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2019-01-12

ブギーポップは口笛を吹かない」あるいは「木村明雄の消失

アニメブギーポップは笑わない」1〜3話および原作ライトノベルブギーポップは笑わない』の内容に触れています

TVアニメブギーポップは笑わない」が放送中だ。ほぼ20年前にスタートしたラノベ原作であり、アニメ自体は二作目だが、原作の内容に沿ったアニメ化は今回が初めてとなる。

さて、そんなアニメブギーポップの「ブギーポップは笑わない」(原作シリーズ一作目)編が、最新の第三話で完結となった。平均的なラノベアニメ化としては、原作1巻を3話で消化というのは、極端に速いペースというわけでもない。それでも、もともとが5話で構成された原作を3話に再構成する上で、大小さまざまな省略・変更が発生することは避けられなかった。

そのうち、特に目についた二つの変更点について、思うところを少し書いてみる。

「君と星空を」&木村明雄

上で述べたように、原作ブギーポップは笑わない』は5つのエピソード構成された物語となっている。一話にそれぞれ主人公視点人物)が設定されており、一つの事件複数人間の目から見ることで立体的な世界が立ち上がってくる、といったような、今となっては(当時でも?)さほど珍しくはない仕掛けだ。

原作構成及び各話の主人公はこうなっている。

ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム


これがアニメでは、

ねこういう形に変換されている。話数単位で大雑把に見れば、各パートの分量はともかく原作の流れを大枠では引き継いだ構成と言えるだろう。

ただひとつ原作第四話がその主人公存在ごと抜け落ちている点を除いて。

原作第四話は、木村明雄という男子高校卒業後(事件から二年後)に、当時「失踪」した紙木城直子と過ごした日々のことを回想する、という内容になっている。

木村は、紙木城の交際相手の一人(アニメでははっきりと描かれないが原作の紙木城は木村田中を含めて複数の男と付き合っている)であり、事件にはあくま彼女を通して間接的にしか関与していない。紙木城から保護したエコーズについての話も聞くことになるが、何かのたとえ話だとばかり思っていた。

紙木城の失踪後、色々あったもの普通高校卒業普通大学生として普通生活していた彼の元に一通の手紙が届くことで高校時代記憶が蘇り……という、1話竹田と同じかそれ以上に青春小説的な色合いが濃く、いわゆる「一般人」の目線から見た章となっている。

アニメ化にあたって、章はともかく仮にも原作主人公の一人を丸ごとカットするのはあまり乱暴に思えるが、ここには一応それなりに納得できる理由がある。

第一に、事件の真の姿あるいはその存在すら知らないまま全てが終わってしまっていた、という木村明雄の立場は、程度の違いこそあれ竹田啓司(一話)や末真和子(二話)と重複している。一人一人に見える現実には限りがあるというテーマを示すためには、この二話だけで既に必要最低限のノルマは達成していると言えなくもない。

第二に、竹田と末真は以後の巻でも登場している(末真は準レギュラーに近い)が、二人と違って木村明雄は今のところ少なくともブギーポップシリーズ内では再登場しておらず、カットしても今後の展開に特に影響がない。

第三。エコーズの素性に関する情報は、原作では第四話で木村が紙木城から話を聞くという形で最初に明かされる。物語の本筋との関係においては四話の存在価値と言ってもよい部分だが、アニメでは2話後半、紙木城と凪の会話でほぼ同じ内容が補完されている。これは、原作でもそのようなやり取りがあったと事件後に凪の口から語られていたものであり(木村自分にだけ話してくれたと思い込んでいたが)、オリジナル展開というより変則的原作再現に近い。木村カットしてもそういう軽度の改変で済む部分なのだ

驚くべきことに原作『笑わない』には、凪と紙木城が親友であるという情報こそあるが、二人が直接会話するシーンは存在しない。にもかかわらず、読者にはちゃん彼女らが親友同士に感じられていたというのは小説マジックというほかないが、ともあれ、今アニメで凪と紙木城の会話が追加されたこ自体ファンにとって喜ばしくさえある。

これらの理由から、『笑わない』をTVアニメ3話分に収めるために章と主人公をどうしても一つ削らなければならないとすれば、やはり第四話と木村妥当ということになるだろう。アニメスタッフ判断は間違っていない。

間違ってはいないのだが。

口笛

原作において、ブギーポップというキャラクターはいくつかの記号によって構成されている(もちろんその全てが記号還元され得るというわけではない)

都市伝説死神世界の敵の敵、黒い帽子と黒いマントと黒いルージュ、ワイヤー、そして口笛。

ブギーポップは、常にというわけではないが誰かの前に姿を現す時、特に世界の敵と向かい合う瞬間には、なぜか「ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲を口笛で吹きながら登場する、ということになっている。

過去メディア展開でも、多くの場合はこの口笛が再現されてきた。

実写映画はあらすじの時点で「口笛を吹く死神」と紹介されているし、旧アニメファントム)ではブギーポップ登場時の口笛はもちろん、次回予告のBGMとしてオリジナルアレンジマイスタージンガーが毎回使われ、最終回ではテルミンバージョン???)すら流れるという充実ぶり。

メインの使用キャラクターではなくサポートキャラとしての出演に過ぎない、格闘ゲーム電撃文庫 FIGHTING CLIMAX」でさえ、ブギーポップはやはり口笛を吹いて登場している(実際にプレイしているわけではないので又聞きだが、そのせいで攻撃判定の発生が遅いとかなんとか)

このように、「マイスタージンガー」「口笛」はこれまで原作の内外で、ブギーポップというキャラクター作品象徴する、代名詞と言ってもいい扱いをされてきた。

原作『笑わない』では、ブギーポップは二度口笛を吹いている。一度目は、一話の竹田屋上で会話をしている時。

第一話 浪漫の騎士 4 - ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム

ブギーポップが口笛を吹き始めた。明るく、アップテンポな曲で、しかも呼吸に緩急があってすっごく上手だったが、しかし口笛なので、やっぱりそれはどこか寂しげだった。

 そして、藤花は口笛が吹けないことを思い出した。

うまいんだな。なんて曲だい?」

「〝ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲さ」

「なんだいそれ」

ワーグナーって大昔のやかましロマンチストがつくった、一番派手な曲だよ」

二度目は五話終盤、早乙女を失って荒れ狂うマンティコアに追われる新刻の前に姿を現す時。

第五話 ハートブレイカー 4 - ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム

 恐怖のあまり、私はついにおかしくなった、と思った。

 幻聴が聞こえだしたのだ。

 現実にはあり得ないほど不自然な曲が、目の前の並木の植え込みから聞こえてきたのだ。

 それは口笛であった。

 しかも、口笛にはまるで似合わない曲、ワーグナーの〝ニュルンベルクのマイスタージンガーなのだった。

いずれも、古くからの読者には印象深いシーンだろう。

しかし、今アニメの「笑わない」編ではこれらの口笛演奏存在しない。ブギーポップは、一度も口笛を吹かなかったのだ。

これも木村同様に尺の都合なのだろうか?

マイスタージンガーといえば、あの、ふぁーふぁーふぁふぁーという力強いイントロが印象的な曲だ。口笛でいうと、ぴーひょーろろーとなる。最低限この、ぴーひょーろろーさえ吹いてくれれば、少なくとも原作読者には「あの口笛」だと一発で分かるし、初見視聴者にも、ブギーポップというのは口笛を吹くキャラらしいということだけはなんとなく伝わっていただろう。

前回のアニメや電撃FC使用された口笛バージョンマイスタージンガーで、ぴーひょーろろーの部分の所要時間確認してみると、せいぜい2〜3秒というところだった。2、3秒。もちろん1秒24コマで動くアニメ世界での2、3秒は、日常的な感覚のそれよりも遥かに長い時間ではあるのだろう。だが本当に、今回のアニメ「笑わない」編は、ぴーひょーろろーを挿入するだけの余裕が一切存在しないほどに緊密な内容だったのだろうか。

どうしても時間が足りないなら、いっそセリフを喋りながら同時に口笛を吹かせてもよかったのではないかブギーポップというのは、そのぐらいの物理法則を超えた無茶も読者視聴者笑って許してもらえるような、良くも悪くも異質なキャラだったはずなのだが。口笛のためにそこまで冒険するほどの価値はない、と判断されたのか。

これが、今回のアニメではブギーポップは口笛を吹かない存在として設定されているということなのか、それともあくまで「笑わない」編だけの変更なのかはまだ分からない。次回からの「VSイマジネーター」編ではしれっとぴーひょろ吹き始めたりする可能性もある。しかし仮にそうなるとしても、「笑わない」で口笛を吹かなかったという事実は、もはや取り返しがつかないのだ。

原作未読者の中には、口笛が無いとなにか物語の展開に支障が出るのか?という疑問を持った人もいるかもしれない。たしかに、どうしても口笛が無ければ成立しないという場面は、原作にもほとんどない。もちろん口笛自体に、特殊振動波か何かで敵の脳に直接揺さぶりをかける、などという実用的な効果存在するわけもない。はっきり言ってしまえば、口笛は基本的雰囲気づくりの賑やかしでしかないということになる。

その意味では、削る必要はないが削ったところでどうということはない要素だったのだ、とも言える。

言えるのだが。

昔語り+α

ここで唐突に昔の話をする。

ブギーポップがちょうど一度目のアニメ化や実写映画化をしていた頃のこと。とある個人サイトにて、「実写映画になるっていうから読んでみたけど単なる化け物退治の話だった」というような『笑わない』の感想を見かけた。当時の自分シリーズ純粋ファンだったので、そのあまりにも大雑把なまとめ方に、大雑把にまとめてんじゃねーわよ!と素朴に憤慨したものだ。

しかし、今にして思えばあの感想示唆である複数視点による眩惑を取り払った一本の話として『笑わない』の本筋だけを眺めてみれば、それはたしかに「単なる化け物退治」の話でしかないのだ。

では、自分を含めた多くの読者に『笑わない』を「単なる化け物退治」ではないと感じさせた、「本筋」以外の部分とはなんだったのか。それは、自分の進路について語る竹田とそれを半ば無責任肯定してくれるブギーポップであり、

第一話 浪漫の騎士 4 - ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム

「へえ、君は受験しないのかい

「うん。親父の知り合いでデザイン事務所をやってる人がいて、ずっとバイトしてたんだけど、その人が〝おまえは見込みがある。センスを感じる〟とか褒めてくれてさ、大学なんか行かずに俺のところに来いって言うんで」

「すごいじゃないか親方に見込まれ職人ってヤツだな」

“対決”を望んで走る末真であり、

第二話 炎の魔女、帰る 3 - ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム

(そうよ──中途半端はもううんざりよ!)

 霧間凪はほんとうに魔女なのかも知れない。でも、それこそ望むところだった。

「No One Lives Forever」を口ずさむ早乙女であり、

第三話 世に永遠に生くる者なし 5 - ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム

「……誰も、誰も、誰も、誰も、誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も………」

新刻の意志の強さを賞賛するブギーポップであり、

第五話 ハートブレイカー 4 - ブギーポップは笑わない/上遠野浩平(電撃文庫) - カクヨム

しかし、新刻敬──君の意志の強さは見事だ。君のような人がいるから、世界はかろうじてマシなレベルを保っている。世界に代わって感謝するよ」

そして、木村であり口笛であり、そういった一見取るに足りない枝葉こそが作品の印象を形成していたのではないか

枝葉とは言うものの、ひたすら枝と葉を切り落として純化していった先にあるのは、ただ一本の幹だけがまっすぐ天を突く寒々しい樹の姿だ。口笛や木村が本筋に不必要だというなら、ブギーポップあんな格好をしている必要別にない。『笑わない』のプロトタイプとなる作品には早乙女存在していなかったともいうし、この巻に限って言えばブギーポップだって無くても成立しそうな内容だ(シリーズ全体で見てもブギーポップ世界設定の中で異物として浮き続けていている)。必要不要物差し物語を測れば究極的には、そもそもアニメ化する“必要”とは……?原作が書かれる“必要”はあったのか……?という不毛なところにまで踏み込みかねない。

ブギーポップというシリーズは、ことに『笑わない』は、この「剪定」の影響を大きく受けやす作品であるように思う。本筋に関わらない細部が、作品本質とは思いがけなく深く結びついてるかもしれない、という面倒くささがある。アニメ側にとっては、原作の味を再現するためにどこを切ってどこを残すべきなのか、という判断が非常に難しい題材だったのではないか

いや、ブギーポップに限らずどんな作品であっても、ファンアニメ化や映画化などのメディア展開のたびに、アレがないと○○本来の良さが失われてしまう!と感じてはいるのだろうけど。

まとめ

木村明雄の省略に関しては、大きな変更ではあるし非常に残念ではあるが、三話という尺を考えれば致し方ない(そもそも『笑わない』を三話でというタイト過ぎる構成の是非はともかく)

口笛に関しては、小さい部分かもしれないが逆にそんな小さいところを敢えて削る意味が分からないし、監督でもシリーズ構成でもプロデューサーでもいいので早めに誰かに何らかの説明をしてもらいたい。

ということになる。

原作から変えること自体は、いい。メディアの違いに加えて、予算時間など様々な制約もある以上、どうしたって変えざるを得ないところは出てくるだろう。だが、その変更に意図というか大げさに言うと「思想」があまり感じられないのはちょっと困る。原作から変えてまで実現したかたこととは何なのか。

前回のアニメ、「ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom」は、初アニメ化にもかかわらず『笑わない』のオリジナル後日談という暴挙とすら言える内容となっており、それだけにとどまらず「霧間凪一人称が『オレ』じゃない」など、原作からの変更点がいくつか存在した。当然、原作ファンから評価も当時はあまり良くないものが多かった。

しかし、ファントムというアニメからは、これが作りたい、こうした方が面白いはずだ、という意志は強く感じられた。原作からの変更点自体に納得できるかどうかはともかく、そういう姿勢を打ち出されればこちらも、へぇ……あなた達はこういう画面も話も異常に暗いアニメがカッコイイと思ってるんだ?「オレ」女はリアルじゃないって?へーえええええ……?と正面から受けて立つことができるというものだ(こめかみに血管浮き上がらせつつ)

今のところ、今回のアニメブギーポップは、原作読者の目から見ても決して悪い出来ではない。悪くはないのだが、どうも、どこに芯があるのか分かりにくいアニメ化となっているように見える。

公式が「アクションファンタジー」と銘打っているということは、「笑わない」編では終盤に集中して存在する程度だったアクション部分が徐々に増えていく、これからエピソードが本番ということなのかもしれない。たしかに、最初に公開されたPVでもアクション描写はひときわ光っていた。

次の4話からは、原作では上下巻の大がかりなエピソード「VSイマジネーター」編が始まる。そこでは、このアニメと思いきりVSできることを願っている。

追記

”『笑わない』のプロトタイプとなる作品には早乙女が存在していなかったともいうし” へえ  それどこ情報? - maturiのコメント / はてなブックマーク

”『笑わない』のプロトタイプとなる作品には早乙女存在していなかったともいうし” へえ  それどこ情報

電子版『笑わない』新規書き下ろし「後書き」。プロト版のタイトルは、「エコーズ──人喰いの谺」だって

2018-10-06

キズナアイを叩いているのはフェミニストではない

キズナアイに限らず最近よく見る二次元ヘイトやその派生形について「どこかで似たようなのを見たな」と常々思っていたのだが、やっと思い出した

5chの生き物嫌い板だ

たぶん今キズナアイを叩いている「自己認識フェミニスト」で「周りからフェミニストと思われている」層は、実は自らのフェミニストとしての側面からキズナアイを叩いているのではなく、もっと生理的嫌悪感からキズナアイ叩きに乗っかったのではないかと思う

そこに後付けできる理屈として妥当そうなものを探すとフェミニスト理屈しか見当たらなかったので、その理屈採用することで「自分フェミニストとしてキズナアイを叩いている」という錯覚に陥ってしまった(理屈がないところにも後付けで理屈を探してしまうのはツイッターはてななど文字ベースコミュニティにおいて顕著に発生しやす現象だ)

からBLはどうなんだ、性的搾取じゃないのか」のようなダブスタ批判的なもの意味がない

はじめから理屈ベース批判しているのならばダブスタ批判有効だが、生理的嫌悪感を取り換え可能理屈で糊塗しているだけならそのような批判無効

いくら理屈矛盾を示したところで生理的嫌悪感は拭い去れず、しか応酬理屈でなされる必要があるので無益言葉けが積み重なっていく

では何故生理的嫌悪感を抱くのかという話だが、ここに生き物苦手板との類似が見られると個人的には思っている

生き物苦手板の住人が本当に苦手なのは生き物そのものではなく、その中でも一部の動物に見られる「可愛さ」だ

それは単なる可愛さではなく、人間との共生の中である種「いびつ」と言ってもいいほどに進化した独特の可愛さ、人間認識に訴えかける「作られた可愛さ」だ(個人差はある。本当に種差別的理由人間以外の生き物が嫌いな人も少数ながらいるが、それはレアケース)

フェミニスト」と見られる人々が萌え絵には激烈に反応するのにBLスルーできるのは、別にダブスタを発揮しているとかではなく、BLはこの「作られた可愛さ」が足りなくてセンサーに引っかからないだけだ

この「可愛さ」は人間(に限らず、動物の親全般)の認知機能をハックし、脳に侵入して来て特別地位要求する

そして、危険病気を見分けるために進化した人間認知機能が、その病気の症状と似た徴候を示す無害なものニキビなど)にもネガティブな反応を起こすのと同様に、ある種の人は「可愛さ」に対して自動的制御不能な過剰防衛をしてしま

萌え絵明治大正少女小説挿絵中原淳一蕗谷虹児竹久夢二高畠華宵など)から少女漫画を経由して少年漫画ヒロインギャルゲーきらら系と時代に合わせて進化を繰り返しながら、いまや世界一辛い唐辛子のごとく「可愛さ」を超絶濃縮した劇薬となった

可愛い生き物がある種の人にとって破壊感情喚起する視覚猛毒であるのと同様に、萌え絵なかに純化され抽出された可愛さはある種の人にとってほとんど致命的な猛毒なのだ

2018-07-04

はてサは先鋭化、純化したらふわふわした無党派が後から付いてくると勘違いしたのかなあ

勝利分析は敗北の分析より難しいんだろうなあ

サッカーも今後大変だよなあ

2018-05-28

anond:20180528184524

分裂したぶん純化して見えるだけで先鋭化はしてないな。むしろ一つにまとまってた時代よりもグダってるだろ。

というか、政権を任せられる野党を育てるには、まず政権を任せるしかないと、いつになったら気付くのか。

2018-03-15

全盛期のオウム真理教伝説

ソースはその後のルポタージュや調査書籍や裁判記録から

・ワ〇ミや王〇をはじめとする宗教ブラック経営を初めてノウハウ運用をしたのがオウム真理教

拉致暗殺や脱走者の捕獲教祖の護衛として戦闘工作員部隊を持ってて内7割が元陸自隊員か元警察官

警察が入れたスパイが逆洗脳されて二重スパイにされまくりでヤバかったらしい

・全盛期は南は沖縄から北は北海道まであらゆる大学ダミーサークル勧誘員がいた

極左がショボいパイプ爆弾程度の製造がせいぜいだった時代RDXやANFO爆薬C4爆薬製造量産に成功

・当時の大企業研究開発部門大学研究設備よりも先進的な設備を導入していて、好きな研究やせてくれるのでそれ目当てに信者になった若手研究者が結構いたという事実

・「激安」という言葉日本で初めて使ったのはマハーポーシャのセールの時

・当時のパソコンオタクの大半はマハーポーシャ製のパソコンを持ってたor知ってた(当時からすれば破格に安くて性能が良かったから)

・元総合商社エリート商社マン会計プロ信者たちのノウハウ軍用ヘリコプターサリン原材料に至るまで、巧妙に書類芸術的鉛筆舐め舐めし税関を通して堂々と日本に輸入したという事実

24時間配達受付の弁当

密造したAK74設計図が何故か当時はロシア内務省軍の一部部隊しか配備されてなかった当時のロシア最新鋭の「M型」

インターネット黎明期ネットラジオ完備のHP制作してた

・培ったノウハウロシアに輸入すればシガチョフ事件に発展(詳細はググってね、どんだけヤバいかわかるから)

・未だにロシアの残党が戦闘力を増したまま存在しててテロ組織として監視されている

純化手順をあと2日繰り返せばサリンの純度が99.9%くらいまで高まった軍用純正レベルにできていたという事実、その場合の死者は1000倍に増えていたであろう海外専門家から指摘されている

・生成手順が設備投資含めて数億は必要であろうはずの毒ガス理系専門家集めて半年そこらで製造成功するという技術

LSD覚せい剤チャンポンを堂々と一回100万円の修行とか言ってパンフレットで配ってたというヤバさ

出家信者ガチ宗教学を24時間365日レベル勉強し、ディベートの達人たちを擁していたため、TV討論番組でハッ〇ーのサイ〇ンスと討論した時は無双状態圧勝

・当時日本では知られてなかったクリーンルーム手法を使ってAK-74をリバースエンジニアリングわず10か月で実射可能の試作品政策までこぎつけたとかいうありえない投資と開発速度と謎知識

オウムウォッチャーが潜入したら洗脳されて信者になった例多数

日本がまだ人材有り余って技術立国だった最後年代

「天下泰平の先進国で、かつてはあったが涵養されたりノウハウ実践で蓄積されるとひっじょーーーーにヤバい知識技術ノウハウから実践までやって、ブラック企業系など後世の日本に大迷惑スピンオフをしてた」のが、オウム真理教なのだ

なお増田大好きIT系でも相当技術力もあって稼いでた模様

2017-12-24

山本弘批判はどこが的外れなのか

https://togetter.com/li/1182893

 

シャワーはあるけど、コンドームはない(代わりにスキネ草がある)

コトが終わった後、「シャワーを浴びて」という文章に、思わず突っ伏して笑った。あるのかよ、異世界シャワーが!?

世界を描くにあたって現実世界と違う文化小道具を出してそれを表現するのは効果的だ。だからJKハル』においては書き出しでコンドームが草だということにハルが草を生やしている。

 あたしがこっちの世界に来てまず一番ウケたのが避妊具が草ってことで、「やべ、草生える」って爆笑したら、「生えませんよ」とマダムは真顔で言った。

「スキネ草も知らないの? もうかれこれ30年も前に錬成されてこの辺じゃどこの薬草屋にも売ってるけど。ずいぶん田舎から出てきたのねえ」

 スマホどころかネット電話も、そもそも電気もねぇ車も走ってねぇの世界の人によりにもよって田舎呼ばわりなんて、東京のみんなマジごめん。都市辱だよね。

避妊具が草という異世界文化が示され、ハルが「草生える」という日本スラングで応じる。するとマダム田舎者扱いされてしまう。異世界より文明の進んだ東京から来たというのに! この異世界現実世界文化が二度にわたって対比される冒頭は、普通に読めば相当ウィットに富んでいると思うが、しか山本はここを無視してシャワーがあるというだけで異世界想像力に欠けていると文句を言う。難癖もいいところであろう。

 

「異世界現実世界と変わった世界でなくてはならない」という不思議な信念に囚われているのは山本弘の方

問題書き手の側が、「異世界現実世界と変わらない世界でなくてはならない」という不思議な信念に捕らわれてるってことなんだよな。そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに。

「そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに」と言いつつ、他作家をそんなマイルールで縛ろうとし、不自由を強いてくるのは何なんだろうか? 自分勝手自分作品にそれを課していればいいだけであって、それをもって「想像力貧困小説」だと他作家作品批判するのは筋が悪すぎる。

山本は「わざわざ異世界に行く必要ないんじゃね?」と言うが、『JKハル』が異世界に行くのはもちろん理由がある。

ひとつは、「過酷男尊女卑世界東京JK娼婦となってサバイブする」というシチュエーションのためだ。これを現実世界でやろうとすれば両親の存在児童養護施設といった社会的セーフティネットを何らかの形で消化しないといけないし、ハルは18歳未満なのでソープで働けないという問題クリアしないといけない。自らウリをやるか非合法施設で働くとかそういう話になるが、そんなことを話の俎上にあげれば『JKハル』の主題からどんどん離れていってしまう。『JKハル』が描こうとしている話をやるためには誰もハルを助けてくれない異世界に放り出されるのが手っ取り早くかつ妥当なのだ

理由はもうひとつある。それは『JKハル』が異世界生モノへの批判と愛を内面化したメタ小説だという点だ(と書くと、「異世界生モノ馬鹿にしているのか」とか「異世界生モノメタったなろう小説はいくらでもある」とか怒り出すやつがいるが、別にそういう話はしていない。『JKハル』もまたメタ世界転生の要素をもった作品で、その消化の仕方が独特だというだけである)。これは読めばわかるし、既に指摘した感想なり論考がネットにあるため詳しくは解説しない。

 

JKハル』におけるセックスは抑圧や一方通行的なコミュニケーション象徴として描かれている

せっかく異世界なんだから魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックスとか、いくらでも突拍子もない想像力あふれるセックスが描けるだろうに、何でこんなつまんない当たり前のセックスばっかりなの?

これこそ山本弘の「想像力貧困」で、かつ『JKハル』が描こうとしているものをまったく理解できていないことを自ら告白する一文であろう。

JKハル』を読めば誰もが当たり前に理解することだろうが、あの作品別に魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックス」を描こうとしていない。そんなことを言い出してしまうのは戦国時代タイムスリップする話は常に現代兵器を持っていくべきなどと言うぐらいおかしな話であって、別にそういう話があってもいいが、全ての作品がそうあるべきと言ってしまうのはただの暴論だ。

JKハル』におけるセックスは、暴力的で抑圧的で一方的コミュニケーション象徴である男尊女卑の行き過ぎたあの世界で、多くの男性客はハルを含む娼婦暴力的セックスをする。実際に暴力を振るわれることもあるし、もっと屈辱悲惨なことさえ起こる。しかハルあの世界の女性たちは挫けず前向きに生きていこうとする。あの作品セックスが描かれるのはそういう意図から発したものであって、かつその構図を純化して描くための異世界でもあるのだ。

また、ここで言明しておきたいが、男は常に悪者とかそういう話ではない。

JKハル』が批判なのは他者理解しようとせず一方的コミュニケーションを取ってしまう者であってそこに男女の区切りはない。

物語の序盤では話を聞こうとしないシスターハルがめんどくさそうな態度を取るし、何よりハル自身が、もうひとりの主人公とも言える千葉に対して無理解であり、そのことを別の女性キャラクターに指摘されるくだりがある。『JKハル』が主人公女性をひたすら称揚し、男性であるというだけで批判する話でないことは、念のためここに付記しておく。

 

SF」や「異世界ファンタジー」にかぎらず、かくあるべしと古典を持ち出すのはただの老害である

もともと現実逃避のはずの異世界転生小説が、なぜ現実から逃避しようとしないのか?

いつ異世界転生小説現実逃避小説であると決まったのか。またそうであったとして、異世界舞台現実と戦う小説を書いてはならない理由はなにか。

SF」の古典に未知なる想像力を描いた作品があることは疑いようのない事実だが、それをもって「SF」は常に未知なる想像力を描くべきというのは暴論だろう。

また、未知なる想像力を描いた「SF」や現実世界とは違う異世界描写をした「ファンタジー」が素晴らしいというなら作品で訴えてこそ作家ではないのか。それを広く世に示す作品が書けず、あまつさえ他人作品の狙いや意図理解せずに古典的名著を棍棒にしてただ殴りかかるのであれば、山本には小説家としての矜持能力がないと言わざるをえないし、作家としての筆を、今すぐにでも折ったらいいのではなかろうか。

 

それにしても、一方的コミュニケーション批判的な視座を持つ『JKハル』に対し、作品理解しようとせずマイルールを押しつける山本弘は、作中2話に出てくるモブおっさんそっくりで、非常に皮肉が利いている。

2017-12-20

若者の○○離れ』は脱付加価値時代の現われ

人間自分が属するコミュニティ価値観に従って生きている。若いうちはファッションに気を遣い、J-POPを聞いて周囲と共通話題を作る。社会に出れば効果スーツや車、時計といったステータス自分社会人としての価値を高めようとする。『若者の○○離れ』はつまりはこうした構造が働いていない状況に他ならない。その大きな原因はネットの普及だろう。かつて価値基準メディア上司一方的押し付けられるものしかなかった。そこから脱することが不可能なわけではないが、従わなければコミュニティ内での自分価値を損ねかねないリスクがあった。だが現代の人々は、ネットを介して簡単に異なる価値観に触れ、コミュニティに属することができる。「そんなものに金を払うのはバカらしい」と価値基準への否定を共有できるわけだ。

誤解してはならないのは、若者に与えられているのが単なる別の価値観ではなく価値観を選ぶ機会である、ということだ。勿論、ネット上の価値観鵜呑みにする情報弱者存在しないわけではない。だが、ネット上の価値観にはかつての構造のような強制力は無いのだ。早い話が、ユーザは嫌ならコミュニティを去って別のコミュニティを探すことができる。価値観の良し悪しが、そこに従うことで人生が良くなるかにあるとすれば、強制力の無い場こそが価値観の淘汰のために健全であることは疑いようはない。強制力を失うと同時に選ばれなくなったのだとすれば、それはその産業付加価値に甘えて本質的価値提供していなかった産業だと考えるべきだろう。デジタル時計が出ればダサイと言い、携帯電話が普及すれば時計は身だしなみだと言い張る。そんなことはもう通用しないのだ。

とは言え現代社会、あるいは現代社会の行き着く先に完全に価値純化された社会があるとも限らない。むしろ近年、新たに生まれ商売の中には偽りの価値の上に成り立っているものも多く存在するだろう。我々は『若者の○○離れ』を教訓に、自分仕事本質的価値を生み出しているのかを問い続けるべきなのかもしれない。

2017-10-05

anond:20171004210419

たとえはてサ理想通りに思想純化したところで、旧民進よりもしょぼい大した影響力のない政党になるのは確実なのになんでこんなに喜んでんだか。

こうして自称リベラルの皆さんがオナニーに耽っている一方で、保守政党日本で着実に勢力を拡大しつつあるのであった……。

 
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