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2023-10-18

校名に「館」が付く高校の「館が付いた校名になった年」を調べてみた

anond:20231017163450

校名都道府県
1874年興譲館高等学校岡山県
1885年福岡県立修猷館高等学校福岡県
1886年福岡県立伝習館高等学校福岡県
1887年広島県立福山誠之館高等学校広島県
1887年長崎県立猶興館高等学校長崎県
1888年東京女学館高等学校東京都
1889年郁文館高等学校東京都
1894年広島県立日彰館高等学校広島県
1895年山形県立米沢興譲館高等学校山形県
1904年遊学館高等学校石川県
1913年立命館高等学校京都府
1948年愛知県立時習館高等学校愛知県
1963年皇學館高等学校三重県
1979年国学高等学校秋田県
1979年東京学館高等学校千葉県
1982年穎明館高等学校東京都
1983年志学高等部千葉県
1983年英数学館高等学校広島県
1983年鹿児島育英館高等学校鹿児島
1987年弘学館高等学校佐賀県
1988年佐賀県立致遠館高等学校佐賀県
1988年東明館高等学校佐賀県
1988年創成館高等学校長崎県
1990年志學館高等部鹿児島
1992年熊本県立湧心館高等学校熊本県
1993年山形県上山明新館高等学校山形県
1994年岡山学芸館高等学校岡山県
1994年如水館高等学校広島県
1994年佐賀県立高志館高等学校佐賀県
1996年楊志高等学校大分県
1997年尚志館高等学校鹿児島
1998年埼玉県立進修館高等学校埼玉県
1998年自修館中学校神奈川県
1998年浜松開誠館高等学校静岡県
1999年岡山市岡山後楽高等学校岡山県
1999年真颯館高等学校福岡県
2000年長野県塩尻志学高等学校長野県
2000年東林館高等学校広島県
2001年清林館高等学校愛知県
2001年熊本市立必由館高等学校熊本県
2001年秀岳館高等学校熊本県
2002年静岡県立富岳館高等学校静岡県
2002年天王寺学館高等学校大阪府
2002年兵庫県三田祥雲館高等学校兵庫県
2002年鹿児島修学館高等学校鹿児島
2003年横浜創学館高等学校神奈川県
2003年和歌山県立紀央館高等学校和歌山県
2004年武修館高等学校北海道
2004年和順館高等学校山形県
2004年福岡県立輝翔館中等教育学校福岡県
2005年新潟県立正徳館高等学校新潟県
2005年至学館高等学校愛知県
2005年福岡県門司大翔館高等学校福岡県
2005年福岡県立浮羽究真館高等学校福岡県
2005年福岡県福岡講倫館高等学校福岡県
2006年宮城県石巻好文館高等学校宮城県
2006年東京都立桜修館中等教育学校東京都
2007年長野県中野立志館高等学校長野県
2007年長野県丸子修学館高等学校長野県
2007年福岡県立育徳館高等学校福岡県
2007年鹿児島立川薩清修館高等学校鹿児島
2008年智学館中等教育学校茨城県
2008年神奈川県横浜修悠館高等学校神奈川県
2009年啓明学館高等学校愛知県
2009年大阪府立懐風館高等学校大阪府
2009年石見智翠館高等学校島根県
2009年福岡県公立古賀竟成館高等学校福岡県
2010年神奈川県相模向陽館高等学校神奈川県
2010年大分県立爽風館高等学校大分県
2010年鹿児島県立明桜館高等学校鹿児島
2014年山梨県立都留興譲館高等学校山梨県
2014年静岡県立清流館高等学校静岡県
2016年山形県東桜学館高等学校山形県
2016年滋賀県彦根翔西館高等学校滋賀県
2018年創学館高等学校山形県
2019年愛知県新城有教館高等学校愛知県
2021年山口県立山松風高等学校山口県
2022年福島県須賀川創英館高等学校福島県
2023年愛知県稲沢緑風館高等学校愛知県

注:創設年や前身校が曖昧だったりすることもあるのでそこそこ独断で決定している。

こうしてみると「ここ10年」というよりは1990年から増えはじめて2000年代に最盛期を迎えていたことがわかる。

これは「共学化」や「合併」で改名の機会が増えたことが一因であろうと思われる。

1990年代は高校数の増加が止まった時期であり、さら2000年からは減少に転じてもいる。

少子化に伴って、全国の高校が共学化や合併余儀なくされ、その際に「〇〇館高校」と改名したパターンが多いのである

古めかしい字面の「○○館高校」は江戸時代藩校私塾が源流にあることが多い。

もともと「○○館」という名の藩校私塾があって、それが紆余曲折を経て「○○館高校」になったものである

そうした高校は、必然的歴史が長く、地元では「伝統校」「名門校」と見なされている。

推測だが、そうした「伝統校」「名門校」のイメージを持たせるために「○○館高校」に改名したところも多いのではないか

「○○館高校」の数は県ごとに偏りがあり、特に福岡県鹿児島県・愛知県広島県山形県あたりで多いが、いずれの県にも古くから「○○館高校」がある。

それらの地元では何となく「○○館」にかっこよくて頭が良さそうなイメージがあるのかもしれない。

また、同じ県で近い時期に続けざまに公立の「○○館高校」が開校している例がまま見られる。単純に命名者が重複している可能性もある。

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派権力闘争である享禄の錯乱管領細川晴元一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文錯乱
1532年北部九州天文の乱大内氏大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前筑前肥前を平定した。
1533年稲村の変安房里見当主里見義豊が、叔父里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。
1536年花倉の乱駿河守護今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳勝利今川義元を名乗った。
1537年河東の乱北条氏今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏今川領に攻め込み河東地域占領した。
1542年天文の乱伊達当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。
1550年二階崩れの変豊後大名大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。
1551年大寧寺の変周防大名大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。
1565年永禄の変畿内勢力を誇る三好氏が、将軍足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。
1568年本庄繁長の乱越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。
1569年本圀寺の変本圀寺にいた将軍足利義昭三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。
1569年大内輝弘の乱九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防挙兵させた。毛利元就九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。
1570年元亀の変伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族粛清追放された。
1574年天正最上の乱出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。
1576年三瀬の変伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族粛清された。
1578年御館の乱上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。
1578年天正伊賀の乱伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。
1582本能寺の変織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺宿泊していた主君織田信長を襲撃した。信長自害した。
1582天正壬午の乱織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川北条上杉が三つ巴で争った。
1585年粟ノ巣の変伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。
1591年九戸政実の乱南部晴政の死去に起因する後継争いか南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。
1599年庄内の乱島津忠恒重臣伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。
1637年島原の乱島原天草苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍鎮圧された。
1651年慶安の変軍学者由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪自決した。
1652年承応の変軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。
1837年大塩平八郎の乱腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商失望した元・町与力大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日鎮圧された。
1837年生田万の乱国学者生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。
1860年桜田門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄引き起こし水戸藩を圧迫していた開国派の大老井伊直弼を襲撃し、暗殺した。
1862年坂下門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体推し進めていた開国派の老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。
1863年朔平門外の変破約攘夷派の公家代表格であった姉小路公知暗殺され、薩摩藩田中新兵衛逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相不明
1863年天誅組の変尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国挙兵したが、幕府鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。
1863年生野の変長州支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国挙兵をしたが、幕府鎮圧された。
1864年天狗党の乱水戸藩内の尊攘過激派天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山挙兵したが、幕府鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。
1864年禁門の変前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵会津藩薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。
1874年喰違の変征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。
1874年佐賀の乱征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族佐賀県挙兵したが、政府軍により鎮圧された。
1876年神風連の乱熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府熊本鎮台軍により鎮圧された。
1876年秋月の乱神風連の乱呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、政府小倉鎮台軍により鎮圧された。
1876年萩の乱神風連の乱呼応して、山口県で不平士族挙兵したが、政府広島鎮台軍により鎮圧された。
1877年福岡の変西南戦争呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。
1878年紀尾井坂の変石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。

Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)

明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。

〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺粛清・失脚など。権力上下関係ない。成功たか失敗したか関係ない。

〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功たか失敗したか関係ない。

こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍足利義教暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。

あとついでに。

〜の役:大規模な軍役。必然的辺境への遠征対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役後三年の役富山の役・文禄の役慶長の役など。

〜の陣:長期間の在陣。遠征戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。

という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。

2023-05-23

インディアンの偉大な英雄打線組んでみた

1.三 ポンティアック

2.二 リトル・タートル

3.捕 テカム

4.遊 オセオラ

5.中 レッドクラウド

6.一 シッティング・ブル、クレイジーホース

7.左 キャプテンジャック

8.右 ジョゼフ酋長

9.投 ジェロニモ

解説

ポンティアック

 五大湖周辺のオタワ族の酋長。元々フランス人交易を通じ友好な関係を築いていた。しかし、フレンチインディアン戦争イギリス勝利すると、情勢は変化する。フランスに変わり台頭したイギリス人は次々に入植し土地を奪う、一方的交易制限するなどの横暴に出る。これに脅威を感じたポンティアックオジブワ族、ポタワトミ族などの諸部族提携し、イギリスの一斉攻勢をしかける(ポンティアック戦争1763)。イギリス人の完全追放という目的には失敗したものの、大打撃を受けたイギリスは広大なインディアン保護区を制定するなどの大幅な妥協を強いられた。

・リトル・タートル

 北東部マイアミ族の酋長アメリカ独立戦争ではイギリス同盟し、フランス軍のオーギュスタン・ド・ラ=バル大佐戦死させるなど活躍した。戦後オタワ族、ショーニー族、レナペ族などと共に北西インディアン同盟を結成。イギリスとも結託し、北西インディアン戦争(1785~95)を戦った。1790年ハーマー作戦では250名以上の米兵戦死させる戦果を挙げ、更に翌年ウォバッシュ川の戦いでは包囲奇襲により米軍の死者600名以上、インディアンの死者20名程度という大勝利を収めた。これはインディアン戦争で最大の勝利であるしかし、フォールンティバーズの戦いで破れ、イギリスに見捨てられたため降伏、広大な土地割譲することになった。

・テカム

 北東部のショーニー族の戦士。北西インディアン戦争でショーニー族は敗れたショーニー族は抵抗意志を失っていた。しかし、テカムセは弟の預言者テンスクワタワと共に白人への抵抗運動を再開する。土地を守るために全インディアンの団結が必要であると考えた彼は各地を訪問し、インディアン部族連携を呼びかけた。1811年ティッペカヌーの戦いで米軍に敗れたが、その後も抵抗を諦めず、米英戦争ではイギリスと組んで米軍と戦う。デトロイドの戦いで勝利、メイグス砦包囲戦では攻略には失敗するも大損害を与えた。しかし、1813年テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は実現することなく幕を閉じた。

オセオラ

 フロリダ半島セミノール族の戦士アメリカフロリダからセミノール族を追放しようと3渡に渡る侵略戦争を仕掛ける。オセオラが活躍したのはその中でも最大規模の第二次セミノール戦争(1835~42)である。彼の指揮する巧みなゲリラ戦に苦しめられた米軍は37年和平交渉最中オセオラを捕らえ獄死させた。しかし、セミノール族の怒りは収らず戦争は続いた。第三次セミノール戦争でも米軍は苦戦した。セミノール族の一部はフロリダの奥地エバグレイズに立て籠もり続け、現在に至るまで降伏していない。そのためセミノール戦争は「インディアンベトナム戦争」と呼ばれ、フロリダセミノールは征服されざる人々を自称する。

レッドクラウド

 グレートプレーンズラコタスー族オグララ酋長モンタナ州鉱山が発掘されると、アメリカララミー砦から鉱山に至る道路建設を企む。これに反発したレッドクラウドシャイアン族、アラパホ族と連携し、レッドクラウド戦争(1866~68)を戦う。途中のフェッターマン虐殺では陽動に乗せられたウィリアム・フェッターマン大尉指揮下の米軍80名が完全包囲され全滅した。米軍道路建設を諦め、ララミー砦を放棄したため、レッドクラウドは唯一アメリカ勝利した偉大なインディアンとして賞賛されることになった。しかし、米軍の強さを実感した彼はそれ以後白人と戦わなくなり、晩年キリスト教改宗居留地に入った。

シッティング・ブル&クレイジーホース

 シッティング・ブルはラコタスー族ハンクパパ、クレイジーホースはオグララ戦士本来ならば別個に扱うべきだが、打線に収りきらないのでやむを得ず同じポジションに収めた。二人はレッドクラウド戦争でも活躍し、その知略と武勇を称えられた。その後インディアン聖地ブラックヒルズで鉱産資源が発掘されると、聖地を巡りブラックヒルズ戦争(1876~77)が勃発,ラコタスー族は再度シャイアン、アラパホ族と共に戦うことになる。76年リトル・ビッグホーンの戦いではジョージカスター大佐指揮下の騎兵連隊250名が完全包囲され全滅した。そのため、シッティング・ブルとクレイジーホースの二人は偉大な戦士としてインディアンから賞賛され、白人からは恐れ憎まれるることとなる。しかし、米軍の容赦ない猛攻と兵糧攻めの前にインディアンは敗北、クレイジーホースは捕らえられ刺殺された。シッティングブルはカナダ亡命し、帰国後無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。

キャプテンジャック

 カリフォルニア溶岩地帯モードック族の酋長モードック族は故郷から追放されるが、キャプテンジャックと数十名の戦士はこれに反発し居留地脱出した。彼らは複雑な地形を利用したゲリラ戦10倍近い戦力の米軍を1年近く苦戦させた。手を焼いた米軍は和平交渉のためにエドワードキャンビー少将派遣するが、交渉が決裂し殺害されたため、インディアン戦争で唯一米軍将軍戦死した戦争となった。白人の猛攻の前に降伏したキャプテンジャック将軍殺しの罪で処刑され遺体見世物にされた。

・ジョゼフ酋長

 アイダホ高原部のネズパース族の酋長平和主義者であった彼はキリスト教改宗するなど白人に対して従順であったが、居留地入りを命じられるとこれに反発、部族を率いてカナダへの亡命を目指した逃避行に出る。彼らは兵力と装備で圧倒する米軍の追撃を巧みにかわし続け、遭遇した際にも返り討ちにしたため、白人はジョゼフ酋長を赤いナポレオン賞賛した。しかし、2000kmにも及ぶ逃避行の末に目的地直前で米軍に敗れ降伏した。故郷を追われ仲間を失った彼は傷心で没することになった

ジェロニモ

 アメリカ南西部国境地帯チリカワ・アパッチ族戦士家族を殺された報復メキシコ軍との戦いに身を投じ武名をはせた。ジェロニモの名は銃弾の雨を無視して襲い来る彼に恐れをなしたメキシコ兵が聖者ヒエロニムスに助けを求めたことが由来である。一旦米軍降伏し、保留地に入るも、1874年脱出し、96年に降伏するまで戦い続けた。ゲリラ戦の名手であった彼は米軍を苦戦させ続け、捕らえられても何度も脱出を繰り返した。彼の降伏によりインディアンの大規模な抵抗終焉を迎えた。彼は見世物にされるなどの屈辱を受けながら虜囚のまま没した。

2023-03-21

anond:20230321045834

幕府領地接収して、官僚の恩給にする計画があったからとしか

  

1 徳川は、オランダ東インド会社支援で各藩の鉱山を幕領とし(リーフデ号)、金銀銅の輸出によって体制を維持していた

2 オランダ英蘭戦争の結果、国力が衰退し、1804年には仏ナポレオン占領された(江戸幕府はそれで仏軍軍事顧問にした)

3 1814年、仏ナポレオン政権崩壊し、英独が復活

4 1840年イギリス硫黄を巡ってイタリア海上封鎖を試みて勝ったが、日本とも貿易をしたかった

6 幕府鎖国体制でいたので黒船攻撃させ、各藩の貿易規制も緩和させた

7 ただ幕府と各藩主条約したとしても、幕府が倒されて政権が変われば条約破棄もされかねない、それならいっそ、幕府が倒れても条約継続する天皇制にしてもらいたい

8 イギリス日本駐在英字新聞社を通して天皇制必要を解き、支持藩を増やした(英国策論)

9 どこかの藩が外国船を攻撃したりするので、幕府海軍増強に務めるが、米大統領リンカーン軍艦の輸入を止められてしま

10 薩長天領石高400万石を使って官吏軍人の恩給制度を作る計画をたて、公家を味方につける

11 問題天領にいる旗本会津などの佐幕派は、徳川引退しても利権を離さないに違いない、できれば根絶やしにしたい、あとロシアが近い蝦夷にも兵をおいて天皇管轄にしておきたい

12 1967年11月に大政奉還が行われたが、倒幕派はしつこく放火などで騒動をおこし、それに対し幕府薩摩藩邸焼き討ちで報復

13 新政府徳川慶喜にも難題を押し付けて蜂起させたうえ、死罪1名に付き一家3名死罪とする刑法を作った

14 幕府の軍で警察でもあった会津藩などは当然に反発し戊辰戦争が拡大するが、幕府側には仏兵、新政府側には英米兵も従軍し、はんば代理戦争となった、軍事物資もかなり輸入された

15 佐幕派は敗北し、新設の東京裁判所は首謀者らを一家死刑にして勢力を削ぎ、ゲルマン利権を確保(そのあとで刑法を穏健なもの改正

16 1874年には大久保ドイツから明治通宝印刷機を購入し、新札を元手にのちの西南戦争鎮圧

17 木戸1975年から本当に公家軍人官吏の恩給制度を作りはじめ(現代の1.5兆円ぐらいがかかった)、そのことで農民搾取されるようになった(パウルマイエット談)

18 鉱山新政府側の人間乗っ取り、新たに家督優遇相続制度が作られ、二男三男は工場労働者兵隊になり、貧しい農村の娘は売られ、地方中央格差は拡大

19 天皇ガーター勲章を与えたイギリスのために日清戦争日露戦争もしたが、現地には入院施設も準備されず、負傷者は赤十字神戸丸で佐世保海軍病院まで連れ戻されていた

 

官僚給料が高いのも、真っ黒い歴史の口止め料かなと思いますよね

2023-02-08

・クアナパーカー1840年代~1911

 コマンチ族の酋長。ペタ・ノコナとシンシアパーカーの息子。1874年居留地への強制移住に反発して、カイオワ、アラパホ、シャイアンと共に白人と戦った(レッド・リバー戦争)。しかし、食料源であるバッファローが狩り尽くされたため翌年降伏居留地入りした後も部族を率い、白人文化を受け入れる一方でインディアン文化も守り続けた。 

ブラック・ケトル

 シャイアン族の酋長白人との共存を臨む平和主義者で交渉による戦争回避に生涯を捧げたが、裏切られ続けた。最期はワシタ川の虐殺カスター指揮下の第7騎兵連隊無抵抗女性子供共に虐殺された。ブラックケトルは死の瞬間まで白旗を掲げ、「友達だ!」と叫んだが無視され蜂の巣にされた。

シッティング・ブル1831~90

 ラコタスー族ハンクパパの戦士若いからレッドクラウド戦争,ブラックヒルズ戦争(1876~77インディアン聖地ブラックヒルズを守るための大激戦)などの白人との戦いに従事した。1876年リトルビッグホーンの戦いではシャイアン族、アラパホ族と共にジョージカスター指揮下の第七騎兵連隊250名を全滅させた。スー族はその後降伏するも彼は頑なに居留地入りを拒みカナダ亡命した。71年に帰国し、捕虜となった。暴動扇動したという無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。

クレイジーホース1840~77

 ラコタスー族オグララ戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争などに従事し、その勇猛さをシッティング・ブルと並び称えられた。1876年ローズバッドの戦い、リトルビッグホーンの戦いで米軍を破った。しかし、物量や装備で勝る米軍に敵わず降伏し、捕虜となった後に銃剣で刺殺された。

レイン・イン・ザ・フェイス1835~1905

 ラコタスー族ハンクパパの戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争従事し、リトル・ビッグホーンの戦いではカスターの心臓を切り取った。1880年降伏した。

タッチ・ザ・クラウド1830後半~1905

 ラコタスー族戦士クレイジーホースの親戚で2m近い大男であった。リトルビッグホーンの戦いに参加した。

・ゴール1840年頃~1894

 ラコタスー族戦士。リトルビッグホーンの戦いでは騎兵連隊を分断し、勝利に貢献した。シッティングブルの盟友だったが、後に仲違いし1881年降伏した。

レッド・エンド1797~1881

 ダコタ・スー族酋長。兄を白人に殺されたことへの報復スピリット湖畔の入植地を襲撃した。リトルビッグホーンの戦いにも参加し、シッティング・ブルと共にカナダ亡命し、現地で亡くなった。

ラメホワイトマン1830年代後半~76

 シャイアン族の酋長。リトル・ビッグホーンの戦いで戦死した。

・ジョゼフ酋長1840~1904

  ネズ・パース族の酋長平和主義者であり、キリスト教改宗するなど白人に対して友好的であったが、1877年居留地への強制移住に反発し、カナダへの亡命を図り、部族を率いて1600km近い大移動を行った。巧みな戦術白人の追撃をかわし続け、赤いナポレオンと称えられたが、最後は捕らえられ、逃避行は失敗に終わった。

・リトル・ウルフ1820~1904

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。その後米軍降伏したが、部族を率いて居留地から故郷への脱走を図り、2000km以上の大移動を行った。途中で降伏するもシャイアン族は故郷への期間を認められた。

モーニングスター(鈍いナイフ)1810~1883

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。米軍降伏後、リトルウルフと共に大脱出を率いた。

・ヴィクトリオ1825~1880

 アパッチ族酋長1879年居留地から脱走し、アメリカメキシコに対して挑戦した(ヴィクトリオ戦争しかし、翌年メキシコ軍に包囲され戦死した。

・ナナ1810年代~1896

 アパッチ族戦士。ヴィクトリオの姉と結婚し、ヴィクトリオ戦争でも共に戦った。1886年降伏した

ローゼン1840年代~1887

 アパッチ族女性戦士。ヴィクトリオの妹。ヴィクトリオ戦争従軍し、兄が殺されると、ジェロニモと合流して米軍と戦った。1886年降伏し、翌年病死した。

ジェロニモ1829~1909

 アパッチ族戦士1851年メキシコ当局家族を皆殺しにされてしまう。それ以後獰猛戦士としてメキシコ軍とアメリカ軍を苦しめた。1874年連邦政府強制移住抵抗し、何度か捕らえても脱獄を繰り返した。1886年に捕らえられて以降故郷から連れ去られ、見世物とされるなど屈辱を受け、虜囚のまま死去した。

ビッグベア1825~88

 クリー族の戦士飢餓に苦しめられ、1885年ティカナダ先住民白人の混血)のルイ・リエルの北西反乱に加わった。

・ブコナイゲシク1830年代~1916

 オジブワ族の戦士1898年頻繁なインディアン逮捕森林破壊に抗議し、逮捕されるが脱走。シュガーポイントの戦いで追討軍を破った

デニス・バンクス1937~2017

 オジブワ族の人権活動家1968年アメリカインディアン運動AIM設立デモ選挙活動によりインディアンへの人権侵害に激しく抗議し続けた。その中でも有名なのがアルカトラズ占拠事件(1969~71)とウーンデッドニー事件(1973)である。前者は1年半にも及ぶ長期戦でインディアン人権問題国際的に周知させるきっかけとなった。後者州兵FBI戦車ヘリコプターを動員させる大事件となった

ラッセル・ミーンズ1939~2012

 ラコタスー族オグララ人権活動家アルカトラズ占拠事件後にAIMに参加、ラシュモア山占拠事件、BIAビル本部占拠事件、ウーンデッドニー事件に加わった。ラシュモア山ではワシントンの像に放尿した。何度も逮捕殺人未遂などの危機に陥るが恐れることなインディアンのための活動に生涯を捧げた

白人抵抗したインディアン英雄たち

投稿です

タスカルーサ~1540

 ミシシッピ先住民首長スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。 

・オペチャンカノウ1544~1646

 ポウハタン族の酋長ポカホンタス叔父1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。

・ササカス1560~1637

 ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ戦争白人虐殺されることとなる。 

・ポペ1630~1692

 プエブロ族魔術師スペイン宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人駆逐したプエブロ族独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペイン降伏した。

ハンコック酋長

 南部タスカローラ族の酋長白人土地侵奪奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。

グレイロック1670~1740頃

 アベナキ族の酋長フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争グレイロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた

メタカムフィリップ王)1639~76

 ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人貪欲土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ戦争1765~66)。メタカム戦死遺体戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人勝利に終わった。

・オブアンディヤック1720~69

 オタワ族の酋長英名ポンティアック交易制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合攻撃しかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。

コーンストーク1720頃~77

 ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人訪問した際に拘束され処刑された。

・ドラッキングカヌー1738~1792

 チェロキー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中心臓発作で亡くなった。

 

・リトルタートル(1747~1812)

 マイアミ族の酋長アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バル大佐戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、戦死者600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティバーズの戦いで敗北し降伏した。

ブルージャケット1738~1810

 ショーニー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティバーズの戦いで敗北した。

・バッコンガヒラス1720~1805

 レナペ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティバーズの戦いで敗れた。

・エグシャワ1726~1796

 オタワ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、フォールン・ティバーズの戦いで負傷した

・テカムセ1768~1813

 ショーニー族の酋長白人侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争イギリスと組んでアメリカ交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領就任するが、わず31日で病死した。

ウィリアムウェザーフォード1765~1824

 マスコギー族の戦士。1811年の大地震白人と戦えというメッセージ解釈し、交戦レッドスティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領就任インディアンへの弾圧虐殺を行った。

・メナワ1765~40頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後土地割譲同意した酋長暗殺するなど強制移住抵抗し続けた。

ピーターマックイーン1780頃~1820頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争活躍バーンコーンの戦いで米軍勝利した。 

レッドバード1788~1828

 ウィネベーゴ族の酋長白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。

ブラック・ホーク(1767~1838)

 ソーク族の酋長白人土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。

オセオラ1804~38

 セミノール族の戦士強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部はフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカ降伏していない

ミカピー1780~1848

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争活躍し、デイドの戦いで100人米兵戦死させた。

ビリー・ボウレッグス1810頃~1859

 セミノール族の酋長オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。

・アビアカ1760~1860

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍勝利した。

 

バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃

 コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。

・ワルカラ1808~55

 ユート族戦士。その知恵と武勇から砂漠ナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教入植者対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。

フレチャス・ラヤダス

 ヒカリラ・アパッチ族戦士。シエネギラの戦いでアメリカ軍を破った

・カミアキン1800~1877

 ヤキマ族の戦士白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒んだ。 

レスキ1808~58

 ニスカリー族の酋長白人土地侵奪に反発し、ピージェット戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。

・テカムタム?~1864

 アサバスカ族の酋長鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。

カイルーク

 モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された

・ヌマガ1830~71

 パイユート族酋長白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人部族平和のために生涯を捧げた。

マヌエリト1818~93

 ナバホ族戦士1860~66年までアメリカ政府土地収奪強制移住政策抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。

アントンガ・ブラックホーク

 ティンパノゴス族の酋長モルモン入植者対立し、1865年ユタパイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた

マンガス・コロラダス1793~1863

 アパッチ族酋長1830年家族や同朋をメキシコ人虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉最中に捕らえられ、処刑された。

コーチーズ1805~1874

 アパッチ族酋長マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。 

・リトル・クロウ1810年頃~63

 ダコタ・スー族酋長白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。

・ドヘサン1790年前後~1866

 カイオワ族の酋長第一アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。

ホワイトベアー(サタンタ)1820頃~78

 カイオワ族の戦士第一アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレンワゴントレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年逮捕され、投身自殺した。

シッティングベア(サタンク)1800頃~1871

 カイオワ族の戦士ウォレンワゴントレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。

・ローン・ウルフ1820頃~79

 カイオワ族の酋長交渉によりウォーレンワゴントレイン襲撃で逮捕されたホワイトベアビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナパーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない

 

ローマン・ノーズ1830年代~68

 シャイアン族の戦士強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマから白人から酋長であると誤解された。

レッドクラウド1822~1909

 ラコタスー族戦士ララミーからモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウド居留地に入り晩年キリスト教改宗した。 

ハイバックボーン1820~1870

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。

 

ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府平和交渉に当たった。

キャプテンジャック1837~1873

 モードック族の酋長居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワードキャンビー少将殺害されたため、インディアン戦争米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏絞首刑に処されたキャプテンジャック遺体見世物とされた。

スカーフェイスチャーリー1830頃~1896

 モードック族の戦士モードック戦争に加わり、サンビュートの戦いで勝利した

・アイアン・ジャケット1790前後~1858

 コマンチ族の酋長スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。

・ペタ・ノコナ1820頃~1864

 コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシアパーカー誘拐、妻とする。1860ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。

2022-10-07

・クアナパーカー1840年代~1911

 コマンチ族の酋長。ペタ・ノコナとシンシアパーカーの息子。1874年居留地への強制移住に反発して、カイオワ、アラパホ、シャイアンと共に白人と戦った(レッド・リバー戦争)。しかし、食料源であるバッファローが狩り尽くされたため翌年降伏居留地入りした後も部族を率い、白人文化を受け入れる一方でインディアン文化も守り続けた。 

ブラック・ケトル

 シャイアン族の酋長白人との共存を臨む平和主義者で交渉による戦争回避に生涯を捧げたが、裏切られ続けた。最期はワシタ川の虐殺カスター指揮下の第7騎兵連隊無抵抗女性子供共に虐殺された。ブラックケトルは死の瞬間まで白旗を掲げ、「友達だ!」と叫んだが無視され蜂の巣にされた。

シッティング・ブル1831~90

 ラコタスー族ハンクパパの戦士若いからレッドクラウド戦争,ブラックヒルズ戦争(1876~77インディアン聖地ブラックヒルズを守るための大激戦)などの白人との戦いに従事した。1876年リトルビッグホーンの戦いではシャイアン族、アラパホ族と共にジョージカスター指揮下の第七騎兵連隊250名を全滅させた。スー族はその後降伏するも彼は頑なに居留地入りを拒みカナダ亡命した。71年に帰国し、捕虜となった。暴動扇動したという無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。

クレイジーホース1840~77

 ラコタスー族オグララ戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争などに従事し、その勇猛さをシッティング・ブルと並び称えられた。1876年ローズバッドの戦い、リトルビッグホーンの戦いで米軍を破った。しかし、物量や装備で勝る米軍に敵わず降伏し、捕虜となった後に銃剣で刺殺された。

レイン・イン・ザ・フェイス1835~1905

 ラコタスー族ハンクパパの戦士レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争従事し、リトル・ビッグホーンの戦いではカスターの心臓を切り取った。1880年降伏した。

タッチ・ザ・クラウド1830後半~1905

 ラコタスー族戦士クレイジーホースの親戚で2m近い大男であった。リトルビッグホーンの戦いに参加した。

・ゴール1840年頃~1894

 ラコタスー族戦士。リトルビッグホーンの戦いでは騎兵連隊を分断し、勝利に貢献した。シッティングブルの盟友だったが、後に仲違いし1881年降伏した。

レッド・エンド1797~1881

 ダコタ・スー族酋長。兄を白人に殺されたことへの報復スピリット湖畔の入植地を襲撃した。リトルビッグホーンの戦いにも参加し、シッティング・ブルと共にカナダ亡命し、現地で亡くなった。

ラメホワイトマン1830年代後半~76

 シャイアン族の酋長。リトル・ビッグホーンの戦いで戦死した。

・ジョゼフ酋長1840~1904

  ネズ・パース族の酋長平和主義者であり、キリスト教改宗するなど白人に対して友好的であったが、1877年居留地への強制移住に反発し、カナダへの亡命を図り、部族を率いて1600km近い大移動を行った。巧みな戦術白人の追撃をかわし続け、赤いナポレオンと称えられたが、最後は捕らえられ、逃避行は失敗に終わった。

・リトル・ウルフ1820~1904

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。その後米軍降伏したが、部族を率いて居留地から故郷への脱走を図り、2000km以上の大移動を行った。途中で降伏するもシャイアン族は故郷への期間を認められた。

モーニングスター(鈍いナイフ)1810~1883

 シャイアン族の酋長レッドクラウド戦争ブラックヒルズ戦争に参加。米軍降伏後、リトルウルフと共に大脱出を率いた。

・ヴィクトリオ1825~1880

 アパッチ族酋長1879年居留地から脱走し、アメリカメキシコに対して挑戦した(ヴィクトリオ戦争しかし、翌年メキシコ軍に包囲され戦死した。

・ナナ1810年代~1896

 アパッチ族戦士。ヴィクトリオの姉と結婚し、ヴィクトリオ戦争でも共に戦った。1886年降伏した

ローゼン1840年代~1887

 アパッチ族女性戦士。ヴィクトリオの妹。ヴィクトリオ戦争従軍し、兄が殺されると、ジェロニモと合流して米軍と戦った。1886年降伏し、翌年病死した。

ジェロニモ1829~1909

 アパッチ族戦士1851年メキシコ当局家族を皆殺しにされてしまう。それ以後獰猛戦士としてメキシコ軍とアメリカ軍を苦しめた。1874年連邦政府強制移住抵抗し、何度か捕らえても脱獄を繰り返した。1886年に捕らえられて以降故郷から連れ去られ、見世物とされるなど屈辱を受け、虜囚のまま死去した。

ビッグベア1825~88

 クリー族の戦士飢餓に苦しめられ、1885年ティカナダ先住民白人の混血)のルイ・リエルの北西反乱に加わった。

・ブコナイゲシク1830年代~1916

 オジブワ族の戦士1898年頻繁なインディアン逮捕森林破壊に抗議し、逮捕されるが脱走。シュガーポイントの戦いで追討軍を破った

デニス・バンクス1937~2017

 オジブワ族の人権活動家1968年アメリカインディアン運動AIM設立デモ選挙活動によりインディアンへの人権侵害に激しく抗議し続けた。その中でも有名なのがアルカトラズ占拠事件(1969~71)とウーンデッドニー事件(1973)である。前者は1年半にも及ぶ長期戦でインディアン人権問題国際的に周知させるきっかけとなった。後者州兵FBI戦車ヘリコプターを動員させる大事件となった

ラッセル・ミーンズ1939~2012

 ラコタスー族オグララ人権活動家アルカトラズ占拠事件後にAIMに参加、ラシュモア山占拠事件、BIAビル本部占拠事件、ウーンデッドニー事件に加わった。ラシュモア山ではワシントンの像に放尿した。何度も逮捕殺人未遂などの危機に陥るが恐れることなインディアンのための活動に生涯を捧げた

2022-10-06

白人抵抗したインディアン英雄たち

タスカルーサ~1540

 ミシシッピ先住民首長スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。 

・オペチャンカノウ1544~1646

 ポウハタン族の酋長ポカホンタス叔父1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。

・ササカス1560~1637

 ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ戦争白人虐殺されることとなる。 

・ポペ1630~1692

 プエブロ族魔術師スペイン宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人駆逐したプエブロ族独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペイン降伏した。

ハンコック酋長

 南部タスカローラ族の酋長白人土地侵奪奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。

グレイロック1670~1740頃

 アベナキ族の酋長フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争グレイロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた

メタカムフィリップ王)1639~76

 ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人貪欲土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ戦争1765~66)。白人たちは彼がインディアン君主であると決めつけ、フィリップ王と呼んだが、実際は調停役に過ぎなかった。メタカム戦死遺体戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人勝利に終わった。

・オブアンディヤック1720~69

 オタワ族の酋長英名ポンティアック交易制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合攻撃しかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。

コーンストーク1720頃~77

 ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人訪問した際に拘束され処刑された。

・ドラッキングカヌー1738~1792

 チェロキー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中心臓発作で亡くなった。

 

・リトルタートル(1747~1812)

 マイアミ族の酋長アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バル大佐戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティバーズの戦いで敗北し降伏した。

ブルージャケット1738~1810

 ショーニー族の戦士アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティバーズの戦いで敗北した。

・バッコンガヒラス1720~1805

 レナペ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティバーズの戦いで敗れた。

・エグシャワ1726~1796

 オタワ族の酋長アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争アメリカと戦い、フォールン・ティバーズの戦いで負傷した

・テカムセ1768~1813

 ショーニー族の酋長白人侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争イギリスと組んでアメリカ交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領就任するが、わず31日で病死した。

ウィリアムウェザーフォード1765~1824

 マスコギー族の戦士。1811年の大地震白人と戦えというメッセージ解釈し、交戦レッドスティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領就任インディアンへの弾圧虐殺を行った。

・メナワ1765~40頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後土地割譲同意した酋長暗殺するなど強制移住抵抗し続けた。

ピーターマックイーン1780頃~1820頃

 マスコギー族の戦士レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争活躍バーンコーンの戦いで米軍勝利した。 

レッドバード1788~1828

 ウィネベーゴ族の酋長白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。

ブラック・ホーク(1767~1838)

 ソーク族の酋長白人土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。

オセオラ1804~38

 セミノール族の戦士強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部は最期までフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカ降伏していない

ミカピー1780~1848

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争活躍し、デイドの戦いで100人米兵戦死させた。

ビリー・ボウレッグス1810頃~1859

 セミノール族の酋長オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。

・アビアカ1760~1860

 セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍勝利した。

 

バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃

 コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。

・ワルカラ1808~55

 ユート族戦士。その知恵と武勇から砂漠ナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教入植者対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。

・カミアキン1800~1877

 ヤキマ族の戦士白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒否した。 

レスキ1808~58

 ニスカリー族の酋長白人土地侵奪に反発し、ピージェット戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。

・テカムタム?~1864

 アサバスカ族の酋長鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。

カイルーク

 モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された

・ヌマガ1830~71

 パイユート族酋長白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人部族平和のために生涯を捧げた。

マヌエリト1818~93

 ナバホ族戦士1860~66年までアメリカ政府土地収奪強制移住政策抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。

アントンガ・ブラックホーク

 ティンパノゴス族の酋長モルモン入植者対立し、1865年ユタパイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた

マンガス・コロラダス1793~1863

 アパッチ族酋長1830年家族や同朋をメキシコ人虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉最中に捕らえられ、処刑された。

コーチーズ1805~1874

 アパッチ族酋長マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。 

・リトル・クロウ1810年頃~63

 ダコタ・スー族酋長白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。

・ドヘサン1790年前後~1866

 カイオワ族の酋長第一アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。

ホワイトベアー(サタンタ)1820頃~78

 カイオワ族の戦士第一アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレンワゴントレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年逮捕され、投身自殺した。

シッティングベア(サタンク)1800頃~1871

 カイオワ族の戦士ウォレンワゴントレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。

・ローン・ウルフ1820頃~79

 カイオワ族の酋長交渉によりウォーレンワゴントレイン襲撃で逮捕されたホワイトベアビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナパーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない

 

ローマン・ノーズ1830年代~68

 シャイアン族の戦士強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマから白人から酋長であると誤解された。

レッドクラウド1822~1909

 ラコタスー族戦士ララミーからモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウド居留地に入り晩年キリスト教改宗した。 

ハイバックボーン1820~1870

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。

 

ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893

 ラコタスー族戦士レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府平和交渉に当たった。

キャプテンジャック1837~1873

 モードック族の酋長居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワードキャンビー少将殺害されたため、インディアン戦争米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏絞首刑に処されたキャプテンジャック遺体見世物とされた。

スカーフェイスチャーリー1830頃~1896

 モードック族の戦士モードック戦争に加わり、サンビュートの戦いで勝利した

・アイアン・ジャケット1790前後~1858

 コマンチ族の酋長スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。

・ペタ・ノコナ1820頃~1864

 コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシアパーカー誘拐、妻とする。1860ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。

https://anond.hatelabo.jp/20221007130539

2022-05-28

明治時代、庄屋の娘が夫のDVから逃げて上京議員財政を立て直した話

矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日天保4年4月24日〉 - 1925年大正14年6月16日)は、日本女子教育者社会事業家

肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児誕生は歓迎されず、名付け親10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰徳冨蘆花兄弟を生んでいる。蘇峰は明治大正昭和にかけての大論客、蘆花は明治大正文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。

かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。

妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事副知事兼務左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。

このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄から手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本学校生徒35名による花岡キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰徳冨蘆花も参加している。やがて熊本学校廃校になり、彼らの一部は、新島襄同志社入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンド札幌バンド横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。

明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国宣教師教育者マリア・ツルー夫人運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。

自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年築地新栄教会ディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である富久子、横井つせ子、竹崎順子洗礼を受けている。当時17歳キリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。

明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在校長理事長を兼ねた職)代理就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。

明治23年(1890年)、櫻井女学校新栄女学校合併して女子学院となり、初代院長に推される。

明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。

一方、恵まれなかった結婚生活小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。

楫子の情熱日本に止まら日本国外にも向かい明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年1925年6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。

大正時代華族の娘が50歳の男に売られた話

anond:20220526160552

2022-02-01

囲碁用語概念たち名鑑(追記更新あり)

追記追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。

anond:20220131231934インスパイアされてやってみた。

省力のために一部wikipediaから引用も交えながら独自解説を記した。

基本編

  • 追記】 目(もく) 盤面の交点のこと。一目、二目と数える。この目を囲った多さを競うゲーム囲碁である
  • 追記】 呼吸点 石から出ている線のこと。盤上にある石は呼吸点を全て塞がれると取られてしまう。囲碁説明でよくある「囲むと取れる」という表現を詳らかにすると呼吸点を塞ぐと取れる、と表現できる。
  • アタリ あと一手で石が取られてしま状態のこと。あの超有名なゲームメーカーアタリの由来である
  • 着手禁止点 打った瞬間に取られてしまう地点
  • 捨て石 敢えて石を相手に取らせることで取られた損失以上の成果を得ること。損失のほうが大きい場合は捨て石とは言わない。
  • 凝り形 効率が悪く、働きの悪い形のこと
  • 眼 石に囲まれ空間のこと。石が盤上に生存するためにはこの空間が2つ必要になる。
  • 欠け目 眼っぽく見えるが眼としての要件を満たしていない眼のこと

追記】 初手、隅の名称

三々(さんさん)

盤の端から数えて横からも縦からも3・3の地点。

一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。

小目(こもく)

ヒカルの碁で「右上隅小目」というセリフが有名。

江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。

隅を占めるのに二手かかるのが欠点

4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。

後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかまり見られなかった。

隅を一手で済ませられ、地には甘いが中央スピード重視の手。

地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである

高目(たかもく)

マニア向け。あまり打たれない

目外し(もくはずし)

マニア向け。あまり打たれない

天元

碁盤の中央の星のこと。あまり打たれない

碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。

概念

実利

後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。

実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。

厚み

盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である

「厚み」は「薄み」に対する対義語である囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手攻撃される可能性を持っている状態を指す。

これに対して強力な「厚み」は相手から攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。

模様

大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。

手割り

手の善悪を測るために本因坊道策が編み出した手法

手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。

布石

布石

1933年昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁布石スタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。

またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。

例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。

連星

隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である

中国

安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である

小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。

本格的な中国流の開祖安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本逆輸入された。

ミニ中国

中国流の狭いバージョン

右上空き隅、小目、相手の星へのカカから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。

追記ダイレクト三々

序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。

手筋編

シチョウ

囲碁基本的な手筋のひとつであるアタリ連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしま状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。

ゲタ

ゲタは、囲碁において相手の石を取る手筋の一つ

シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。

相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。

ウッテガエシ

一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。

「捨て石」の最も基本的かつミニマルな活用である

イオトシ

漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしま状態をいう。別名をトントン、ツギオトシバタバタとも。

オキ

相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。

オシツブシ

相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である

シボリ

相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手アタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。

ダメマリ

ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要ダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄ひとつである

駄目については後述。追記編を参照。

サルスベリ

ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。

一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。

英語ではMonkey jumpという。

死活編

追記】 二眼(にがん)、石の生き死に

盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしま運命にある。

これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである

2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである

この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。

この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。

ウチカキ

相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。

「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意

中手

相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。

自分の石から関係

シマ

隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手

カカ

相手シマリを妨害する位置に置くこと

一間トビ

ひとつ隙間を空けて打つ手

二間トビ

ふたつ隙間を空けて打つ手

ウマの顔

一間トビに置いてある形から、直角方向にふたつ空けて打つ手

●┼┼┼

┼┼┼★

●┼┼┼

ケイ

将棋桂馬の動きのような位置に打つこと

ゲイ

将棋桂馬の動きからさらに1歩進めて打つこと

コス

既存の石の斜めに置くこと。「秀策のコスミ」が有名。

ハザマ

自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。

●┼┼

┼┼┼

┼┼★

相手の石への関係

ツケ

相手の石の隣にくっつけて置くこと

ハサミ

相手の石を挟むように置くこと

タツ

相手の石の斜めに置くこと

キリ

相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと

ノゾキ

相手の石のつながりを、次の手で断つぞという位置に置くこと

ハネ

相手の石を跳ねるような位置に斜めに置かれる石

オサエ

相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石

オシ

相手の石を押すように平行に打たれる石

定石編

ツケヒキ定石

小目にカカられた石へツケてひく、簡明かつ最も基本的な定石

大斜定石

目外しへのカカから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的もの天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。

ナダレ

小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された

村正妖刀

小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。

追記編(忘れてた編)

タケフ

竹の節のような並び。

一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。

コウ

本来仏教用語未来永劫の劫。

仏教用語ではひとつ宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。

囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしま特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。

コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。

アゲハマ(揚げ浜、揚げ蛤)

取った相手の石のこと、またはその石を置いている場所

通常、白石ハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど

追記日常用語慣用句に使われてる編

捨て石

冒頭で説明

定石(じょうせき)

限られた局面特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。

定石は手練の碁打ちの長い研鑽研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である

駄目(ダメ

日常でも使われている「ダメ」の語源

どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。

または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。

ダメマリはこのダメが詰まる、呼吸ができなくなる事を言う。

死活問題

囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題クイズ)のことである

玄人素人(くろうと・しろうと)

現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。

そのため

黒人(くろうと)→玄人(つよい人)

白人しろうと)→素人へぼい人)

と転じたと言われている。

岡目八目(傍目八目)

自分第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。

岡目は高い場所あるいは傍目の意味

八目の八は八百屋と同じで具体的な数字ではなく多さを表す。

一目置く

一目は一子(石ひとつ)の意。

囲碁においては強さに差がある場合相手より多く先に石を置いた状態で始めることから相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。

手抜き

手を省くこと。

力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。

追記】 国際編

日本ルール中国ルール

囲碁はいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁第一人者であり、世界囲碁を広めた日本ルールが用いられている。

日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。

この2つの大きな違いは、日本ルール自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である

このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。

日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。

そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。

他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。

追記人物

徳川家康

碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用

とし、2004年囲碁殿堂入り

本因坊算砂

永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日

江戸幕府は囲碁ならびに将棋庇護役職俸禄を与えていた。

江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流

大橋宗桂との将棋対局は将棋現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要人物の一人。

本因坊道策

正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日

手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士史上最強という呼び声も高い。

本因坊秀策

文政125月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日1862年9月3日

ヒカルの碁で著名。

黒番なら負けなしと当時最強の棋士である

本因坊秀哉

1874年明治7年6月24日- 1940年昭和15年)1月18日

家元制においての最後本因坊

またタイトルとなる前の、「名人一世に一人」の終身名人時代最後名人でもある。

引退後に本因坊名跡日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り

藤沢秀行

1925年6月14日 - 2009年5月8日

藤沢一就八段の父であり、藤沢里菜五段の祖父

「オマ●コ」発言など、昭和棋士らしい数々の破天荒エピソードが有名。

数々のタイトルを獲得したレジェンドである

棋聖 6期 (1977-82)

名人 2期 (1962・70)

王座 5期 (1967-69・91-92)

天元 1期 (1975)

ぷよ

ここまでの読了お疲れ様でした。

ぷよ碁という初心者にもわかりやすアプリが出来ていたので興味が湧いた人はぜひやりましょう

https://puyogo.app/

2021-08-01

柔道ってまだ160年くらいの歴史なのね

てっきり平安時代あたりの宮殿を守る兵士とかからまれたとか妄想してたわw

しか創設者東大卒インテリとはしらなんだ

あ~しらなんだ♪しらなんだ♪

柔道創始

20代の頃の治五郎

1874年明治7年)、育英義塾(後の育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(後の東京大学)に進学。1877年明治10年)に東京大学に入学した。東京大学時代には中村正直三島中洲漢文学を学び、渋沢栄一経済学講義を受け、またアーネストフェノロサ薫陶を受けその指導の下、政治学理財学(経済学)、哲学道義学(倫理学)、審美学を学ぶ[3]。また1878年明治11年)には漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる[4]。しかし育英義塾・開成学校時代から自身虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時で柔術は軽視され、師匠を探すのにも苦労し、柳生心眼流大島一学に短期間入門するなどした後、天神真楊流柔術福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生福田から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。

1879年明治12年7月渋沢栄一の依頼で渋沢飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領柔術演武した。8月福田が52歳で死んだ後は天神真楊流家元である磯正智に学ぶ

1881年明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。

1882年明治15年)、下谷稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁将棋から段位制を取り入れ講道館設立した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E#%E7%94%9F%E3%81%84%E7%AB%8B%E3%81%A1

2020-10-26

『翼ある人びと』整理

『BADDAY』『星逢一夜』『金色砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。

金色砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。

それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?

ああ、本来は『サパ』ブルーレイ購入検討のためであった。

前段:上田久美子氏

金色砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。

前段:ブラームス

ブラームスイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。

それからビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。

自分携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。

あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ交響曲1番1楽章とか激しい。

まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家

前段:シューマン

シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。

あと名高い『音楽音楽家』が3ページぐらいで止まって積読

から

ヨハネス・ブラームスクララシューマンロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム

知ってる人らだからと油断していたら名前からなくなった罠。ヨハネス、クララロベルト、ヨーゼフ。

ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。

フランツ・リストフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

史実らしいこと整理

【】翼ある人びと

1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』

1841年シューマン交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチメンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。

1845年:三女ユーリ誕生【長女、遥羽らら】

1846年長男エミール誕生【秋音光】。シューマン交響曲第2番 Op.61』

1847年長男エミール死没

1848年フランツ・ヨーゼフ1世即位

1850年シューマン交響曲第3番 Op.97』

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1853年ブラームス20歳クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳フランツ・ヨーゼフ1世23歳)

8月18日バート・イシュルの夏は暑い、今年は特別

9月30日シューマン邸『ピアノソナタ第1番』を弾く

10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声使用などの先見性が評価されるようになった)。

秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタシューマン出版提案するもブラームス判断で破棄

11月シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている

12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒヴァンハウスシューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品作品1として出版することを提案していた。

12月30日シューマン交響曲第4番(改訂版Op.120』初演(現在一般的演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)

1854年

1月:『ピアノトリオ第1番 Op.8』@ハノーバー

2月27日シューマン投身エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。

春?:『ハンガリー民謡主題による14の変奏曲 Op.21-2』

6月:四男(末子)フェリックス誕生次男、花菱りず】。ブラームス名付け親ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。

8月:『シューマン主題による変奏曲 Op.9』完成

夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。

1855年クララ手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンレッド序曲』を聞いて)。

1856年フーガ』『前奏曲フーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』

4月05日:『惜しみなく与えよ Op.30』

7月29日シューマン

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1857年:『前奏曲フーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』

1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルト婚約。『セレナード第1番 Op.11

1859年結婚生活音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄

1861年:『シューマン主題による変奏曲 Op.23ユーリエへ献呈。

1863年エリザベート・フォン・シュトックハウゼンブラームス弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女まれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。

1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生戴冠式マーチャーシュ協会ミサ曲はリスト作曲

1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクラライタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」から断章Op.53』を作曲(別のサイト表現では、プロポーズを承諾したときにわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。

1874年フェリックスの詩に付曲(Op.63-5~6)

1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。

1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った

1879年フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリンソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。

1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。

1889年フランツ・ヨーゼフ1世から芸術科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララ改訂版派だった)

1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。

1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナ校訂版出版、世に知られるようになる。

1893年:『シューマン全集刊行ブラームスクララ編纂

1896年

3月26日クララ脳出血で倒れる

5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世作品とみなされている。

5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。

6月:『11コラー前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームス健康は日に日に衰えていく。医者治療を受けても病状は一向によくならず。

1897年 4月3日:没(63歳)

1898年エリザベート暗殺

1937年シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される


※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。

あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい

あと映画

2019-06-08

スポーツを考えた人たち

ラグビー

ウィリアムウェブエリス

1806年まれイギリス出身

1823年、パブリックスクールラグビー校で行われていたフットボール試合中に、エリスボールを持って走り出した。

このエリスの反則行為こそがラグビー起源である、という説が広く知られている。

当時、イギリス各地のパブリックスクールでは、それぞれにルールの異なるフットボールプレイされており、

そのなかでラグビー校で行われていたフットボールこそが、後のラグビーに多大な影響を及ぼしたこと事実であるが、

エリスエピソード自体一種神話であり、本当の出来事だったという証拠は見つかっていない。

とはいえ、他に名の知れた人物がいないこともあり、ラグビー発明者と言えば、いまでもエリスが挙げられるのである

ラグビーW杯トロフィーは「ウェブエリスカップ」と呼ばれる。

野球

ウィリアム・ウィートン。

1814年生まれアメリカ出身

野球の原型は、クリケットラウンダーズ、あるいはタウンボールといった競技だとされるが、

それを現代的な「ベースボール」に仕立てあげたとされる人物は何人か挙げられる。

1907年、「南北戦争英雄であるブナー・ダブルデイ将軍が、1839年クーパーズタウン野球を考案した」との調査結果が発表された。

この説は長く信じられており、クーパーズタウンには野球殿堂が建てられたが、やがて全くの無根拠であったことが明らかとなった。

次に、1842年にベースボールチーム「ニッカボッカーズ」を設立した、アレクサンダー・カートライトが「野球の父」として知られるようになった。

ニッカボッカーズが1845年に明文化した「ニッカボッカールール」が現代野球の元になったとされているからだ。

ただ、1857年ニッカボッカーズが野球の人数(9人)・イニング数(9回)・塁間(90フィート)を定めたとき

カートライトは既にニッカボッカーズを離れており、ドク・アダムスがチームのリーダーとなっていた。

アダムスはその後、1858年から1862年まで全米野選手協会に参加し、ルールの整備を主導していた。

そして、最近研究によると「ニッカボッカールール」は、別のチームであるゴッサムクラブ」のルールを受け継いだものだとされている。

ゴッサムクラブルール制定に携わり、それをニッカボッカーズに持ち込んだのがウィリアム・ウィートンだった。

サッカー

ベニーザー・コブ・モーリー

1831年まれイギリス出身

弁護士となってロンドンに出てきたあと、1862年バーンズフットボールクラブ設立した。

1863年、彼は新聞寄稿し、フットボールルール統一、およびそれを行うための団体設立提案した。

同年、各地のフットボールクラブパブリックスクール代表ロンドン居酒屋会合し、

ザ・フットボール・アソシエーションFA)が設立された。

モーリーFA書記に任命され、「ロンドンルール」と呼ばれる統一ルール草案を作りあげた。

このときボールを持って走ってはならない」「相手のスネを蹴ってはならない」というルールが導入され、

それに反対するフットボールクラブFAを脱退して、代わりに「ラグビーフットボールユニオン」を1871年設立した。

これによりアソシエーション・フットボールサッカー)とラグビーフットボールとが分立することとなったのである

また、モーリー統一ルールに基づく世界初公式試合プレイヤーの一人でもあった。

これらの功績により、モーリーは「現代サッカーの父」とみなされている。

テニス

ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド

1833年まれイギリス出身

軍人であると同時に発明家でもあった彼は、

それまで室内で行われていたテニスを芝生の上で行う「ローンテニス」を考案して、1874年特許を取得した。

ラケットネットなどをワンセットにして「スフェリスティキ」と名付けて売り出し、大成功を収めた。

ローンテニスは急速に普及し、1877年には第一ウィンブルドン選手権が開催された。

当時、芝生でテニスを行う試み自体はいくつかあったものの、発明者としての名声はウィングフィールドに帰せられている。

アメリカフットボール

ウォルターキャンプ

1859年生まれアメリカ出身

当時、アメリカ各地の大学バラバラだったフットボールルールを、

ラグビーベースにしたもの統一しようという機運が生まれたことで、

1876年に「アメリカ大学フットボール協会」が設立された。

そして1880年会議において、イェール大学主将だったキャンプは、

フィールドプレイヤーを15人から11人にまで減らし、

さらに「スクラム」をやめて「スクリメージ」を導入することを提案した。

1882年に導入された「ダウン」制と合わせて、ここにアメリカフットボールの基本ルールが完成した。

彼はその後も、アメフト黎明期におけるルール整備の中心人物だった。

このためキャンプは「アメリカフットボールの父」と呼ばれている。

バスケットボール

ジェームズ・ネイスミス

1861年まれカナダ出身

1891年マサチューセッツYMCA非常勤体育教師となった。

冬季に屋内でプレーできる学生向けのチームスポーツとして、

サッカーラグビーラクロスなどをベースに、ネイスミスは新しく安全競技を案出した。

まず柔らかいサッカーボール使用し、

激しい接触プレーをなくすためにボールを抱えて走ることを禁止し、

さらシュート身体で防ぐ必要がないようゴールを頭上に設置した。

ゴールには桃の籠を使ったので「バスケットボール」と名付けられた。

現在、全米大学男子バスケの年間最優秀選手賞にその名が冠されている。

バレーボール

ウィリアム・G・モーガン

1870年まれアメリカ出身

1891年ジェームズ・ネイスミスに誘われて、彼の勤めるYMCA入学した。

卒業後は体育教師となり、別のYMCAに勤務した。

1895年モーガンバスケットボールよりもさら安全な屋内競技として、

テニスバドミントンハンドボールなどの要素を混ぜ合わせてバレーボールを考案した。

当初はバドミントンから取って「ミントネット」という名前だったが、

試合を見ていた教授がこれを「ボールをボレーする競技」と看破して

「ボレーボールバレーボール)」という名称提案した。

2019-04-17

anond:20190417152728

実際日本警察が出来たのは1874年なのでそれまではごめんで済んでたぞ

2017-05-19

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

目次 [非表示]

1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2010-09-06

エホバの証人とは

はてなID:ykkjhrk

はてなキーワード投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。

エホバの証人とは

公式サイト

http://www.watchtower.org/j/ 雑誌バックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。

http://www.jw.org 機関誌ポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。

http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト

概要

キリスト教一教派。jwとも略される。

名称の由来は旧約聖書メシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。

エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm

個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html

ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人クリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)

なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌出版社として現在ものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。

また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャン信者」とか「ムスリム信者」などと言わないのと同様である。

1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年米国オハイオ州コロンバス大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/

聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究ポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)

((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))

信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。

全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm

エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html

機関誌ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。

「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。

出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org

モルモン教統一教会と並び、カトリック総本山であるバチカン法王庁教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。

また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。

http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm

エホバの証人スポークスマンによると、ときおり、日本基督教団牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館日本警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))

参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html

ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。

主な教義

  • 神の名

神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm

なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)

さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。

「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)

  • 悪魔

ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)

http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm

神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。

やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。

悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。

神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義全体主義共産主義自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。

神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)

http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src

http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src

なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバ自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)

  • 贖い

イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエス贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。

http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm

http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm

http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm

http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm

  • 霊魂不滅の否定

http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm

http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html

  • 政治的に中立

クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。

http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src

したがって、投票立候補などをしない。

神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。

http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm

(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対デモなどの活動に加わることもしない。)

  • 血を避ける(地抜きされていない肉を食べない、また輸血を拒否する)

http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm

地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。

輸血拒否に関する医学的な情報については以下を参照↓

日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm

エホバの証人ユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。

http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm

http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm

裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。

http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved

主な慣行

週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)

http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm

唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm

指摘される点

新世界訳聖書 

彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。

オンラインバイブルインターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/

恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。

また、エホバの証人側はこれに反論している。

公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm

個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/

不完全な引用

機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)

参考:エホバの証人の本に見られる「不完全な引用

しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。

人種問題

近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンクエホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)

世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年メンバーサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。

ナチスとの関係

1933年ドイツで政権を握ったナチスエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。

しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。

公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm

個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html

主な裁判報道など

大ちゃん事件

1985年ダンプカーに轢かれたエホバの証人子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。

せっかん死事件

1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人信者子供が死亡した。

参考:http://www.jwic.com/abuse.htm

神戸市高等専門学校神戸高専)訴訟

エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。

判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf

なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。

輸血拒否事件

エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日最高裁判所患者人格権侵害したと判決した。

ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。

エホバの証人プレスリリース英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm

判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf

このほかにも、エホバの証人国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。

参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?

2009-01-25

童貞について

PC内整理してたら変なテキスト発見

作成日は一昨年のクリスマス

ファイル名は「doutei」

どうやら童貞についてまとめたものらしい。

以下

童貞語源

童貞」 の本来の意味ですが、「童貞」の「童」は子供のこと、「貞」は、貞節、貞操などというように、

主に性的節操を守ることを意味します。

つまり子供の頃の状態を守る、性的に清潔で「生まれたままである」「清らかな体である」 というような意味になります。

日本語の「童貞」という言葉が成立したのが正確にいつなのかは不明なようですが、「野球」「資本主義」などと同様、

外来語由来の新しく作られた日本語であるのははっきりしていて、「Virgin」の日本語化だったようです。

日本での初出としては、1678年、捨て子などを保護教育に勤めたニコラ・バレ神父による、

パリのサン・モール街の修道女の養成所を出発点とした「幼きイエス会」が源流となるフランスカトリック教サン・モール修道会が、

外国人子女のために1874年日本横浜に設置したフランス語学校の名称が「ダーム・ド・サン・モール」 であり、

それの日本語表記が 「仏語童貞学校」 であることから、これを起源とするのが定説となっているようです。

この 「仏語童貞学校」、前身は 1872年明治5年) に来日したフランス人宣教修道女メールセントマチルダほか4名の修道女(シスター) により設立された、子女教育と貧困にあえぐ子供たちの救済を行う施設 (孤児院、施療院/ 仁慈堂)が基になっていて、

その頃までにすでに童貞という言葉も使われていたようです。

しかし当初は男性の性行為未経験者を指す言葉ではなく、性別を問わず生まれたままの者、

この場合は清らかな乙女、「主のために操を守り続けるカトリック教の尼僧」のことを指していたようです。

その後この「仏語童貞学校」は、「横浜紅蘭女学校」「横浜高女学校」などと名称や内容を変えながら発展し、

1958年現在の名称、俗に横浜女子御三家とも称されるお嬢様学校、「横浜雙葉学園」となっています。

男も女もみんな童貞だった訳ですね。

出身校に「仏語童貞学校」って書きたい。

セカンド童貞について

童貞を捨ててしまった後になることがあるもの

セカンド童貞の影響

現在予測されている効果は以下の通りである。

今後の展開

童貞は一度捨ててしまうと再び持つことは出来ない。」との主張や

童貞は恥ずべきもの」との風潮が蔓延しており、

これまで自らをセカンド童貞だと公言する者も、積極的に研究しようとする者もほとんどいなかった。

しかし21世紀に入り、価値観の多様化が進展したことで童貞であることの利点(というより、童貞童貞の差異の無さ)が再認識され、

それとともに2007年頃からようやく本格的な研究に入るための準備が始まった。

今後は21世紀中盤にかけて、その実在性の真偽についてから成り方に至る広い範囲の研究が進むことが期待される。

なんかセカンドインパクトみたい

童貞質量保存の法則

読んで字のごとく。「童貞」の「質量」が「保存される」という法則

近年その存在が証明された。

実例1

A君は童貞を捨てました。B君は童貞が2つになりました。

B君は童貞を捨てました。でもまだB君は童貞を1つもっています。

実例2

B君は童貞を2つ持っています。

ある所でC君が生まれました。

B君の童貞は1つになりました。

影響

これによって童貞は「童貞である」「童貞でない」という0か1かのデジタルなものではなく、

童貞を○個持っている」という連続的な概念となった。

また、童貞は持てば持つほど捨てにくくなる性質を持っているため、

溜め込むほど童貞卒業は遠くなる。

近年の理論的発展

日本では少子化の進行により新規童貞受け入れ枠が減少し、童貞一極集中化現象が起きていると言われている。

しかし地球規模で見るとむしろ人口爆発が起こっているため、現実の現象に対して研究者によって考え方が異なる。

以下にその例をいくつか挙げる。

少子化担当相に教えてあげた方が良いかも

まだあったけど今日はこの辺で勘弁。

一昨年のクリスマスなにやってんだよ、俺。

日曜の朝っぱらからなにやってんだよ、俺。

 
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