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2022-07-08

AX-5 オリオン/クェスト anond:20220708135130

一部で「有意義オリオン」と呼ばれていた、PC-6001用にASCIIから発売されていた8ビットの擬似3D宇宙空間シューティングゲーム

しか32KBしかないメモリ空間で、4MHzクロックの8ビットCPUなのに、ちょっと感動的なくらい「臨場感」があってハマったんだよねーw

操作マニュアル的な冊子に、わりと詳しいプログラムロジック解説が載ってたり、月刊ASCII誌で解説記事があったりしたと思うが、それ読んでプログラミングを志した感じかw

当時、IT業界とは関係ない方面大学に通ってたけど、卒業後に某F社系列ソフトウェア会社就職して、まんまとPC向けソフト部署に配属になり、仕事で作るソフト全然ゲーム関連じゃなかったけど、休み時間とか業務のヒマな時期を見繕って、会社PCで密かにオリオンそっくりゲームを作って一人で遊んだww

いまオレが使ってるパソコン、当時の100万倍の32GBのメモリ積んでて、1000倍近い(というかコア数・スレッド数も勘定に入れたら4000倍近い)3.6GHzクロックCPUだけど、あの有意義オリオンより有意義ソフトなんて一個も走らせてないなw

2019-06-08

メガドラミニダライアスは例の勝手移植のものだと思うけど、商用ではなく個人移植した物をメーカー権利を買い取って販売する事は特例だろうし公には勝手移植のものだとは明言してないんだろうね。

本来なら勝手移植個人で楽しむ事以外はNGだろうし。

マイコンBASICマガジン」を発行する電波新聞社に、当時小学生が「PC-6001ゼビウス(もどき)を作った」とプログラムを「投稿」してきた。それはオリジナルゼビウスとは全然内容の異なるものではあったが、PC-6001リアルタイムでまともに「遊べる」シューティングゲームを作る事など絶対不可能と誰もが考えていただけにBASICマガジン編集部は大騒ぎとなり「これは是非とも商業販売するべきでは」との意見で一致しマイコンソフト(電波新聞社ブランド)制作としてオリジナルnamco版権を取得するべく、また「監修」として実際に遠藤雅伸氏(ゼビウス開発者)にも、その「投稿作品」をみてもらったという。遠藤氏は「ゲームの完成度としては兎も角、『ゼビウス』という名前で出す事は許可できない」と一度は断ったものの、マイコンソフト側の「ゼビウスとしてでは無く、「タイニー(版)」ではどうか」という提案を承諾し、その投稿作品は「タイニーゼビウス」という名前マイコンソフトオリジナルゲームとして発売される事になった。1983年から84年にかけてのお話である

2018-04-18

anond:20180418160947

カセットテープゲームをCLOADするとき

いきなりゲーム本体ロードしようとすると殺風景な画面のまま10分も待たせることになってしまうので

まずタイトルロゴストーリー文章だけ出す小さなBASICプログラムを1分でロードしてから、そのあと本編をロードする

という手法PC-6001の頃には既にありました

2015-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20150211020227

 せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分ブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。

大学入学まで

 ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称統一されていなかった時代でもある。記録媒体カセットテープゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。

 市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。

 当時はまだ、パソコンメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だからNECパソコンソフトシャープパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001PC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者プログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。

 その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチフロッピーディスクになり、一瞬でセーブロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。

 せっかくの新マシンではあったが、やはり用途ゲームだった。雑誌掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。

 なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響プラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。

 中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコン受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤー経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲーム勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである

 高校入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまたからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。

 ちなみに、ぼくとほぼ同年代英国ライタースティーブン・プールには『トリガーハッピー』(2001年)というテレビゲーム歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代ゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。

 しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPG製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。

 技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲーム目標大学合格に切り替え、パソコンメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである

大学入学以後

 1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京学生ポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。

 入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京進学校出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。

 いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生あいだでポケベル流行っているというのも別世界話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。

 その一方で、大学入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話重要ツールだったのではなかろうか。

 あるとき風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。

 ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったか1994年のはずだ。日本でもインターネット商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学パソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。

 大学2年生の終わりごろ、ゼミ選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。

 しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。

 当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモ携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。

 他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口膾炙していった。大学パソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。

 ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネット接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブ自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである

 もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。

 ぼくが参加していたのは朝日ネットフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネットからはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信ログに残っていることを主人公発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。

 その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネット時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねるである。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。

 …と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。

2010-09-02

田舎とは両親の実家の事だった

http://anond.hatelabo.jp/20100831203134

千葉の県境の手前にあって、未だによく千葉県に間違えられる23区の辺境で育ち、自転車ジャスコに通っては家電売り場の展示品のパソコンPC-6001」にべーマガや「こんちにはマイコン」のプログラムリストを打ち込んで実行して遊んでいたそんな小学生時代を過ごしていたオレは、きっと真の田舎を知らない。

あと「山の手」と聞くと、世田谷とか大田区の南か西側の方を連想してしまい、本来の「山の手」に違和感を覚える

世田谷とか大田区も“郊外”の新興住宅地だったはずなのに。

2009-03-10

機械の声で感動する奴は馬鹿だとかいってる奴らの言論は所詮こじつけ

じゃあ単なる矩形波とか波形メモリとかFM音源を聞いて感動してCD買ったりしてた俺たちは馬鹿だったわけ?
何であれがいいという人の気持ちがわからないの?
誰だってあれ聞いて機械だって言うのは一瞬で分かる。だからなんなの?
素直に綺麗な音だったら感動するしそうじゃなかったらダメってことだろう?


グラディウスの未使用曲も、
ダライアスの最終ボスメロディも、
ソーサリアンのオープニングとかエンディング2も、
どれも素晴らしい音であり、それは感動に値するものだったし今でもまだしみじみ聴ける良さがあるんだ。


でも単なる矩形波なんだ。もう僕は矩形波が適切な周波数ずれで重なってて適切なエンベロープで鳴るだけで綺麗な音だと認識してしまうんだ。


同じ矩形波でもアミダーとかスクランブルとかで鳴ってた奴とか
PC-6001で最初に「シンセサイザ搭載」とか言って嬉しがってplay文で鳴らしていた音なんて
当時の音楽家からすれば馬鹿にすんなというより「これは音楽じゃない」レベルだっただろう。
でもその音とダライアスの最終ボスメイン音はほぼ同じ音源のはずなんだ。
最初はクソだと思っていた音が、どこかで感動を与えてくれるものに変質する可能性があるんだ。


当然あのときにも「生楽器とかとは比べ物にならないね」とかそういう変なことを言う奴は居たけど、
そもそも違うものなんだから比べようがないだろう。

要するに今彼らが初音ミクを気に入らないのは、単純に彼らの聴いたことのある初音ミクボーカルいまいち綺麗でないからなのであり、機械の声かどうかなん関係ないのではないかと思うのだ。

つまり人間感性がおかしくなってたら、それはおかしいって言って

その流れを止める人間が必要なんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20090308183339

というわけで既にみんなおかしくなってて機械の音を平気で聴けるようになっちゃってるんで、流れを止める必要があるというのなら初音ミクが出てくるより前にやっておくべきことだったんだ。もう遅いんだよ。

2009-03-03

「どうしてiPhoneが嫌いなのか……はてブコメントに回答ごっそり」

http://internet.watch.impress.co.jp/static/yajiuma/2009/03/02/

はてなコミュニティには技術者、それもIT関係仕事に携わっている皆さんが多いことでも知られる。

その皆さんがこぞって説明する理由の最多は「キャリアソフトバンクだから」のようだ。

林氏のエントリ日本語に訳すときにあんまり触れられてない部分、これが一番近いんじゃないのかな。

http://blog.nobi.cc/2009/02/my-view-of-how-iphone-is-doing-in-japan-by-nobi-nobuyuki-hayashi.html

Because you can trace back the root of NTT DoCoMo to the government owned Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation, people just trust it by it.

And because SoftBank is a company run by Korean-Japanese businessman, Masayoshi Son, some older generation are skeptical. Perhaps, there could even be racial discrimination involved, but whatever SoftBank does, bad press follows it.

SoftBank is struggling to build credibility toward Japanese press about the "SoftBank would soon go bankrupt" rumors; if I go to quarterly report, most of the American Financial analyst and press (and some Japanese) seem to be convinced by what Masayoshi Son says, the bad press still continues.

「(前略)ドコモ母体が元国営企業NTTであることで、無条件で信用する人々が多い。

そして、ソフトバンク韓国日本人孫正義氏が社長をしており、そのことに不信感を持つ年長の世代もいる。おそらく、人種差別にも比すべきものがあるのだろうか、ソフトバンクのやる事なす事全てに悪意ある報道が付いて回る。

ソフトバンクはじきに破産する』という噂を打ち消して日本報道機関に信頼を得ようとソフトバンクは苦闘しているが、四半期決算発表会での孫氏の発言にたとえAmerican Financialのアナリスト米国報道(もちろん日本の少数の報道も)理解を示したとしても、悪意ある報道は相変わらず付いて回る。」

J-Phoneの時代からソフトバンクが割と強い地域に住んでいるし、PC-6001の頃からソフトバンク出版物に親しんで来た身としては、なんか気の毒。

やっぱりIT関係会社で働いていると、ソフバン電波からキムチ臭が嗅げたりするんですかね、はてなのみなさんは?

 
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