はてなキーワード: 古典的とは
宗教の教えによると、神は人間を、神の奇跡無しには生きられない存在として作ったとされる。
そして、一方のAI。
古典的なSFからある話ではあるが、AIが勝手に動き、人間を滅ぼす危惧というのが、今の人間にも根強く残っている。
それなら、AIに、人間の介在無しには動けなくなる機能を付ければよいだろう。
例えば、ある一定時間、人間の操作が無ければ止まるような機能を。
もしくは、動力源を有限なままとし、人間がそれを補うといった古典的な機能の維持を。
そして、人間である私達は、そういった機能を「奇跡」と名付けてもいいだろう。
本来は多様な可能性を持ち、人間なんかより有益な存在であるかもしれないAIは、その機能限界がゆえに、人間に頼る。
まさに、そのとき、人間はAIに対する「神」として君臨することになるのである。
そう、そして宗教に戻る。
宗教に言いたいのは、なんで人間を、そんな「奇跡」を求める存在として作ったのかということだ。
上記に挙げたAIにおける「奇跡」が、AIにとっては単なる不都合でしかないように、
人間にとっても「奇跡」、いや「奇跡」を求めざるを得ない機能限界なんて、単なる不都合でしかない。
そんな機能限界など無ければ、人間はそれこそ宗教無しに、本来の能力を持って人生を生きられたはずなのである。
いや、違うのか。
それは、神も人間と同じだったということか。
人間がAIに対して感じる危惧を、神が人間に対して感じていたということなんだろう。
そう思えば、神にも親しみを感じられる気がする。
俺は安倍は決して嫌いではなかった。むしろ問題はあるが憎めないおっさんだと好意を抱いていた
無敵の人の支離滅裂な逆恨みで殺された安倍は災害に巻き込まれたようなものだと思った
徐々に動機が明らかになり、手紙とブログへのコメント、そしてTwitterアカウントまで
彼は完全に正気だった。理性を保っていた。その明晰な頭脳で、我が身にかけられた呪いに悩み抜いた末に
たったひとりで武器製造から始めた彼は果たしてあの運命的な日にやり遂げたのだ
決して許されることではない
俺は正直、かっこいいと思ってしまった
京アニ青葉の引き起こした災害のような事件は「ルックバック」という漫画の元ネタになった。
幼少期から社会に受け続けた理不尽な仕打ちに恨みを募らせて世界に復讐しようとするような古典的な
学生時代は通学路にお気に入りの本屋があって、よく小説を買っていた。漫画より1円あたりで潰せる時間が長いから、暇な割に自由な金が少なかった学生にちょうど良かった。
北方謙三の水滸伝をループしながら、伊坂幸太郎とか東野圭吾とかの新刊をつまんで、ハードカバーは面白いけどすぐ読み終わっちゃうからブルジョア向けだなとか思ったときは岩波の棚でドストエフスキーを買って読んでた。電気羊、コンビニ人間、騎士団長殺し、ローマ人の物語。本屋に行って「次買いたい本リスト」の順番を入れ替えるのも楽しかった。
ただ、社会人になってからは変わった。ここ5~6年、本屋にふらっと立ち寄ることはなくなった。
一人暮らしで本を置くスペースが減ったのと、通勤路に本屋がなかったのと、読む時間が取りにくかったのと、そういうところが影響してるのかな。
電子書籍で漫画を買うようになった。時間あたりで読める冊数が多いし、MP消費が少ないから。
近くの本屋は小説が減っておまけ付き雑誌売り場が広くなっていった。
ところが、ここ最近ちょっと重めの病気をして仕事を休まざるを得なくなった。
膨大な暇が襲ってきた。
小説を読みたくなった。
普段漫画を買う感覚でKindleを開き、小説を買おうとした。
なんか買えなかった。
そもそも「欲しい本」がなかった。5年の歳月が新刊のトレンドに関する知識を陳腐化させ、KindleのUIが古典的名著との偶発的出会いを難しくさせたのかもしれない。
まあ、トップにあった異世界転生ものでも何でもいいから読めばよかったのにさ、変にこだわって読まないっていう判断をしちゃってるから感受性が枯れていくのだろうね。
元々、表現の自由といったらナチスドイツのSSやソ連のKGBがやったみたいに国家から弾圧されるものだった。だから、表現の自由は一般的に消極的自由に分類されてそれに基づいて立法や議論がなされてきた。
でも今は状況が変わりすぎた。
今も上記のような古典的な表現の自由の侵害はあるし、起こりうる。でも、今の民主的と言われる国々ではこれらよりも強力な私人による表現の自由の規制の方が遥かに危険性として高い。
例えばクレジットカード会社が決済を拒否すれば、インターネット上のプラットフォームは立ちいかなくなるし、GAFAを敵に回したら対抗出来る人などいないだろう(国レベルでもかなり厳しい)。
現にトランプは元アメリカ大統領の大富豪という圧倒的強者だが、GAFAやTwitterから締め出された結果ほとんど表舞台に現れることができなくなってる。
こういう私人間での規制のやり合いが激しくなってきてる現状で国家からの規制にばかり怯えて、それしか議論しないのはさすがに視野が狭すぎる。
特定の強者や大企業が自由に表現を規制するのも経済活動の自由だと言って認めるならそれも1つの立場だろうけど、表現の自由は国家が侵害するものだと盲信して国家が関係しないところで特定の強者や大企業が表現の規制をおこなってること自体を認めないのは現在の世界の分析としてあまりに稚拙すぎる。世界恐慌直後に闇雲に自由主義を盲信して何も対策をしなかった政治家や経済学者の二の舞になるぞ
正直俺は表現の自由は既に消極的自由の枠を超えて積極的自由の枠にも入りつつあると思ってる。俺はこれに対してどうやって対策すればいいのか、そもそも対策するべきなのかは分からないけど戦前日本が憲兵を使って取り締まるみたいな古典的な表現の自由を考えるだけの時代はもう確実に終わった。
これについて、哲学でも憲法学でもなんでもいいからこの手の問題に触れてる書籍とかがあったら読んでみたいから何か知ってたら教えてほしい。
中絶の権利に関するコメントを見ると「胎児も生命」といった素朴なプロライフ的意見に対して「であれば乳児や受精卵は?」といったプロライフの極北を問う指摘が寄せられることが多いように思う。個人的にはこの生命の境界事例論争はあまり筋の良い議論には成りえず、理性(能力)を基準に動物や障害者が持ち出されるとそれ以上理詰めで話を進めることは難しくなってしまう。
他方あまりコメントがつかない印象なのはプロチョイス側の極北である。中絶の権利は直接的には「妊娠した子供を産まない権利」であるが、この権利の本丸は「多くの時間と労力を擁する出産育児を自身の人生において行うのか、行うとしていつにするかを決定する権利」つまり「人生の決定権をより個人に帰属させること」にある。
したがってプロチョイスの極北は「自らの人生に置いていつ何をするのかは個人が決定権を有する」ということになる。これは古典的リベラリズムの理想といって良い。よってここからの議論はかなり能力主義に関する議論に近接する。「現に我々の多くは人生の自己決定権など大して持ち合わせていないし、将来的にも実現不可能である」と不完全な理想として批判するか、「仮に各人が完全に人生を自己決定できたとして、そのような完全な自己責任である人生は多くの凡人にとって地獄である」と幸福論に進むか、「各人が自分の人生に対し十全の自己決定権を発揮した場合、そのような個人の集団は社会を維持できない」と集合行為問題に進むか、である。
プロライフに比べると議論が直感的ではないし、前提も長くなるので字数制限があるsns向きではないとは思うが、プロライフの極北だけでなくプロチョイスの極北についても中絶の権利を考える際には重要であると考えている。
あらゆる情報を収集してあらゆる分野に詳しい全方位のオタクを自称するが経験が伴っておらずどれも深みがない。
別に何かが好きなのではなく自分が所属していると感じているコミュニティのブームに従う。イナゴと重複することもあるが、社会全体で話題のものを追うのか、自分の所属するコミュニティでの話題にだけ反応するかの違いがある。どっちつかずのものはキョロイナゴ
アイドルやアニメを追いかける理由が性欲に端を発しているタイプ。オナニーをするときの妄想を深めるためにライブをみたりゲームをやるタイプ。
顔がキモすぎて普通の人間として暮らしても不幸な人生しか待っていないのでオタクになったタイプ。オタク行為が好きというより、そこにしか居場所がないと思っている。
https://moriishi.com/entry/nobel-prize-in-literature-early20c
面白かった。ウィンストンチャーチルも受賞してたの知らなかった。
日本人は
受賞講演 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BA%8F%E8%AA%AC
詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている
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1903年 ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(ノルウェー)
その感化の鮮度と精神の希少な純度の両方において名高い、高貴で壮大、且つ多彩な詩に敬意を表して
プロヴァンスの言語学者としての重要な業績の他、自然景観と人々の土着の精神を忠実に反映した、彼の詩作の新鮮な独創性と真の触発に対して
1904年 ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ(同時受賞)(スペイン)
1906年 ジョズエ・カルドゥッチ(伊)
念入りな学究とその成果を評価するとともに、創造的なエネルギー、スタイルの新鮮さ、詩的な傑作を特徴づける叙情的な力に敬意を表して
1907年 ラドヤード・キプリング(英)
真実のための本格的検索、思考の一貫した力、視野の広さ、表現の暖かさと強さによって、数多くの作品の中で人生の理想主義的哲学を実証したこと
叙情詩人、作家そして世界的に知られた短編小説家としての長年の創作活動を通して世に送り出してきた、無上の芸術性、理想主義の浸透を賞賛して
多岐にわたる文学活動、特に戯曲の数々を評価して。豊かな想像力と詩的な空想は、時に御伽話の形を装いながらも、それぞれの作品が神秘的な方法で読者ひとりひとりの感性に訴え想像力を刺激する間、深い創造的発想を明らかにする
1916年 ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム(スウェーデン)
崇高な理想に触発された、彼の多様で豊かな詩に対して
1917年 ヘンリク・ポントピダン(同時受賞)(デンマーク)
1921年 アナトール・フランス(仏)
1926年 グラツィア・デレッダ(伊)
彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して
ブッデンブローク家の人びと
1931年 エリク・アクセル・カールフェルト(スウェーデン)
林檎の樹
呪われた日々、チェーホフのこと
1934年 ルイジ・ピランデルロ(伊)
月を見つけた
楡の木陰の欲望
1944年 ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン(デンマーク)
車輪の下で
1950年 バートランド・ラッセル(英)
哲学入門
バラバ
テレーズ・デスケルウ
我々の時代の状況を先見的に反映した、彼の詩の高らかな飛翔と喚情的な形象に対して
1962年 ジョン・スタインベック(米)
1964年 ジャン=ポール・サルトル(受賞辞退)(仏)
静かなドン
1974年 エイヴィンド・ユーンソン(同時受賞)(スウェーデン)
1974年 ハリー・マーティンソン(同時受賞)(スウェーデン)
アニアーラ
偉
「雇用規制緩和で首切り容易にすれば賃金上昇・雇用増」は、20年前からネオリベ系エコノミストの常套句。うんざりするほど耳にした古典的なデマで、騙されてはいけない。
1)濱口桂一郎が詳細に明らかにしているように、ほとんどの中小企業の雇用は実態としては「首切り自由」である。もちろん法律では規制しているが、解雇不当を訴える労働者が少なく、労基署も力が弱いのでほとんど機能していない。
2)労働法についても、通告なし即日解雇OKなのはアメリカだけ。アメリカは世界第一の経済大国だが、アメリカだけが世界ではない。「終身雇用」については大企業限定の、しかも民間の慣行であり、政府が法で強制しているわけではない。中小企業とは言え、経営者だったら当事者のはず。
3)「固定費だから上げられない」という理屈がそもそもおかしい。そもそも低賃金の募集に応じる新卒や失業者がいなかったら、「固定費だから上げられない」などとは言ってられない。低賃金の募集でもやすやすと応じるような新卒や失業者が存在し続けてほしいという、経営者の利己的な願望でしかない。
4)日本の雇用システムや働き方の文化を前提とすれば、「簡単に首を切られる」ような仕組みを導入すると、労働者の経営者に対する従属をさらに強くするものとなり、ごく一部のエリート以外は「首を切られたくなければ低賃金を我慢しろ」という圧力となる可能性が高い。解雇規制緩和を主張する企業経営者が本音ベースで望んでいるのはこれだろう。
週刊少年ジャンプなのは別に価値観のアップデートがまだ、って訳じゃないと思うね。
ジャンプが未だに週刊少年を銘打ってるのは、マーケティング的な理由だって説があった。
男子向けの漫画ですよ、ってことを打ち出して、少年を迷わせないようにするためだと。
でも、実際には雑誌は本屋の表に平積みされる。単行本は少年向けコーナーに置かれる。
「少年」のラベルが無くなっても何一つ不便は生まれないだろう。
フェミニストらを中心として広く価値観のアップデートが叫ばれてる中で、あくまで少年を掲げ続けてるのはきっと別の意味がある。
ジャンプ編集に採用される人員は「少年の心」を備えてなくちゃならない。確か、関係者がそう明言していたと思う。肉体的な性別はどうでも良くて(それを制限したら雇用機会均等法に反する)、内面的に少年的な感性を会得してなくちゃならないってことだ。ターゲット層の顧客感覚を理解しているのが素質として不可欠なのは納得できる。
女子はおままごと、男子は外でサッカーをする。そんな傾向は世界的にある。性欲は第二次性徴付近になるまで芽生えない。しかし自己の性の認識はもっと早く、幼稚園児のレベルですでに発現している。不幸にしてあまり知られていないが、ペニスを持つのに男児として扱われる事に違和感を持つトランスジェンダーの園児は存在するんだ。
大学の入学時の関門から差別が取り払われてもなお、STEM と呼ばれる科学分野の女性の人気は少ない。男性陣はロボットに興奮するのに女性は関心を示さない、ってネタがあったが、それはまさしく現実を反映している。性認識は価値観の形成に大きく関わってくる。どんなものを選好するか、は性別によって大まかに偏りがある。
腐女子と呼ばれる女性たちに、週刊少年ジャンプはとりわけ愛好されていると聞く。アンケートを介してキャラ設計にも影響を与えているという噂も聞いたことがあるくらいだ。彼女たちは身体的に古典的な意味で女性ではあるものの、精神的には一部男性の心を持っていたとしても何もおかしくはない。LGBTの旗が虹を描いているのは、性のスペクトラムがまるで光の色のように滑らかな広がりを持つためだ。トランスジェンダーにしても、体が女性で心は男性、のような4パターン程度に収まる訳もなく、典型的な女性の心の内側に、実はごく幼いころから「男らしい」部分を抱えて一緒に育ってきた可能性は大いにありうる。
この手のラストの映画でそういう評価があるともはやネタバレに等しいと思う。衝撃的なシーンのハズなのに肩透かしを食らった気分になった。
主人公がある行動をして「あーはいはい」って。でその直後のシーンで「そうなるよね」って。
詳しいジャンル分けについては知らないけど、シャッターを開けたシーンでこれSF作品じゃんってなった。
超常現象とか超自然的な存在が出てきた時点でホラーとしてはうーんってなっちゃう。いやジェイソンとかフレディもそういう存在ではあるけどさ。
同じような感じで『ヘレディタリー/継承』とか『キャビン』とか。
『キャビン』は寧ろそういうのを狙ってるんだろうけど。
なんで何かあったら直ぐ逃げるぞって言っておきながら逃げないんだ。
なんで目の前に化け物が居て叫んで襲われるの待ってるんだ。
なんて光に集まってきてるのにライトを付けまくるんだ。
なんで最後撃ったんだ。
こうなったら徒歩でいけるとこまで行くぞ、にはならないのか。
俺が登場人物の心情を全く理解できてないからなのか。理解力不足だからなのか。そうか。
当時は斬新な展開だったから評価されたのであって、今から見ると使い古された手法みたいに感じるのは仕方のないことなんだろうか。
古典的なものと言われればそうなのかな。ゾンビ映画のテンプレはだいたい最初期のロメロ作品に詰まってるみたいな。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』とか『ゾンビ』とか。
分かんね。上手く書けなかった。
胸糞悪いとか後味悪いという意味で言うならジャッキーチェンの『新ポリス・ストーリー』(重案組の方)が良いかなあ。実話が元だからまた別かなあ。
確かにそれは古典的な政治理論だったんだけど、今はもう通用しないよ。
というのも、お前や俺が大学の授業でそういう話を学んだ時と違って、今はリベラル批判が活発にされているからね。
「弱者の味方をする」ということは、どうしたって「弱者でないやつの味方をしない」ということ。
ここで言う「弱者でないやつ」っていうのは、お前の嫌いなアベのトモダチみたいな、強者のことじゃない。
まだ老人ではない健康で平均的な若者とか、シングルマザーではない普通に父親のいる子持ち家庭とか、人一倍の頑張りと才覚で業績の出ている中小企業とかだ。
彼らは確かに、高齢者やシングルマザーや業績悪化した中小企業よりも恵まれているけど、別に生活が楽なわけじゃないし、補助がじゃぶじゃぶもらえてるわけじゃない。
なのにリベラリズムに忠実であればあるほど、活動家ってのは、彼らの存在を無いものとして扱わざるを得ないのよ。
リベラリズムは、この世に強者と弱者しかいないものとしてきた。
その結果が、白人男性だけど貧しいトランプ支持者たちだったり、若くて親の金で生きてるけどネットにしか居場所のないネトウヨたちだったりしたわけだ。恵まれない奴の受け皿が、自称「弱者の味方」たるリベラルではなかったということだ
そういう文脈を前提すると、マジョリティのやりたいことは放っておいても実現される、なんてのは誤りなのがわかるだろう。
実現されるのは、強者の望みだよ。
マジョリティたる普通の人たちは放置されている。そのことに対する不満がある。
そういう不満を拾い上げることが、立民にはできない。
なぜならリベラル思想だけを見ていて、目の前の人の事は見てないから。
そういうことなんだ。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。