はてなキーワード: 地方とは
●概要
ドゥルチェリーナ (Dulcherina) は、イタリアで生まれた伝統的な甘いお菓子で、その歴史は18世紀頃に遡ります。ドゥルチェリーナは、蜂蜜、キャラメル、ミルクを主原料とした一口サイズのキャンディーで、外側はカリッとした食感、内側はとろけるような柔らかいクリームが特徴です。
●歴史
ドゥルチェリーナの発祥は、イタリアのトスカーナ地方にある小さな村、ドルチェリアーノとされています。当初は農家の女性たちによって家庭で作られていたシンプルなお菓子でしたが、その後、地元の祭りや宴会で提供されるようになり、イタリア全土で親しまれるようになりました。
●製法
ドゥルチェリーナは、まず蜂蜜と砂糖をじっくり煮詰め、キャラメル状にした後、冷却して形成します。その中心部に特製のミルククリームが詰められ、再度焼き上げることで、外はカリッと中はとろりとした独特の食感が生まれます。現在では、さまざまなフレーバーや色合いのバリエーションが開発されており、フルーツ風味やチョコレート風味なども登場しています。
●文化的な影響
ドゥルチェリーナは、イタリアの「家庭の味」として親しまれ、特に祝祭や誕生日には欠かせない一品です。さらに、贈り物としても人気が高く、特別な包装が施されたドゥルチェリーナのギフトセットは観光客のお土産としても愛用されています。また、イタリア国内では、毎年秋に「ドゥルチェリーナ・フェスティバル」がトスカーナで開催され、多くの観光客が訪れます。
●栄養成分
1粒あたり (約15g):
• たんぱく質: 0.2 g
• 脂質: 1.5 g
●現在の展開
先日、フリーランスとして手伝っていた会社が倒産した。この業界で20代後半まで活動してきて、感じることがたくさんあるので、思うままに書いてみたい。
学生時代の私は、「"死んだ目をして満員電車に乗って働く"なんて絶対嫌だ」と思っていた。いわゆる意識高い系で、海外ボランティアに参加したり、地方創生を掲げて学生ながらイベントを開催したりしていた。あの頃、周りの謎めいた大人たちを妙に尊敬していたし、なぜ社会や世界が変わらないのか、本気で嘆いていたように思う。
就活時には「スーツを着て面接なんてダサい」と反抗的な姿勢をとり、仲間とそんなスタンスを共有しながら、迫る社会への不安を分かち合っていた。
それから10年近く経ち、振り返ってみると、自分も変わったなと感じる。大学時代の自分をこうして振り返ると、つい冷笑してしまうし、同じような学生に出会うと、自分が昔嫌っていた皮肉なおじさん的な振る舞いをしていることに気づき、少し恥ずかしくなる。
あの頃の私は、卒業後も「Twitterで話題のWebエンジニアブーム」に乗り、プログラミングスクールに通い、新卒でベンチャー企業に入社して海外で働く――まさに意識高い系トレンドを突き進む、典型的なミーハーだった。今振り返ると、当時の自分が滑稽に思える。
この記事で伝えたいのは、「誰もが成功するわけではない」という、当たり前だけれど大切なことだ。学生時代の意識高い系の友人たちも、今ではその勢いを失った人が多い。ワーホリで海外をさまよう者、鬱で社会復帰が難しい者、愚痴ばかり言う者、死んだ目をして満員電車に乗って働く者――それが現実だ。
また、当時関わっていた大人たちも、学生をうまく利用したい人や、社会の第一線から退いた人が多かった。地方創生も行政にとっては「メリットのないことをやってくれる人材」を求める施策に過ぎず、学生をおだてて地方移住させる行政職員を見ると、なんとも言えない気持ちになる。
「スタートアップで上場して億万長者になる」という夢物語も簡単には実現しない。私が関わった3社も、事業整理で撤退、コロナで身売り、倒産と、どれも悲惨な結末を迎えた。資金調達の熱狂が終わり、エクイティの関係で撤退もできずゾンビのように続ける社長たちも多く見てきた。VCが学生をそそのかして起業させる光景にも、時折やりきれない思いが湧く。
「いい加減、俺にも夢を見させてくれ」と叫ぶ過去の自分と、「これが現実か」と冷静に受け止める今の自分がいる。
債権者集会で、髪が乱れ、うつむいたままの社長を見たとき、言葉にできない感情がこみ上げてきた。
そんな中、スモールビジネスブームに乗り、私はのらりくらりと会社を始めた。先日決算が終わり、売上は3000万、年収は2500万ほどになった。ミーハー意識高い系バンザイ。
これは『日本名乗史探究』の著者で歴史学者である佐藤光隆による説に基づいて否定するべき内容です。佐藤氏の著書には、以下のような異なる見解が示されています。
佐藤光隆氏は「姓」「氏」「名字」の区別について、よく知られている理解とは異なる見解を示しています。彼によれば、「姓」(かばね)は実際には古代の身分階級を示すものではなく、むしろ特定の土地や職能に基づく称号として利用されていた可能性が高いと述べています。また、「氏」(うじ)も血縁的な関係を示すというよりは、共同体を表す名前として使われていたとしています。したがって、投稿の説明は佐藤氏の見解とは異なります。
2. **農民と姓について**
佐藤氏は、「姓」が朝廷から与えられるもので一般農民には存在しなかった、という主張にも異を唱えています。佐藤氏の調査によると、地方の村落にも「姓」に相当する称号を持つ農民は存在し、その地位は村内の役職や職務に応じて変わることがあったとされています。この点で、農民が「姓」を一切持たなかったという主張は、佐藤氏の研究に基づくと必ずしも正確ではありません。
明治時代の姓氏不称令や苗字必称義務についても、佐藤光隆氏はこの説明に異議を唱えています。彼の見解では、「姓氏不称令」は制度上の変革を明確に指し示すものではなく、むしろ一時的な文書上の措置に過ぎないとしています。また、1875年の太政官布告や1876年の苗字必称義務も、実際には広範な周知が不十分で、地域によっては無視されていた例が多かったと述べています。したがって、これらの政策が即座に「公文書での姓の廃止」と結びつけるのは、過大評価であると指摘しています。
さらに佐藤氏は、江戸時代の農民の苗字の扱いについても異なる見解を持っています。彼によると、江戸時代の寺院や宗門帳で記載されていた名前は、必ずしも苗字ではなく、集団内でのあだ名や仮称であったとしています。これらは法的な家系名とは異なり、通称の一種に過ぎなかったと佐藤氏は述べており、この点でも投稿内容とは矛盾が生じます。
さす九の次はさす北やさす沖まで増えたのか
何処までも「その地域に特有の問題」にして、都会は無罪!にしたいもよう
@hyakuyobako_key
これずっとおかしいと思ってたけど「女は損切りで捨てられるけど(元から嫁や外に出す気だから) 男だと「ここまで育てて代わりなどもう作れない」から顔出しさせないでうやむやに頑張る親がいるんだよね? 男尊女卑地域に多いだろう。さす九やさす北 さす沖など「なんだかんだ家父長制強ミソ地域」に
10年後の日本では、人口減少、少子高齢化、技術の進展、気候変動など、現在進行中の課題やトレンドがさらに顕在化していると予測されます。以下、分野別に具体的に論じます。
• 地方分権化の進展
人口減少や過疎化が進む中、地方自治体の財政基盤は厳しさを増す可能性が高いです。国からの補助金に頼るだけでなく、地方ごとに特色ある税収確保策や産業振興策が必要になるでしょう。ふるさと納税のような地域活性化政策はさらに進化し、地方の自立性が増すと同時に、地方ごとの格差が生まれる可能性もあります。
高齢化率がさらに進行し、現行の年金制度や医療保険制度の持続性が危ぶまれています。少子化による労働力不足や若年層の負担増を考慮し、年金の支給開始年齢の引き上げや、医療サービスの効率化が進むと予想されます。消費税や所得税の見直し、社会保険料の引き上げも議論されるでしょう。
2. 社会
労働力不足を補うため、外国人労働者の受け入れが増加していく可能性があります。特に介護、農業、建設といった分野では、外国人の活躍が不可欠になるでしょう。その一方で、多文化共生に向けた社会制度や地域コミュニティでの支援が進むことが予想されます。言語教育や差別防止策の整備が急務です。
働き方改革や男女共同参画の推進により、家族や結婚の価値観もさらに多様化します。選択的夫婦別姓、同性婚の合法化も検討される中で、これまでの「標準的な家族観」から脱却し、様々な家族形態が当たり前とされる社会になっていくと考えられます。
3. 生活
AIやIoT(モノのインターネット)が普及し、家事や通勤、健康管理などが効率化されるでしょう。スマートホーム技術や遠隔医療の発展により、日常生活がより快適かつ便利になる一方、デジタルデバイドの問題も浮上するかもしれません。高齢者へのデジタル教育やサポート体制がさらに充実することが求められます。
テレワークが定着し、地方移住の動きがさらに進む可能性があります。自然エネルギーを利用したエコハウスや、地域の資源を生かしたサステナブルな生活スタイルが広まり、環境に配慮した生活が標準となるでしょう。特に若い世代が自然豊かな環境を求めて地方に移住し、農業や地産地消の取り組みが進むと考えられます。
4. 文化
映画やアニメ、音楽など、日本のポップカルチャーはさらに多様化し、国際的な影響力を持ち続けるでしょう。デジタル化やグローバル化により、日本発のコンテンツが世界中で視聴・消費される一方、日本国内でも海外の文化がより身近に取り入れられ、ハイブリッドな文化が生まれると考えられます。
若い世代の間で伝統文化の継承者が減少する問題に対し、地域ごとの保存活動が進むと予想されます。デジタル技術を活用して伝統芸能や工芸をアーカイブ化し、広く発信することで、国内外で日本文化に対する理解と関心が高まるでしょう。
地球温暖化の影響で台風や大雨などの自然災害が頻発すると予測されています。これに対して、日本は防災インフラの整備や、避難所の増設、地域社会での防災教育の充実がさらに進むでしょう。また、再生可能エネルギーの普及や、エコカーの普及を通じた温室効果ガスの削減に向けた取り組みも進むと考えられます。
まとめ
10年後の日本では、人口減少や高齢化、気候変動といった社会課題に直面しながらも、テクノロジーの進展や多文化共生、地方活性化といった新しい価値観やライフスタイルの確立が進んでいると予測されます。
ふるさと納税の導入を促進した日本の主要な関係者は、自民党を中心とする与党議員や、総務省などの省庁です。ふるさと納税制度は、2008年に総務省が主導して創設されました。目的としては、地方自治体の財政を強化し、都市部への人口集中を緩和することが挙げられます。
• 地域間の財政格差解消: 都市部に人と税収が集中し、地方は過疎化が進んでいるという現状を背景に、地方自治体が税収を得るための方法として考案されました。特に総務省は、地方創生や地域活性化を進めるためにこの制度を設け、地方の財源不足を補完しようとしています。
• 寄附文化の醸成: 自民党を中心に、日本における寄附文化を広めることも一つの狙いでした。ふるさと納税を通じて、人々が自分の出身地や応援したい地域に寄附を行うことで、地方の支援につながる仕組みとする目的がありました。
• 自民党: 自民党議員が地方創生の政策として支援し、法整備を推進しました。地方の活性化を重要視する地方議員も多く、この制度を通じて地方振興の一環として活用されることを期待していました。
• 総務省: 総務省が制度設計とその運営を担当しており、ふるさと納税の実施ルールの策定、改正なども行っています。また、返礼品のルールや適正化についてもガイドラインを設け、制度の円滑な運営を進めています。
3. 課題と調整
ふるさと納税制度は当初の目的を果たしているものの、返礼品競争などにより一部の自治体に偏った税収が発生するなどの課題も生じています。総務省は返礼品の規制や、制度の健全な運営に向けた調整を進めることで、制度の趣旨を維持しようとしています。
ふるさと納税の話って
なんかこう、都会と田舎のお金の動き、みたいな話に終始しがちだけどさ
特産品はあるが他の土地と比べると見劣りする、みたいな自治体は
参加費用(準備費用や人件費)だけ払ってマイナスなんて所多い筈なんだよね
このマイナスは、ふるさと納税としての流出と流入の話じゃなくて
箱モノ行政の来館者の居ない施設みたいな、単純に施策としてマイナスって話
でさ
ふるさと納税の話する時に、都会は子供の教育費返してないよね、みたいに賢しげに言う人いるけれど
税金配分制度への参加で、貧困自治体へ参加費用が発生して、必ず回収できるわけでもないってさ
PRしないのが悪いとかそういう自己責任論を、税の配分に持ち出して
配分比率すらも
「既にメジャーな特産品がある(一定程度は税収もあっただろう)」自治体がさらに富んで
考えた奴は馬鹿なのか?
しかもこれ
保険とか扶養とかの経費とかの、税計算前所得への減算じゃなくて
計算結果の住民税を一部他へ払ったという体だから、税金そのものから返礼品分減税されてる
たった2000円で、多分「生命保険料控除、介護医療保険料控除、個人年金保険料控除」のすべてを上限まで使うよりもお得
紀伊國屋あたりと比べりゃそりゃ安いだろうけど、地方のスーパーで200円のトマトが、都内のスーパーだと1000円もしますなんてことはないわけで、地方に住んだら生活費が半額になりました!なんてことはまず起きないだろうよ
親は平均よりは稼いでいたけど兄弟多かったから資産形成まで手が回らなかった
教育には力入れてくれたから、やる気がある兄弟は貰えるものはないが本人がそれなりに出世した
配偶者は大きな家土地はあるが田舎すぎて値段がつかないからほぼ負債
あと配偶者の兄弟に難病がいるからたぶん遺産はそっちに行くと思う
うちは地方だけどベッドタウンだから遺産相続は家土地を分割になるけど
周りは代々って人も多くて、土地持ってると余裕あるなとは思う
土地持ってる家系は祖父母から土地を譲ってもらえるから、それで一軒家を建てられるというだけで、それも田舎にあるんじゃ資産価値もなければいずれ空き家として処分費がかかるので大したプラスではない
・夫は結婚話が出た時に、同居したいくらい、マスオさんになりたい、入婿で構わないと言っていた
ということで、妻実家側は姉の姓を名乗るのだと思っていたところ、婚姻届を書く段階になって夫の父が「妻の姓を名乗るなんて許さん」と大騒ぎして、結局夫側の姓を名乗ることになった。
妹である私も、私の両親も、「こいつ土壇場で言っていた事を平気でひっくり返しちゃう奴なんだ」と夫に対して思った。
すぐに子供に恵まれたんだけど、初孫なのに両親はトーンダウンして姉は実家からの能動的なサポートが殆ど受けられなかった。私もなんか白けてしまい、姪とは正月に姉が連れてきた時に会うだけ。両親も私も、自分から姉の子供に会いに行くことはない。
だって、土壇場で「他人のウチの子」になっちゃったんだもん。なんか興味失せちゃった。
姉の夫側は遠方で資産もなく、すでに孫が何人もいるため、金銭的なサポートゼロ、助けに来てくれることもない。なのに、自分の家の姓を孫に名乗らせてる。
男性の姓を名乗ることが一般的だから、妻側の実家も強くは言わず、距離を取った。
姉は名義変更なら何やらで細々と1年くらい事務作業があったと言ってた。
一番の不利益は妻実家がトーンダウンして冷ややかになったことだと思う。姉の姓を選んでくれていれば、夫側の父親が発狂しなければ、姉は両親から手厚いサポートを受けられたと思う。
姉はずっと後悔してるらしい。
https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9
https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9
・そうですか、といったところ。
■鯨井氏のジャッジ
・まえがきでは個人的な狂気を重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ「狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作に情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか。
・それでいて、最後に他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間の普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。
・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分の感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。
・固有名詞問題。固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。
・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略の問題でしかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなたは不快なんですね、としか言いようがない。
・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定のイメージを形成しているし、フィッシュマンズやクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。
たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。
しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。
・関西弁を含めたトータルのパッケージに差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル(固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。
・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。
・いろんなところで中途半端な評だと思う。
・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。
・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。
冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分の感情や行為しか書いてない。
本当は全部関西弁にしたかったけど、自分の技術じゃ無理→すげえわかる。
(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。)
・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。
それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああいう作品の連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジだからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。
で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品の主体(視点人物)が東北人の上京者」であること。
「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」
というのがほんとうにわからない。視点人物が東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語と方言の権力関係が無効化されるの?? なんで???
むしろ、この作品の場合は主体が標準語の権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言を搾取してますって構造に見えませんか???
さらに問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。
「関西弁をマイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり「東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?
・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。
・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカルな反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。
東南アジアの児童買春に関するポストがバズってた椎木透子って人、
何処かで名前を見たような気がして検索してみたけれど、震災後の福島に関するドキュメンタリー映画を作ってた人なんだね。
『この空を越えて』
この人、東日本大震災当時はアメリカにいて、福島どころか日本での震災での当時の経験すらないみたいなんだけど。
そんな人が作る福島のドキュメンタリーって、上記の買春クソキモポストの件と合わせると、被害を矮小化して援助の手を断ち切る目的しか感じなくなってきたな。
あと、これ。
その活動が2年目に入った時に、福島の子どもたちを対象にしたプロジェクトを行うことになりました。結果的にその活動はちゃんと届けることが出来なかったのですが、諦めきれずに、福島の9~15歳の子どもたちにアンケートをお願いして、彼らの思いを知ることができました。そのなかで、私をハッとさせた答えがありました。それは、「私たちは震災で大変な思いをしたけど、可哀想ではない。そう受け取らないでほしい」というものでした。
福島の子供達から「私たちは震災で大変な思いをしたけど、可哀想ではない。そう受け取らないでほしい」と言われたらしいけれど。
実際に震災で被害を受けたし、風評被害もあるし、そもそも震災以前から過疎化が進む地方で大変なのに。
この人は多分、きっと東南アジアで売春させられている少女に対しても同じように思ってるんでしょ、「可哀想なんかじゃない」って。
福島出身でかつて子供だった大人の一人として、当事者の言う「可哀想なんかじゃない」を安易に美旗に使ってはいけないと思うんだよね。
「可哀想なんかじゃない」って、そりゃ当事者は言うよ。子供なら尚更。同情されるのは惨めな気持ちになるし、辛い事だから。
自分も昔はそう思ってた。自分は可哀想なんかじゃない、可哀想なんて思われたくないって。
でもいざ大人になってみるとやっぱり客観的に見たら自分は十分「可哀想だった」し、
可哀想だと言ってても確実に支援してくれる大人の方が有難いんだと分かる。
子供相手に限らず、最近はとかく理論武装して他人を直接助けない事を正当化する言説が盛んだよね
魚を与えるよりも魚の捕り方を教えろみたいな言説もそう。
日本の民主主義ってこう、一般の人々の声を聞いてまとめる代議士がそれぞれの地方や地域にいて、その代議士たちが集まって議論する感じじゃん。
そういう人の集まりに行くのも、なんか既存の知り合いの人たちの輪ができてる感じがして近寄りがたいし、そもそもそういうのがあるのかすら知らない。
あるいは政治家の人たちは地域のイベントとかに顔を出すって話も聞くけど、それも縁がない。
リアルな場が難しいならSNSと思ったけど、多分その線で調べてみるとアンチと信者ができてしまっていて直接声をかけにくいんじゃないかなとか。
増田に書き込んでる時点で本末転倒かもしれないけど、俺は俺という個人の声を聞いてくれる政治家に投票したい。
正直裏金疑惑があったとしても、綺麗事を言ってる人より頼りたくなるんじゃないかとすら思ってる。
政策で政党や政治家を選ぶっていうのも、この「声を聞いてもらう」の段階をすっ飛ばしてるように思えてしっくりこない。
投票にはずっと行ってるけど、「この人に入れたい」と思って投票したことは一度もない。
これは偏見かもしれないけど、自分より年長の人たちにはひいきの政治家を身近に感じる経験があって、若い世代には少なかったりするんじゃないかな。
歩道を走るには速すぎて危ない、車道を走るには遅すぎて危ない、という自転車とまともに向き合ってない。
駐輪場も都市計画でまともに検討されることなんかないし、仕方なく適当に停めると撤去されて罰金食らう。
まぁ、東名阪などの大都市圏は今更自転車に割く土地なんか余ってないし、地方は自転車なんかガキとモノ好きの乗り物で
こうやってテレビで維新ばっかりという人は具体的な番組名や内容を挙げないしぶっちゃけエアプなんだよなぁ。
地方が地方政治を語るのは当たり前でそりゃ維新の報道はあるけど本当に毎日見てたらこういった感想にはならん。
政治も万博も普通に叩くし、芸人タレントと同様の扱いではないよ。本当にタレント化するならたとえばよ~いドン!にレギュラー獲得してから言って欲しい。ズブズブならできるだろ?人間国宝を維新議員が褒めちぎったら人気爆上がりでしょ。
あと非関西人ほどよく吉本新喜劇を持ち上げるけどぶっちゃけ影響力は高くないし若い人はなおさら。イマジナリー関西観で語りすぎ。日常で新喜劇見たね~面白かったね~とかいっさいないから。マンネリでつまんねならあるあるネタでたまにあるけど。
維新が支持されている「おかしい」理由を考える非関西人はテレビ露出と吉本だけを語るけど、滑稽すぎて逆に見てないのが分かりやすいんだよね。