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はてなキーワード: 道徳的とは

2017-07-24

責任」という言葉が嫌い

使われ方が曖昧すぎるんだよ

 

責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的責任がある、とされる。 何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。

 

上記はwikipediaから

曖昧って言ったけど、言葉のものはそこまで曖昧じゃない

 

「Aに対してBする責任がある」と言うと

「Aに何らかの不備が生じた、あるいは生じる可能性があるときに、Bしなければならない」って意味

 

プログラムで考えると分かりやす

責任という言葉には引数が2つある。責任対象(Reason)と、行為(Action)だ。

 

だけど世間の「責任」の使われ方はどうだ?

Actionが抜け落ちている。酷いときにはReasonも抜け落ちている。

何をしてほしいのかまるでわからない、何に対して責任あるかも曖昧

ただただ避難するためだけに「責任」という言葉を使い

はいだって「結局何をしてほしいんですか?」と聞く羽目になる

 

そんなシーンは世の中至る所で見かける

言葉も満足に使えないバカがやたら「責任」を使いたがる

もっと別の言葉に置き換わってもらえないだろうか

ReasonActionを述べないと使えないような語に。

2017-07-18

https://anond.hatelabo.jp/20170718003106

義務時代地域によって定められるものではない。人の心に生まれつき備わっているもので、そういう義務を感じる心を持って生まれ育った人間けが正しいのだ。

人が死んで悲しいと思う人間けが道徳的に正しい人間であるのと同じように、他人の死を喜ぶ義務を感じる心を持って生まれた育った人間けが道徳的に正しいのだ。

道徳は、時代地域を超えた理念だ。お前が、そのような疑問を投げかけた瞬間、お前は私の死体を見て喜ぶ義務が生じているし、私もお前の死体を見て喜ぶ義務が生じている。対立する者同士は、お互いの死体を見て喜ぶことが道徳的に正しいのだ。実際にどう感じるかは別として、自分がどう感じるべきかを我々は社会規定されているんだ。

実際には、俺はお前の死体を見ても喜ばないだろう。つまり、私は義務を果たせていないのだ。その代わり、義務を果たせていないことに罪悪感を感じるのが、真の人間のあるべき姿だ。

2017-07-11

オタクフェミニストは誰と戦っているのか。

 このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクフェミニストラグナロク永遠につづくかのようにおもえる。


 これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである


 わたしたちは第一次世界大戦を生きている。

 毎日がソンムの戦いだ。



 オタクフェミニストそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?

 フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタク宮崎勤池田小のやつとエドゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。

 オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニスト権力によって表現の自由を、人間尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。


 彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。

 彼らがそれぞれ想像する「敵」とは誰なのだろうか。


 オタクにはトラウマがある。

 悪書追放運動である

 1950年代PTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。

 暴力的表現子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。

 これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派ファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。


 なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。

 悪書追放やり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨迫害を忘れなかった。

 彼らはそのとき体験エッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガネタに織り込んだ。

 そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和マンガ享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガ表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。

 悪書追放運動記憶継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。

 そういうわけで、マンガ守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。


 さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。

 だがオタクたちはずっと敵は「既存道徳にしばりつけられた保守的道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーである叫び続けている。



 フェミニストたちを一言でくくるのは難しい。

 「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性男性社会のもの憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態様相を呈していて、

 そうなったときクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。


 しかオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。

 「こどもたちを傷つける」表現をこそ問題だと言っている。

 教育ではなく、トラウマの話だ。


 フェミニストたちにもトラウマがある。

 日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアサブカルチャーにおける性的エロという意味限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。

 ふた昔前はテレビ女性おっぱいエロティック晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、

 そこまで過激ものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。

 それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。

 そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。


 男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性メンヘラでは?


 少女たちはテレビマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?


 一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?

 刃のついた表現現実存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。

 問題とはむしろそこだ。

 何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?

 私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。


 傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。

 こうしてアイデンティティポリティクス生まれる。

 彼女たちの目的は次の世代トラウマを残さないこと。

 そういう意味では、オタク表現規制運動歴史を語りつぐことと少し似ている。


 そして、オタク同様、「敵」を認識しそこねている。


 フェミニスト場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義統一がはかれていないことだ。

 これは攻める側の弱さでもある。

 守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。

 だが、フェミニスト側は具体的に個別問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。



 そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。



 彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。

 オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」

 フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力肯定しつづけるレイピストクソ野郎


 オタクはただ表現進歩性を守りたかっただけなのに。

 フェミニストはただ表現進歩を与えたかっただけなのに。


 ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。

 もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。

 自分以外のすべてを虐殺しつづける戦場

 それがインターネットであり、インターネット表現規制論争だ。

2017-07-08

性教育とか性差別とか話題になってるけど

道徳教育について考えるのも大事だと思う。

表現子供への悪影響や性犯罪性差別助長になるのではと問題視されるけど

道徳的教育がなされていれば、突破できる問題だろう。

人が嫌がる事はしない、差別はいけない、とか基本的な事で。

もちろん性教育大事だと思うが、道徳教育も甘いんじゃないか

2017-07-07

安倍昭恵スピリチュアリズム

以前ブログにも書いたのですが、

もしも私が放射能だったら・・・

人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・

悲しいだろうなあと思ってしまます

嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・

原発肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。

しかし、放射能自体が悪いわけではない。

悪いのは人間です。

私は放射能感謝気持ちを送りますありがとう・・・

意識の持ち方は大切です。

https://www.facebook.com/akieabe/posts/10150571917471779

 安倍昭恵2012年フェイスブックへの投稿話題になっている。

 スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。

悪の問題について

 安倍昭恵記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会問題被害と加害の関係等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。

 この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間勝手価値観押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間物質関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念人間領域限定されていて、「善悪無記」の物質自然物)にそれを押し付けることはカテゴリーミステイクであるという発想だ。

 松崎勲と類似コメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵思想根本的に誤解している。

 そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考のものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。

 このような「対称性」のスピリチュアリズム記事の後半にも貫徹されている。

 「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間善悪無記の放射能悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会のものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり安倍昭恵糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。

 問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方関係非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)

 要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間勝手価値観押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメント安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである

槇原敬之の「Appreciation」との比較

 安倍昭恵記事を読んで、槇原敬之2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変反省し、感謝の大切さを唱える内省精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。

 一方、安倍昭恵場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直スピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵人間放射能感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。

スピリチュアリズムから批判

 安倍昭恵スピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後スピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵批判するに違いないかである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。

 人間地球自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽からの(核融合の)エネルギー植物光合成によって媒介されて持ち込まれさら動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。

 中沢議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢原発一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発放射能には適用できないということである

 中沢議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。

原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたか自然事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。

2017-07-03

https://anond.hatelabo.jp/20170702210122

ガタガタ書いてるけど、なんでそんなに企業障碍者対策の金払わせたくないの?企業無限障碍者対策できないことぐらい、皆、分かっている。企業営利組織なので、どこかで線引きしないといけないことは確か。で、線引きをする何らかの仕組みが必要だっていうのは当然の帰結でしょう。

罰金のような義務的な形にするか、あるいは、減税や補助金のような、必ずしも遂行する必要がないかたちにするかは、考え方次第だろうけどさ。多分、ケースバイケースで、どっちも使い分けないといけないだろうけどね。

で、なんか罰金に反対みたいだけど、そもそも、お前が挙げたバリアフリー法の中で、悪質な場合罰金規定されているんだけど?つまり企業が最低限の障碍者対策サボることがないように、企業義務を課すことは正当な行為であると、国が認めてるの。障碍者企業対話して対立を解消することも大事だろうけど、企業障碍者対策義務付けて、ひどい場合罰金取る形にしなきゃ結局企業は動けないよねって国も認めていて、罰金を認める法が、もう10年以上前から成立してるの。対立解消だけを言い張るのは、結局、問題解決せずに対立がなかったことになって得をする強者側、企業側なの。対話による対立解消だけを言い張るのは、「弱者は黙ってろ」って言うのと事実上同じで、冷静に議論するフリして障碍者をぶっ叩く、差別主義の最悪の形だよ。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO091.html

必ずしも全ての健常者が、障碍者理解があるわけじゃない。「障碍者死ね」ってこっそり思っている健常者もいると思う。一般人自殺しないのが道徳的義務であるのと同様、健常者が自分を脅かしそうになった時に抵抗するのも、障碍者に生まれた者の責務なんだよ。健常者が自分を脅かす思想を持っていないかどうかを監視して、自分たち存在を脅かしかねない思想喧伝する者には、ちゃんと「人殺し!」と言いまくって社会から排除されるようにしないといけない。戦うのはつらいかも知れないが、それが障碍者に生まれものの責務なんだよ。国で「障碍者も含めて皆が生きて健康文化的生活を送れるように努力することが、皆に安心感を与えて健全社会を作る」って憲法規定しちゃったんだから障碍者が声を貼り上げてそれを守らせることが、巡り巡って健常者の安全を守ることにつながるのだ。

2017-07-01

https://anond.hatelabo.jp/20170701175115

女性セックスって体だけでなく精神的な作用が大きいから、鬱っぽいって自己認識があるなら、それが原因の可能性も結構ある

性の問題ってどこで相談すればいいのか難しいよね

女性医師(変に道徳的でない)がいる産婦人科か、メンタルヘルス妥当なんだろうか?

疑問を重ねるようですまん

2017-06-28

規制緩和犠牲となる動物たち

加計学園問題を巡り、獣医学部規制が、国民のためなのか、獣医師会のためなのか?という議論が交わされています

規制が緩和され獣医師の数が増えれば、競争原理が働き、動物治療費が安くなるかもしれません。

また、腕の悪い獣医師競争過程で淘汰されてしまうのを恐れているのかもしれません。

その他にも、新設の結果、獣医学部法科大学院のように潰れてしまい、私学助成金などの我々の税金が、結果として無駄なってしまうかもしれないという問題点があります

しかし、ここには、重大な視点が欠落しています。それは、動物視点です。

「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る。」とはマハトマ・ガンジーが残したとされる言葉です。

獣医師になるためには多くの動物犠牲必要であることは、言うまでもありません。

解剖、手術、動物実験等様々な用途で、動物使用されます使用される動物としては、マウス、犬、豚、馬、牛などが挙げられます

獣医学部が新設されれば、当然使用される動物も増えるでしょう。

確かに獣医師の数が増えれば犠牲になった動物の数よりも多くの動物を救うことができるかもしれません。

しかし、需要を上回る獣医師養成し、人手が余ってしまったとしたら、その時犠牲となった動物の命は無駄になってしまうのではないでしょうか?

獣医師が余るなら、獣医師としては食べていけないなら、獣医師免許不要職種活躍していけばいいじゃないかという意見もあります

しかし、本当にそれで動物たちは浮かばれるのでしょうか?市場原理に目がくらみ本当に大切なことを忘れていないでしょうか?

獣医師は、 人間ではなく動物の命を預かるという点で、医師歯科医師薬剤師とは根本的に異なります

人間なら医学および歯学の発展のため献体を行うような教育における犠牲合意形成可能ですが物言わぬ動物たちはそれができません。

獣医学部新設の認可は文部科学省利権といわれていますが、結果的にこの規制動物のためにもなっていたと思います

市場原理に任せやみくもに獣医学部獣医師を増やしてはいけません。不足している分野の獣医師待遇改善など動物の命を犠牲にしない方法検討するべきです。

今こそ「命を守る政治」が求められているのではないでしょうか?

おかしなガムボール

おかしなガムボールという海外アニメがある。あの世界観ほど、多様性ナチュラルに描いた作品は無いように思う。

どんな家族の形があったっていい。どんなに変な人間でもいい。つまらなくてもいい。ただ一人一人が存在しているだけで許されている世界

それが端的に表されているのが、The compilation という回の挿入歌、″nobody´s A nobody″である。(日本語訳版を探すなら、「おかしなガムボール みんな特別」と検索すると出てくるはずだ)

https://youtu.be/gaN-hdI8ktM

誰もが特別だということは、特別なことではない。ごく当たり前のことだ。その意味で、このアニメは非常に道徳的だと思うのだが、如何だろうか。

規制緩和犠牲となる動物たち

加計学園問題を巡り、獣医学部規制が、国民のためなのか、獣医師会のためなのか?という議論が交わされています

規制が緩和され獣医師の数が増えれば、競争原理が働き、動物治療費が安くなるかもしれません。

また、腕の悪い獣医師競争過程で淘汰されてしまうのを恐れているのかもしれません。

その他にも、新設の結果、獣医学部法科大学院のように潰れてしまい、私学助成金などの我々の税金が、結果として無駄なってしまうかもしれないという問題点があります

しかし、ここには、重大な視点が欠落しています。それは、動物視点です。

「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る。」とはマハトマ・ガンジーが残したとされる言葉です。

獣医師になるためには多くの動物犠牲必要であることは、言うまでもありません。

解剖、手術、動物実験等様々な用途で、動物使用されます使用される動物としては、マウス、犬、豚、馬、牛などが挙げられます

獣医学部が新設されれば、当然使用される動物も増えるでしょう。

確かに獣医師の数が増えれば犠牲になった動物の数よりも多くの動物を救うことができるかもしれません。

しかし、需要を上回る獣医師養成し、人手が余ってしまったとしたら、その時犠牲となった動物の命は無駄になってしまうのではないでしょうか?

獣医師が余るなら、獣医師としては食べていけないなら、獣医師免許不要職種活躍していけばいいじゃないかという意見もあります

しかし、本当にそれで動物たちは浮かばれるのでしょうか?市場原理に目がくらみ本当に大切なことを忘れていないでしょうか?

獣医師は、 人間ではなく動物の命を預かるという点で、医師歯科医師薬剤師とは根本的に異なります

人間なら医学および歯学の発展のため献体を行うような教育における犠牲合意形成可能ですが物言わぬ動物たちはそれができません。

獣医学部新設の認可は文部科学省利権といわれていますが、結果的にこの規制動物のためにもなっていたと思います

市場原理に任せやみくもに獣医学部獣医師を増やしてはいけません。不足している分野の獣医師待遇改善など動物の命を犠牲にしない方法検討するべきです。

今こそ「命を守る政治」が求められているのではないでしょうか?

2017-06-23

「何が面白いんだろう」とか言ってる奴は不勉強なだけ

恒心教コンテンツ面白い

あれこそ集合知であり現代アート

元々恨みや反感から始まったんだけどそれだけだったらこんなに続かない

次々色んな発想が産まれクリエイティブ面白いから続いてるの

1本のデマの収拾が付かなくなっただけのスマイリーキクチとは構造が全く違う


道徳的に「あかんやろ」っていうならその通りだけど

「何が面白いんだろう」とか「スマイリーキクチと変わらない」とか言う発言

「僕は不勉強バカです」って自己紹介してるのと同じ


なにかについて論じるときに「その対象不道徳ものである」ということは論者の不勉強認識不足正当化しないからな?

恒心教が不道徳であることとお前が不勉強無能であることはそれぞれ別々のことだ

https://anond.hatelabo.jp/20170623204047


beataraxia 他人迷惑をかけてアートなわけがない

カオスラウンジdisってンの?

2017-06-06

道徳的物語を見せれば道徳感情が育つというのは暴力ゲームやらせれば暴力事件を起こすというのと同じくらいの信用性

2017-05-26

「なぜ人を殺してはいけないの?」への明快な答え

日本では、子供が発した、この問いの答えを未だ出せず、子供たちを納得させられないでいる。

勿論、本来道徳的問題に対しては論理的な答えなど出せません、答えなどないのです。

しかし肝心なことは子供を納得させればいいのです。だが、その子供を納得させる答えも未だ出せないのです、「決まりからだ」とか「お前も殺されたくないだろう」などと説明するだけである

私は絶対善種族保存、公の為であるという考えから子供が納得するであろう答えを考えた。

「君の家族にとって一番大切なものは何かな? 家?お金?違うよね、家族の命だよね」

はい、もちろんそうです」

「そして君にとって一番大切なもの、つまり家族の命を守ることは正しいかい?」

「正しいと思います

「だよね。君の家族の命を守ることは絶対に正しいよね」

はい

自分家族の命を守るのは絶対に正しいなら、他人家族の命を奪い殺すことはどう思う」

絶対に悪いことです、絶対にやってはいけないことだと思います

「そうだろ?絶対にやってはいけないだろう?君はもう自分で分かっているじゃないか自分でしっかりと分っているんだから、もう二度とそんな質問をしてはダメだぞ、いいな!」

はい、わかりました

どうであろうか、このように説明すれば子供たちも納得するのではないだろうか。

2017-05-25

君の名は。』が流行った理由今日わかったので今日のうちに

なんてことはない、マジョリティにとって都合のいい話だから流行した。

君の名は。』は、話題惨事をせっかくなので自己愛発見手段として使いたいという話だった。

5年の時が経ち、そろそろ震災記憶を処理したいという非被災者ニーズにちょうどうまくはまる物語だった。

被災者震災に対して曖昧に抱いていた、抱かされていたと思っていた後ろめたさを曖昧に強引に自己肯定に転換させる力をもつ物語だった。

この物語ニュースキャスターに「壮麗」という言葉をしゃべらせる。「美しい彗星」の正体が大量の人間を死に至らしめる大災害であることがすでに観客にわかっている段階でしゃべらせる。無知な者のんきな言葉に観客は道徳的快感をもよおす。主人公自分)だけはこの彗星がただの綺麗な彗星ではないことを知っている、この彗星がもたらす惨事を人々は不道徳にも忘れてしまうが主人公自分)だけはその問題性を意識している、そして主人公自分)だけが救世主になれる。

こんな事情、実際の震災対応するものなど何もない。地震予測できないし時間は戻らないし死んだ人は生き返らない。「物語でだけはせめて」この展開を願う非被災者のいったいどこが道徳的なのか。不道徳自分否定したいがために震災のほうを変形させることを望むのか。どこまで勝手で不誠実なのか。

震災はその困難さに向き合われることなく、要素だけをつままれマジョリティに都合のいいように利用された。

1年前の日本人震災解釈として欲望したものがこれであったとすると、結構絶望的な事態だと私は思う。

2017-05-22

http://anond.hatelabo.jp/20170522154558

ソシャゲで働いているやつなんて無教養人間の集まりでしょ。道徳的に欠落していても何も不思議ではない。

大西議員かな?

http://anond.hatelabo.jp/20170521170846

ソシャゲで働いているやつなんて無教養人間の集まりでしょ。道徳的に欠落していても何も不思議ではない。

2017-05-17

冗談でも匿名で身近な人を攻撃してはいけない

道徳的な正しさを武器攻撃するのはやめるんだ

2017-04-06

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2017/03/31/120638

人文学は何の役に立つのか?」

これとても素晴らしいと思うんだけど、これ採用すると非実在青少年みたいなのとちゃんと向き合わないといけなくなるよね。とくにこのあたり。

"この記事クリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカ奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。"

ちなみに記事でさんざんにされてる内田樹はこういう主張もしてる。

http://blog.tatsuru.com/2010/04/24_1046.php

2017-04-05

哲学的でもなく道徳的でもないドラゴンボールみたいな頭からっぽエンタメ作品時代を超えて近所の子供がかめはめ波を真似してるぐらいに浸透してるのを見ると名作ってのはこういうものなんだなあと

2017-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20170226152524

同じくアスペだが

5年くらい前に「レイプ犯罪だがなぜ『悪い』のか」

っていう疑問をここに書いた

別にレイプを悪いことだと思ってないわけではなく

この疑問を試金石にして他人認識する悪の種類を分析たかったんだが

意外と成果はあったな

一番多かったのは女性苦痛から『悪い』

っていう回答だった(物理的悪)

この回答から生じた「レイプをした加害者は悪を認識できないのでは?」

という疑問は罵詈雑言で叩き伏せられた

次に多いのは女性尊厳を損なうから『悪い』

基本的人権尊重する考え方

まり女性人権侵害するから『悪い』(道徳的悪)

道徳規範を重視する考え方だが

この回答から生じた

モラルが何らかの事情で歪んでいる、もしくはモラルというものがないレイプ加害者は悪を認識できるのか?」

という疑問は無視された

日本人は神より世間を信じているせいか

神がいつも見ているから『悪い』と言う奴は一人もいなかった(形而上的悪)

まぁもっとも神はいてもいなくても同じような存在なのでその回答ではそもそも納得できないのだが……

最終的に出た結論

レイプ犯罪なので世間の反応を鑑みて功利主義的にハイリスクなので『悪い』

というなんとも締まらない結論だった

『悪い』とは何か? という思索は今現在も続く……

2017-02-23

優しい人であるって?

これまでの人生、優しさというものに疑問を感じずに生きて来た。

自分のび太ADHDというのもあり、いじめられたり、無視されたり、また一度自分と遊ぶ約束をしても、友達が別の子に誘われたらあっさり断られるような存在だった。

当時は自分はどうしていつもこういうポジションなのか、悩んだ。

自分に原因があるのかもと思って、ちゃんとしている子のしていることを見ては、ああしてみたらこうしてみたらと試行錯誤もした。

でも、大人になりADHDと分かり、その特性を知れば知るほど、自分がそういうポジションだった理由がわかった。

今でもいじめではないものの、仲良くしていたはずが、あっさり縁が切れることがあったりする。

自分の取り柄といえば、優しいことだと思っていた。

相手気持ち立場に立って、自分だったらと考え、相手気持ち理解するように努めたり、

自分ADHDからこそ、ちょっと変だと思うことも、相手特性やいろんな環境の違いなども考え、尊重するように努めたりして来た。

友人が困っていたら、話を聞いたり、手を差し伸べたり、そうやって人と人は優しさでしか繋がれないと思って生きて来た。

優しい=いいこと

優しくない=よくないこと

という子供の頃に教えられた、人に優しくしなさいという当たり前の教えを、疑いもぜずに生きて来た。

自分がされて来たことを振り返ると、優しくない人は多いけれど、

それは優しくない側がよくない行為をしたということであって、

優しい人間でありたい、優しいのは良いこと、長所という考え方で当たり前だと思っていた。

しかし、最近になってふと思った。

世の中の優しさというものは、自分メリットがある場合しか使わないのではないか

例えば、誰かに優しくして、その優しさが自分にとって得になる場合は優しくするが、

優しくしたところで、自分にとって得がない場合は、優しくしない方を選ぶのではないか?と。

そう考えると、無視なども、自分にとって得しない相手に対しては邪険に扱っても良く、

自分メリットがある人間に対して、優しさを使って、もっと得をしよう、という考え方なのではないかと。

そうなると、社会的弱者障害者発達障害者など)に対して優しくしてもメリットなどはなく、

現在そういった社会的弱者に優しくする人は、いわゆる建前上実施している社会福祉による収入の得られる者のみであって、

無償で、優しくするのが良いという理由だけでそういったメリットのない相手に対して理解し助けるといった優しさは机上の空論なのではないか

正直者は馬鹿をみる、とか

優しい人間は損をする、というようなものがこの世の本質であり、

人々が多様性を認め、尊重し合うことを良しとするような考え方は所詮理想論であって、不可能ものではないのか?

「人に優しくしよう」

大人子供にそう教えるが、なぜメリットもないのにそんなことを言うのか。

事実、他の子おもちゃを奪う、自分のしたいようにやる子の方が生きやすく、得をする社会であって、

本音ではそれをわかっていながら建前上、一応そういった声かけをしているだけ、と言うことなのだろうか。

もし、メリットのない優しさなど損で不利なものであるとするなら、

自分も得にならない優しさなど捨て去るべきなのだろうか。

相互関係ではない、一方的な優しさだけを持って、

世の中の優しさには期待せずに生きるというのはあまりにも過酷すぎる。

ソクラテスは言った。

人は道徳的でない行いをしている時、実は内心傷ついていると。

メリットのない優しさを切り捨てることは道徳ではない行為ではないのだろうか。

そういう優しさを行使しない分、税金を納めて社会的弱者を守る福祉事業支援しているのだから良いということなのだろうか。

長年信じて来た、優しさというものを捨て去ったら、

自分は一体、何を心の活力として生きていけば良いのだろう。

2017-02-12

けものフレンズってすっごーい!!!

けものフレンズが、思いやり/助け合い/許容/共存その他諸々の道徳的メッセージ性に溢れている事は、もうわざわざ言わんでもいいだろう。私も初見時、Eテレ幼児向けアニメを思い出した。確かに、現代大人に欠けている「思いやり精神」を思い出させよう的な作品だ。内容が幼児向けアニメ酷似しているのだからIQが下がる」という反応もわかる。しかし、ただ「脳が溶ける」という方向で捌くには惜しい程、挑戦的で強固で強烈なアニメだと私は思う。

けものフレンズは、幼児向け情操教育アニメとは決定的に違う点がある。(萌え美少女描写についてはここでは扱わない)

はてなを読むタイプの諸氏になら、つくってあそぼゴロリを例にするのが適切だろうか。わくわくさん提案に対して、否定/疑問→評価(改心)の流れがテンプレだ。幼児向け番組では、「否定/疑問」のフェーズがほぼ必ず存在する。頭や言葉を意地悪く操り始める年頃の、5歳以下の幼児向けである為だろう。言葉の覚束ない乳幼児大人気なアンパンマンにさえ、バイキンマンがいる。そして、「”意地悪な”否定や疑問」には、必ず「”罰”や”改心”」といった結末が用意されている。正しく情操教育だ。

既に言われまくっている様に、けものフレンズには「意地悪な否定や疑問」と「罰や改心」のフェーズ存在しない。だから、優しく平和物語と言われる。だが私は、その「意地悪な否定や疑問」は、省略されているだけで存在すると考えている。

そのフェーズは、視聴者の側にある。

けものフレンズが無理な人々がいるのもよくわかる。けものフレンズ世界には、セルリアンという危険生物がいるとはいえ、争いや困窮は存在しない。幼児向けアニメと同じく、鬱陶しい程の理想の塊と上っ面の美しさに満ちた世界だ。「こんなに上手くいく訳がない」という言葉にまとめられるようなツッコミをせずにはいられない。そういった「バカかよ」「そんな都合よくいくか」的否定/疑問をわざわざ描写せずとも、観ているのは現実をよく知った大人たちなのだ現実社会には「意地悪な否定や疑問」は当たり前に存在する。人前で叱責するのが大好きな上司、けなす事で自分の優位性を保ちたがる人、重箱の隅をつつく様なクソコメクソリプ。具体例をあげればキリがない。大人になっても「意地悪な否定や疑問」に晒されたことのない人はいないだろう。だからこそ、けものフレンズはその段階を飛ばす。いちいち描写しなくても、視聴者自分で補完できる。「意地悪な否定や疑問」のフェーズがなければ「罰や改心」という回収も必要ない。だから最初から全て受容しちゃっていい。

個性尊重しよう。互いに違いを認め合い、助け合おう」

美しく理想的だが、現実にするにはあまりにも難しい。自分人生を振り返るだけで分かる。大体の人は、そんな現実離れした理想は建前で子供だましだと割り切り、諦める。けものフレンズは、そんな疲れた大人たちへ向けられた優しくも暴力的物語だ。

余計な描写を省き、極端にシンプル言葉で、「互いを認め合うこと」「共に助け合うこと」を強烈に表現している。ただシンプルに、愚直に、ド直球ストレート視聴者の心へぶち込んでくる。余りにも単純で暴力的なまでの行為に、視聴者は同じく単純に「すごーい!」としか反応できない。偶然にも、太平洋の向こう側で人々が分裂し憎み合っているこのいま。幼児向けアニメ手法という仮面を被り、美しき理想で何度もしつこく殴りつけながら、その精神を、敢えて大人である視聴者へ向けて真剣に再提示している。

そう考えると、すごい。本当にすごい。逆にすごい。強い。美少女要素なんか飾りだ。ただただ、単純に強い。レベルを上げて物理で殴っている。おそろしい。幼すぎるほど平易に研ぎ澄まされたその言葉が。自己他者のできる/できないをすぐに受け入れるその合理性が。これで行こうと決めた制作陣の胆力が!

「すごーい!」「君は◯◯が得意/苦手なフレンズなんだね!」の定型文が流行るのもわかる。シンプル真摯一言は、理性的だが長過ぎる文章よりも伝達力が強い!

そりゃ流行る!!シンプルでわかりやすく強い言葉は、流行!!!

そして、理念提示だけじゃなく、何かを達成するまでの過程や、フレンズ達の個性をクッソ冗長的かつ丁寧に描写する所だ!視聴者厳選な一話冒頭の狩りごっこも、橋作り地上絵作り等の困難を乗り越える過程も、フレンズ習性説明も、とにかくやたら尺が長い!だが、そのしつこくしつこく丁寧な描写が、フィクション過ぎる美しさを持つけものフレンズ世界と、私達の現実世界を繋げるリアルさを醸し出す!動物園のおにいさんおねえさんの生声による解説のおまけ付きだぞ!リアルと繋がってしまうだろやめろ!!ああなもう嫌になる!作品の純度が高すぎる!シンプルものは、真摯に作られる程強烈な強さを持つ!!私がどんなに言葉を費やしてけものフレンズを褒めても、「すっごーい!」の力に遠く及ばない!!

けものフレンズはすごい!!!すっごーーい!!!!!やったーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

2017-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20170209104521

オバマ元大統領優等生の良い子ちゃんだからアメリカ国益優先と言いつつ、道徳的に悪いことは一切できなかった。

それが8年続いて、みんな息苦しさを感じていたんだ。

そこに登場したのが悪漢トランプ大統領

彼は言ってることもやってることも、道徳的むちゃくちゃだが、別に本人の私利私欲で行動しているわけではなく、

真にアメリカ国益を優先するために、少しだけ道徳観念には目をつむり、実践的で実効性のある施策を行っている…

国民は考えているから。

国民の大多数が、こりゃまずいと思ったなら、いくらでも弾劾手段はあるのでね。

2017-02-06

ワープアが月収250万円稼いだことによる生活変化

最近同じようなテーマで書かれたブログを何件か見かけたので書いてみます。嘘はありません。

広告収入がもらえない場所で書くことですし、思いついたことをダラダラ書いていく形式します。

まず、私はワープアと言っても良いくらいの給与で働いているサラリーマンです。去年くらいから始めた副業がうまくいき今は250万円月くらいあります

嘘だと思われるかもしれませんが不労所得です。事業は3つあります遺産などではなく、一から自分で構築したシステムです。法律的にも道徳的にも問題ありません。他人の参入は極めて難しいような高度なシステムです。

からお金儲けに関することは調べたり、実践したりはしていました。頭はそこそこ良い程度ですが、高学歴ではありません。

高収入を得るようになって生活がどう変わったか書いていきます

何も変わっていません。食べるものを変わりませんし、豪華な商品を買う頻度なども一緒です。それどころか会社でも今まで通り働いています。もともとお金儲けに興味を持ったのは、働くことが面倒だったからですが、いざそういう身分になってみると、社会との繋がりがなくなることを恐れて働き続けてしまうみたいです。不思議なもんです。

ごく親しい友人数人に言っても半信半疑という感じでした。まあ、当たり前の反応でしょうね。

あと、昔はブログで稼ごうとしてたこともありますが今となってはブログで消耗しなくて良かったなと思います

この収入もいずれ終わりを迎えるかもしれませんが、その時も平然と同じ生活を続けるのだろうなと思います。まあ、他の分野で稼げば良いですし。

駄文でしたが、最後まで読んでもらえたなら嬉しいです。

2017-02-04

恋愛工学はアレだけど、正直、森岡氏もビミョーよ

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20170202/1486027602

森岡正博さんのブログコメント欄にて。

このブログ記事は、「女性蔑視はやめろ。性犯罪はやめろ。相手自由意志を奪ってセックスに持ち込むのは人権侵害だ」という主張をしておけば済むでしょう。

それにもかかわらず森岡さんは、非モテ男が理想的恋愛セックスをやる方法をについて語っておられます。そこが唐突だし、押し付けがましいし、私はあなたのそういうところが本当にイヤです。

  

>>女性蔑視に陥ることなく、ひとりの好きな人と付き合い続けていけるやり方を伝えよう

>>長続きする恋愛必要なのは相手尊重できること、相手立場に立てること、相手共感できること、相手幸せを願えることである。そのベースができてはじめて、我々は恋愛技術性愛テクニックを互いの快楽のために肯定的に開花させることができる

  

↑ 私はこの手の語り口をたいへん欺瞞的に感じるのです。

藤沢某の"恋愛工学"なんかより、むしろこの語り口のほうが不愉快で、とうてい聞くに堪えられないものです。

私は上記のコメント投稿したが、あらためて解説しておく。

  

まず第一に、森岡は個人幸福政治的正しさをまるで一致するものであるかのように語っている。この点こそが彼の最大にして最悪の欺瞞である

私はこの二つのあいだに深い断絶、矛盾対立があると思っている。ふつうの人は誰しも政治的に正しくないことをやりたい願望があるはずだ。もちろん他人に優しくしたり、社会を良くしたいと求めるのは人間の本性だが、同時にまた、自己中心でわがままな願望を持ってしまうことも人間の本性なのである

森岡が言っている「相手尊重できること、相手立場に立てること、相手共感できること、相手幸せを願えること」は政治的に正しい。これは文句のつけどころがない。しかし、例えば私自身の性的欲望をかえりみて言わせてもらうと、そんなものは真っ平ごめんだ。つまり自分さえよければいい、1回だけセックスできればいい、女をやり捨てしてやりたい」と考えてしまうのだ。あと他には「レイプしてやりたい」という攻撃欲求だってある。

さすがにいささか露悪的な告白になりすぎたが、人の欲望というのは、多かれ少なかれ、政治的に正しくないもの反社会的ものを含んでいる。私は決してこの欲望肯定しろと言いたいのではない。無視するな、ごまかすなと言っているのである

例えば「女性蔑視はやめろ。性犯罪はやめろ。相手自由意志を奪ってセックスに持ち込むのは人権侵害だ」という主張について分析してみよう。これは私のような男の欲望無視していない。きっちりと敵対して抑えこむという形式を取っているのだ。

それに比べると、森岡の語りはこの敵対性をごまかしている。ごまかすどころか、味方のふりをして内心に踏み込んでくる。自分にとって何が幸せセックスなのか、それは私が決めるべきことであって、他人から上から目線定義されたくはない。この点で森岡の語りはデリカシーがなく不愉快だ。

  

第二には、森岡の主張に対し、私は倫理的意味においても反感を覚えた。

エサ(※この場合恋愛セックス)を目の前にたらして、それがほしかったらミソジニーをやめろ、人権思想を信奉しろというのである

これほど人をバカにした話があるか。利益誘導によって人を説得するのは、そうすること自体がきわめて倫理に反する。例えばもし長続きする恋愛なんかほしくない、共感なんかいらない、女性蔑視しながらセックスするのが好きだという男がいた場合、森岡は恋愛工学をすすめるつもりだろうか。

それにそもそも、ここで森岡が使っている“エサ”は空手形に等しい。キモくて金のないオッサンが森岡のメソッド実践しても、まあたぶんぜったいに幸せ恋愛幸せセックスもできない。オッサンではなく若者だって、うまくいかない者はいる。森岡がリベラルフェミニズム正義をふりかざすのは勝手だが、「これを信じれば幸せになれるぞ」という嘘と欺瞞でそれを糊塗することだけはやめてくれ。

  

第三に、リベラル観点から考えてみるなら、森岡の言っていることが正しいかというと疑問符がつく。

森岡のブログ記事は性暴力ダメ人権侵害からダメという政治的な話をしているのかと思ったら、唐突に“僕の考えた最高のセックス”について語り始めた。そしてこれがいかにもポリコレに沿ったものであるからリベラル思想の信奉者たちに受けがよさそうなものだった。

しかし、私は森岡の持論をむやみに賞賛するのはよくないと思う。本来リベラル立場としては、性暴力などの明らかな人権侵害を<悪>と定義してそれを法律抑制するとか、女性差別についてもやはり<悪>と定義してそれを無くしていく方針をとるべきだ。この方針は、個人がそれぞれ内心に持っている<善>・<幸福>の価値観に介入するということと、いくらか重なりあう部分もある。だが、この二つを混同してはならない。われわれが社会構成員に対して<悪>の定義強制することと、<善>・<幸福>の定義強制することは、根本的に性質が異なる。

森岡があの記事で語っている“僕の考えた最高のセックス”の主張は、あからさまに後者に該当する。リベラル立場からは「性暴力犯罪だ」とだけ言っておけばすむし、仮になにか道徳的言及をするとしても「女性蔑視はよくない」という話に留めるべきだ。そのさきは個人自由にゆだねればよく、むしろ安易に優劣をつけたり価値判断をはさむことは慎まなければならないだろう。だから森岡のように「政治的に正しくて理想的セックスを目指しなさい」などと他人要請するのは不適切なおこないだ。

  

第四に、森岡は不謹慎である

彼が非モテの男にアドバイスをすること、“僕の考えた最高のセックス”を力説することは、まったくの自由だと思う。しかし、それは現実に起こった性犯罪事件からめて言うべきことなのか?

森岡は自著『草食系男子の恋愛学』を引用して、「女性蔑視に陥ることなく、ひとりの好きな人と付き合い続けていけるやり方」をすすめている。たしかにそれ自体は素晴らしいことかもしれない。だが、それは性犯罪とは直接関係がない。

これは性犯罪があったとき、男に代替となるセックスの利用をすすめる論法に似ている。すなわち、「風俗に行けばレイプなんかしなくてすむ」とか「嫁か彼女をつかって性欲を発散しておけ」というゲス意見のことだ。もしそれを真顔で言っているならばドン引きだけれども、森岡が今回やっていることからはそれに通底するものを感じる。

  

  

参考:この増田タイトルは、id:zaikabouさんのブコメから拝借しました。

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