はてなキーワード: 単純明快とは
私は昔漫画やアニメが好きなオタクだったが近頃はほとんど漫画・アニメを見なくなった。
理由は極めて低俗で下劣な価値観に基づいて書かれた作品が余りにも増えすぎたからだ。
とある漫画アプリで高齢者をバッシングするような漫画、主人公を一話から女キャラが説教する異世界漫画、主人公の女性が敵対者を片っ端から論破する様子を見せたスカッと(笑)漫画が同時期に始まった時は激怒しながらアプリを無言で削除した。
その他にも作中に新自由主義や自己責任論のような差別的な価値観を織り交ぜた作品は見るだけで吐き気がしてくる。
作品を読んでいて不意打ちで主人公やその仲間に自分が気に入らない思想を言われたら本当に腹が立つし不意打ちで一瞬で好きだった作品を嫌いになるのが嫌だから大好きだった漫画をほぼ読めなくなった。
日常系漫画や異世界漫画ですらたまに気に入らない描写が入ってきたりするので最早昔読んだ漫画の何度も読んだ巻を読み返すのみである。
最近はドラゴンクエストユアストーリーやジョーカー2(こちらは未視聴)のように特定作品のファンへの嫌がらせのような作品もふえているのでますます戦々恐々である。
一番気に入らないのはキャラクターに気に入らない発言を突然吐かれても相手は架空のキャラクターなので反論も反撃も出来ない。
ゲームのキャラクターであればまだわざと何度もキャラクターにダメージを与え痛めつけて溜飲を下げたりも出来るが漫画やアニメは二次創作で間接的な反撃をするくらいで直接的な反撃が出来ない。
ただエロやグロのように何らかのゾーニングは必要なのでは無いか。
表紙に説教や自己責任論、特定の団体へのバッシングなどへの注意をするべきではないだろうか。
漫画界は自分達が単純明快なエンタメではなくゴーマニズム宣言や美味しんぼのような思想書を量産していることに気が付いて欲しい。
2024/10/20
回答が更新されていたので、改めて全ての回答を確認(差分や更新した回答者のリストがないので)し、気になったものを追加しました。
ブクマが想定より伸びたので、ボツにしたり見落としたりしていた回答をピックアップしました。
引用元:第50回衆議院議員総選挙の候補者に向けて実施した表現の自由についてのアンケート結果
設問(1-a):
設問(1-b):
表現はイメージの形成であっても道徳や日常の良俗に対抗、毀損することがある。判断力が未熟な子どもへの一方的な刷り込みとなることがあるので、世論を踏まえての規制は必要と考えている。
設問(2-a):
表現の自由は尊重するべきであるが、道徳や良俗へ対抗して毀損することがあるので、文化・価値は時代によって変化すると考え、世論を踏まえての必要最小限の規制はやむを得ないと考えている。
設問(1-a):
設問(1-b):
過激な表現を含む漫画等の規制は社会の道徳や秩序を守るために必要です。成人が所持等することが自由であれば、現実と虚構の境界が曖昧になり、犯罪の正常化を助長する恐れがあるため法令の規制は不可欠だと思う。
設問(2-a):
設問(2-b):
インターネットやSNS 上での名誉棄損や誹謗中傷を防止するために、厳格な対策を講じるべきである。しかし、過剰な規制に繋がり表現の自由を制限する危険性があるとも考える。
「続」の方で、典型的なフェミニストの表現規制派である立憲の阿部知子氏(神奈川12区)を取り上げたので、右派のそれもピックアップしないと公平性に欠けると考え、挙げました。道徳とか秩序とか良俗とか、そういう名目です。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の自由は、基本的人権ではあるが、他者の権利を侵害したり、他者を傷つけてしまうことまでも容認する権利ではないと考えている。諸外国から日本は児童ポルノ・性表現に対して厳しい評価が寄せられている。
設問(2-a):
設問(2-b):
設問(3):
「マンガ・アニメ・ゲーム」等の創作分野では、日本のクリエイターによる作品水準が高く評価されている。評価に対して、製作の現場の環境・待遇が見合っていないとされる点、改善に向けた支援や仕組みの整備が必要。
かつて規制に前向きな自民党の平沢勝栄氏や高市早苗氏等と共に、児童ポルノ禁止法改正の請願で紹介議員となっていた方です。設問3の回答では良いことを言っている(設問に即していませんが)のですが。
設問(1-a):
設問(1-b):
児童の人権を保障するための規制は必要だが、実在しないキャラクターについて規制することは表現の過度な制限にあたるのでないかとの疑念がある。
設問(2-a):
設問(2-b):
法的な根拠もなく言葉狩りによって現代社会がかつてないほどギスギスしている。他にも問題ある項目も指摘できるが、まずはそうした風潮を是正すべき。
街頭演説への野次に対する反応等、広く表現の自由という意味では首を傾げる主張もされている方ですが、この回答は評価したいです。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の自由は民主主義社会において極めて重要な権利であり、過度な規制はその自由を侵害する恐れがあります。実在しないキャラクターに対する表現が現実の暴力や犯罪に直結するとの因果関係は証明されていません。
設問(2-a):
AV新法による規制, クレジットカード会社の決済制約, ポリコレの言葉狩り等, 新サイバー犯罪条約による創作規制, ジェンダー平等論に基づく創作規制
最初に確認した時点では、神奈川20区は甘利明氏の回答だけだったと記憶しているのですが、更新されたのかな?
AFEEのコミケ街宣にも参加されている、表現規制問題に強い関心と知見を持った規制反対派です。
設問(1-a):
設問(1-b):
一定の表現について業界等が自主的な規制を行うことはありうるかもしれないが、政府が表現規制に介入することは表現や言論の自由の侵害に繋がりうるため極めて慎重に考えるべきであると考えます。
設問(2-a):
設問(2-b):
国会議員の立場としては、政府が表現規制への介入を強化する動きについて、極めて慎重に検討を要するものと考えます。なお、いささか設問の意図が読み取りづらい質問文と感じました。
すみません。岡山2区と勘違いしていて、回答がないと思っていました。山田太郎氏が支援されている候補で、回答内容も申し分ありません。
設問(1-a):
設問(1-b):
娘を持つ親として、こうした表現物に良い印象は持っていませんが、とはいえ、法令規制には慎重であるべきです。何が有害な表現なのかの根拠や、規制による効果・弊害などを十分に見定める必要があります。
設問(2-a):
設問(2-b):
特にポリコレの問題は行き過ぎだと考えます。表現への評価は受け手の良識に任せるべき部分も多く、表現行為自体の規制には慎重であるべきです。創作を規制することが、社会の安全を本当に高めるのか検証が必要です。
設問(3):
負けヒロインが多すぎる、葬送のフリーレン、僕のヒーローアカデミア
ネガティブな「お気持ち」の存在を認めた上で、それと判断を峻別できている回答です。
蛇足ですが、設問3で直近の2024年夏アニメを挙げている唯一の方だと思われます(ちなみに放送中の2024年秋アニメだと、『Re:ゼロから始める異世界生活』を挙げている方は複数いますが、それが3期アニメを指すのかは不明です……あ、マケインも原作やコミカライズの可能性はあるか)。
設問(1-a):
設問(1-b):
成人の所持を規制することにより、未成年に対する悪影響を最小限に食い止める保護策と位置付けたい。著作権や表現の自由との兼ね合いに配慮しながら、規制法の制度設計に努める必要がある。
設問(2-a):
設問(2-b):
一般人のわいせつ物に対する嫌悪感情会費を保護する目的の範囲内であれば規制は許されると解するものの、規制が独り歩きして過剰な取り締まりになることには懸念が残る。一定の緩和策が検討されるべきだと思う。
設問(2-a):
設問(2-b):
刑法の猥褻物頒布規制は「わいせつ」の定義が曖昧で、芸術や文化的表現が不当に制限される可能性があるため、表現の自由を侵害する懸念があると考えるため。
設問(2-a):
設問(2-b):
卑猥物頒布規制については、卑猥の基準が曖昧であり、規制を強めることで創造性や文化的表現を抑制する可能性があるという点で問題があり、卑猥な表現の制限と表現の自由とのバランス感覚を保つことが課題である。
設問(1-a):
設問(1-b):
実在する児童に被害を与えたり権利を侵害している訳ではない。表現が類似行為を助長するのであれば、殺人や戦争やヤクザを描いたアニメも規制しなければならなくなる。人権侵害がない限り、多様な表現を許容すべき。
設問(2-a):
設問(2-b):
「わいせつ」や「子どもの性的虐待表現物」の範囲が曖昧。愛好家だけが楽しむ場合や、芸術的表現であっても規制される可能性があり、表現者を不当または恣意的に規制・迫害できる恐れがある。
設問(2-a):
設問(2-b):
「わいせつ」(刑法175条)の定義と判断基準としての「社会通念」という概念が不明確であり、漠然不明確ゆえに違憲の疑いがあること。仮に明確化できたとしても、過度の広汎性ゆえに文面上違憲の疑いがあること。
設問2-bの回答で、刑法175条を問題視されている方々。たまたまかもしれませんが、維新に多かったです。
設問(1-a):
設問(1-b):
現実に被害を受けた児童への救済やその防止等の対策は万全にしなければならない。しかし、現実でないもの(創作物)への規制が、被害者の救済や保護、又はその防止に繋がるとは言い難く、規制は必要でないと考える。
設問(2-a):
設問(2-b):
意に反するAV映像が拡散流布される被害を止めるなど「忘れられる権利」を保障することは重要だが、過度の規制することにより、米国の禁酒法のように違法状態や被害がアングラ化し、本来の目的に逆行しかねない。
設問(1-a):
設問(1-b):
実在する子どもたちを性暴力や性搾取等の被害から守るための法律は必要だと考えるが、「悪影響が予想される」といった曖昧な理由から、成人の表現・創作活動に制限を加えるべきではないと考えます。
設問(2-a):
刑法の猥褻物頒布規制, AV新法による規制, クレジットカード会社の決済制約, ポリコレの言葉狩り等, 新サイバー犯罪条約による創作規制, ジェンダー平等論に基づく創作規制
設問(2-b):
表現の自由に対して規制する場合には、目的と手段を見て、過度な規制になっていないか、比較考慮して慎重に判断すべきと考えます。
共に申し分のない回答ですが、見ての通り、同じ選挙区です。
設問(1-a):
設問(1-b):
気持ちが悪い
単純明快でいっそ清々しいです。
ちなみに参政党候補者の回答に傾向のようなものはなく、党公約を踏まえたテンプレ回答も見当たらず、内容はバラバラでした。
設問(1-a):
設問(1-b):
所持や製造については、法規制をかけるべきとは思わないが、提供については、その表現に触れることで恐怖を感ずる人々がいること、また、その欲求や衝動を努力して抑制しながら生きている人に配慮が必要。
あまり見ないタイプの規制理由ですが、「ゾーニングは規制ではない」なる言説が極まった一つのかたちという気がします。
設問(1-a):
設問(1-b):
法令で実在する児童を性暴力・性搾取の被害を守るべきである。一方で政府の立場で科学的根拠が明らかではないにもかかわらず漫画やアニメを規制の対象とすることには慎重。
山田太郎氏とは党務を共にこなし、気の知れた仲だそうです。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の対象となるキャラクターはあくまで架空のものである。既存の概念に縛られない自由な発想こそが日本のコンテンツの強み。これを規制するべきではない。
デジタル副大臣時代に、赤松健氏の街頭演説会に参加されていた方です。
設問(1-a):
設問(1-b):
日本は児童性虐待描写物などの規制が欧米と比べて極めて緩い。これらメディアに数多く触れた者が性的暴行などに踏み出すケースも多い。人権を尊重する土台を築くためにも、せめて欧米諸国程度の規制が不可欠。
共産党の候補者にも、設問1-aで「法令で規制するべきではない」を選んでいる方はちらほらいて、できれば取り上げたいのですが、そこは民主集中制を採用している政党らしく、設問1-bの回答はことごとく党の2024年衆院選公約に準じた内容で、記事の冒頭でテンプレ回答として紹介したから良いか、となってしまいます。
そんな中、この大内まり氏。設問1-aはまだしも、設問1-bの回答は明らかに法規制を肯定しており、党公約とは齟齬がありますが良いのでしょうか。
「児童性虐待描写物」という表記も、2021年衆院選公約内で使用し、「描写物とはフィクションを規制するのか」と党外から批判され、2022年参院選公約からは「児童性虐待・性的搾取記録物」へ改めたという経緯があります。
ジャンプ+において今日限定で全話無料公開してるから読んできた。
ファイヤパンチに関しては以前一話目がネットで話題となったときに目を通した程度で、つまり一話しか読んだことがなかった。
それを今になって、一気に最後まで駆け抜けてきた。
で、感想としての第一声は「面白いじゃん」だった。内容的には今さら古典的なセカイ系!?と思わないこともなかったし、最後の終わり方なんて80年代の日本SF小説を思わせる(小松左京的な)ものだったけど、登場人物には個性があって魅力的だし、メタ的な語り役を設けることで先の展開を読め難くしていたりとで大変楽しめた。
後半で宗教を戯画しているのも良かったし、単純明快な復讐譚を"少年誌"という縛りがある中でどう捻りを加えるか?といったところに映画撮影を持ってくることで捻りを加え、ジャンプに対するメタ視線を取り入れるところも巧い。
感情の描写は絵でも言語でも上手いし、こりゃ売れるわけだと思ったね。
みんなもまだ読んでないなら読んでみては?
少なくとも、一読する価値はあると思うよ
昔はもっとひどい女性差別があって上野とかの闘争の結果としてどうにか現状のラインになってるという神話を無自覚に信じ込んでいる。
まず昔は世の中がいまより単純明快だったという思い込みがあるんだよな。NHKの白黒ニュース映像の中の日本。
ひどい差別は昔も今もあるところにはある。世の中は単線的に一方向に進歩したりしない。
「差別と闘う」ということが、誰か悪者を見つけて吊るしてもなんにもならないのは昔も今も同じ。
社会を少しでも平等に近づけていこうという地道な地歩にいまツイフェミが特段貢献してないように、古株のフェミ学者も昔から別に何も貢献してない。
そもそもそこにヒーローは存在しない以上、自称ヒーローは必ず偽物である。
舌先三寸で世渡りするインチキ言論人なんて商売が、ネットも何も無い時代に成立するということにリアリティ持てないのだろう。
戦前エログロナンセンスブームがあったみたいに日本の言論状況は大昔から百花繚乱のカオスでありいくらでも口舌の徒が跋扈していた。
半世紀後には「戦争国家に向かおうとする安倍政権をれいわ太郎が単身阻止した」みたいな雑ストーリーを悪気もなくペラペラ語る奴が出てくるんだろうな
この話はもっと時間と労力掛けてもっとわかりやすく語ることも可能だがそれも結果は見えてるしな
この場では。
いずれどっかでカチッと書き直すためのメモとして。
https://thecritic.co.uk/woke-invades-the-sciences/
性に関する事実は単純明快であり、高校の生物学の授業で習うようなことである。ほぼすべての動物や多くの植物は有性生殖を行う。ほとんどすべての有性生殖を行う多細胞種では、卵子と呼ばれる大きな配偶子と精子と呼ばれる小さな配偶子が結合することによって生殖が行われる。植物や動物の中には卵子と精子の両方を産む「両性具有」の種もあるが、哺乳類には両性具有の種はない。哺乳類では、各個体は1種類の配偶子しか産まない。比較的少数の)卵子を産む個体は雌と呼ばれ、(多数の)精子を産む個体は雄と呼ばれる。哺乳類の胚が雄になるか雌になるかは、(少なくともうまくいった場合、つまりほとんどすべての場合)一対の性染色体によって決まる: メスはXX、オスはXYである。
赤ちゃんの名前は出生時に決定される。 しかし、赤ちゃんの性別は「割り当てられる」のではなく、受胎時に決定され、出生時にまず外性器の検査によって観察され、疑わしい場合には染色体分析によって観察される。もちろん、どのような観察にも誤りはありうるし、まれに出生証明書に報告された性別が不正確で、その後修正される必要がある場合もある。しかし、観察が誤りやすいからといって、観察されているもの、つまり人の性別が、血液型や指紋のパターンと同じように、客観的な生物学的現実であり、「割り当てられる」ものではないという事実は変わらない。
冷静な心を持った科学者たちが、このような簡単に反論できる見解を唱えざるを得なかったのはなぜだろうか?その原因は明らかに政治的なものである。医学界の権威が、生物学的現実について正直に語りたがらないこと、そしてそれを不誠実に語ることに無頓着であることは、トランスジェンダーの人権を守りたいという称賛に値する願望からきているのだろう。 しかし、その目的は称賛に値するが、選択した方法は見当違いである。 トランスジェンダーの人々を差別やハラスメントから守るためには、性別が単に「割り当てられたもの」であるかのように装う必要はない。
時系列めちゃくちゃじゃねーか
イスラム教の成立は7世紀。だから中世に十字軍をやってたんだよ。そしてイスラムの成立・発展の理由はキリスト教の腐敗ではない。その時期はキリスト教がそれまでの国教化と勢力拡大に伴う解釈の分岐を統合する教義論争が盛んで、三位一体説などの複雑怪奇な教義が正統として定められていった。異端審問・魔女狩りの時期はもう少し先だが、それに向かっていく厳格化の時期だ。だからこそ、教義が単純明快なイスラムが広まったんだよ。
プロテスタントは16世紀だ。そしてプロテスタントが自由だ退廃的だなんてのは真逆で、プロテスタントの方が戒律に厳しく、腐敗していたのがカトリックだ。だいたい免罪符を引っ張ってくるならそれを批判するプロテスタントが自由で気楽で退廃的なわけがないと分かるだろう。単純な知識だけでなく論理的な思考すら欠けてるぞ。
良内容だけど、この文章を読んで意味が分かるのは、たぶん読む意味があんまりない人達(こういう事情をある程度は理解済みの人達)で、一番読む意味がある人達(未だに再エネは割高だとかインチキだとか欧州や中国が自国優位になるルールメイキングしてるだけだとか原発は安定的なベースロード電源として不可欠だとかうるさい左翼を黙らせて既存原発を再稼働すれば電力は安価に潤沢に使えるようになるとか思ってる人達)は、読んでも書かれてることの意味がわからないと思う。
結局世の中の人の8割ぐらいは、原発は勝つのか負けるのか、再エネは善なのか悪なのか、俺たちは誰に向かって何を怒ればいいのか、そういうレベルの単純明快な話しかわからんのよ。
当方普段はゲーセン行かない民、コンビニでミライドンのメザスタ用タグが配布されてて、そういやそんなのあったね、ということで初めて遊んできた。
メザスタってのはポケモンのデータが入ったプラスチックのタグを使って遊ぶ筐体で、まぁ詳しくはググってね。
それで何がすごいってその集金力よ。
まず1プレイに100円を払う。
ゲームを始めると任意のボスポケモンが登場するステージを選択。レアリティの高いボスポケモン1匹と普通のポケモン2匹が敵として出現する。
自分のポケモンがいない場合はレンタルポケモンを3匹借りて出撃が可能。
遊び方は単純明快で、①相手に相性の良いポケモンを選ぶ→②引いた数字分だけ攻撃力を増加させるルーレットを回す→ボタンを連打して技の威力を上げる、の繰り返し。未就学児童でも一回やれば覚える。
攻撃をしているとだいたい雑魚敵が先に倒れる。と、そこでゲットチャンスが到来する。
ここで100円を払う。
雑魚敵のゲットチャンスに100円?と思うかもしれないが、ここで雑魚敵のゲットチャンスを押さえておくと戦闘ターンが増えるのだ。このゲーム、通常だと3ターンしか攻撃チャンスがないんだが、レアリティの高いボスキャラを倒し切るには3ターンだと足りない場合がままある。
そこでゲットチャンスに課金してターンを増やすことで、ボスキャラを倒す=レアリティの高いポケモンを捕獲するチャンスを増やすわけだ。
ここでも100円を払う。
ボスキャラをうまく倒せた場合、2匹目のボスキャラが登場する。ここでも戦闘を一通り終えたらゲットチャンスが到来する。
ここでも100円を払う。
なお書き忘れたが、ゲットチャンスが訪れた際にはボールの種類を決めるルーレットを回す。グレードの高いボールを引ければ捕獲チャンスも増える。バトルで使うルーレットは目押しっぽい挙動をするがここだけ完全に確率。見た目上は明らかにハイパーボールで止まっても実際に投げるのはモンスターボールになったりする。なんでやねん。
モンスターボールとかだとボスキャラは大抵捕獲できず、横にいる雑魚敵が捕まえられる程度である。
つまり、ここまで人によっては3〜400円を投じているにも関わらず、出てきたモンスターボールのせいでレアリティの高いポケモンは捕まえられずに終わり・・・とならないのがメザスタのすごいところである。
このシークエンスでは闇鍋形式だが捕獲1回につき必ず何かしらのポケモンを1匹ゲットできる。捕獲1回あたり100円で、である。
ポケモンはコンスタントに4匹程度は登場するので、全部やると400円である。確率は少ないが高レアリティのポケモンはここでも入手ができる。(実際自分も星5のテラスタルゲンガーを引いた)
恐ろしいことに、プレイヤーはこの手前でレアリティの高いボスポケモンをあと一歩のところで逃した状態にあるので、ゲーム全体の中で最も課金密度の高い部分があたかも救済措置であるかのように感じてしまう。そしてこの最後のゲットチャンスで高レアなポケモンを引いたら、最初に狙っていたボスポケモンを倒せるかもしれない、とさえ思う。
つまりだ、最初100円のように見えた1プレイあたりの料金は、一連のバトルが終わるまでには最大で1プレイ400円に化けており、最後のゲットチャンスを全てこなすと1プレイ800円に膨らんでいる。
しかも文章では怠くなってしまった一連の工程は適度な集中を要求されるテンポの良い演出により1周15分程度でグイグイ進んでいく。ゲットチャンスに100円を投入するにも時間制限があるので短い時間で課金するかしないかの判断を平均して2〜3分に1回程度迫られる。1回あたりは少額とはいえソシャゲも驚きの課金圧である。
今回初めて遊んでみて、大人はまだしもメインのターゲット層であろう自制心の弱い子供にこれを慣れさせちまうのはだいぶヤバいんじゃないかと思える内容であった。4〜5回やったら買い切りのポケモンのソフトも大抵のグッズも買えるじゃん・・・
細かいところに読みにくさは感じるけど確実に読ませる面白さはあるので5巻まで一気に読めた。ただ本筋が「主人公の成長」な以上ヒーローvsヴィランに話を絞るわけにもいかないのは分かるが、学園生活といずれ再来する強敵への懸念の両立で心が忙しなかったのが残念。これは私が群像劇でない限りは大きな話だけを進めて欲しいと思ってるだけで、気にならない人はまったく気にならない、むしろそこが良いってなる箇所ではある。
主人公・緑谷出久は使命感や焦りのあまり無茶な闘い方をし続けてしまう未熟な少年。がむしゃらに頑張る姿は話を引っ張るけれど、その場を乗り切ることだけを考えて全力を出して治療される流れにフラストレーションが溜まる。ただこれは作中でも否定的に見られている部分、いわゆる主人公が乗り越えるべき壁であり、オールマイトも不的確な指導を注意されている。デクの戦い方はこの先もっと変化して面白くなっていくんだろう。師匠ポジのオールマイトも完全無欠ではないのが泥臭さを出していて良い。
早くも登場した手強いヴィラン・死柄木弔は、明らかにデクと対比されて描かれていたのが面白かった。ヒーロー(もしくは強い者?)に憧れ、ややオタク的で、そして後継者を探す大人に「(ある意味で)利用されている子供」という点で共通しているのかと予想している。思想が浅すぎると思ったら楽しみたいだけ、というのも単純明快で良い。本当の気持ちや真の目的はまだ隠れていそうだけど。
戦闘描写について、アクション漫画はあまり読まないのでその方面の感想は書きづらい。読みにくいということはなかったが、心熱くなる動きがあったわけでもない。麗日お茶子vs爆豪勝己はとっても燃えたのでベストバウトに挙げたい。
「アメコミ」リスペクトの面はどうだったかと言うと、良いところもあれば好みじゃないなーとなるところもあった。
個性=固有の能力は、かっこいいものもチープなものも何でもあり!なところはワクワクするし、有象無象がてんやわんやする雰囲気は楽しい。みんなのヒーロースーツも個性に合わせたギミック・特色たくさんで読み応えがある。酔い止め防止とか出力コントロールとか、そういう細かい技巧と設定は燃える。
扉絵がかっこいい。
一方、擬音が中途半端に英語表記だったり、「画風」や「シルバーエイジ」などの用語は(少なくとも5巻まででは)何を指しているのか分かりづらく、アメコミっぽい用語を使ってみただけになってるのが没頭の邪魔をした。
特に気になったのは重要な「ヒーロー」の扱い。舞台の現代日本における「ヒーロー」の定義や立ち位置が少し汲み取りにくかったので、多くのキャラクターが掲げる「ヒーローになりたい!」にあまり乗れなかった。商売っ気が絡み、育成や資格の壁があり、(当然ではあるが)アメコミヒーローとは違う。ヒーローなのに学歴・経歴関係あるの夢がないなあ。仲間同士ギスギスしているのはアメコミも割とそうだけど皆そんなに喧嘩腰じゃなくても……と思ってしまう。ただこれは私がアメコミのイメージに引っ張られすぎていることが原因だろう。いっそアメコミのことを頭から取り出して読めばすんなり理解できるのかもしれない。あと喧嘩腰なのは学生だからというのもありそうだ。プロヒーローはそういった様子があまり見られなかったから。
この映画についての物議・炎上はいくつかあって個人的にも嫌な印象しかなかったんだけど、どうせ自分一人が見ても見なくても日本での売上は芳しくはないだろうと思って見に行ってきた。
そうしたら頭の片隅でずっと考えつづける映画になったので、思うところを吐き出しとこうと思う。
深夜の書きなぐりだから色々お粗末だろうが勘弁してほしい。
長いぞ!あと普段このサイトをそんなに見ないので空気感も分からない。
一番面白かったのは、ケンがバービーをやっと惚れさせることができた!!と確信して2時間か4時間かギターで弾き語りしてたあたり。
理由はざっくり後述するけど、男社会化したバービーランドで自信満々に振る舞っていたケンが、歌詞では『こんなダメな僕でも愛してくれるかい』みたいな弱気なことを言っていたのが毒っ気があってよかった。
それで、語るに外せないこの映画の社会的な側面についてだけど、当然かなり強いメッセージが感じられる映画ではある。
興味深いのはやっぱり、この映画がフェミニズム映画として評価されているのと同時に、アンチフェミニズム映画としても評価されているところだろう。
実際映画を見てみて自分も納得した。監督は女性で、女性についての映画を撮ることが多いそうだが、実はアンチフェミニズムの厭世観たっぷりなオジサンが撮ってますと言われてもまあ分かるような映画だと思った。
バービーが住んでるバービーランドは、完全な女社会だ。もっと言えば、現実の(従来の、あるいは誇張された形の)男性社会の反転だ。
総理大臣、一番偉い検事、ノーベル賞受賞者、マスコミ、工事現場で働く人、幸せで自由な住民。そのすべてが女性、つまりいろんなタイプのバービー人形である。
バービーランドには男性もいる。いろんなタイプの、と言ってもバリエーションは限られ、全員若い男だけだが、ケン達も住んでいる。
しかし彼らはバービーのおまけだ。バービーににこやかに挨拶して、バービーにかっこいいところを見せて、バービーがいなくては生きていけないと言うためだけに存在している。
夜になって、メインのバービー(以後マーゴット)に、メインのケン(以後ライアン)がキス待ち顔をしてみたり一緒に過ごさないかと提案してみるけど、ライアンはマーゴットに気まずそうに追い払われる。ライアンはもちろん深追いしたりせず笑顔で去る。全く彼を顧みず女子会に赴くマーゴットにいい感情は抱いていないのだろうけど、その国ではそうするしかない。
そう。この映画はバービーの付属品のケンたるライアンの、口に出せない苦しみからはじまっている。
そしてその直後に描かれるのが、バービーであるマーゴットの、バービー社会での初めての違和感だ。
バービーが『死について考えたことは?』と口にした途端、鳴り響いていたEDMが止まりパーティーが凍りつく。バービーランドでは多分、深く暗く考えることは好かれることではない。ライアンも後々深く考えるマーゴットは好きじゃないなどと言う。
ギャグの文脈でもあるだろうが、ちらほら映っていた重役のバービー達の仕事っぷりもそんなに思慮深そうではなかったし。
そんなマーゴットが抱えた違和感を出発点にして、マーゴットは、勝手についてきたライアンと一緒に、バービーランドを出て現実へ旅立つことになる。現実とはそのまま、人間が暮らす現代の社会──もちろんアメリカだ。(この旅の最中も、例えばライアンが料理か何かをしている最中にマーゴットはのんびりコーヒーを飲んでいたり、ちょっとした違和感が散りばめられていた。それともこれを違和感と思う自分の認識の歪みに気付かされるギミックなのかもしれないが)
そこからはかなり端折って説明する。マーゴットが旅に出たのは自分に起こった変化を治すためだったが、マーゴットは事態を解決する人間を見つけてバービーランドへ戻る。ところがそこは、現実の『男が尊敬される』男社会に感銘を受け、一足先に舞い戻っていたライアンによってケンダム(ケンの王国)に作り変えられてしまっていたのだ。
バービーたちは軒並み『洗脳』されており、大統領がメイド服でビールを運んだり検事がケンにマッサージをしてたりなどなど、変わり果てた有様にマーゴットは絶望するが──『変化』が嫌だと泣きわめいて──しかし、連れ戻った人間がバービー達をその洗脳から解き放つのだ。
バービー達はケンたちによる憲法の改正を食い止め、バービーランドに平和が戻る。
これが大筋だ。
この洗脳の下りは紛れもなく『woke』の比喩。しかも2重に交錯させた比喩のはず。
wokeとはググっていただきたいが、ざっくり説明すれば、直訳で目覚めた人々を意味し、フェミニズムなどの活動家を指している。侮蔑の意味合いで使われることもあるようだ。
表層を見れば、ここで描かれるwokeはバービーたちの方だ。
人間は、ケンダムと化したバービーランドの『おかしさ』をバービーたちにぶちまけて洗脳から解き放つのだが、やってることはひたすら説得である。人間はひたすら女性の生きづらさ──家事や子育てを押し付けられながらも綺麗でいなくてはならないとか、そういう愚痴をバービー達に語りかける。それで、バービー達は突然ハッと目を見開く。まるで今ようやく目が覚めたかのように。それで洗脳はとけ、社会を変革しようと活動し始める。
でも、作品の中で一番最初に『目覚めていた』のは、きっとライアンだ。
ライアンは男が立派な仕事をし、女性に必死にならず、振り回されず、通行人が丁寧に時間を聞いてくる現代社会に感動して、現代社会を作っていると図書館の本に書いてあったらしい、『男社会』の概念をバービーランドに持ち帰った。それは日本で言うところの『海外を見て日本の異常さに気づいた女性フェミニスト』の反転ではないだろうか?
バービーランドで無価値だった自分に気付かされた、ライアンもまたwokeだったのだ。
ライアンが短時間に実際どうやって、ケンたちはともかく、バービーまで男社会に染め上げることができたのか映画の中ではハッキリとは描かれていなかった。(とあるバービーが、バービー達は耐性が無かったのでケンに洗脳されたとは言っていたが、曖昧だ)
正直なところ、ここの急展開は若干違和感だった。まるでこの映画を、フェミニズム映画に仕立てるために無理やり男社会と女の生きづらさのエッセンスを詰め込んだシーンのようにも見えて、見ている間はずっと、制作陣はこれを皮肉のつもりで撮っているのだろうか?と勘ぐっていた。
それに、その違和感は多分全く見当違いなものでもなかったと思う。
結局ケンダムの夢は崩れさったわけだが、マーゴット(それか人間だったかも)は今までのバービーランドに戻るのではいけないと他のバービーたちを諭す。
その中で初めてバービーたちは、ケンたちがどこに住んでいるのか自分たちは知らないという事実に気づく。まあ多分、バービーシリーズの商品展開について詳しくないけど、ケンの家は存在しないんだろう。
その結果、バービーたちはケンたちの人権を認めると言う。ケンたちは大喜びだ。ある一人のケンがバービーに言う。『おれも最高検事になってもいい?』バービーは真顔で即答する。『それはだめ。でも下級検事ならいいよ』ケンはそれに喜び、ナレーションが入る。『ケンたちはまだまだこれからのようです…』
かなりの皮肉だよね?
口では権利を認めながら、実際は希望の職につけるかどうかは既得権益者の許可制なわけだ。明示的なwokeとして描かれた、女性の象徴であるバービーたちがその矛盾、つまり性差別をやらかしてる様をバッチリ描いている。結局変わらない憲法も、制限された自由に気づかず喜ぶ被支配者たちも、いびつだ。
これは、目覚めた過激なフェミニストたちがこのまま突き進んだって女尊男卑が訪れるだけですよ、なんてメッセージなのだろうか?
支障がなければいろんな人にこのシーンを見てほしい。これは、おそらく確実に、どちらとも取れるシーンだ。そしてその違いはきっと、その人が、今世間にあるフェミニズムをどう捉えているのかにかかってくる。
このシーンは現実の『行き過ぎた』フェミニズムの本末転倒差を指摘するものであるとするものと、あくまで現実の女性の苦しみのメタファーであるとするものだ。
前者は先程書いた通り。こういう見方をする人は、きっと『何でもかんでも男女差別だという今のエセフェミニストどもにほとほと嫌気が差している』という昨今なのではないだろうか。正義棒を片手に暴れ回る人々の脅威を感じているので、このメタファーが真に迫って見える。
後者は、きっと現実にはこんな女性優位の場所は存在していない(あるいはひょっとして存在し得ない?)と思っている人だろうか。だからこのメタファーがフィクションとして見れる。現実の女性と男性をただ反転させて描いただけだと読み取れる。性別を反転させて世の歪さを描こうとした作品はそう少なくはないだろうし、その系列だとも十分読み取れると考えられる。
結局変わらないルール。相変わらず性別の偏った管理職の面々。覚えのある話だろう。
はっきり言って、まるで分からない。そして(驕りかもしれないが)分からないのはきっと自分だけではないと思った。現に全く真反対の2つの陣営で評価されているのだし。
映画『バービー』は絡み合った皮肉だ。ただのフェミニズム、もしくはアンチフェミニズム映画だったとして、ここまで現実と比喩とを交錯させる必要はないんじゃないか?制作陣が描きたかったのは果たしてそのどちらかの主張なのか?
多分違うんじゃないかというのが、前置きが随分長くなったが、自分の考えだ。
映画バービーの締めくくりは、なんとマーゴットが人間になるというものだった。
変化の兆しを見せつつあるバービーランドに、マーゴットは上の空だった。あれだけ戻りたがっていた、バービーらしい日常に帰れることへの喜びは見えない。そこへ(詳しくはかかないけど色々あって現実で出会っていた)バービー人形の生みの親、ルースが現れ、マーゴットに手を差し出すのだ。
変化するのが嫌だ!と泣いて嫌がっていたマーゴットが──今思えばこの変化を拒む仕草も既得権益者側の改革を拒む姿勢のメタファーかも──考えが刻々と変わり、喜び、悲しみ、老い、変化していく『生き物』である人間になることを考える。
マーゴットは人間社会に飛び込んだとき、トレーラーにあるとおり警察に捕まったり、男にセクハラされたり、バービーランドとはまるで違う現実の荒波に揉まれるわけだが、その後、座ったベンチから、人間の生活のさまを広く見渡して涙を流すシーンがある。
公園の遊具で遊ぶ子供たち。親子。親密そうに語り合う若い男性二人。老人も。
マーゴットはそこで初めて、人間というものの理解の第一歩を踏み出したのだ。
そしてふと目を開けて、隣に座っていた老女と見つめ合うと、『あなたはきれいだ』と言って涙ながらに笑ったのだった。
流し見たインタビュー記事によれば、ここは監督が決して譲らなかったシーンなのだという。少なくとも監督のコンセプトにおいてかなり重要なウェイトを占める場面のはずで、実際演出も印象的だった。
映画のラスト、マーゴットはルースとの対話の末、人間になることを選ぶわけだが、その決断のときにも、人生というものがとても美しく描かれた。
笑顔の子どもたちが映るホームビデオ風の映像がいっぱい流れたのだが、最近こういうの全般に弱くて泣きかけた。
人生に起こるいろいろな問題に苦悩しながらも、人生の素晴らしさについて描く映画は一種のジャンルだろう。この映画はきっとそれに位置する。
男女差別についてかかれていたのは、勿論テーマ自体は主役扱いで、不誠実な描かれ方はされていなかったが、他の映画における、例えば叶わない夢の話や、恋、はたまた自然環境、仕事、社会問題など、『現代社会に生きる人々において共感を得る悩みごと』としてのテーマでもあったのではないか。
だってそうじゃないと、マーゴットは、他のバービーたちに背を向けて、バービーランドを抜け出さない。理想郷に永遠に住み続けていればよくて、いずれ死を迎える人間になんてならない。この映画が、女性は女性の理想郷で生きる権利がある、なんて事だけを説く映画なら、そんなエンディングにはしないはずだ。
いま分断社会に生きる我々は日々大いにストレスに晒されている。その中でも、人生が素晴らしいのだと思えるようであってほしいと伝える映画だというのが自分の所見だ。
少し話は戻るが、最後のマーゴットのルースとの対話の中で、細かい流れはうろ覚えだけど、特に印象に残った言葉があった。
人間になりたい気持ちの間で揺れるマーゴットが、バービーとして生まれた自分が人間になっていいのか、と産みの親に訪ねる。それに、答えるルースの言葉が、
さっきこれは単なるフェミニズム映画というわけではないとか力説したばっかりだが、テストで作者が考えるフェミニズムとは何ですかなどという設問があったら、自分はこれを抜き出して回答する。
男女差別と、人間賛歌という2つのテーマを包括する答えでもあるだろう。
フェミニズムが女性のためのものか、男性含む人間のためのものなのか。どちらと答えても炎上する今の世の中で、論争を煙に巻いて、たった一つの単純明快なフレーズを残したようなコメディ映画だった。
普通の見た目が一番モテる、とか巷ではよく言われるけど、見た目至上主義が加速してる今では美人がもてはやされ金を稼ぎさらに美人になる外見資本主義
それに一般人は乗りこむことすらできない
よっぽどバイタリティがあるか、頭が良くないと結局そこそこの年収しか稼げない
ちまちま努力してるモブより、圧倒的見た目に全振りした人たちが華やかに巨額の金を手にしていることが惨めで仕方がない
単純明快、見た目を整えたら周りの人達から一目置かれる、羽振りも良くなる、何より毎日鏡を見るのが苦痛じゃなくなる
みんな綺麗なところしか見せないのにね
資本主義ではお金持ちはよりお金持ちになっていくように、外見資本主義でも美人はより美人になっていく
その見た目で得る経験がまた糧になっていく
逞しく生きていく彼女たちを立ち止まりながら見ることしかできない
こんなこと言いながら、かわいくもなれない、お金持ちにもなれない、こつこつ地道に働く私は自分をこっそり胸の奥で肯定し続けながら明日も質素に生きていくのです
「身長」ではなく「人種」についてだが、共通する部分もある話題
このように、特定の人種が恋人探しで不利な立場に追いやられる現象は、「セクシュアル・レイシズム(性的人種差別)」と呼ばれる。
恋人探しサイトでは、相手に望む条件を入力してパートナー候補を絞り込める。そのため、人種のように単純明快な要素が恋人探しに及ぼす影響は昔に比べて大きくなっているのかもしれない。一部の人は人種や性別を理由に最初から排除されてしまい、オンラインでの出会いのチャンスが閉ざされているのだ。
この点を自覚している女性もいる。ある25歳の白人女性は、オンラインサービスより現実世界で恋人を探したいと言う。そのほうが先入観を持たずに済むからだ。
「現実世界のほうが先入観による決め付けを排除できる。オンラインでパートナーを探す場合、私たちは最初に相手を品定めしようとする。相手も同様の姿勢で臨む......その結果、多くの壁が生まれる」
インターネットのテクノロジーは世界から境界線をなくした面も多いが、恋人探しに関しては必ずしもそのような機能を果たせていない。社会に存在する境界線はそのままになっている。
アジア系男性は「恋愛の序列の最下層」──リアルもオンラインも、なぜモテない | ワールド | for WOMAN | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2020/03/post-353.php
子供が生まれたので早起きの習慣ができたことをきっかけに、日曜の特撮を見るようになった
10年以上ぶりに見たドンブラは確かにそこそこ面白かったが、あれはあれでなんか違う別個体のような印象なので感想はスルーしていた
ストーリー自体は5人の王様が登場し、それぞれの国を治めつつ強敵と立ち向かうという単純明快なもの。一人一人が自分の国と国民を最重視しているために目的が「敵の排除」ではないってのがいい感じだ。目的に合致しているのならば敵すら利用するし、その流れも悪くないと思う。今のところはギラが王権を奪うまでの第一章という感じだろうか。ここから王座を奪われたり新たな敵がでたり2000年前の真実が明らかになったりと、舞台設定が単純なゆえに何でもできそうでワクワクする。
登場人物もいい。なにより悪役が主人公サイドにいるのが斬新かつ楽しい。
物語的にはラクレスの暴虐ぶりが際立つけど、彼はむしろ不器用な面ばかりが目立っていているし、自分の欲求に素直すぎるというだけなのかもしれない。
逆にトウフの国王の方があっちについたりこっちについたりと浮気癖があって、ある種のヴィランだなって感じ。有能で策謀に秀でているが明確な利益を提示しないと敵に回る厄介な人間。だからといって排除も無理。いいキャラだよね。
しかし、一押しは断然総長。断然せりふ回しと行動が最高にかっこよい。
毎回かっこいいのに、今回の話では、まさかのシュゴッド達を科学ではなく精神面で奮い立たせるという立ち回りをしたのはぐっときた。彼の持ち味のテクノロジーの分野はそのままシュゴッドに通ずる部分であり、だれよりもシュゴッドを理解しているはずなのにだ。自身の武器を一時的にでも捨て去り、まさに神頼みでもするかのように言葉でシュゴッドを起こしたのは、総長のキャラがないと成立しない。彼がずっと「シュゴッドは機械だ」と言ってこなければこの場面は薄い話になっていただろう。
というか、ほんとそれ以外でも総長はかっこよすぎる。主人公のよき相棒であり理解者でありライバルでもあるってだけでも凄いのに、一人でも全部持って行っちゃうんだから
凄いのは王様たちだけじゃない。その従者や脇役がいい。
普通、従者が活躍する作品って本当に珍しくて、わかりやすいのはブリーチみたいなのだろう。あそこまでキャラ数多いが全員成立しているのは珍しいのだが、ニチアサでそれをやっているのがキングオージャーでもある。
一人一人の王様をサポートする側がきちんと仕事をこなしている。外観としても、ヒメノは執事で、リタは補佐官、カグラギは黒子などわかりやすい。そして彼らだけで登場してもきちんと物語が生める程度には個性がしっかりしている。一人一人が国にとって重要な立場であることが示唆されているからなんだよね。
あと、シュゴッダムにいる例のうるさいモブ男。彼は徹底的なモブで風見鶏だが、どっちを向いてしゃべっているかで物語を誰にでもわかるように整理している超重要なキャラでもある。
彼がいるおかげで緩急がつくし、視聴者にいまどうなっているかを端的に印象付けられている。なにより子供もわかる野次馬という存在はほんと大事だと思う。イラっとするかしないかの絶妙な塩梅も素晴らしい。
トラバの増田たちは意図を理解して議論しているのに対し、ブクマかは意図が取れていないようですね。おそらく前提知識に違いがあります。
勝手ながら論点をまとめて知識を補足して良いでしょうか? anond:20230725121700
1. いわゆるお気持ち長文が読書感想文フォーマットであること
2. 日本の国語教育は読書感想文に偏りロジカルライティングを教えないこと
3. 議論においてお気持ち長文を書いてしまう人が多いのは国語教育のせいではないか
普通、議論において文章は 事実(データ)/ 意見(考察)/ 結論 に分けて書きます。
例えば「表現規制は犯罪抑制に効果があるか?」という議論においては
2. 考察: 各国の表現規制の状況と犯罪率の相関を調べ議論する
3. 結論
といった形になるかもしれません(あくまで例です)
〇〇が話題になっているようです。
(ここまでの経緯を要約)
私はこの記事を見てショックを受けました。まだ動悸と涙が止まりません。
(悲しい体験)
(悲しい体験)
(心を打つ名文)
このような人がいると知っていただけたら嬉しいです
元増田が言うようにこれは読書感想文フォーマットなのだと思います
もちろんただの日記ならこれでよいのですが、議論に加わるつもりなら不適当です
日本の国語教育は読書感想文や随筆に偏り、論文やレポートの書き方を教えないという事が 木下 是雄『理科系の作文技術』 において指摘されています
アメリカでは小学生からテクニカルライティングを教えているそうで同書に小学生向けの問題が紹介されていました。今手元に本がないのでうろ覚えですが
新聞の1節を読ませ、事実と意見に分けなさいといった問題で、大人の日本人でも手強いと感じる内容でした。
私もトラバ及び元増田に同意です。日本でもテクニカルライティングを教えたほうが良いと思います。
少なくとも、読書感想文が国語教育においてどのような効果があるのか?何を習得させようとしているのか?今のウエイトで良いのか?はちゃんと議論し直した方が良いと思います。
とはいえ我々の知っている小学校の授業はN年前のものです。もしかしたら現在の指導要領では見直されているかもしれません。(もしそうなら教えてください)
我々世代の国語教育について興味深い解説を見つけたのでトラバします:
「お気持ち表明文は適切な国語教育の結果」というお気持ち表明文
現在の新卒や大学生たちの受けていた国語の指導要領の解説です。
日本の国語はその目的の一つに道徳教育を掲げているという指摘とその影響について論じています。
https://anond.hatelabo.jp/20230725175238
お返事どうもありがとうございます。
これは本当によくわかります。
id:oeshi 国語については門外漢なんで雑にしか言えないけど、論理国語ってやつがそれに対応する目的で作られたんじゃないかな。でも現場教師が文学作品を好むのは事実。教科書会社も抜け駆けして小説入れたのが人気だったはず
id:oeshiさん、どうもありがとうございます
「論理国語」では、実社会において必要となる、文章を論理的に書いたり批判的に読んだりする資質・能力の育成を重視しています。
教材は、『近代以降の論理的な文章及び現代の社会生活に必要とされる実用的な文章』や『必要に応じて、翻訳の文章や古典における論理的な文章などを用いることができる』としています。
おおーーー! これですね! 学校の先生の皆様どうもありがとう!
理系は最悪大学で学べるので、文系にこそ選択して欲しいものですが。
それでも、以前よりはずっと良いですね。これからの若者に期待です。
id:mezirushi いまの学習指導要領では小学校の国語から「情報の扱い方」があって、ロジカルな読み書きも学んでいるはず https://www.meijitosho.co.jp/sp/eduzine/news/?id=20180189 情報の比較とか引用の仕方、出典の示し方までやってるみたい
id:mezirushiさん、どうもありがとうございます!
・第1学年、第2学年
ア 共通、相違、事柄の順序など情報と情報との関係について理解すること。
・第3学年、第4学年
ア 考えとそれを支える理由や事例、全体と中心など情報と情報の関係について理解すること。
イ 比較や分類の仕方、必要な語句などの書き留め方、引用の仕方や出典の示し方、辞書や事典の使い方を理解し使うこと。
・第5学年、第6学年
おおお・・・! 論理や議論の仕方をこのように教えるわけですね。なるほど
長年議論されていた理想の授業が詰め込まれていて いやはやスゴイです。
現場の先生の皆様ほんとうにありがとうございます!
それにしても現在学んでいる子供たちは我々とはもはや別者になりそうですね
私も負けないように勉強しないといけないな
すみません、他にトラバをいただいているようですが伸びすぎてしまって探せませんでした
反応できなくてすみません
傘の横持ちについて。
持った手を振って歩くと子供の目線に傘先がいって危ないからやめろといろんなところで注意喚起がなされている。
何を隠そう、自分は以前この持ち方をしていた。(今はしていないし、この持ち方をしていて人を傷つけたこともない。)
自分がこの持ち方をしていた理由は単純明快。小学校でそう教わったからだ。
小学生の頃(30年くらい前)に学校で傘は横持ちしろと指導を受け、それ以来特に深く考えることなく10年間くらいはその持ち方をしていたと思う。
昔自分が習った持ち方が危ない持ち方だと批判されているのはなんとも不思議な気分だ。運動中に水を飲むなという指導が間違っていたのと似たような感覚である。
傘の横持ち批判として「横持ちする奴は何考えてるんだ!」的なことが言われることがあるが、自分に関して言えば、「小学校でそう教わったから」という以上の言葉はない。
ガンダムの0083というのは、確か初めて主人公が職業軍人であるガンダムだったはずだ。
それまでのガンダムはどういうわけか民間人の少年が戦争に巻き込まれてロボットに乗って戦うという、
リアルロボット路線と言われながらもその部分の設定は全然リアルがないという不思議なものだった。
「なりゆきで巻き込まれたからって、今更やめるわけにはいかないのは見ればわかるだろう!!」
とか言われれてもやっぱり少年が戦争するのはおかしいよ、とも言える。
だから、こそ。だから、こそ。なぜ主人公は戦うのか?という動機づけが必要である。
と、ひらめいた河森監督は偉大だなあと思う。
アニメである以上、ただ上官から命令されたから戦争をする、ではいけねえんだよ。
奪われたものを必ず奪い返す。
カミーユとかさ、ついていけなかったしさ。
殴られた恨みを晴らすためにガンダムで生身の人間を追い詰めるとかさ。