はてなキーワード: 動脈とは
>「首や胸、腕などかなりの数、刺されていた。現場はまさに血の海状態で、ほぼ即死状態」(捜査関係者)
具体的に「事後何分以内」などという定義があるわけではないが、よく言われるように「瞬間に死ぬ」と言うことは現実にはありえず(何らかのプロセスを辿るには、多かれ少なかれ時間を要する)、肉体が致死的な損傷を受けることにより短時間の間に死んだことを「即死する」と言っている。
例えば交通事故により大腿骨を損傷、大腿動脈を破損した場合、激しく出血をして、大方1分以内に失血死する。これらを大抵「交通事故により即死した」と言うが、この場合でも、激しい出血によるショック状態、そしてそれに伴う意識喪失、連続した血圧低下など様々なプロセスを経ているため、決して「瞬間に」死んでいるわけではない。
フェミの正体みたりって感じだな
あなたたちの求めて戦った民主の力は我々日本・台湾・欧州・アメリカ・オーストラリア・インドが引き継ぎます
「天安門」元リーダーがNYで惨殺…犯人の女性に中国の“刺客”説が浮上
天安門事件」の学生リーダーのひとりだった弁護士・李進進Photo: 対話中国(Dialogue China Think Tank)
Photo: 対話中国(Dialogue China Think Tank)
1989年の「天安門事件」につながる民主化運動の中で学生リーダーのひとりだった弁護士が白昼のニューヨークで惨殺された。犯人の女は現行犯逮捕されたが、不可解な動機や言動から、北京から刺客としてニューヨークへ放たれたのではないかと疑う者も多い。
22ヵ月間投獄され、亡命
「天安門事件」の学生リーダーのひとりだった弁護士・李進進(リィ・ジンジン、米国名ジム・リー、66)が、3月14日正午前、米ニューヨークのクイーンズ区・フラッシング39番街にあるビル4階の事務所で刺殺された。享年66だった。
当日、李進進の事務所には、3日前に来訪したばかりの中国人女性・張暁寧(ヂャン・シァオニン、25)がケーキを持参し訪れた。11時44分ごろ張は突然、「今日は法律の用件で来たわけではない」と言いつつ李の背後から彼の首を片腕で強くロックし、コートの内ポケットから素早くナイフを取り出して、ためらい無く李の頸動脈を一撃。続けて頸部、胸部、腹部をメッタ刺しにした。
目撃者によると、張は素早くナイフを取り出しためらい無く頸動脈を一撃したことから、相応の訓練を受けたとみられる。
瀕死の李はニューヨーク・プレスビティリアン・クイーンズ病院に搬送されたが、12時8分に出血多量で死亡が確認された。
湖北省武漢市生まれの李進進は1970年、15歳で中国人民解放軍に入隊し、除隊後、文民警察組織の中華人民共和国人民警察に勤務。1979年、湖北財経学院(現・中南財経政法大学)に入学し、のち北京大学の博士課程で学ぶ。
1989年の「天安門事件」期間中はデモで重要な役割を果たした労働者団体・北京工人自治連合会の法律顧問を務めた。同年6月4日に人民解放軍が天安門広場のデモ隊を虐殺したあとは故郷の武漢へ逃げ帰るが、人民を煽動した容疑で逮捕され、22ヵ月間投獄される。
釈放後は起訴を免れ、1993年に渡米。コロンビア大学、ウィスコンシン大学で学び、レストランで下働きしつつ法学博士号を取得。卒業後、ニューヨーク州で弁護士資格を取得した。
犯人の張暁寧は現行犯逮捕された。張は1997年河北省邯鄲市生まれで、北京の大学で学び、2021年8月下旬にF-1学生ビザで米国に入国。渡米直後の2021年9月14日、国連通常総会の開会日当日に張は、国連本部の外でプラカードを持ち、北京市内の精神病院に強制入院させられたことを非難し、彼女をレイプした北京市公安局の警官を厳罰に処すよう訴えるデモンストレーションを繰り返した。
国連本部の外で通常総会当日にプラカードを持ちデモンストレーションをする張
国連本部の外で通常総会当日にプラカードを持ちデモンストレーションをする張
その後、李の存在を知った張は、李が法的な手助けをしてくれるものと期待し、3月11日、李の事務所を訪れた。
李の親友弁護士・朱偉は「後の祭りだが、李進進はあの女に関わるべきではなかった。11日に事務所に来た女は泣きながら、数日前に米国移民帰化局(BCIS)の移民面接に落ち、貧しく無一文同然で、中国で警官にレイプをされたと訴え、庇護を求めた。李は心優しい男。彼女を無償で助けるつもりでいた。あとで女は李に、自分から受信したメールを全部削除しろと要求したが、彼は削除しなかったようだ」と悔しがった。
李進進弁護士事務所向かいの保険会社職員は11日の凶行について、「たまたま開いていたドアから事務所内を見たところ、女性が興奮して、物凄い形相で李弁護士に詰め寄っていた。李弁護士はとても物腰の柔らかな紳士で、事務所の女性職員が慌てて、興奮している女性を彼から引き離した」
「李弁護士が静かに『オフィスで騒がないで。必要なら一緒に警察へ行ってあげましょう』と話すと、女性はその3倍を言い返していた。暴力的な態度で大騒ぎするのを見かねた職員が警察に通報したため、警官が2人来た。李弁護士が警官に、大丈夫だから彼女を逮捕しないでと言うと、女性はそのまま逃げるように事務所を立ち去った」
天安門事件が起きた1989年当時、中国人民解放軍の女性記者だった江林 Photo: The New York Times天安門事件から30年目の初証言──元「人民解放軍・女性記者」が見た“地獄”
カメラの前で逆上
張暁寧は殺人罪で起訴され、3月14日19時37分、警察官によってニューヨーク市警察第109分署から勾留先に移送された。その際、「なぜ殺したのか?」「悔いてはいないのか?」などメディアから中国語で問われた張は激昂しながら、叫んだ。
「後悔なんかしてねーーわッ!」
「後悔しているとしたらお前らの裏切りだ! 中国人なのに反共産主義者を叫びやがって!」
「おまえらは無数の学生を傷つけてきたのに、まだ学生を傷つけるのか!」
【#中国】
米国に住む中国出身の女性、张晓宁 が、天安門学生運動の指導者であった李进进氏(66歳)をナイフで殺害。女性は「おまえらは中国人でありながら、中国共産党に背いている!」と叫んでいる。
米国に住んでいてもこれか。共産党の洗脳、恐ろしすぎる…????
— NEKO????⬛????????????????⬛????????????????⬛ (@usapepe) March 16, 2022
在米華人メディアへの敵視発言から、張暁寧が中国共産党の熱烈な支持者ということが明らかになった。そして留学生である自身は、思うような庇護が与えられない被害者というスタンスだ。
だが、計画的に成人男性を刺殺するような根性の据わった女が、自身をレイプしたという中国警官ではなく、たった一度しか会ったことのない弁護士を刺し殺すというのは説得力に欠ける。
張は学生ビザで渡米したが、これまで一度も通学した形跡が無い。そもそも新型コロナウイルスが蔓延している時期に、中国当局は一般人民の出国許可は出さない。
張は李進進の前に、在米民主団体の中国民主人権連盟に、中国のニューヨーク総領事館から警告があり、圧力を受けていると語り、庇護を求めたという。
殺人罪と銃刀法違反で起訴された張暁寧は3月18日、クイーンズ区刑事裁判所に初出廷する予定だったが、精神不安定を理由に出廷を拒否した。地元紙によると、最高25年の実刑判決か終身刑が科される可能性があるという。
李進進はこれまで、中国政府に迫害されて来た多くの中国人を助けて来た。経済的に困窮している移民からはいかなる代金も受け取らなかったという。筆者にはこの李自身の同胞への献身が命取りの引き金になったような気がする。
北京・中央美術学院の学生によって天安門広場に建てられた「民主の女神」像(1989年6月1日撮影)天安門事件を風化させたい中国共産党─追悼日直前に香港の記念館が休館した背景とは
李進進は、「天網行動」「猟狐行動」(海外逃亡中の知能犯や経済犯の逮捕と不正取得された資産を没収する中国政府の特別捜査キャンペーン)のターゲットになったり、指名手配されたりした人民に米国での法的保護を提供してきた。
特権を利用して実際に不正蓄財や収賄した党員、公務員、汚職事件容疑者などの国外逃亡者が逮捕されるのはともかく、「天網行動」「猟狐行動」は、中国政府の意に沿わない経営者、弁護士、学者、研究者、作家、ジャーナリスト、NGO(非政府組織)関係者、アーティストなどの罪をでっちあげて中国に強制送還する口実にも使われているからだ。李もたびたび「『天網~』『猟狐~』は反腐敗運動ではなく、反体制弾圧の手段」と批判してきた。
李進進は、2008年に中国当局に香港で逮捕され、金融詐欺罪で起訴された「天安門事件」の学生リーダーのひとり、周永潤(ヂョウ・ヨンルン、55)の弁護を担当した。
また、中国政府が政敵を逮捕するために、 国際刑事警察機構(インターポール)が加盟国の申請に応じて発行する国際手配書「レッド・ノーティス」を濫用することに反対していた。
中国で逮捕状が出ている被疑者などについて人物を特定し、海外で発見し次第、中国へ強制送還するよう要請できるものだからだ。
「李進進が“天安門”の元リーダーだから殺された」という憶測は的外れだろう。今年は「天安門事件」から33年。当時、民主化へのうねりを作った学生運動リーダーたちは既に政治的影響力を持たず、中国共産党の脅威ではない。
今になって李進進が「消された」とすれば、「33年前のリーダー」だったからではなく、習近平政権が本気で取り組んでいるキャンペーン「天網行動」「猟狐行動」を邪魔する存在とされたからにほかならないからだろう。
在米弁護士仲間は、李が弁護活動中に得た中国共産党の特務(諜報・謀略・秘密機関)の活動資料を米連邦捜査局(FBI)に提出するのを阻止するために殺したと疑っている。
李進進が惨殺された2日後の3月16日、米司法省は、中国の情報機関、国家安全部の指示を受けて米国在住反体制派中国人に監視や嫌がらせを行っていたスパイ容疑で王書軍、劉藩、林啓明、孫強、マシュー・ツブリスの5人を逮捕し、起訴したと発表した。
暗殺犯の張暁寧は、北京で特務の訓練を受けた捨て駒の刺客だろう。渡米後の反中パフォーマンスやテレビカメラの前の支離滅裂な絶叫は、精神に異常があることを印象づけるための演技と思われる。
李進進の葬儀は事務所近くのチュンフック葬儀場で27日午後に挙行される。関係者は既に、FBIに対し、李殺害事件の捜査を要請した。FBIの捜査によって、李進進が「消された」真相は明らかになるのだろうか。(Text By Jun Tanaka)
萩原京平が弥益聡志に負けた。
RIZINという格闘技の興行の話。3月20日のRIZIN.34のメインイベント。弥益の三角締めが入り萩原がタップアウトという、俺のような素人から見ても鮮やかな決着だった。
俺は萩原が好きなんだけど(弥益も好きです)、それはこの選手が抱えている「ストーリー」がすごく危うく、もろく見えるからという結構残酷な理由によるもので、そのストーリーの芽が、完全に今日ぽっきりいったように見えたので書いておく。
萩原は一昨年の年末、平本蓮という元K-1のチャンピオンの総合格闘技デビュー戦の相手となり、平本を完封して勝利した。試合後には、「平本の名声をごっそりいただいた」というビッグマウスと野心丸出しのマイクパーフォーマンスをしており、Youtubeで視聴できる。
当時の下馬評がどうだったかはよくわからないが、萩原がどうとかより、打撃では王者だった平本が総合でどこまでやれるのか、というところに注目が集まっていた部分も大きかったのではないかと思う。
それを萩原本人が言うとおり、周囲の関心を丸ごと奪い取って自分のものにしてみせたのだ。事実、俺もそこで萩原の存在を知ってフォローするようになった。
その後、10ヶ月の期間をはさんで、RIZINの看板選手である朝倉未来の対戦相手、しかも従来のRIZIN〇〇(数字が入る)とは別に立ち上げられた、新シリーズのメインイベンターに選ばれる。
大抜擢、と言っていいと思うが、話題性という意味では最高のカードだったと思う。
対戦相手である朝倉はこの時点で常勝にやや陰りが見えていて、特に直前の対戦では動脈を決められて落とされ失神した姿をさらすという、衝撃の負け方をしていた。このとき、めちゃくちゃ強い王者であるうえに頭もいいという漫画のキャラクターのようだった朝倉に、「どちらかというと格闘技よりもYoutubeでの露出に注力している、昔はギラついてたけどいまは落ち着いたビジネスマン」的な、かなり緊張感の失せた像がダブり始めていた気がする。
一方の萩原は平本を倒してイケイケのギラギラだった。「今回の試合では(朝倉の前の試合より)もっとグロいものをみんなに見てもらいます」とさえ言い放つ。
双方ともにアンダーグラウンドの匂いをまとい、いわゆる「華」のあるファイターであるのは共通しているが、お互いの下り調子と上り調子はくっきり分かれていた。
実力差で言えば、正直朝倉がはるかに上だったと思うが、「何か起きるかも」という雰囲気は出まくっており、新しいスターが誕生するのでは(そして、朝倉が完全に下野するのでは)という残酷な好奇心が、界隈にかなり満ちていた気がする。
俺は思うのだけど、萩原という選手は、ここで何かの間違いで朝倉に勝つしかなかったのではないかと思う。
この対戦カードは表面上、負ければ後がないのは朝倉として描かれていたと思うが、実際に「残機」がないのは萩原の方だったのではないか。残機というか、「ストーリー」に遊びが残っているというか、なんというのかな…。
萩原はこの後勝利を二つ重ねたが、今日の対戦で弥益聡志に敗れた。
ここで、何かの命運が決定的に尽きてしまった気がする。
ただ、それが何なのか、うまく言えない。
フェザー級である萩原は、ここから再び復調して、いつかこの階級のチャンピオンになるかもしれない。その可能性まで断たれたわけではないと思う。
しかし、今日の対戦で戦績は6勝5敗。これからも「何かやりそう」なキャラクターは生き続けるかもしれないが、常勝というイメージにはほど遠いし、たぶん二度と手に入らないだろう。
なんというのか、ざっくり言うと規格外のスーパースター、もう少し詳しく定義すると、対戦相手が誰とか関係なく、本人の一挙手一投足だけで話題が足りてしまう圧倒的な存在感、そういうものを身に着けた選手になるとしたら、萩原は朝倉との対戦で、うっかり勝つというルートしか、実はなかったのではないかな、という気がしてならない。
萩原は実は、朝倉との対戦時からそういう危うさが見え隠れしていて、そこがすごく魅力的な選手だった。残酷だという自覚はあるけど、そういうのを楽しんで見ていた。
肉切り包丁では、ミリ単位で同じ厚さに切るとか、骨と皮の境目を切るとか、
日本刀では、相手の体の筋なり動脈をどこか一カ所斬れれば、(あるいは、突ければ)それで十分なのだ。
肉切り包丁では、鉄の鎧の上から骨を砕くようなことはしないし、
日本刀では、豚の皮の表面の毛を剃り落としたりはしない。
ここまで用途が違うものを、豚を切れば分かるとか、日本刀は斬れないとか言い張るのは、
借金玉氏にとって、人肉とは食べ物であり、日本刀で人を切るのは料理するための処理だと勘違いしているのではないかと思えてきた。
カニバリズム(人肉食)は決して珍しいものではないし、その昔、佐川一政は自著の中で、女生徒の肉の味を「まったり」と「おいしい」と評したという。
私は父が大嫌いでした。
末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族で旅行に行ったのもベビーカーで東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。
誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りのアンパンマンのケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコか競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。
そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初は日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテルの厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。
なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉のサポートも無く、余裕がないから我慢するしかないと言われ続けました。
そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立の二次募集も落ちました。父からは私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!と喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)
そして在学中のバイト代は完全母管理。バイト代を自身のお小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。
やってきました修学旅行。私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。
ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いからお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所に遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。
その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます。奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式の振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。
なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。
今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています。
30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。
父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。
最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生。
何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。
あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います。天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。
母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。
医師だけど、死因が大動脈破裂によるものならすぐ救急車呼べてもかなり分の悪い賭けになるから見殺しにしたなんて思わなくていい
病院で大動脈破裂のリスクがあるとわかった上で、すぐ対応できてようやく救命しようがあるぐらいなのだから、無責任なことを言うが気に病むな
私は父が大嫌いでした。
末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族で旅行に行ったのもベビーカーで東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。
誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りのアンパンマンのケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコか競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。
そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初は日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテルの厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。
なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉のサポートも無く、余裕がないから我慢するしかないと言われ続けました。
そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立の二次募集も落ちました。父からは私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!と喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)
そして在学中のバイト代は完全母管理。バイト代を自身のお小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。
やってきました修学旅行。私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。
ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いからお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所に遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。
その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます。奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式の振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。
なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。
今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています。
30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。
父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。
最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生。
何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。
あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います。天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。
母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。
私の人生の中で、厳密な意味で「推しが死んだ」ことはなかった。別作品の性癖56000%の推しはサーヴァントで、知らない人向けに言うと一種の妖精のような存在だった。作中で命絶たれても、彼は別のところに確在している。死んでもあら死んだワと言う感じだった。
今回はそれとは違う。
血の気が引いた。嘘であってほしいと願った。呼吸が浅く早くなるのを感じた。しかし、彼の物語は終わった。
その時彼は本誌で殺し合いをしていた。しかし、超人気かつ最重要キャラとの本気の殺し合いで勝てるわけがなかった。彼は銃で撃たれた。その位置がかなり悪かった。肝臓だ。肝臓は動脈がたくさん通っており、下手に傷を負うと大出血するらしい。彼は死に近づいた。
しかしせいぜい「死に近づいた」ぐらいでは、この漫画中で人は死なない。貫通するような刺し傷を負っても、すぐにピンピンしている。肝臓を撃たれたぐらいでは死ぬかはわからない。私は次号の展開を待った。
彼は、胸のド真ん中を撃ち抜かれた。血飛沫が舞っていた。100人が見れば100人が「あ、死んだな」と思ったことだろう。そのコマを見た時、くらりと視界が白くなった。血圧が下がった。
最終的に、尊敬・盲愛・狂信する上司に抱き抱えられながら彼は息絶えた。彼にとっては満ち足りた百点満点の終わり方だろう。亡き我が子を見送る聖母のポーズで、彼は送られた。抱き抱えられながら彼は上司から欲しかった言葉をもらって笑みを浮かべながら亡くなった。最終盤は混戦になるだろうから、丁寧に看取ってもらってもらえてよかったなあと思いつつも尚も悲しく、私は小一時間ほど泣き続けた。
が、脳みそ欠けたり猛毒を飲んだり爆弾で吹き飛んだりした連中は死んでないのに、なんで推しだけが死なないといけないんだ。
彼にはまともな倫理観がなかったから、いずれ死ぬとは思っていた。思えば急に過去回想したりメインになって行動したりと着々と死ぬ準備が整ってる節がなくはなかった。
しかし私にとって急すぎた。好きになってから死を察知するまでは3日。そしてそこから7日経って推しは死んだ。
そして、彼が舞台から降りたのちも物語は進み、ついに最終章を迎えた。しかしそこに彼はいない。結末に彼の姿がないことが、私は悲しくてならない。
頸動脈に歯型ついてるで?
例えば夕食の余りを弁当に詰めるように。
吹き出した血が、びしゃびしゃと跳ねた。
それがどうにも見慣れた光景に見えたから、私はただぼんやりと見つめる。
倒れ伏したあなたの傷口からは絶えず血液が流れ出して、床をてらてら光らせた。
おそらくは救急車を呼んだ方がいい。
先に死んだあなた達はすっかり身を固くして、冷たく横たわっている。
錆びた蝶番が僅かにきしむ音。ドアが開く。
次のあなたが来た。
あなたが言う。
正直なところ、私は随分あなたの死に慣れてきてしまっているけれど。
それを言うとあなたは傷付くだろう。
「こんなに次々死なれてはね」
あなたは私に心中を求めている。 私の自由意志からなる心中を。
一番最初にあなたが死んだ時は、確かに死んでしまいたいほどの衝撃があった。
しかしこんな風に次々にあなたがやってくるものだから、どうにも感情の置き場がない。
「困ったな」
あなたは言う。本当に困っていそうな顔で。
「話し合いで解決できないことはあるけれど」
ポットに湯を注ぐ。ティーバックを放り込む。
そのままテーブルに置く。
「そうだね、そうかも」
椅子の足が床に擦れる音。
「話し合いで解決できないことはあるけれど」
あなたは私の目を見て、頷く。
映画が好きだった。いや、大好きだった。
こんな事を言ったら蓮實重彦に怒られそうだ。でも、有村昆なら許してくれそう。
本当に映画が大好きだった。
映画館には年に百回以上行っていた。TOHOシネマズ、イオンシネマ、ユーロースペース、シネマカリテ、ギンレイホール、シネマヴェーラ、新文芸坐、早稲田松竹、地域の映画上映会……。
コロナ禍になってからは行ける機会がほぼなくなった。そして、映画館の経営危機のニュース。SAVE the CINEMA の募金が始まったらすぐに入金した。世界が元に戻ったら、毎日のように映画館に通おう。そう思っていた。
2日程度で終わると言われたが、私の場合は終わらなかった。どんどん悪くなっていき、事前に言われてた副反応以外の事が起こり続けた。
たまたまだろうと気楽に放置していたが、放置すればするほど悪くなった。1ヶ月目あたりから色々な医者に診てもらったが何もわからない。やがて、通院すら厳しい体調になった。家でほぼ寝たきりの生活。
それぐらいから初めてネットで調べた。本当に珍しいようだが、私のような人が相当数いるらしかった。みんな困っていた。診てくれる病院が無い。
どうやら最悪のくじを引いてしまったらしい。
ずっと映画のことを考えていた。
接種直後から首と肩の激痛が始まって「これじゃ映画館には行けないな」と思った。
九月の終わりには自宅ですら映画が観れなくなった。5分ほどで強い症状が出てきたからだ。どうやら映画はかなりの負担がかかるようで「二度と映画は観れないかもしれない」と思った。
それから映画を観なかった。何度も試して、身体の反応と映画が結びついてトラウマになるのが怖かった。
4ヶ月が経ち、いろいろな出会いがあった。
いくつかの症状は対症療法で苦痛が抑えられる事もわかった。ほぼ寝たきりに変わりはないが、症状をコントロールするための武器が増えた。
ふと、ネットフリックスを見る。
『チック、チック…ブーン!』が配信されている。ずっと気になっていたミュージカル映画。『RENT』を作ったジョナサン・ラーソンの自伝的舞台が原作だ。
ラーソン自身は35歳で早逝している。大動脈解離による急死。ウィキによると、正しく診断されていれば亡くなっていなかっただろうと書いてある。妙な親近感を覚えてしまう。
テレビからドゥーンという音が鳴る。懐かしいネットフリックスのSE。
手元のApple Watchを見る。心拍数は安定している。
映画が始まる。
これは持論だが、テレビやラジオと映画の大きな違いは「出演者のカメラへの意識」だ。もちろん、映画であろうと演者はカメラを意識している。だが、原則として「俳優がカメラを意識していないように見えている事」がその良し悪しに直結する。テレビやラジオはその点がもっと緩いのだ。多くの映画監督が「俳優は演技しなくてよい」と言っているが、これはある種逆で映画観客こそが「演技をしない俳優」を求めているのだ。
妙なこだわりを吐露してしまったが、要は映画独特の演技をしている人間を久しぶりに見ることができたのだ。
それだけで嬉しかった。喜怒哀楽を揺さぶるシーンでもないのに涙が流れる。流れ続ける。
手元のApple Watchの心拍数を見る。心拍数は安定している。
物語は続いていた。
『チック、チック…ブーン!』は90年代のニューヨークを舞台にしたミュージカル。美しいメロディとウィットに富んだ詞、そして優しい物語。
主人公の三十路前のジョナサンはミュージカル作曲家を夢見ており、彼の周囲には貧しい芸術家たちがいた。ダンサーの恋人、LGBTの広告マン、そしてHIVの友達。
HIVなので「やあ、今日のT細胞は順調だったよ」なんて会話が出てくる。ああ、似たような会話、今日SNSでもやったなあ。
観ている間、ずっと涙が止まらなかった。
観終わった後、鋭い眼痛とやや強い頭痛が長時間続いたが、幸いにもひと眠りしたら収まった。どうやら通して観るにはまだ早いらしい。
それから週に1回だけ、30分おきに休憩を入れながら映画を観るようになった。
途中で止めるなんて、以前の私なら映画への侮辱だと思っていたかもしれない。
でも、いいじゃないか。
ラーソンのミュージカル『RENT』に「SEASONS OF LOVE」という歌がある。
歌詞がなかなか興味深い。
525,600分、この人生における一年分の時間を人はどうやって測るんだろう?というような内容だ。
歌にはいろんな単位が出てくる。コーヒーを淹れた回数、笑った回数、喧嘩した回数。
自分も思い浮かべてみる。
Suicaを改札にかざす回数。
上司に怒られる回数。
後輩に冗談を飛ばす回数。
朝の散歩で澄んだ外気を吸い込む回数。
映画館に行く回数。
8月を境に数えられなくなったものがたくさんある。
何で測ればいいんだろう。何で測れば救われるのだろう。
でも、いい言葉だと思った。
例えまったく外出できなくても、これから何かを、誰かを愛する事は出来る。
そして、こうなってしまってから助けられた、たくさんの愛を数える事ができる。
決して今までの人生に負けてない。