はてなキーワード: 上級国民とは
1822年生まれ。1860年(38歳)、万延元年遣米使節の正使として渡米。
ワシントンでは大統領のジェームズ・ブキャナンに謁見し、国務長官のルイス・カスと批准書を交換。
正興は正妻との間に娘が3人いたが、48歳で正興が病没。
芸者となった二人の娘も非常に美しく、芸者の中でも際立っていたという。
1860年に渡米するレベルの上級国民なのに、娘が芸者として売られたことに驚く。
二女と三女の正式な縁談をまとめるまでの、繋ぎの金すら無かったのか?
芸者となっていた新見正興の三女・りょうを落籍し、柳原本邸近くの家を与えた。
女児は前光の正妻である初子が引き取った。この女児が、後の柳原白蓮である。
柳原前光は44歳で死亡した。明治期までは上級国民ですら短命である。
明治天皇の宮人となって3人の子を産んだが、1人だけしか成人できなかった。
当時の日本は、上級保育を行っても三分の二が死んでしまうレベルの医療だったのだなとしみじみする。
そのたった1人が、大正天皇となる。
「白蓮事件」を起こし7歳年下の宮崎龍介と駆け落ちして再再婚し、81歳で死ぬまで添い遂げた。
革命運動に打ち込んで家庭を顧みない父親と、石灰販売などで必死で働いて家計を支える母親の元に育つ。
第一高等学校(現在の東京大学教養学部の前身となった旧制高等学校)から、東京帝国大学(現在の東京大学)に進学。
帝大生のまま機関誌『解放』の編集者として活動中、同誌の執筆者である人妻の柳原白蓮と出会い、白蓮は龍介の子を妊娠する。
白蓮事件を経て白蓮と夫婦になり、帝大を卒業し、弁護士になるが、結核を発症して自宅療養となる。
龍介が動けなかった3年間は白蓮が大黒柱となり、文筆業で家計を支えた。
白蓮との間に一男一女をもうけた。白蓮が81歳で死ぬのを見送り、78歳で病没した。
1921年、義光45歳のとき、当時36歳の白蓮が「白蓮事件」を起こした。
皇室の権威を守るため義光の速やかな議員辞職が求められたが、義光は議員の座にしがみつき、
「辞めてやるから金をくれ」「先帝に畑を提供した」などの数々の暴言を吐いた。
貴族院議員を引責辞職後、日本教育生命保険・大正生命保険の社長になるが、
負債を累積させて逆に運転資金を捻出する羽目になり、昭和の始め頃には麻布桜田町の本邸を売却した。
1933年9月、男色相手であった新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られたことが新聞に載った。
1933年11月13日、赤坂溜池のフロリダダンスホールの主任教師が
イケメンヤリチンダンサーが華族家の既婚女性と次々に姦通しており、
徳子もダンスホール教師に恋をして姦通していたことで警視庁の取り調べを受けた。
徳子は刑事罰を受けなかったものの、宮内省は事件に関係した華族を処分する意向で、
その後、徳子は勇と別居し、離婚した。
知的障害があるが、子爵なので許嫁がいて、柳原白蓮と結婚した。
柳原白蓮(1885年10月15日 - 1967年2月22日)、本名は燁子。
大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。
1910年11月、上野精養軒で燁子と九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われた。
燁子は当日、それを見合いだとは知らされていなかった。
伝右衛門は50歳、親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、
地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀」たる伯爵家から妻を娶るのは前代未聞のことで、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になった。
異例の結婚に新聞では、柳原家への多額の結納金や媒介者への謝儀、宮内省への運動資金など莫大な金が動いたことが書き立てられた。
背景には貴族院議員である兄義光の選挙資金目的と、一代で成り上がった伝右衛門が後妻に名門華族の家柄を求めたことがあったと見られている。
翌1911年2月22日、日比谷大神宮で結婚式が行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。
『東京日日新聞』では結婚式までの3日間にわたり、2人の細かい経歴などを書いた「燁子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され、“黄金結婚”と大いに祝福された。
燁子は遊廓に入り浸ることの多かった伝右衛門に病気をうつされ大きな屈辱となり、夫婦の間の亀裂は深まった。
そんな歪んだ結婚生活の懊悩・孤独を燁子はひたすら短歌に託し、雅号「白蓮」の名で、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた。
1917年暮れ、福岡鉱務署長・野田勇に炭鉱主から贈収賄が行われた疑いで大規模な検察の調査が入った「筑豊疑獄事件」が起こる。
1918年4月初頭、野田夫人の友人である燁子は贈賄側の証人として出廷した。
公の場に現れたことで話題となり、『大阪朝日新聞』は4月11日から「筑紫の女王燁子」というタイトルで10回にわたる連載記事を載せ、大きな反響を呼ぶ。
この連載記事がきっかけで「白蓮」が燁子であること、「筑紫の女王」という呼び方が全国的に知られるようになる。
1919年12月、戯曲『指鬘外道』を雑誌『解放』に発表する。
これが評判となって本にすることになり、打ち合わせのために1920年1月31日、『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介が別府の別荘を訪れる。
龍介は7歳年下の27歳、孫文を支援した宮崎滔天の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成して労働運動に打ち込んでいた。
新人会の後ろ楯となったのが吉野作造ら学者による黎明会であり、『解放』はその機関誌であった。
両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、燁子がそれまで出会ったことのない新鮮な思想の持ち主であった。
別府に2晩宿泊し、打ち合わせを終えて日豊本線に乗る龍介を、燁子は小倉まで見送った。
その後、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まる。
燁子の上京の機会は伝右衛門に同行する春秋2回で、京都などで限られる逢瀬の中、2人は頻繁な手紙のやり取りで仲を深めた。
やがて龍介の周囲で燁子との関係の噂が広まり、華族出身のブルジョワ夫人との恋愛遊戯など思想の敵として、
1921年1月に龍介は『解放』の編集から解任され、4月には新人会を除名された。このことは燁子の心を一層龍介に傾かせた。
燁子は秋の上京の際に家出を決行する準備のために、伝右衛門のお気に入りで博多花柳界で名高い芸妓であった舟子を、
自分の身代わりの人身御供として舟子を伝右衛門の妾にしたのである。
龍介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の早川二郎や赤松克麿らに相談して、燁子出奔の計画を練り、決行した。
1921年10月20日、伊藤伝右衛門は夫婦で滞在していた東京府日本橋の旅館「島屋」から、福岡へ帰るために車で東京駅へ向かい、
妻・燁子は親族を訪問する予定で東京に残り、伝右衛門を見送った。しかし、燁子はそのまま日本橋の旅館に戻らず、行方をくらませた。
22日、大阪朝日新聞朝刊社会面に「『筑紫の女王』伊藤燁子 愛人宮崎法学士と新生活?」と失踪の第一報が伝えられる。大阪朝日の単独スクープであった。
伝右衛門は福岡へ戻る途中で立ち寄った京都の宿「伊里」で、22日朝刊の報道を知って驚愕する。
その頃の燁子は東京府下中野の弁護士・山本安夫の元に、伊藤家から伴った女中と共に匿われていた。
山本は龍介の父・宮崎滔天の友人であり、子供の頃から親しい龍介に相談を受け、燁子の身柄を預かっていた。
22日夜、山本は新聞各社に燁子の居所を連絡し、記者が押し寄せて取材が行われ、23日朝刊には記者に対応する燁子の写真が掲載される。
朝日のスクープは、姦通罪を逃れるため、龍介が新人会の仲間で友人の赤松克麿や朝日新聞記者の早坂・中川らに相談し、
マスコミを利用して世論に訴え、人権問題として出奔を正当化するために仕掛けられたものだった。
女から男に宛てて、新聞という公器を使って縁切りの宣言を行うという前代未聞の出来事に対し社会的反響は大きく、
大阪朝日24日夕刊には、5百余通の投書が殺到した事が書かれ、世間を大いに揺るがす事件として受け止められた。
柳原家や燁子が身を寄せた山本家には多くの賛否の手紙の他、脅迫まがいのものも届いた。
10月24日に福岡に戻った伝右衛門は親族会議を開き、友人の炭鉱主らも同席する。そこで宮崎龍介・赤松克麿らの思想的背景が問題となる。
伝右衛門ら炭鉱主は当時頻発していた米騒動やストライキに神経をとがらせており、彼らによって労働争議の標的にされる恐れがあった。
また姦通罪で訴える事は、今上天皇の従妹である燁子を投獄する事でもあり、宮崎側に関与する事は避け、問題は柳原家と伊藤家の両家の間のみに絞られた。
11月1日夜、東京丸の内の日本工業倶楽部の一室に伊藤・柳原両家関係者が招集される。
この席で燁子を伊藤家から正式に離縁する事が決められ、伊藤家に残した燁子所有の調度品や衣類・宝石類を柳原家に託し、
燁子名義の土地・家屋・株券などは名義を変更して伊藤家に返還する事などが決められた。
11月2日、仲介役の奥平伯爵が築地精養軒で新聞通信社に燁子と伝右衛門の離縁を発表し、3日付の新聞に掲載される。
事件からわずか10日後、伊藤家側は極めて寛大な処置で迅速に身を引いた。
伝右衛門は一族に「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡し、「上京して姦夫姦婦を二つに重ねて四つに叩き斬る」と息巻く地元の血気盛んな男達にも「手出しは許さん」と一喝した。
福岡天神町の銅御殿落成の翌日、11月27日に伝右衛門と燁子の離婚が成立する。
駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となった燁子は、それまで経験したことのない経済的困窮に直面する。
弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があった。
裁縫は得意であったが炊事洗濯は出来ない燁子に代わり、姑の槌子が家事と育児を引き受けた。
燁子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受け、龍介が動けなかった3年間は燁子の筆一本で家計を支えた。
この頃、吉原遊廓から脱出した花魁の森光子が宮崎家に駆け込んで助けを求めている。
その後も娼婦の救済活動は続けられ、1928年にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。
この活動は暴力団に狙われる危険なものであったが、燁子にはかつて伊藤家で舟子ら同性を
身代わりの人身御供にした罪の意識があり、娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったと見られる。
1944年12月1日、早稲田大学政経学部在学中の長男が学徒出陣し、
翌1945年8月11日、所属していた陸軍・鹿児島県串木野市の基地が爆撃を受けて戦死した。
龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守られ歌を詠みつつ暮らした穏やかな晩年であった。
1967年2月22日、心臓衰弱のため西池袋の自宅で死去した。81歳没。戒名は妙光院心華白蓮大姉。
遺骨は長男と共に神奈川県相模原市石老山の顕鏡寺に納められた。
日本じゃ仏教が神道(それも上級国民向けのやつ)と習合してケガレを嫌う性質を内包しちゃったのが間違いの元じゃないかな。
宗教なんて弱者救済してナンボ。弱者だぞ、エンガチョに決まっている。
精神・知的、犯罪、ナチ・アカ、そらなるよ弱けりゃ。そんなの包摂していたら自分もエンガチョまみれになるし、組織に不正も犯罪も差別もはびこるわ。勝手なローカルルールだってウジャウジャ作られるわ。
「悪いことはいけません」って言って、昨日助けた奴が犯罪犯して誰かが泣いても、また犯罪者予備軍を助ける。
ナチがいたって、フェミがいたって、全部抱えて、そういう奴等に心の平穏が訪れるよう祈るんだよ。だからキリスト教もイスラム教も汚くて偉大なんだよ。
ただ、正直最近世の中がナチ・ファシズムに冷たすぎる気がする。
大体、男も女も、イケイケな奴ほど、セックスのことばっか考えてる。
ただ、男のイケイケの上級国民は、エプスタイン島やアゾフスタリ地下みたいに、隠れて性欲を発散する場所があるから、性的に偽善的で、硬派なフリをし、ホモコンテンツを作り、ポルノを規制したり、他の男を攻撃し、抑圧して、更に女にアピールする。
こいつらは、女のことなんか性奴隷のモノくらいにしか思ってないけど、陰ながら、いくらでも人権を無視した異常性欲を発散できるから、表面上は偽善的にふるまえる。
妻も子供も、邪魔になれば、いくらでも、事故や病気に見せ掛けて殺せる。
ジャニキモオタのキモいガールの悪質性は、そいつらが高望みクズ女として結婚できなくなることだけじゃないんだよね。
罵られた男たちが、異性恐怖を発症して、全く付き合うことも出来なくなることにあるんだ。
でも、クズ金持ちの腐れボンボンとか、むしろ、そういう屑キモいガールが、下々の男を罵ることに優越感を得て、好んで結婚したりする。
その結果は、どっちも精神DV体質の真正の屑だから、ほぼ百%、離婚か、でなければ殺人まで至る。
だから昔は、キモいガールほど金持ちに愛人なんかにされて増長してたけど、結局クズ女しかキモいガールにならないから、キモいガールは、少しでも上流にいて、事情知ってる男とは一切結婚できなくなった。
そしてネットで、こいつらみたいに暴れ散らす。
大体が、女に優しい男ほど、女に罵られたらショックで、一切付き合えなくなる。
女なんて、家畜以下のゴミみたいに思ってれば、何言われても平気になるんだけどね。
上級国民たちは、文字通り性奴隷の家畜として女を扱えるから、メスポチ風情が何喚こうが、何も気にせずにいられる。
ウザくなったらキュッ。
自称リベラルが嫌儲民の意見を持ち上げる姿勢は情けなすぎるし小林よしのりと同じ過ちを繰り返していて草も生えない
だってあいつらのジャップ連呼は謙虚な日本人像を演じる為の愛国無罪しぐさだし上級国民叩きは在日・同和利権陰謀論と地続きだし
https://togetter.com/li/1890421
これ、「ヨーロッパ化している日本」って言われるけれどそれには違和感あるんだよな。「階級社会化が進む日本」なら分かるんだけど。
だってヨーロッパって階級社会ではあるんだろうけれど、少なくとも上流階級の人間はその事を自覚し、
地位に伴う社会的責任としてのノブレス・オブリージュを果たそうとする意識があるんじゃないの(少なくとも建前上は)。
それに比べて日本では、恵まれた上級国民に限って何故かそういう責任感がなく、それどころか自分達こそが不当に虐げられた弱者と言わんばかりの態度が目立つ。
本来は飯塚氏以外も拘束されるべきじゃないのでそこだけは"許す"として
(すべての逃走の恐れがないケースで飯塚氏のように拘束しないでおけよ。マジで)
被告を警察が身辺警護ってストーカー障害事件・殺人事件の被害者は絶句なのでは?
自業自得ではあるが猫殺しの税理士のところには自称猫好きの輩と自称愛護団体が乗り込んだりしてたけど
まぁそれも犯罪被害に遭う可能性が極めて高い場合は本来は警護すべきとしてこれも更に"許す"として
医師や周囲から運転は適さないと言われてたし足が不自由って自分でもやってるじゃん
どういう理屈で100キロぶっ放すのが誰でも起こり得る過失って判断になったの?
被害者全員と示談が成立しているケース(求刑10年懲役8年)よりも軽い理由は?
あと収監先は下記みたいなところだと思うよ
池袋の上級国民による自動車事故、知床の観光船、キャンプ場で行方不明になって死亡が確認された女の子。みんな愛されていて、家族が悲痛のどん底で悲しんでいる。
ワイだったら家族はみんな亡くなってるし、友人も妻彼女いないKKOなのに、愛されている人たちが犠牲になってしまうなあとか考える
なぜなのか考えたけど、ワイ友達も妻彼女もいないから池袋におでかけとかしないし、観光船にも乗らないしキャンプにも行かないんだよな。コロナでリモートワークだから通勤すらしていない。貧民だけど鉄筋コンクリの団地だから一応地震で圧死とかはないだろうし(家族も友達も女もいないから家具とか全然ない)結果的に低リスクな生活してるんだろうな