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演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
>>『規制反対派の反フェミに理由を聞いたら、現実にフェミニストの異常な言動に晒される被害を受けていることや、実在の身近な女性の認知の歪みを挙げていた。
規制賛成派の無理解は、「現実のフェミニストの認知の歪みや無理解」という問題をさらに立証して強化することになって、火に油を注いでるのでは?』
って置き換えたら何言ってんだこのバカって思わない?
何も思わない
>>疑問について
そうは思わない。
・被害者は「エロやAVの真似をしたいと言われた」と明言している人が複数いる
・AV女優のリプ欄に、男性はテクニックだけの存在で一方的に女性を性的に楽しむファンタジーと現実の区別がついていないリプライが大量につく
・風俗嬢のリプ欄にエロ漫画やAV特有の、女性は男性に一方的に襲われて性感を得られる、女性は男性に性的に見られて感じる、などの現実離れしたファンタジーを信じ込んだリプライが大量につく
・女性にも性欲はあるのに女性→男性のレイプは全体の1%程度。男性→女性のレイプが99%
・ホモソーシャルやエロ漫画やAVによって偏った女性像を信じ込んでいたと告白する男性多数
・女性にも性欲はあるのに女性→男性の性犯罪は全体の1%程度。男性→女性の性犯罪は99%
・妻ではなく女体として女性を鑑賞するクセがついてしまったと告白する男性多数
これらの情報を目にしたり身近な女性から話を聞いたりしているし、気をつければ目に入ると思う。
男は見ないようにしてるだけ。
何が認知の歪みなのか分かるし、同じレイヤーだと思うし、ケアも何も、自分達男性の問題だと強く思う。
火のないところに煙は立たないし、反対派は話せば話すほど男性のホモソーシャルの歪みによって傷ついている人たちだし、
叩いてさらに傷つけたら更に状況が悪化して規制を強める理由が増える。自分達はこんなに女性に対して誤解していてファンタジーを強く信じたホモソーシャルを内面化した性犯罪を認識できない男性で、AVと現実の区別がつかず、こんなに女性の話を聞くことができない!とアピールしているんだから、規制の必要性を立証してるだけ。
月曜日のたわわ、無料になっていたので一巻だけ読んでみた。個人的な感想としては、気になる男性を誘惑するためにあえてきついブラウスを着て何度も胸のボタンをはじけさせている女子高生というのは、正直、いかれすぎていて怖くって、ファンタジーとしても楽しみづらい感じであった。もう少し普通の誘い方があるんではないか。ルックスが超好みであったとしても、はじけ飛んだボタンを渡されたり、ジャケットの胸ボタンを閉じさせたり、みたいなアプローチされたら、自分が男側だとしたら、引きそう。夜のお仕事とか、合コンのテクニックとか、そういう場面であればわかるんだけども。電車で乗り合わせただけの素性のわからない男性に仕掛けるのは怖い。なんていうか、男性側の思考が割と普通なのに高校生の女の子が考えていることが男側に都合がいい形でぶっ飛んでいるのが気持ち悪い。
自分の許容ラインとして、性的に奔放なのが悪いということでもないらしい。マンガワンのアプリで黄昏流星群を読んでいるんだけど、こちらはそりゃねーよと突っ込みを入れたくなることは多々あるが、不快ではない。中年を超えた男女があったその日にベッドインしまくっているあたりは非現実的なのだが、不快にはならない。還暦をとっくに超えているような、容姿が特に優れているわけでない男女たちが、旺盛にセックスしているのはむしろ清々しい。
と、たわわは Not for me なのだが、絵はきれいだし、楽しく読む人がいることには違和感は感じない。オナニー的な作品だとは思うけど、フィクションでありふれた現実をそのまま描いても読んでて楽しくはないわけだし。黄昏流星群だって誤解を招く中高年像ではあるし、中高年男性のオナニー分高いと思うけど、あの作品が禁じられたら私も反発する。
ただし、たわわの女子高生のような思考を真に受けられては困るんである。満員電車で胸を押しつけてくる(単に電車が混み合いすぎて腕や鞄で胸をかくすことすらできない)女の子が自分に気があるのかもとか。だから痴漢してもかまわない、むしろ望んでいるはずだ、とか。本当に痴漢ってそういう思考回路らしいので。職場でセクハラする人とかも思考回路ゆがんでるよね。
フィクションとわかって楽しめる人には害はないと思うんだけど。妄想による楽しみを妨げないようにしつつ、有害な勘違いをどう防ぐことができるのか、わからないんだよね。まぁ、思考回路おかしい人はフィクション側が多少自己規制したところで変わらないだろうし、あまり気にすることもないのかもしれない。
謎ってワケでもないけど。
そんで、
インクの残量がまだたくさんあるのに途中で力尽きてかすれて書けなくなっちゃうのに当たったときはハズレだ!って思うけど、
なんか今使ってるのが
途中かすれだしてきたので、
もうインクなくなったの?ってくるくる回して軸を開いて叩いて見てみたら別に文明開化の音はしなかったけどまだたっぷりインクが残っていたわ。
なんかあと
角度とかによっても
一応くるくる回してみて叩いて見てみて別に文明開化の音はしなかったけど、
しばらくくるぐる試し書きをしていたら調子良くなるときもあるけど、
それでも
ダメなときはダメで途中力尽きちゃうボールポイントペンってあるわよね。
100円台で買えるコスパのよい書きやすいボールポイントペンが今たくさん出回ってるので、
次あれにしようかな?ってとか迷うけど結局はいつもの!ってバーテンさんに頼む勢いで
モスコミュールを発注するかのようにボールポイントペンを私たちはてんこ盛りな雰囲気で買っているのよ。
だから
100円だし、
まーいっかー!ってなるじゃない。
諦めが肝心の早さが大事とはよく言うけどね。
いちいち100円のボールポイントペンに目鯨を立てている場合じゃない目鰯よね。
でもよ!でも!
100円だからって
ペン立てに刺さっている私のボールポイントペンを勝手に持っていくのはなんだか嫌だなーって思うのよ。
試しに
地元の信用金庫のボールポイントペンをたくさんペン立てに刺していても
誰もそれ1本も持って行かないのは
猫が寝ている人間をどうやったら起こしたら一発で起きるか?って学習して、
なんだか起こし方を試行錯誤するまでもなく、
みんな信用金庫のボールポイントペンを持って行けばいいのに!って
本当に焼べないけど。
いいボールポイントペンと信用金庫のボールポイントペンはみんな区別付けてるんだわ。
いいメーカーのバージョンの信用金庫のボールポイントペンを作ったらまた話は別よね。
そもそもとして、
あの書きにくいというか、
インクの書き心地にムラのある信用金庫のボールポイントペンも、
普通に信用金庫の名前が入っていてもいいボールポイントペンだからって
本当に本気でみんな使ってくれるから
逆に本当に宣伝になると思うのよ。
変な安かろう安かろうなボールポイントペンに名前印刷したところで、
もうみんな書きやすいいいボールポイントペンのこと知ってるから
見透かされてるんだから!
いいボールポイントペンのそう言う名入れボールポイントペンにした方がいいと思うんだけどなぁ。
その方が効果絶大じゃない?
みんなちゃんと持って使ってくれるなら。
ちゃんとまともに書けるボールポイントペンなら暖炉に焼べなくてもいいでしょ?
そう思いながらずっと
紙にぐるぐるマルを書いていたら
インクの出が良くなったみたいよ。
あのさ
あの細かい先の復活の仕方って何かいい文房具マニアオススメの復活テクニックってのないのかしらね?
もう私ですら伊東家の食卓ってなによ?って
ライフハックイコール伊東家の食卓って代名詞になってない?って思うし
まだまだ知名度的には弱いのかも。
そう!だから
言い書きやすいボールポイントペンの名入れボールポイントペンに伊東家の食卓って刻印して
みんな使うようにしたら、
うふふ。
温かいホッとタマゴサンドなので優しい味がして美味しいのよね。
ホッツなホッツサンドも美味しいわ。
タマゴも最高よ!
昔から考えてありそうなモノだけど今までなかったのが逆に不思議ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
無罪判決が出たのに、やった父親がうまいこと逃げおおせた!怖い!っていう人がぽろぽろいて、そんな輩に、無罪判決が出たのになんかやった体で文句言ってるやつがいて怖い、みたいな話がちらちら見えるんだけど俺からしたらどっちも怖いわ。
裁判において重要なのは原告と被告がどのように裁判官を判断させたか、という事であり、本当にやったかどうかは実はそれほど問題じゃない。つまり検察次第ではやってないことで有罪にしちゃったり、弁護士次第ではやってんのに無罪にすることも不可能じゃない。そしてこの辺のテクニックが高度になってきてて困る人が増えている。
証明できる物的証拠でもないのであれば、本当にやったかどうかを知っているのは原告と被告だけだ。そのため本当にやったかどうかはここで問題にしてもどうしようもないっていう事だ。
つまりこの無罪判決は検察が裁判官に「この父親本当にやってんな」と判断させるに足るだけのことができなかった、というものでしかない。
だから本当はやってるとか、無罪出たのにやったと信じてるやつがいるとかそういう話をしている時点でもう俺は怖くて仕方がない。
自分のセレクトしたものを並べるページを作って、そこから売れるとアフィリエイト入る仕組みなんだけど、これを生活系インフルエンサーがみんな使ってる。なのでネットのクチコミで何か買うと楽天に誘導されることが多い。
はてなブログも楽天アフィリエイト連携できるから、女性ブロガーが「買ってよかったもの」って話するときは、だいたい楽天のリンクが貼られてるよね。
あと、最近は公式ショップが楽天にある化粧品会社とかアパレルブランドも増えたので、そういう安心感もある。非公式のものをアフィリエイトで推すのちょっと憚られることもあるし。
amazonはショップ母体分かりづらいけど、楽天は怪しい店とちゃんとした店がわかりやすくて、お気に入りのショップはだいたい定期的にチェックしてる人が多い。
楽天市場は、だいたい3週間に1度ぐらい買いまわりセールをやってる。これは複数の店で買えばポイントが倍々になっていくというもので、最大10軒まで買いまわりできてポイント10倍になる。無印週間が月に1-2度あるというイメージ。女性はこういうわかりやすいお得情報に敏感なので「お買い物マラソンで何買った?完走した?」って話題が割と出る。
ほしい物リストに生活必需品ためといて、お買い物マラソンのタイミングで買う人が多い。消耗品の購買担当やってるのは主婦が多いし、主婦の節約テクニックとして使われてる。
で、楽天銀行とか楽天カードとか楽天のサービスを使うとさらにポイント倍率は上がるので、必然的に楽天経済圏に取り込まれていく。
現金還元じゃなくてポイントってとこがいいんだと思う。ポイントはへそくり扱いで自分の好きに使いやすい。期限限定ポイントだったら、ちょっと贅沢と思って我慢してたあれこれを買う口実にもなるし。女性心理つかんでんなーって思う。
ほかと比べて割高でも楽天で買ってポイントでへそくり確保してる主婦とかいそうな気がする。クオカードつき出張プラン的な。
大量に入っただし昆布の耳とか、こわれせんべいとか、不揃いな果物とか。ああいう生産現場で出た少々難ありアイテムを探す場合、メーカーがやってるECサイト以外だと楽天が最強だと思う。複数ショップから選べるし。家族いると、こういうのむちゃくちゃ助かるんだよね。
日本人には数学ができないなどといって昭和のように学校の先生や教科書がないことの言い訳をしてんじゃねえよ貧乏クソ会社。
先生がいてテクニックやトリックを習えばできる話だろ。言い訳のクズ野郎が。20年前はそれに似たようなことをZ会やぺち見卓志がやっていたよ。
今でも予備校に行ってる人はやってんだろうが。
俺は氷河期世代の1つ上でめちゃくちゃ幸運にも就職も結婚も随分とSmoothだったんだけど
あまりに後輩の氷河期がひどく、優秀すぎる子が職場に面接しにくるものだから、
一つでもポスト=椅子をあけてあげようかなというのもエリートコースからの退職の一つの理由だったよ。
氷河期の表立っての理由はたぶんリーマンショックかなんかだったとおもうんだけど
裏にはそろばん・習字・こまめなファックス送付・電話打ち合わせ・足すりへらしての営業…といったアナログなビジネステクニックの(パソコン普及による)急激な廃れもあったとおもう。
そして、今の40代はITに関してはものすごくぶきっちょなんよ(50代以上はほぼ壊滅)
ギリギリIT化についていける、ラインも「オジサン構文」ならなんとかなる世代
それで本人は「努力したつもり」でも
うまれたときからツイッターと炎上案件みてた世代、就職時に当然大学か就職時研修でITならってきたでしょ、って世代とは内心かなり違う
オーガニックで男女平等でクリーンなネット環境の水が澄みすぎててもとの濁りのアナログ恋しいんよ
どっちにしても人生の途中でITの壁にぶつかって苦労してるんよ(ね、みずほ銀行くん)
(女性にはデジタル営業親和性高い人多いしPTAでラインをやむを得ず使いこなせてる人も多いけどそういう人を社会によびもどせるルートがまったくない)
ITできてもこんどは知財の罠にはまってて、今日も同年代が「うちの商品脱法だったみたい」って悩んでた
もうちょっとデジタル法学に目端がきいたらこのくらいの年代ってボコボコ起業しだしてるはずだったんだけどなぁ
俺なんか30代で退職してから悠々自適にツイッターも増田もつかってるけど
フェイスブックでアムウェイもどきやろうとした同級生マジでいたから全然出入りしたくないし
勝手に習ったフォトショやクリスタで15年くらいまえから同人やってるとかいまさらいえないし
これ
あなたの質問に娘や妻がイラッとして反撃してくる理由【娘のトリセツ】1
https://serai.jp/living/1070315
もうやめろよ時代じゃねーんだよ
そもそも、そういう「質問で攻撃する」というのを一番やってるのは母親だろ?
まあこの記事はクソなんだけど、質問で攻撃するなよというのは俺も大昔から思っていた
例:
B「すいません!!もうしません!!」
A「いや、怒ってないよ、単純に理由を聞いてるんだけど」
こういうのよくある
原因は
1.日本語において、質問というのが責めているのか聞いているのか判断できない
だから質問は極力回避するか、文脈を限定しろというのはよく思う
よく親が怒るときにやってるやつも
「何で◯◯するの?」じゃなくて「◯◯するのはやめなさい」でいい
質問する時は
「何でこんな遅くなったの?」だけじゃなくて「何でこんな遅くなったの?心配したよ」
みたいに、怒ってるか怒ってないかを明確にするべき
てか、こういうのマジで女の方が文脈がわからん発言しがちだと思うけどね
「何でそういうことするの?」
「いつになったら◯◯するの?」
「そういうことして楽しいか?」
「親のこと何だと思ってるんだ?」
「今ふざけていい時間か?」
「もう辞めるか?」
「いいえ!」
「だってお前本気じゃないだろ?」
「本気です!」
「帰りたいんじゃないのか?」
「いいえ!!」
「じゃあ真面目にやれ」
「はい!」
みたいな
人間って否定するときのほうがエネルギー出るからそれを利用して叱りたいんだというテクニックだというのはわかるんだけどさ
俺はよくこういうの「ひねくれ表現」って呼ぶんだけど