はてなキーワード: 天動説とは
政府、政治家、役人、研究機関、シンクタンク、マスコミといろいろ情報発信してくれる機関はあるけれど、どれくらいその機関を信じれるかってことなんだよな。
どの機関も面子や商売、それぞれの都合に合わせて情報を発信する訳で「信じられない」となったら、自分で自分の信じられる情報を見つけ、理屈を考えなければならない。
誰だって「信じられない」人から何を言われても耳に入らない。誰だて騙されたくないし、自分の身は自分で守らなければならない。
「信じられない」のだから仕方ない。
運動中に水を飲むことが禁止だった時代、天動説から地動説に変わった時代、支配階級が訓練がてらその辺の農民を殺していた時代。
上手く世間や時代に合わせられずに失敗する危険性は誰にだってある。合わせることが正解とも限らない。
我々には何を信じて、どうやって生きるのかを決める自由があり、それぞれに精一杯生きている。
そんなことを考えていたら陰謀論者と笑えなくなった昨今。
ワクチンの効果を否定する「反ワクチン」の人々や、地球が平面だと主張する「地球平面論者」は、科学的な常識を知らないとして馬鹿にされている。
私は反ワクチンでも地球平面論者でもないが、彼らのことを馬鹿にする気にはなれない。
なぜなら、私たちが知っている一般常識は、先人たちが発見した、現時点でおそらく正しいと思われている事実にすぎないからだ。
一般常識には、先人たちが発見し、その知見が多くの人に知られた結果常識になったものが多い。知見の発見は一部の賢人の功績であって、他の人はその恩恵に与っているだけだ。
私は今までの生活でワクチンの効果について実験したことはないし、地球が球体であることを確認したこともない。(地平線は丸みを帯びて見えるが、球体かどうかまでは分からない。)
自ら実証せず、盲目的に常識を信じているだけの状況なので、「その常識は正しいのか?」と問われても「正しいと聞いたから正しいと思う」としか答えられない。
また、常識と言われていることも、必ずしも正しいとは限らない。あくまで、ある時点で最も正しそうに見えるものが常識といわれているだけである。
水銀を不老不死の薬として飲んだ中国の皇帝、天動説を信じた中世ヨーロッパの人々は、おそらくそれが最も正しいと思ったのだろう。私たちが正しいと信じているワクチン接種も、もしかしたら未来の世界では有害性が指摘されているかもしれない。ある時代の常識が、後の時代で否定されることもある。
私は一般常識を信じている側の人間だが、常識を聞いたことがあるだけで自分で実証したわけではないし、その常識が正しいとも言い切れない。「自分は科学という権威を盲目的に受け入れているだけの凡人だ」という自覚があるので、自分が一般常識を信じていない人よりも優れているとは思えず、彼らを馬鹿にする気にはなれない。
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
「みんながそれが正しいと思ってる」って論拠で話されてると思ってるのお前だけだろう。他にも多数の論拠が示されていて、その中の補強材料に過ぎない。
ただ、あなたが「自分が言っていることを正しいのに、多数派かが弾圧してきている」という妄想にとらわれているのは見えてきた。
あと、詭弁を使い倒してるのに「論理的に」って、論理学って学問がちゃんとあるんだよ。
「みんながそれが正しいと思ってる」は、お前が言うように正しいの論証にもならないが、それよりも輪をかけて相手が間違っている論証にはならない(正しさには関係ない)ので、
「民主党政権だって天動説だって地表平面説だって正しくなっちゃうよ笑」なんて事は導けない。
故に、「様々な検討の結果法律ができていて、それが指示されている」、つまり「白人だけは特別」と「人間だけは特別」に、法律では明確に差があり、多くの国で標準とされていて、日本でも圧倒的に支持されている、と言う事実、に対して「「みんながそれが正しいと思ってる」って論拠としてはバカすぎる」と抗弁したところで、あなた自身の主張の正当性を補強するものではない。
実際には詭弁をこねくり回しているだけで、ただ「論破して勝利宣言する」という事への快楽を求めているだけなので、何の意味も無いと言う指摘になってる。
手の甲をさぶつけて青アザが出来たんだけど、
痛かったんだけど!
でもまあすぐに忘れちゃうじゃない。
今日今朝の朝にさ
手をみたら青アザが手のひらの方に移っていて、
え!?ってなったのよー。
あれ黒炭ストーブで炭入れたときにスコップ触ったからその炭が手のひらに付いたのかな?って思って擦ってみても落ちないから
あ!そっかこれもしかして青アザが移動したんじゃね?って
私はここで天動説から大陸移動説を信じるきっかけになったそれなんてアトランティス大陸?って思ったわけなのよ。
青アザって移動するのね!?って
もちろん桃売り場の桃を押すと怒られるように
その手の甲を青アザをおしたら私も桃じゃねーよ!って
角野卓造じゃねぇよ!って言っちゃいそうなぐらいデリケートな手の甲の桃の部分。
ぎゅって押したら痛いけど。
押さなければ痛くないので、
直るのを見守っていくつもりの所存をここで表明していきたい山脈に向かってヤッホー!って叫んでおくわ。
幸いゲームのコントローラーを握るのには支障が無いのが幸い中の幸いよね!
あとこれがトリガーのきっかけの兆しになった予兆なのかよく分からないけど、
一気に冷えたじゃない。
ここ何日か右半身だけに冷えを感じるのよ。
もしかして手の甲の青アザが原因なのかしら?
これも一回右半身の冷えが左半身に移ったときに何かが起こるのかしら?
多分今の私サーモグラフィーでみたら
人造人間キカイダー、キカイダー01、超人機メタルダーか見分けが付かないぐらい
サーモなグラフィー赤と青の温度差が右半身と左半身とでハッキリ分かるような気がするのよね。
そう私今体感しているのよ。
なんかこんなこと今までなかったのになーってちょっと気になるところね。
でも実際今の私をサーモなグラフィーで見たら多分、
青と赤とで体温の差が身体の左右で違うそれなんてヒーロー?を地でいける感じで行ける自信があるわ!
とにかく凄い自信なのよ!
うふふ。
どちらか先に食べるかで迷うけど、
大好きな方!
美味しいサンドイッチは美味しいに限るわよね!
さっきもあるように
身体がなんか冷えるので
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
もよもよもよ〜〜ん
これを読んでるあなた!
もよもよもよ〜〜ん
窮ミッキーマウス猫を噛む
もよもよもよ〜〜ん
そーれ
そーれ
明日はなんの日?
できちゃった婚活の日!
レベルが上がりました!
999になった!
髭が生えた!
狼狽してる老婆
にんにく?
それともピータン?
タクラマカン砂漠!!
シャクナゲってどんな花なのか、我々は知らない
キクラゲをスネに育てたい
本当に、ごめんな猿
ドラゴンクエスト10000〜そして婚活へ〜
ここからは本当の話。
婚活が上手くいかなくて、お酒を飲んで、帰ってまいりました。歩いております。終電逃しました。
寒いね。でもコンビニがあるから平気さ。Googleマップを頼りに3時間の旅。タクシーは呼びません。歩きたいんだよ私は。こうでもしないとやってられないの。変なこと書いてごめんなさい。酔ってません。正気です。もう少しで家に着きます。帰ってココア飲むよ。もう婚活は辞めますオタクとして1人生きることをここに誓いまする。グフフフと家でひとり笑ってもいい生活に慣れてしまいました。子孫を残せずごめんね。みんなは婚活がんばってね。
っていう思い込みなんだけどさコレも
日本人の(ここもまた大きな括りで言うのは良くないんだろうけど)感覚だと
「え?それ信じちゃうの?」みたいなことがすっげー多いように思う
そういうのが海を超えてこっちまで届いてるんだから、たぶん現地はもっと多いんじゃねぇかなぁって思う
地動説天動説の話やら、そもそもソレを信じる前提の宗教に対する入れ込み具合やら
あと最近のオイル反対派の言い分やら、某元大統領こそ救世主だと信じる層やら
なんというか、ただ話として信じてるってんじゃなくて、実際に行動に移すほど思い込んでるってのがすげぇ多いように見える
これだけ思い込めるからこそ、白人至上主義みたいな考え方とかできんのかなぁって感じるし
他の人種なんて虫と同じだしぶち殺しまくるぜみたいな気持ちに本気でなれるから強いのかなぁとも感じる
なんて適当言ったわ
でも俺はそう思い込んじまってるよ
反陰謀論からすると反感を買うかもしれないが、世間の常識を無批判で受け入れる姿勢が陰謀論にハマるきっかけになる。
きっとそういう人はエーテルが常識だった時代に相対論を唱えるアインシュタインをバカ扱いしていただろう。
天動説が常識だった時代に地動説を唱えるガリレオをバカ扱いしていただろう。
世間の常識は多くの場合正しいが、絶対に正しいわけではないし、調べて自分の頭で考えて受け入れるべきだ。
そういう意味で陰謀論を"無批判で"バカにする反陰謀論者も同様にバカである。
「誰々が言っていた」「どこどこに書かれていた」だけを証拠にしない。
なぜそんなことが言えるのか。
「正しく疑う」を言語化するのは難しいけど時間がある時もっと具体化したい。
科学論文や権威ある論文は英語で書かれている。英語で調べ読むことができることは重要になる。
誰がなんの証拠でそんなことを言っているのか。
一回観ただけなので、細かいところ間違ってたらごめんなさい。ようするに君たちはどう生きるかを読めと言われている気がするので、みんなで読もう!
やっぱり宗教的な何かに引っかかってるから文句を言わずにはいられないの?ああ、あれ?最近流行りの壺ってやつ?
そもそも『チ。』自体は『C教』だって言ってるのに、そういう人は「キリスト教は~」って話を始めるやん?
キリスト教をモチーフにした悪者ってかなりありふれたものだし、今までそういうものに全く触れてこなかったってことはないでしょ?
『ベルセルク』のモズグス様見て『「キリスト教は口先では博愛を唱えながらこんな凄惨な拷問をしていた」と言わんばかりの描写』とは言わんでしょ。
言わんよね?言うの?こわ~。
だから何?どこまで凄惨な拷問があったかは議論の余地があるのか知らんが、インドもアフリカも関係なく「魔女狩り」の歴史自体は消えないよ。
『チ。』を批判したいんだかキリスト教を守りたいんだかわかんないんだよな~。
『チ。』の描写が気に入らんのはいいよ。それを底本にして現実の話をするにしても、せいぜい
「『チ。』の世界では天動説から地動説への移り変わりはこうだったけど、我々の世界ではこう移り変わっていったよ!」
くらいのもんでしょ。それなら「ふーんそうなんだ!勉強になったよ!」ってなもんだけど、「だから『チ。』はクソ!」ってなったら「は?アホか?」ってなるよね。
「クソ!」くらいならまあ良いけど、なんなら青少年に悪影響だから発禁にしろくらいの勢いで批判するよね。