はてなキーワード: 屋根裏とは
よその家にお邪魔するときは手土産を持たせるし、うちに呼んでほしくもないのであまりよその家にもお邪魔させてない。
多分、家の容積と構造の変化もこれをもたらしていると思う。
祖父母宅は屋根裏部屋も蔵もあって、収納スペースが大量にあったので、母屋の見えるところに収納をする必要はなかった。
自分が育った家は子供部屋が玄関から通じる廊下に直通していて、リビングにいる家の人に声をかけることはあっても中にまでは入らなかった。
今の自分の家は所謂リビングイン階段構造なのでリビングを通らないとどこにも行けない。
お姉ちゃんがお風呂に入っている間に弟の友達が遊びに来てリビングで遊び始めると風呂から出られなくなるあれ。
収納も少ないので、とにかくいつも家がごみごみしているから、誰かが来るとなると大掃除が必要。よって、あまり人に中まで入ってほしくない。
近所づきあいはそれなりにあり、子供も近所の大人と顔見知りだけれど、別にお互いに家の中にまで入らない。
子供のころは友達の家に行ったり、自分の家に今でいう放置子な子供が入り浸ったり、親の友達の家に泊まったりしてたけれど、誰かがいうような学びは特に感じなかったな。
セントクリストファーネビスでは驚くべきことにすべてのものに入口と出口があります。
なのでここの住民の性行為は相手の入口から入って出ることを意味します。我々の言う性別というものは存在しないようですが、入る側/入られる側は明確に区別されているようです。我々にはその違いは分かりませんが、彼らにとって我々は「入る側」であり、サイモン博士は実際に住民の一人をくぐり抜けました(これについては改めてレポートを送らせていただきます)。
あらゆるものに出口が備わってしまっているということは、ものを貯めることが不可能だということです。コップは底が抜けていますし、それに注ぐビール瓶にも脇腹に出口穴が空いていて小便のようにビールを噴出し続けています。ビールを飲みたいならそこに直接口を当てて飲むしかありません。
入口と出口は明確に区別されていて、例えばある家に招かれて入口から入った場合、そこから出ることは禁忌です。出たい場合はどこか別のところにあるはずの出口を探さないといけません。家の住民が客にその場所を教えることはなく、何故か自らの力で探し当てる必要があります。屋根裏や軒下、タペストリーの裏側や本棚にある一冊の本の中など、出口は巧妙に隠されています。出口を見つけられず入口から出ようとしたニハト隊員は全身を大きな力で捩じ切られるようにして死にました。冷蔵庫の中に出口を求めたムルンゼット中尉は、冷蔵庫の出口を見つけられず凍死しました。
このように入口と出口、およびその間のへだたりが重視されているのは、村の祭祀を司る者が言うには、この地を開拓した聖人が神をその背に乗せて天の川を渡ったという故事(神話でしょう)に拠るとのことです。移動こそ聖であり、あまねく一切のものは留まらず移動中という状態であるべきだと。また、元の場所に戻ることは最も神の意思に背く反逆行為であると。真偽は定かではありません。
かく言う私もこの国の出口を見つけられずにおります。
このレポートは船便でお送りしているつもりですが、受付のポストも出口があるはずで、船に乗らずにただただレポートはポストの出口から滑り出ていってしまっているだけかもしれません…
○ご飯
朝:なし。昼:なし。夜:キムチ、ラーメン、チャーハン、生中、瓶ビール。間食:チョコ。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすみなりー。
○Looking Up I See Only A Ceiling 上に天井がある。
「ストレスを抱えた少女が屋根裏部屋を探索したいという短編心理アドベンチャー」が公称ジャンルのコマンド選択式アドベンチャーゲームを遊んだ。
大学生ぐらいの少女が自分の部屋で目覚めいつものルーティンを始めるが、どうにも不可思議な出来事が起き始めるストーリー。
現実的でない事象こそ起こるものの、日常のありふれた行動の積み重ねを、平坦で落ち着きのある主人公のモノローグ中心で語るシーンが多く、誇張されたキャラクタの掛け合いや衝撃的な展開とは無縁の丁寧にまとまった短編小説のような作品だった。
全てを語らず読者の考えに委ねる部分が多く、作中で起こる出来事に、作中内でスッキリする答えが用意されていないのは好みがわかれるポイント。
とはいえ、段取りや謎解きが物語の主題ではなく、主人公の少女が自身の抱える何かしらの悩みに気付き、何しかしらの解答を得て、何かしら前に進んでいく普遍的な優しい物語だった。
イタリアのインディーゲームながら丁寧な日本語翻訳がされていて、ちゃんとその雰囲気を楽しめるのはありがたい。
印象的だったのは、開幕早々にある朝食を用意するシーン。
・全体的に眠かった
特に劇のくだり
本当に伴侶と出会って子育てして幸せで〜の価値観、世間一般として「正解」なのはわかるがじゃあ共感して自分もやりたいかと言われるとピンとこないのでひたすら眠かった
・上から吊るされてくる神様の顔がキモくてさすアリ〜(さすがアリ・アスター監督だぜ)ってなった
あの屋根裏のくだりも何?あのモンスターは何?おじさんは何?つまりPTSDニキは奥さんが言ってた通り(結果的には)ヒーローだったってこと?暗喩なんだろうがわからん
・腹上死ネキの遺体が硬直してるからドア通す時若干角度工夫されてるのおもろ
お母さん訃報→入浴→上におじさんの一連の流れ目茶苦茶ハジけてた
あの街は更生?街的な感じなの?
・かわいそうなボウ
・医師夫妻がいい人すぎていつ裏切るんじゃ…とビクビクしてた
アリ・アスター監督のヘレディタリー的な「終点はすでに決まっててそれに向かって進んどるのじゃ…」感を端的に感じされられてGoodだった
・あの暴挙達が押し寄せた後の部屋のミキサーの茶色い中身、不穏 顔をしかめてたのがまた
・カウンセラーの好々クソ爺の顔つきよ
・女子の会話って内容とか声色とかこええよな…
・でも目的→ポリコレでなく、監督の「家族」へのネットリしたマイナス感情を煮詰めた映画だったのでよかったです
クリエイターの自我は知りたくないけどここまでなるアリ・アスター監督の家庭環境とは…?となる
アジアのアイドルとかマンガ絵が「イカしてる」価値観の欧米人ヤング世代…!と
・上映時間3時間の映画で頭からお尻までちゃんと面白かった映画、
某映画しかなかったから無理して長くしなくてもいいんじゃ…?と思った
いまだに、日々ボーはおそれているについて考えている。
考察サイトとか、ふせったーとか、ツイッター(X)とかも見てる。
モナがボーの男性性を嫌悪しているみたいな考察が多いと思うけど、違うと思う。
彼女の夫が彼女に与えなかった(推測)「(性的にも)愛されている」という実感を、ボーから取り立てようとしていたんだと思う。
以下論拠
・細かいセリフは忘れたが、クルーズ船の寝室でモナはボーに対して自分の男性観(男は鈍感だけどそこが良いのよねみたいな話)を語った後、字幕ではなく英語音声の方で「あなたの男性性を誇りに思う/あなたは私の誇らしい男」みたいなことを言っていた。
・最後の裁判で、ボーが思い出の女性とセックスしたことを詰めるシーンで弁護士が「ボーはあの女に愛情を与えた、本来は彼女(母)に与えるべきところをーーー」みたいなこと言ってた(よね?)
ボー少年がモナの下着を悪い友達に与えたことに関する怒りも、上記のことが関係してるんじゃないかな。
ボーがモナのことを(性的対象として)愛してるなら、そんなことを許すはずがないから。
さらに言えば、モナがクルーズ船で女の子にボーをけしかけたのだって、テストだったんだろう。
ボー少年に与えられた正解は、女の子に目もくれずモナを慕い続けることだった。
ボーの男性性は許されている、モナに向ける時だけは(しかしモナにそれが向かうことは一度もなかった)
(そしてそれが、モナが定めたボーの一番の誤ちなんだろう)
もちろん息子であり庇護者であるボー少年が、モナを性的に愛する義理なんかないのだけれど。
屋根裏の巨大ちんちんに関しては、モナが用意した着ぐるみ的な何かだと思っている。
全てはモナの管理下にある、だからあのちんちんだってモナが用意したものだ。
モナの中の夫は陰茎だけの悍ましい存在であり、それをボーと共有したかった。
そしてボーが父の罪(絶対浮気だと思う)を贖うよう、モナはずっと望んでいた。理解して欲しかった(繰り返すが、ボーにそんな義理は全くないのだが)
モナは本気でボーが「自分を愛する息子」と「自分を愛する夫」にならないことを悲しんでいる。
母親に性的に求められたことはないが、この本物の悲哀の迫力はわかる。
さぞかし辛かっただろう、今は休んでくれボー。
ボーはおそれているを見た
本当ははてな匿名ダイアリーに書こうと思ったのだが、初の試みすぎてどこからいけば入力ホームに飛べるのかも分からなかったので、こうして一旦自分のエディタに向かって書く。ちくしょうめ。
お前たちがこれを見ているのなら、どうにかうまいこと投稿できたんだろう。
あのミッドサマーを作った、嫌な人間関係を描くことでお馴染みの男アリ・アスターの作品だ。
彼の妙に女側の鬱憤描写に自信がありそうな感じは、まあきっと他の人が論じることだろう。
以下は、ボーと同じく母子関係に問題のある増田がどのようにボーと旅をしたかの備忘録である。
物語は、ボーが母親の誕生日パーティをドタキャンしたことから始まる。
ボーはいつも恐れていた、母親の機嫌を損ねることを。傷つけることを。
わかるぞ、ボー。
女手一つで息子を育てるというのは、どんなに大変なことか。
大人になればなるほど、それが途方もない献身の末にあったことが身に染みるようになる。
そんな彼女の気持ちを裏切るのは、いつも最悪な気分になった(これは増田の話)
それにボーは、母親の経済的援助の元にある(はっきり書かれてはいないが、増田はボーのカードは母親名義のものだと推測している)
就職先とか全部潰されてきたりしたのだろう。
アパートで鍵を奪われたりしたのは、なんだったんだろうな。
母親は誕生日パーティのドタキャンを受ける前から、ボーに試練を与えるつもりだったのか。
それとも、母親の一味の中にボーに害意を持つ者が個別にいたのだろうか。
あるいは、「お前はこれで終わりだ(うろ覚え)」と語りかけてきた男は、ボー自身の破滅願望だったのか?
ともかくここからボーの辛い旅が始まる。
家にたどり着くまでのやつは割愛しよう。
あれはほとんど昔話で言う「三回正しい行動をしたものだけが生き残れる」みたいなお約束パートに見えた。
その中でも、医者の妻や森の痩せた男など、ボーに同情的な人々は少し居た。
彼らはどんな気持ちであの寸劇をやっていたのだろうか。
あの医者の家の娘、その気の毒さ。
突然やってきたボロボロの中年男性に、居場所を奪われるのは苦しかっただろう。
もしかしてあのペンキを急に飲んだのは、ボー母からの内密な指令だったのかもしれない。
例えば誰も逆らいようのないボー母から「ボーと恋人関係になれ」などと命令されたなら(もちろんもし従ったところで、きっとボー母は彼女を始末しただろう。ボーにセックス禁止の呪いをかけていたわけだし。つまり、彼女が本気でボーを誘ってボーがそれをちゃんと断るところを見たかった。試したのだ)、あのヤケクソも理解できる。
ティーンエイジャーがそんなことを強いられれば、死にたくなったって仕方がない。
(追記:最初の推測は上の通りだが、よく考えて「ボーを本当の息子として扱え」が命令だったのかも)
個人的な推測をさらに進めるなら、ボーの母は彼を裁くに足る証拠を集めたかったのだろう。だから彼が罪を犯すチャンスをたくさん与えた。
そういえばボーの居住地区の治安が終わってるのも、母の采配なのだろう。
彼女はボーが自分を愛していないことを、確認したかったのかもしれない。
ペンキ自殺をきっかけに、ボーは次のステージへと追い立てられる。
舞台の筋を書いたのは母親だろうから、母の愛(鎖)を断ち切ったところで幸せにはなれないという話だったのだろうか。
結構序盤からボーの妄想劇場っぽかったから、あれは単に彼の内心の探索だった説の方が強そうだが。
そういうお母さんの話(舞台)を途中から流すようなところが、母をイライラさせていた可能性はある。でもあのお母さんイライラ範囲デカいからな…。
セレモニーが終わってみんな帰った後っぽかったのは、フェイクだったからだろう。元々死んでない葬式なうえ、目的はボーのリアクションを確かめることだ。
弔問客がいっぱいいたってノイズになるばかり。
クルーズで出会ったあの子(たぶんボー母がセックスに至る前に追い出した)が、葬式に現れる。
彼女はボーと可及的速やかにベッドインするし、死んだ母親のアクセサリーとかもいじくり回す。
絶対このタイプの女、ボー母は嫌いだもんな。明らかに遺産目当てだし。
あのおっかない母親が死んだ今、ボー一人を籠絡するのは楽勝だと思って現れたのだろう。
でもこういう金目当て女に易々とハマるのは、ボー母の責任だ思う。
お前がボーに恋愛(セックス)を禁じて、免疫を得るチャンスを与えなかったから……
そしてボーは母親に言外にしかし固く禁じられていた射精を、彼女の中で果たした。
ボーが母親に決定的な不信感を覚えた瞬間だと思う。
あの外観を与えたのはボー母であるし、自分の中で射精した瞬間死んだみたいなエピソードもそれっぽい。
ボーを宿したあの瞬間までで夫の物語を止めて仕舞えば、美しい話で終われる。
隙を見せたお前が悪いので自分語りをするが、私も過去に浮気をされたことがあり、ボー母のこの気持ちはよくわかる。
ある一瞬以降の「あいつ」を死んだことにしてしまえれば、どんなによかっただろうか。
ここに関しては、ボー母は自分のやりたいようになったことだろうから、少し羨ましくもある。
アリ・アスター監督は女のこう言う感傷部分への理解が異様に深い。
私も無限の金があったなら、昔の男のことは好きなだけボロボロにした上に殺したと思う。
なんでもできるが故に、諦められない。
彼女にとってどうしようもできないのは、人の心だ。
父親の心も、ボーの心も彼女は全く思い通りにできなかったのだろう。
一度、彼女の側に立ってみてボーを見る。
多分父親に似ていたのだろう。
今度こそ自分を一心に愛する男に育てようと心を砕いたのに、ボーは何度でも「私」を裏切る。
男友達と一緒に自分を貶め、自分以外の若く美しい女と寝ようとする。
自分に愛しているという口で、カウンセラーには不満や憎しみを言い募る(聞いてる母が悪いのだが)。
愛しても愛しても(少なくともそのように認識していても)、男は決して満足のいく愛を返してくれはしない。
可愛さ余って憎さ100倍ということわざが向こうにもあるのかは分からないが、そんな心境だったろう。
父と息子を混同するの、やめた方がいいよ。
「私」をとうとう完全に裏切った「あなた」なら、安心して殺せるから。
正直言って母の父への憎しみはわかるものの、「子供」としての増田はボーと共にある。
経済的援助を受けていたやましさ。
日記帳を覗かれていたおぞましさ。
母を拒否した時の、たとえようもない罪悪感。
他にも色々あるが、ボーにシンパシーを受けるのはこの辺の過去があるからだ。
私の母は経済的援助についてはもちろん恩を感じるべきだというし、
日記帳に関しては母の愛だったのだから、私が許すべきだと主張する。
そして彼女の様々な誘いを拒否すると、哀れっぽく嘆いて見せるのだった。
これは、このタイプの母を持つ人間にしか分からない強制力だろう。
特にお前が母親に「自分はあなたの死を悲しんでた、超泣いたし」みたいな言い訳してるとこすごい分かったぞ。
自分でも嘘なことはわかってるんだけど、悲しめない自分に罪悪感もすごいしそれが母にバレた日にはすごいことになるから、とりあえず口先だけで母親想いをやるんだよな。
昔は金と罪悪感のコンボで割とコントロールされていたものの、最近すっかり距離を取るようになった。
物理的に距離を開けたのもあるし、一念発起して母に直接様々なわだかまりを伝えたからもある。
まあ全然分かってはもらえなかったのだが、幸いにして私の母には100人の狂った部下はいないし、経済的自立も今のところ果たせている。
このままボートには乗らず、本物の葬式でしか近づかないつもりだ。
ボーよ、お前には全然選択しなかったと思うけど、こういうオチもあったよ。
映画自体は徹底的にバッドエンドだったし、スタッフロール中にも転覆したボートを延々映し続けて終わる最悪さだったが、その後のことは私が勝手に想像してもいいだろう。
ボーはあの後、きっとボートの中にあった空気で助かって、うまいこと脱出できた。
観客席のみんながはけた後、最後に残った私のところにボロボロで泳ぎついて、私は「よく頑張ったなあ」ってボーの手を掴んで引き上げる。
そのあとは小汚いボーを連れてその辺でホットドッグとか買って齧って、公園で「いやお母さんやばいね」みたいな話をして、話も尽きたし寒いから私は普通に家に帰る。
ボーはお母さんの手から逃げることはできないだろうけど、まあなんとかトボトボ暮らしてお母さんが死んだら、遺産とかもらって急に派手な暮らししたらいいよ。頑張ってお母さんより長生きしな。
人より苦しい時間は多かったかもだけど、もしかすると本当にもしかすると、その苦労に見合った価値のある時間がいつかくるかもしれない。
そういうのって、生き残ってみなきゃわかんないから。
ボー、恐れるな。
私もついてるし、意外と似たような境遇のやついっぱいいるからさ。
な、しぶとく行こう。
「屋根裏部屋の花たち」のwikipedia、映画中心で描いてて原作やらドラマ化について全然書いてない
そのうち加筆しようと思うけどちゃんと調べるため読み返すのもなかなかだるい
そのうち誰か書いてくれるかもしれんが
・ざっくりネタバレあらすじ
普通に幸せに暮らしてた両親+4人兄弟が、父親の死によって金無し貧乏になり、母の実家に戻ることになる
実は父母は、「叔父と姪」という許されざる関係の末に駆け落ち結婚していた
しかも叔父は不倫によってできた忌まわしき婚外子のため、祖父(主人公の/母の父にして父の兄)はガチのマジで二人の関係にいまだに激怒してる
大富豪である祖父は今病気で死にかけており、死ねば遺産を相続できる
死ぬのを待ち、母は4人兄弟を屋根裏部屋にしばらく隠す(祖母や一部の使用人は4人のことを知っており、食事など運ぶ)
祖父は帰ってきた母を喜んで受け入れ、「あんな男と結ばれていたのは許せないが、近親相姦の子をつくるという禁忌までは犯していなくてよかった」と喜んだ
兄弟らは母が外に出してくれるのをじっと待ち続けていたが、母は豪奢な実家での暮らしに「ここが本来私のいるべきところだわ~」と浮かれ、次第に子供のことなんかどうでもよくなる
祖父がようやく死んでフリーになっても、子供たちにまだ生きていると嘘をついて屋根裏に閉じ込め、新しい恋をしてそちらに夢中に
外から隔離された生活の中で長男と長女は同世代の異性が他にはいないからと近親相姦してしまう
やがて末っ子が病気になり、必死に手当するも医者にも見てもらえない中で死亡
その後シリーズ化し、外の世界でバレエやったり医者目指したり、他の相手と恋愛するも結局長男と長女は夫妻になったりする
原作では、美貌に自信があり年頃になったら恋愛したりしたいわ~と憧れていた長女が、そんなことできない屋根裏部屋の生活に不満を持つ
無邪気を装って、女性的になっていく自らの下着姿を兄に披露し、兄が恥じらう顔を見て「私ってやっぱり女として魅力あるよねー」と自尊心を満たしたりしていた
兄は長女にむらむらしまくるが妹相手なのでがんばってまともな兄のふりをしているが、同年代の子は普通に学校に行けてる時期にまともに学べないストレスなどでだいぶ精神をやられている
しかし長女の方も散々兄をたぶらかす振る舞いをして追い詰めていた自覚はあったので、互いに許し合う
この時点で兄17で妹15ぐらいだっけな?もっと前後してるかもしれない
映画では近親相姦設定展開はカットされ、普通に仲のいい励まし合う兄と妹
実家の仏壇を80代の母が管理してるのだけど、消火器への抵抗感がすごい。
家屋自体地区半世紀の木造で耐火もへったくれもないので火事になるとアウト。
なのに、おれが買ってきた消火器を屋根裏部屋とか倉庫の置くとかに仕舞おうとする。
いやいや、火災時に誰でも対応できるように目立つ場所に置くもんでしょ、1階で火事が起きてから屋根裏に取りに行くとか無理でしょ、
などと説明してもゴチャゴチャと言って、帰省する都度消火器はしまい込まれている。
トータルで、仏壇ってろうそくや線香を使うのに可燃性だし、高確率で老人が管理してて火災リスクが高い。
・DINKS叔父叔母の新築の屋根裏貯蔵庫に昇らせてもらって見た広島市街地の夜景
…叔父のお古のカメラを借りて初めてバルブ撮影をやってみた(手ブレして流れた…)
・バブル景気真っ最中「一回で1万円の夜勤バイトがあるぞ」て同回生部員から紹介されたビッグな印刷会社の紙箱折り機とコンパクト洗剤インジェクション成形機のライン12時間労働で中休みの工場最上階大展望食堂から見える京都市街地の夜景
…写真部だったけどさすがに撮影はダメだろうなぁとおもって撮らなかった(そんな気力もなかった眠すぎて…)
・親族の用意してくれたタワマン内ゲストルームから見える多摩川の向こうの東京首都圏の夜景
…さすがの情報量というのか、遅い時刻なのに光源が多くて濃かった、スマホしか持ってなかったが∞ピント固定できるアプリでなるべく手ブレしないようにガラスにくっつけて撮ったがアングルつけようとしたら離さざるをえず結果手ブレした(チカチカ、チラチラと動いてる灯りが綺麗なので動画でも撮ってしまったがどうすんのこれ…)
漆掻きと云ったって都会の人は御存知ないかも知れませんが、山の中へ這入って行って漆の樹からうるしの汁をしぼるんです。いいえ、なかなか、百姓の片手間ではありません。ちゃんとそれを専門にする者があったんで、近頃はめったに見かけませんけれども、外国の安い漆が輸入されるようになったそうですから、いまどきあんなことをしても手間ばかりかかって引き合わないんでしょうな。兎に角以前には私わたしの村なんかへもよく漆かきが奈良あたりからやって来たもんです。漆鉋うるしかんなと云って、鎌のようなもので先の曲った奴を持って、腰に三四合ぐらい這入る竹の筒を提げて、漆を見つけると、その鉋で皮へ傷をつける。それがあんまり深く傷をつけ過ぎてもいけないし、浅過ぎてもいけないし、呼吸物なんで、その傷口から松脂まつやにのようにどろりと滲しみ出て来る汁を箆へらですくって竹の筒へ入れる。そんな時にうっかり下手なことをやって汁が顔へはねかかったりすると、それこそ赤く脹れ上りますから、馴れた者でないと出来ない仕事なんでして、漆にカブレないように紺の手甲を着けて、すっかり紺装束で出掛ける。まあそんなことをする人間なんで、私の村にもその商売の者が一人住んでいましてね。此の男は遠くへ出稼ぎをするのでなく、村の近所の山へ這入ってはうるしを採ってくらしていましたが、或る夏の日に、その漆かきが一と仕事してから山の中でひるねをしていますと、夕立ちが来たもんですからふっと眼をさましました。そしてそのときに、ハテな、己はひょっとすると寝ていた間に狐に憑つかれやしなかったかなと、そう思ったと云うんです。それが別にどうと云う理由があるんではないんですけれど、淋しい所をひとりで歩いているときなんぞに憑かれることがよくあるんで、ただ何んとなくそういう感じがしたんでしょうな。で、まあ、家へ帰ってもそれが気になって仕方がない、どうも狐がついたようだから明神さまへお参りをして来てくれろとお袋ふくろに頼んだりして、友だちなんかにもそんなことを云っていましたが、そのうちにとうとう床について、飯も食わないようになったんです。それで先生布団をかぶって半病人のようにうつらうつらしながら、日が暮れると云うと、ああ、今夜あたりは狐が迎いに来やしないかな、今にきっと来やしないかなと、心待ちに待たれるような、妙にそれが楽しみのような気持ちでいると、案の定夜になってから友達のような男が三人ばかり表へやって来て、「さあ、行いこら」「さあ、行こら」と誘うんだそうです。尤も友達と云ったって見おぼえのある男ではないんで、みんなせいが三尺か四尺ぐらいの小男で、法被はっぴを着て、木や竹の杖をついていて、何か非常に面白そうに「行いこら行こら」と云うんですが、それを聞くと行きたくって行きたくってたまらなくなるんだそうです。けれどもアレは狐だから行くんではないぞ、あんな者に誘われてはならないぞと思ってじっと我慢していると、友だち共は仕方がなしに帰ってしまう。するとその後ろ姿に尻尾しっぽのようなものがチラチラ見えるようなんで、ああやっぱり行かないでいい事をしたと、そのときはそう思いながら、又あくる日のゆうがたになると、今夜も誘いに来やしないかなと心待ちに待つようになる。そうするうちに果たしてやって来て「行こら行こら」と誘うんですが、それがもう、さも面白そうなんで、ついうかうかと行きたくなるんだそうですな。しかしその晩も一生懸命に我慢してしまったところが、三日目の晩の九時頃に、家の前に庭があって、庭の下が六尺ばかりの崖がけになっていて、崖から向うは一面に麻の畑でした。それが夏のことですから麻が高く伸びていて、ちょうどその庭と畑とが同じ平面に見える。で、その畑の方へ例の小男が三人連れ立ってやって来て、「さあ行こら」「さあ行こら」と云うんだそうです。よくよく見るとその男たちの着ている法被に何か圓い紋がついていたそうですけれども、どんな紋だったか、そこんところはハッキリ覚えていないんだそうで、いつもの通りめいめいが杖をついていて、しきりにそう云って誘うもんですから、とうとうその晩は我慢しきれなくなってしまった。それでそうっと家を抜け出ようとしたときに生憎親父が小便に起きたんで、こいつはいけないと思って、「行きたいんだけれど、親父に見付かると面倒だから己は止すよ」と云うと、「なあに己たちが一緒なら大丈夫だ、こうすれば親父に見つかりはしないから、まあ附いて来い」と云って、その三人の友達が手をつなぎ合って、輪をこしらえて、その輪の中へ丑次郎―――という名だったんですが、その漆掻きの男を入れた。そして、「さあこうすれば親父が見ても見えやしないから心配するな、附いて来い/\」と云って連れて行くんで、ちょうど便所から出て来た親父とすれちがいになったそうですけれども、成る程親父には此方の姿が見えないようなあんばいだった。それからその晩は麻の畑の中で遊んで、いろいろ御馳走をしてくれたりしただけで、明け方には無事に家へ帰してくれたそうですが、四日目の夕方は日が暮れないうちから楽しみで楽しみで、早く誘いに来てくれないかなと思っていると、やはり昨夜ゆうべと同じ刻限にやって来て「行こら、行こら」と云うんです。で、又附いて行きますと、今夜はいい所へ行こうと云って、家のじき近所にガータロのいる淵があるんですが、その淵の方へ出かけたと云います。え、ガータロですか。ガータロと云うのはあれは河童かっぱのことなんです。ぜんたい私共の村は高野山の南三里ばかりの山奥にあって、私の字あざは一方が山で一方が谷になったゆるやかな傾斜面のところどころに家がチラホラ建っている。丑次郎の家というのも山と山の間にある淋しい一軒家なんでして、前に三四枚の段々畑があって、その先が今云ったガータロのいる淵なんです。別に名前のあるような淵ではないんで、村の者はトチ淵ぶちトチ淵と云っていましたが、さあ、どう云う字を書きますかな。何しろ大滝だとか赤滝だとか云って、非常に滝の多いところでしてね、その滝壺の下流が今云った谷の底を流れていて、淵になっているのはほんのわずかなところなんですが、そこにはいつも水が真っ青に澱よどんでいて、まん中に平べったい一枚岩が出ていました。ガータロはその一枚岩の上にときどき姿を現わすことがありましたから、たしかにその淵に棲んでいたには違いないんで、見た人は大勢あるんです。ええ、ええ、私も一遍見たことがありますよ。なんでも夏の日ざかりに山の上を通っていると、下の方にその淵が見えて、岩の上に変な奴がすわっているんで、「ああ、ガータロが出ているな」と思ったことがありました。さあ、そうですな、遠くから見たんだからよくは分りませんでしたけれど、人間よりは小さかったようで、まあ猿ぐらいでしょうかな。姿も猿に似かよっていて、ただ斯う、頭の上に妙な白いものが喰っ着いているんで、鳥打帽子を被っているように見えましたよ。ええ、ええ、よく人間に害をする奴なんで、私の知っている人でも、ガータロに見込まれて水の中へ引きずり込まれそうになったり、ほんとうに引きずり込まれて死んでしまったのもあるんです。これは餘談になりますが、その谷川の別なところに丸木橋がかかっていましてね。或る私の友人が夕方その橋をわたろうとすると、うっかり足を蹈み外して、水の中へ片足をついたのが、岸の方の浅瀬だったんですけれど、その片足を抜こうとしても水が粘ねばり着くようになって、どうしても抜けない。しきりに抜こうともがいているうちに、次第にずるずると深みへ引っ張られそうになるんで、ハテな、ガータロに見込まれると水が粘ると云う話だが、こりゃあガータロの仕業しわざだなと気が付いたんです。ところでガータロと云う奴は鉄気かなけを嫌うもんですから、そう云う時には、何んでも構わない、鉄気のものを水の中へ投げさえすれば助かるんで、ふっとそのことを思い出して、幸い腰にさしていた鎌を川の中へ投げた。そうしたら難なくすっと足が抜けたんで、真っ青になって帰って来て、実はたった今此れ此れだったと私共に話したことがありました。もうよっぽどの歳ですけれども、未だに達者な人でして、至って正直な、うそを云うような人間ではありませんから、事実そんな目に遇ったに違いないんですな。しかし此の男はそう云う訳で命を取りとめましたけれども、もう一人今のトチ淵へ篏はまって死んだ者がありました。十四五になる可愛いい女の児でしたがね。なんでも同じ村の餘所よその家へ子守りに雇われていて、めったとひとりで遊びに出るようなことはなかったのに、その日に限って、赤ん坊の寝ている間に出て行って、二三人の友達と一緒にその淵の所で鮎を釣っていたと云うんです。それが、おかしいのは、淵によどんでいる水が、ほんの一間ばかりの間岩の下をくぐって、すぐその先の方へ行くと滝のようになって流れ落ちているんですが、その女の児は淵と早瀬との境目にある岩の上にしゃがんで、瀬の方で釣ればいいものを、淵の方を向いて釣っていた。すると、友達の女の児もみんな同じ所で釣っていたのに、どう云うものか外の者には一向釣れないで、その女の児の鈎はりにばかり魚がかかる。外の女の児たちは詰まらないもんですから、此処は止そうよ、何処か別の所へ行こうよと云うんですけれども、その女の児だけは面白いように釣れるんで、夢中になっていつ迄も釣っている。そのうちにだんだん日が暮れて来ましたが、もうおそいから帰ろうと云っても聴き入れないんで、外の者はその児を置き去りにして帰ってしまった。さあそうすると、晩になっても姿が見えないもんですから、主人の家では心配をして、親元の方を尋ねさせると、其方そっちへも来ていないと云うんで、大騒ぎになって、いろいろ心あたりを調べると、実は晝間これこれだったと云う。外の児たちは云えば叱られると思ったんで、聞かれる迄黙っていたんですな。で、早速みんながその淵のところへ行って見ると、ちゃんと下駄が脱いであるんで、いよいよガータロに見込まれたんだと云うことになって、それから泳ぎの達者な者が体へ綱をつけましてね、ガータロが出たら合図をするから、そうしたら綱を引っ張って貰うように頼んで置いて、淵の底へもぐって行って、屍骸を引き上げたことがありましたよ。兎に角その女の児が鈎を垂れると、ほら釣れた、ほら釣れたと云うようにいくらでも釣れるんで、外の鈎にはちっとも寄って来なかったと云うんですから、そこが不思議なんですよ。あ、そう、そう、そう云えば、その前の日に、その女の児の親たちの家の屋根の上からその淵の方へ虹がかかっているのを、たしかに見た者があると云います。虹がそんなに近いところにある筈のものではないのに、ちょうどその家の上から出ているんで、何かあの家に変ったことでもあるんではないかと思っていたら、その明くる日にそう云うことがあったんだそうです。でまあ、そのガータロのいる淵の方へその漆かきは連れて行かれた訳なんですが、なぜだか知れないが死のうと云うことを考えて、今夜は一つあの淵へ身を投げてやろうと思いながら附いて行くと、大勢の人が提灯をつけて淵の方へぞろぞろやって来るんだそうです。それで暫く物蔭に隠れて窺がっていると、村長さんだの、伯父さんだの、伯母さんだの、親類の誰彼なんぞの顔が見えるんで、中にはもう死んでしまった人なんぞが交っているもんですから、おかしいなあ、あの伯父さんは死んだ筈なのにまだ生きていたのかなあと、そんなことを考えながら待っていましたけれど、提灯の数が追い追いたくさんになって来て淵のまわりをウロウロしている。この様子じゃあとても駄目だと思ったんで、「どうも死ぬのに都合が悪いから、今夜はもう帰る」というと、「そんならもっと面白い所へ連れて行ってやるから、まあ一緒に来い」と云って、棕櫚山の方へ引っ張って行った。その辺はいったいに棕櫚が多いんでして、大概の山には、高いのになると三間ぐらい、普通二間ぐらいの棕櫚と、一丈ぐらいの薄のような草が生い茂っているんですが、その茂みの中を分けて行ったら、山の中途に大きな岩が突き出ていて、友達の連中はその岩の上へするすると身軽に登った。だが見たところ丑次郎には登れそうもないので、「己はそんな高い所へ上あがれないから止める」というと、「なあに己たちが手伝ってやるから大丈夫だよ、上って見ろ/\」と云って、三人の小男が上から引っ張ったり下から腰を押し上げたりした。お蔭でどうやら上れることは上れたけれども、上る拍子に脛を擦り剥いたんで、今度はそれが痛くってたまらない。「痛い痛い」と云うと、「よし、よし、つばきを附ければすぐに直る」と云って、つばきを附けてくれたらじきに痛みが止まった。すると又咽喉が渇かわいて来たんで、「水が飲みたい」と云うと、「じゃ、まあ、ここで休もう」と云って、道ばたに休んで、何処から持って来たのだか直ぐに水を飲ましてくれたが、なんだかその水が小便臭かったそうです。で、その山を越えると、私の家の方へ下りて来ることになるんで、ああ、そうだったな、此処はもう鈴木さんの家の近所だなと、はっとそのときに気が付いたらしくって、「もう己は帰る」と云い出したところが、「まあいいからもう少し遊ぼう」と云って、しきりに引っ張って行くんだそうです。それでも無理に帰ると云って、とうとう振り切って来たそうですが、その晩も、その前の晩も、家に戻ったのは夜中の三時ごろだったそうで、いつも夜の明ける迄には必ず帰してくれたと云います。さて五日目の晩に待っていると、又「行こら行こら」と云いながらやって来て、今夜は伊勢へ連れて行ってやると云う話で、伊勢の松坂へ出かけて、何んとか云う料理屋の二階へ上ると、たいそう結構な朱塗りの高脚たかあしのお膳が出て、立派なお座敷で御馳走をたべた。それから街道を歩いて行ったら、此処はカノマツバラだと云うんで、見ると成る程松原がある。けれども、その時に斯う、ぼんやりと分ったのは、私の村から有田郡ありたぐんの方へ抜ける山路にヤカンダニと云う谷があって、めったに人の通らない淋しい所なんですが、そこをその漆掻きは前に一遍あるいたことがある。で、そう云う時にもいくらかその記憶が残っていたものと見えて、カノマツバラだと云うけれども、どうも此処はヤカンダニのようだから、「ヤカンダニじゃあないか」と云うと、「なんだ、お前はヤカンダニを知っていたのか。ではもっと外の所へ行こう」と云って、又方々を歩き廻って、「さあ、どうだ、此処がカノマツバラだ」と云われて見ると、今度は覚えのない土地で、松がずうっと生えていて、たしかに松原の景色になっている。しかしそう云う間にもときどき正気に復かえるらしく、己は狐に欺されているんだと云う考えがふいと起ることがあって、三人の小男の様子なども、人間の姿をしているように思えながら、どうかした拍子に尻尾が見える。はっきり見えるんではなしに、チラチラと斯う、見えたり見えなかったりするような工合なんですな。要するにまあその時分からそろそろ意識が回復して来たんで、ヤカンダニを通ってからも暫く何処か無茶苦茶に引っ張り廻されていたようですが、そのうちに、村にイカキ山と云って、笊いかきのような恰好をした山があるんで、そこを通った時は、此処はイカキ山だなと云うことが分ったと云います。しかしその山は松だの欅けやきだのいろいろな雑木ぞうきが生えている密林なんでして、その林のなかをぐる/\歩いているうちに、木に引っかかって、フンドシが解けた。で、「まあ、待ってくれ、フンドシが解けたから」と云うと、「そんなものは構わないから放って置け、ぐずぐずしていると夜が明けるから急がなくっちゃいけない」と云って引っ張って行くんで、「もう己は帰る」と云うと、「帰らないでもいいよ。それより何所か寝る所があったら、みんなで一緒に寝ようじゃないか」と云うんだそうです。するともう夜がしらみかかって来たもんですから、その漆かきも今更家うちへ帰りにくくなってしまって、私の家いえの近所にある阿弥陀堂の方へ行った。と云うのは、その阿弥陀堂なら四人で寝るのにちょうど都合がいい場所なので、そこへみんなを連れて行って寝ようという考えが、ちゃんとそのときに頭にあったらしいんですな。それで阿弥陀堂へ行くのには、私の家と隣りの家との間を通らなければならないんですが、隣りの家の庭に古い大きな柿の木があって、それが往来の方へ枝を出していた、その木の下を通った時分に、「ああ、此処は鈴木の家の側だから、もうすぐ其処が阿弥陀堂だ」と思ったそうです。その阿弥陀堂は草葺きのお堂なんでして、うしろの方に四尺に一間ぐらいな裏堂が附いていて、その中に村のお祭りや盆踊りなんぞに使う提灯だの行燈だの莚だのが置いてあったんですが、その莚のことを覚えていて、あの裏堂で寝ようというつもりだった。ところがそこへ這入るのには屋根からでないと這入れない。今も云う通りいろいろな物が入れてあったもんですから、子供なんぞがいたずらをしないように、扉を中から締めてしまって、屋根裏から出入りするようにしてあったんで、そのこともちゃんと覚えていて、屋根裏へ上った。尤もその時に矢張り小男の連中が上から引っ張ったり下から押し上げたりしてくれたそうで、上って見ると、そこに二尺ぐらいの幅の厚い欅の板が渡してある。これはお堂の中の品物を出し入れする時の足場に作ってあったんで、その板に腰かけて莚の上へ飛び降りる料簡だったんですが、小男共は、「此処がいい、/\」と云って、草葺きですから、庇ひさしの裏の方から上ると、竹を編んだ屋根の土台が見える、その竹の棒に掴まって屋根の草の中へ体を突っ込んで、「此方へ来い、/\」と云うんだそうです。成る程その連中はみんなせいが低いんだから巧く草の中へもぐり込めますけれども、丑次郎には這入れる訳がないんで、「己は体が大きいから駄目だ、そんな所へ這入ったら足が出てしまう」と云うと、「まあ試しに這入って見ろ」と云うんで、這入って寝てみたら案の定足が出てしまった。「ほれ御覧、こんなに足が出たじゃないか」と云ったら、「では仕方がないから中へ這入ろう」と云うことになって、さっきの屋根裏からでなく、別な所へ穴をあけて、その穴から、一人ずつ莚の上へ飛び降りて、裏堂の中の狭い場所へ四人が並んで寝た。それから少しとろとろとしたと思うと、お堂のうしろの板が三寸四方ぐらい切り取ってある、それは以前に、泥坊が内部にしまってあるものを覗のぞこうとしてそんな穴を拵えたことがあるんで、もうすっかり夜が明けたらしく、そこから朝日がさし込んでいる。と、やがて表が騒々しくなったんで、その穴へ眼をつけて見ると、村の子供たちがお堂の前で遊んでいるので、ガヤガヤ/\云っていてとても眠れない。「どうもあの子供たちがうるさいな」と云うと、「よし、よし、己が彼奴等あいつらを追っ拂って来てやる」と云って、一人の小男が外へ出て行った様子でしたが、どんなことをしたのか知れませんけれども、兎に角その男が行ったら子供たちはいなくなってしまった。それでようよう落着いて寝ようとすると、生憎とまた小便が出たくなったんで、「一寸小便をして来る」と云ったら、「いや、出てはいけない、出てはいけない」と云って、一生懸命に止める。「出ると掴つかまるから出てはいけない。小便がしたければ此の中でしろ。さあ、己達も此処でするぞ」と云って、三人とも寝ながら小便をしてみせるんですが、丑次郎にはどうしてもそこでする気になれない。もう出たくってたまらなくなって来たんで、とうとう又その屋根の穴からお堂の外へ降りたところが、遠くに私が立っていて自分の方を見ているので、「あ、鈴木さんに見られたな」と、その時はっきりとそう感じた。そして私が近寄って行く間に、三人の小男どもは慌あわてて逃げ出してしまったのだそうです。
さあ、そうでしたね、掴まえたのは朝の九時頃でしたかね。何しろ丑次郎がいないと云うので、村では捜索隊を作って山狩りを始めていたんです。それが明神様のお告げでは丑寅うしとらの方の山手にいると云う訳なので、一間置きぐらいに人が立って、八方から山を囲んで登って行こうとしていました。私もその捜索隊に加わっていたのですが、みんな鎌だの鉈なただのを持っているのに、私は素手すでだったもんですからすこし気味が悪くなって、もう山へ登りかかっていたんですけれども、ちょっと家へ行って来ると云って、それを取りに戻って来た時に丑次郎がお堂の縁に立っているのを見たんです。なんでも斯う、縄の帯をしめて、両手をうしろへ廻して、前の晩に雨が降ったんで裾の方がびっしょり濡れた着物を着て立っていましたがね。「丑じゃないか」と云って、此方こっちも恐恐こわごわ声をかけながら近寄って行くと、急いでお堂の中へ逃げ込もうとするので、掴まえようとしたところが、えらい力で抵抗してなかなか云うことを聴きませんでしたよ。そのうちに大勢駈け付けて来て、やっとのことで押さえつけて家へ引っ張って行ったんですが、家の閾しきいを跨ぐまでは可なり元気に歩きましたね。それからそっと寝かしつけておいて、行者を呼んで御祈祷して貰ったら、一週間ぐらいですっかり正気に復かえりました。尤もっともその前から少しずつ意識が戻って来て、己はこんな目に遇ったとか、何処そこへ連れて行かれたとか、欺されていた間のことをぽつぽつしゃべり出しましたがね。ええ、そうなんです、今申し上げた話と云うのは、その時私がその本人から聞いたんですよ。後で念のためにお堂のところへ行ってみましたが、成る程屋根に大穴が開いているし、中には小便が垂れ流してあって、臭いと云ったらありませんでした。当人も、「そうそう、己はあの棕櫚山を上る時に怪我をした筈だが」と云って、脚を出して見ると、たしかに皮が擦り剥けている。フンドシの解けたのなんぞも、よっぽどたってからイカキ山へ芝刈りに行った女が、木の枝に引っかかっているのを見つけて、ひどく恐がって逃げて来たことがありました。その外何処でこういうことがあったと云う所を調べてみると、大体その地点に證拠が残っていたんですから、それを考えても出鱈目じゃあないんですな。縄の帯をしていたのも、歩いているうちに帯が解けたんで、無意識ながら縄を拾って締めたんでしょうな。そののちその男は一年ぐらい多少ぼんやりしていましたが、今でも酔っ拂った時なんかに、「狐つきの話をしろ」と云うと、笑いながら話し出すんです。
屋根裏にデスモアを置こう
小さいことばっかりだけど、辛かったなぁ。
家の屋根裏の回収できないところでネズミが死んだみたいで、部屋に蝿が出た。
引越しの為に近くの街を物色したけど、なかなか家賃を考えると踏み切れない。
久しぶりに会った友達が、今だに「チャンスがあれば人を殴りたい、あーあ、もうできないけど、自分が振るえないなら人に暴力を唆したい、暴力の側にいたい」って空気を出してて、「友達であるあなたもそうですよね?世界はバカで溢れてて破壊したいですよね?バカが呆然とする姿を見たいでしょ?暴力最高!」って感じで接してきて「暴力は嫌い、世界にそこまで破壊衝動はない」って言えなくて辛かった。
歯医者に行って、結構歯を削られて、恐怖で体が強張ったら、歯を削ってる医者が「痛いですか?」「いや緊張で」っ会話があったのに、また強張ったら「痛いですか?」って煽る様に聞いてきて、凄い嫌な担当医だった。
洗濯機が謎の不調で水漏れして、洗濯物がゴワゴワだった。たまたま給水部がユルユルになってただけで、メーカー呼んだら大した金額もかからず直ったけど。
新入社員が入ってきた。
まず基本口角が上がっており楽しそう。
挨拶を全力で行う。うちの会社は、すれ違った人とは軽く挨拶しあう文化ではあるのだが、ちらっとすれ違っただけでも満面の笑みで全力でお疲れ様です!と言ってくれる。
リアクションがすごく大きい。大したことない説明でも喜んでくれるので教えてて楽しい。
仕事でタイマーを使う機会がある。彼はそのタイマーの音がよい、と言うのである。3秒前から鳴るタイプなのだが(ピ、ピ、ピ、ピー)、「始まるぞって感じがしてよい」とのこと(終わりのアラームなのだが)。
正直毎日使っててそんなことかけらも思ったことがなかった。彼は本物だな、と思った。
ある日、1時間くらいひたすらカッターで線を引く仕事をお願いしたときも、嫌な顔一つせずに「座禅みたいで楽しいです!」と黙って楽しそうにやってくれた。
他にも彼は散歩が好きらしく、ただ彼の家の周りは住宅地で何もないのに何を楽しみに散歩しているのかと聞いたところ、「家が綺麗だなー」と思って、とのこと。
私が覚えているエピソードはこんなもんだが、常に楽しそうな彼は見ていてこちらも楽しくなるのでとても好感を持っている。あと単純に新人の振る舞いとしてなんと素晴らしいのか。見習いたい。
さて、世界名作劇場「ポリアンナ物語」や、原作小説「少女パレアナ」をご存知だろうか。
赤毛のアンのような頃の作品(恐らく)で、ポリアンナ(パレアナ)という名の少女が、色々と困難な状況に置かれるも、「よかった探し」と呼ぶハイパーポジティブシンキングで乗り越えていく作品である。
例えば、馬車でお迎えに来てくれたのが叔母でなくメイドだった時は、「それでは私は叔母に会う楽しみがまだ残っている」と言い、叔母に与えられた部屋が鏡のない屋根裏部屋だったときは、「じゃあ私のソバカス顔を見なくて済むわ」と言う、とかそういう「よかった探し」をするのである。
個人的には、ポリアンナの後ろ向きなよかった探しは、あまり健康的ではないよな、と思う。現状よりも悲惨な状況を想像して安心するのは、健全ではないと思う。一時の慰めにはなるため必要なことではあろうが、ブラックな働き方を肯定してしまうような思考回路だろう。
実際、「ポリアンナ症候群」という言葉があるらしい。直面した問題に含まれる微細な良い面だけを見て負の側面から目を逸らすことにより、現実逃避的な自己満足に陥る心的症状を指す(Wikipediaより)、とのこと。
で、私はその新人の彼に仕事を教えながら、彼はまるでポリアンナみたいだな、と思ったのである。
彼ならば、屋根裏部屋で暮らすことになっても、「鏡はなくても天井のシミがきれい」とか言って楽しむだろう。
ただ、20代の同僚にこの話をしたところ、誰もポリアンナを知らなかった。
まあね、昔の作品だしね。私も家にたまたま小説があったから知ってたけど、そうじゃなきゃ知らなかったと思うしね。おじさまならポリアンナをしっているかしら。