなくていいし、都心の綺麗なオフィス書類仕事をするだけというイメージがあるからだ。給与水準も平均的に高い。しか徹夜上等の激務であり、メンタルを病んで辞めていく人も多い。弁護士原則個人事業主であり労基法適用されない。

【町弁】

昔ながらの町の弁護士で、小さい雑居ビルの1フロア事務所を置いていることが多い。ドラマの「弁護士」はこっちだ。主に離婚相続といった身近な事件収入の柱にしている。大学病院に対する町医者イメージしてもらえばいい。基本は何でも屋だが、突き抜けた得意分野をもつ人もいる。大学病院に属さな名医みたいな感じである性犯罪弁護で有名な奥村徹Winny事件映画にもなった壇俊光ネット誹謗中傷神田知宏などがいる。

能力も働き方も人それぞれでかなり個性が出る。収入千差万別で、国選弁護でどうにか食いつなぐ貧乏弁護士もいれば、億越えを達成している人もいる。地域に密着して何十年もやってる事務所は安定顧客を捕まえていることが多い。

町弁の中には共産党系など左翼色の強い事務所が含まれる。昨今のネット世論だと嫌われがちだが、歴史的には公害薬害問題米軍基地問題重要役割果たしてきた。「弁護士サヨク」というイメージはここから来ている。逆に右翼色が強い事務所もある。たとえば元検察官ヤメ検)の弁護士体制寄りの傾向が強い。

【新興系】

2000年代から急速に伸びてきた勢力。アディーレやベリーベストがよく知られている。ネットやチラシで大量の広告を打って集客し、大量の事務員を使って定型的に処理する。事務所は全国に置いているが処理は中央でおこなうセントラルキッチン方式である弁護士は各地方事務所店長的な存在である。過払いや交通事故のような定型的に処理できる仕事に強い。町弁や企業法から軽蔑されがちだったが、事務所待遇がよいので近年の就職人気は悪くない。良くも悪くも弁護士個性依存しない業務フロー確立されている。

大手弁護士事務所相談しようとしたが紹介案件のみだと断られた」といった不満を目にする。おそらく一般民事相談企業法事務所に持ち込もうとしたのだろう。行くべきだったのは評判のいい町弁か新興系だ。

2023-04-06

anond:20230406184717

 1576年(天正4年)織田信長中国征伐命を出し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が侵攻してくる。

直家は始め毛利家に付くが、折りをみて信長勢に帰属

その際に人質として嫡子の八郎(秀家)を姫路城秀吉のもとに送り、直家は毛利勢と激しい攻防戦を繰り返すが、1582年(天正10年)病により生涯を閉じる。

これにより秀吉後見人として八郎が家督相続した。秀吉備中高松城攻めに組み込まれたが、八郎は幼少のため叔父宇喜多忠家代理として軍を率いた。

 1582年(天正10年)明智光秀謀反のため本能寺信長が死去する。主人の弔い合戦のため秀吉毛利輝元と和睦し、八郎は備中東部備前美作を領する大大名にの上り毛利家の監視役を務めることとなった。

 1585年(天正13年)年3月、13歳にて元服するにあたり、豊臣秀吉から一字賜って秀家と名乗り、従五位下侍従に叙せられる。同年四国征伐の豊臣軍に随従し、初陣も果たした。

 1586年(天正14年)、前田利家の四女・豪姫を娶る。豪姫は利家夫妻と懇意であった秀吉養女として出され、大切に育てられていた。このため外様ではあるが、秀家は親族のような扱いを受けている。

宇喜多秀家ってなんで五大老の一人に選ばれたの?

徳川→当然 前田織田政権からの重鎮 毛利西国最有力 上杉越後の龍の後継だしわかる

喜多→えっ誰君??

 

マジで急に現れた感がすごい。バランス的に西からもう一人選ぶにしても島津だろ。せめて長宗我部

東なら伊達がいるし、佐竹とかもいるじゃん。

子飼い福島ダブル加藤黒田細川あたりから選んだってよかったじゃん。なんなら幽斎でも。

喜多ってマジで誰なのよ。誰が秀吉に推薦したのよ。そんで何が秀吉眼鏡にかなってオーディション通ったのよ。

戦国ガチ勢教えてください。

 

ちなみにChatGPTの答え

質問宇喜多秀家は、島津氏や伊達氏などの有力大名をおさえてなぜ五大老の一人に選ばれたのでしょうか?

GPT宇喜多秀家は、豊臣秀吉が行った天下分け目の戦いであ山崎の戦い賤ヶ岳の戦いなどに参加し、功績を挙げました。そのため、秀吉からの信頼が厚く、豊臣政権下において重要役割を果たすことができました。

また、宇喜多秀家は、豊臣秀吉に対して忠誠心が強く、秀吉命令には絶対に背かなかったことが知られています。そのため、秀吉からの信任も厚く、五大老の一人に選ばれることができたとされています

さらに、宇喜多秀家は、紀州征伐や文禄・慶長の役など、豊臣政権重要な戦役に参加し、活躍したこと評価されたとも言われています

以上のように、宇喜多秀家秀吉からの信頼が厚く、忠誠心が強く、また多くの戦功を挙げたことが理由として挙げられます

 

嘘ばっかじゃねーかChatGPT

2023-03-02

◯利って足利毛利のほかにいないの?

尻利とか膣利とかもっといろいろいていいと思うんだ。

2023-02-20

anond:20230220155548

毛利守氏は出馬要請されて断ったという話。

で、たしか女性宇宙飛行士出馬して落選したのがいたような……

2023-02-13

anond:20230213024720

例えば、徳川家康は、目の上のたんこぶの豊臣家を滅ぼした直後に、

武家諸法度皇室と一切関係をもってはならない。)

禁中法度並びに公家諸法度(天皇公家自由に行動するな。)

を発布しています

天皇陛下の一の武将将軍)として、世の中をまとめる方法選択した家康ですが、

天皇を中心として反乱を起こされるリスクを恐れて、がちがちに固めています

しかし、天皇を倒すことは選択しなかったようです。

余談ですが、武家諸法度例外を認めた毛利藩(長州藩)によって、

明治維新は動いていきます

あなたが、内閣総理大臣になった時に、

①「天皇の一の子分の俺についてこい!」

②「天皇はじゃまだから倒した、俺についてこい!」のどちらを選ぶのか知りませんが、

いままでの権力者は、①に「正当性」を感じる方が多いのだと思います

2023-02-10

anond:20230210155521

一番有名なのはコナンでしょ

普段毛利探偵事務所のなんでもない殺人事件解決をしながらも

一貫したストーリーとして黒の組織を追いかけるというメインストリーが続いていく

ただ黒の組織あんだけデカそうな組織のわりにメイン所属人間しょうもない犯罪をどんどんやるので

推理もの』の領域は何とか守ろうとしている感じがして俺は結構好き

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