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2019-04-09

ドラゴンが火を吐きはじめたのっていつごろなの?

ギリシャ神話のテューポー

今日ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式神話の頂点に位置する傑作とされる。

巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。

半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。

ギリシャ神話怪物はだいたいテューポーの子孫だし。

ギリシャ神話ラードーン

ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色ドラゴン

(中略)

から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。

と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。

何が出典なんだろ?

旧約聖書レヴィアタン

ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。

ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。

(中略)

その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。

サラマンダー

プリニウス著作で唯一現存しているのが、自然芸術についての百科全書的な37巻の大著博物誌である自然界の歴史網羅する史上初の刊行物であった。

(中略)

最初10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。

プリニウスの『博物誌10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。

また、『博物誌11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊サラマンダーこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアードレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。

「ベーオウルフ」のドラゴン

『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。

第一部でベーオウルフは巨人ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴン約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。

スラヴ神話のズメイ

スラヴ民族文字を持たなかったため、伝えられた神話民族独自に記録した資料存在しない。スラヴ神話存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみであるスラヴ神話地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。

ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。

アングロサクソン年代記ファイアードレイク

アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記集大成である編纂9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。

火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアードレイクが飛んでいるのだとされた。

隕石という説があるらしい。

獅子騎士イヴァン」のドラゴン

イヴァンまたは獅子騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士物語であり、アーサー王伝説主題にした5作品ひとつである

イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァン獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。

黄金伝説」のドラゴン

黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ1230頃 – 98)によるキリスト教聖人伝集。1267年頃に完成した。

その時代エチオピアの町では一人の魔術師権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイ魔術師の元を訪れた。魔術師マタイドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。

同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。

マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?

タラスクは、レヴィアタンボナコンの子なのだが、ボナコンの特徴である燃える糞」が、日本語訳されるとき混同されたのでは。

といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン概念は薄かったが、

8〜9世紀から伝承として語られはじめて、1012世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。

なぜ火を吐くようになったのか?

候補1:サラマンダーとの混同

サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山溶岩の中に住んでいるという伝承もある。

ズメイや、ヤコブドラゴンは、吐く息から硫黄臭いがするといい、火山連想させる。

候補2:雷や隕石などの自然現象に由来

ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、

蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージしづらいことを考えると、隕石から連想には説得力がある。

候補3:「身体が灼けるような猛毒から「火」に転じた

古典的ドラゴンはやはり「蛇」「毒」のイメージであり、

そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然解釈に思われる。

うーん、わかんね。

anond:20190408143752

追記

というか最初、つまりギルガメシュ叙事詩(フンババ)の時点で『その口は火で、その息は死』と形容されてる。強力な怪物が火や死を吐くのは有史以前からの常識で、「最初から吐いてたが記録に残ってなかっただけ」では - cider_kondoのコメント / はてなブックマーク

フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。

まあ比喩として記述されたものが、後に「そのもの」として受け取られるのは、この手の伝説ではよくあることだけれども。

仮にフンババが火を吐くとしてもそれだけで「もともと怪物は火を吐くのが常識」というのは飛躍ではないかと思う。

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2017-05-19

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

2016-05-23

マスターキートン5-6話 砂漠のかーリマ

マスターキートンの中でも印象に残っていると言う人が多いであろう砂漠のかーリマンの話。

新疆ウイグル自治区、崑崘山脈から流れ出る2つの大河に挟まれ水の豊かなコータン紀元前からシルクロード佐伯何度のオアシス国家として栄えていた。こーたん近くタクラマカン砂漠の下には東西交流の後を示すオアシス遺跡が数多く眠っている。その降誕北方110キロにある車は累積ここが舞台になっている。

遺跡の発掘と保険とは味切な関係がある。発掘参加者の紹介保険の丘後から発掘品の盗難破壊保険をかける場合もある当然発掘されたもの保険契約内容にふさわしい考古学価値を持つか否かを鑑定する必要も生じてくる。故に保健委員仕事も大いに関わってくる。

ウィグルと呼ばれる人々はトルコ系の遊牧騎馬民族8世紀には中国北西部支配する大帝国形成したしか9世紀後半キルギス人により滅亡現在中国北西部の各州の民族自治区に分かれて生活をしているウィグル族は15世紀以降イスラム化した会長はいちにち誤解目回の礼拝を欠かさない。

我々をイーグル足の上に立つの新の神のみであるだがかつてオアシスが水を持つ者が支配者だった私のように小作人として生を受けたものは様子吉田吉田の拍子に告示され続けた私はこの地にとどまった子後はマホメットに最も近い伝説の英雄さリコの生地とされていたからだ私が毛沢東軍隊のために戦ったのも我々老いぼれ側の信仰自由のためだ英雄サーディクのように。

われわれはついにあれを発見した。あれこそが1000年の昔この砂漠で戦ったauサービックの聖なる量の上に立った礼拝所の後だ。中央の壁の凹みは聖なる印だ。

「よくわからん世界中にはよそ者がつかつか踏み込んでけない場所がたくさんあるってことです最近日本人は平気で工夫を壊しちゃいますけれどもね。」

タクラマカンウイグル語では生きて帰れんの砂漠と言う意味

第6話では 太一サバイバル知識が本段に発揮される。

まず日中そこに下差し込まない東西方向に穴を掘って直射日光を避けるもちろんそれだけで脱水症状しているわけではなくこの時点でミスターハニーがほぼ助からない状態になる。

まず日中そこに下差し込まない東西方向に穴を掘って直射日光を避けるもちろんそれだけで脱水症状しているわけではなくこの時点でミスターハニーがほぼ助からない状態になる。

次に石をしゃぶったり音を掘り出して水を吸ったりと言う行動とる。

われわれは全員おそらく体重10%位の水分は既に失っています。昼の朝から考えて後5パーセントでも水分をしなれれば我々みんな死んでしまますまず水できれば塩分が確保できるまではここを動くべきではない。

それから天文学の知識を使って方角の確認

我々の現在地およそ北緯37度50分タクラマカン中央よりもずっと南にいます佐伯何度まで少なくとも60キロ2万はかかります北半球の北緯10度位北では北極星コードから現在地が分かるまず本滝ノ町2開けた何お守りのついた糸を垂らすそして北極星を除く人が分度器で示した角度90度から引くと北極星の行動=色となる言時がない場合は指でも代用可能である

さらに花を用意してねずみ男捕まえネズミ血液を飲んでなんとか生きる。

さらに小便を濾過して水を用意する。

人間の体は脱水症状が進むほど帰って頻繁に名が出るもんなんですよ。

砂漠に穴を掘りその上をビニール嘔吐太陽熱で、ビニール布の下の空気は温められ血中の水分が蒸発し水滴となる。水滴は、穴の中央ビニール袋に落ちてた。。つまりこれは1種の天然蒸留である

10世紀のサーディクの物語

彼は新の教えを伝えるために多くの仏教と戦い開始を迫ったが、女子供だけは決して傷つける事はなかった。しか仏教徒にはとの戦いで彼の部下が誤ってこども園12処刑してしまったことがあった彼は自ら新の裁きを受けるために腰6-101砂漠の中に身を置いた。生きて砂漠から戻れるか田舎上に撮ったのだそして4日後彼は生還した砂漠帰りマンとして。

彼は新の教えを伝えるために多くの仏教と戦い開始を迫ったが、女子供だけは決して傷つける事はなかった。しか仏教徒にはとの戦いで彼の部下が誤ってこども園12処刑してしまったことがあった彼は自ら新の裁きを受けるために腰6-101砂漠の中に身を置いた。生きて砂漠から戻れるか田舎上に撮ったのだそして4日後彼は生還した砂漠帰りマンとして。

水をやれ。水を飲ませてやれあいつわかり万だ。

 
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