はてなキーワード: 労働とは
自給自足といっても、
山奥で野人のように
暮らす、
それ、ひとりでやろうと思ったら、どんだけ大変なんだろうな。
これ自給自足しようと思ったら、
そろそろ田植えの準備とかしなくちゃいけないのか?
つーか田んぼってどうやってつくるんだ?
そもそもどうやって苗って手に入れたらいいんだ?
そういうことを全部、自分でしなくちゃいけない。
気が遠くなるような話だ。
今は夏がくるのが早いから、もう初夏が始まった時点で暑いだろうな。
となると衣替えしなけりゃならないんだけど、
自分で縫うことをしなくちゃいけない。
つーて、そもそも布から作りゃなきゃいけないんだけど、布ってどうやってつくるんだ?
なんかね。
というと言い過ぎかもしれないけれど、
その対価として受け取っている現代の生活というのは随分と恵まれているよなあ、
とふと思ったりした。
二文タイプの憲法の条文は数少ないし、多くは但し書きの形式になっている。
例えば他には
第二十一条 2
この条文は「検閲に関する場合のみ通信の秘密は守られる」と解されることはない。
第十四条 3
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
この条文も「特権の伴わない栄典の授与だけ一代限りになる」とは読めない。
「栄典の授与は特権を伴わない」し、「栄典の授与の効力は一代限り」だ。
同様に問題の条文も「秘密投票に関してだけ責任は問われない」とは読めない。
「投票の秘密は侵してはならない」し、「選挙人は責任を問われない」。
条文の初めを省略してるからおかしくなる。…これは秘密投票の話だから、個別の特定の人間に対し …責任を問うことにならないようにするための条文だよ。
あなたの解釈の個別特定の人間という条件も憲法の条文にはなく、説得力を欠いていると思う。
憲法は制定されてから長いため、不備に解釈に幅を持たせて対応しているケースは少なくない。
確かに馬の気持ちも聞かず、とにかく走れ走れと言って走れなくなったら肉になるのはかわいそうと思う。
しかし、馬はいっぱい走らされるけど、ブロイラーなんかはただただ怠惰に暮らして食われるわけで、その方が無理やり走らせるより幸せなのかと言われると、うーんってなってしまう。
私自身、怠惰な人間なので、例えば古代ローマのグラディエーターと、親の遺産大量に持って働かなくて好きなだけ食える怠惰な生活、どちらがしたいか?というと迷わず怠惰なほう。
でも、そういう怠惰で自堕落なのが死ぬほど嫌いで、自分を高め続け自己研鑽に身を置きたい人がたくさんいるのも知っている。
麦やコメを育て、食うに困らなくなった人間は、家畜と確かに変わらない。
食うために体で働く人間は、競走馬とほとんど変わらない気もする。
水木しげる先生が言っていたけど、「ネコは生きるためには働かない」わけで、ネコは人を使役することで無労働で生きられるようになった。
ハムスターもそんなもので、ただ見た目がかわいいというだけで何もせず生きられるようになった。
これは人間だったら、何不自由なく育て、与え、かわいがるし、健康管理もするし、働く必要もないけど、セックスだけは一生させないという人生。
子供も欲しいなと思う。
かつての人間は神の飼うハムスターみたいなもので、神に愛想つかされたから楽園を追放され、労働をする必要が生じた。
その代わりセックスして子を作ることができるようになった。
女は生みの苦しみもあるわけだけど、それでも喜びは大きい。
やっぱりそう考えると、エデンの楽園にいた頃の人類がブロイラーで、失楽園した人類が競走馬なのかもしれない。
競走馬はメスは半分はいかないかもしれないけど20%くらいはお母さんになれて、オスは1%くらいしかセックスを経験できないけど、それでも怠惰に暮らしてしめ殺されるよりは、戦いに身を置いてセックスを求めたい気はする。
イヴは裸を恥じらう知恵すらなかったけど、知恵の実を食べ恥じらいを覚えてこの世にエロスが生じたわけだ。
パンドラの箱みたいな話になるけど、苦しみと喜びは両方引き受けなきゃいけないのが人生で、そして喜びの質が大きいのは、怠惰に食う寝るできる方じゃないって気がする。
この人生が終わり、ブロイラーに転生するか、競走馬に転生するかなら、どちらを選ぶ?と言われれば、やはりセックスしたいから走るほうを選ぶと思う。
結局は生きるってセックスってことか。
あえて言うけど、よくある「夫が家事・育児を分担すると言ったのに、実際はやってくれない」という話、ほとんどが妻の夫に対するモラハラだよ。被害者ポジションに立っていて、大変な状況にあることは事実なので余計にややこしい。
夫側が「やるつもりがある」があるのに「やっていない」ように見えるとしたら、以下のプロセスである。
1)分担を決める時、家事・育児の基準をすべて妻が主導権を握って、完璧にやろうとする。
2)男性側は基準がよくわからないか、レベルが高すぎてついていけず、結局傍観することが多くなり、頼まれるまで動けない。
3)夫も頼まれれば育児・家事をやるが、女性の目から見れば満足できるものではなく、よりストレスが溜まる。ブチ切れて怒る。
4)怒られるのが怖くて男性はさらに傍観せざるを得なくなり、家事・育児を分担できなくなる。
あと大前提として、男性の方が労働時時間が長いことが多い、子供の頃から家事をやる習慣がない、そもそも家事・育児の期待水準が低いことなどがある。
要は妻が家事・育児を完璧にやろうとしすぎている。妻は「普通でしょこんなの!人間だったら!」とブチ切れるんだろうけど、全然普通じゃないよ。欧米の家事育児事情を少し検索してみたほうがいい。日本や韓国の家事育児水準は明らかに異常。
あのね、家事・育児なんか超適当でいいの。仕事じゃないんだから。夫婦共に「分担しなきゃ」という思い込みで余計に大変になっている。楽になることを優先しよう。
30歳の弟が働ける職場探してる。
・普通に就職していた時期(2社、累計4年間)があるが、全て心を病んで退職。
・発達障害持ち。ただし、グレーすれすれの軽度なので医者からは作業所に行かせたくないと言われている(工夫でフォローできるレベルの苦手しかなく、普通に働けるレベルなので、変に作業所に入れて社会復帰しづらくしたくないと)。
・自分で考えさせると「こうなるべき」みたいなこだわりが発動しがちなので、考えないでいい仕事をさせたい。
・こだわりがすごすぎて生活に支障があるレベルではない。自分ルールに合わない指示されても対応はするが、カウンター喰らわせられると思った瞬間に過剰攻撃する場合がある(面倒なお局と思ってくれれば。そのせいで人間関係うまくいかなくて毎回病んでた)
・ヘルニア持ちのため重労働は厳しいが、トラック、フォークリフト、金属加工などの工場経験あり(処方されてる薬の都合で車とかの運転は止められてる)
・人間関係うまくできない自覚と、無職期間から自信喪失しており、人と関わらない仕事がしたいらしい
・本人も働かないといけないと思ってるけど、何をすればいいかわからない。
・体は健康。
以上。
できないことがあるのは言っても仕方がないので、急にどうにかして自立しろとは思ってないんだけど、弟本人が、働いてないことで自分を責めてどんどん暗くなっていくのが気になっている。趣味とかボランティアとかでもいいから気分転換がてら好きなこと探したら?って言ってみたけど、働いてないのにそんなことをするのはおかしいと言う。気になるなら仕方ない、弟のタイミングがあるからね〜と休ませとくと「俺は働いてない…」が始まってしまいどうにもならん。じゃあ働けって感じなんだけど、「苦手がわからないから何の仕事ができるかわからない」って言い出す。
帰国後の話じゃなくて、帯同中の生活が普通に成り立たないという話だろ。どの国に行くのかにもよるが、ポスドクの薄給でアメリカあたりで2人分の生活費を賄うのは不可能だろ。彼氏がJ1ビザなら配偶者は労働できないし。アメリカで増田がビザスポンサー付きの仕事探すのも学歴考えたら不可能と言っていい。
メリーガーデンに居住しているもののほとんどは既に大人になっていたりどこかで労働しているため、それが純粋な日本人ではなく、一度大きくなった大人であることは明らかであるが
脳実質に正しいところは何もなく、ほとんどは、知能犯の類と解されるので、ここの居住者に拡声器を放ってもそこに違法性はない。
またメリーガーデンにはおそらく一回も学校に行ったことがない 娘、女の子、などの弱者も含まれていると推測されるが、そのような人も、凶悪犯罪者だが、同居している大人とは
方向性が違うと解される。
ところで、一度大人になっていると、暴力性や知能犯さがあるわけだが、メリーガーデンの居住者は次の2種類に分けられる。(1) ただの悪人で知能犯的な犯罪者
(2)ただの日本人
(1)の人間の具体例としては、小俣とか晴生、井上修二などがありうるが、この種の人間の脳実質の状態で、数学の問題を見たとき、そこに上がってくるのは、東大に受かったことがない
劣等感、学生時代に試験ができなかったことのコンプレックス、 自分で解いた実経験がないことからくる嫌悪感からの、沈黙
(2)の人がみたときの感想としては、 おそらく、 くそつまんね、と思うか、勘違いをするか、 一部には、面白いと思う人も想定されるが少ない。
延岡に住んでいる人がバクサイを通じて数学の問題に関する文章をみたときの脳実質の反応として、 (1)の場合、不都合性からくる無反応 (2)の場合、そもそもみていないのではないか
凡庸でも惨めでもカッコ悪くても、自意識と折り合いをつけ人は生きていかなければいけない…
みたいな。
中高生だかの頃、まさに当事者だった時にも読んだけど、当時はあんまりテーマを理解してなかった。
なんか変態的でショッキングな作品くらいに思ってて、そういうのに惹きつけられる年頃だから読んでたって感じ。
まあ青春の当事者は青春について言及する大人を非常にウザく感じるものだし、そういうもんだと思う。
若さを大事にしろよ~と語る大人への死ねカスという思いは今でもよく覚えてる。
何を描いてるかをはっきりと意識したのは20前後になってからだった。
でも10代の頃も、ジュブナイルだの自意識だの定型的なワードに頼らず、肌感覚で描かんとするものに接近してたような気もする。
読んだ後の諦観や爽やかさの入り混じったような感情や、心の中の大事な部分を突っつかれたような感覚はまだギリギリ覚えてる。
この手の作品ってどれもこれも「自意識の殻を破り、凡庸さを受け入れて生きていく」みたいな似たり寄ったりの着地点になってしまってなんかなあって思う。
もちろんその結論が大正義って訳じゃなくて、物語の示す過程がその平凡な結論に納得や実感を持たせる所に意義があるんだけど。
それでもたまには違うゴールがあったっていいじゃんねって思う。
スーパーサクセスストーリーもいいけど、それは思春期の自意識というテーマからちょっとズレる。
普通に、かっこ悪く生きていくなんて嫌だが?自意識と向き合うのを諦めて、生活や凡庸さに屈するのは全くかっこよくないが?
美しく生きられず、美しく死ぬ事もできず、死んでないだけの人間の自己弁護だが?
でもこの鬱屈をぶつける先とかそのための才能とかは特にないから、枯れかけた若さを大切に抱きしめながら美しく死ぬが?
つって首吊るなり飛び降りるなりする話があったっていいと思う。いや探せばあるのかもしれんけど。
そういうキャラクターがいたとして、せいぜい作品の芯になる部分と対比的に置かれるような扱いになってそうな気がする。
ネット小説サイトにそういうの書いたらふつうにんげん達に独りよがりだの厨二病だの拗らせてるだの、ボロクソに言われそう。
まあ実際私も然るべき時期に自意識と向き合い、ある程度の折り合いはつけたんですけど。
ただ、中年の危機どころか23にして「ええんか?」という気持ちが沸々と湧いている。
ニーチェやらハイデガーやらが語るような価値あるサムシングを、たった一度の人生で得ようとしなくてええんか?
今際の際に後悔が過るのは怖くないか?って。
フィクションみたいな出来事でもなければ、自意識は爽やかにハイサヨナラと決別できるものではないっぽい。
押さえつけるために、これでいいんだと思えるような、強い納得という重しが必要になる。
これは邪推だけど、思春期の延長戦やってる人間をやたら嫌う人もまた、胸の奥に未消化なそれを抱えてるんじゃないかなって思う。
何かしらの納得という重しもなく雰囲気でふつうにんげんをやってるからこそ、同族嫌悪的な苛立ちを感じるのかなって。
まあそれはともかく、ふつうに生きるには自意識を抑えるための重しが要る。
例えば結婚するなり家庭を持つなりして他者への愛、他者からの愛というありきたりながら固有の充足を得て、人生の指針とする。
これはジュブナイル作品の主人公の多くが採用していますね。勇気を出して積極的に人と関わればそこに人生のリアリティがありましたと。
あるいは、賃金労働に心をすり減らして抽象的な思考をする余裕などなくなってしまうか。現実にはこれも結構あるのかも。
私は青春作品眺めてニチャニチャするフェーズに愛着を感じてるし、この居心地の良さにもっと浸ってたい。
そういう人らを別にキツいとも思わんけど、ふつうにんげんに擬態する身としてはキツイと言っておかなければならない。
それが社会性ってもんなので。
なんてことをあれこれ考えていた折、『桐島、部活やめるってよ』を観た。
ラストシーン、映画部の底辺オタクな神木隆之介とイケてるグループの東出昌大の会話がとても良かった。
8mmカメラについて触れた東出に、オタク特有の早口で嬉しそうに説明する神木。
カメラを向けてインタビューする東出に「将来はプロですか?」と訊かれ、少し表情を変える神木。
予算も撮影場所もロクにない。8mmカメラで撮るのは手作り感満載の不出来なゾンビ映画。
きっとプロになんてとてもなれない。でも、時々「憧れ」と接近している気持ちになれる。
フィルムは手に入らない、現像は面倒、画は汚い8mmフィルムにも、ビデオにはない味があるはずだと信じながら映画を撮る。
「生きるとは…」とまではっきりはしなくとも漠然とそんな悩みを抱えてた東出は、そのやりとりで涙を浮かべる。
素敵な作品だなと思いました。
言ったら自己満足の趣味な訳だけど、それを心から愛せるのなら人生の芯に成り得るはず。
それは10代の頃の自分が辿り着いた結論と丸っきり同じだった。
思春期の自意識は、自分の内なるものを形にしてみたい気持ちにさせる。
あるいは、なにかくりえーてぃぶな事でチヤホヤされたいという程度のものかもしれない。
でも誰もが才能がある訳じゃない。どこかで折り合いをつけなければ。
だったら自己満足でもいい。心から愛せるものなら、それはきっと確かな納得になるはず。そういう折り合いの付け方もある。
古今東西、陰気ボーイズはそういう結論に辿り着くものなのかもしれない。
でも『桐島~』の神木隆之介と違い私の「好き」は漠然としたもので、自意識を抑える重しとしては軽かったっぽい。
ほどほどにふつうにんげんをやりつつ、奥底では変態でありたいね。クソムシでなく。
まあホントは今でも全然草野マサムネや志村正彦みたいに思春期のイノセンスを卓越した言葉選びで紡ぎたいし、ついでにチヤホヤされてえんだけどなァ~
私は悪くない大学を出て、それなりに良い会社に就職して数年働いた。ほぼ純粋な頭脳労働で、30歳時点の基本給は500万円程度だったはず。自分のように中の上くらいの学業成績が限度な人間にしては、かなりよい条件である。しかし中堅社員になるにつれ上司と上手くコミュニケーションがとれなくなり、頭と体がおかしくなって休職→退職に至った(その後いろいろ診察を受けて最終的に自閉スペクトラム症の診断が出た)。しばらく貯金を食いつぶして無職をやっていたのだけど、とうとう尽きたので働かなければ生きていけなくなった。今は倉庫で誰でもできるような肉体労働をしている。面接らしい面接もやってないから、名前や住所が自分で書けて、毎日決まった時間に出勤できればとりあえずヨシの仕事だ。ちなみに私の学生時代の体育の成績は、5段階で2とか3であった。典型的なお勉強以外だめなモヤシである。肉体労働が得意だからやっているのではない。
このとおり、客観的に見て私の経歴は有能ではない。げんに非正規の肉体労働者なのだから、世間的にも底辺と呼ばれる身分である。しかしどういうわけか、私は職場で有能扱いされている。「やっぱり有能な人間は何をやっても有能だねー」とそのものすばりなことを実際に言われたこともある。社員雇用試験にも誘われた(当然だが務まる気がしないので断った)。数少ないまともな人は全員誘われているのかと思ったけれど、そうでもないらしい。
いちおう先に言っておくと、誰でも入れるような職場なので、大学卒業程度の知能があるだけで有能扱いされる側面は当然ある。そんな事ある?と思うくらい飛び抜けてバカの人もいるので。ただそれだけで「何をやっても有能」とはならない。実際に作業スピードランキングみたいなものを見ても、トップ20%に入るかどうかぐらいだった。20%なら優秀じゃんと思うかもしれないが、下半分くらいは白髪の生えた主婦のお婆ちゃんとか、ちょっと耳が遠いお爺ちゃんとか、何度教えても言われた通りに作業できない知能の人だ。それらの地獄みたいな人材を除いて考えれば上位40%とかだろうか。悪くはないが飛び抜けて良くはない。にもかかわらず、他の人をさしおいて有能呼ばわりされる。職場にのべ100人ぐらい居るのに、「有能」なんて呼ばれ方をしているのは多分5人いるかどうかだ。そして私はそのうちの1人。アスペガイジなのに。自分や事実と他者の認識にギャップが有る。めちゃくちゃ怖い。周囲の高すぎる期待値に付いていける気がしない。以上語り終わり。
このままだと意味わかんなすぎて怖いので、理由をさぐるために周囲の人間を観察した。そこ得た当座の結論は「普通の人は大体何かしら下手」ということだ。
具体例があったほうがわかりやすいと思うので私の職場の話をする。現場にはだいたい10個ほどのポジションがある。倉庫なので荷物を持ち上げたり、分けたり、運んだりする肉体作業は当然ある。ただし例外処理が必要なもの(壊れている、ビチャビチャに濡れてる、実在しない送り先が書いてある、etc.)は荷物によって適切な処理が変わるから、少々知識とか判断が必要である。またスケジュールが押してるところに追加人員を呼ぶとかの原始的頭脳労働も一応ある(その日限定のバイトリーダーみたいな業務だ)。当たり前だがいきなり労働者がその場にポップするわけはないので、他の配置から人を抜いてこなければいけない。よそのチームと揉めない程度のコミュニケーション能力も必要だ。
で、私より仕事が速い人達を見ていると、定常作業は速いが例外的な対応は出来ないから他の人にやってもらってるとか、仕事は超速いのにヘルプ出さないから過剰な業務量抱えててスケジュールはすごい押してるとか、だいたいのことは一通りできるけど永久に誰かの文句言ってるからコミュニケーションが必要な配置には置きづらいとかで、彼ら彼女らは得意とする一部業務以外、私より下手か全く務まらないことに気づいた。先にも述べた通り、私は1つ1つの仕事は決して上位ではない。しかし無能というほどではない。おそらくこれが重要である。仮に1つ1つの仕事は上位40%に入れる程度の平凡な能力だったとしても、10個の仕事全部で上位40%程度に入れるなら、それは40%の10乗で0.01%の希少人材である。たかだか1、2個の仕事で上位10%に入る程度ではがんばっても1%の人材にしかならないので、私のような0.01%人材よりは有能でないことになる。
そういうわけで、私はどうやら自分で思っているよりも遥かに有能な人間であったらしい。ただ今述べた通り、それは有能だからというよりも、「何をやっても下手くそすぎることがない」程度の意味でしかない。そもそも私は頭脳労働の職場で全然仕事ができなくて頭がイカれたアスペガイジである。たんに今の職場では評価されない項目だから困ってないだけだ。ともあれ、気負うことはないとわかったのは良かった。有能扱いされるのは気が重かったが、理由がはっきりしたので。
さて、ここから今日のまとめ的な自分語りである。現代は苦手なことを潰す努力をしてゼネラリストになるよりも、得意なことを伸ばしてスペシャリストになるべきだとの風潮が強い世の中だ、と思う。違ったらごめんなさい。だから何をやってもスペシャルになれない自分は無能だと思っていた。しかしスペシャリストになるべきというのは、転職とか個人事業をやるときに専門性がないとアピールできるポイントがなくて困るからなのだろう。ちょっと前まで死んでもいいやとか上司殺して一生刑務所でも良いやとか思ってた私としては、意識高すぎてついて行けない世界の話だ。しばらくは底辺職場でゼネラリストとして頑張った方が精神には良さそうである。幸か不幸か、肉体労働はしばらくAIに取って代わられる見込みもない。ロボットにも100年ほど奪われないまま来ている。非正規有期雇用だからあと何年かしたらやめなきゃいけないけど、次の非正規労働でも見つければ食いつなげるだろう。そんな感じで生きてきた年上の人が職場にもたくさんいるしね。あと今の時期は汗かくから仕事終わりのラーメンとかめっちゃ美味しい。これは爆アド。
だから頭がおかしいみたいになって人生詰んだ人は、とりあえず死ぬ前に肉体労働現場に来ることをおすすめしたい。パワハラ上司がいたら半日で逃げたら良いし。どうせたいした職歴にならんけど、明日死ぬなら職歴いらんでしょ。私は裕福な老後のための、将来性ある仕事を得るための、キャリア形成を行うための、上流大学進学のための~みたいな人生からは落伍したのでそうしている。以上自分語りサンドイッチ終わり。