はてなキーワード: 同値とは
国家賠償法1条1項は規定と呼ばれているが、数学に定理があるように法律では規定になっているものが定理と同じような質のものであるのかどうか分からない。
数理科学ではなく数学は一般に難しいと言われているが、法律の規定をするときに、その規定をすることが難しいという見解はきいたことがない。数学では、ある連立方程式を満足するnが
きれいに決まっているということが趣旨であると説明されるが、法律では分からない。仮に分かったとしても実質においてクソ駄文であり、魅力的なところが存しない。霞が関の一部の職員からは
誰も理解できない文章という指摘があるが、全ての職員にいきわたっていない。検察官の山田朋美は、法がないことを認めない。しかし、令和2年の夏ごろに延岡市のあもり橋に出てきて、
こっそりと、だから国にはない、と認めた。令和2年か、3年かは確定しない。
フェルマーの大定理は、 x^p+y^p=z^pと同値である、全部証明しないと意味がないが、ヴェイユは、エベレストのようなもので誰も登れない、支持する道具がないといってるのに対して
青少年が興味を持たない。
数学において、定理は、英語で、THEOREMと言いますが、THEOREMとは、単なる事実、すなわち幾何学的にいうと宇宙の中にあるただのインターセクションではなく
円周上のインターセクションに過ぎないときは定理ではなく事実で、円周および直線上のインターセクションでもない場合は、ほとんど価値のない事実である。
フェルマー予想でも、類似の予想でも、THEOREMと記載されているときは、当該実践数学者が、完全なものとして認めているときで、Lemmaと書いているときは、補題
という定理である。THEOREMのほとんどにはLemmaがついていて、定式化というのは、教科書に存在して当たり前の原理のようなもので、相似変換とか不定方程式が
その例である。数学者はそのような専門知識や事実を教科書に体系化し、様々な定理を確立して最終的に目的に到達します。グリーンタオの定理はそのような論文となっている。
エルデシュ予想と同値であろうということをいってそれに関する偏微分方程式の定理や定式化を多くやって最終的にやっていますがこれは多分、オーストラリアの数学者がやったことで
IMOの過去問題をみると、 n^2+1 であって 2n+√2nよりも大きい素因数をもつのが無限に存在することを示せのような不完全な出題も散見されるが
なんで不完全かというと、 n^2+1が素数になる場合から、 4r+1の形をした素数が無数に存在することを示せという問題と同値になるからで、4r+1の素数が無数に
あるということだと完全無欠で円の問題になるが、 冒頭の出題だと他に汚い解き方があるので、それは一般に公開されている模範解答をみれば分かるが、
ユークリッドだったかなんだかちょっと忘れましたがエジプトで戦争してるときに地面に円を描いていて騎士に、私の円を消すなと言ったら騎士がその85歳の老人を切り殺したという話を
本で読んだことがあるんですがあれは、フェルマーの最終定理の本でしたが、私が散々捨てて最後に残った本がこれというかですね、今となってはギリギリこの種の本がクソなのが露見したもののうちで
まあ形式的で経済的なことを盛り込んでいるという感はあるが、いかんながら、この本には、数学者は、定式化と定理をひたすら書きつけるとしか書いてないですね。補題というのは、
よりいっそう深い定理に導く前提であるくらいにしか書いていない。だからあまり参考にならない。私が人生で経験した科学雑誌だと、こう、最近のニュートンでは、感動する数学、物理って書いてますが
感動なんかしないですね。パスカルの定理は光ってるって書いてるんですが証明は全部省略している。これで誰が読むのかと思いたい。パスカルの定理の証明も書いていないし、
がいちが、いきなりドカーンって出てくる奴がストライキって言ってますがそれが補題で、 ぶわーっていう最終奥義っていってるのがパスカルの定理だと思いますが、そういう技術っていうんですかね
そっちに関する本は人生で読んだことがない。読むとちんぽが立たなうなるからないという説もありますが、ガイチは、毒素(森脇)を含んでるから食ってはいけないって言ってますね
私は数学の有名な問題が円に由来するのかどうかは分かりませんがその辺は数学者が説明しないからどうにもならないのではないか。
以前に増田で存在しないことに関する証明法は存在しないという見解が出たが、高等学校でも例外的に知られている無限降下法という考え方をとりあえず用意しておいて、
それが出てくるようなところまで議論を追い詰めれば、存在しないことの証明法はあったというのがフェルマーの4の場合である。この極めて初等的でエレガントな証明法が発見された
ためにこの分野での華々しい議論が陸続した。しかし、ディリクレやラメやルジャンドルがそれ以降にこの無限降下法を発動したかどうかに関する論文は存在しておらずオイラーが3の場合にした
議論は非常にアクロバティックなものでまだ一般には理解されていない。虚数単位√-1=i の補題6つつきの定理を発表し、無限降下法を発動するというもので幾何学でいうと相当に
難しいことをした観がある。4の場合は非常にシンプルであるため、赤チャートにも回答が掲示されている。しかし、3の場合は幾何学の類推からとてつもないサーカスのような解答になったため、
何が書いているのかにわかに信じがたい、逆に、なんで3のときにはこの回答しかないのか、更に、5,7,11,14の場合は更に難しくなり多くの初等整数論者がこのやり方での
証明を断念したという。サーカスのようなことを初等幾何学ですることがアレフガルトなのか、無限降下法の発動がバラモスなのかはまだ分かっていない。フェルマーの問題は結局、
(x/z)^p + (y/z)^p = 1 が存在しないことと同値とされ、背理法なども動員されたが、GCD=1で、しかも、素数がからんでいるとどうにもならないことは数学者なら一目瞭然だろう。
この表現は、既約表現と素数によって構成される楕円関数の不存在をいうことになるので、とてつもなく難しく、結果は、y=x(x^2-u^p)(x^2-v^p)が複素関数でモジュラーではないという難しい
定式化までいきついたが、そこから先を補完するものはさらに多くの教科書を書かないといけないし、何を出すべきか分からないとして絶望された。
キャラクターの速度の話になると途端に光速度不変の原理を持ち出したり相対論的にはどう解釈できるかみたいな話に持ってく奴らが滑稽でならない。
異世界で相対性理論が成り立ってる保証がどこにあるんだい?科学的物理理論はほとんどの創作で設定として全く織り込み済みではないのだから(結果的には作者もまた常識でものを考えてるせいで現実の物理法則との矛盾がほとんどないような描写しかなかったとしても)聖闘士星矢の能力はジョジョのザ・ワールドと同じとか考えても実にくだらない。それは相対論の仮定のなかでのみ等価と解釈できるってレベルの話でしかないので、異世界同士のキャラ同士の能力が同じ物理法則のなかで同値か論じたところで、そもそも異世界同士なので法則も違うでしょうってしかならんわ
本件で国立大学法人東京大学理学部数学科が主張する発明の要旨とはフェルマー予想の解き方ということに関するものである。発明の要旨は、同定理は結局、哲学上不可能なものの
象徴である。n=3,4、5、7,11,14では証明があるが、それ以上は存在していない。計算機で400万以下の素数については成立するという結論がある。その次に、61%の
正則素数で成立するというところにまで至り、これは完全証明ではないが、同定理が、正則素数を因数に持つ全ての自然数で成立することを示し、すさまじい結果として称賛された。これは
全部証明ではないが、この定理の山をぶち崩す大きな結果となった。400万以下の素数のみならず、どうやら、ほとんどの自然数で成立するようであるという結論まで至ったが、なお、39%
の素数は解明されずに残った。反例はないだろうというところまで至ったのであるが、全部証明は発見できなかった。
(x/z)^p + (y/z)^p = 1
を考えて、 この()内を既約表現と呼び、 上の式が光っているため、既約表現やp進群などを研究するとできるのではないかという方向で進行した。 x^p+y^p=z^pも確かに光っているが
1990年代、ゲアハルトフライ、ケンリベット、アンドリューワイルズなどは、上の式が光っていることより、 y^2 = x(x^2-u^p)(x^2-v^p) がモジュラーではないことと同値であるとつきとめた。
しかしその後の着想は困難を極め、ロシアの、コルイバギン、フラッハの超特殊理論を探求していくうちに、ワイルズ独自で、ワイルズしか思いつかない最終的な技を発見した。
飯沼病院でも立野先生は元々ああいう姿ではなかったというかもっと学者みたいな人でそれからなんか財務省財務官みたいな人って異常に頭部が大きいのですがあれは何か
科学的根拠というか実務能力が高い人は頭部が丸くて大きいというのは根拠があるのですか。立野先生も頭が大きいように見えたけれど確かに、発電機にしても飛行機にしてもロケットに
しても、ものが大きいのでそれを作る人は頭が大きいとは思いますが、例えば、コラッツ数列って数論で思考しているから分からないので、数論幾何とか、数論のことを幾何学で考えるように
すれば、Largeになるというだけで、そこの中でしなければいけないというかですね。タオさんはエルデシュの教養があったから、素数と等差数列が融合しているのは∑1/aの中に入っていることと
同値であると言ってやっていったわけですが、そこから先は色々教養がいるし数論幾何や数論の問題を多く解いていないと着想自体ができないので、おーん。
計数工学科の宮ぺち様は、コラッツ数列の問題は計算機にやらせることと同値で、後はなんとか考えればいいといっているし、そういえばワイルズもですね、結局最終的な証明はただの計算機
のアイデアやなかったかと思うのですね。されから東大工学部5号館がぺち様の皇居っていうか、熊谷の家族が住んでいるところだけど、サブウェイ東大工学部5号館っていうのが融合したのも
その理由があるのか?
(1) 勘違いしているが、a^n+b^n=c^n は、 指数が一般のnでしかもこの形のときには該当するものがないという構成の定理であって、Collarzと比較すると、500から開始
して有限回の操作で1にいくが、美しい事実は、 有限回で、2種類の操作で、初期値は全ての自然数であり、結論は1にいくという構成の定理である。
(2) n=3,4のときは、 融合定理などから推測される、 背理法と帰納法を融合させて結論を得る無限降下法という理想的な証明法により確立している。
融合定理とは、素数の中に等差数列ががっつり入っているなどの結論である。そこからの逆算で、背理法と帰納法は同時に機能するだろうと思われたが実際に編み出された。
n=3のときに証明すると、 3の倍数では証明できているので、数が大きいから難しくなるわけではない、自然数のうち、33%は簡単に証明される。
(3) 素因数分解で素数だけでいいという性質をもっているため、 a^p+b^p=c^pが フェルマーだろうとどつめられた。しかし、 pに対する無限降下法が使用できず
裁判官のフェルマーは最初は使用できるだろうといって、真に驚くべき証明を編み出したと余白に書いたが間違いであることが判明した。
定理の結論として、規模が大きい。基本条件がこの形式のときだけでしかも全てのnなので極限的かつ驚愕的である。33%の証明は全部証明ではないので数学界では評価されない。
全部証明の引き金は、スキームの圏とコリヴァギン=フラッハ法という専門知識や着想により得られたが技術的に難解すぎて世界中でも理解できる者がほとんどいない。
(4)18世紀に、61%の正則素数では成立するというイデアル理論が出現したがそれ以上出来なかった。フランスアカデミー科学院は数学的には価値がないと思いながらもクンマーに
賞金を出した。
(5)1950年代に、東大理学部数学科の志村五郎は、 y=x(x^2-u^p)(x^2-v^2) という関数が複素関数論上、modularではないことと同値であると突き止めて専門知識化
し教科書に書いたが、これがmodularではないことの証明はまだアイデアがなく、到達不可能だと思われていた。
多くの数学者がこれを証明するために、p進群、既約表現、代数的サイクルやエタールコホモロジー、楕円幾何学などの研究を進めて行き、様々な教養から推測していったが、
1980年代に、宮岡洋一がマックスプランク研究所にいたときに証明できそうだという発表があったが、欠陥があり失敗した。宮岡洋一は宮岡礼子という数学者と一緒に住んでいる
小さいおじさんで、カタネーゼなどのサッカー選手をみて盛り上がっていたが、時期不詳で、もどきなどのガキが、レインボーロードからばあさんにのこぎりをもたせて落としたら、その
のこぎりに当たって殺された。
(6)志村五郎の共同研究者だった谷村豊はこれができないので自殺したが、1993年に、ワイルズが屋根裏部屋でこっそり研究していて、おぺちが、おい、今日の発表はやくしろと言われて
いたので、最初の発表をプレプリントによって行ったが、一か所間違っていて、突き返された。1994年に、コリヴァン=フラッハ法を着想し、査読の結果、間違いがないことが確認され
真正のゴミクズ人間って安倍晋三でなくて2005年からですね、あのくそつまらない法学入門の刷新版を温めておいた法学者だと思いますが、佐伯仁とか、あの辺からわざと
正解を書かなくなった。
平成30年になってからようやく2ちゃんねるで、パスカルの定理が出てくるところだよwwwといって自慢してた中央省庁のガキが自殺して全部ネタ晴らししたんですね、ズルしてたやつが
今の日本社会という大宇宙に広がっている問題点ってそういうこてじゃないと思うんですね、何を出さなければいけないかというと、法律のネタ晴らしなんでそれが何と同値であるかを突き詰めて
多くの着想で警官や裁判官を困らせるしかない。でもそれができなかったんですね。難問だから。
難問の解き方は私が知ってる限り2つあります。1つは、問題の一部分に定理を立ててそれで通す方法と、フェルマー予想のように、 y^2=x(x+u^p)(x-v^p)という関数が modularにならない
ことと同値であるところまで突き詰めてからちゃんと正しく着想していけばそのうち到達するだろうというやり方があります。いちいち読みませんが。
自分で解いたわけでもないし、あの佐藤のゴミクズが、みんなに知らせようとしてるわけだから。
そうやっていって、どうやったら今の日本社会という大宇宙が立つかっていうととにかく、実にくだらんので、それをぶち壊すのと同値で、そこに色々持ってこないといけないわけですよね
くまがいおぺちの人格について述べます。まず、x^500+y^500=z^500は成立しませんが、規模に対する驚きが大きいのですね。その驚いているときに、500以外の全ての
nで成立しませんということで、驚愕である。比較ということです。数論の中でも比類ない大きさなので、月のように届かないという印象を受けますね。
x^4+y^4=z^4では、 極めて美しい証明が得られている。数学的帰納法と背理法を同時に使うという特殊法で撃ち抜く。よって、 4の倍数では証明完了。
末永祐治については、東京理科大学卒業後に川端に住んでいて数学の参考書を部屋から川に投げて自分で取りに行ったと述べていたが、誰も知らない人として延岡には当時、工業高校の
甚勝とかもいたので、甚勝は多分、かさが開くように勝つ人だと思いますが、それはいいとしても、甚勝は、洞察するときもそうだし、作るときもなるべく激しくやると思うんですが
4の倍数だけであるとこうなんていいかただの部分的証明といいますがかさが全然ひらいていないので、そもそも、小カテゴリーであって違うわけですが。そこから出てきたのがx^p+y^p=z^p
ですが、傘が開くようなピストルがないということで、開かなかったんですね、なかなか
最終的に月に届いたワイルズはなんていうんですか、 ちゃんとモジュラーと同値であることを突き止めて、コリヴァギンフラッハ法というピストルが発見されてそれで開いたわけです
GDPを指標にすることが資源枯渇などの問題を引き起こすとは言われるが、まずはGDPがなんなのかよくわかっていなければ話にならない。
とよく表される。マクロ経済学では統計的にこれらを計算するが、Cは消費、Iは投資、Gは政府支出、Exは輸出、Imは輸入である。
三面等価の原則とは、生産、分配、支出の三面いずれからみても国内総生産(GDP)は同値になるということだ。つまり、GDPを支出としてみたとき、その量が増えているなら、生産、分配の量も等しく増えている。
ただし経済の実質値は、物価で割ったものであるため、名目GDPと実質GDPで区別する必要がある。
さらに国民の幸福を分析するときは、特に「一人あたりの実質GDP」という値を使うことが多く、中国はこの値が低い。
GDPのこの式だけだとざっくりしすぎなので、消費関数、投資関数といって、より詳細な式を考えて分析を行うことができる。
例えば「消費は所得に応じて増加するだろう」と予想できるため、所得の関数としてモデル化できる。
C = a + bY
Y: 可処分所得
a: 基礎消費
これをケインズ型消費関数という。しかしモデルの例でしかなく、より厳密にやろうと思うなら、貯蓄や予算制約を考慮する必要がある。
同様に、企業などの視点から見れば投資関数を考えることができるし、政府の視点から見れば政府支出の項目を算出できる。
増税を行えば可処分所得が低下する一方で、政府支出が増加するが、限界消費性向の値により、増税することがGDPの増加を抑制する可能性がある。
貿易について考えるなら、一見するとExばかりを増やせば良いように思うが、海外の製品がより安い場合、Imを増やすことによって総余剰(豊かさの一つ)が増える。
x^p+y^p=z^pはなぜ解けないのか、論ぜよ。
フェルマー予想は元々は、n≧3では存在しないということである。フェルマー予想は、存在しないことが驚きで規模が大きく、それが全てのnについて存在しないことから大規模で驚愕された。
存在しないことの証明は無限降下法という天空のアイデアにより、3,4のときに証明され、n≧5では使用できなかった経緯がある。x^p+y^p=z^pにすることは出来るが、
こうした場合には、p≧5の素数という限定が付く。しかし、素数は2,3も素数であり、2の場合は存在する。3の場合は、きれいな解き方があることから、x^p+y^p=z^pに対し
無限降下法が降ってこない場合は、p=3でそれが天空から降ってきた場合と比べて平仄を欠くというほかない。x^p+y^p=z^pが信じられて以降、ソフィージェルマンが不完全な定理を
発表し、その後、イデアル理論で、61%の素数では成立するとしたが、これらを集合的にまとめた場合でも構成の仕事が著しく遅滞しているか、全く結論に到達しない方向に行き詰っている。
このような場合、哲学的な美的思考の美しさに障害がある、すなわち、俗にいう頭の悪い検討法といえることとなる。そこでもっともエレガントな数学者の共同体の考え方として、p=3では
induction and Cntradictionで証明できたことから、x^p+y^p=z^pを捨て、両辺をzで割ることにより、 (x/z)^n+(y/z)^n = 1 とすれば、GCD(x、y)、GCD(y、z)
=1となるような楕円関数の不存在という確実なものとして定式化できる。これを間違いなく研究を押し通していこうとしたのが、1950年代の志村谷村予想で、非常に美しく通るように
複素関数論で析出を進めた結果、モジュラー理論として本質が出てきた。しかし、志村谷山はその同値性を補完するためのアイデアをそれ以上議論できず、イギリスのワイルズがこのモジュラー性
に価値を見出し、秘密裏に研究を進めた。x^p+y^p=z^pのような不毛な方向に走ったのと違って、哲学的に確実に通過しそうな方向で検討したため、最終的に現代数学の理論により、
長谷川と森脇が実行したことの価値が理解できないから、その仲間ないし共犯者と言ってもよい、お前の見解も全く理解できない。特に晴生だが、昭和時代に勉強でいじめられてきたので
肝心な仕事は低学歴がする、高学歴は遊んでいればいいという思想を持っているが、それは逆を言えば、自分が勝ち組だ、と言っていることと同値なので、東京に在住している東大卒の
若者で晴生の見解が理解できるとしたらお前の頭はもう腐っている。以上の理由付けによって一生お前と相容れることはないし、森脇がそれを裏付けているので、お前と同調できることはないと
思え、分かったな
野田クリニックというのはなんですか、病院ですよね。そしたら病院って哲学的に言ったらどんな建物かっていったときによく分からないんですよね。私もメリーガーデンとか自分の自転車をずっと
見つめているのですけど、それが哲学的に何なのか中々分からないのですね。何の魅力があるのか?意味がないから嫌なんですね、自転車が。その完成した物体が驚愕と同値だろうとは
分かるんですけど、数学だと、フェルマー予想で、自然の劇で、 x^3+y^3=z^3は存在しないし、それ以上全部でもねえよっていうのが数学の神の技ですよね。んでめっちゃでかいんでね、
多分、フェルマー予想でも、タオの定理でも、タワマンくらいでかいと思いますが、ところで野田クリニックってとにかく内容と技術がないといけないですよね。でもあそこにその技術があるんですか。
晴生って、息子を統失に仕立て上げるときだけ全力を出すやないですか、タテマエと実態は違うとか言ってね。そういうときだけ全力を出すわけですよ。で、あれなんですが、なんで、タテマエなんか
ねえよって思って来た人って何もしないんですか、最近。平成19年に安倍晋三が強引にやろうとしたときにめちゃ抵抗されたじゃないですか。でも最近の人って全然抵抗しないですよね。
なんで抵抗しないんですか
フェルマー予想の論文をみると、結局、 n=3,4の場合でも、 induction and Contradictionっていうアイデアを用いていてもうなんかこれ自体が鉄板っていうんですか、無限降下法と
言い換えてますが、帰納法&背理法ってもうなんかこのアイデア自体が驚愕というところがあるじゃないですか。論文を見たら、 n=3,4でも、最小性の反すると言っている。
このアイデアがn≧5では使用できなかったっていうのが、歴史的な経緯なんですよね。フェルマーが本の余白に、真に驚くべき解法をみつけたがここには書けないと言ったのって、n≧5
にも、このアイデアが使えると思ったかららしいですね。超絶に美しいからですね。
その次に、 x^3+y^3=z^3 x^4+y^4=z^4は存在しないとすると、この結論を踏まえて、簡潔なアイデアを一本入れて、pを素数として、 x^p+y^p=z^pの証明と同値になる。
警告:私はシス女性で、この日記にはトランスフォビアが含まれます。
身近にLGBT当事者がいないのだが、人の不幸には興味があり、
このような感じの思想を持っている。
(個人的には、病弱なので子供をもたないし、女性らしさを好んでいる…。)
しかし、トランスジェンダーがらみの話だけは、疑問だらけになる。
apexのカタリストが好きだし、幼い頃に性同一性障害を知って気の毒に思った。それでもだ。
差別主義者といわれるのはキライなので、差別心をなくすために自分の頭の中を整理した。
一部のTRAがしているこの主張に、なぜ嫌悪感があるかというと、
カタリストは女性だけど女装おじさんは男性だよ、というのが一つ。
もう一つは、トランスならトランスと言ってくれるなら問題ないけども、
シス女性を騙るのはやめてくれ。めちゃくちゃ怖い。ということ。
トランス女性は女性ですの言葉は、シス女性の概念を破壊しようとしてるように聞こえる。
たとえ手術をしたとしても、男性として生きた経験がゼロの人とそうでない人が同値になることはない。テストステロンも。
女性が抑圧されている文脈がなければ、このことは問題にならなかったんだけどね。
そして、トランス女性は女性じゃない論の間違いをすっぱぬくという記事を読んだ。
現に社会の中で女性として生活してるから、女性だって書いてあるが、
シス女性がボーイッシュな格好して、男性と間違われることを肯定しているということにならないか?
パス度の低いトランスジェンダーに望む性別で生きる権利はないということ?
結局その記事は期待外れだったけど、
femaleとwomanの違いに思い至って、確かにトランス女性は女性かもしれないという結論になった。
なら女性という言葉はあげるから私はメスだけのスペースに行くわ。
私はメスでfemale。女性とwomanにはもう依拠できないんだ。
男女に非対称性があるから。だからこういう、喧嘩別れみたいな結論になった。
ずっと思っている疑問として、
そもそもパス度、パス、ジェンダーをトランスする、というもの自体が、
女は髪が長い、髪が長いなら女、という性別判定を前提としてるけど、
それはジェンダーバイアスそのものじゃないの? というものがある。
アライさんたちはこの点について説明してくれないと、私を味方にすることはできない。
私はほとんどの恵まれない人の仲間になりたいけど、トランスだけは理屈がガバガバだから、まだ仲間じゃないわ。
面接で男女を問われることもないし、仕事でも何もかも、性別を意識しなくて済む、
トランスの人たちはむしろ恋愛と生殖以外の場面で、アイデンティティを確認したいという。
その必要ってあるのか?
トランスセクシャルは、私が昔から共感して助けたいと思ってる人の一部。
トランスジェンダーは、私が解体すべきだと思ってるジェンダーの話なので、よくわからん。
今の考えはこうだ。
うーん…。ただそうあることがジェンダーバイアス強化じゃなくて、
性別移行に社会のジェンダーバイアスを利用していることを指摘してるんだよ。
単にフェミニンな装いがしたいだけならなぜ性別を変更する必要があるんだ?
フェミニンな装いをしたくないけど性別を変更したい場合、社会に扱われなければ性別変更ができない。
謎じゃん。
(余談)
ジェンダーは社会からの扱われ方で、パスしてないやつらはその性別ではない、といってる人たちがいるのにもかかわらず、
それとは異なる考え方にもとづくはずの、自己申告による性別変更という、セルフID制が出てきてるから、性別自体が崩壊してる・・・
ん?自己申告の性別変更って、もしかしてその、ジェンダーバイアスを利用した性別以降をさせないために作られたのか?
(余談おわり)
ジェンダー解体とトランスジェンダーが対立しないことを知りたい。と思いながら検索を続けた。
納得の行く記事があった。
好きでのっかってるわけじゃなく、ジェンダーバイアスにのっからないと同一性を疑われるという話だ。
それは確かになるほど。
私が、男性のマネをしたり、~だが、って話しても、どう見ても女でしょ、と思われてるのと違って、ということか。
でも、「(反対の性別)って言わないで」はわかるけど、「(反対の性別)で呼ぶのは差別だ」、は正しいのか?
属性を恨むことが差別であって、単にその人がどちらの性別に見える、という感想は、ときに残酷な意見…でしかないと思う。
正直、私は女性に見えない人を彼女と呼びたくない。彼と呼びたいわけでもないが、theyと呼ばせてほしい。
(男性は自称でいい。なぜなら、女性は男性より身体が弱いから。強いほうを自称するのはいい)
女性記号をつかわないと女性として見てもらえない不幸にみまわれている人たち。
そう思うと親身になれる気がする。
でも、どうやったら同情や憐れみもなしに、対等に見れるんだろう。
シス特権を指摘しないとしたら、ジェンダー解体への逆行という批判をしなければならなくなるパラドックスに陥る。
要約。
「トランス女性は女性です」への嫌悪感はなくせたが、female自認が強まった。(理由は、男性特権を経験した人を同胞と思えないから)
ジェンダー解体とトランスジェンダーは対立するが、かれらが、ジェンダー規範を温存することを強いられている、という理解をした。
なお、私の思う、男性特権とは、「テストステロンの量」「身体が強いこと」「ころされたり、奪われたりするかもという警戒をしないですむこと」、です。
被害者意識が強いのではなく、ちゃんと自衛していないと、被害者女が悪いと言われるからです。
収入とかはあまり興味がありません。ガラスの天井はなくなるべきだと思いますが、正直、専業主婦を望む女性も多いので、低収入はその結果もあると思います。
性差は確実にあります。女性は外向性と神経症傾向が強い。これは優位な差です。プロ棋士の女性がいないのは差別とは思いません。
志保子なら理解できると思うが数学で驚愕的な演繹というのは、前提から帰結まで距離あり過ぎるわボケが激できついんじゃワレというような印象を受ける技術や推論過程があったらそこが
答えだと思う。逆に、これは真面目に考えているだけやなと思ったらそれはただの主張であるというか。
そういう例として、既に、コーシーシュワルツの不等式を挙げたが、ちなみにコーシーシュワルツの不等式は、次の絶対不等式と同値である。
(a-b)^2+(b-c)^2+(c-a)^2≧0
この絶対不等式は、a=b=cで等号が成立するので許されていて、これをばらすと直ちにCaushy-shwarzの不等式が得られる。
それ以外にもですね、実不等式論で、 f(f(x))みたいな関数が入っていると邪魔なので消すことを考えるのですが、その消し方にきつい手段しかないとそこがおかしいわけですね
そういうきつい消し方しかないんかワレきついんじゃみたいなことが書いてあったらそこしかないわけですね、着想が。
そういうところから岩淵茂樹が書いた東京簡裁への事件移送決定文がですね、かなりきついことが大量に書いてあって、だいぶん書いてあると思いますが。
数学の価値 ・・・ なんとなくではだめで、様々な理論を構築し、確実に定理が演繹されなければ評価されない界隈。
例
(1)フェルマーの最終定理 x^p+y^p=z^pを証明することと同値であるとされたが、誰も出来なかった。最終的確定 1994年 ワイルズにより到達
(2)グリーン=タオの定理 素数列の中に任意の個数の等差数列がある なんとなく26個見つかる。計算機ではだめ。 2004年、 テレンス=タオが極力初等的な着想で
到達
(1)リサ=ザウアーマン 2006年のIMO幾何の超難問を達成。
(2)ペーター・ショルツェ 2008年の、2種類しか模範解法が発見されていない幾何の難問でパーフェクト。
(3) 俺 2013年の、IMO組み合わせ論の問題で、induction and contradictionを用いれば解けることを予想。
備考 induction and contradiction 検索すると出てくる特殊技法。 2013年IMO第6問の、beautiful arrangementの個数と、x+y≦nの個数を結びつける定理