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ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
利他的で自責的な人間など存在しないという事をざっくり語ろうと思う。
人間の精神のあり方は、コストのやりくりが如何にやりやすいかで優劣が定まる。
となる。
利己的というのは自己完結した行動でコスト回復がどれくらいできるかという事であり、利他的とは他人に依存して何かをすることでコスト回復できるという事である。
利他的は度が過ぎれば相手に対して求めるコストが高くなり孤立する。要はめんどくさい人である。
利己的も過ぎれば同様である。よく自分勝手と言われるものである。
自責的というのはトラブルが起きた時、それを自身の課題と受け取れるという事であるが、これには高いコストを要する。
他責的と言うのは自責の逆であり、低コストだが度が過ぎると精神的成長が見込めなくなるなどデメリットが大きい。
例えば、利他的10割、自責的10割というビルドを組んだとすると、コストの回復のしようがない。
相手に与えた恩というものが与えた分だけ帰ってくるという事は無い。あまり知られていないが、人間には他人の苦労を正確に認識できないという特性がある。
そのため相手から見た自分の恩も、自分から見た相手の恩も過小評価されるのだ。
そうして恩を与え合った時、自分視点で見た時の帰ってくる恩というのは主観で10%程度の物であり、これで消費コスト分を回収するのは不可能である。
この場合に起きる不具合として、「自分ばっかり頑張っている」と考えてしまうバグがある。事実はそうではない。そうではないが確実にこれは態度に出て、日常生活に支障をきたす。
一方で利己的で他責的というと、これはもうよく見るものなので詳細まで語らないが醜悪なものである。彼女達はコストはあり余っているが、どこか余裕の無いようにも見える。
これは、コストが減る事に対する耐性が無いゆえに、可処分コストが少ないからである。
どちらに偏っていてもやる事は似たような物になる。
大事なのは両者のバランスである。が、自分を変えよう!といった事はほぼ不可能であると言ってもいい。自責と他責のバランスはまだ変化させることができるとして、利己的と利他的の変化については至難の業であると思う。
最初から利己的である人間は簡単で、自責に変えても他責に変えても良い。1~2か月ほどかかるかもしれないが、何かトラブルが起きた時に「自分がなんとかできたかもしれない」とか、「これは相手が悪いな」とか考える癖を付ければ良いだけである。
それで自責と他責のバランスは変化させることができる。変化にどれくらいの時間を要するかは周囲の環境とそれに対する自分の立ち振る舞いに依存する。
利己的と利他的のバランスを変化させる事はとても難しい。これは、それまでの人生を反映するからである。
人生の中で自分を殺す事があったり、道徳を信じる事があったりするとより利他に寄る。
逆に自身の望みを叶えようとしたり、面白い事をやっていると利己に寄る。
利他的というのは異常な状態と言っていい。普通の人は道徳に従う事があっても信じる事はない。道徳を信じたくなる時というのは、理不尽から逃れようとしている時に限る。
利己的な目的の為に相手に優しくするというのが普通の事であり、優しくした結果、相手から良いフィードバックを得た。というのは一見道徳的な話に見えるが良いフィードバックを得られる相手を選んだからである。
道徳に殉じた利他的な人間が利己的に戻るというのは難しい。どうすれば戻れるかは今後の課題とする。
のビルドが最も理想的であると思う。利己的に回復しながら、自責にコストを費やし、たまに他人のせいにして生きる。それくらいが良い
・悪いのは誰?
触られた人は被害者で悪くない
・自衛のためには?
人気のない場所に行ったり、深夜に出歩いたりすると、男女関係なく犯罪に巻き込まれやすい
なので、犯罪に巻き込まれたくない人はそういう場所に近づかないのが自衛になる
自衛せずにノーガードで犯罪に巻き込まれると、アホやと言われがちではある
鍵かけずに泥棒に入られたら、悪いのは泥棒のみだけど、自衛をしなかったのはアホなミスである
犯罪にあって欲しくない身内や友人がいれば、善悪の話よりまず自衛を勧める
自分の娘には、鍵をかけずに外出できる自由より、身を守る自衛を優先して欲しい
ただ、自衛しないのは悪いことではなく、犯罪遭遇率を自ら上げることがちょっとアホなだけである
・服装が原因になる?
極端に言えば、電車に全裸の女性が乗ってたら、あれは痴漢していい人だってなるか?と言えばならない
インリン様みたいなボンデージとか水着の人とか電車にいても、ほなさわろかとなる人は異常者だと思う
なので、件のDJさんが体触られたのって、そういう服だから、というのは全く思わない
・結局原因は?
みんながハイタッチしたり体に触れたりしているので、みんなが体を触った
それだけの出来事
でもそういう事態が絶対に避けたいことなら、そもそもファンにもみくちゃにされる様な場に身を置くべきではなかったかもしれない
女性のやることなすこと全てに道徳的正当性を持たせたい人たちがいて、
異性選好に関してもエゴを透明化し道徳的に正当化しようとすると、
女性に選ばれないのはお前が道徳的に劣った存在だからだ、という結論が好ましいものとなる。
今までは単なるブサイク、コミュ障で済んでいたところに、「女性を人間として扱っていない」というレッテルを貼られるようになってしまう。
ご指摘の通り、財布にウンコを入れることでスリに対して嫌がらせをする意図があることは理解できます。
しかし、このような行動は法的な側面や社会的な規範に関しても考慮する必要があります。
公共の場において、意図的に不衛生な状況を引き起こす行為は、一般の人々に対しても迷惑をかける可能性があります。
また、不衛生な状況が健康や衛生に悪影響を及ぼす可能性もあるため、社会的に受け入れられる行動とは言えないことがあります。
一部の地域では、公共の場でわざと不快な状況を引き起こす行為は、公共の秩序の乱れや嫌がらせとして法的な問題になることがあります。
法律や規制は地域によって異なるため、特定の法律違反の例を挙げることは難しいですが、一般的には他人に不快な思いをさせる行動は法的な問題となる可能性があります。
社会的な倫理や道徳的な観点からも、他人に意図的に不快な状況を引き起こす行為は問題視されることがあります。
他人に対する配慮や尊重を欠いた行動は、社会的な信頼関係を損なう可能性があります。
そんな男にマッチする女性など存在しない、存在してはならないのであり
「もしかしたら弱者男性にマッチする女性が存在するかもしれない」と仮定して探してあげようとすること自体が女性に対する重大な人権侵害
という考え方
馬の血統を重視することと、ナチスの優生論とは大きく異なる概念です。以下にその違いを説明します。
目的と文脈の違い: 馬の血統を重視することは、主に競馬や馬術などのスポーツにおいて、競技能力や特定の性質を遺伝的に受け継ぐことを目的としています。一方で、ナチスの優生論は人間社会における人種や民族の階層化、差別、虐殺といった極端な考え方を持ち、人間の尊厳や平等を無視していました。
倫理的な観点: 馬の血統を重視する場合でも、馬は自己意識や倫理観を持っておらず、その遺伝的特性が主に競技能力や健康に影響を及ぼすだけです。一方で、ナチスの優生論は倫理的に受け入れられることのできない行動、人間の人権や尊厳を軽視する行為に結びついており、大きな倫理的問題を抱えています。
影響範囲の違い: 馬の血統を重視することは、馬の競技能力や特性に焦点を当てた限られた領域における議論です。一方で、ナチスの優生論は社会全体に影響を及ぼし、差別や虐殺などの極端な行為を引き起こしました。
個体の扱いの違い: 馬の血統を重視する場合でも、個々の馬はその遺伝的特性や能力を最大限に引き出すために飼育されますが、これは動物の健康と福祉を向上させる目的です。一方で、ナチスの優生論は個人をその遺伝的属性だけで評価し、差別や暴力を正当化するために悪用されました。
要するに、馬の血統を重視することは、特定のスポーツや競技の分野における遺伝的要因の影響を考慮する一方で、ナチスの優生論は極端で反道徳的な行為として人間社会全体に影響を及ぼしたものです。両者は背景や目的、倫理的価値観などの点で大きな違いがあります。
その論の問題点は何があるんだ?
ナチスの優生論には、多くの問題点が存在しました。以下にいくつかの主な問題点を説明します。
ナチスの優生論は、人類にとって暗黒の時代とされるホロコーストなどの悲劇を引き起こしました。これらの問題点は、その思想の危険性と反人道性を明確に示しています。
民主主義だと結局誰も国のことを考える人がいなくなる。伝統が破壊され保守的反動はどんどん希薄になり世代間のつながりや共同体は断絶されていくしかなくなる。
しかしあえて特権階級も儲けてもやはりいずれ安定した権威は腐敗してゆき革命が必要となる。
AIに最終的な政治の決定権を委ねるのが1番いい気がする。AIならこの世の情報を全て把握してどんな人間より合理的で道徳的で利己心に囚われない判断を下せると思うし、AIならちゃんと政策の明確で合理的な意図を示せるし、国民が政治に不満を持っている場合国民と直接対話し納得するまで議論に付き合ってやることもできる。
ただAIの精度がもっと上がる事が大前提だし、AIに戦争をしろとか命令された場合とかどうするのかという問題もあるけど、人間が統治するより確実にマシにはなる。
まず「お気持ち表明文」というのは「数値的な議論や論理的な議論展開を期待しているにもかかわらず、求めていない意見や感想を述べてしまうレポートや論文」という意味で良い?
そういう意味なら、適切な(?) 国語教育のおかげなんじゃないかと思う。
例えば最近の新卒とか大学生が小学校低学年だった時の学習指導要領である平成20年の「国語科の教科の目標」は下記の通り記載がある。
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。
これだけ見ると立派なんだけど、日本の国語は道徳教育という絶対に外せない存在があって、学習指導要領の一番下にこんなことが書いてあるんだよね。
道徳との関連についての事項
国語による表現力と理解力を育成するとともに,人間と人間との関係の中で,互い
の立場や考えを尊重しながら言葉で伝え合う力を高めることは,学校の教育活動全体
で道徳教育を進めていく上で,基盤となるものである。また,思考力や想像力及び言
語感覚を養うことは,道徳的心情や道徳的判断力を養う基本になる。さらに,国語を
尊重する態度を育てることは,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国
なお,3(2)には,教材選定の観点として,道徳性の育成に資する項目を国語科の
特質に応じて示している。
そして3(2) で説明される望ましい教材の観点っていうのは下記。
ア 国語に対する関心を高め,国語を尊重する態度を育てるのに役立つこと。
イ 伝え合う力,思考力や想像力及び言語感覚を養うのに役立つこと。
ウ 公正かつ適切に判断する能力や態度を育てるのに役立つこと。
エ 科学的,論理的な見方や考え方をする態度を育て,視野を広げるのに役立
つこと。
オ 生活を明るくし,強く正しく生きる意志を育てるのに役立つこと。
キ 自然を愛し,美しいものに感動する心を育てるのに役立つこと。
ク 我が国の伝統と文化に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと。
ケ 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家,社会の発展を願う態度を育
てるのに役立つこと。
一般的な生徒がこの学習目標を達成したかはさておき、この教材選定軸から選ばれたものは必然的に道徳の教材みたいになるんだよね。
そんでもって日本における「道徳」といえば儒教で、そして儒教的な考えってのは「年長者の考えが常に正しく、それに対して同意する」という日本人そのものみたいな考えじゃん?
変な話かもしれないけど、日本において国語教育において自由な議論とか自由な感想とかっていうのは存在しない。だって先生が常に正しいし、先生が気に入る提出物が評価されるし。学校教育において生徒の生殺与奪の権利を与えられてるのは担任教師でしょ?
お気持ち表明文はロジカルじゃないという言い方だけど、この学習指導要領の下なら、お気持ち表明文は十分ロジカルじゃない? だってそれ以外の答えは絶対に正解にならないように教材が選定されるんだから、理論的な正しさを議論するよりもさっさと媚びへつらう方が点数が高いに決まってる。おまけに中学とかは内申点がついてまわってくるから、もっと媚びへつらった答えを書く圧力がついてまわる。
テンプレを教えるのは良いが、そのテンプレがゴミだと害悪でしかない。正直、小学校の先生にロジカルな文書作成が出来るのか疑っている部分があるが、出来るというのであればそれをきちんと教えてほしい。
個人的に教師に教える能力が無いと疑ってるのは同意だけど、仮にロジカルな文書作成方法を教えたとして、生徒がロジカルな答えを書いてくるかは疑わしい。ディベートだってなんだって、年長者が知っていて、かつ正しい答えがない限り日本の授業では議論の対象にならなさそうだから。
それにディベートやロジカルなトピックを学習要領に入れたところで即座に「ロジカルで教師の受けがいい答案例」と銘打った教材が出回るのがオチじゃないかな。生徒はそれを読んで回答を書き、教師もそれを読んで回答を採点するみたいな…
あまり同じような感想のレビューが無かったので共感できる人を探している。
この作品からは、幻想や理想の世界から現実に引き戻そうというメッセージ性を感じた。「意味がありそうなことも重要ではなかったりする」、「価値観は人それぞれ正義も悪もない」、「個人の想像力や努力が世界に大きな影響を与えることはない」。こんなメッセージが散りばめられているのに、重く押し付けるわけでもない。そんな雰囲気がとても心地よかった。私が好きだったシーンを挙げる。
門と墓があり、墓には「我を学ぶものは死す」と書かれている。ファンタジーの世界では危険なオブジェクトである。ペリカンという不可抗力に巻き込まれて門を開けてしまった。門を開けてしまったがゆえに何か恐ろしい者が目覚め命からがら逃げ出す、という鉄板な流れを期待するものの、そうはならない。キリコが炎を使った謎の儀式をして、墓を見た方向のまま後退する。結局何も起こらない。
「門を開けてはならない」、「怒りを鎮めるには儀式が必要」、「儀式には細かい作法がある」、現実にもこんな類の知らない人には全く理解できないルールが沢山ある。守ってもいいし守らなくてもいい。世の中には様々な価値観がある。眞人は肯定も否定もない。そんな世界で生きていくことを考えさせられる。
眞人は何故か机の下で寝ている。自分の周りには人形が置かれていて、何故か触れてはいけないというルールがある。しかし眞人はルールを破って触れてしまう。この時点で薄々勘付く。何も起こらないと。
何故か自分で自分によくわからない制約を課す。理由はない、面白いからだ。狭い空間で人形に触れないで外に出られたら面白い。成功したら自分を褒める。失敗したら悔しがる。それだけ。
墓のシーンと似ている。子供の1人遊びも大人の儀式も根は同じか。そんな感覚を持った。
ワラワラという赤ちゃんの源である可愛いキャラクターがペリカンに食べられそうになる。そこにヒミがやってきてワラワラもろとも焼き尽くす。全滅するより誰かが助かった方がいい。ペリカンは生きるためにワラワラを食べるしかない。
ありきたりな童話のシーンといえばそうなのだが、個人的に好きだったのは焼き尽くしているのが母親のヒミということだ。
戦争で言えば爆撃機もしくはアメリカをイメージするその役割を、空襲で死ぬ予定の母親がやっているのだ。本人に悪気は無い。良かれと思ってやっている。将来の生命のために、今ある生命を焼いている。その先には因果応報のような結末が待っている。このバランスが面白い。
アオサギの弱点は羽根である。アオサギ自身がそう言っていた。羽根を見せられると慌てた雰囲気になる。そんな中唐突に羽根が裂けてしまう。しかし何も起こらない。心の中で突っ込んだ人は多いんじゃないだろうか。
弱点が本当だったのか嘘だったのかはよくわからない。眞人もアオサギもそれに言及しない。そう、この時点で2人はすでに仲良くなっていて、弱点ゲームをずっとやっていたのだ。懐かしい気持ちになった。
ここまではフラグが立ったのに何も起こらなかったというものだが、産屋に入ってはいけないという制約は、入った後に知らされた。今度は過剰な罰を受ける。もはや謎なレベルだ。このシーンは最も現実に近い。よくわからない知らない人が考えた謎ルールで特大の罰を受けてしまう事が現実にはたくさんある。
眞人はそんかセリフを心で叫んだかもしれない。眞人には同情するが、そうやって大人になっていくんだよ、頑張れ!と応援したくなる。これは眞人の成長ストーリーだ。現実というファンタジーの中でどう生きていくのかを考えさせる。構造が面白い。
この叔父さんは可哀想だ。理想的な世界を自分が維持していると思っている。私のおかげであと1日保つ事ができる。そう言う使命感を持って積み木をしてたらしい。しかし、彼の努力は誰も知らないし、現実世界には何も影響を与えていない。そのことに本人は気がついているのだろうか。ぶっちゃけ小学生でも悪意のない積み木を積み上げても理想的な世界にはならないことは容易にわかるだろう。
その後、ファンタジーの世界が崩壊しても、世の中は変わらなかった。戦争が始まりやがて終戦する。1人の想像力、努力だけでは世界は変わらない。そんな世界でどう生きるか。そんな事を考えさせられる。眞人の目にはどう映ったのだろうか。尊敬、軽蔑、哀れみ、複雑な感情があっただろう。
ファンタジー世界の崩壊と、終戦後の家族の様子を見れば、メッセージは全て受け取った気持ちになった。もうこれ以上のメッセージはいらない、そんなタイミングでのエンドロール。たまらん!
皆さんはどのシーンが好きでしたか?
賞レースの行方よりも目を引いたのは、ボストン映画評論家協会の投票会場での劇的な一幕だった。Inkoo Kang氏は、会場で以下のような声明を読み上げた。
「宮崎駿監督の『風立ちぬ』は、日本の戦後の歴史に対する態度をよく表している。戦争の恐ろしさは認めているが、このような恐ろしい結果を引き起こした戦争の中で、自分がどのような役割を演じたかについては認めていない。私に言わせれば、この映画は非常に不道徳である。なぜなら、飛行機が製造された真の目的を覆い隠しており、しかも、これらの飛行機が中国や韓国の労働者によって製造されたという事実にまったく触れていないからだ」
同氏はこのような声明を読み上げた理由について、「多くの米国の映画評論家たちが、これほどにも明らかな『風立ちぬ』の道徳的盲点を十分に考慮していないため」と説明。「この映画は単に無害な理想主義者の映画だとすべきではなく、日本の戦後の主流文化の文脈の中で評価しなければならない。戦後の日本は、一貫して戦争犯罪についての反省を拒絶し、極端な状況の下では戦争犯罪自体をも認めないこともある」とした。
「フェミはジャニーズの件にダンマリ!草津と違って事実なのに!男の被害に声を上げないフェミはクソ!」
「ジャニヲタも同罪!まして被害者叩きするなんて!これは女の罪!女はクソ!」
ところが、ジャニヲタが署名立ち上げてフェミが賛同人として声を上げた途端、
「フェミがジャニーズ叩きしてる!関係ないくせに黙れ!利権だ!K-popが代わりに台頭するための陰謀だ!カウアンは糞!被害者は怪しい!草津と同じで冤罪かも!ちんこ二毛作だろ!ジャニーズ頑張れ!」
という声がアンフェ、ネトウヨの中にわらわらと湧いてきてそんなツイートがバズるくらい大多数になって、
それまで道徳的に非難されてきたジャニヲタがわらわらと同調してる
女はどうすりゃいいの?
ジャニーズ叩いても叩かなくても叩かれるじゃん
「フェミはジャニーズの性被害にはだんまり!!男性差別だ!!」→有名フェミニストたち「連帯します。声を上げます」→「利権ガー!!お前ら関係ないのに口出すな!!ジャニオタを敵に回したぞwwジャニーズ事務所頑張れ!!」 https://togetter.com/li/2138472
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