はてなキーワード: 人種とは
俺は安易に間違ってるとは言いづらいんだ
それは任天堂がいつだったか、コアなゲーマーに背を向けて一般ファミリー向けに注力した件で感じたことだ
現在の顧客ではなく、ゲームをやるかわからない潜在客を取りに行ったんだ
あのとき任天堂をバカにしたんだが、結果今の時代はライト層をどれだけ取り込めるかという時代になった
当然その時の客より潜在客の方が多かったので任天堂は成功したんだと思う
多様性の件も同じで
これをもっと女性や非オタクや色んな人種・多様な性の人に売っていくためには多様性を避けては通れないんだと思う
もちろん下手にやったり過剰にやりすぎると炎上するんだが、目立たないところではうまく動いてるんだと思う
結局やり方の問題なんだが
たぶん話をややこしくしてるのは活動家なんだよね
国によって平均身長が違ったり人種によって病気のリスクが違うのだから、性別違和の人口比が国によって違うのは普通に考えられることだよ。
ただ精神疾患の診断は従来、わりと医師の感覚に左右されるところが大きかった(今も)のと、診断基準自体に生活上の不都合という項目が入ってる疾患が多いことから、文化・社会の影響も大きい。
でもうつ病が「脳の病気」だと広く知られたことで発病に対する偏見(「サボってるだけだ、根性が足らん、みたいなの)とか治療に対する偏見(精神病患者は社会から隔離しよう、みたいなの)が減ってきているように、性別違和についても客観化がノーマライゼーションに繋がると思う。
例えば許容されるやつは「賢さで待遇を変える」とか、「嫌なやつを仲間外れにする」とか、「悪者をみんなで過剰に殴る」とかで、許容されないやつは「人種で待遇を変える」とか「動物をいじめる」とかそういうの
ざっとこのあたりがなんとなく思いつくけど、「人種差別やめようぜ」に対して「は?対等扱いとか不愉快なんだが?」みたいな人達もいっぱいいたはずであんまりしっくりこない
「性的マイノリティへの差別やめようぜ」、とかもあんまりこの条件に当てはまってないような気もする(自分はこの手の差別は社会的にマイナスだと思ってるけど、社会的にマイナスだから差別をやめようぜ、になったとは思っていない)
「その行為がよくない」ということを正当化しやすいかどうか、みたいのもあると思うんだけど、そういう道徳ができあがってきたから正当化しやすくなっただけじゃない?という気もするし
自分は昔、人が不愉快になる可能性があることはすべて悪、という思想があったので他人に影響を与えうる行動があんまりできないで暮らしてたんだけど、最近は他人って別に不愉快にしてもいいんだなーという気持ちになって暮らしている(他人を不愉快にしない努力をしすぎると他人を不愉快にすることが結構ある、ということに気づいたのもある)
いまさらすぎるけどいまさらいまさらなスープストックの雑記事が上がってきたのでなんか考えたこととか書き残そうかと思う。
絵描きの世間ではパトロンサイトからAI作品が排除されて大勝利を唱和しているかと思う。
増田は、うーむ、(デジタル)手書き絵描きの溜飲は下がったけど勝てていない、遅滞成功ぐらいかなと予想する。
今回、(デジタル)手書き絵描き側に阿ったような内容になったのは、ひとえに(デジタル)手書き絵描きがお気持ち駆動する厄介な人間であることと、既存顧客であったから。
絵描きがお気持ち駆動することは今更言うまでもないが、トレパクや、絵はグレーセーフでグッズはぶったたくとかガイドラインや二次創作のありかた、検索避け、学級会などなど、感情と(日本の法律で有罪無罪問わず)私刑が先行する人類全体が持つ宿痾をとくに煮詰めたような人種が横行する界隈だ。
そんな(デジタル)手書き絵描きが自分の感情を害するAIを敵視するのは当然で、もちろんお気持ちクレームを多発する。した。
ハッキリ言って商売相手的にはクズの部類に入るが、それでも掴んだ、囲んだ顧客というのは大事だ。未だにみんなTwitterをしていることからもそれはわかるだろう。
だからギャーギャーうるさいものの大事な金ヅルな猿たち側に寄り添ったものの、本音はAI作品を取り扱いたかったと思う。
プラットフォーマーから見て(デジタル)手書き絵描きの反応はある意味予想通りだったが、それでも絵描きたちが容認する可能性もあっただろう。なぜならいわゆるAI絵師は絵描きの進化ツリー(木構造でもないし相互移行できるけど)に(今しばらくは)連なるものだからだ。AIは部分的にも全体的にも絵描きのツールになりえる可能性があるのは明白だろうし、AI絵の今後の発展は確実で不可逆であることもただの一般人でも感じるところだ。絵描きはいつかは向き合わなければならない問題。だからプラットフォーマーは即座に禁止せずしばらく様子見した。しかし結果、総体としての絵描きの感情、お気持ちだけの反対に落胆し、禁止に舵を切った形だ。もちろん審査の負荷や創作性などの表向き(かつ多少なりの事実)の理由もお出ししながら。
プラットフォームを分散させるのは管理が面倒だし人の分散もよくない。が、こうなったからにはpixivやエイシスは今後、AI作品を扱える別のサービスを開始するだろう。AIによる創作は確実に伸びていく分野だからだ。できれば既存サービスに組み込みたかったが、それこそ先行者の悲しみ・デメリット。顧客の属性が厄介に固まったばかりにそれはあきらめるしかなかった。
そして、そんなやっかいな既存顧客が居ない今後のfanboxやskebのような後発の類似サービスはほとんどがAI作品を許容する形でスタートするだろうし、AI禁止を謳う類似の後発サービスが現れたとしてもfanboxやskebなみには成長できないだろう。
AI禁止+AI専門 VS AI許可 のどちらが中期的に勝つかまではわからないが…。
あくまで今回の足並みをそろえたような方針は旧世代の、乗り換えや手札にできず取り残された、しかし金ヅルの老人たち。そんな(デジタル)手書き絵描きの無聊を晴らすためのものだった。日本で老人のための政策を打った場合の若年層の反応を想像してもらいたい。…その政策は勝利なのだろうか。勝利なのだろう。老人には。
改めて書くが、今回の(デジタル)手書き絵描きの大勝利は彼らに理があったからではなく、ただただあらゆるサービスは顧客を定着させることが大儀であり、かつデジタル空間では物理空間よりは比較的サービスの分割がしやすいからだった。
理ではなく金銭的な損得をもって鳴き声がうるさいが金を生むガチョウと今後プラチナを生む可能性があるアヒルの子を同じ柵に入れることをやめただけ。
経営者や業態、進化ツリーの進み具合・将来性などを勘案すれば、うるさい声を無視して進むべきと予測した道に突き進む場合もある。スープストックの場合はその例だったのだろう。お気持ちでギャオンと騒ぐ先細っていく独身女性の声に揺るがず、データと検証から出た客のライフスタイルの変化や世代をまたいだブランドイメージ、立地・戦略的に別サービスに分離できない(切り捨てるなら独身女性側だろうが)飲食という理由などなどをもって離乳食無料を決定したのだろうし、その反応にたいしての声明リリースをおこなったのだろう。
そして結局(デジタル)手書き絵描きも独身女性も哀れな人間であることは変わらない。
(デジタル)手書き絵描きが今、良い気分ならばそれでもいいだろう。将来結構な数の(デジタル)手書き絵描きがAIに流れるのも笑わない。(デジタル)手書き絵描きでなくてもAI絵師でも気質は別に変わらないしね。AI絵師が優れてるとも思わず絵描き全体がやっかいな人種だと思っているので。次の技術で同じお気持ちの絶叫が響くのも確実さね。
そう、増田は今回の騒動で絵描きがどういう人種であるかということを再確認させてもらった。程度しか得るものがなかった。
あるいは広がりゆくAIという腐海にあらがい風の谷という猫の額で生きる旧人類(新人類)の悲劇を観賞している気分にもなれるかもしれない。どっちかっつーと手作り宗教の土鬼か。
経験があって即戦力です!という感じで、人手不足の我が部署に配属になった。
ただ、実際仕事をさせてみるも
まあ何にもできない。
とりあえず新人と同じ扱いにしようということになり
向こうにいやらしい気持ちが無いことは見て取れるんだけど
本当に近い。近くて嫌だ。
物の受け渡しとかするときに手が触れることも結構あってかなり嫌だなと思う。
元々おじさんという人種を苦手だな、と思う節があるので、そのせいもあるかもしれない。
我慢するしか無いな〜と思う反面、本当にパーソナルスペースの違いによるストレスがすごくて毎日が憂鬱。
おじさんに悪意が無いことはわかるから、やっぱこっちが我慢するしか無いのかな。
正直に「近いです」って言うのはやめた方がいいよね。
少なくとも年度末まではペア組んでやらないといけないのでどうにかしたいな。
耐えるか〜
SNSの使い方がゴミなことで有名な元嵐の二宮和也が炎上している。
それは「世界からのサプライズ動画」というサービスを利用したこと。
Twitterをやっている人なら1度は見たことあるだろう、屈強なマッチョがカタコトの日本語を話し踊りお祝いをする動画だ。
簡単に依頼することができ、その売り上げはもちろん動画出演者であるダンサーにも入る。傭兵たちへの雇用創出を目指し、戦争に参加せざるを得ない人を減らすとも言っている。実際にその地域の子供の食事の支援なども行われているそうだ。
人気サービスである一方で、「差別だ」「はやく潰れろ」という声もある。
・人種的ステレオタイプ問題(人種がエンターテイメントとして消費されることへの嫌悪)
・事業の脆弱性に対する批判(こんなサービスが長続きするわけない、廃れたときダンサーはどうするのか)
俺はこのサービスを見るたびに、昔大学生だった頃のことを思い出す。
大学の近くにホームレスのおっちゃんがいて、なんだか気の良さそうな感じの人だったので
そのおっちゃんが要求することはないが、数名の学生が牛丼のテイクアウトを渡したりしていた。
おっちゃんは申し訳なさそうに受け取って、勉強がんばってねーと笑顔で手を振ったりしてくれた。
ある日、学生の1人がおっちゃんと商売をしておっちゃんに金を渡そうと言い出した。
その内容は、人のいいおっちゃんに悩み相談ができるというもの。依頼を受け、おっちゃんにその悩みについて語ってもらう。入金してもらったらその動画を送る。
それはなんだかんだうまくいっておっちゃんはちょっと人気者になったしお金も結構入っておっちゃんも喜んでくれていた。何より君らと話すのが楽しいと言ってくれていた。
同じ大学の学生数名が「差別だ」「弱者をエンターテイメントにしている」と大学に抗議した。
なんかそういう時だけ早く動く大学は、俺を含めた学生におっちゃんと関わるのをやめさせた。
その時は反省したけど、今思えばなんにも困ってない立場の人間がお金を必要としている人間の一時的な収入でさえ取り上げたの酷くね?って思ってる。
もちろん俺らにも差別意識があったのかもしれないけど、実際やったことは悪かったのかと言われると100パーセント悪いとは思えない。
あれって真実だったんだろうな。
なんで相手がその選択を選ぶのかについて考えて出た結論が「馬鹿だから」になる奴って、分析能力の低さがかなり致命的で、つまる所は馬鹿なんだよな。
たとえば麻雀だったらバカスカ自分の切りたい牌を切って絵合わせしてるだけで、放銃したら「運が悪かったな―」で毎回済ませるタイプ。
自分の一人称視点だけが世界の全てだと思っていて、それぞれの人間にそれぞれの一人称視点があることを理解できてない。
サイコパスとかじゃなくて、単に「この世界に存在する知的生命体は自分一人ではない」っていう幼少期の当たり前の気づきを得る基礎的な知能が足りてなかった人達。
そういう人達ってこの世界にある価値観の多様性とかも完全に理解できないんだよな。
たとえば料理の味付けにしたって自分が美味い不味いと思うことがこの世界のスタンダードだと思っていて、それから外れるのは全て味覚障害扱いして過ごしてるんだと思う。
たまにいるじゃん「お前の味覚に合わないだけだと思うのに何でそんなに強気になれるの?」みたいなレビューをかましてる連中。
「馬鹿」は自分のバカさに自覚がないから自分と違う考えの相手こそが「馬鹿」だと思ってるんだろうね。
だから「馬鹿っていう方が馬鹿」と表現すべき現象がこの世界じゃ沢山起きてんだろうな。
マジで見てられね―
どっちもキモいんだよな。
なのに単品として話題になると「結婚もせずに風俗とか……」「結婚してるのに風俗とか……」と何故か枕詞で語られるから不思議だ。
単に相手をなんでも良いから叩きたいだけで、そこに合理性とかは考慮せずどっかで聞きか齧った悪口を雑に付け足して置けばいいと思っている人種が大勢いることが分かる。
たとえば世の中には「AさんはXという仕事をいつも何も考えずにやってる」「AさんはXという仕事をする時いつもゴチャゴチャ考えすぎている」を同じ口から何度も出し入れする人がいる。
こういう言葉の使い方が物凄く乱暴な人達の相手をしていると疲れる。
言葉は意思や嗜好を伝えるための表現のはずなのに、一部の人間は何となくその場にあってそうな音をハメるだけの遊びだと思ってらっしゃる。
「インターネットのくだらねーネタ」ってあるじゃん。なんJネタとか淫夢ネタとか。
ああいうのってまあ内容自体のくだらなさ不道徳さはあるけど脳機能としては結構高度なんだよね。
色んな文脈が絡み合ったものを理解して再構築できる人間と出来ない人間がいる。
林修自身も自分がそういうネタになってるのを認識してて言及してる。
発端として林修はメジャーリーグファンであることを公言してて、
松井を評価してるけどイチローは微妙っていうポジションも匂わせてたわけ。
これは当時なんJで開催されてた「松井とイチローどっちが凄いか」っていう党派性ゲームのポジションに似てた。
「いつも『ゴキロー』とか書き込んでる口汚いイチローアンチは林修」
みたいなネタに発展していった。
なんJの松井VSイチローのアホ丸出しなレスバに参戦してたら面白い
っていうそういう発想。
参考資料として、野球関連の林修ネタのまとめがあるから各自でチェックしてみて
https://wikiwiki.jp/livejupiter/%E6%9E%97%E4%BF%AE
ここまでは誰も不幸になってなかった。
林修自身自分がなんJで捏造されて遊ばれてるのをテレビでネタにして笑わせてたぐらいで。
なんJで捏造された林修像は支離滅裂でイチローとイチローファンを煽りまくるお下劣クソ野郎だったけど
「林修の書き込みが見つかった!」みたいなネタスレが立てられてて。
「チンコビンビンですよ 神」とか後にミームになったような頭わるそーな書き込み繰り返してる人物のIDを林修だって言ってて。
勿論何の根拠もないしイメージ的に林修がそういう人だっていう訳でもない。
普段の本人とかけ離れたバカな書き込みの数々だからこそ「これが林修だったら面白い」って言うそういうネタなわけ。
誰もそんなの説明しないけど暗黙知でみんなが面白みを理解して乗っかるっていう場。
やってることはくだらないけどこれはやっぱりある種の高度な脳の機能なんだよね。
いわゆるハッタショとか言われる人たち。
(ここでなんでハッタショという差別用語っぽい俗語で書くのかというと
各発達障害の人に不用意な迷惑を掛けない配慮でハッタショと書いている。)
で、理解できる人は説明されなくても理解できる話の構造が説明されても全然理解できない人。
(はてなブックマークもそういう人の割合が多い傾向を感じるけど。)
林修が「年収〇〇以上でない人間は足手まとい」と発言したっていう画像の数々も
元々は「言うはずのない発言を言ったってことにしたら面白い」っていうネタなわけ。
巧妙な切り抜き画像を最初に作った人間は誰かを騙すつもりも林修への害意もなかった。
「林修が2chのエロ画像スレに『チンコビンビンですよ 神』と書き込んでいる」と同じで
「林修が低所得者を容赦なくdisって足手まとい扱いしている」が面白かっただけなのよ。
”林先生がそんなこと言うわけない”が前提にあり、”毎度バカな捏造されてる林先生”の面白みが下敷きにあったわけ。
でもそれが拡散していくうちにネタの分からないハッタショが入ってきちゃって
そいつらは「本当に林修がこういう発言をした」って信じ込んでしまったり、
あのネタ臭い画像を「低所得者を叩くためのシリアスな武器」って思い込んだりするわけ。
ジョークグッズをマジ使いし始めるわけ。
ザ・ハッタショ。
面白いネタや盛り上がってる場に最終的には後追いハッタショが現れて
学校でも居たでしょ。感覚的なネタが理解出来ないけどみんなの輪に入ろうとして
同じネタをただ大声で連呼する、みんながうわつまんなって冷めちゃう、みたいな子クラスに数人は居た。
高校ぐらいだとそのズレかたも受容されるようになるけど、中学ぐらいまではいじめられたりハブられたりしがち。
今回の件であれば後から寄って来たやつによって
→「林先生は実はこんな差別的な発言をする奴だった!許せん!」
みたいなことに最終的になった。
どっちのルートも事実ではないし、ネタの意図でもないし、ハッタショ丸出し。
これが流布されだしたら林修も黙ってられないよね。
全然ネタじゃなくなって実害が出るようになっちゃってるんだもん。
自分の名誉も傷付くし、自分が棍棒にされて低所得者を傷つけてるし。
つまり現在林修の名誉を傷つけるようなデマ散布者になってる人間も
大半はおそらく悪意とか嫌がらせの意図はない。だからキツいというか。
外には必ずハッタショがいてそいつが同じネタを(理解出来ないので)一番つまらない形で(低所得者ヘイト)使い出して
挙句、平和に閉じてたなんJみたいなところが「デマを撒き散らした!」みたいに叩かれる。
いやいやいや。
わりーのは輪の中の人達じゃなくて輪の外にいるハッタショやんけって言う。
あらゆるコミュニケーショントラブルにはこういうハッタショトリガーが多い。
ハッタショみが強い人間ほど「なるほど、後追いハッタショが悪いんだね」という納得にはならない。
それもある意味当たり前で、
最初にそういうネタやってた人間達が何故そんなことしてたのか理解できないから。
どうしても最初の奴等に悪意や落ち度があったということにしたがってしまう。
単なるネタを自分達やその同類が深刻にしてしまったということも受け入れられない。
で「お前等が悪ノリをしたのが悪いのに居直るな!」みたいに怒りだす。
あれは何言ってるかというと「マジとネタの見分けがつかない我々に責任持ってこられたら困る!」って言ってる。
「それは自分達が悪いんじゃなくてこんなネタを作った奴が悪い」って言いたくなってしまう。
大事故起こした人が「トヨタはもっとちゃんとした自動車作ってほしい」って言ってたけど
原因作ってるのは100ぱーハッタショ達なんだよね。
ハッタショが居なけりゃ誰も不幸になってなかったんだもん。
「うわーネタって言えば何やってもいいと思ってる奴がまだいる!!」「幼稚!」とかだと思う。
けど実際ネタだったわけだしネタがわかる人間しかいない間はみんなハッピーだった。
林修当人だってあくまでネタと了解されたうえでであれば、捏造怪人「お林」がネットに暴れ回るのを面白がって見てた。
もしここまで読んでる最中に既に
「ネタって言えば許されると思ってるのか!」と言いたくなってた人、
あなたはハッタショの疑いが濃いです。
身体の性別があることによって達成できない何かがあるからこそ、心の性別って概念が生まれたんだと思うんだけどその心の性別って概念があんまり理解できない。
母性が強い、父性が強いってのもあるけど、結局それって育ってきた環境が違うから好き嫌いはしょうがないだけで、別に「子供がほしい男」「子育てしたい男」「ガンガン働いて稼いで名声を得たい女」「誰かを力で支配下に置きたい女」がそれぞれ自分の性別に違和感を持っているかって言うとそうじゃないよね。
例えば俺は子供のころから女になりたいと思ってて、今でも生まれ変わったら女になりたいと思ってるけど「女になりたい」って発想自体が女性の発想じゃない。つまり、俺は男に生まれてしまった以上、どこまで行っても男の視点しか持てない。
その延長線上で俺には女装癖もあって毛も全部剃ってフリフリのワンピースとかを着てばっちりメイクしてSNSで発信したりもしてるけど、別にこのことが「俺の心が本当は女だから」だとは思ってない。だって俺の心が女だからそうしたいんだってなったら「毛も剃らない、フリフリのワンピースも着ない、化粧もしない女は心が女じゃない」ってことになっちゃうじゃん。でもそうじゃないでしょ。
男としての俺が女性という性に対して強い憧れを持っているだけで、俺は自分の心が女だと思ったことはない。「女になりたい」と「本当は自分は女だ」の間にある壁って俺にとっては果てしなく分厚い。
結局のところ社会の中で俺が生まれ持った「男性」という肉体に対して求められる役割、ロールに対して俺は強い違和感を抱いているだけなんだよな。「男」が少女漫画読んでたらキモいとか、「男」がかわいいパンティー履いてスカート履くのはありえないとか。別に好きな格好させてくれよって思うんだよ。男がかわいいもの好きで何が悪いとや!って感じ。
同じように「男が男を好き」でも「女が女を好き」でも別にそれ自体は単に社会的な規範とされるロールからは外れているだけで、心が女だから男を好きなわけでも、心が男だから女が好きなわけでもないんじゃないかと思うんだよな。
女にめっちゃなりたい俺でさえ「心が女」って状況が全く想像できない。だって俺は女になったことがねーんだもん。
仮に今みんなが腕が三本の人種として腕が三本ある状態で生まれてきたと想像してみてよ。どうすれば3本目の腕が動かせる?三本目の腕を動かす感覚を想像できる?全く想像できないでしょ。だって腕が三本になったことねーんだもん。
だから「男に生まれたけど心は女です」って言う人の感覚が俺にはわからない。お前女になったことないじゃんって思う。逆もしかり。結局のところ「男から見る理想の女」じゃないけど「自分の中だけで作り上げた女」であって、それって本当に「女」なの?って思ってしまう。
そもそも「女」って何?
男だけど「あぁ~妊娠してぇ~。子宮に精子を受け入れて着床させて出産してぇ~」って思ってるってこと?
女だけど「あぁ~孕ませてぇ~。精子を子宮に注ぎ込んで自分の遺伝子残してぇ~」って思ってるってこと?
だったらそりゃ心の性別と身体の性別は違うかもねって思うけど、でもお前子宮ないし、お前精巣ないじゃん。
そんな自分が本当に子宮、精巣がある状態を具体的に想像、いや実感できてんの?
本当に?
お問いるジョージ-幼年時代の家への貢センターの"肉食無料と値の非暴力'
ジョージの最も有名なタレンズ. くことを期待もう 彼の幼年時代の家 とオーセンター"肉食無料と値の非暴力。"
"のうの国のハリソンを収録した初のソロアルバム'Wonderwall音楽が、日常生活とかけ離れたくベジタリアン,"ペタを書いた自分の サイト .
"ハリソン初のビートルズへのベジタリアンの後、多くのインド訪問、またたびに抱かれ、美徳の アヒムサ は、非暴力である中央三のインドの主要な宗教–ヒンドゥー教、仏教やジャイナ教,"書いたペタ副社長国際事務Poorva Joshipura.
"私たちは、かつ優しさを推進すべての生活を感じ人種を問わず、このャンするよう促す"という人が練習する非暴力の精進料理とハリソンされています。"
"ハリソンは言うにも跳ね返って肉を食べたの考えを殺害動物。 ...[I]tのない健全な自然になります。'"
して精進したのジョージの精神性. 顔と体重をしたに過ぎないのです。
DeepL
PETAは、ジョージの幼少期の家を「肉を使わない料理と非暴力の価値観」のトリビュートセンターにしようと考えていました。
ジョージは、最も有名なセレブリティ・ベジタリアンの一人となりました。そのため、PETAは彼の幼少期の家を買い取り、"肉を使わない食事と非暴力の価値観 "のためのトリビュートセンターにしたいと考えているほどです。
"このセンターは、ハリソンが最初のソロアルバム「ワンダーウォール・ミュージック」の一部を録音し、ベジタリアンになるきっかけを作った国を祝うことになる "とPETAはウェブサイトに書いています。
「ハリソンは、インドを何度も訪れた後、ビートルズのメンバーとして初めてベジタリアンになり、インドの3大宗教であるヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の中心であるアヒムサ(非暴力)の美徳を学び、受け入れました」と、PETAの国際問題担当副社長Poorva Joshipuraは書いています。
「そして、このトリビュートセンターは、より多くの人々に非暴力を実践してもらい、ハリソンが愛したベジタリアン料理を楽しんでもらうことになるでしょう。
"ハリソンはかつて、「肉を食べることに嫌悪感を抱いたのは、動物を殺すという発想だった。...(中略)健康的でもなく、自然なことでもない」。
MMO RPGは画面の向こうのユーザーと協力してプレイするゲーム体験を提供してくれた。難しいコンテンツを何度も練習してクリアした時の分かち合う喜びは何にも変え難い。
人と遊ぶからこその楽しさがある一方で、人と遊ぶことで生まれる様々な人間関係のトラブルもある。これが本当に厄介で、楽しく遊べなくなったフレがいるだけで、ゲームプレイに与える影響は大きい。とはいえ全員と仲良くプレイし続けることはおそらく無理(現実でも合わない人がいるから)なので、せめてゲームをやめたくなるような大きなトラブルに巻き込まれないように、そして1人でもいいからずっと仲良くし続けられるフレンドを見つけるために、自分なりの人間関係の方針を整理した。
堂々と言えないので増田で書く。
<人間関係という名の信頼関係の構築方法は現実世界と同じという話>
1: スタンス
■ 距離感を保てる人と仲良くする
MMO系のスレッドでは「気軽に遊べる友達が欲しいがいない」という話をよく見る。
「気軽に遊べる友達」がログインしてオンラインを確認したらすぐに「コンテンツいく?」と誘える友達だとすると、自分の場合フレンドの中でもかなり仲のいい部類にしかできない。
そういうゲーム内フレンドは一朝一夕でできるものではなく、ある程度仲良くなっても相手のことを慮る姿勢がないと関係性を継続できない。相手にも都合があるからね。
相手との距離感をコントロールできるなら、自分と合うフレンドを作るのはそこまで難しいことではないと思う。
■ ギブアンドテイクができない人と仲良くしない
人間関係はギブアンドテイクである。というより、ギブギブギブアンドテイクくらいの割合で物事が動くと考えた方がいい。
まずは自分から困っている人をヘルプする。気軽に誘う。そういうことの積み重ねで信頼関係を構築するのではないかと思っている。
そこを無視して自分の都合を押し付けてくるような言動をする人(=ギブをせずにテイクだけ求めてくる人)は正直切った方がいい。それは友達ではない。
また、ギブしているのに周りが返してくれない!と嘆いてしまうこともある。期待しすぎである。そもそも見返りのために行動している時点でアウトである。
逆にギブしてもらっている自覚があれば、仲良くなりたければテイクするべきである。
そういう持ちつ持たれつがイーブンで健全な人間関係構築にはものすごく大切。
■ 相手にとって「都合のいい人」になりすぎない
ギブアンドテイクの話と関連するが、人間甘やかされると甘えたくなってしまうのが性で、気がつくと自分が相手にとって「都合のいい人」になっている時がある。
これに漬け込んで過剰な要求をしてくる人がおり、いわゆる姫だが、これを許してしまう自分や環境にも非があることを認めた方がいい。
そうなってしまった場合は毅然とした態度で相手のテイク要求をお断りする。何回も断っているといずれ話も来なくなる。
2: コミュニケーションの取り方
■ 鉄則は「相手に話させる」
まずコミュニケーションを取るには「相手に話させる」が鉄則である。話させてなんぼ、質問してなんぼである。誰も自分の話に興味はないのだ。
どうしても自分の話をしたいときは、相手の話から話題をつなげたり広げたりするときにする。「てかさ」と話題を強引に変えて自分の話をするのは悪手である。
質問されたら自分の話をすれば良いが、適当なところで切り上げ別の人にボールを渡した方がいい。
会社では偉い人の話をウンウン聞いているからか、ゲームでプライベートだからかよくわからないが、割と年長者というか声の大きな人がのさばる状況があって、だから嫌われるんだよ!と思ってしまう。
ゲームという共通の話題があるからこそ、現実より気をつけて相手を立てるつもりでコミュニケーションを取らないといけない。
■ 全員が楽しめている状況になっているか気を配る
VC(ボイスチャット)の話をしたいと思う。VCはMMOをさらに面白くする魔法である。チャットコミュニケーションでも楽しいが、現地での飲み会とオンライン飲み会くらい情報量が違う。
だからこそ、何を話すのか(ここでは1つ1つの話題の話をしているのではなく、どういうつもりで話しているか)はかなり大事である。
VCでの会話内容は他の人が自分を判断する材料にされていると考えて差し支えない。
誰かが不快になるようなセンシティブな話はしない、あまり話せていないような人がいたら話題を振ってみる、など現実世界のコミュニケーションと同じことをすれば良い。
ちなみにやけにマウントを取りたがる人種がゲーム内には一定数いて、それが不快ならさっさと切った方がいい。「すごいですね〜」と嫌々合わせるのは時間の無駄である。
ゲーム内のコミュニティでリアルのマウント(年収とか)をしてくるような人は論外である。
そもそもゲーム内を通じて知り合う人に何を求めているのだろうか?
人間関係でトラブルを起こす人は相手に求めるものが過剰なのではないか、と思うことがある。
例えば自分は「同じコンテンツを一緒に遊びたい」と思っているのに「リアルで仲良くしたい」「あわよくば付き合いたい」と相手が思っているとうまくいかない。仕事仲間とプライベートで仲良くする例はそこまでないのと同じである。
■ 同じ釜の飯を食って仲良くなる
冒頭の「気軽に誘えるフレンドができない」に対して、スレッドの返信ではよく「高難易度の固定を組んだメンバーと仲良くする」という回答があるが、同意である。
結局仲良くなるには相手のことを見極め、自分を知ってもらう時間が必要で、高難易度コンテンツの固定はそれを醸成するのに手っ取り早い手段だと思う。
<他>
・MMOはゲームなので、ゲームのプレイスキルも仲良くできる1つの変数になっていることが厄介である。高難易度行かない人と高難易度しか行かない人がゲーム内で仲良くし続けることは難しいだろう。ゲームがない状態で出会ったらきっと仲良くなった人もいるだろうにと思うと少し悲しくなる。
・距離感がバグってる人、ギブアンドテイクができない人は現実世界でどのように人と関わっているのか、友達いるのかな?と邪推してしまう。ごめんなさい。