はてなキーワード: 無力感とは
無力感に向き合えないんだ
【シン・ウルトラマンのネタバレあり というかネタバレ気にせず話す】
現在公開中の『シン・ウルトラマン』を2回見てきた。あまりにも良かった。感想をどっかで書きたい。
ところで、その感想や叫びを漁る中で見かけた勘違いが「リピアくんが『野生の思考』って本を読んでる!」→「リピアくん地球人類のこと野生動物か何かと思ってる?」というもの。
別に誰がどんな感想を持とうが、或いはその人やそれに近しい観点を持ってしまった人が何をどう勘違いしていようが、それ自体は全然どうでもいいのだけれども、リピアくんとこの本の著者(レヴィ=ストロースの名前は聞いたことある人多いだろう)の名誉のためにもツッコミの言葉をネット上に残しておきたい。ついでに、この映画にこの本が登場した意味の考察をちょっぴり披露させてほしい。
1950年代までのフランスをはじめとした西欧に多かった(今でもかなり多い)哲学や思想が「西欧の文明における思考と、アジア・アフリカ・中南米の未開文明の思考とでは根本的に違う」という考え方で、主に科学技術や文化の面での進歩史観や優越感、啓蒙思想や資本主義と結びついて植民地主義や覇権主義の土台の一つになっていた。それに異を唱えたのがフランス出身の人類学者レヴィ=ストロースの『野生の思考』という書。特に文化人類学者やリベラル系の人に言わせれば「戦後の思想における最大の転換点」となっており、いわゆる人文系に広げてみても、構造主義を生み出し、更にその後のポスト構造主義などの思想にもつながる端緒となったという点ですごく重要な一冊になっている。
内容をものすっごく要約すると「『事象の切り取り方』『概念の置き方』ひいては社会秩序の維持や幸福追求に対する考え方はどの文化においても根本的な構造は変わらず、表出の仕方、あるいは社会が持つ興味の向かう先と取捨が違うに過ぎない。あらゆる文明が進歩史観的考え方を持つわけではなく、発展を望む文化もあれば安定を望む文化もあるというだけ。栽培思考(=科学によって裏付けられ、概念を用いて行われる文明的思考)と野生の思考(=記号によって行われる思考。「野蛮な思考」ではない)との間に優劣があるわけではないし、一つの文化の中で両方の思考は両立しうるし、実際個人の中ですら両立している」といったもので、その歴史的意義は「20世紀半ばの西欧にはびこっていた進歩主義、特に西欧の文化を中心とする思考、科学技術を背景に自分達を上位に置こうとする考え方への批判を行ったこと」「しかし、だからといっていわゆる”未開文明”や自然主義を礼賛するわけではないこと」「文化を『仕組み(構造)』に置き換えて分析するツールとして学問の場に登場したこと」あたり。
「文化を構造的に捉え、それぞれの要素が社会の中でどう表出しているかを研究する」という所から後に『構造主義』と呼ばれる思想を生み出したことで有名。更に言えば西欧の奢りや発展途上国(昔は「後進国」と言われてたよね)への見下しを批判する流れを生み出したという点でも評価を受けている。
ザラブにしろメフィラスにしろ、コミュニケーションの初手は「自分の科学力、技術力を地球人類に見せつける」事から始まる。その科学技術力の差を背景に、劣等感と焦りを刺激して地球人同士を争わせようとするのがザラブであり、劣等感と無力感……謂わば絶望によって人類を心理的に支配し最終的に兵器として利用しようとするのがメフィラス。それらに抗うのがウルトラマンたるリピアくん、というのが中盤の流れだった。
物語の序盤で、わざわざ観客に見せつけるようにリピアくんがこの書を読んでいた(演出しての)理由はここにある……気がしなくもない。16世紀から20世紀……あるいは紀元前から現代に至るまで、我々地球人類が奴隷、植民地、後進国、押し並べて言うなれば『未開人(文明人/強者たる自分達とは構造的に違う考え方をする者)』である他者に対する接し方は、ザラブやメフィラスをそこまで強く批判できるような立派なものではなかった。
宇宙人ゾーフィもそう。彼が裁定を行使できる者・絶対者としての力を行使したのは「『未開人』である地球人類が、未開人のまま我々『文明人』並みの危険性を持つ可能性が出てきた」からじゃん。
使用を思いとどまったのも、リピアくんもといウルトラマンの意思や感情を汲んであげたのもあるけど、基本的には、地球人類がβシステムを自力で解析・利用し、グリッチじみた手法ではあるがゼットンを無力化せしめたことで「『未開人』から『文明人』に格上げされた」だけに過ぎない。
そんなゾーフィにもリピアくんは抗う、というのが終盤のストーリー。もちろん滅ぼされる我々としてはたまったものではないけれど、じゃあ地球人類の歴史において、他人、他国人、あるいは他の生命に対してゾーフィと似たようなことをしてこなかったか、を考えると……やはり「滅ぼされるのは困るからやめてくれ」くらいしか言えない。
逆に言えば、あの外星人や地球人の中でリピアくんだけが”変”なのよ。我々が他者と相対する時、普通はザラブとはいかんまでも、マイルドなメフィラスかゾーフィくらいの扱いになるし、そうでなくとも暴力や政治で言う事を聞かせてその力を利用しようとする各国政府みたいな事をする。地球人類とリピアくんとの科学技術の差や大きさの比で考えれば、虫か何かを前にした人間、の方が理解として近いかもしれない。
しかし、リピアくんは(各国政府ひいては人類の歴史の悪辣さを知りながらも)、あのネロンガ戦のたった一度、リピアくんの足下でただ一人リピアくんだけに見えた星のような輝き、小さな他者のために命をかけられる個、そういう価値観を共有できる群体のために命を張った。そういうことをできる生命体のことを知りたくて、知り続けるために守りたくて、学んで、感じて、支えて、何度か支えられて、それでも分からなくて、その果てに見つけた『他者のために命を賭けられる自分』。虫のような他者のために、ネロンガの電撃や、ガボラの激ヤバ光線や、メフィラスのグリップビームや、1兆度の火球の前に身体を晒せる者。ザラブにもメフィラスにもゾーフィにも、あるいは普通の地球人類の日常の中にもない”変”な価値観を持つ、だからこそ『ヒーロー』、ウルトラマン。
自分が今回の『シン・ウルトラマン』に感動したのはまさにここで、「ウルトラマンとはこういうヒーローなのだ」「我々がウルトラマンをヒーローだと感じてしまうのはこういう理由なのだ」を2時間かけてぶつけられたのがあまりにも気持ちよかったからなのだ。
結論から言うと「わからない」。それはリピアくんに対してという意味でも、『シン・ウルトラマン』という作品に対してという意味でも。
というのも、リピアくん、地球人類のことをめちゃめちゃ頑張ってお勉強してて(かわいいね)、ものすごい量の本を超速で読んでるわけで、『野生の思考』だけがリピアくんの人格形成や思想信念の確立に寄与しているかと言われれば、まあもちろんそんなことはないだろうという演出はなされてる。レヴィ=ストロースの思想だってその後にやって来たグローバリズム等の思想史において批判を受けてきたわけだし。
そもそもリピアくんがザラブやメフィラス、あるいはゾーフィから地球人類を守ろうとしたのは「我々と彼らの文明は構造的に違わない」という計算、あるいは知識を基にした思想や信念からではない。「彼らの事を知りたい」という知的欲求から来る寄り添い、ゾーフィが言うところの「好き」、米津玄師が言うところの「あこがれ」という感情こそが、リピアくんの力の根本なわけで。
文化人類学の中でも大きな意味を持つ書でもあるし、作中においても先の展開を示唆しかねないアイテムでもあるけど、知らずに見ていた人なら分かる通り、別にこの書が作品全体に超大きな影響を与えているかは正直微妙かもしれない。でも、知っておくと↑のような考察も楽しめるという点では面白いよ。
・本の内容は『シン・ウルトラマン』という作品に意味を落としているかもしれないし落としてないかもしれないよ
・それはそれとして読んでおいて損はない本だよ
以上
anond:20220530192850の続きになります。
(はてな社に問題の記事の削除依頼を申請した結果、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をいただきました。対応して下さったはてな社の方々にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。)
私が、町山智浩の後輩男性(以下"X氏"と表記します)の元・妻の女性たち及びX氏に精神的苦痛を与えた記事を書いた当時の、動機や心理を思い返すと、自身のハラスメント体験に重ねて情報を捉えていたのが大きな要因だと思います。
ハラスメント被害そのものの苦しみだけではなく、私の身近にいる人間の中には、私の苦しみに対して理解や共感を示してくれない人、被害回復の手助けをしてくれない人が存在し(もちろん、理解や共感や手助けをしてくれた人も存在しましたが)、そのような心無い人たちの存在は、深い無力感や孤立感を私に与えました。
そうした無力感や孤立感に苦悶していた時、私は町山智浩のインタビュー記事の情報に接しました。今となっては、そのインタビュー記事の中で語られたセクシャルハラスメントの被害も現実のものではなかったと判明していますが、その情報を知った当時は本当の話であるものと私は思っていました。私は、その記事の中のセクシャルハラスメント被害者を、私自身に、被害者を助けようともしないで町山智浩の側に付いている(という誤ったイメージを、町山智浩の虚言によって付与された)X氏を、私の助けになってくれなかった人たちに、それぞれ重ねていました。
加害者の町山智浩に苦しめられるだけではなく、家族・伴侶であるX氏すらも加害者の側に立っていて、セクシャルハラスメント被害者である元・妻の方は、孤立無援で苦しんでいる。そのような(今となっては誤りと判明している)イメージが、私を強く捉えて離さなくなり、居ても立っても居られなくなりました。
ハラスメント被害の経験者である自分には、加害者の町山智浩と、町山の味方となって彼女たちを顧みない(と誤認していた)X氏を批判する義務や権利が有るのだ。抗議の声を上げられない彼女たちのためにも、自分だけは代わって抗議の声を上げるべきだ。たとえ他の人たちが彼女たちを顧みなくても、せめて私は彼女たちの何らかの助けにならなくては。そのような思いを私は抱きました。
言論人である町山智浩が、自発的な意志によって、広く販売される雑誌の誌面に掲載されるインタビュー記事として公開した情報なのだから、それをピックアップして公の場で批判することには十分な道理が有ると考えたことも、私の行動に拍車をかけました。
MeToo運動の我が国へ波及する様子も見て、何かが変わるような、私でも変えられるような気もしました。
しかし、私が町山智浩のインタビュー記事をピックアップして情報を伝播したことは、実際にはX氏の元・妻の女性たちを助けるどころか、却って苦しめる結果にしかなりませんでした。
X氏についても、もし私が冷静になれていれば「本当は、町山智浩のインタビューに抗議などをしたいのに、権力勾配の存在やマインドコントロールなど何らかの理由によって、町山に対する抗議の声を上げることが困難な状態に置かれているのかもしれない」という可能性も考慮して、仮に誤認情報に基づいてX氏に対する批判や非難をするにしても、もう少し抑制の効いた、精神的苦痛を与えたり名誉を傷つけずに済むような書き方が出来たのではないかと思います。しかし実際には、既に明らかになったとおり、私はそれが出来ませんでした。
私は、X氏を悪魔化していたのだと思います。悪魔化することで、あのような筆致で記事を書くことも正当な行動なのだと、私は勝手に思いこんでいました。非常に身勝手で独りよがりな正義感であったと思います。
今でも、セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、それ以外にも人間としての尊厳を踏みにじるような行為について、それらを他人が行っているのを認知したならば批判するべきであるし、抗議の声を上げてそれらを止めさせるべきであるという考え自体には私も変わり有りません。しかし、たとえそうするべきであったとしても、やはり冷静さを欠いて感情的になったり、節度を失ってはならないのだと、今さら遅きに失することではありますが、改めて痛感しました。
はてな匿名ダイアリーは、かつて「保育園落ちた、日本死ね」と題する記事によって、日本の社会全体に議論の空気と改善の動きを促したことがあることを、私は知っていました。
ハラスメントの苦しみについて理解や共感を得ようとしたり、抗議の声を上げようとすると、個人情報を知られて二次的被害を受ける可能性を考えて、被害者は躊躇するものです(これは、経験者の方々にならば共感してもらえると思います)。しかし、はてな匿名ダイアリーならば、二次的被害の可能性を回避することと、私のような弱い人間でも抗議の声を上げることの両立が可能かもしれないと考えました。
ここ数ヶ月、日本の実写映画業界の周辺では、監督や俳優によるセクハラ・パワハラ・性的暴力が露見して報道されることが増加しました。明らかに道理がないそれらの事案に対してですら、被害者の人たちに対して「自業自得だ」というような心無い声を浴びせる人たちが少なくありません。あるいは「それらの監督や俳優は、才能の持ち主なのだから、少しばかりの過ちを犯しても寛大な処分で済ませよう」と言う人たちもいました。町山智浩のインタビューや問題発言に対しても「町山さんのことだから」と言って、問題視せずに済ませる人たちが少なくありませんでした。
こういった著名人の立場の強さと非・著名人の立場の弱さの差によって、押し潰されているハラスメント等の被害者は少なくありませんし、弱い人間に対する理解や共感を示さない人たちから二次的被害を受けることもあります。それらに負けずに抗議の声を上げることを弱者でも可能にする、はてな匿名ダイアリーのような場は貴重であると私は考えています。
しかし、私のように身勝手で誤った正義感に基づいた独りよがりな断罪の振る舞いは、はてな匿名ダイアリーの価値を損ないかねないものであり、そのような意味でも私は罪深いことをしたと思います。
思いつくままに筆を進めてきたために論理性に欠ける文章となりましたが、X氏の元・妻の女性たちやX氏に対して私がしたことは、何ら正当化できないことだけは言うまでもありません。たとえ、私がハラスメント被害者であったとしてもです。
こうして書き連ねたことも、結局は自己正当化に過ぎないのかもしれません。まだ私は本当の反省ができていないのだと思います。
いったん筆を置きます。
現在ネット上で私に対する告訴をちらつかせている人物は、その人物の元・妻であると私が称したと主張している。しかし、文章の修正の前も後も、私はそんなことは一言も書いていない。その点に関してだけは明確にしておく。
2022/05/30告訴をちらつかせている人物がいるが、私はその人物の元・妻ではない。繰り返しになるが、最初から私はそのように称していない。本来ならば、セクシャルハラスメントの被害者として、特定されたり好奇の目に晒されるような二次的被害を防ぐために個人情報を曖昧にして書いた。それなのに、告訴をちらつかせている人物からは「自分の元・妻ではないから、このセクシャルハラスメントの被害の話は虚偽」と言われ、私は非常に苦痛を強いられている。痴漢冤罪をピックアップすることで痴漢の被害者の声を掻き消そうとする人たちがいるが、それと同じことをセクシャルハラスメントの被害者に対して行っていると、告訴をちらつかせている人物には自覚して欲しい。
以下の話は、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
ーSLAPP訴訟を準備している人に対する注釈ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初に発表した時点では無かった「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、上のとおり書き加えることにした。後に続く部分でも同じ書き加えをした。この、たったの一文を挿入することが、私には耐え難い苦痛だった。私自身のハラスメント被害を無かったことと、皆の前で宣言しろと言われているような気持ちになったからだ。私は今、トイレに行って嘔吐してから、この部分を記している。結局、あの頃と同じく今の私も、保身のために自分の主張を引っ込めたことになる。
ーSLAPP訴訟を準備している人への注釈・終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
元・夫が、ある場所で「離婚したとはいえ、元・妻が傷つけられるのは許せない。何らかの対応を検討する」と言っていることを知った。この元・妻というのは、何を隠そう私のことだ。はてな匿名ダイアリーに書いているのだから、隠すも正体を明かすもないが。
「傷つけられる」と元・配偶者が言っているのは、かつて私がある人物から受けたセクハラについての情報が広まって、私が心無い言葉を浴びたり、中傷される状態を指しているようだ。
今になって「元・妻が傷つけられるのは許せない」と言い出すぐらいなら、何故あの頃、言ってくれなかったのか。そう思って、元・配偶者ながら、というか元・配偶者だからこそ余計に、私はゲンナリしている。
私にセクハラをした加害者は、元・夫の仕事上で付き合いがあり、仕事以外のプライベートな時間や場でも私たちと交流が有った、私たちよりも年長の男である。
加害者は、私にセクハラしただけでなく、そのことを仕事仲間などに自ら話したりもしていた。懺悔としてではない。愉快な話としてである。つまり、セクハラをされた時にだけでなく、その後にも継続的に、私は傷つけられ続けている状態に置かれていた。
セクハラされた時、私は「そういうことは止めて下さい」と加害者に対して言ったのだが、私の憤りや恐れや嫌悪の感情をまるで理解しようともせず、軽い口調で「ゴメンゴメン」みたいな感じで誤魔化されただけだった。今でも「もっと強い口調で言えば良かったのでは?」「いっそ殴ったり蹴ったり物を投げつければ良かったのでは?」「何故あの時、もっと適切な反撃ができなかったのだろう」と、自分自身に対して不甲斐無さを覚えて、自己嫌悪に陥ることが度々ある。
さらに私が苦しむ原因になったのは、その頃は婚姻関係にあった現在の元・夫が、私の側に立ってくれなかったことだ。
加害者から私がセクハラを受けたこと、それに対して私は憤りや恐れや嫌悪を感じたこと、加害者へは私に対する謝罪をするように要求して欲しいことを、その頃は夫であった彼に訴えた。それに対する彼の反応は「あの人も悪気があった訳ではない」とか「あの人は昔気質の人だから」とか「あの人は冗談のつもりだったのだから、怒るのも大人げない」とか、概ねそういった言葉だった。漫画『寄生獣』でパラサイトと会話する主人公・新一が、昆虫か何かと話している気分に陥る描写があったが、私も新一と同じような気分だった。つまり元・夫は、加害者の側の人間だった。だったという過去形ではなく、であるという現在形で言うべきだろうか。
会社勤めとか役所勤めの仕事などであればその組織に訴え出て処分を要望するとか、金銭や知識を持っていれば弁護士などに相談するとか、何かしら対処の仕方があったかもしれないが、私は上手いやり方を思いついたり実行したりすることは出来ず、そうこうしているうちに私たちは、元・夫と元・妻という関係になった。
あの頃、彼は「馬鹿馬鹿しい話だ」と言った。近頃の彼は「これまでは馬鹿馬鹿しい話だから取り合わずに放置していたが、いい加減、噂を広められて元・妻が傷つけられるのは許せない」と言っているようだ。私にとっては、あの頃も現在も、少しも馬鹿馬鹿しい話ではなかったのに。
私の元・夫が「馬鹿馬鹿しい話」として放置できなくなったのは、決して私が苦しんでいることが理由ではないことを、私は知っている。元・夫が黙っていられなくなったのは、加害者の男が批判されているからである。元・夫は、あの男のことが大好きなのだ。
最近では、何処の業界や職場でも大なり小なり、セクハラは良くないことであり、するべきではないし、セクハラをする人がいれば止めたり批判するべきであるという意識が浸透し始めた。私にセクハラをしたことを愉快な話として吹聴していた加害者の男と、私を救ってはくれなかった元・夫が関係している仕事の世界にも、少しは変化があった様子で、私に対するセクハラの話を愉快な話とは受け止めてはもらえなくなったと聞いている。
このため、加害者の男は「大袈裟に話して誤解を招いた」と言うようになったらしい。大袈裟?誤解?私にしたことを、そのまま本人が言い触らして回っていたのに、いったい何が大袈裟で何が誤解なのだろうか。
元・夫は、誰に対して、どんな対応をするつもりなのだろうか。私がされたセクハラの話を誰よりも他人に広めたのは、ほかならぬ加害者本人なのに。元・夫は、加害者を批判したり止めたりしてくれなかったのに。まさか、加害者を批判する人たちに対して「元・妻が傷つくから許せない。セクハラについて語るのを止めろ」と言うつもりなのだろうか。仮にそうだとしたら、それを何故あの頃、加害者に対して言わなかったのだろうか。元・妻である私を救おうとしなかったことが知れ渡ると、元・夫としては困るのだろうか。
セクハラの被害者が、セクハラの加害者に対する批判を食い止めるために、よりによって元・配偶者から利用されるという救いの無い境遇を知ってもらうために、理解してもらうために、自分の気持ちを吐き出すために、はてな匿名ダイアリーに書いた。
以上の話はフィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。最初に書いた時には、ここに「どっとはらい」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
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このフィクションの日記に書かれた人間関係が、具体的に誰のことを指すのかに関して、はてブで推察と特定が試みられている。それに対する答えのようなものを記しておく。
以下もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
私は、人物特定に関する推察を肯定、否定のいずれもするつもりは無い。答えは無い。それが答えである。実在の人物・団体・事件には一切関わりはない。
そもそも特定が可能ならば、匿名ダイアリーに書いたりする必要は無く、私も現実の世界で対処しているはずだからだ。
一次的なセクハラが反復的に行われていれば、それを例えばボイスレコーダーで録音するなどして証拠を固めて私も反撃できただろうと思う。しかし、一次的なセクハラが突発的・単発的なものであった場合、被害者は驚きやパニックなど心理的な硬直状態に陥って、証拠固めなど実行できずに終わることが多い。たとえ複数回、継続的に行われるセクハラであっても、被害者が恐怖心で萎縮するなどして理性的に思考するのが困難な状態に陥り、やはり証拠固めをできないことは珍しくない。
私に対するセクハラを愉快な話として加害者が吹聴していたという、二次的な加害行為に関しては、その話を聞かされた人たちの記憶にも残っている。しかし、一次的な加害行為そのものに関する証拠が残されていない状態では、加害者が今になって主張する「大袈裟に話していただけで、事実ではない」という言葉を覆すのは、極めて困難だ。
二次的な加害行為だけに関して言えば、それ自体がセクハラなので、その被害を司法機関などに訴え出ることは理論的には可能かもしれない。しかし、それを仮に私が実行したとしても、やはり加害者は「大袈裟に話していただけで、事実ではない。しかし、たとえ事実ではなかったとしても、愉快な話として触れ回ったことは被害者を傷つけた。だから、そのこと(二次的な加害)については謝罪する」といった、一見すると謝罪に見えるが、肝心の一次的なセクハラ行為については否定する言葉を述べるという手法をとるだけであろう。
私が、何よりも加害者に認めて謝罪して欲しいのは、一次的なセクハラ行為についてなのだ。それなのに、加害者にとっての都合が良い主張を、それを覆す手段も持たないままに聞かされて、挙句の果てには「一次的なセクハラ行為については、認定が困難である」と公的に結論づけられるかもしれない。そう考えると私は、とても精神的に耐えられない。もっと悪い方向に想像を巡らせ、加害者が「むしろ自分の方こそ、セクハラしたと誤った情報を流されて苦しんだ被害者の立場だ」と、SLAPP訴訟などで私を攻撃してくるかもしれないとも思って恐怖すら覚えた。元・配偶者ですら助けにならなかったという、孤立感も私を動けなくした。
こうして私は、自分が受けた一次的なセクハラの被害を決して忘れたわけではないのに、無力感や恐怖感から口を閉ざすことを選ばざるを得なかった。私が口を閉ざしているから、どうせ何もできないと高を括って「大袈裟に話していただけ」と言い張ることで、加害者は乗り切ることにしたのだろう。元・配偶者から「セクハラと思われるようなことは無かったよね?」と誘導され、無力感や孤立感から沈黙することを選んだので、加害者が私のことを何もできない人間と値踏みしたのも無理はない。
加害者の男は、私に対するセクハラを無かったことだと言っている。つまり、私に対して行ったセクハラの話は、加害者の男にとってはフィクションというわけだ。私を登場人物にして作り上げた、馬鹿馬鹿しいフィクションだ。
ならば、と私も考えた。
私が私自身にとってのフィクションを作ったとしても、特に問題は無かろう。今度は私のターンなのだから、私の周囲の人物を登場人物として、馬鹿馬鹿しいフィクションを書いたというだけのことだ。柳美里の作品とは異なり、人物特定もできないように最低限の配慮もしてある。人物の特定ができないということは、私の受けたセクハラは日本の社会でありふれた話なのだ。それに、加害者とは異なり、私は私のフィクションを現実の周囲の人たちに言い触らしたりなどしていないのだから、私の配慮に少しは感謝してもらってもいいぐらいだ。
世の中のセクハラ加害者たちは、私たちのような被害者たちが沈黙しているからといって、セクハラした過去を全く無かったことにできるなどとは思わない方がいい。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』の中で、法的に罪に問えない人物に対して京極堂が呪いを掛ける描写があったが、このフィクションも呪いとして書いたようなものだ。呪いが在るのか無いのか私には分からないが。
以上もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。一つ目の追記を書いた時には、ここに「とっぴんぱらりのぷう」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
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私は、自分が誰なのかも、文中に書いた登場人物が誰なのかも書いてはいない。私は誰それの元・妻ですとも書いてはいない。
では何故、私はフィクションと銘打って、人物を特定しない書き方をしたのか。それは、これが「普遍的な物語」だからだ。被害者となる人間、なった人間は、私だけではなく誰でもあり得るし、加害者もまた同じく誰でもあり得る。被害者の側に立たないで、加害者の側に立つことを選択する第三者も、同じく誰でもあり得る。だからこそ、読み手に「これは自分のことを書いているのでは」と自問自答して欲しくて、自省を促すために、そういう書き方をしたのだ。そういう意味でならば、読み手に「自分のこと」という思いを抱かせる狙いが有った。想像力がある読み手ならば、性別を入れ替えたりセクハラをパワハラに置き換えたりして、考えを深めてくれることだろうと淡い希望も抱いていた。
しかし、それを「これは自分のことを書いているに違いない。だから自分に対する名誉毀損だ」と決めつけられて、法的な措置をちらつかせることで圧殺しようとする人間が出てくるとまでは思いもよらなかった。それはまるで『ホテル・ルワンダ』の公開に対して「これは関東大震災の朝鮮人虐殺を描いていて、日本人を攻撃している。日本人に対する名誉毀損だ」と言うようなものではないか。
自分のことではないならば「この文章に書かれた人間の同類にならないように、自分は気をつけよう」と省みれば済むことではないか。
私が「ある人物の妻ではない」ことによって、何故「私がセクハラを受けた話」まで無かったことにされねばならないのか。ルワンダの虐殺被害者でなければ、虐殺の被害者ではないと言うつもりなのか。自分たち以外に、この社会を構成している人間が存在しないとでも思っているのか。
仮に、ある痴漢事件で冤罪により罪を問われている人間がいたとしても、それとは別の痴漢事件の被害者に対してまで、被害を訴えたり加害者を批判したとしていることを「これは冤罪で苦しんでいる自分のことを書いているに違いない」と決めつけて「痴漢の冤罪を作るのは止めろ」と言うのは、いくらなんでもおかしいではないか。
セクハラを含めたハラスメントの被害というものは、とても苦しい。それ自体が苦しい上に、顔や名前を出せば好奇の目に晒されて、さらに苦しむ。その一方で、その苦しみを誰か他人に分かってもらいたい、共感してもらいたいという思いも湧く。以前、はてな匿名ダイアリーでは「保育園落ちた、日本死ね!」という記事が書かれたということを知っていた。だから、ここでなら匿名を保ったままで、自分の辛い気持ちを吐き出して理解や共感を得られると思ったのだ。
それを今、私は「お前は自分の妻ではない。だから、お前のセクハラ被害の話は嘘に違いない。正体を暴く」と脅されている。理解や共感を示してくれる人ばかりではないだろうとは予測してはいたが、まさかSLAPP訴訟によって口を塞ごうとする人が出てくるとは思わなかった。
私は、私が救われるために、私自身の物語を書いた。私自身の人生や尊厳を、無かったことにされたくなかったから。セクハラだけではなく、ハラスメント全体を減らしたい、無くしたい気持ちがあったから。たとえ過去の自分は救われなかったとしても、未来の他の誰かが同じような苦しみを味わうことは防げるかもしれないと思ったから。
「この文章は自分のことを書いている。だから許せない」と言う人間は、私が私自身の話を書く行為について、許可や不許可を下す権限が有るのか。例えば「今、そんな文章を書かれると、自分が誤解を受けて困るから止めろ」とでも言うつもりなのか。では、私は、いつになれば声を上げることを許可されるのか。一年後か?五年後か?十年後か?その日は、やって来るのか?文章を修正し始めて理解したが、そんな日が来ることはなさそうである。
この文章を書いた人間である私が、ある特定の人間の妻ではないからという理由で、嘘つき呼ばわりされて、勝手に私の苦しみが無かったことにされるのは、極めて心外である。
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「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、苦渋の決断とはいえ書き加えたことで、私の文章からは普遍性が失われた。私の文章を読んだ人間の誰もが皆、セクハラを含めたハラスメントの問題を自分自身のこととして受け止めて欲しいという思いから書き始めてアップしたはずの文章だったのに、今の私は、一部の人間をこの問い掛けの対象からは除外しようとしている。とんだ腰砕けだ。私は、セクハラを無くしたいと言いながら、土壇場になって、我が身かわいさの保身に走ったのだ。このクソみたいな自分自身のことを許せない。私にはセクハラやハラスメントを無くすことはできそうにないと思い知った今、絶望しかない。
元増田です。お子さん3人全員診断済みとは凄まじい。
ここ全く一緒。妻の口癖に「普通は〜」があるくらい、特に「普通」にこだわる。「普通」から逸脱することを極端に嫌うんだよね。全てにおいて普通であることがむしろレアケースだと思うのに。
当たり前と思うことを壊すための話し合い、参考にさせてもらう。私も何かこだわりを持ってしまっている可能性があるから、それを溶かし合うようにしていきたい。
カウンセリングの場は(もちろん変な集団には気をつけつつ)もう少し探した方がいいのかなと思ってる。集団療育の同じクラスのパパママとは話す機会が多いんだけど、みんな同年代の子だから、将来への不安の共有に留まりがちだなあって。一方で療育の先生方の体験談やコラムにはだいぶ勇気づけられたな。
他に知り合いに相談しても「でも子どもは可愛いでしょ?」とか「親が元気でいなきゃどうするの」とかいう方向の助言が多かったから、かえって妻は滅入ってしまったのだと思う。いま思えば、答えの出ない相談を何度も同じ人たちにしている時点で作戦変更すべきだったんだよね。
「3人で生きていきたい」という文字があったので自分からアドバイス。
怒鳴るような喧嘩は毎日だし殴ったろうかと思ったことも何度もあるけど(自分は人生で暴力を一度も振るったことのないヒョロい人間です)、それでも多分ウチは軽い方なんだと思う。
最初は大変だった。
発達障害に対する偏見は自分の中にもあったしどう付き合っていけばいいのかひたすら悩んだ。
でも日々疲弊していく妻を見てこれはいかん、打開策を考えねばと気持ちを切り替えた。
で、こういうでかい問題が起きた場合、受容できるかどうかが全てってことに行きついた。
子供は〇歳になったらこれが出来て当然、夫婦はこんな関係性が当然、家族はこうあるべし。
ウチの奥さんの怒りや無力感はいろんな「普通」に縛られて、その枠から外れる不安から発生してた。
健常児でも発達障碍児でも千差万別で正解なんてないのにね。
だからその枠を壊す話し合いを徹底的にやった。
子供を立派に育てなくてもいい
別居してもいい
籍を抜いて同居してもいい
落ち着いたらまた結婚してもいい
役割を全うしなくてもいい
何年後には解散するチームと捉えてもいいし、子育てをお金がかかる趣味と割り切ってもいい
愛情をかけてもいい、かけなくてもいい
発達は遅くてもいい
ここまで壊して、それでもこのメンバーで家族を続けたいかって考えて、夫婦ともに同じ方向を向けたから今も家族でいられてる。
無意識に自分が当然と思っている思考の枠から離れてゼロベースで未来を考えられるか。
それが受容するってことかなと今は思ってます。
奥さんもいろんな「普通」をそぎ落としてそれでも「3人で」って考えられるなら、きっと再構築できるよ。
公的なカウンセリングも大事だけどウチで一番効果があったのは似たようなレベルの発達障害の子供の親との愚痴の言い合いをする場。できれば酒ありで。
みんな苦労してるし、3年、5年先はこうなるって実体験で言ってもらえるのがすっごく助かった。
「ウチもそれで悩んでたけど高学年になったらおさまった」って言葉に心底救われた(実際そうだった)。
なにより奥さんの顔が明るくなった。
費用は一万円ほど。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoin/mext_00110.html
抽選で介護施設に行ったあの2日間は無力感と無駄を感じた。介護福祉士になるわけでもない教職志望が行ったところで、お年寄りのお話を聞くしかできないのである。それ以上でもそれ以下でもない。役に立ったことなんて何もない。
特別支援学校へ5日行った方が明らかに学びがあって今も生きている。職場にだって何かしらの障害を持つ人がいるけども、具体的にどう支援したらいいか先生方に教わったことや、その後学問として学んだことが、障害を持つ人を職場に受け入れる時にも、障害がない人に対してもバリアフリーに近づけることができたからだ。
anond:20220319212947のブコメ、やばくね?
そう思うけど、ガチで自分でペットボトルすら開けられなくて、高齢男性が簡単に開けてくれた時の無力感凄いんですよ。台車で座礁してたら押してくれたりとか。30代女性と70代男性の腕力差そんなに?ってなるんすよ
収入も腕力も政治家の比率も婚姻後の姓の比率も明らかに違うのに、外れ値や論点ずらしによる社会構造修正主義をいつまでも繰り返すバックラッシュ勢力の方が卑怯で有害。
社会構造、腕力筋力、出産育児。これだけのハードルが一方に課されている以上、「男性の時点で強者」は間違い無い。弱者男性と同じ比率で弱者女性がいてもお前らの視界が狭すぎて見えて無いだけだ。
じゃあ日本より体力測定の平均値が高いアフリカの国があったらその国は日本より強者でその国は日本にODAを渡すべきだみたいな話になんの?
腕力を社会的な力の強弱に加えることを認めたら、日本での黒人差別とか何それ? って話になりそう。彼ら、平均的日本人よりガタイいいもんな。そうか、日本においては黒人差別の訴えは逆差別の訴えってことだったんだ!
今ウクライナ事変での状況は
ロシアは十分な準備と兵力を集中させており軍事的に失敗する可能性は低い。無血で降伏→包囲封鎖から降伏→武力制圧ぐらいのオプションは考慮してるのだろう。
一方でイデオロギー的に派兵の大義はないがWW2の教訓も踏まえ西側の結束は素早く十分強い制裁に出た。
設定された目標は2つ
ロシアは早期にウクライナを併合し政権の求心力を戻し経済的に困窮しても長期で回復できればよし
ウクライナは侵攻遅滞させ制裁と情報を駆使してプーチン政権の政治力を削ぎ交代か転換を促したい
ロシア軍は脆弱でウクライナを占領できないというプロパガンダは一時的な士気には関わるが、占領完了し傀儡ウクライナ国民がロシアを支持する形になった際にあの情報はなんだったのか、勝てない戦に賭けてた無力感で日本でも悪影響があるのではないか。
最終目標は「軍事侵攻を選択した国には数倍の代償を払う結果を保証し二度と企図する国を出さない」だろう。
同じ力による屈服なのではないかという批判には単独で実施しうる軍事行使より多国間協調が必要な封鎖のほうがシステムとしてより良いと考える。
大学受験に的を絞るからこそ、そもそも「その学校から難関大に行く人数」自体は問題じゃないと気付いてほしい。
受験はクジじゃないんだから確率なんて関係ないし、学力にはそれにあった適正な指導が一番大切。つまり、これからの6年間で、「この子がもっとも伸びる環境はどこか」という視点で考えることが重要なんだよ。「天才の中に放り込めばわが子も覚醒するのでは…」というのは、親のムシのいい期待であって、普通はそうはならない。それより、劣等感にまみれ、さりとて挽回する力も術もなく6年間を過ごす子供の気持ちを考えてみてほしい。その状況で、周囲に追いつこうとあがき続けられる子がどれくらいるだろう? 結局、その子が望み、かつ、普通に努力して入れるところが、大体の場合その子の最適環境だ。
ちなみに、自分の場合は80人定員の進学校に80位くらいで滑り込んだ。合格最低点から10点くらい低くてそりゃ不合格だよなーと思っていたら3月の終わりに補欠で声がかかったので、普通の年ならあきらかに入学できていなかっただろう。そんな自分は、中学3年間ぶっちゃけ勉強壊滅で成績は80位くらいをキープ。授業中は寝倒すことで有名で、教師にもほぼ見放されてた。
ただ、高校から編入で1クラス入る学校だったので、そこで一時的に80位/80人中→90位くらい/120人中となったおかげで、「あ?意外といけるが?」となり、高校では得意科目もできて成績はその位置をキープ。結果、大学受験も一応はなんとかなったが、あの中学時代が6年続いていたらぶっちゃけ大学行けたかどうか全く分からん。まあ俺が根性無しだったと言えばそれはそうかもしれんが、中学時代の80位前後仲間で、そのまま高校でも110番台に沈んでいった連中は、その後大学に行ったという話すら聞かない。同窓会でも噂すら聞かない。
そして自分は、大人になった今も、中学時代のあの無力感・劣等感からなかなか抜けだせていない。それはそれで自分の人生の武器になっている部分はあるけど、それはただそうなっているというだけで、それが人生において必要なことだったとは別に思わないな。
だからどうか、子どもには適正な環境を準備してやってくれと思う。身の丈に合わない場所に入って苦労するなんて、よくある話っちゃよくある話だし、人によってはそこで発奮して挽回できるのかもしれないが、誰もがそうとは限らないのだからな。
たぬかなの炎上騒動もまだ冷めやらぬ勢いを保ちながらも下火になりつつあるところで自分自身の心の整理を含めて書こうと思う。
今回のたぬかなの騒動に関して自分が思うところとしては、前から配信でやたらアンチに構うたぬかなの配信見ていたしそれはたぬかな自身が
損してるなとは前々から思ってた。ただたぬかなの配信を見てた人にはわかると思うけどミソジニー拗らせたようなセクハラ粘着おじさんみたいのが
いたし、ブスだの死ねよとか平気で言ってくるようなアンチとか、完全に頭がイカれてる奴とたぬかなは真正面から相対してたからこそ、どこかでタガが外れてしまったんだろうなと想像に容易い。
たぬかなが言ったことは良くなかったしわしも配信でよくないよってコメントしてきた、ただ、彼女が差別を意図してたはわけでなくてUberのナンパが気持ち悪かっただけなんだろうなとは格ゲーファンならわかってるだろう。
散々解説記事も出ているが、あそこでの人権って言葉は恋愛対象にないって意味でガチの人権は意味していない、自殺しろって言ってた動画は粘着してきたアンチが死ねよって言ってきたから
本気で怒っただけ。コピペされてる人種差別やLGBT差別のコメントは捏造、世界を回ってきたたぬかながそんなこというわけないでしょ。
今回の件以上のことを知っても本気で怒ってる人はいるだろうしそこはたぬかなが反省すべき点ではある、ただ今たぬかなに向けられている言葉は正義なのか?
Twitterでたぬかなに常に投げかけられている言葉を見た方がいい。20日朝の現在も一分に満たないペースで心無い言葉が投げかけられている。
https://twitter.com/search?q=%40kana_xiao&src=typed_query&f=live
「お前に人権はない」「死ねよ」「自殺しろ」「AVデビューしろ」スクロールすればこういった言葉を投げかけてる人を見つけるのはさほど難しくない。
こういったことが本当に正しい行いなのか、いつまでこうしたことを続けるのか。
結局は過去の炎上騒動から何も学ぶことはないのだという無力感に苛まれられている。
去年から今年にかけてこうした炎上騒動規模の大小はあれ増え続けている、外野の人達から見ればeスポーツはダメだって今回の騒動見れば思うかもしれないが
これはeスポーツが世間に認知されつつあって過渡期の摩擦であり大きな転機にもなると考えている。今までアウトローでアングラな雰囲気から、クリーンなイメージを作りつつ今までの良さも伸ばして行ってほしい。
こうした騒動は野球やサッカー、ボクシングや将棋等々どのプロスポーツも似たようなことは経験してきているし、これらのプロスポーツは乗り越えてきたから今がある。
結局のところこれが最後の炎上騒動になることはないので、統一機構と選手会みたいなどのような形がいいかはわしにはわからないけど業界全体を俯瞰するような組織、
選手のサポートや啓発活動を含めた引き締めができる団体や仕組みをわしは望んでいる。JeSUにそういったリーダーシップを期待していたが今回のような事案では対処できないしそもそもあの組織が先頭に立って
動いたことはないので、新しい団体や組織が必要なのかとわしは考えている。
今後ともeスポーツが発展していくことともに今回の騒動で鉄拳のプロを知った人はプロシーンがどう変わっていくかいっちょかみではなくて監視していってほしいなと私は願っています。
昔の下っ端で今偉い人が無力感に陥っているのかもしれない
私はオープンレター署名者にも批判者(の一部)からも距離を取りたい立場です。
その上で、両者の気持ちに寄り添える部分もあるのですが、それを上回る嫌悪感のようなものが両者共に湧きます。
署名者側が批判する「女性差別的な文化」は今も渦巻いてますし、中心人物に対する匿名の誹謗中傷は一生止まないのでは、とさえ思うので、その事実に対する怒りや無力感は想像を絶します。しかし、今回のオープンレターはスマートで間接的な集団的中傷であることを理解し撤回すべきだと思いました。怒りをぶつけたいだけにしか見えないそのやり口は、相手と同じ土俵に立っています。
批判者側の中で、匿名による誹謗中傷を行うものは論外ですが、批判が的を得ていると思える部分がある中で、白い人や青い人のやり口には底意地の悪さを感じ、結局は相手陣営の火に油をそそいでいることに本当に気づいていない。「多様性」を履き違えた人々を、スマートに間接的に中傷したい欲望が垣間見えるので、ついていきたくないし、彼らは結局、自分の楽しみのためにやっているのであり、燃え続けてほしいとさえ思っているでしょう。
署名者側の苛立ちに寄り添いながら、批判者側の理論を冷静にすくい取るような人を待ち望んでいますが、きっとそれ自体が無理なことなんだろうという結論になる一方、世の中には、優れた社会派カルチャーを黙々と制作している人々が居て、その人達が生み出すものであーだこーだ言うのが一番だなと、いつもの着地点にたどり着くだけなので、皆さんTwitterをやめるというか、書き込みをやめる勇気を持ってはどうかなと思いました。
むかしむかしある所に、三匹のサクブーがいました。
三男豚「(作画を)語らざる!」
ある日三匹は、荒れ果てた「作画を語るスレ」を捨てて、独立することを決心しました。
長男の豚は、Twitterのサクブーと楽しく暮らしたいと思いました。
次男の豚は、海外のサクブーとSAKUGAフレンドになろうと思いました。
三男の豚は、エロ絵を練習して同人で年収1000万円になろうと思いました。
長男の豚は、最初はおとなしくTwitterで暮らしていましたが、徐々に攻撃的なツイートを連投するようになったので、周りと揉め始めました。それで、自分の優秀さを愚民どもに見せつけてやろうと思って「このカットは明らかに○○さんの作画。このシワとエフェクトが特徴的」とか解説するのですが、Twitterにいるアニメーター御本人に「あー、そのカット描いたの俺じゃないです(^_^;)」とかツッコまれてしまう始末。そんな失態と暴言を繰り返すうちに、いつしかフォロワーの9割にミュートされてしまいました。その後、作画は語りたいけどツッコまれるのは恐いので、ポエム的なふわっとしたツイートとサザエさんの実況だけするアカウントになりました。
次男の豚は、さっそく英語と中国語の教科書を買ってきましたが、あっという間に挫折しました。彼の部屋には、英語の教科書と中国語の教科書と液タブとデッサン人形とたくさんの絵の教本と原画集とポーズ集とアニメーター同人誌がありましたが、なにひとつ役に立っていないので、ひどい無力感に襲われました。また、海外のサクブーは母国語と日本語が堪能で、作画も語れて絵もそれなりにうまいという高学歴エリート集団でした。それで、次男は嫉妬に狂って外国を憎みはじめ、最終的には「海外の反応まとめ」を見て「日本凄い」だけ言う生き物になってしまいました。
三男の豚は、一念発起して「なぞるだけで絵がうまくなる」というドリルを買ってみました。しかしすぐに、なぞるのだって簡単じゃないと気づいてしまいました。それでもう絵の練習は止めて「作画を語るスレ」に帰ろうかとも思いましたが、「女の子の匂い好きすぎてつれえ;;」「エイトフォー買ってきな;;」みたいなアニメと無関係な書き込みばかりで居場所がありません。しかたなく、コツコツと絵を描き続けました。そうこうするうちに金田伊功が好きだった昔の気持ちを思い出し、数年後にはプロのアニメーターになりました。そして「あー、そのカット描いたの俺じゃないです(^_^;)」と長男豚のまちがいツイートにリプライするまでに成長したのでした。
(終わり)