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はてなキーワード: 終戦とは

2020-05-23

警察行政法流行った時代

   警察の男はとにかく醜悪から警察行政法明治帝国憲法においては特にそのような法はなし)が、明治時代

終戦後に一時期流行り、警察のようなゴミをどうにかできるならと、東京帝大ないし東大法学部から警察官僚になるのが人気だった時代が130年前や60年前に

あった。しかし、昭和40年以降、悪が勝って裁判所警察も都合のいいような仕事を開始したため、日本人気持ち悪がられ、東大法学部から裁判官

警察職には人気がなくなり、段々と司法試験国家試験の人気もなくなってきた。それ以降はずっと腐っていて最悪

2020-05-20

裁判所 新聞社が最悪なことになっている理由

   終戦後は、もっと具体的で内容のあることが盛んに書かれていて、戦後憲法民法商法民事訴訟法行政法

   判例理論が蓄積したのもその頃だが、もうずっと前からダメ

     それでも、昭和時代文章病気だった頃も、背景があった時代は書くことに人気があったが、今は腐れ果てていてダメ

   朝日新聞読売新聞も、誰も読まないし、書き手もいなくなった

      大昔は凄かったが、今はその凄いところの面影もない

2020-05-19

anond:20200519122136

40なったら50まで生きたいといい

50なったら60

60なったら70という

 

戦犯裁判

バターン半島の陥落後、1942年8月参謀本部附となり[2]、内地へ戻る。「日本ニュース」第115号にて、「本間将軍帰還」の肉声・映像が残っている。同月、予備役編入され、以後は軍務に就くことなく、フィリピン協会理事長を務めて終戦を迎えた[2]。予備役編入理由は、バターン攻略不手際とがめられたものとされる。終戦後、「バターン死の行進の関係者処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ、「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間陸軍中将としての礼遇を停止した。しかし、結局マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者戦犯)として召喚された。本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人行為本間責任ではなく、部下の責任であった。しかし、結果的責任をとることとなり、有罪判決下り本間死刑と決まった。有罪判決が下ると本間弁護団アメリカ連邦最高裁判所人身保護令を求めたが、6対2の判決却下された。

処刑は、1946年昭和21年4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校囚人服で絞首刑に処せられたのに対し、本間場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった(同じくマニラ軍事裁判死刑判決が下された山下奉文場合は、囚人服を着せられたままの絞首刑であった)。58歳没。

 

東大法学部には偉い先生は一人も残っていない

    15年前までは、昭和時代矯正行政指導した憲法学高橋和之と、団藤重光を知っている刑法学の西田典之

  という巨頭がいたが、高橋は15年前の時点でもう完全な老害老いぼれていたし、西田には善意が残っていて、いまどき刑法なんか

勉強するなと学生に言っていたが、団藤は2012年に死去し、西田肺癌でしんだ

  行政法や、民法教授は、たんに勉強をした、というだけの専門家しか残ってなくて、終戦後に何か偉いことをした教授は一人も残っていないし、単に勉強をしただけの

しか残っておらず、人として偉い人などは一人もいない。  

  和仁陽 日本近代法史は、高校時代に凄まじい成績優秀者でくそやばかったらしいが、頭がよすぎて精神おかしくなってどうでもいい学問にはまり込むようになった

  それ以外の東大法の先生はただ勉強した人か、非常につまらん人しか残ってない

     今日本に生き残っている、法学関係で、明らかに偉いと認められる人はほとんどおらず、数人いるかいないか

2020-05-18

鬼滅の刃終わったけどさ

鬼滅の薬とか言うとファンが冷静装って必死に噛み付いてくるけどさ、正直がっかりしたよな

ハンターハンターの蟲編も同じじゃん言うけど全然違う。大魔王バーンにどくがのナイフで傷つけてマホトーン効かせてキアリー使わせずに逃げて勝った感じ

終わり時としては最高だったと思うけど、なら最終戦はハッタリ上等でバトルしてほしかったし、主人公が鬼になっても何かしらの盛り上がりは欲しかった。結局薬と想いじゃね~

最終回は良かったけど、そこに向かう最後道筋で失敗したかな。俺は残念だった。良かったと思う人が居ても別に良い

2020-05-17


  戦後関東平野終戦で何もなく食べ物もなく最悪だったので、自分マンコを犠牲にしてでも男になり

研究したり、社会リーダーになって裁判所で働くかわり、背景でえろいことは全部しまくるわ、何もなかったこ東京にあらゆるもの

作り上げる夏祭り正当化された。日本人としての自分犠牲にしてでもそういう強者になるかわり、あらゆる夢と希望東京に詰め込もうとして

散々やりたいようにやった。

    当然、そんなことが平成時代に許されるわけがない、やったら犯罪

 終戦後の真夏は激臭で最悪で刺激的でくそやばかったから、東京大学卒の学生ブサイク他人の顔を見て

  顔を真っ赤にして激怒大脳が真っ赤でカンカン激怒して研究していたからあそこまで到達できた

    平成のような優しい、子供が遊ぶために時代にそんなことをしたら犯罪に決まっている

   昔流行った奴を今頃出すなクソが


  終戦後は食べ物もなく社会も激臭で最悪で、飯塚のように他人に対する憎悪が理性を偽装して高い結果を出せる社会環境があったが

    平成時代はそんな時代ではなく、統計をするにしても子供が遊ぶための統計学にとどまるもので、飯塚が残した研究業績のように

   社会貢献のための統計学はこの島では時代遅れだった。そのような時代遅れな者が、今更になって暴れているのがおかし

     要するに、時代錯誤で自己中心的犯行であり悪質。

 憲法行政法 刑法 刑事訴訟法 民法 商法 民事訴訟法 などが凄かったのは

  終戦後の20年に、新聞社と共同して、書いて書いて書きまくって頭を使って仕事をすることが楽しかった60年前の話だ

  それから日本人の強い人間は最悪だから、是非とも法で縛り上げなければならないことが是認された戦後東京の話

     その時代だったから超絶に意味があった、それ以外の時期の法はほとんど腐っていて意味がないゴミ

  あと、法が基本的に凄かったのは、明治時代学問狂いが背景にあって偉い人がやりまくっていた時代

    平成では、話が他に流れていったから、そういうのは面白くなくなったんだよ、それなのに、腐れ法を勉強させた東大法が悪い

  東大法学部が凄かったのはもう大昔の話で、その後はずっと悪化の一途

2020-05-03

anond:20200503140052

取り下げるということは、終戦自体が無かったことになるってことだろ。

それはさすがに無理だわ。

2020-04-29

anond:20200429034554

卒業式の時期と終戦ってそこまで関連性あるんか?学生時代に気にしたことないけど。

9月に入学式をやることになると

甲子園みたいな夏の大会なんて3年生はどうするんだ?

夏が終わってから進路のアレコレを始動するというサイクルが壊れると思うんだが。

あと、入学式残暑厳しい時期にやるってキツイっつーか、卒業式夏休み前になって君が代斉唱終戦記念日の先取り状態になるっつーか、終戦卒業オーバーラップして、何だかいろいろ取り返しが付かない感じになる気がする。

2020-04-21

anond:20200421201602

終戦焼け野原から二十年で国を興したくせに中世から伝統技術一本足で食ってたようなことを言いやがるよな

2020-04-15

anond:20200415171617

宮城事件

宮城事件(きゅうじょう[注釈 1]じけん)は、1945年昭和20年8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(1948年7月1日以前の皇居呼称)で一部の陸軍省勤務の将校近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれる[1]。

日本降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将殺害師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城皇居)を占拠した。しか陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより日本降伏表明は当初の予定通り行われた。

2020-04-04

anond:20200404124605

観光飲食風俗芸能仕事にしていた人達失業し、失業者が町にあふれ、犯罪が多発する。

コロナが収まれば元の職業につけるはずと思うのは早計で、皆が貧しく成り過ぎて起業はままらないし、

そもそも、貧しい人は金を使わないから、仕事を再開しても客が居ない。

終戦焼け野原から高度経済成長期を迎えるまで30年かかっている。

コロナ後の世界も、元に戻るまでに10~20年はかかるだろう。

2020-03-31

anond:20200124123539

大東亜戦争では300万人死んでるが

当時の日本人口は約8000万人(台湾朝鮮満洲を除く本土人口

まり3%を超してて、しかも死者の大部分は働き盛りの成人男性

それでも日本滅亡とはならなかったわけで

仮に戦勝国アメリカの援助や朝鮮戦争特需がなくても

終戦から20年ぐらいで持ち直してたんじゃないか

2020-03-30

ある国は企業補助金を出すために福祉支出を抑えなければならなかった。そこで政府コロナウイルス拡散しようなどと考えた。医療業界には当然補助金が回っていた。この人数を死に追いやれば、補助金はこうなる、おおよその見積もりも行われていた。

その国の人々はいうなれば、補助金ぶら下がり企業集団に襲われているようなものだった。医師有識者たちは対処方法について目立つところで激しく議論を行ったが、その議論は人々に負担を与え、政府医療がすべきことの決定にも行動にも結びつかず、実は、議論しつつ横目でウイルス拡散を眺めて時間を稼いでいるのである

このようなことは20世紀には世界大戦という形で行われていたが、戦争の促進制度として存在した「帝国」「言語の壁」は、終戦とともにほぼ消滅したので、帝国を支えていた銀行保険会社は、21世紀には謎の感染症という手段を取ったのである

 

ベーシックインカム制度があるイタリア被害が大きいことは皆よく知ってるだろう。

2020-03-27

コロナ生産設備破壊されるわけではないので、現在参考にすべきは戦後日本ではなくアメリカ

終戦後高いインフレの発生を許容してでもファシズムを打倒したように(日本人が書くべきものではない気もする)

コロナ集中治療室が埋まって国民の5パーセントがなくなるがインフレを許さないか

3年でゆっくり感染を広めて免疫をつけて3年後インフレが発生してもそれを許容するか。

2020-03-22

38日後に死ぬじいちゃんポルノ


おっすオラネズミ

「 じいちゃんはたぶん1ヶ月くらいで死にます 」

ってママからメッセージ貰ったけど、

絶対に行かないワニ!

会いに行きたくないワニ!

絶対に会いに行かないワニ!

じいちゃんは綺麗な人間だったワニ!

物語になるような美しい平凡を生きていたワニ!

の子として生まれ、母を失い天涯孤独、死のうと思って軍隊に入ったけれど、馬を丁寧に手入れしてたら、気がついたら終戦してて、それで最近まで生きてたワニ!

イケメン、というか、旅の一座の女形が、夜中に夜這いに来るような、今で言うユニセックスな、そんなエキゾチックと言うかエロティック人間だったらしいワニ!

なんか分かるワニ!

ばあちゃんは裕福な農家の末の娘かなんかで、どこで見知ったか知らないけど、そんなじいちゃんエロさに射抜かれて、メンヘラになって、二人で駆け落ちして、自由恋愛の末に結婚したワニ!

当時の価値観からしたら、アナーキーワニ!

じいちゃんは、そんなこんなでメンヘラばあちゃんと、ばあちゃんとの間にできた二人の子供と、家族になって、長い間生きてきたワニ!

まりそれがもう終わるよって、

ショートメッセージで知ったんだワニ!

強烈に惹かれるワニ!

絶対に行かないワニ!

人間死ぬという時、その人間に会いたくなる、その気持ちは分かるけど、じいちゃんに限っては、会いになんか行きたくないワニ!

そんなのポルノワニ!

もう少しで死ぬという人間を見に行きたいだなんて、そんな本能遡及的なイベントなんて、ポルノハブワニ!

あのじいちゃんポルノはできないワニ!

じいちゃんはいつも遠い目をしていて、会話のテンポゆっくり、というか、最初に頭に浮かんだこと、本当に言いたいことはそっと横において、それから優しい言葉をじっくり選んで、ようやく返答する、そんな人間だったワニ!

そうやって、考えてるあいだ、視線は下の方に落ちていて、ワニはいつもその視線を追って、一緒に下の方を見ていたワニ!

でも下の方には何にもなかったワニ!

ワニがそうしていることを、じいちゃんは知っていたワニ!じいちゃんが知っていることを、ワニは知ってたワニ!じいちゃんが知っていることをワニが知っていることをじいちゃんも知ってたワニ!

から、ワニと話すときのじいちゃんは、いつもより深く下の方を見て、いつもよりゆっくり時間を掛けて、でも、いつもより短い言葉で返答したワニ!


  りょうた、優しい人間にならなきゃならんよ


それが遺言ならありがたく頂戴するワニ!

流石に葬式は行くことになるから、お返しは香典でいいワニか!

お前には絶対に会いに行かないワニ!

新幹線に乗るまではしたけど、降りたワニ!

ママンには、なぜワニは最期のお見舞いに行かないかを滔々と説いた長文をメッセージしたけど、多分あれは世界一駄文だったワニ!

ばあちゃんがキレようが、じいちゃんがもう少しで死ぬからじいちゃんを見物しに行くなんて、絶対にしないワニ!

ワニはじいちゃんが、死ぬからってよく喋ったり、死ぬからって何かを変えたりする動物ではないことを、絶対に知ってるワニ!



から俺の居ないところで綺麗に死ね

いままでそうやって生きてきたんだから

お前が俺を見るときの目はいつも遠かった!

そこに憐憫が含まれていることに気づいていたよ!

まるで自分によく似た、哀れな動物が生まれしまたかのように!

同時に幸せを祈ってくれる、お前のタフネスは素晴らしいさ!



ワニは会いに行かなかったワニ!

細胞にむしゃむしゃされて、骨と皮だけになって、まるで原型を留めていないじいちゃん写真を、姉ちゃんからラインでもらったワニ!

そして気がついたら死んでたワニ!

午前四時くらい、自力トイレに這ってって、ズボンを下ろして、座って、力んだくらいのところで事切れたらしいワニ!

トイレ大往生なんて、素晴らしい生命ワニ!


  りょうた、本当にトイレしたいとき

  しっこより先にうんこが出るんだぞ


って言ってたの思い出したワニ!

葬式では、無言でぶらぶら、たまに棺の中を覗いたり、綺麗に整えられた死体を触ってみたり、ラムネのような冷ややかさに驚いたり、セレモニアルな悲しみにノッていけない、そんな感じを、じっくり味わっていたワニ!

it's all okワニ!

じいちゃんの方の親戚が誰も来てないけど、本当だったワニね!

生物学上の父親が、お金を出してやるから大学に行きなさいってオファーしたのに、それを断って軍隊なんか入って、飛行機に乗れなかったから馬の手入れして、虚無に等しい玉音放送を聴き、気がついたらメンヘラ生命力に流されて、最近まで生きていたって、本当だったワニね!

わーお終わらないワニ!

最期の見舞いに行かなかったから、

全然終わらないワニ!


  それでもう死ぬんですね 

  だからもう死にますよ 


逃した!

自らの意思によって逃したワニ!

じいちゃんいつまでも死なないワニ!

じいちゃんによる認知的負荷が消えないワニ!

そんな目をするなよじいちゃん

よく生きてたじゃないか

2020-03-18

ものごころついてから最も世界がざわついている気がする。

1984年まれ

ソ連崩壊ギリギリ記憶にない。

同時多発テロときも今ほど世界がざわついてなかった気がする。

第二次世界大戦終戦以来ここまでざわついたことあった?

おしえて、おじいさん。

2020-03-16

陸軍士官学校飛び級てどれぐらい凄い?

うちの亡くなった爺さんの話。

昔の陸士合格したら新聞に載ったとか言ってた。で、うちのじいちゃんはその陸士入って、飛び級したのね。

んでその後ビルマに行って肩打たれて病院終戦

爺さんとの思い出は、ちょっと怖くて背が高い感じの人。

うちのお爺さん知ってる人と話す機会があると「お前の爺さんは頭良かった。」とかみんな飛び級したこと言うんだよ。

ググったら戦前東大京大よりも入るのが難しかった。みたいな事書いてるけど、せいぜい今で言う防衛大くらいちゃうのか。

誰か陸士の当時の入試試験東大のソレと比較できる人いないかな。

増田文章力の通り、勉強できませんでした。

追記

調べたら4修?

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-22

お前の好きな動画!!!

教えて!!!

リンク多すぎると投稿できんのでhttps://は消してる

グルメ旅行

Epicurious

www.youtube.com/channel/UCcjhYlL1WRBjKaJsMH_h7Lg

Condé Nast(VOGUE刊行している米出版社)の運営するグルメwebメディアEpicuriousのYoutubeチャンネル.

"4 Levels of XXX" シリーズ素人,主婦(夫),プロが同じ料理を作って比べる.プロと何が違うのかを知ることが出来るのはめっちゃ便利.

滇西小哥 Dianxi Xiaoge

www.youtube.com/channel/UCQG_fzADCunBTV1KwjkfAQQ

雲南省(滇西)のにいちゃん(小哥)が運営する有名なチャンネル.

「ダワン!」が耳に残る,かわいい.

中華料理チャンネルなんだけど,絵と音がすごくいい.

日本じゃ見かけない料理ばかりなので,いつか雲南に行って食べてみたい.

Rick Steves' Europe

www.youtube.com/user/RickSteves/videos

ヨーロッパ旅行ならこのチャンネル.

人のいいおっちゃんがヨーロッパ各国を旅行する.

動画の量と質ともにgood.

Best Ever Food Review Show

www.youtube.com/channel/UCcAd5Np7fO8SeejB1FVKcYw

アメリカンおっさんグルメ番組.

世界ゲテモノ(アメリカ人視点)なものが多いんだが,アメリカ料理を扱っている回が好き.

www.youtube.com/watch?v=FjU_x1106pg

4K画像撮影されたニューヨーク旅行動画.

人間目線撮影されたニューヨークマンハッタンは,旅行で見たあの光景そのまま.

www.youtube.com/watch?v=PAeUC0-v5x4

The Last Ice Merchant | Made With Kickstarter | The New York Times

エクアドルの氷売りのドキュメンタリー.

時代と共に消えていくものの儚さを感じる.

とてもいい国なので旅行おすすめ.

ニュース

VICE

www.youtube.com/channel/UCn8zNIfYAQNdrFRrr8oibKw

日本TV,ネットではあまり見かけないようなネタを扱うデジタルメディア.

日本語版(VICE Japan www.youtube.com/user/VICEjpch)もある.

科学/ものづくり

jstsciencechannel

www.youtube.com/user/jstsciencechannel

科学技術振興機構(JST)が運営するチャンネル.

「THE MAKING」シリーズカメラ,自動車,ストッキング,原子力発電所,シャンプー,消しゴム,下水道管,カーブミラー,布粘着テープ,絵具,ドッグフード,自動販売機,コンタクトレンズと世の中のありとあらゆるものがどのように作られているのかを動画説明してくれる.

個人的には「歯車ができるまで」で一番好き. www.youtube.com/watch?v=Xtg1bbxrjIg

Tokyo Llama

www.youtube.com/channel/UCBQ3TEq5SrUuTJuMl1S_4ig

茨城県在住のJayaさんが古民家を購入してリフォームする動画.

今も月1くらいのペースで更新されているので見てる.

www.youtube.com/watch?v=GPdLEKzHd1g

地球そして生命誕生進化」.

地球すげえ,宇宙すげえ.

www.youtube.com/watch?v=40F8mALRukA

KVLY-TV塔(628m)を登る動画.

見ればわかる,目が離せなくなるから.

www.youtube.com/watch?v=2Dw8M_fnZ8c

「【TK-80】ドキュメンタリー 日本初のマイクロコンピュータ発売の挑戦」

古代コンピューター TK-80のドキュメント.

話には聞いたことあったがこんなのだったのか.

My Self Reliance

www.youtube.com/channel/UCIMXKin1fXXCeq2UJePJEog

カナダおっちゃんがやっているアウトドア,キャンプ動画.

自分で家を建てるってあこがれるなあ.

Timelapse film of the building of the Grayhound update February 2012

www.youtube.com/watch?v=HepAG8ziOyk

ヴァイキング船の建造動画.

機械のない時代によくこんなもん作れたなと思う.

www.youtube.com/watch?v=29mOXuVoE3o

www.youtube.com/watch?v=90uKGICMbAI

歴史

Ollie Bye

www.youtube.com/channel/UC6gNjP1W4FXWExT5QpYkmhQ/videos

世界史好き向け

国家,言語,貨幣,火薬がどのよう世界へ広まっていったのかを地図アニメーションで見せてくれる.

Atbing 24

www.youtube.com/channel/UClkYD49W1t59RPS1NEE8c5g/videos

こちらは"Ollie Bye"を言語に特化させたようなものです.

RankingsLAB

www.youtube.com/channel/UCWEQg74xdp_9ZDDFKmu3tPA/videos

GDP,農業生産額,工業生産額,携帯電話契約数,貿易輸出額の推移をアニメーションで見せてくれる.

ちゃんデータの出どころも明記してくれているのがいい.

だいたい世界銀行のデータ(World Bank Open Data)を使用してる.

中国インドの圧倒的な伸び(動画を見たら"復活"なんだなと納得できる)、日本の停滞を見せつけられる.

English Heritage

www.youtube.com/user/EnglishHeritageFilm

イギリス歴史紹介チャンネル.先史時代から中世,近世,現代まであらゆる時代カバーしている.

中でもビクトリア朝時代料理を紹介する「The Victorian Way」が一押し.

MichaelRogge

www.youtube.com/channel/UCSoPLkmWb7wLC3OXDWCietA

オランダ人写真家エイスブラント・ロッヘさんのチャンネル.

「あるオランダ人が見た昭和の日々」 http://fujifilmsquare.jp/detail/08082900.html

ハンス・ブリンクマンオランダ銀行の銀行員として、昭和25年来日しました.

その頃の日本終戦からまだわずか5年であり、復興への道をたどっている最中でありました.

それから5年後、同僚のエイスブラント・ロッヘがブリンクマンの働く神戸支店へ着任し、彼らはこの頃の日本の文化や家庭の風景に興味を持ち、二人は週末ごとに各地へ出かけ、当時の日本人の生活伝統芸能などを撮影しました.

日本人の目線ではなく外国人目線から見た、昭和2040年代日本の懐かしくも力強い写真の数々をお楽しみください.

この生映像Youtubeで見れる.1960年代前後を中心に世界各地の映像掲載されている.

サザエさん1969年放送開始なので、まさにこの時代映像 www.youtube.com/watch?v=Z6QLd8dcZHA

Omizan Sakamoto' Channel

www.youtube.com/channel/UCXNUoaki5SOHCPv315zUnsg

学校では学べない面白い国語あなたに.

国語ユーチューバー坂本小見山

現代語への長い道」では上代日本語から中古日本語,中世日本語,近世日本語をへて現代日本語にどのように変化していったのかを.

日本語の歴史」では更に未来日本語がどうなるかを紹介する.

ら抜き言葉考察は納得 www.youtube.com/watch?v=MZLVNYASfqI

www.youtube.com/watch?v=6yNBDCOGTpg

よし書き終わったからCiv6やるわ

2020-02-18

anond:20200214173128

今、東京MXTV仮面ライダー(初代)の再放送やってるけど

立花藤兵衛と滝和也の前ではショッカー戦闘員小学生並みに弱い

一応、世界征服を企む悪の秘密結社の訓練された工作員なんや

FBI捜査員の滝はともかく、立花おやっさんの方はどうなんよ?

ああ見えてじつは、戦前満州馬賊でもやってて

終戦間際にソ連兵を50人ぐらい素手で倒してるんだろうな……

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