はてなキーワード: 積分とは
ここ10年ぐらいの年間読書量
・小説 5冊/年
・ビジネス書 5冊/年
・技術書 1冊/年
文章が書けなくなったと感じたのは映画のレビューをしようとしたとき。
内容について少し長めに話したいことがあったのでTwitterじゃなくてnoteで2000文字ぐらい書こうとした。
書けねえんだなコレが。
文章の構築の順番が分からんし、言いたいこと同士を繋げるための話の流し方が見えてこない。
何よりもアカンなと思ったのが語彙力が明らかに落ちてきてること。
最近はTwitterの140文字ですら読み返すと同じ表現が2回3回と出てきてる。
本当に同じ意味を現したくて同じ表現になっちゃうのはいいんだが、微妙にニュアンスが違う言葉まで同じ言葉になっている。
たとえば人間に対して「好き」を使う時って「性格は最悪だと思うけど顔付きは好み」(好き≒顔がタイプ)だとか「思想はどうかと思うが文句言ってるだけじゃなくて行動に移す所は良いと思う」(好き≒気っ風が心地よい)みたいな違いが出てくるけど、それを表現するにはダラダラと長く説明するか、対応した単語や慣用句を持ってくる必要がある。
本題とあまり関係ないところをダラダラ長く書くなんてしたくないから丁度いい言い回しでサクサクと終わらせたいんだが、その選択肢が昔の半分程度に目減りしたように思える。
類語辞典を引こうにも最初に指定した言葉の範囲が広すぎるとやたらと時間が掛かるし、GPTに聞いてもオウム返しにされるだけに終わるし、結局自分が言葉を知らんと話にならんなと。
どうすればいいかは分かってるんだよ。
本を読めば良い。
インターネットと漫画だけじゃ限界があるってことがよくわかった。
そもそも本読んだら文章の勉強になるかっていうとかなり時間がかかるしなあ。
アイディア勝負の悪文小説なんて世の中に沢山あるし、なんかの大賞取った本でも半分ぐらいは設定の勝利みたいなもんじゃん。
読むと文章が上手くなる本シリーズみたいのがあって、それを月1冊読めば30冊分の読書量と同じ語彙習得が可能なのとかないん?
"使える語彙辞典"みたいな感じのではなくてな。
ゆーて語彙辞典とか読むと雑にやってるうちに敬語グチャグチャになってきたんだなーって勉強になって面白くはあるけどさ。
本当、単にダラダラ社会人やってるだけだとドンドン基礎学力が落ちてくな。
幼稚園~大学までは毎日授業と課題に追われているうちに勝手に賢くなったけどあの感覚で生きてちゃ駄目なのな。
語彙力と押して気づけて良かったのかね?
微分積分は「距離・速度・加速度」の関係だけ覚えてりゃよくね?
でも語彙力が落ちてるのは気になっちゃう。
えーとそれで私の友達の植田一石なんですけどあれはまあ検察の事務官みたいな数学者で、まあなんかあの人にはないんですよね、植田氏は木野崎新人セミナーで作られて私は
黒羽で作られたというか、で、要するに激似というだけで本物じゃないんですね、そこで、ミハイルカプラノフって元々、ロシアにいたときは有能でイケメンだったんですけど日本にきてから
なぜか昭和のオヤジになった人で、実は延岡のHIヒロセとかでトラックに乗ってることもあるんですね、で、何でそういう人がいるのか分からないのですが、私が黒羽新人セミナーを
出てきてから延岡を走っていたら平成26年の夏ごろにHIヒロセかマミーズマーケットにカプラノフがいてまあ軽トラに乗ってるんですね。
カプラノフ氏は、二次凸多面体というものに興味を持っているだけで、この講義はまあ聞いてもわからないというか、あれって、ゲルファントゼルビンスキーとかの共同研究になるらしい
のですが二次凸多面体って多分もの自体は誰でも分かると思うのですがそこに代数を入れるというのがその研究でチェインコンプレックスくらいのことはまあ東大の教養で多重積分を聞いた
ことがある人は分かるのかも知れませんが、何言ってるのか分からないというか、 2乗して0になるってよく出てくるというか松井千尋さんの量子スピン演算子の講義でも何回も、2乗して
0になるっていってあってまあ彼らの世界では当たり前のことかもしれませんが、そういえば松井千尋さんは講義で結構ネタ晴らししていて、フェルミオンの数を一個減らしたり増やしたりするといって
ですね、それいっていいのかっていう、その辺はまあグラフ理論でも参考になるというか、グラフ理論でも、一個増やしたり減らしたりするってのがあったような気がするのですね、98年の東大の問題で
皆様は、何が楽しくて生きてますか?
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自分語りさせてください。
自分はほどほどに太い実家で育った。両親は毒親ではなく、むしろ愛情を受けて育ったと思う。
おかげで良い大学にも行けた。
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でも人生が楽しくない。
楽しくないと言ったら語弊があるかもしれない。
飲み会行ったとき、旅行行ったとき、美味しいご飯を食べたとき、寝てるとき、セックスしたとき。
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でも楽しくないことの方が断然多い。
別にパワハラされているわけではないし、深夜まで働いていることもない。
でも、起きるのめんどくさいし、業務もめんどくさいし、帰ったら何のために今日一日頑張ったのだろうかと虚無になる。
給料日には気分も上がるが、すぐ使い果たすだけ。
この繰り返しの毎日。
この苦痛が、あと数十年続くと思うと本当につらい気持ちになる。
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じゃあベンチャーにでも行ってやりがいのある仕事にでもつけば良いじゃん、とか言われる。
でもやりがいのある仕事なんてないと思ってる。今までの人生全部そうだった。最初は楽しくても、すぐに飽きる。
しかも自分は男だ。将来誰かを養わないといけないかもしれない。短いスパンで転職を繰り返して、家族に心配をかけたくない。
それだったら、大企業で安定した職について、そこそこに高いお給料をいただいていたい。
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楽しいことより、楽しくないことの方が多い。楽しさの関数を積分したら、かなり負の値を取る感覚がある。
死んだ方が楽しいと思う。
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代わりに病気になってあげたいと思う。
代わりに戦地に赴きたいと思う。
毒親に育てられた人を見ると心が痛くなる。
代わりにサンドバッグになりたいと思う。
でも、ドナーになる勇気もなければ、志願兵になる勇気もなければ、毒親を注意する勇気もない。
自分は「代わりに〇〇してあげたい」のではないことに気づく。死にたいだけなんだ。
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よく、なぜ生きてるのか考える。
(あと、親は悲しませなくない。)
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このように考えるようになったのは最近に限った話ではない。なので、仕事のせいではないのかもしれない。
記憶がある限りは、小学校高学年くらいからはそう思うようになってた。
(再三だが、親は優しかった。虐められることもなかった。だから、発育環境のせいではない。 )
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恵まれているのに、このように考えてしまうのは捉え方の問題なんだと思う。
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精神科にも行った。薬も飲んだ。認知療法的なのも試した。でも、頭で考えて、しっかり結論が出てるから考えが治らない。
どうしたら良いのだろう。
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皆様は、何が楽しくて生きていますか?
書き換えたブコメと内容被るので身元ばれるだろうけどかなり感動した。大学受験のみならず、大学に入ってからもある種の積分をやるのにt=tanαとおいて置換するとうまくいくって習った人多いと思う。通常はピタゴラスの定理から出るcos^2θ+sin^2θ=1を用いてcos2α=(1-t^2)/(1+t^2)、sin2α=2t/(1+t^2)を証明するんだけど、今回の若い人たちは逆にこうなること(cos2α、sin2αがtを用いて書けること)を別口で証明して、あとは単に計算すりゃ確かにcos^2+sin^2=1ですなあ、でQ.E.D.ってお話。なお、誰でも気づくと思うが、この証明法は元が直角二等辺三角形の場合破綻するので、それから逆に従来の方法とは異なる、と推測できる。なお、無限級数の和は1+r+r^2+...=xと置けば1+rx=xからxが求められることと同じになり、それを図形で表せば単なる相似問題に帰着するのでこれが美しくないと思う人はそうするだけでよい。
引用のサイトの図でいうAがその結果2tc/(1-t^2)(この段階では分母が1-t^2なのがまた憎い)であることが純粋な相似図形による比例計算(この部分が無限級数バイパス)から示せ、C=tA=2t^2c/(1-t^2)がわかる。証明者に従ってC+1を計算する(!!!)と、C+1=(1+t^2)c/(1-t^2)、よってsin2α=A/(1+C)=2t/(1+t^2)、cos2α=c/(1+C)=(1-t^2)/(1+t^2)、と懐かしい形に。ちょうびっくり!!!!!!!!
私は数学愛好家であって生まれ持ったセンスがあるわけではない(悲しいけど)ので、今回の証明法がそれなりに新しい発展をもたらすのかどうかは全然わからないが、素直にビビるほど感動した。
東京大学総長 藤 井 輝 夫
請求人 ■■■■
令和5年3月20日付で 開示請求のありました、請求人についての本学の前期入試問題に対する得点結果およびその理由について、東京大学における学生の個人情報の保護に関する規則により、以下の通り部分開示します。
全部開示できない理由 試験答案は1年間の保存年限が決まっており、既に廃棄しているため存在しません。また、本学は平成16年度から成績開示請求に応じていますが、成績得点結
果は、5年間で廃棄しているため、卒業後15年を経過している請求人様の成績得点状況に関する資料は存在しません。
備 考 なお、本学に保存されている採点当時の採点者のメモなどによると、平成15年の文科一類の問題に対する解答状況として、数学では、第一問におい
て適切な考察をしなければ答えとなる数値が出ないような積分の問題だったが、適切な考察をしなければ出るはずがない数値が出ていたため
remarkableな答案としていたこと、第3問の答えはあてずっぽうでも出せるので論証過程を評価していたが、答えが出ているし、論証過程も間違いがな
かったのでこれもremarkableな答案としたと書いてあります。
第4問
次の文章は、『永山悟と白根真理雄について思うこと』という随筆である。これを読んで後の問いに答えよ。
永山悟という人は宮崎県南高校から進出してきた筋肉の化け物です。理数系だけの知能指数が高くて実物は筋肉もりもりで数学の知能指数だけ高くなったような人ですね。だから平成15年
の理科一類に現役で受からなくて、後期の数学一本主義の試験だけで選ばれた奴です。前期試験に受からなかったのは物理とか化学とか英語が全然ダメだからですね。物体としては化け物で
文系的なセンスが何もないので前期試験ではいけなかったのです。その代わり、理科一類の数学だけの難問で通って受かってきた。だから数学だけはよくできていてノートに線積分の数式とかを
どんどん書いていたのでそれくらいしか覚えていない。ボンカレーばかり食べていたが全然太らないし明らかに化け物だった。化け物なので幼稚になれないわけでその後に、工学部の大学院に行って設計の
勉強をして、死役所に選ばれて結婚したらしい。なぜ私が永山悟くらいしか名前が挙がらないかというとそれ以外の人は覚えてないし名前も分からないからですね。
東京大学は正八面体の問題を2回にわたり出題したので非常にセンスが悪く印象が悪い。 一回目は1990年で、 一つの面に平行に切断したときの辺の長さが一定であることを
示せ、 2回目は、21世紀に入ってからで、正八面体を上から見た図を書いて、上から下までを積分しろというもの。まあ、この問題自体が東大生にしか理解できない怪文書であるわけだが
Vは、8方向から対称なので、 1つの面に平行に切るだけでよくてそこを重点的に計算すればよい。しかしこの際に、 立体図形をノートに正確に書く必要があるし、切断面を真面目に考え
ないといけない
この設問(1)の、1つの面に平行に切るというのは、上から見た図形を考えるのと同じなので、全く同じ問題だった。そして、上から見た図形を書いたときにその図形が穴の開いた平面を
通るのかどうか。
これは東大生にしかできない怪文書と言われていたが気がついたらそうではなくなり、今の東京では、この怪文書よりもはるかに恐ろしいモチーフ理論が流行っているので、デリヘルに女の子が
第一問 無限級数の値を求めよ。 結論 (1)区分求積法より自明 (2) 区分求積法で ∑が1~2nのときは、積分範囲が0~2になるという公式を知らないと厳しい。
インターネットの解答者ははさみうちの原理で解答しているので、それしか解答がないようにみえるが、ちょっと知識があって検索すれば他の解き方もある。
第3問 一辺が1の正八面体を、 一つの平面に平行に切断したときの周の長さが一定であることを示し、この八面体が一辺1の正方形を通るかどうかを判定せよ。
→ 図を書いて切断面の線で引いて計算すればよい。これをヒントにして、通るかどうかを考察すればよい。
平成14年東京大学理系数学 第6問 1,2,3,4,・・・・、2Nのカードを2^n回シャッフルすると元に戻ることを示せ。
技術的にエレガントな問題で、(2)の補完定理が存在しないと規則性が全く分からず示すことは不可能。
理系第6問 円周率が3.05より大きいことを示せ。 結論 数学界では、円周率は3.14・・・・と確定しているので証明する必要がない。
粒子の偶数個のときしかできませんし、ディリクレ境界を科した場合 ヒルベルト空間ができなくて、ノブシュワルルセクターか、ラブンセクターで奇数個のところしか無理です。
場の理論には超対称性に量子スピン鎖はそれを陽に持ってなくてそれに興味がありやってます。超対称性についてですが、1+1次元でn=1のときを考える。チャージを フェルミオン数
運動量が0のときは簡単で、チャージの2乗が0になり半交換関係です。フェルミオンを1,2増やしたり減らしたりする。スーパーパートナーのセットがあってこれは、固有状態の組で同じエネルギー
を持っている。ハミルトニアン定義とから証明できます。連続系で定義されていてポアンカレ代数 並進対称性、離散するかで、パウリ行列という2次元表現で与えられて超対称性サインゴルドン模型でみられます。多体散乱で定義できて漸近 シャーペンスが導入した。ローカルに粒子に作用した和になり余積が定義出来て、これけっこうハーゲンドルとフェンドレンが2012年に導入した。スピン演算子がフェルミオンのオペレーターで書けて、それのフェルミオンの数を1,2増やしたり減らしたりします。ニルポテンシーは次のベクトルを考えて満たされる。ハミルトニアンの密度を表せて、このハミルトニアンは加積分スピン鎖、XXZ差を含んでいる。
素朴な疑問なんやけど義務教育に含まれてない内容の質問をした相手に対して「まず義務教育くらい受けたら」ってのはどういう思考回路を経ると出てくるん?
微積はたぶん高校範囲だよな?うろ覚えだけど なんで微積でたとえるとさ
微積についてなんもしらん小学生が微分積分って単語だけ覚えてトンチンカンな質問をしてマウントをとろうとしてきました
おっクソガキムーブかわいいねって思うじゃん?いっぽうでちょっとイラついて大人としてマウントしたろって思ったとするじゃん?
「まず義務教育くらい受けたら」とは出てこんよね
だって義務教育に含まれてないんだからまず義務教育くらい受けたところで微分積分の知識がつくわけないのは論を俟たないじゃん?
そしてマウントを取る目的が無いなら、なおさら「ぎむ教育くらい受けたら」は出てこないじゃん?
質問内容に対してマウントを取るという目的であっても、あまりにもそれを満足することが期待できない文節を出してきた理由を知りたい
文系学問は文系でもできる範囲で発達しているに過ぎないと思う。
物事には理系にしかできない論理構造というのがあって、それが必要なものについてはいまだ解明されていないと思う。
文系の論理はなんというか線条的なんだ。ああなったら、こうなるという論理。雨降って地固まるというような思考様式さえ理解できるなら片がつく。双方向的な論理もあるかもしれないが所詮は一次元のなかでのUターンに過ぎない。
俺はディ二の定理もガウス積分も「理解できない」ことで完全に理系の素養がないと悟った何者かである。
https://mathlandscape.com/dini-theorem/
たとえば上リンクのディ二の定理の説明に使ってるグラフによる関数列の定義が理解できない。
fn(x)についてfn(2/n)=1とは一体どういうことだと言うのか。
xについて解けばn=2のときx=1らしそうだがそれってどういうことなのか。つまり関数列のxを固定して数列としてみたfn(1)についてn=2のときの項は少なくとも1だということになるがそれ以外のnについても項が全く不明ではないのか?
ガウス積分も同様だ。どうしても変数変換のところで理解が追いつかない。rとθが同時に動くような状況を理解しなくてはいけない。高校の置換積分とは理解に必要な脳のスペックCPUでいうならbit数が根本的に違う。
ようするにこれらは変数の数の問題だ。文系の論理は変数でいえば一個の変化を辿っていくようなものでしかない。
しかし理系のそれは二個以上が容赦なく変化するような論理の流れを追えなければ理解が追いつかないということになる。
しかし私のような人間は一つの変数についてたどろうとするとそれ以外の変数に対する考慮がおろそかになってしまうような理解しかできないのだ。
この状況は絡まった糸で例えられるかもしれない。糸の端が外側に出ているという前提であれば、複数の糸がそのように絡まった糸玉に対してある端から辿ってその糸の別の端を探すということはできるはずだ。
理系がやばいのはこの辿るという作業を二つ以上の糸に対して同時に行えてしまうようなところにあるのだと思う。とてもじゃないがワーキングメモリーが足りねえよ。
つまり二つ以上の変数を一挙に思考の範囲内に収めてみんなまとめて辿れてしまうんだ理系ってのは。
応用数学を解いたり、初等的な計算が早かったり、フラッシュ暗算が得意だったりというところだ。なかには理系以上の計算力を持ってる人もいる。
しかし理系もみんなそれなりの計算力はあるのである。大事なのは、計算力があるなら理系であるとは限らないこと。百ます計算や公文式で得意げになってる子供に理系としての将来を期待するのは早計なのだ。
だって俺でもガウス積分を使わなければならない問題でも一定の演習を積めば答えの法則をそれとなく察してパズルのように解けるようにはなってしまうと思うから。高校数学の延長上の応用数学はみんなパズルである。ナンプレと大差ない。パズルとして解こうとする限り計算問題はみな線条的な論理理解力があれば事足りるのである。
しかし原理的な理解がなければ既存の定理を発展させることはできない。
実は文系という人間にありがちと思われるのは、正しく新しい定理を証明までできた気になって得意げになってるか、既存の定理について延々と具体的な数値を代入してみたりして納得を試みようとするが一般的にそうだと言えることについてはついに何度人に教えてもらってもいまいち理解には辿り着けないかのどっちかだろう。
前者は無知の知すら弁えてない傲慢な人間、後者は合理的な知性主義によって既存の知性となんとかすり合わせを行おうとしているがそれができない、という違いだ。
ちなみにツイッターに棲息していがちな、法律の話で独自解釈をしているのにそれに気づかない人間は前者である。
やや急進的な言い方かもしれないが、位相集合を基盤とした数論幾何をはじめとする現代数学と一部の物理以外はだから文系なのである。理論や主張を腹落ちするのに複数の糸を同時に辿れるような能力はいらない。
というかそういう人間しか研究に携わってきてないから、そこから出力される理論もその程度なのだろう。理系の頭をもってしか理解できない領域が人文社会科学にもあるならば、それについてはいまだベールに包まれたままなのかもしれない。しかしなぜか真の理系人間の誰一人として文系学問には進まないか、文系学問において理系脳をフル回転させようとしないのだと思われる。
dorawiiより
FGOの若いモリアーティからバレンタインイベントもらっておもいだしたんだけど
自分は高校で(大学受験前に)公文式数学をSコースくらいまでやってたから大学の数学は(行列以外は)あまり苦労しなかったな
回転積分とか普通に体積もとめるのにつかってるやつの元か~ってな感じ
ただ、公文式にしろZ会の物理にしろ、眠かった マジで鉛筆にぎったままz-z-して、起きたら答え書きだすの、へんな能力者みたいになってた
公文だから小学生くるんだけど「先生あのお〇ちゃん寝てるよ!」「いいのよむずかしいとこやってるんだから」みたいなやりとりされてるのうっすらおぼえてる
やれるけど眠いの、脳ががんばってたんだとおもう
知的作業の本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学、もっと一般的に言えば、純粋に記述的なレベルよりも高いレベルで経験を解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。
ほとんどの人が、数学は経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学の技法とはいくつかの決定的な点で異なる方法で実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。
まず幾何学。力学や熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンのプリンキピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的な形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定を裏付ける物理的な洞察と、定理を裏付ける実験的な検証が存在する。
ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理が疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験的性格にあった。数学的論理的な分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである。
ボリャイ、ロバチェフスキー、リーマン、クラインが、より抽象的に当初の論争の形式的解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論が発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋に数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解を修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学と一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。
第二に、微積分学から生まれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものである。ケプラーの最初の積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的に力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学的精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスやヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配が基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマンの科学的な性格そのものが、数学の二重性を最もよく表している例である。ワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学と論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想を払拭した。
ここで、第三の例。数学と自然科学との関係ではなく、哲学や認識論との関係である。数学の「絶対的」厳密性という概念そのものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学的抽象性以外の何かが数学の構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである。第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論が経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定は必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学の経験的起源は幾何学と微積分のような事例によって強く支持されるということ。
数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。
極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法で研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代の数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解に合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身の基準にかなり満足していたようである。
ああいや、俺の言葉の使い方が怪しいのかもしれん。学際というのは複数の分野にまたがることを前提として作られた学問って意味合いで言ってる。
超ひも理論などはもっぱら数学を活用した物理のための学問だろう。別に他の学問に一切活用されてない学問を所望してるわけじゃないし(そんなこと言ったら代数学できないし)、それにしても物理学で数学に対抗するのはなんか力士に野球で決着をつけようとしてるようで違うかなーって。
数学の現段階での(数学という系譜上に)最終到達点としての学問領域って数論幾何以外になんかあるのかなとシンプルに疑問に感じただけ。たとえばルベーグ積分を学ぶのを最終目標にしようって全体じゃそんなのは数論幾何の踏み台としての解析学のしかも中間地点あたりの成果の技法でしかないわけだしねえ。
別に本気で学びたいとか言ってるんじゃなくて数論幾何がもてはやさてるなかでの、他になんかないのかっていう素朴な興味やら反発心混じりの疑問ってだけだよ。
既に納得したのかもしれんけど読んでて何が言いたいのかよく分からんかった
1=xという方程式があったとして、それはx=1でだけ成り立つ、というだけなのでx=1以外を含む区間で積分すると統合は成り立つと限らんよ
f(x)=g(x)がx ¥in Xで成り立つなら両辺それぞれをX上で積分したものは等しいが、X以外の領域で積分したものは等しいと限らない
1=xの両辺も統合が成り立つx=1の一点で積分したものは等しい(なお両辺とも0になる、ただこの例だとゼロ集合上の積分がゼロってだけなので例としては微妙かも)が、xが1以外のところを積分区間に含めて、かつ積分区間がゼロ集合でなければ積分は一致しない場合がある
例えばf(x)=x, g(x)=|x| (絶対値)とすると、2つの関数は区間[0,1]では等しいので[0,1]上での積分はどちらも1/2と等しいが、
[-1,0]ではf(x)とg(x)が等しくなく、区間[-1,0]上での積分もそれぞれ-1/2, 1/2, となって等しくならない