はてなキーワード: 命題とは
いわゆる貴族とかには数学のような法則性があって揺らがないもの=神聖なもの、
という価値観もあっただろうし、
ガチガチに論理的な曲ほど神聖で良いもの、という価値観もあったはず
現代の歌謡曲、ポップスの作曲はモータウンだったり、様々な音楽の影響を受けたごちゃまぜになっていて、
色々なジャンルのいいとこ取りみたいになってるけど、
今の時代だと、結果的には勝ちパターン集みたいになっちゃうよね
まあ、仕事としては売れる曲を作るのが命題だったりするので、そういう考えでも正しいわけだけど
究極に創造的なことをやるなら、既存の音楽理論を破壊して、コードとか音階みたいな概念を捨てて、
音楽だって音なんだから周波数だ、みたいに考えて、スペクトログラムに絵を描いたり、ピアノロールにドット絵描いたり、
一般人にはノイズとか雑音にしか思えないものを論理的に生成したり、
よし、整理しよう
そもそも「同窓会に呼ばれない人でもなきゃ、同窓会で小中の同級生に会えば中卒の人に会える」って話だよな?
整えると「人は同窓会に行けば中卒の同級生に会える」という命題になる
この命題について、偽だよ、と言わんとしたのが「みんな大学や院に行く(=中卒でない)小中はある」だ
さて、この世には以下の4パターンの人がいる
a.同窓会に呼ばれる人 …(i)
b.同窓会に呼ばれない人 …(ii)
a.同窓会に呼ばれる人 …(iii)
(i)は同窓会で中卒に会える人
(ii)は同級生に会えない人
(iii)は同窓会に行けるが中卒に会えない人
(iii)があるので、命題は偽となる
同窓会に行けば中卒の人に会えるという人ばかりではなかった
これで理解してもらえなかったらもう流石に知らーん!
詳しく答えてくれてありがとう!
納得できる所もありつつ、幾つか疑問点も有ったので書いていく
組み合わせであり合わせ技だから、っていうのは分かった
要するに、例えば
としたときに、
が、「AかつB」とか「AまたはB」が真の時に真である、だからCの真偽はBの真偽に依存するので、Bつまりタイトルに言及する必要が有った、って言う事だよね
で、じゃあCはAとBのどのような組み合わせなのか、と考えると、例えば
「広告全面黒塗りで右端に「月曜日のたわわ」って書いてある広告」は多分セーフ、という事なので、Aが偽でBが真の時はセーフ(Cは偽)
「タイトルが「月曜日のららら」だったらあのイラスト+編集部コメント」が多分アウト、という事なので、Aが真でBが偽の時はアウト(Cは真)
この時点で広告が問題であるか決める命題Cはどうやら「AかつB」ではないね(Aが真でBが偽の時にアウト(真)なので)
ただ、ここで1つ目の疑問点が有って、今のところ「Aが偽でBが真の時はセーフ(偽)」「Aが真でBが偽の時はアウト(真)」と、Cの真偽はAの真偽そのままになってるんだよね
もし他の象限でも「Aが偽でBが偽の時はセーフ(偽)」「Aが真でBが真の時はアウト(真)」となると、Cの真偽はBの真偽に関係なく完全にAの真偽と一致する事に成ってしまう
その場合、Cの真偽を論う時にBの真偽に言及する論理的意味は無くなってしまう、という事を言っていたんだよ
(加えて、Aつまりイラストの修正は簡単だけど、Bつまりタイトルの修正は実質的に無理であるという事情を鑑みても、問題視できるのはAのみになってしまうのでは?という事でもある)
だから今の所出してもらった例だと、CはAとBの組み合わせである、と言う主張に成って無いのではないかな?というのが1つ目の疑問
次の疑問、
広告にすでに「月曜日のたわわ」とう文字と単行本の表紙が載っているので「十分考えられる」というよりは「僅かにその可能性もありうる」程度かと。
ここについては根拠が良く分からない、「月曜日のたわわ」とう文字と単行本の表紙が載っている事と、広告を出す側が「(作品の中身は知ってるけど、それはそれとして、この絵単体で)」という意図を持ちうる可能性の高低にどういう関係が有るんだろう?
次の疑問、
これはたわわ広告の問題点の発動条件に「よくよく見る」を加える、という事で問題無いかな?
広告を見た多数の人のうち、「よくよく見る」を実行した人にだけ広告の問題点が発動する、という事だとすると、
「よくよく見る」をする人の割合によっては、その問題点が実際に問題であるかどうかの判定にも関わってくるのでは?(つまり、例えば「よくよく見る」人が極端に少ない場合、問題点があるとしてもその派生頻度の極端な低さから実質的に問題と言えるほどではない、となってしまうようなケースもあるのでは?)
次、
以降に書いて貰った部分、
これって、「たわわ広告がアウトである理由」じゃなくて、「ナタリーのあの記事がアウトである理由」になってない?
基本的な前提の確認だけど、あの広告を見る大部分の人はナタリーの記事を知らないし、編集部のあのコメントも知らないよね?
だとすると、「たわわ広告がアウトである理由」はナタリーのあの記事を知らない状態でもできる批判じゃないといけないよね?
でもあなたの批判は全体的にナタリーの記事と編集部のコメントに依存したものになってしまっている
だとすると、そこから導かれる結論は「広告は問題無い、しかしナタリーのあの記事は問題である」という事に成ってしまわない?
しかも今回のたわわ広告に向けられた批判は「日経新聞」という媒体を強調するものが多いので、
「広告は問題無い、しかしナタリーのあの記事は問題である・・・様に見えるが、こちらは掲載媒体がナタリーなので問題無い」
という結論にもなり得るように思えるけど、どうだろう?
あと
は端的におかしいよ
広告がナタリーの記事の情報を含まない(広告を見た人の大半はナタリーの記事を知らない)以上、
ナタリーの記事から問題化できるのはせいぜい「たわわ広告の製作意図」になる
しかし「編集部コメントがなければ」という条件では「たわわ広告の製作意図」は変わらない(編集部はコメントを出していないだけで同じ製作意図を持っている)訳だから、セーフに成る訳がない
日本の理系がおかれている研究環境がやばい。これは当事者の困っている人々ではなく、外部の有識者でもなく、隣人たる文系博士予備軍からの心からの叫びである。
自分はこの春、国から月15万の生活費と年間数十万の研究費を支給された文系後期博士課程である。
(ここから次の()までは心の赴くまま書いた日記なので読まなくて問題ない。)
恥ずかしながら研究費というものを貰うのは初めてなので、あの専門書買っちゃおうかな、アドビ―サブスク契約は規約的に大丈夫だろうか?などとウキウキであった。当初に申請した金は二万弱。大学が募集期間を10日間しかもうけてくれない異常事態だったので、必死で捻りだしたいま必要な専門書を買う為のお金である。担当教授にはもっと交通費とか機材代とか申請すればよかったのにと言われたが、必須でないものを買うのは気が引けたし、正直通るとは思っていなかったのもあった設定であった。
運よく選考を通過し、晴れて生活が楽になる!と生活費支給に喜んだのもつかの間、なんと研究費二十万近く以上増えていた。どうも、申請した金額のほかに基盤研究費というものを貰えるらしい。うれしいが、正直使う当てがない。しかし事務によれば、使い切らないと怒られるし来年から後輩が予算を減らされて困るのだという。とりあえず、何が有意義に使おうと教授に相談したところ、タブレットでも買えば?とのことだ。いやいや私がパソコンで使うのは検索とワードエクセルパワポ位であり、タブレットは必要ない。さらに言えばパソコンだってまだ使えるので必要ない、事務に怒られますよ、といえばそんなの誰も気にしないよ、とのこと。担当教授いわく、大学では「とりあえず買ったパソコンやタブレットを積む教授」が常態化しえいるそうだ。そして、それはなにも教授特権ではなく、学生も当たり前にしていることだという。それはをきいた時は、研究費というものの実態に目が回った。結局、コピー紙やインク等を管理できる量だけ買って、あとは英訳した論文の校正費用にあてることにした。
(ここまで日記)
少なくとも私がいる文系学部の教授は、年度末になると「研究費を使い切らねばならない」という命題の為に、生協に走るのが恒例行事だという。そこで売られている、業者おすすめの最新パソコンを買う為に。
とよくネットで叩かれている、性能が落ちる割に重くてごつく、壊しやすい大学生の為の無料修理保証つきでも高いといわれるアレである。
会議の時、同じ生協のパソコンがずらりと並び苦笑いすることもしばしばだという。
ミーハーではない、ガジェットオタクでもない、転売ヤーですらない。その証拠に、すぐ飽きたとさえいえない、教授たちの部屋には開封すらしていない、そもそも買う時もスペック確認されていないパソコンが積んである。
うちが特殊なのかと他大の教授たちに軽くきいたところ、研究室に埋もれる生協パソコンの群れはあるあるだと笑っていた。それもこれも、文系も理系も平等に研究が配られ、使い道もしっかりと精査されないからだ。
理系がお金がなくて仕方ない時に、同じ大学の中でこんなことが起きているのだ。もちろん文系だってお金がいくらあっても足りない研究は沢山あり、有意義に使われている事例もたくさんある。
乃木坂46メンバー、「同性との挙式」をエイプリルフールに投稿し物議。「性的マイノリティをネタとして消費」と専門家
https://news.yahoo.co.jp/articles/00a1935ffce9837a1749b7ce8423912c4747dca0
この記事の主張について心情的な面は理解できるのですが、立場を置き換えた場合論理的に矛盾する主張になるので、舌禍の種になりそうな気がしました。
該当する主張はこちらです。
言い換えるとこういうことです。
これが成り立つには、対偶も成立しないといけません。
このため元の主張が通ってしまう場合、異性愛の方が異性同士の結婚と同じ感覚でエイプリルフールに同性との結婚を示唆した場合、その方も同性愛否定派とみなされてしまいます。
まず最初に「美人は人生イージー」についての是非を問う日記じゃないです。
そう感じる人は多々いると思う。
こんな反論もあると思う。
確かにそうだと思う。
しかし最近ふと「まなちゃん(仮)」という女性がいたな〜〜なんて思い出した。
なぜ思い出したかというと、最近こんなブログを読んだのが始まり。
https://anond.hatelabo.jp/20220321231143
弱者男性がモテるために努力して、結局モテないというブログなんだけど、
性格・所得どうこうはさておき、外見でモテない人は恋愛も結婚も一筋縄じゃいかないよな〜〜、
じゃあ逆にこの人の反対側はどんなんだろう?そういえば「まなちゃん(仮)」って反対に近いかもな?て感じで。
日々の情事ブログに載せる裏垢女子インフルエンサー的な女性で、やり取りの中でそのブログを教えてもらったんだけど、
結局その後話題がなくなって自然消滅したけど、暇なときそのブログをちょくちょく読んでた。
今日は城○○似のセフレに会ったとか、今日は初めて5pしたとか、今日は○○とハプニングバーに行ったとか、それはもう酒池肉林の日々。
ブログに載せている彼女の写真を見ると確かにモテそうだと思った。(芸能人だとauのCMの高杉くんのやつの女優と姉妹か?ってくらい似てた。)
ギャルとかより清楚っぽい子の方が実はすごいんだな〜とか思った。
そんな内容8割で、残り2割は「寂しさを埋めるために抱かれてる」とか、「私は幸せになれないしなる気もさらさらない」など内面的な内容で、
まぁ確かにこんだけセックスしまくってると心に闇を抱えてるんだろうなぁなんて思いはしたけど、
なんだかんだいって顔がいいから、理解のある彼氏くんが現れて、今までのことなんて嘘だったかのように人並みの幸せを手に入れるでしょと思った。
寧ろそうなってしまったら、外見は何にも勝るということを理解しないといけないから、そうならないでくれ〜〜とさえ性格の悪い私は思った。
そして数ヶ月が過ぎ、まなちゃんのブログは彼氏一色になっていった。もう結末はわかり切っていた。
散々イケメンとセックスしまくって最後に全てを受け止めてくれる男性に出会い結婚する女。
そんな立場の違う二人の人生。否が応でも他者との比較について考えさせられるよね。
幸せに生きるには「他者と自分を比較しない」なんてよく聞くけど、無理じゃね??
文系理系関係なく、新しいものがどうなるかわからんってだけの話だ。
事実、自称頭が良くてたまたま運がよく成功した連中の中に、直ぐ確実に儲かるネタが有るはずだ!っていう人間は多い。元が理系であろうとな。
誰が出すの?さらに、儲けが見えない段階では?というのが社会の命題。
無論、悪い詐欺師や、ネタだけ奪いたいやつからどう守るのか?というのも課題。一方でもちろんどう成功に導くかもあるだろう。大学等を媒体に科学的成果を元に金を出すしかないと思うけどね。
ただ、数だけ増やせばいいと煽った結果、詐欺師が投資家側にも起業家候補側にもガンガン攻めまくってるのが今の日本の実情。大学生に対するネットワークビジネスの蔓延もその一つだろう。
そもそも考えてみれば悪魔の証明とは二値(真偽)命題の特殊な例に過ぎない
たとえば「生きている」は「死んでいない」ともいえる。
「死んでいる」は「生きていない」ともいえる。
ある人間に関して、生きているかどうかという証明は、死んでいるかどうかという証明でもある。
かりに否定文を主張する人が負うべきと考えてみても「死んでいない」と主張する人間が負うべきとも「生きていない」と主張する人間が負うべきともいえてしまう。
翻って「全くないかどうか」という話はそもそも「あるかないか」という話ともいえる。
悪魔の証明はなぜか根本的には真偽命題という構造が同じもののなかで、存在論に関する命題だけを特別視し「あると主張する方が証明せよ」ということにしている。
前の例になぞらえれば、「ある」は「存在しないわけではない」と否定文にもできる
「ない」は、「全く存在しないという認識は事実に反する」「反さない」とこれもまた肯定文と否定文と自由に行き来できる形式に置き換えられる。
悪魔の証明は一見(なぜか存在非存在に関する命題に限って)肯定文を主張する側が証明せよという約束事に見えて、実はそこには一貫性がないのだ。
上のことを踏まえて、なんで悪魔の証明を詭弁とすることが都合のいい弾圧じゃなく合理的なものなのか説明することは可能か。
悪魔の証明っていうのは対立側が存在しないということが証明できなければ自分たちの存在するという主張を真とすること
俺がやってるのは存在しないということが証明できなければ、わからないということにすべきだと言ってるだけのこと。
俺は存在するということが証明できない人間にも、わからないということにすべきだというだけなので、俺の発言の動機に自分にとっての都合のよさとか党派性はない。公正な態度で議論しているに過ぎない。
悪魔の証明を否定する人間には悪魔の証明をしてくる側が正しい証明をできなれば存在しないということを真とするという人が往々にしている点で自分達が嫌悪してる人間と同じ穴の狢なんだよね。
わからないことをわからないということにできない時点で、悪魔の証明を用いる人間も、用いて来た側の主張を無効にするような人間も学問にはそぐわないんじゃないかなって思える。
自分なりに悪魔の証明について考えてみて、やっぱり悪魔の証明を詭弁に組み込むことには合理性がないように思えるのでした。それを詭弁とする方が結局学問の妨げになるんじゃないかという科学哲学的な意見をここに残しておく。
今でこそ確かに悪魔の証明は学問でも唾棄されているようだけどね。
学者自身も別に哲学やってるわけじゃないから悪魔の証明というものについて深く考えてみた人は少ないからこの現状なんじゃないか。
悪魔の証明を悪しきものとする考え方は結局、どちらかといえば誤まった事実を認識を横行させる方向に強く働くのではないのか。これを詭弁としないほうがましになるかもしれない。
具体例としてゆたぼんの親が思い浮かぶが、ゆたぼんやゆたぼんの親のことは詳しく知らないので、あくまで「子供を学校に通わせたくない親の気持ち」という抽象について考えてみたい。
この話をするうえで反出生主義の中核をなす命題「人類の総苦痛量を最小化するべき」は補助線になると思う。
学校教育現場に小さなイヤなこと(掛け算の順序、前近代的なスポーツ指導)や大きいイヤなこと(いじめ、教師による淫行、死亡を含む重大事故)など、いずれにせよ苦痛が存在することは周知の事実なわけだ。
ということは子供を学校に通わせることは確実に子供を苦痛にさらすことになる。
子供を苦痛にあわせるのは悪であるから、学校に通わせるべきではない。
という具合に、反出生主義は出生以外のものごとに応用することが可能な理論なのだな。
まあ子供産んでる時点で反出生主義者ではないので、たいていの親は子を学校に通わすわけだが。それだけに、ゆたぼんの親は稀有な例といえよう。
ああ、ズレてたわ。
確かに「集団安全保障の重要性」としてフィンランドを挙げたけど、「日本は入るべきか」という命題なら確かに「既に集団防衛の対象だから当面は杞憂」だな。
「ロシア政府によるウクライナ侵攻によるロシア国民のメリットがよくわからない」という声が聞こえてくる。
メリットがあるかないかという質問を受ければ返せる言葉は「ワンチャンある」だ。
現代の日本人は敗戦による反動を伴った戦後教育の影響で地政学的見地に疎く、地球上で国家の位置する座標が互いに影響し合うというのを理解しにくい(※戦後教育を完全に否定しているわけでない。何事も一部は行き過ぎることもあるだろうという考え)。
ある程度、軍事史に詳しい人ならばNATOの設立に大きく関わった米国外交官ジョージ・ケナン氏自身がNATO東方拡大へ不支持を表明していたことをご存じだと思うが、つまり今回のクリミアとウクライナの動乱はそもそもNATO設立時から予測されていたことだったのだ。
もう一度言おう、NATO設立の時点でNATO東方拡大をするとロシアが追い込まれ前へ出てくるのは予測されていた。
ポイントはこの「追い込まれる」という部分なのだ。
正直に言ってロシア経済は上手く行っていない。様々な経済政策を進めてきたし、特に海運は命題の1つであり昨今持ち上げられがちな北極海航路開発の進捗も芳しく無く、唯一の頼み綱は天然ガスだけだ。
軍事に明るくなくとも経済に明るい人、一方のネットワークがダメならは、現在動いているレガシーなネットワークへ依存せざる得ないを理解する情報技術に明るい人は、もうこの時点で気付いただろう。
みなさんもご存知かもしれないが、歴史の長さしか取り柄のない海運へ強依存した蛮族の国があるだろう。
ユーラシア大陸の雄である文明帝国が国際貿易のため制海権を得ようと南下はじめたことへ呼応し政変が起き、神のいたずらか悪魔の仕業か、運悪くも文明帝国は敗戦という憂き目に遭った。
蛮族はそこから調子に乗ってアジアを巻き込み、ついには2度目の大戦の際にABCD包囲網が動き出し、国際連盟を強がりつつも離脱し、あれよあれよと唯一の頼み綱である制海権を消失し敗北した。
なぜ蛮族は前へ出たのか?
後世だから言えるのかもしれないが、あの状況では敗ける可能性が濃厚だ。
しかし単純な話なのだ、実に単純だ。
我々は追い込まれた。制海権を喪失すれば国民が飢える、自らの子が飢える。ならば他国の人がどうなろうとも、他人の子供がどうなろうとも、我々の家族を食わせるために例え間違っているとしても前へ出る!
そういう単純な話なのだ。
NATO東方拡大はロシア唯一の頼み綱である陸路を他国の軍事同盟が掌握下に置くことを意味し、その影響は子々孫々に至るまで残る。
親ならば誰かを愛することのできる者ならば思うはずだ。
お前らがそうするのであれば今このとき今ここで、国を総動員してでも俺たちの世代でケリを付けてやる!
戦争反対だと?あぁ正しいな!お前らは正しい、俺たちは間違っているとも!
それがどうしたっ!?このまま行けば俺の子が飢える、俺の妻が泣く、前へ出なければそんな未来が確実に来る!
言ってみろ!俺たちに間違っていると言ってみろクソどもが!!!
というのがロシア側の意見であって、現代で戦争をするすべての国、国民がこのように同じ主張するってわけだ。
後々に自分の子が飢えるとわかっているのならば、前へ出ることでその可能性を低くできるのであれば、前へ出て先延ばしにできるのであれば、親ならば前へ出るだろうよ。
ちなみにこれは両論併記にはあたらない。
何故ならウクライナもアメリカもNATOも同じことを言ってるからだ。
全員が間違い続けた結果がこれだぞ。