はてなキーワード: あいまってとは
「失礼します」を「失礼いたします」、「お送りします」を「お送りいたします」…
とある世代より若い日本人は、「します」より「いたします」のほうが丁寧であるという印象をもっているように思える。
敬語の文法的には、「します」でも全く問題ないはずだ。ただ、目上の人にしますだけだと、なんとなく敬意を欠いてる気がするので、「いたします」にしてしまう。まさに呪いだ。
実は俺は自分がどこでこの呪いにかかったかは覚えている。マナー講師がテレビで「『します』は失礼。『いたします』を使いましょう」と言っていたことだ。ちょうど就活の時期だったので、そういう部分に敏感だったのもあいまって、まんまと俺はその呪いにかかった。そして15年以上たった今も解けていない。
がんばらないけど質の良い日々の暮らし〜的な
そんなゆるっと服でリラックスして、なんか広々としたものの少ない家でくつろぐ絵とか、もう理想すぎる
実際の家は物で埋め尽くされ、物量もあいまって掃除が行き届かないんだが
まあそれはいいよ
カタログページの世界観を体現する素敵なワンピなんだようれしい
ちょっとチクチクざらつく感覚あるから麻多いと思ったけどそんなことないようだ
着心地だけなら10年前に買った無印の麻100パーワンピ、今ではルームウェアのスタメン、が一番だな
ちくちくはしないが、サラッとした肌触りでほんと涼しい
今来てるワンピはかわいいし、サイズ感もオーバーでシーズンきたおしたらルームウェアにと思ってたけど
まあそれでも可愛いというのは素晴らしい
小さく生まれた(ぎりぎり2500g以下)こともあり、上手に母乳を飲めなかった。
母乳育児は最初が肝心と聞いて、入院中は産後のホルモンで一睡もできないなか、ずっと母子同室で頑張ったが、乳首をなかなか吸ってくれない。
助産師さんには「吸いやすそうな乳首してるんだけどねぇ」と言われた(産後は乳首は吸いやすいか吸いやすくないかで評価される!)が、乳首がそこにあるのに乳首を探して左右に顔を振って泣く我が子を見ると悲しくて泣けてくる。
退院前に退院指導と言ってその日退院するお母さんたちが集められて一斉に授乳するのだが、他のお母さんが「母乳たくさん出てるからミルク足さなくていいよ」などと言われる中、自分一人が乳首を咥えてもらうというスタート地点にも立てず一人みじめな思いをした。
乳頭保護器という付け乳首みたいなものをつけながら哺乳させる方法を教えてもらい、あとは搾乳で乳量を増やすという指導を受けて(もちろんミルクも追加で飲ませる)、一週間後に母乳指導で様子を見ますので、と追試をくらいつつも退院した。
乳頭保護器を使うと乳首が長くて飲みやすいのか、直で吸うよりは吸ってくれたが、吸わせるのは5分が限界だった。
搾乳は手動だと握力が死ぬので電動搾乳機のを買ったが、一度使うごとに分解洗浄の必要があり、乳頭保護器や哺乳瓶もあわせると洗い物と消毒が無限に発生した。
新生児は3時間ごとに目を覚まして授乳する必要があるというが、我が子は新生児期からまとめて寝るタイプだったので、授乳間隔が5時間ほど開くことがあり、ラッキー!と思っていたら、1週間後の母乳指導で「授乳回数が少ない!1ヶ月までは寝てても起こして3時間ごとに授乳させてください!」と叱られ、このときは産後メンタルもあいまってガチ泣きしてしまった。
深夜に赤ちゃんをわざわざ起こしてるのに母乳を飲まないとメンタルに来るので深夜はミルクだけにしたりして乗り切った。
赤ちゃんが普通に母乳を飲めるようになったのは生後1ヶ月半ぐらいたったころで、地域の助産師相談で「そろそろ直接母乳飲めるんじゃない?」と言われ、試しに直接飲ませたところ飲めるようになっていた。
最初は根元ではなく、乳首を強く吸って、乳首に血豆ができたりしたが、1週間もたたずに上手に飲めるようになり、それまでミルクよりの混合だったのが、母乳よりの混合となった。
何がきっかけで飲めるようになったのかははっきりわからないが、体が小さくてうまく飲めなかったのが、体が大きくなって飲めるようになった、というのもあるのかもしれない。
今思うと、赤ちゃんが母乳を飲まないと苦戦していたあの時期は何だったのか思うが、当時は真剣だった。
心の支えになってたのは「あんたには最初の1ヶ月しか母乳あげてないで」という実母の言葉であった。
自分自身がミルクで育ったのに、母乳にこだわる自分が滑稽に思えた。
自分語りが長くなって申し訳ないが、元増田のお子さんも何かの拍子に母乳を飲めるようになるかもしれないし、ミルクにしたっていい。
今、授乳がしんどいのはお子さんのことをそれだけ考えているからで、何も間違っていない。
我が子は今は離乳食をもりもり食べて授乳回数も減ってきたが、もうあの左右に首を振って乳首を探す(探索反応)我が子には会えないのかと思うと、さみしい。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
上沼恵美子の「蓮舫さんキツイもん」が批判されているけど、なぜそう受け取られやすいのか
微笑みの練習で表情筋のトレーニングをした自分から見た二人の表情の違いを書くね。
小池さんは「微笑む」、蓮舫さんは「微笑まない」。この点で、ずいぶん与える印象が違う。(石丸さんについては今回はパス)
蓮舫さんの笑い顔は口角を上げて歯を見せる笑い方で、筋肉でいうと口輪筋と頬骨筋で笑ってる。
咀嚼に使う筋肉で、表情筋の操作が女性に比べて下手な代わりに筋量のある男性がよくやる笑い方。
これは、力強さは感じさせるので味方を鼓舞するがそれ以外を安心させない。例:トランプ。
あと演説の際には聴衆には目が笑っている笑顔を見せていたが、テレビでは目が笑っていないことも多い。そのため、意識的な作り笑顔に見えかねない。
よく言われる「笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点である」は科学的根拠は薄いが、
歯をむき出しにして口角上げて笑ってるのに目が笑っていないと(蓮舫さんをすでに仲間だと認識していない人には)攻撃的な威圧に感じられるのはしかたない。
これを読んで反感を感じた人は、トランプの笑みで自分が安心感を感じるか想像してほしい。
それと、テレビでの笑い顔は特に、顔の筋肉に緊張があるのが伝わってくる。いわば強張っているように見える。蓮舫さんは顔に脂肪が少ないから余計に。
人によっては「精神的余裕を欠いた強がり」と受け取る可能性がある。
差別問題でもさんざん言及されている無意識へのメタメッセージの問題だから、短期的には発信側が注意するしかない。
対して、小池さんの笑い方はほとんどが眼輪筋と口角挙筋(目と口の中間の鼻横の筋肉)で笑ってる。
口角を上げるのは口角挙筋の動きのついでで、力強さはないが、意識的なコントロールが口角筋にくらべて難しい筋肉なので
ここを使って笑うと、「心からの自然な笑み」に感じられて安心感を相手に与える。目じりも自然に下がるし。
顔に脂肪が多い女性的な顔つきなのもあいまって、威圧感はずいぶんやわらげられてる。実際の人格は小池さんの方がキツイと思うけど、それを感じさせない強かさを感じる。
蓮舫さんの笑い方には相手を安心させる要素が少ないので、衆院選までに口角挙筋のトレーニングを勧めたい。
自分はこの筋肉をコントロールできるようになるまで毎日練習して半年ほどかかったから、ギリギリ選挙に間に合うかってスケジュールだと思うけれど
相手に与える印象はかなり変わると思う。
伸びすぎてビビりまくってました。
もともと、選挙戦始まった直後くらいに、Xで「年配の女性(その人の家族とか)が蓮舫は怖いから嫌いと言って喧嘩になった」みたいなポストがいくつか流れてきたのと、データで無党派の女性票があまり取れていなかったこと、TVで何度か、そこで作り笑顔で睨み返すより微笑んで流した方が印象上がるのにと思ったことで書きました。あくまで個人の感想です。選挙をダシにした笑い方語りと思ってください。クソバイス部分は打ち消しておきました。
政策で決めろよというのはその通りなんですが、岩盤支持層以外にまでたった二週間で政策の議論を浸透させて、さらに皆が結論を出すなんて無理です。もし政策論争で勝負を決めたいなら選挙期間は2~3か月でも足りないかもしれない。
それに無党派は減点法で採点する人が多い。たった二週間しかないのに、ちょっとした印象で心のシャッター閉められるのは損じゃないですか。それこそ政策聞いてほしいなら。
目が笑ってるかどうか、がメインの話ではないです。明るくやさしい印象をつけるために目の下に明るめのチーク入れるのと同じ、顔全体の印象をコントロールする小技の話。
あくまで一般論ですが、表情も身だしなみや言葉選び、はてな記法でのテキスト整形と同じコミュニケーションツールの一つでしかないので、そんなところで引っかかる人は減らした方がいい。
それに、同じ笑い方でもTPOで複数の笑い方を使い分けられた方が強いです。この人こんな表情もできるのか、と思させたらかえって今までのイメージとの落差も武器になったりするし。シンゴジラでいつも真顔の尾頭ヒロミが最後の最後でふわっと笑ったことでファンが爆増したみたいに。
いくつもあるツールの一つでしかないので、それでなにかが決まると言いたいのではないです。
最後に口角挙筋のトレーニングは、鼻の2cmほど横を軽く押さえて、口や頬の筋肉を使わずに押し返すことから始めてみてください。
今期アニメのOP・EDがやたら大物J-POPミュージシャンが多い
製作委員会の決定権者の40代50代のおっさんおばさんが決めているんだろうけど、こういうのは止めたほうがいい。
百歩譲っていきものがかりは水野良樹が以前から声優やアニメに曲提供してたり、布袋寅泰は作品の世界観に合いそうだけど(スーサイド・スクワッドなんてキル・ビルみたいなもんだしね)、それ以外はゴリ押し感が強い。
串田アキラは世界観には有っているだろうけど、年齢も年齢で往年の声が出なくなっている。田村直美の楽曲もあいまって古臭さを感じる。
90年代のJ-POPゴリ押し(るろ剣のそばかすみたいな)と違って、作品には合わせてきているんだけどやっぱり違和感がある。
以前スガシカオがなろう系アニメのED担当してたけどその時も違和感有った。この手ので成功したのはかぐや様の鈴木雅之ぐらいしかいない。
というか90年代に人気だったミュージシャンを令和のアニソンに採用したところで、喜ぶのはおっさんおばさんだけである。若い子から見たら老害でしか無い。
最近Xのトレンドに「ひまそらあかね」関連のワードがほぼ常に張り付いている。
一応知らない人のために書いておくと、ひまそらあかね氏は2024/7/7の都知事選立候補者。
一般社団法人Colaboの会計不正問題などをはじめとする社会問題に積極的に活動しており、
いわゆる「闇を暴く」系の行動力・発言力が何倍もあるバージョンと表現すればいいだろうか。
その行動力の高さから支持する人も多い一方で、口の悪さにも定評があり、
また「琴葉茜」を彷彿とさせるオリジナル(と称する)キャラクターを使用していることもあいまって
多数のアンチを生み出している。
当然ながら上記で追及されている人権団体の支持者からも忌み嫌われている。
そんなひまそら氏だが、先日「政策集」と称するnote記事を公開した。
https://note.com/hima_kuuhaku/n/n00a0ba9943d1
この記事に対する評価は、「やはりひまそら氏は素晴らしい!!」と手放しで称賛する声、
「こんなの政策じゃない」ととりあえず否定する声、とだいたい二極化である。
私は後者寄りなのだが、ひまそら氏の公約への否定の声は、中身のどこが問題であるのかを触れた
そこで、当該公約についての問題点を指摘しようというのが本記事の趣旨である。
批判内容について、他の場所ですでに追加の説明があるということもあり得るが、そこはご容赦いただきたい。
①公金チューチューを無くす
これがひまそら氏の最大の過去の功績であり、最大のテーマであろう。
「公金チューチュー」とは、要するに団体が不正に都から金銭支援を得ることなのだが、
それらの「公金不正問題を追及」できるのは「僕だけ」とした上で、「探し出して駆逐する」という内容である。
「公金チューチュー」は無くすべきであると思うし、その駆逐は都民にとって有益なことでもあると思う。
第一に、知事は会計監督権を有するので、いわゆる「公金チューチュー」の洗い出し・修正指示自体は可能であろう。
しかし、「公金不正問題を追及するのはしがらみのある既存の政治家には難し」い中、これらの問題に歯止めをかけることは可能であろうか。
知事の権限による予算案の再議については、地方自治法第176条に定められており、
議決から十日以内であれば再議に付することが可能であるが、出席議員の3分の2が賛成すればその議決は確定する。
すなわち、ひまそら氏が「公金チューチュー」を無くすためには、少なくとも
必要がある。これを実現するだけの人をひまそら氏は集められるだろうか?
加えて、これは「公金チューチュー」が織り込まれた予算案を否決するための必要条件である。
知事には予算案の提出権限があるが、それを通すためには議会の承認を得る必要がある。
それができずに知事と議会で膠着状態が続けば、当然ながら困るのは都民である。
Colaboについてひまそら氏が記事を公開し始めたのが2022年9月、いわゆる「WBPC」の4団体へと拡大したのが同年12月である。
一団体にこれだけの時間をかけていると、「駆逐」にはどれだけの時間を要するのであろうか。
当然、一次資料の入手しやすさ、話題性が高いことによる引き延ばし戦略などもあろうかとは思うが、
どの程度の期間で精査を完了するかについては、是非スケジュールを出していただきたいものである。
さらに、ひまそら氏は公金不正問題に関して、「抜本的改革」を行うとしているが、
その具体的な内容については触れていない。
現状では、予算については監督権を有する知事と、その補助機関である監査委員・監査事務局、
それにもかかわらず、暇空茜氏が追及している問題については、これまで取り上げられることが無かったのは
何に起因しており、「第二、第三の暇空茜」を生み出さないようにするためにはどうすれば良いのか。
「のり弁」のない公文書の開示は確かに一つの手段とはいえるだろうが、それが「抜本的」であり、
必要十分であろうか。
還元そのものは良いとは思うのだが、いくつか問題点を指摘したい。
地域振興のためにデジタルクーポンを発行している自治体は多数存在する。
例えば、兵庫県養父市では市民1人あたり3,500円をのデジタルクーポンを支給している。
(これはカードを利用したもので、ひまそら氏が挙げているアプリを利用したものではないことは留意が必要)
他にも「デジタルクーポン 自治体」で検索すれば、プラットフォームが多数ヒットする。
このことからも、デジタルクーポンの発行自体はなんら目新しいものではないと言えよう。
ひまそら氏は、「映画どれでも1回無料チケット」や「ファミレスどこでも家族一人につき千円チケット」
映画に興味が無い人は映画を見に行かないであろうし、健康に極めてうるさい人はファミレスに行かないであろう。
映画、ファミレスは「多くの人が喜ぶであろうもの」として挙げたのであろうと推測される。
これがたとえば「ジム」や「エステ」、「釣り用品」など、よりニッチなものになればどうだろうか。
これら全てに喜べる都民はどれだけいるだろうか。
であれば、用途を限定せず、都内の対象店舗であれば何にでも使えるクーポンとした方が良いのではないだろうか。
わざわざ用途を限定したクーポンを発行することに合理性はあるのだろうか。
たとえ広いジャンルの決定であっても、必ず恣意性は生じるものである。
このような恣意的な決め方では、利用者のみでなく、企業からも不平不満の声があがることが
容易に想像可能であるが、どのように対応する予定なのだろうか。
なお、ルール策定において「利権癒着防止」を行うと掲げているが、
その具体的な方策についてはやはり述べられていない。
ひまそら氏は自身の経験を活かし、「東京都クーポンアプリを設計運用」すると述べている。
まず、地方自治法149条に規定される職務には該当しないと思われる。
また、地方自治法142条は、知事が自治体の請負人となることを禁止している。
恐らく法的な抜け道のようなものはいくらでもあるとは思われるが、ご教示を願いたいところである。
システムの設計運用の仕事自体を否定するつもりはさらさらない。必要な仕事である。
ひまそら氏の肝入りの政策だからこそ深く入り込みたいという考えも分からなくはない。
だが、それが知事としてあるべき姿なのか。
知事が公共工事最前線でショベルカーを運転していたら、その仕事がどれだけ素晴らしいものでも
「知事が何をやっているんだ」と思うであろう。構造としては同じようなことだと思う。
先述したが、そもそもアプリについては既存のプラットフォームは複数存在している。
はっきり言えば車輪の再発明である。これらのプラットフォームに勝るような新奇性・安全性を
担保できるのであろうか。
また、「ソーシャルゲームの設計・運営」と「クーポンアプリの設計運用」は大きく異なるように思われる。
この点については特に疎いので強い言葉は避けるが、経験は活きるとしても
それほど簡単に応用が利くものであるかは、専門家諸氏に伺いたい。
③政治献金の一切を受け取りません。
ただし、掲げる政策としては弱いように感じられる。
しかし、これによって「癒着」が無くなるかといえば話は別である。
他の都議会議員が献金を受け取っていれば「癒着」が生まれる可能性はある。
この可能性をどのように消すのか。「公金チューチュー」の項でも述べたが、
また、ひまそら氏は裁判のためにカンパを募っているが、これは紛れもなく献金である。
もちろん政治活動のための献金ではないため政治献金とは言えないが、
知事としてカンパに申し込んだ人に利する行為をすれば、紛れもない「癒着」といえよう。
ひまそら氏には、カンパに申し込んだ方々に利する行為は決してしない、と明言をお願いしたい。
なお、上記カンパの募集をしているひまそら氏が、自己財源で政治活動を行えるのかは
疑問の残るところではあるが、批判すべき内容ではないだろう。
一点目は、ひまそら氏を否定する方々へ。
気に入らない候補者だからといって、頭ごなしに否定するべきではない。
それができないなら黙っておいた方がいい。
二点目は、ひまそら氏を支持する方々へ。
さすがに盲目的に肯定しすぎではないか。私が批判した内容は一回でも頭に浮かんだのか。
この記事の内容を見て、じっくり考えてみてほしい。
私も的外れな批判をしているかもしれないので、もしもそうであれば指摘してほしいし、
真っ当だと思えば支持者として批判してほしい。
それができず、「小池/蓮舫/石丸陣営の仕込んだサゲ記事だ!」というのであれば、もう何も言うまい。
三点目はひまそらあかね氏へ。
政策の策定にあたって恐らくリーガルチェックはかけているとは思うが、
本記事での批判については、YouTubeやらXやらnoteやらでぶっ叩いていただいても構わないので、
疑問を解決する方向なり、方針を修正する方向なりで動いていただけると幸甚である。
普段の口の悪さを2段階ぐらい下げていただけるとよりありがたい。
その上で、これまで否定こそあれ、批判が少なかったことには警戒心を抱いていただきたい。
今の支持者だけでは選挙に勝てないのは明白なのだから、より支持層を広げなければならないが
その下地ができていない。政策を見てくれてさえいないのだから。
大半がどうでもいい駄文。
どうでもいいことに執拗にこだわる文体もあいまって、部外者は「関わるだけ無駄」という印象をよりいっそう強めるだけだろうね。
お味噌汁作って野菜たくさん取れる私えらいもんね!って別にそう言いたいわけじゃないんだけど、
まあお味噌汁ぐらい作るじゃん。
でこの時期暖かくなるから
お鍋の中身すぐ傷んじゃうじゃない。
だから私は春から夏終わりにかけて鍋のベーナーをしない一つの理由でもあり一つの原因でもあり一つの鍋の所存であったの。
いわゆる言うところの
一所懸命ってやつね。
その鍋はまあ夏場だから腐って当然気温が高いもんね!って
あれってよっぽど管理がずさんなんじゃないの?って
私産まれた初めて今日「ずさん」って書いたような気がするんだけど、
ずさんって漢字が出てこないのよ!
感じなくって平仮名の言葉なの?って今気付いちゃって辞書を念のため引いてみたら「ずさん」って漢字では「杜撰」って書くんだって!そんな感じ。
感じにすると「ずさん」感一切なくない?
逆に整ってる感じがしないでも無いような気がするし
これもっとガチャガチャしたそれこそ「ずさん」な感じをイメージしていたのになんか漢字で見ると整ってない?
まあ話を戻すと
飲食店の食中毒ってよっぽど管理がと言うか管理してないじゃん!ってレヴェルの事態だと思うの。
自分の自炊ではそんなセルフ食中毒を喰らうほどアホではないずさんな体制ではないから
未だかつて、
それでお腹壊した!とかってないのよね。
で、
鍋はそれでも気温が高くなるから夏場なんかやっぱり1日で駄目になっちゃう鍋の中身のベーナーの美味しいスープのルーシーが台無しなのよ!
でね、
帰ったら腐っている鍋で絶望するはずの予定だったけど、
私が思うに
鍋のベーナーのルーシのスープは味付けしてない言わば塩分がないから、
腐り耐性がゼロなの全くないの!
大貧民負けてマジ切れそれ見て美味しいパスタ作ったおまえ!っておまえだよ!って
私が寝かせてあるもう何年も使っていない製麺機で作るおまえ麺から作るんかーい!ってそれなんて純恋歌?って思うけど
大貧民負けてマジ切れしなくても良いじゃないって思うわ。
そしておまえも麺からこしらえていたんかーいってこだわり派のロマンパスタだったのね!って
製麺機動かしてそれ見て作ったパスタおまえー!って歌いたいわ。
だから
お鍋のべーナーの中身が傷まないって私の仮説はあっていると思うの。
だとしたら真似したら駄目よって一応の警告はカードをあげておくわ。
へー
それなら翌日もお味噌汁美味しく食べれらるじゃん!って
タマゴ落としても美味しいし
ただ思ったのは
それジャー普通のスープカレーになってしまいそうな気がしないでもないけれど
手際がよすぎて
まあスパイスのものそのカレーは夏場傷みやすいか傷みにくいのかは定かでは無いけれど
定めてみていいかもしれないわね。
とりあえず
私は今夜もお味噌汁多楽しめる環境であることは間違いない味噌汁の味噌味!ってところかしら。
市販の出汁入りのお味噌ばかり使うと味がいつも一緒になるので、
やっぱり普通の天然の揺らぎのある食材を使う方が微妙に毎回違う味になるような気がして、
手間はかかるけどそう言った美味しさの微妙は変化も
舌先で感じる旨味とあいまってそう思うのよね。
まあ今夜もお味噌汁知る人ぞ知る!って感じだわ。
そんで
帰って鍋をオープン的なセサミかセサミ的なオープンかで開けてみたら傷んでたら笑っちゃうけど
お味噌汁作りにせいがでるわ。
うふふ。
昨日作ったお味噌汁を朝食べてモヤシと木綿豆腐の具でとってもグーなんて言わないけど
木綿豆腐美味しいわー!
お味噌汁の豆腐もゴロッとちょっと気持ち大きめの小林稔侍さんが言うところの具が大きい!ってぐらい気持ち大きめに切るのがマイスタイルね。
2リットルのボトルで作ってあるからこれも早々に飲んでしまえばオーケーよ。
傷む前に飲み切っちゃうけどこれは。
まあ暑くなってきたから水分補給も思い出した途端にあんなことこんなことあったでしょ?って思うけど
意識してみてね!
水分補給よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
自分は社会経験も豊富ではない上、今まで小さい会社に勤めていただけだったから、こういった仕事は初めてだった。
で、新人たち。まぁ見事に挨拶もしない、返事もしない。こちらが問いかけても全く無反応。
一人だけ反応しようと素振りが見られるが、周りが静かすぎて合わせて沈黙する結果、全員が無反応。
自分たちが社外の人間だからだろうか、とも思っていたが、直属の上司にも全く同じ反応。
「連絡事項があります」と声をかけても、喋ることをやめない。
まぁ、社会経験のなさか……よく言われるZ世代の特徴か……?とは思いながら、そこは現状様子を見ている。
ちなみに、ここの社風はなかなかに古風なThe 体育会系だ。(研修プログラムの中に、走り込みや登山などがある)
そんな感じだからか、勝手な偏見で「こんなだりぃ事やってられっかよ!」みたいな、反発心があるかといえばそこは全然なかった。
とにかく自主性がない。いわれたことはきちんとやる。その代わり、いわれたこと以外は全くしない。
今回の学習方針が「自主性を育てる」だったのも相まって、割と研修者に決定権を委ねる、という事を多々行っているが、皆とにかく困惑する。
誰も動かない上に「いやそっちで決めろよ」という空気すら流れる。
そんな研修者たちの自主性のなさや熱量の低さと社風の古式ゆかしいシステムが、第三者から見ていてあまりにもアンマッチだった。
都会とは到底言えぬ場所に会社を構え、その周辺に引っ越しをさせる。ある人はアパートやマンションを借り、ある人は社宅へ居を構える。
居住地でさえ会社に縛られる。その他の様々なアクティブな雰囲気をまとった行事もあいまって、研修者の性質とのギャップを感じ、頭をひねった。
自分なら間違いなく息苦しさを覚えて、こうも変な風習に縛られるのなら、さっさと離脱してしまうだろうな、と考えた。
でもすぐに、こういうのって割と社会人として普通なんだろうな、と思った。
自分の社会経験の薄さもあいまって、判断に困るのだが、それでもある種自分に社会性がないのだな、と気付いた。
結婚詐欺師に引っ掛かった話②
その日、私はワクワクしながら待ち合わせ場所に向かった。夢の国への思いもあいまって、Tとの対面に胸が高鳴っていた。待ち合わせ場所に到着すると、そこには期待通りにTが立っていた。
Tは一瞬私を見つけると、にっこりと微笑んで近づいてきた。その瞬間、何かがおかしいと感じたが、まだそれに気づく前にTが私に近づいてきて、不意に手を握りしめた。
「君、実は俺、ドラゴンなんだよ。驚いたかい?」Tはにやりと笑いながら、手を握りしめたままなんとも言えない表情で私を見つめている。
私は最初は冗談だと思って笑い飛ばそうとしたが、その手の温かさと力強さはまるで本物のドラゴンのようだった。そして、不思議なことにTの姿が一瞬、本当にドラゴンの姿に見えた。
「驚いたでしょう?でも心配しないで、君がゴブリンになると、僕は人間に戻ることができるんだ。」
言葉に戸惑いながらも、私はTに導かれるままにその場を離れ、別の場所に向かった。途中、私は不安と興奮が入り混じった感情に揺れ動かされていた。
そして、約束の場所に到着すると、Tが何やら呪文のような言葉を唱え始めた。その瞬間、私はどこか異次元のような場所に引き込まれ、自分がゴブリンに変わってしまったことに気づいた。
「おめでとう!君はこれからゴブリンとして、新しい冒険の旅に出るんだ。」Tはドラゴンの姿から元の人間の姿に戻り、私を励まそうと微笑んで言った。
○ご飯
朝:お椀で食べるチキンラーメン。昼:カロリーメイト。夜:にんじん、エリンギ、もやしのスープ。たまごやき。ナポリタン。間食:チョコ。柿の種。
○調子
○慟哭、そして…
セガサターンで1998年に発売された美少女ゲームと脱出ゲーム(当時こんなジャンル名はなかったかもだ)を組み合わせたアドベンチャーゲームのニンテンドースイッチ移植版を遊んだので感想を書きます。
奇妙な館に閉じ込められた数人の男女が殺傷能力増し増しな仕掛けに挑みながら脱出をはかりつつ、美少女ヒロインとの関係値を築いていく構成。
細かい分岐は無数にあるものの、ヒロイン固有の恋愛的なシナリオは十数クリックで読めてしまう短いボリューム。
縦筋となる、何故この館に閉じ込められたのか、という謎に関するストーリーもかなりあっさりしている。
なので、このゲームの醍醐味は物語というよりは、館の中を探索し、ポイントアンドクリックでのアイテムを探し、複雑なフラグを管理するところにあるのだろう。
主人公とヒロインを生かしつつ脱出するのは、かなり試行錯誤しながらフラグとアイテムの管理をする必要があった。
残念ながら死なないことに精一杯で、全員生存で初めてクリアまでは一人で頑張ったが、以降は攻略サイトに頼りまくってしまった。
ストーリーよりもゲーム性に寄っているタイプのアドベンチャーゲームで、攻略サイト頼りで遊ぶのは邪道なんだけど、悪い意味でタイムパフォーマンスという流行り言葉で自分を納得させてしまった。
そんなわけで用意された内容を100楽しめたとは言い切れないので、ゲーム性やシナリオに関する感想は今回は抑え目にしておく。
なお、イラストレーターが大レジェンド横田守さんということで、ヒロインたちのCGは最高だった。
ニンテンドースイッチで遊べるため当然全年齢向けのゲームなのだけれど、下着が見えるシーンは沢山あるし、下着の向こう側を想像させるイラストやテキストもあるし、ヒロインが積極的にアプローチを仕掛けてくれる魅力さがあいまって、実用性ありありのエッチさだった。
他のヒロインたちはかなり迂闊に下着を見せてくれるのに、この方はなかなかガードが堅い。
しかし、なんとそこには、かなり攻めた設定が隠されていて、大興奮してした。
続編のRevive 〜蘇生〜も是非とも現行機(もうそろそろこの言い回しも使えなくなりそうだなあ)に移植していただきたいなあ。
ちょっと思い出した話。
どうなったんだろうと思ったら、色々な変遷の後生産・販売ができるようになってたんだね。
https://corezoprize.com/salt-history
塩業近代化臨時措置法
1971(昭和46)年「塩業近代化臨時措置法」が成立し、約20年続いた流下式塩田による塩の製造が廃止され、日本では「イオン交換膜製塩」以外の方法で海水から直接「塩」を採ることが出来なくなり、また、一般企業が日本で塩の製造を行ったり、自由に輸入することも禁止された。
これは、塩の安価で安定した供給だけではなく、沿岸部にあった塩田を工業・港湾用地として再活用することも望んだ産業界の要請に応えたものでもあったと云われている。
塩の専売制が廃止(塩事業法に移行)
その後、ミネラルの重要性を訴えた廃業事業者を中心として「日本自然塩普及会」や「日本食用塩研究会」といった組織が発足し、流下式塩田による製塩の復活を求める活動等が行われ、輸入天日塩ににがり成分を混ぜた塩や流下式塩田を応用化した製法の塩の製造などについて一定の制約のもと認められることとなり、その流通量も徐々に増えていった。
1985(昭和60)年には、日本専売公社が民営化(日本たばこ産業に移行)され、塩の販売も専売制から徐々に自由に販売できるようになってきた。1997(平成9)年4月には塩の専売制が廃止(塩事業法に移行)され、日本たばこ産業の塩事業は財団法人塩事業センターに移管された。
塩事業法の経過措置が終了した2002年(平成14)年4月、塩の製造、販売等を行う場合、財務省への届出等が必要であるが、完全に自由化された。自由化に伴い、沖縄、九州、四国、大島など、日本各地で少数ながら流下式を基本とした製法で海塩が作られ、日本人の健康志向の高まりとあいまっていわゆる「自然塩ブーム」が起きた。