はてなキーワード: 品質とは
IT業界に勤めて15年以上経つけど、この業界ってやっぱり精神を病む人って多いんだよね。
いや、他の業界のことは知らないから客観的なデータとかは出せないんだけどさ。
それでまあ、潰れる人を見てると大体傾向があるんだけど、これが要するに能力の無い人なのよ。
※無能で頑張らないクズみたいな奴は、自分で潰れることはないんだけど早々に消えてもらうから後のことは知らん。
無能な人たちって、技術的知識が足りないとか、論理的な考え方ができないとか、まあそんな感じなんだけど。
そういう人たち、頑張って仕事してもらうのはいいんだけど、どうしても仕事の粗が目立つから注意しなくちゃいけなくて。
つまり、仕事も手戻りが多くなるし、時間をかけても成果が上がらなくてさらに長時間労働なんかしちゃったりして。
そうすると、また品質も悪くなっていくし、注意されるたびに本人には不満も溜まっていくしで、完全に悪循環なわけ。
これが、どうしようもないのよ。
そういう人たちはもっと業務難易度の低い、自分に合った仕事でもやってればいいんじゃないかなーと思ったという日記。
(追記)
どっちでもいいわそんなん。
念願叶ってプログラマとして生計を立てるようになって、はや8ヶ月。
アラフォーでの思い切ったキャリアチェンジを後悔したことはないし、毎日楽しいことの連続だけれど、俺はいまプログラマとしての伸び悩みを猛烈に実感している。
具体的には、オブジェクト指向とかデザインパターンとか単体・結合テストとか適切なエラーハンドリングとかアルゴリズムとか、納品物としてプログラムに一定の品質を担保するスキルが圧倒的に不足している気がする。
一応日々勉強はしているものの、納期に追われているとどうしても手癖でコードを書くようになってしまうし、社内にコードレビューの文化がまだ根付いていないので添削してもらう機会もなく、なかなかスキルが身に付いていかない。
プログラマのみんなはどこでそういった知識を得て、どうコードに活かすのだろう?
とにかく毎日書きまくって手癖を克服あるいはブラッシュアップして、あとはコードレビューしてもらえるように社内環境を整えるしかないんだろうか。
『おちょやん』は、スジ(脚本)・ヌケ(映像)・ドウサ(演技)すべてが優れた作品であり、『カーネーション』『朝が来た』以来の傑作である。
初回視聴率が18.8%と、『エール』等と比べて低迷している事が話題になっているが、傑作『カーネーション』の初回視聴率は16.1%だ。つまり、朝ドラの品質と視聴率には関係がないのだ。
『おちょやん』の特徴は、映像や演出の素晴らしさ、そして何よりも完璧な河内弁を駆使する杉咲花(東京出身)を筆頭とした俳優陣の演技にあるのだが、このメモでは主に脚本について触れたいと思う。
千代は『おしん』のような貧困家庭で育つ。父親のテルヲ、弟のヨシヲと暮らしており、母親は亡くなっている。
金は稼がないわ、アル中だわ、家に帰らずフラフラするわ、子供に家事子育てを押し付けるわ、クリちゃんなる女を妊娠させて連れ帰るわ、子供よりその女を優先するわ。
で、千代とクリちゃんの間でひと悶着あり、結局千代が口減らしとして奉公に出されることになる。
しばらく歩いた所で、テルヲが後追いでやってくる。それに気づく千代、やっぱり追いかけてきてくれたんだ、期待に満ちた彼女の顔。
去っていくテルヲ。
思わず千代の頬に一筋の涙が零れ落ちる。しかし意を決して声を上げる。
「あのな!」「捨てられたんやない、うちがあんたらを捨てたんや」
このセリフが良い。
まず考えたいのが、これがセリフは嘘つきという脚本原則の応用であること。
少し小見出しから離れて、第1週目全体のタイトルは「うちはかわいそうなんかちゃう」なのだが、劇中で千代がそのまんま口に出すシーンがある。
でも、どう考えても千代はかわいそうな女の子だ。テルヲがやることは理不尽で、世話に追われて話の途中までは学校にもいけなかった。
つまり、本当はかわいそうだし、本人もそう思ってるだろうけれど、「かわいそうなんかちゃう」と言っているのだ。
だが、「うちがあんたらを捨てたんや」のシーンは違う。
セリフは嘘つきという原則を生かした「かわいそうなんかちゃう」という前フリがあっての、セリフがホントの「うちがあんたらを捨てたんや」があるのだ。
こうなると、「かわいそうなんかちゃう」と「うちがあんたらを捨てたんや」を比較したくなる。
一つ言えるのは、「かわいそうなんかちゃう」は反論であり、「うちがあんたらを捨てたんや」は主張であるということだ。
第1週目の千代は、襲ってくる理不尽に対して常に反論していく。すなわち、リアクション芸人。よく見ると、彼女から主張することはない。
でも、「うちがあんたらを捨てたんや」は違う。千代は自分からテルヲに「捨てた」と主張している。
第1週目の最後の最後で、ようやく自分の主張をもってして、毒親と決別する。最高じゃないですか。『半沢直樹』の八津さんらしい展開だ。
さきほど言った通り、千代は利発で攻撃的に見えるが、ひたすら受け身な少女なのだ。
やはり千代は、かつて最愛の母親と繋がっていた「父親」という存在を信じて我慢していたのだろう。そこには、子供は親に忠実であれという「考」の思想の延長みたいなモノもベースにあったのだとも思う。「父親」という存在は絶対的に信じられる人である、尊敬できるはずである。ましてや、最愛の母が選んだ人なのだから。
そうなると、「うちがあんたらを捨てたんや」というセリフも重みが増す。そういった父親への思いを完全に捨てるという宣言になるのだから。
これは、現実世界で近年増加している児童虐待が念頭にあるのだと思う。
テルヲは、他作品でいえば「男はつらいよ」の寅さん、朝ドラなら「とと姉ちゃん」の鉄郎おじさんが相当する。そういったキャラはたいてい、「面倒くさいけど、なんだかんだいい人」みたいなポジションに落ち着いてしまう。
だが、「おちょやん」はそういった甘えを許さない。徹底的にテルヲを悪役として描く。それも、単純でない、やけにリアルな感触の悪役として。
家父長主義の否定というテーマは『スカーレット』からあったけれど、『おちょやん』は決定的。「なんだかんだ家族って大事だよね」みたいな価値観から離れられなかった朝ドラも、社会の変化に対して影響を受けているのだ。
次に、セリフの「あんたら……」という部分。「あんたら」って誰ですか?
ひょっとしたら、クリちゃんのことを含んでいるのかもしれない。でも、俺は、あの村の中に存在するシステムを「あんたら」だと言う風に受け取った。
親の愛という曖昧な物に頼って、それが崩れた時に救うためのシステムを用意しない村。
千代たちに良い顔はするが、決して深入りはしない。というより、出来ない。
例えば、ヨシヲが失踪した時、テルヲに責任転嫁されて激怒した女。
例えば、テルヲが口減らしを提案された際に言った言葉「そんなんしたら周りの家がどう思うか」
そこで視聴者としては思う。
あぁ、「あんたら」ね。やっぱり千代もあいつらの事おかしいと思っていたんだ、と。
この「村」=「あんたら」は、=「現代の我々」でもあるわけだ。我々だって、千代を見捨ててないか? 逆に千代に見捨てられる大人になってはいないか?
ここまで来ると、物語のテーマがさらに先に進む。「おちょやん世界でも現実世界でも、毒親の子どもを誰が救うのか?」
本メモで登場したのは「親」=「テルヲ」「市民」=「村民」。そうなると最後に思い浮かぶのは「行政」だと思う。
ここで、「行政」=「小学校の玉井先生」という立場を指摘したい。
千代が玉井先生に奉公に行くことを伝えるシーンでは、千代は「自分は普通の子みたいになられへん」と普通でないことを嘆く。
しかし玉井先生は「それで、ええと思いますよ。むしろ、普通の子なんていません。いろんな子がいて、みんなそれぞれ頑張っているんです。しいていえば、それが普通です。竹井さんは学校に行くことができなくても、それが普通ですよ」と声をかける。
千代が去った後、カメラはその場に残りしばらく玉井先生を捉える。なんとも無力感に満ちた表情をしている。本当は学校に行かせたいと思っているが、千代を救うためのシステムがない。行政の敗北を、いち職員として実感している顔にほかならない。
我々の行政はどうか? 子どもたちを救えるためのシステムが用意できているか? これもまた現代の我々への問いかけに他ならない。
しかし、第1週目で千代を唯一救えた人がいる。亡くなった母親だ。
彼女の忘れ形見であるビー玉のおかげで、鶏を売ることができたシーンは象徴的だ。
(ちなみに、この「ビー玉=月」「千代=かぐや姫」と竹取物語に重ね合わせた比喩も複雑で、読み解くと大層美しいのだが、筆者が疲れてきたのでカットする)
第1週目では、千代が形見のビー玉を手に取って夜空の月に重ね合わせるシーンが度々ある。かぐや姫が月に帰るように、千代もいつか月に行ってしまうようにも思えてしまう。月とは一体何なのか。もしかすると、母親が待っている冥府の世界なのではないか。
近所の子供・勝太が「お前、死ぬのか」と言った時は、朝ドラにも関わらず少しドキッとした。
このメモだけでは第1週目は語り尽くせない。もう第1週時点でお腹いっぱいである。
だが、第2週目からは杉咲花も登場し、ますます盛り上がりを見せていく。きりがないので、本メモはこの辺でおしまいとする。
novak777 父親がクズで娘がしっかり者といえばじゃりン子チエ。千代の「うちはかわいそうなんかちゃう」は、チエちゃんの「うちは日本一不幸な少女や」と対照的なように思った。
天才現る。
・竹本ヨシ江(妻) → 竹井ヨシヲ(弟)
どうみても元ネタです。本当にありがとうございました。確かに、じゃりン子チエを裏返したようなテーマになるね。いやー、すげえ。
そもそも論として、何かの失敗作を100円でうっている。ではなくて、100円の品質を狙って作ったと思っている段階でおわってる。
1000円のハサミを作ろうとして、できた、検品落ちを100円で売っているだけ。だからどうやっても1000円にはならない。
世の中には100均はさみのクオリティで文房具屋価格で売れると夢見る人がいるのです。
だったら100均で売ってないようなものを作ったほうがいいよね。少なくとも今そういう仕事があるなら捨てないほうがいいよね。
そういう話です。
マンション購入時の財テクの記事が目に入ったので、もうちょっと郊外に住む前提で、某ハウスメーカーで家を建てたときに何を考えて、どんな手順を踏んだかをここにメモしておきたい。ただし門外漢なので、間違っていることもあるかもしれない。でもま、親戚にいる現職の大工に大筋いい見立てと言ってもらえたのでそんなに間違ってもいないと考えている。
じっくり検討・契約する前提で、さくさく進めたい人には向いていないやり方かもしれない。子供が小学校にあがる春までには入居したいと考えていたが、その2年以上前から動いていた。現在は居住してもうすぐX年目。
近所のハウスメーカーに行ったり、不動産屋的なところをのぞいたりしてみたが、結果的に総合住宅展示場をぶらぶらしてあっちを見て、とするのがよかった。まだふんわりしている段階なので、ハウスメーカーとしての特徴とか比較するポイントとか教えて欲しい、という話をしているのに、不動産屋を紹介しだして速攻で決めさせようとする営業がいるところは速攻でお断りした。妙な営業に出会ってしまったことで、こちらの要望にそうように、丁寧に接客してくれる担当者がつく、を前提に、住宅展示場内のハウスメーカーを候補にしようと妻と相談。だいたい初回はモデルハウスの設備案内して、希望する家の大きさ、間取りなんかから、イメージが膨らむような話をしてくれるケースが多いと感じた。そのあたりの対応を見ながら、以下整理した方針
−− フロントで細々した要望を聞いてくれるのは営業担当で、コミュニケーションが多層化するように感じた。機能性より、オシャレな家を目指したい人はいいのかもしれないが、住宅設計にも流行廃りがあり、そのサイクルより居住期間の方が長くなりそうなので、機能性を重視するために決めた方針。
− 要望に対して、適切な指摘があるかどうか
−− たとえば吹き抜けの場合、冷暖房の効率は落ちる。開放感と引き換えに犠牲も増えるわけで、そういうデメリットを提示できる担当者かどうか。これは担当者の知見と資質の両方が必要だと思うので、この視点で見ていったとき、若手担当がついたハウスメーカーは選択肢から消えていった。営業と話した翌週に「すいません社内レビューでこういった問題の可能性が……」と提示してきた会社には感心した。
− スケールメリットを一定出せる程度の建築実績があるのかどうか
−− 話を聞いていくと、だいたいどのハウスメーカーもプレカットで、工場で加工した木材をくみ上げる形式だった。そうすると建具も必然規格品を入れることになる(そしてLIXILのすごさを知った、なんでも作ってるのねあそこ)。その場合、一定の実績がある方が品質・価格の面で安定するだろうと考え、年間建築件数の多寡を参考にいれることにした。
−− 最後に現場で仕事するのは大工になるので該当地域に腕のいい職人がいるのか、腕のいい職人がいるのかを確認したかった。ただこれは完全に運もあると思う。担当者に前述の質問をぶつけて、職人の腕について曖昧な回答しかできないところを除外した。
− 安定性
−− 逃げられるとかはあまり無いかと思いながらも念のため、と思い最終候補に残ったところは上司に相談してFORCASを使わせてもらって調査した。上場してるところは一応直近一棟あたりの営業利益などもざっくり確認。決算タイミングに契約すればおまけあるかもということも考えて決算月もメモ。
結果として自分でも納得感のある家ができたので、とてもよかった。問題に感じるのはコンセントもうちょっと増やしてもよかったかな、と思うぐらい。これはまぁそのうちやろうと思う。
上記をそれなりに満たそうとすると必然的に大手の1,2社になると思う。あとは好き嫌いで基準変えればいいのと、担当者ガチャはそこそこあるな、と思う。
自分と同じでとかではないんだよな
被っているわけでもない真逆の感情に触れて自分の感情が反転するから情緒大丈夫か?ってなる
たとえば
↓
誰か「Aメーカーは猫の扱いがひどい。悲しい」
↓
ワイ「(たしかにせっかく買ったのにこんな感じだったら辛いな)」
↓
ワイ「Aメーカーは良くない」 ← 移ってる
自分がいいと思ったのは犬で犬が良ければなにも問題はないはずなんだが
もちろん、上記は適当に犬と猫に置き換えただけで企業倫理・社会的なモラルに反する話でも、
品質や安全性に不安を覚える話でもないよ。クッソどうでもいい話
誰かは誰かで知ってる人かも知れないし知らない人かも知れない
誰が言ったかはあまり影響しないし他者の共感を得てるかどうかも影響しない
影響するのは「悲しい🥺」「嬉しい😃」って感情に自分が“せやな”って思うところがあったかどうか