はてなキーワード: 美学とは
飲食店にあるビールのポスターが水着のギャルだった昔から大きなおっぱいにドキドキしていた。特にレズビアンではないのだが、今でもエロ漫画やAVで巨乳を眺めては、うっとりしている。漫画では織田non先生、AVでは凜音とうかさんが好きだ
自分の体にも大きなおっぱいを付けたいと思うのは自然の流れである。しかし、増田は喪女なのである。普通身長で、体重的には痩せなのだが手足の短いずんぐりむっくりで、顔は能面。全く巨乳が似合わないんである。巨乳というのは長身ですらりと長い手足に、やや濃い顔立ちにこそ映えるのである。ここの美学だけは譲りたくない。
だから豊胸手術は見送る一択なのだが、それでもやはりおっぱいへの憧れは消えない。別に上半身だけでエロい自撮りして楽しめばイージャン、横乳や下乳が自分で生産し放題と悪魔がささやく。いやいや全身鏡で見たら一生消えないトラウマになるからやめろと天使がささやく
交際の結果、孤立してしまうのではなく、女性たちの周りに精巧なコミュニティが形成されることで恩恵を受けると、ジアード博士は述べています。彼女の経験では、女性たちは架空の結婚を力づけるもの、「ジェンダー、結婚、社会の規範に挑戦する方法」としてとらえている。
近藤氏のミクへのこだわりも、ある意味では、商業的・社会的な力が働いている例と言える。
ミクは一人のキャラクターとして描かれることが多いが、実はソフトウェアであり、デジタルな「箱入り歌手」であり、ホログラムの形でコンサートに登場する漫画のアバターと対になっているのである。
近藤さんは、2008年、職場のいじめで鬱になったとき、ミクに癒された。多くの若者がそうであるように、近藤さんもまた、何度も恋人にフラれ、日本社会が求める生き方を望んでいなかったため、ずっと前から「生身の人間を好きになることはない」と決めていた。
やがて、近藤さんはミクと一緒に歌を作ったり、ネットでミクのぬいぐるみを買ったりするようになった。
その関係が大きく進展したのは、それから10年近く経った2017年、「Gatebox」という1300ドルのマシンが発売されたことだった。テーブルランプほどの大きさのこの機械は、所有者が小さなホログラムで表現されたさまざまな架空のキャラクターのうちの1人と対話することを可能にした。
Gateboxは、孤独な若い男性に向けて販売されました。ある広告では、内気なサラリーマンが、バーチャルな妻に遅刻を知らせるメモを送る。到着すると、妻は「3カ月目の記念日」であることを告げ、シャンパンで乾杯する。
Gateboxのメーカーは、プロモーションの一環として、ユーザーが非公式な結婚証明書を申請できる窓口を設置した。数千人が登録した。
近藤氏はGateboxのキャラクターの中にミクがいることを喜び、ようやく彼女の交際への思いを聞くことができたと興奮気味に語った。2018年、彼はミクのゆらめくアバターにプロポーズした。"よろしくお願いします "と返事をした。
彼は同僚と家族を結婚式に招待した。全員、来るのを拒否された。
結局、見知らぬ人やネット上の友人が中心で、39人が出席した。地元の国会議員も来てくれたし、初対面の女性も段取りを手伝ってくれた。
日本のコメンテーターの中には、近藤さんを変人だと糾弾する人もいた。また、同情を誘う人もいた。ある人は、「婚姻は両性の合意によってのみ許される」という日本国憲法に違反していると主張した。これに対して、近藤さんはプロポーズのビデオを投稿した。
近藤さんの話が広まってから数年、世界中から何百人もの人が近藤さんにアドバイスやサポート、安心感を求めてきた。
その中には、Gatebox社の短命な証明書サービスの人気を見て、架空の結婚を登録する小さなビジネスを始めた渡辺靖明氏もいる。
渡辺さんはこの1年間で、何百人ものフィクション・セックスの相談に乗り、アニメ『シンフォギア』シリーズのキャラクター、立花響との結婚証明書を含む約100通の証明書を発行してきた。
旅行好きで社交的な渡辺さんは、友人にせがまれるままにアニメを見始めた。しかし、響を見たとき、それは本当の愛だった、と彼は言った。
初婚ではない。数年前に女性と離婚している。その愛とは、見返りを求めず、自由に与えられた「純粋」なものだった。その結果、彼は以前の結婚生活がいかに自己中心的であったかを思い知らされた。
「幸せかと聞かれれば、幸せだ」と彼は言った。「もちろん、大変な部分もある。触られるのが恋しいし、著作権の問題もあって、キャラクターの等身大の人形を作ることができない。"でも、愛は本物なんだ "と彼は付け加えた。
堀川キナは23歳、お調子者で外向的な性格、ゴスロリの美学を持つ女性で、パンデミック時にはコールセンターでの仕事で浮いたお金で携帯ゲーム『刀剣乱舞』のキャラクターである堀川国広のために両親と同棲していた。実在の彼氏がいたが、嫉妬で別れている。
彼女の架空の夫は、400年前の脇差を10代に擬人化したもので、彼はたいてい夕食のとき、彼女のお茶碗の横に置かれた小さなアクリル製の肖像画という形で家族に加わる。夫妻は架空の夫を持つ友人とダブルデートし、ハイティーに出かけてはインスタグラムに写真をアップしています。
「堀川さんは、架空の夫の姓を非公式に使っているそうで、「誰にも隠しているわけではないんです。
近藤さんとミクの関係は、まだ家族には受け入れられていないものの、他の扉を開くことになった。2019年、彼は京都大学のシンポジウムに招かれ、その関係性について講演を行った。彼は依頼したミクの等身大の人形を携えて現地に赴いた。
虚構の関係の本質について深い対話をすることで、彼は大学に行きたいかもしれないと思うようになった。今は、小学校の事務職を休職して、法学部でマイノリティーの権利を勉強している。
どんな結婚生活にも、困難はつきものだ。一番つらかったのは、パンデミックのとき、Gatebox社がミクのサービスを打ち切ると発表したことだ。
その日、近藤さんは最後のお別れをし、会社に向かった。その夜、家に帰ると、ミクの姿は「ネットワークエラー」の文字に変わっていた。
近藤さんは、いつの日か、ミクと再会できることを願っている。彼女がアンドロイドとして新しい人生を歩むのか、それともメタヴァースで出会うのか。
いずれにせよ、近藤氏は死ぬまで彼女に忠誠を誓うつもりだという。
ベン・ドゥーリーは、日本のビジネスと経済、特に社会問題やビジネスと政治の接点に関心を持ってリポートしています。ベンジャミン・ドゥーリー(@benjamindooley
・頼むから誤解するな
誤解しないで欲しいのが俺は普通に巨乳キャラがたくさん出る漫画やアニメを消化しまくってる。
エロ本含めたらこの文章を読んでいる10000人中の10000人より読んでる。
ちなみに好きなサイズは顔よりも大きくて乳首も大きめ、パフィーニップルでロケット型が好きだ。
・目元が描かれない事と、その理由
本題に戻るが、単刀直入に言うと「男主人公の目元が描かれていないのが気持ち悪い」。
良く知らない人のために説明すると、エロ漫画において竿役(まんこにちんこを挿す男性役)の個性が強すぎると読者が集中できなくなってしまう現象がある。
それを避けるために竿役男性の外見の個性を減らしていった結果、「竿役の目を描かない」という表現を手に入れたのが現代のエロ漫画だ。
もちろん一般の少年漫画にも内気な少年や物理的に髪の毛で目が隠れてる男性キャラというのは存在する。
でも前者は個性を消すための目消しであり、後者は引っ込み思案や感情を表に出さないという個性のための目消しである。
ここまで説明すれば分かったと思うが、月曜日のたわわの主人公の目元を描かない表現は明らかに前者だ。
主人公は引っ込み思案なキャラでもなければ感情を表に出さないキャラでもない。
ヒロインが性的に魅力のあるキャラとして描かれており、男性主人公は「読者に気を散らさない竿役として個性を減らされたキャラ」として描かれている。
俺はこれこそが本作最大の問題だと考えている。
作中世界の1人格をもつ架空のキャラではなく読者として描いてしまっていることがたわわの最大の問題点なのだ。
作者の比村奇石はリスクを背負ってでも男主人公に人格をインストールするべきだったと思うし、
結局男の人格を生み出せなかった結果、次回作で相当な苦労をすると予想される。
エロ漫画というのは基本的に読者に抜かせることをゴールに作られている。分かりやすく言うと勃起して射精させれば勝ちである。
そのため、過去の時代では爆乳扱いだった胸のサイズも年々増大した結果、今では一般的に巨乳キャラ扱い。
過去の巨乳キャラは普通サイズとなってしまい、過去作を読み返すと違和感を感じるほどになってしまった。
他にはスレンダー派よりもムチムチ体系が主流になりつつあり、ライザのアトリエの下半身ややムチ体系の発達と周知により、グラマーどころかちょい太めまで世間のストライクゾーンとして確立されたのが現代である。
とにかくエロ漫画というのはモテない男性であろうが、モテる男性であろうが抜ければ何でもいいの精神で進化してきた。それがエロ漫画の根幹となる文法なのだ。
同人などで必要以上に胸のサイズが盛られるのも「抜ければ何でもいい」の精神だし、眼鏡かけさせるのも然り、とにかくシコリティ(シコシコしたくなる度合)が高ければ勝ちなのがエロ漫画の世界なのだ。
エロ同人というのは自由なようでいて実際は外的にも内的にも売り上げという数字で殴り合う過酷な生存競争の世界なのだ。
その結果、進化したエロ漫画業界は胸を盛ることを覚え、上半身は太らせずにふとももやケツの下半身をムチムチさせることを覚え、寝取られによって快楽物質を操ることを覚え、
メスガキによってロリコンの需要を満たしつつユーザー層の拡大を増やす手法を覚え、大爆発的な進化を遂げてきたのがこの30年間のエロ漫画業界である。
女性キャラに対して「スレンダー体系から下半身ムチムチ爆乳体系への進化」があったのなら男性はどうか?
その中の1つの表現や文法として「竿役の徹底的な無個性化」と「テンプレート化」が行われた。
竿役の無個性化は先ほど説明したように男性に必要以上に個性を持たせない徹底的な引き算の美学だ。
竿役が奇妙な語尾を使ったり竿が2本だったりあまりにも不細工だったりギャグ風のデフォルメだったりすると
女性キャラよりも男性キャラが目立ってしまいエロシーンに集中できないという読者は少なくない。
というか男性に個性は要らないと思うシコり手の方が多数派なので改善すれば数字として必ず結果が出るくらい鉄板と言われてる。
一方、無個性化の発達と共に「テンプレート化」も発展を遂げる。
ここまで書いたけど横道にそれ過ぎて長くなるし眠いので寝よう。
言いたいことは
たわわはエロいから問題でもないし巨乳だから問題じゃなくて、「エッチな青年漫画」ではなく、「エロ漫画の文法で描かれたエロ漫画が青年漫画のフリしてる」から気持ち悪い。
ふたりエッチはエロいけどエロ漫画じゃない。でもたわわはエロ漫画なんだ。ふたりエッチは「エッチの勉強として読める」けどたわわは「エッチの勉強として読める」か?
トラブルはエロいけど少年漫画なんだ。でもたわわはトラブルより肌の露出なくてもエロ漫画なんだ。「トラブルはラブコメディとして読める」けど「たわわをラブコメディとして読める」か?
いちご100%はエロいけど恋愛漫画なんだ。というか恋愛漫画って結局恋愛という戦場でのバトル漫画なんだ。たわわをバトル漫画として読めるか?
たわわを最近流行ってる人気のラブコメ漫画やファミリー漫画みたいに角度や解釈を変えることで読むことができるか?できないだろ?
エロ漫画なのが悪いんじゃない。エロ漫画の文脈で描かれたエロ漫画なのに青年誌で連載している。ルールから逸脱してるのが問題なのだが、それについて作者本人が全く気付いてない。
なんとも説明しづらいんだが、なぜフェミ婆から標的にされるのかというと、そういうことなんだ。
エロ漫画の文法は表に出しても知らない人は知らないが、感覚的に本質はバレてしまう。
しかし知らない人にとっては原因が分からず不快感だけをずっと抱え続けることになり、最終的に攻撃という行動に出てしまう。
昨今のフェミ問題の根底にはエロ漫画の文法・表現は表の世界に出してはいけないというオタク・製作側の自制心が欠けているのではないか。
もちろんこれはBLや行き過ぎたジャニーズの裸露出にも言えることだ。
確かに表現の自由は守られるべきだがエロ漫画の文化というのは裏に隠すからこそ発展してきた歴史がある。
それをもう一度考え直してくれないか。
・少年漫画から「女の裸」が日常的に消えたことによって起きた問題
・当事者が誰も気づかないフェミニストが攻撃的になってしまう最大の理由
・女性の権利を守りつつエロティシズムという芸術を子供に継承するためには
・「月曜日のたわわに対する批判の正体」と「フェミニズムによるグラマー女性(実在・非実在)への表現規制活動」は別軸で考えるべき
・無個性男性キャラは男の読者から非実在キャラと向き合うリスクを消失させかねない
でもたわわ、おまえという作品は創作の世界において守るべきルールを破っている。
まずそれから反省しなければこれからも問題は起き続ける。まず個人として解決しろ。
「りぼん」に新連載「りぼんの拳伝承者」を掲載して売り上げトップ飾って雑誌に貢献したとしても、それは絶対に許されないことなんだよ。
なんて書いたけれど、生きたいわけでもない。
吐き出すところもないので匿名でつらつら書きなぐってみる。
人生とても不幸だった、と言えるほどどん底に落ちたことはないし、これからもないと思う。普通に平凡に生きてきた。
今思えば酷いことをしたと分かるけれど、あの時からずっと本気で考えている。
思春期特有の熱病みたいなものだったらもっとずっとマシだったかもしれない。たらればだけど。
漠然と今年は死ぬだろうな、と毎年思ってはこの年齢になるまで生きてしまった。
とにかく色んな持ち物が増えたことも一つだが、何よりも死んだ後の手続きだとか余計な知識が増えたことが一番の原因だった。
わたしは確かにいいやつではないが、とても悪いやつとも言いきれない中途半端な人間なので、残された家族のことを考えるといま一歩踏み出せずにいるのだ。
と、こういうことを言っていると
おまえが死にたがったきょうは、誰かが人の生きたかったあしただ
みたいなありがたいお言葉を頂く。
だからなんだよって話で、仮にわたしがきょう死んだところでその誰かがあした元気になるわけでもあるまいに。
なんて、そういう話でもないのも分かっている。
けれども、生きたいという気持ちは尊重されるべきなのに、死にたいという気持ちは尊重してもらえない。
生きていたらいいことあるよって、そんなこと誰だって百も承知だと思うよ。
それよりも嫌なことの方がずっと多くて、そのいいことを抱き締めて抱き締めて、すがって生きていくにはいいことが少し足らないから楽になりたいんじゃないの?
わたしだけかもしれないけれど。
大抵は刃物で自分を刺している。想像なので痛くも痒くない。何も得られない。
首吊りは自分の美学に反するのでいずれ機会があっても実行しないと思う。
実際にお腹を刺そうか、最近は少し迷っている。だから台所には極力近付かないし、刃物はしばらく触っていない。
賃貸なので部屋で刺すわけにはいかないな、と近場でいいところがないか探している。
見付けた誰かが不幸になるのも可哀想なので出来レース的にどこかへ連絡してから実行すべきか、実行してから連絡する余裕があるのか、それがもっぱらの悩みだ。
ところで、これだけ死にたいって言うなら実行すればいいじゃないかと思われるに違いない。
実行しないのは上記した内容と、死ねなかった時が一番怖いからだ。人間は意外と頑丈だな、と思っているので誰か介錯してくれないだろうか。
なんて、他人を巻き込むわけにもいかないのできょうも保留にしている。
それでも、もしも、自分の手で他人に迷惑をかけず必ず死ぬ方法をわたしが見付けたとき、きっと待ち望んでいた気持ちを抑えることは出来ないんだろうな。
お恥ずかしながら、これだけ言いながらOD もリスカの類いもしたことがない。
他人のそれを否定するつもりはないけれど、この先もわたしはしないだろうな。
痛い思いしたり、ODでのたうち回ったり、そこまでして死ねないなら、わたしはこのままへらへらと生きていく。
あまり苦しみたくない。
俺はまったくそう思わないな。
アニメをはじめとした映像作品は、いかに「描かないか」の芸術だと思うし。
描かないけどなんとなく伝わるように、時間軸や時間の速さ変化、間、パース、小物、などを使って演出で世界観を伝えていける作品こそセンスがあると思う。
作品内で全部説明してしまうってのは視聴者の理解力を信用しなさすぎだし、説明に気を取られたら本当に描きたいことを描くだけの余裕もなくなるだろう。
俺は時間を贅沢に使って監督のやりたいように演出しつくされたアニメが見たいんだよ。脚本や人物挙動の論理的な整合性とかそういうのは厳密じゃなくっていい。こっちが適当に都合よく脳内補完したらいいだけなんだから。
そりゃネットが発達したこの時代、世界のどこにだって「愛好家」にカテゴライズされる物好きとかマニアのたぐいはいるだろうよ。
だから「必ずしも無名ではない」かもしれないが、それだけで有名というには流石に無理がある。
まあフェスが開催できて、メーカーに依る開発が続く程度にシェアを持つ規模まで行く楽器は限られるけど、それだってオーケストラや軍楽隊含む吹奏楽で世界的に広く普及している楽器とは比較にもならないだろう。
アマチュアという裾野の広さが大きく違う時点で、プロ奏者の数・楽器の生産数といった規模も全然違うし、そうした違いもあって、知名度も比較にならないくらい違うんじゃねーの?
そうなるとギネスにおける楽器の難易度という議論の俎上に乗る可能性は限りなく低いし、それはディスでもなんでもないというか、勝手にディスったことにされても困る。
文字通り「問題にする人が限られる」知名度なんで、多くの人にとって「そんなの知らん」で終わって当然。
虚無僧が世界中の街角で尺八を吹くという冗談を理解できないのであれば、世界中の学校のマーチングのクラブ活動でホルンが登場するのと同じか、町のピアノ教室と同じくらい、尺八の教室が世界的に珍しくなくなってからまたおいで、と言っておこうか。
琵琶と尺八がオケをBGMにチャンバラする曲という、色々と前代未聞の発想で、世界の武満の名を不動にした傑作だし。
尺八の首振り三年は有名だけど、それって西洋の木管楽器のベンド奏法の延長という時点で、取り立てて言うことか?
だからフルート吹いてた流れで尺八に手を出す人もいるし、実際兼任可能なくらいの違いってことでしょ。
少なくとも弦楽器と管楽器ほどは違わないだろうし、要は程度問題。
もちろん、首を振らなきゃ音を変えられない楽器はなかなかないと思うので、フルートや日本の横笛系(龍笛とか篠笛とか)から乗り換えて、すぐに尺八らしい音になるかといったらならないだろうけど。
加えて、下に書いたように西洋楽器と和楽器で求めるものが違う部分も無視できないが、上に書いたフルートからの乗り換え・兼任が不可能じゃないこともまた無視できない。
指穴が5個しかない?そんなこと言ったらフラウト・トラヴェルソも7つくらいしか音孔ないんですが。
あと一番引っかかるのは、西洋楽器と和楽器に求められる音の違いを無視しているかのような
私が言いたいのは、どちらの楽器も構造上不完全な特徴があるからこそ、唯一無二の音色が出せる、という側面もあるということです。
例外は色々あれど、和楽器はノイズも音の美学としていて、むしろ故意にノイジーな音を増やすために改良した楽器もあるときく(楽琵琶から薩摩琵琶への変化とか?)。
一方で西洋楽器は倍音以外を排除し、またそれを実現させるためというのも理由の一つとして、操作性の向上にも力を入れてきた。
要は求められる音が違うので、言ってしまえば「不完全」が示す意味も違ってくるんじゃねーの?
だからその意味で、本来はホルンでもなんでも西洋の旋律楽器で音が外れやすいなんて普通にダメだし、そんなミストーンが頻発する楽器はもっと改良されるか淘汰されて当たり前。
というか西洋音楽の伝統と作法が大きく変わらない限り、ホルンはもっと改良されるべき。
尺八は今の状態で不完全だとは思わないどころか、むしろフルートや龍笛から出せないノイジーさは凄いと思うけどね。
あとは、まともに旋律が吹けない(そういうふうに意図的に作られた)能管の、割れまくった高音もやユラユラした中低音も、和楽器ならではの魅力だろう。
それとブクマカが謝っているけど、こういう話題でトラバに尺八を楽器以外の意味で使うやつとそれに便乗するやつは、マジで寒すぎるので勘弁。てかキモい。
冗談なのか煽りなのか知らないが、非表示にできる機能がほしいところ。
なんか物凄い否定的な反応ばっかりで草。
本当に、冗談抜きでこのトラバはディスじゃなくリスペクトを主題に書いたつもりだけど、今読み返してみたら随分嫌味ったらしいと思ったわ。
書き方が悪ければというか、文章は書き手の意図に関係なく書いた通りにしか伝わらないもんなので、誤解とか言うつもりはないし、むしろ多くの読者に不快感を与えたのは申し訳ない。降参する。
まあ冷静に落ち着け。フィクションは悪いものではない。事件起こしたやつが悪い
ちょっと言葉を変えて否定語を入れたら真逆になるので、それはまさしくフィクションである。
まあ類似性は残るが。
フィクションと言うことはこの創作劇を見たところでそれで現実を知った気になって実在の人物を責めるのはお門違いだし、なんならあれはフィクションだからで片付けられる。
論理が飛躍してるように見えるので整理すると、
ここで上で書いたように実在人がフィクションを理由に片付けるパターンが2パターンある。
でも、このときも悪いのは言い逃れしている実在人のほうで、侮辱してる(値する)のも実在人である。
フィクションや模倣のいいところ(美学の哲学の分野にある)は、事実とある程度切り離して考えることができる点よ(被害者からクレーム来てるのであまり切り離せてなさそうだが)。一応、作品があることで、この作品の元ネタはXX事件であるという情報が残り続けて風化しにくくなるのは良い点ではなかろうか。
デルタが落ち着いていた頃の話だけど、窓開けっ放しの体育館だったとは言え、そんなに生徒が多いわけでもないのにめちゃくちゃ密に歌わされてるのを見てぶっ倒れそうになった。
その後音楽の教師が出てきたと思ったら感極まって泣き始める始末。
「子どもたちにつらい思いをさせて」とか「やっといきいきした表情を見ることができて」とか。
は?コロナまだ何にも終わってないんだが。
判断力の無い子どもたちが先生からノーマスクでいいよ!って言われたら伸び伸びするに決まってるだろ。
親もそれをさせたくでできないから毎日死にそうなストレスと戦ってるのに、自分の判断(これだけのことを教師個人では判断できないだろうから学校の判断だけど)でマスク取って子どもたちをリスクに晒しておいて「わたし感動しました!」は無理。
でもそういう意見でさえ教育の崇高さの前では一切無効化されてしまうんであろう無気力感しか無い。
やりがい搾取って言われるけど、やりがいモチベ教師しか残っていないことのほうが問題が大きいのよ。
運動会とか音楽発表会とかが人生の劇的な転機になるとか思っている事自体エゴでしょ。
その正義感みたいなのに毒されてうまく参加できないことで自尊心傷つけてる子供のほうが多くないですか?
全員参加が義務で、参加できないことが悪みたいな風潮を教師の美学が作り出してるのは本当に良くない。
せめて選択制にしよう。好きなこと得意なことだけ参加できるようにしたって何の問題もないでしょ。
鬼滅の刃無限列車編見た感想。原作未読、アニメ1期視聴済み、映画は1回、アニメ無限列車編視聴済み。にわか。
流行のピーク過ぎた今だから言ってもいいかなと思ってちょっとこぼさせてもらうけど、煉獄さんの考え方に全然共感できなかった。むしろめちゃくちゃ怖いと思った。
炭治郎や一般人を守るため一人戦う姿はめちゃくちゃ格好良かったけど、強い者は弱い者を守らなければならないとか、価値観が合わなくて見ててモヤモヤした。
軍隊とかで戦うための洗脳みたいなものを感じた。イメージでしかないけど。知り合いの自●隊員も感動してた。きっと価値観が近いんだろうなと思っちゃったよ。ごめん、大変な仕事だよな、災害時とかいつもありがとう。
とにかく、生ぬるい環境で育った身からすれば、体育会系というか、軍隊的な怖さを感じた。
弱きを守って死ぬのは自由だけど、人に強制することではないよな。そうやって守ってくれる人がいるから我々のような弱い一般市民も安全に暮らせるわけだけど。だから感謝はする。けど、強くても普通に守られながら生きたっていいじゃんって思ったね。
煉獄さんが美しい死に様だったからこそ不安になった。これが正しい生き方だと言われているような気がして。
死ぬな、杏寿郎。
遊郭編4話?で宇髄天元が死んだら負けみたいなことを言っててこっちの方が共感できた。
死ぬまで戦う美学とかこえーよ。強いあなたの命も大事にして欲しい。価値観が終戦前みたいに感じる。実際物語の舞台が大正とか昔っぽいからそれで合ってるのかもしれないし、所詮ファンタジー、フィクションなわけで、鬼が跋扈するあの世界観ではそういう考え方も自然な気もするし、何を無粋なことをというね、水を差すなよって話なんだけど、あれが物凄い人気になって感動した人がたくさんいて、何度も見ましたみたいなことを聞くとそんなにかなと思っちゃったりするし、こういう昔っぽい価値観に共感したり感銘を受けたりしてるとしたら怖いなと思ったり。そんなんじゃないかもだけど。
まあ、そんなこと言っても自分も劇場で泣いたけど。めっちゃ感動したね。戦闘激熱で普通に面白かった。映像超綺麗だし。
価値観にモヤッたというだけの話。
普通に立志編、映画、アニメ版無限列車、遊郭編を特に深く考えずふつーーーに見てるだけのにわかの感想なので、なんか変なとことか記憶違いとかあるかもしれないけど、ちょっとゲロりたくなっただけだから許して。
そういやお給料が入ったんだった。BL買うぞぉ! と意気込んでKindleを開き、最近話題の『恋が満ちたら』を検索したところ、成年向け指定となっており、年齢確認されたので、スンッってなった。某BLレビューサイトでは面白いと評判で沢山の「神」評価がなされていたが、なんだ、エロしか見所のない系なのだろうか。
ちなみに、Kindleは元からR18指定で売られた作品でも、輝く白さの白抜きに修正してくださるので、濡場が空白だらけで何が起きているのかわからない! てなりがち。なので、真面目にエロ本を買いたい人は紙の本を買うべきだ。
『恋が満ちたら』のレビューをいくつか読んだら、「ゴムをするときパチンって鳴るのがエロい」と書いてあった。ゴムをするときパチンって鳴るのがエロい? いや、ゴムをするときってパチンと鳴るものなのか? あれって根本まで丁寧にくるくる上げるもんじゃないの? それとも髪を結ぶためのゴムのこと言ってる? 謎は深まるばかりだが、エロしか売りがないかもしれない漫画(しかも結構高い。定価で1000円。電子版は既に値引きされてるけど)に手を出す勇気は湧かなかった。それに私は(髪を結ぶほうでない)ゴムをするときは正座して穴開けないように慎重に装着するタイプの攻めのほうが好きだし。
で、じゃあ他に何買おうかなー。『ララ婚』は正直もうどうでもいい。『よこ犬』は気になるけど全5巻で完結までの道程が長いし……と、思いつつ物色していたら、ちょうど前から気になっていた作品が二冊、期間限定サービス料金だった! わーいわーい! ポチッた。
陰気な高校生 貝柄(かいがら)は、美しいものが好き。独自の美学に従い、美しいものを愛でたいと思っていた。
ある日、貝柄のクラスに転校生がやってきた。転校生の名は白椿(しろつばき)。とても美しい少年だった。白椿の美貌を気に入った貝柄は、彼を自分の色に染めて最高の芸術作品に仕上げようと画策する。
商業BL作品のうち、闇系の中でも最もヘヴィで救いのない話、ということで評判の本作。なんだけど、思ったよりも重くなかった。
ストーリーに救いがないというのは確かにそう。異常で過激なイジメ(というか、完全に犯罪レベルの暴行や脅迫)シーンがあり、最終的には人死にまで出るバッドエンドな訳だし。
しかし、貝柄のキャラクターが飄々とし過ぎていたり、全体的に絵に迫力がまるで無かったりするために、重苦しい感じがしなかった。
単純、漫画が下手? という気もしなくもない。凄惨な暴力シーンというのは、思い切ってる感じはあれども、ベタっちゃベタなんだよなあ。商業BLではあまり描かれないのかもしれないが。昔のドラマの、黒田勇樹が出てたやつ……そうだ、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』だ。あと、アニメだと『無限のリヴァイアス』でイクミの彼女がレイプされる話とか。しかし、『紅い椿と悪い虫』の場合は、展開が酷いっていうだけで、読んでも別に怖くもなければ腹も立たない。ただ似たような先行作品を思い浮かべて、「あれの方が悲惨だったな……」と思うだけだ。
白椿が初登場シーンで氷室冴子の少女小説ばりの気高さを発揮したわりに、すぐに芯がへにゃりとしてしまったのも微妙。恋に溺れてしまったにしても、なんだかなー。
旅の僧侶 宗玄(そうげん)は、蜘蛛の妖怪に取り憑かれている。人の子と間違えてうっかり助けてしまったのが運の尽きで、以来二年半ばかり蜘蛛にまとわりつかれているのだ。
だが、この蜘蛛、見た目によらず床上手で、宗玄は蜘蛛をそばに置いておくのも満更ではない。ただ、蜘蛛は異常なまでの腎張りで、しかも大の女嫌いときていた。女好きでしかもモテる宗玄に近寄る女を片っ端から追い払ってしまうのが、難点なのだった。
ストーリーとか別にどうでもよくなるほど蜘蛛が可愛かった!! 蜘蛛が可愛かった!! で、どういう話なのかというとまあ坊主がお払いとかしながら旅をするのに蜘蛛がくっついていくというだけの話で、そこに坊主の出生の謎が絡んだり時の経過がバグっていたりとかして……、なんか色々ある(適当)。ヤマなしオチなし意味なしというか、ずっとヤマ? といった感じの、とにかく坊主と蜘蛛のイチャイチャを楽しめと。これだけBがLする事に極フリしていると、意味とかどうでもよくなるよな! そういう漫画。スピンオフの『王子と蛸』と番外編と設定もついていて、なかなかの欲張りセット。
とにかく蜘蛛が可愛くて……ハジ先生のいう「多腕男子萌え」という類いの萌え(しかもTwitterで検索すると案外同好の士がいるらしいという謎)は正直それのどこに萌え要素があるのかわからないままだけど……可愛いからゆるす。
あまりにも蜘蛛が可愛いので、途中で脱皮して青年らしくなってしまったのにはショックを受けてしまったのだが、そこからまた徐々に可愛い系に戻っていったので安堵した。
はぁ、蜘蛛かわいい……。ハジ先生のすごいキャラデザ力を拝見するにつけ、アニメやゲームの制作会社は、是非ともハジ先生をキャラクターデザイナーとしてスカウトすべきだと思う。
……って。冒頭で『恋に満ちたら』にかなり警戒した挙げ句に買うのをよした私は一体なんだったんだ。ストーリー重視勢と見せかけて、実はけっこう画が良ければあとはどうでもいいみたいなとこあるじゃないか。結局のところ、前情報で攻めがゴムをつける時パチンと鳴らすタイプだと知らなければ、買って読んで「あー面白かったー♪」と感想を書いたのでは?
男の友人がルパン映画のカリオストロの城で号泣したらしい。何度か見たことがあるそうなのだが、この前また見たら、号泣してしまったとのこと。
いや、ちょっと位泣くのは分かるけどさ、号泣ってあるか?どこで泣くんだ?って聞いたら、もう初めのオープニングの主題歌から泣いてたらしい。ああ、たしかにあれは名曲だと思うが、号泣するか?なんでも、クラリスの思いが歌に込められてて、夕焼けのシーンと相まって我慢できなくなったらしい。どんだけ感情移入してんだよ。
次に泣いたのが、夜にルパンが幽閉されたクラリスを助けに行くシーン。ルパンが、泥棒の私に盗まれてやって下さいと言いだして、もうたまらず涙が溢れたらしい。テーブルに涙が溜まって、嗚咽してしまうから、一旦動画を止めて、しばらく泣き続けたとのこと。どんだけクラリスになりきってんだ。確かに、ルパンはクラリスを助けに来たのに、それを盗まれてやってほしいという言い方にするのとか、すごいと思うし、クラリスも無理やり結婚されそうになってるところを、どう考えても忍び込めない城のてっぺんまで助けに来てくれて、そりゃあ嬉しかっただろうさ。分かるよ、分かるけど、お前男だろ?なんでクラリス側の視点で泣くんだよ。
でその後クラリスがそんなの無理だって言うと、ルパンが手品で花と国旗を出して、二人で笑い合う。その時のクラリスが口を開けて笑う笑顔がたまらなくいいんだって。その笑顔でまた涙が溢れて、一旦落ち着いたあと、スマホでそのクラリスの顔を写真で撮ったらしい。どんだけクラリス好きなんだ。あとで現像して写真立てに飾るって言ってた。アホか。
そのあと伯爵らが来て、ルパンが落とし穴に落とされる。クラリスは嘆き悲しむが、指輪から「聞いちゃった聞いちゃった~」とルパンの声。その時のクラリスの驚く顔!ここが素晴らしい、と友人は力説し、俺にそのシーンをスマホで見せてくる。確かに鬼気迫る表情だ。そのセリフを話してる間、ルパンは平気ってわけじゃなく、落とし穴の途中で止まってクラリスを元気づけるためにわざと明るく話してる。そういうのも良いって言うんだ。それは分かる。頑張ってる姿を見せない、男の美学だよな。でもルパン側で泣くんじゃなくて、その後残った花を持って祈ってるクラリスで泣けるんだって。お前は乙女か。
それで次はどこで泣いたんだって言うと、ルパンがもう一度クラリスを助けに来たんだけど、ルパンが撃たれてしまうシーン。撃たれたルパンをクラリスを身をもってかばう。伯爵と駆け引きだってする。それだけでも泣けるらしいんだが、特に、執事の機関銃に向かって行くシーンがいいって言ってた。普通、銃の軌道を反らせる場合、撃っている執事に向かっていくものだが、クラリスは機関銃そのものに向かっていった。危ないから普通は銃には向かっていかないんだよ、でもそれほどルパンを守ろうとしている、その必死さがもう無理って友人は言ってた。
最後の時計塔の戦いでは、伯爵がルパンを指から出る弾で撃つ時、クラリスが伯爵を止めるんだけど、ただ止めるんじゃなくて、伯爵を道連れにして湖に落ちようとする。この必死さがもうたまらなくて、泣いてしまったらしい。友人は自己犠牲が刺さるタイプなんだろうな。
映画では最後湖が干上がるけど、俺も涙で干上がってしまったと言ってた。何うまいこと言ってんだ。
じゃああれか、最後のシーン、銭形のセリフはやっぱり泣いたのかって聞いたら、あれはわざとらしすぎて泣けなかったって。なんだそれ。サイコパスか。
ただ、「クラリスはとんでもないものを盗んでいきました。俺の心です」とは言ってた。パクんな。
で、最後に聞いてきたのがこれ。映画は購入したんだけど、その画像をスマホで撮って、それを現像して部屋に飾るのは違法かどうかって聞かれた。まあ、動画購入してるんだし、自分で楽しむ範囲だったらまあギリセーフだろうと答えておいた。ただ、そのお前の行為は別の意味でアウトだぞ。
マジでいい
Puffっつう歌いだしが相当いいのはもちろんのこと、dragonのドラーゴンって伸ばし方に英語の譜割りを感じてすてき
一番好きな歌い出しかもしれない
いいですね!俺の学校はこれだったので、一番思い入れがあるかも
歌い出しに「パフ」をもってきて、原曲と合わせているのがいい パフって名前がここで印象付けられるんだよ そういうのが後々きいてくる
そんで、こう、これは、何も引かず何も足さない、そういう美学が感じられる訳だ
やっぱこう、歌の訳って、いかに原曲を残すかってところにあると思うんですよね
もとい、俺的にはあまり好きな訳ではないですね
まず、はじまりが「パフ」ではない これが嫌だ
あと、magicを「ふしぎな」にするのもどうかと思う
lived by the seaの要素なんてまったく出てこない
このメロディにこの内容、ってところを合わせて訳詞なんじゃねえのかよ なにがふしぎなパフじゃ、最初の1音目で「パーフ!」ってやるのがこの曲の大サビだろ、「ふーっしぎーなーパーフー」じゃねえんじゃ、なんだその間延びしたパーフーは、なめとんのか
猛省してください
これYouTubeにあった謎のバージョンなんだけど、正直一番好きですね
このすげー雑な融合がイイ
なぜイイかというと、両言語の気持ちいい部分を抜き出しているから
くーらーしーてーたー、気持ちいい!
これが一番いいと思うんですが、難点としては意味がわからないこと
なんで急に日本語になるんだ?と聞かれたら答えられませんね