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はてなキーワード: 占領とは

2017-06-27

中国日本攻撃する気満々なので

日本軍事力を持つのに反対している。

そして、日本を売る奴らは日本軍事力を持つのに反対している。

中国韓国竹島占領したように、隙をみて尖閣諸島占領しようと

その海域軍艦がうろうろしている。

中国国内日本は敵だとあおっている。

それは すべて 日本攻撃するためだ。

戦争物は攻めてくる方が悪で守ってる方が善って感じがする

悪の大国から攻め込まれて、領土の大半を占領されている国で、

一人の優しい、または勇敢で正義感の強い少年不思議な力を手に入れ、

その力を持って大国を追い払うことに成功する

これで終わったら正義の勝ったハッピーエンドになりそうだけど

もしその続きで、その手に入れた力があまりに強すぎて

偉い奴から今度は今まで攻めてきた国を攻め返して領土を奪うより命令されたら、今度は主人公が悪になるのかなあ…。

新幹線外国人アジア系)がうざい

この時期、新幹線の三列シートはほとんどが外国人客に占領されてる。

彼らは大量の荷物をばかでかいスーツケースに詰め込んで移動してるので、

それが席の大半を占めてしまい足をおくような場所も無い。

可哀そうといえば可哀そうだけど、よく見るとそうでもない。

彼らは子供iPadスマホを渡してゲームだ、動画だと好き放題。

ヘッドホンをさせるという概念が無いのか、音はさせ放題である

しつけも根本的になってなさげな感じなので当然さっきから騒ぎ放題である

私は反対側の二列シート側で仕事に集中してた。

いや集中できない。いい加減いらっとはきてた。

三列シートからすっと女性が立ち上がってこっちにやってきた。

美人だったらよかったのかもしれないけど、まぁ東南アジアのどこにでもいるおばちゃんである

そのおばちゃんが精一杯にこっと笑って私の隣のシートを指してきた。

なにも魅力的ではない。

が、きっと空いているかと聞いてるつもりなのだろう。

やだよ。

ゲームやってるガキをそこに座らせるつもりだな。

リザーブドシート」

冷たい目でにらみつけながら教えてあげた。

これ以上、仕事邪魔すんなという事をそろそろ彼らに叩き込まないといけない。

新幹線は俺たちの仕事場だ。

静かに過ごせないばかどもは来日すんな、

電車にのるな。

おまえらバス移動にしろ

2017-06-26

いまさらポケモンgo始めたんだけどさ

青チーム多すぎじゃない?

三色あるのになんでこんなに偏るのってレベル

家の周りのジムは、基本的に青チームが占領してるし、赤チームと黄色チーム合わせても勝てないんじゃないかな。

自分は赤チームだから、はやく強いポケモン育てて青チームを駆逐したい。

2017-06-19

朝の電車

数ヵ月前から気になる人がいる

私は20代後半に差し掛かった社会人の女。

会社は家から1時間ほどのところにあり、毎朝電車通勤している。

面倒だけど、間に2回乗り換えがある。

ちょっとした準備遅れだったり、乗り継ぎの都合もあって、特に3本目の電車は乗る時間前後していた。

その日も、いつものように3本目の電車ホームに向かったところ、たまたま目の前で電車を逃した。あーあ、、と遅刻を気にしながら、次にするりと入ってきた電車に慌ただしく乗った。

そこに、後に気になるあの人がいた。

何が気になったのか、と言われると難しいし、今でもはっきり言えないけど…

ちまたで言うところのイケメンというわけではないし、そして細マッチョ、とまではいかない感じだけど、身のこなしがしなやかそうな印象があった。単純に、自分の好みであった、フィーリングが合ったとしか纏めようがなく、明らかにドキドキしていた。初めて見たのにピンと来てしまった。それからしまれない程度に目を追った。

降りる駅は自分とおなじ駅だった。職場付近にあるのかな。駅の階段をあがり、明るい世界に出たとたん、その人は私と反対の方向の道へ向かった。

少し気になっただけかな?と軽く思っていたんだけど、朝のお化粧に気を遣うようになったり、仕事をしている間も、そして帰りの電車でも、会えるんじゃないかって期待していたり、いつもの自分らしくないと気付くまでに時間はかからなかった。そして、毎日通勤を繰り返すたびに、よく分からない気持ちが心の中をちょっとずつ占領していくのが分かった。

同じ電車に乗って、もう一度会いたい。

あの時自分が何分の電車に乗ったのか(ているのか)考えてみる。その日はその人と会ってしまったが為に、軽くパニックになってしまったのか、時間を全く気にすることな会社まで歩いてしまった。

ヒントは、『いつもの電車を乗り過ごしたときに会った』ことだけ。

3本目の電車は2分に1本でてるし、どの号車に乗っているのか、そもそもその人が朝いつも同じ号車に乗るのかすらわからない。でも、朝の出勤はルーティンワークみたいなものだし、だいたい号車も時間も決まっているのでは?と言い聞かせていて、なぜかその頃の自分は、『もう会えないかも』とは思っていなかった。

私も会社があるし、朝トロい方だから時間を調整するのが難しかったけど、その人に会えるかもしれない朝の"2分間だけ"の乗車時間に全精神を捧げる日々だった。



『もう会えないのかな』

前に会ってから約3週間経った日だった。乗り換えで電車を待つ自分に、初めてその言葉が頭をよぎった。

自分視線の先、左から右へと、瞬く間に日常の色を取り戻しはじめていった。

乗り込んだ52分発の電車に、

あの人がいた

2017-06-15

野党ダメな感じは自由惑星同盟ダメな感じに似ている

今の政治劇は銀河英雄伝説に通じるところがある。

自民党銀河帝国民進党自由惑星同盟とした場合、これまでの民主主義堕落の煮詰めた先が民進党ダメな感じと通じるところであるなぁと思うところである

さりとて、自民党が知勇に優れた名君かといえばそのような器ではないが、衆愚に堕ちた野党よりはましというところだろう。

それこそ銀河帝国占領された自由惑星同盟国民のように、生活が悪くならなければそれでよいのだと。

2017-06-14

観光地ってだれのもの

私の職場沖縄国際通りにある。ここ2,3年の外国人旅行客の急増は国際通りにも大きな影響を与えた。私の職場にも毎日多くのお客様が来店し、おかげで店の売上はずっと右肩上がりだ。しかし、私は以前よりこの地域が嫌いになった。仕事が嫌になったわけではない。この地域のものが嫌いになってしまった。

沖縄那覇にある国際通りを歩いたことがあるだろうか。私は毎日歩いている。今日もほぼ端から端まで歩いたが、こんな場所恥ずかしくて本当は誰も来てほしくない。花壇にはポイ捨てされたゴミが溢れ、店の前には集団で座りこみ、自撮り棒を伸ばしながら歩く人、しつこくうるさいキャッチと横に並んで歩く団体を避けながら歩くのはとてもストレスだ。外が地獄からってスタバ避難しようもんならもっと最悪だ。大声で騒ぐ修学旅行生、1人しか注文していないのに5,6人で席を占領する団体スマホタブレット端末のスピーカーから音楽ダダ漏れさせている奴もいる。言っておくが外のテラス席の話ではない、すべて店内での光景なのだ地元民が見たことも聞いたこともない《元祖》や《沖縄名物》などと書かれた土産物がそこらかしこに売られているし、沖縄のものでもない北海道東京限定商品高値転売しているお店もちらほら見かける。この通りにモラルなど存在していない。こんな場所沖縄観光地だなんて本当に恥ずかしいことだと思う。外国人観光客を迎え入れるためにハードソフト両方とも整備が必要だと言われているが、まずはそこで生活している人が快適に生活できる環境を整備することを早急に取り組んでほしい。沖縄の人は国際通りを知らない。歩かないからだ。「国際通りでどこがおすすめ?」と地元民に聞いてみてほしい。半数以上の人が「行かないから知らない」と答えるだろう。もしこの日記沖縄の人が読んだとき国際通りを歩いてみてほしい。いまの国際通りはよその人がよその人向けに作った街だ。「沖縄風」なものはたくさんあるがそこにリアルは感じられない。地元の人からも愛される場所を作ってほしい。そう願うばかりだ。

2017-06-10

世代論は嫌いだがあんたらハイジャック世代でしょ

よど号ハイジャック事件[編集]

よど号ハイジャック事件とは、1970年3月31日羽田空港板付空港現在福岡空港)行きの日本航空351便(ボーイング727、乗員7名、乗客131名)が、富士山付近の上空を飛行中に、日本刀拳銃、手製爆弾などの武器を持った赤軍派学生を中心とした犯人グループによりハイジャックされた事件犯人グループ航空機関士を拘束し、機長と副操縦士に対して北朝鮮平壌に向かうよう指示した。

この要求に対し機長は、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足しているとして犯人グループを説得し、給油のため板付空港に着陸した。ここで女性子供などの一部の人質が解放された。その後要求通り北朝鮮に向かおうとしたものの、韓国領空内で、韓国空軍機ソウル金浦空港誘導し着陸させた。その後韓国政府犯人たちに平壌に到着したと偽装する工作を行ったものの失敗。4月3日事件解決の為にソウル訪問していた山村新治郎運輸政務次官乗客の身代わりとなることで決着し、客室乗務員を含む人質全員を解放し、その後犯人グループとともに平壌に向かった。

その後同機は平壌郊外飛行場に着陸し、犯人全員は北朝鮮当局投降、その後亡命し、機長と副操縦士山村政務次官らは4月5日に同機で帰国した。


ドバイ日航ハイジャック事件[編集]

ドバイ日航ハイジャック事件とは、1973年7月20日に、丸岡修ら4人の「被占領地の息子たち」と自称するPFLP日本赤軍の混成部隊が、爆弾等の武器を持ちパリアムステルダムアンカレッジ経由東京羽田)行きの日本航空機(ボーイング747-246B型機 JA8109)をハイジャックし、アラブ首長国連邦ドバイ国際空港シリアダマスカス国際空港等を経由し、リビアベンガジにあるベニナ空港に着陸させた事件

その後、乗員乗客141人の人質解放後同機を爆破し投降した後、犯人グループは、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認の元逃亡した。



ダッカ日航機ハイジャック事件[編集]

ダッカ日航機ハイジャック事件とは、1977年9月28日フランスパリ発南回り東京羽田)行きの日本航空472便(ダグラス DC-8-62型、JA8033、乗員14名、乗客137名)が、経由地のインドボンベイ国際空港を離陸直後、拳銃手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた事件。その後同機はバングラデシュダッカ国際空港に強行着陸し、犯人グループ人質身代金として600万ドルと、日本で服役および勾留中の日本赤軍メンバー及び日本赤軍に加えようと目をつけた囚人9名の釈放を要求した。

これに対して福田赳夫内閣総理大臣が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払いおよび、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断身代金と、釈放に応じたメンバーなど6名(3名は拒否)を特別機でダッカ輸送人質は全員解放された。

ちなみに、人質の段階的解放最中にこの身代金を狙ったクーデターが起き、現地の管制塔が2時間ほど銃撃され、バングラデシュ全土でバングラデシュ要人を含む11人が殺害され、現地に派遣された日本政府日本報道機関の要員もクーデター軍に銃撃されかかった。この時、バングラデシュから機内の犯人へはクーデターが発生し、ハイジャック機内の身代金や、犯人一味や人質達の身柄がクーデター軍に狙われている事は伝えられずに「自分の身は自分で守れ」とクーデター軍への射撃許可を出している。これを受けて身代金強奪を恐れたバングラデシュ大統領令ハイジャック機は人質の一部を乗せたまま強制離陸させられ、日本外務省が手配したアルジェリアに向かった。

その他[編集]

上記3件は全て日本赤軍及び赤軍派に関連する事件だが、過激派等の組織的背景はない単独犯により日本航空旅客機が乗っ取られた事件としては以下がある。いずれも国内便において発生している。


日本航空351便ハイジャック事件[編集]

日本航空351便ハイジャック事件とは、1972年11月6日羽田空港福岡空港行きボーイング727覆面をした男が乗っ取りキューバへの亡命要求。膠着状態の後、犯人は逃亡用にダグラス DC-8機を用意させ、乗客解放したが、DC-8への移動時に逮捕された事件。在米日本人の単独犯であった。



日本航空903便ハイジャック事件[編集]

日本航空903便ハイジャック事件とは、1974年3月12日羽田空港那覇空港行きボーイング747那覇空港着陸直前に青年乗っ取り、2億円の身代金那覇空港で給油のうえ羽田へ引き返すようを要求した事件。同空港着陸後、6時間余りにわたり乗客人質に立てこもったが、同日夜、操縦席に突入した警察官らによって逮捕された。犯人は18歳の青年であった。



日本航空124便ハイジャック事件[編集]

日本航空124便ハイジャック事件とは、1974年7月15日伊丹空港羽田空港行きダグラスDC-8中年男が乗っ取り、元赤軍派議長を釈放した上で北朝鮮へ行くよう要求した事件羽田に着陸後も機内に立てこもった末、翌日未明に再び機を離陸させ、名古屋空港に着陸の後説得に応じて投降逮捕された。犯人赤軍派とは無関係だった。


日本航空514便ハイジャック事件[編集]

日本航空514便ハイジャック事件とは、1975年4月9日千歳空港羽田空港行きボーイング747羽田空港の滑走路上を滑走中、男が乗員を拳銃脅迫した事件犯人乗客を降ろした後に逮捕されたが、その際犯人拳銃を発射した。



日本航空768便ハイジャック事件[編集]

日本航空768便ハイジャック事件とは、1976年4月5日バンコクドンムアン空港マニラ国際空港伊丹空港経由羽田空港行きダグラスDC-8を、マニラ国際空港寄港中に男2人組が乗っ取った事件伊丹を経由せずに羽田直行するよう要求されたが、犯人は説得の末逮捕された。



日本航空112便ハイジャック事件[編集]

日本航空112便ハイジャック事件とは、1979年11月23日伊丹空港羽田空港行きダグラスDC-10ナイフを持った中年男が乗っ取りソ連へ行くよう要求し、成田空港に強行着陸させた事件犯人から要求で給油作業を行っている間、客室乗務員柔道の心得がある乗客を前方に集結させ、操縦室に突入の上犯人を取り押さえた。機長は犯人との格闘の際手の指を骨折した。犯人の男は逮捕時に数十円しか所持金がなく、犯行動機不明

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空ハイジャック事件

2017-06-08

ピゴサ?1秒マップ?便利じゃん、使えばいいじゃん!

1ヶ月前くらいに「ピゴサが日本ポケモンGO衰退を招いた」ってエントリーがあった

http://anond.hatelabo.jp/20170513174300

ここにも書いてあるように、サーチ使わないとポケモンGOは楽しめない

まさにその通りだ!

でも、自分みたいなポケモンシリーズをまったくやったことな初心者もサーチを使うんだよね

その理由ちょっとまとめてみた

理由その1 ジムにいる他のトレーナーに対抗するため

ポケモンGOを始めると、最初ポケモン図鑑を埋めるのが楽しいんだけど、だんだん埋めるのが難しくなってくる

しかも、持っているポケモンがどういう技を持っていて、どのくらいの強さなのか、

持っている複数の同種類の中でどれが一番いいのかっていうのは気になってくる

で、全く知識がない人間がどうしたらいいかって、webサイトで調べるしかないんだよね

攻略サイトをかたっぱしから読んで、ポケモンニックネームメモしてくよね

それでもだんだんやることがなくなってくる

なかなかいポケモン出会えなくなってくるし、起動するのが億劫になるんだよね

あとさっきのエントリーにも書いてあったように、高いCPを持つポケモンジムに多い

そのポケモンに対抗できない限り、楽しみがないんだよね

そんな時にピゴサがあると、一気に楽しくなる!

出現情報だけじゃなく、その出現したポケモンの技と個体値情報もわかるからポケモンを厳選できる

この作者のくくさまは、本当にいい仕事してる

不具合対応も早いしね。。もちろん、アプリ広告収入のためだろうけど

マピノギっていうゲームの時もチートツールを作ってたんだって

最近だと、1秒マップっていうアプリも便利だよね

理由その2 ジムにいる他のトレーナー排除するため

みんなピゴサ使っているからなのか、最近は張り合いがない

いくら自分の持っているポケモン個体値100%だったとしても、ジムに行けば同じのを持っているトレーナーもいる

そりゃ自分個体値100%捕獲できたら、他の人だってとってるはずだ

で、大抵そういうトレーナーは周辺のジムを高い個体値を持つポケモン占領してる

しかも、複数占領ちゃうから困るよね

から排除してる

ポケモンGO公式サイトヘルプセンターに「不適切ゲームプレイの報告」っていうのがある

https://support.pokemongo.nianticlabs.com/hc/ja

そこで、「疑わしいトレーナーニックネーム」にジム占有しているやつをかたっぱしか入力して送ってる

これ、かなり効くみたい

そりゃ、ジムにいるやつなんてサーチツール使って厳選してるんだからNianticがその気になれば簡単にわかるもんね

BANされても仕方ないよね

最近は疲れてても最低1日1ユーザー、やる気がある時は数十件、いやもっと報告してるか

あと近所だけじゃなくて、全国のジムの中で最大CPポケモンを持つトレーナーも報告してる

別に特別技能はいらないよ

だってサーチ使えば、ジムに高個体値ポケモン置いてるトレーナー情報が、いともたやすくわかるから

これがサーチ使う理由その2だね

あ、そうそ

「お前もそのうち報告されるんじゃねーの」って思ってる人に教えてあげよう

ここに書いてる時点で、自分ジムポケモン置くのやめてる

今のところBANされてないし、今後もBANされることはない

てことで、ジムに高個体値ポケモンをおいてる日本トレーナーはBAN覚悟してね〜

2017-06-07

ネットまとめサイトを見続けると「もうひとつ世界」が見えてきた

日本は、重大な危機を迎えている。戦後自虐史観日本の伝統的な人間観を追いやり、竹島尖閣地域には隣国軍隊違法占領を我が物顔で続け、英霊たちの魂はますます穢されている。行き過ぎた人権論者たちは、自堕落無責任な貧しい市民マイノリティを過剰に保護し、公然と善良な一般市民たちの自由を奪おうとしている。

その一方で、在日朝鮮人スパイ民進党からそれほど遠くない所に隠れて反日転覆工作をたくらんでおり、安倍政権関係者たちへのネガティブキャンペーンを繰り返している。もちろん神社本庁もだ。リクルート事件級のスキャンダルが迫りつつある。

この状況で最悪な部分とは? 宣伝工作に長けた“人間以下”のマスゴミが、こうした危機をまったく報じないことだ──。

http://wired.jp/2017/06/07/tried-trumps-media-diet/

2017-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20170606125933

日本政府は、入植地ビジネスリスク自国企業に周知しなければなりません。

イスラエル入植地拡大を推進し続け、二国家解決に基づく中東和平の可能性を掘り崩し続けていることに対し、EU国連では、入植地関連事業への助成金等の規制や、入植地ビジネスに対する諸制限というかたちで対策を強化してきています2014年3月には国連人権理事会で、入植地ビジネスに関わる風評上のリスクや法的リスク権利侵害可能性について、政府企業個人情報提供を行うことを求める決議(A/HRC/RES/25/28)が採決され、日本も賛成票を投じました。

投資協定を発効させる前に、この決議の内容を履行することが必要です。

なお、EUでは17か国以上が入植地ビジネスリスクについての警告を公にしています

問題点4

イスラエルセキュリティビジネス業界に固有の法的・倫理的リスクへの考慮必要です。

投資協定の主要な対象であるイスラエルセキュリティビジネスの多くはイスラエル軍サイバー部隊退役軍人によって立ち上げられており、そこではパレスチナ占領政策の中で培った経験技術商品化されています内戦中の南スーダンでは、イスラエル製の盗聴システムが、ライフル銃等とともに南スーダン政府販売され、人権弾圧に用いられていることが国連報告書で指摘されています

投資協定を発効させる前に、日本資本技術が、イスラエルセキュリティ企業や軍需企業を通じて、被占領パレスチナ領や他の紛争地における非人道的諜報活動人権侵害に利用されないようにするための対策が不可欠です。

http://palestine-forum.org/bds/agreement2017/

2017-06-05

実家のこと

少し前に父が還暦を向かえ、定年退職をした。現在は前職に近しい分野で嘱託のような感じで働いているらしい。

で、その父が家にいる時はずっとテレビ占領しているそうだ。CM中にちょっと別のチャンネルに変えるだけで「早く戻せ」と不機嫌になる、と。

実家住まいの姉が「今から完全引退したらどうしようと母と恐々としている」と先日野暮用で連絡した際にぼやいていた。

その時は適当に流したけれど、こちらからすれば「いまさら?」としか言いようがない。

だって仕事多忙なのもあって休日はずっとごろごろしていた人だよ?引退たか趣味を持って出かけるとでも?

家のことなんにもしなかったし、させなかったのは主に母だし、助長させたのは姉でしょ?

さすがにそれを口にすると感情的キーキー言われそうなので保身の為に言わなかったけど、ある種の因果応報からね。

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線として言っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学歴史学勉強したわけではありません。高校時代文転して受験するかと生半可に考えていて(結局やめたけどね)、興味本位教科書を読んでみただけの素人です。

さいしょの方でも書いたとおり最新版教科書を持ってません。はてブでバズっていてびっくりしましたが、このエントリ専門家レベルのものとして受けとるのは、恥ずかしいのでやめてください。

再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝。)

  

  

  

(追記2

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-06-03

産休の入り方

今月から産休に入った同僚がいるんだけど、デスクが壊滅的にぐちゃぐちゃ。

勝手自分デスクに持ってきていた会社備品は机に置かれたまま。

私物とまざっててどれが備品かわかりにくい。(他人の気配が残ったデスクをいじるのってとても気後れする)

引き出しの中のものけがダンボールに入って机の上においてある状態。封もされてなければ記名もなし。

ひざかけ、ウェットティッシュ(持参?)、充電器やイヤホン私物?)がぐちゃっと椅子においてある。畳むかまとめるという発想はなかったのか…。

持参して設置しているゴミ箱には中身が入ったまま。

冷蔵庫にも置き土産がたくさん。

チーズヨーグルトバナナ賞味期限切れの瓶詰め海苔、飲みかけのジュースふりかけ


体調不良だったわけでも、仕事が忙しくてバタバタとやめたわけでもない。

こちらが慣例的に「片付けてから休みに入るんだろうな」と勝手勘違いしていたとも言える。

備品会社に返品、置いておきたい私物分散せずにまとめて箱へ、処分するものは事前に自分で処理、冷蔵庫もチェックを忘れずに、と伝えておくべきだったか

これから産休に入る人にそんなこといったらいじわるかと思ってたけど、見誤った。

会社大掃除ちょっとした雑務からいつも逃げるタイプの人で、冷蔵庫占領するタイプの人だったから予想できたはずなのに、ここまでとは。

これからはこういうことも文面にまとめなきゃいけないのかな。



昨日別の同僚と冷蔵庫を片付けていてさすがにイラっとして(他人の食べかけのものを処理するのってすごく辛い)

「"すみません、残っていた◯◯捨てました"って連絡しようか?」と話に出たぐらい。

いじわるすぎる、マタハラになるからやめよう、となったけど、すげーむかつく。

2017-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20170523233131

パイロットがひたすらレーション食堂のメシや占領地の名物を食うとか

パイロット整備士とかと野球チーム作って艦対抗草野球大会総合優勝を狙い奮闘するスポ根ものとか

パイロット婚活するけど「軍人ちょっと…」とか「転勤族は…」とか「職場結婚はありえねーわ」みたいなの言われまくるとか

そういうのでいいと思う。

いちいちロボットで戦わなくていいよもう。

2017-05-19

左翼売国奴

外国と比べて、日本左翼国旗を仰がない、他国日本を売る売国奴などと聞くが

こういう言説の問題なところは、今の日本の国政と「自分達・自国で作り上げた国」と比較しているところだ

現在日本体制は、アメリカによって作られアメリカ規定した国家制度アメリカ庇護のもとで存在している

つまるところ、おおよそにおいて、国家象徴するものが「自分たちのものである」と言う点が希薄なのだ

全てにおいても、特に国旗国歌にしても、「アメリカにとって都合が良かったから」と「アメリカに許されたから」でしかなかった

自分たちのものでない以上、自分たちアイデンティティとはなりえないし、それが象徴として認めえるかは、「自分たちで作り上げた」民主主義国家と比して感情の複雑なものになる

個々人の許すか許さないかに大きく左右される

占領からまり、そこから日本には「アメリカ所属するか」と「アメリカ所属しないか」に分裂していて、ずっとそれが続いているだけの話だ、愛国だの売国だのと言う話ではない

アメリカ以外がロシアであり中国であることはあるがは時代によって変遷するが、結局のところ、両翼の思想において国の主体としての日本と言うものは実のところ存在せず、いわゆる右翼のいう所の愛国と言うもの虚構

大まかに、アメリカ統治を認めるか=右翼アメリカ統治を認めないか左翼と言う構図でしかなく、アメリカを認める=(現在の)日本肯定する=(虚構としての)愛国となるだけだ

売国奴と言う理屈も、中国ロシアを敵とする前提があって、それに利するから売国奴となるが、そもそも中国ロシアが敵であるというのはアメリカと組するという前提から生じている

アメリカと手を切って中国ロシア協調すれば、それだけで単純に立場が逆転する

宗主国アメリカとするか中露とするかの違いでしかない

もちろん、中国と組すれば即座に占領地になり、チベットのように虐殺圧政を受けるという危惧も当然だろうが

北朝鮮北ベトナム、バングラディッシュと、隣接した社会主義国中国有効ながら属領とならずにいる国もある

しろチベット反中国だからこそ攻め込まれ支配されている(勿論、侵略による圧政など否定すべきだが(ここは強調しておく))

個人的に、どっちかマシかと言えば自由主義に組するアメリカではあるのだが

それでもアメリカ所属することを愛国と言い張って、宗主国選択で競い合ってるだけの相手売国奴などと、どちらも国を売ってるだけの状況で偉そうに言える言葉ではないように思える

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

朝鮮朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争東学党の乱ともいう。高宗1年,東学1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願教徒大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 312月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民東学徒は少なく,指導者東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国出兵要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。

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デジタル大辞泉解説

うご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争

1894年朝鮮李朝末に起こった東学信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府清国派兵要請日本出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。

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百科事典マイペディア解説

甲午農民戦争【こうごのうみんせんそう】

李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教東学〉は1890年代には活動公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人駆逐をかかげて各地を転戦した。

→関連項目大院君|李朝朝鮮

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世界大百科事典 第2版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。

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大辞林 第三版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

朝鮮1894年(甲午の年)東学信徒が主導した農民戦争地方官の悪政に反対した全羅道農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王政府鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本出兵日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲午農民戦争

うごのうみんせんそう

1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争きっかけとして、中国、清(しん)の勢力排除朝鮮支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護名目大軍を繰り出し、日清戦争引き起こした。

 当時、朝鮮民衆は、朝鮮政府財政危機を取り繕うための重税政策官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏罷免租税減免要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮侵入してきたのである朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。

 全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかみえた。ところが、朝鮮上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮占領し、親日政府組織させた。

 清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である日本政府日清戦争と併行して朝鮮植民地化する政策を推し進めた。この日本勢力を追い出すため、朝鮮農民たちは10月かばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民20万人を超えたといわれる。日本軍朝鮮政府軍相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウル処刑された。[馬渕貞利]

[参照項目] | 日清戦争

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世界大百科事典内の甲午農民戦争言及

【崔時亨】より

92から翌年にかけて東学合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来非暴力的な教化主義立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウル処刑された。…

朝鮮】より

しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本侵略意図に立つ軍事力行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…

日清戦争】より

… 朝鮮では王妃一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏不正日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…

※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています

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2017-05-12

[]高橋洋一先生安倍総理憲法99条内閣法5条で縛られているか国会で答弁しない」←嘘

国会ウォッチャーです。

 https://www.j-cast.com/2017/05/11297639.html

 高橋洋一先生は、安倍さん応援団典型で、彼のどんな態度も肯定的解釈してしたり顔で解説されている方ですが、この記事の通りなら安倍さんは今まで一体何度憲法尊重義務を怠ったことになるんでしょうね。擁護の仕方が下手くそすぎますぜ。

平成18年本会議

福島みずほ議員戦後レジームからの脱却の意味を問われた際の答弁

憲法改正についてのお尋ねがありました。

現行の憲法は、日本占領されている時代に制定され、六十年近くを経て現在にそぐわないものとなっております。そのため、私は、私たち自身の手で二十一世紀にふさわしい日本未来の姿あるいは理想憲法として新しく書き上げていくことが必要であると考えています

平成18年予算委員会

舛添議員に、集団的自衛権憲法改正で認めるべきではないかと問われて

二十一世紀にふさわしい私は日本の国づくりを始める中において国の姿、形、理想を示すもの憲法であります。その憲法私たち自身の手で書いていくということが求められているのではないかということを総裁選を通じて申し上げてきました。自民党総裁としてこの憲法改正政治スケジュールにのせていきたいと、このように思っております。是非また自民党、また与党、また国会において更に議論を深め、また国民的な議論を行っていただきたいと、このように思います。その中では、まずは手続である国民投票法案がこの国会で成立をすることを期待をしています

これなんか、自民党総裁としての立場で述べたことをまんま喋ってるし、この後もえんえん持論を語られてますぜ。

平成25年予算委員会

篠原孝議員に、憲法審査会議論差し置いて、96条の改正連呼するのは、横道からアプローチでふさわしくないんじゃないかと指摘されて

まさに私はさまざまな課題に正面からぶつかっているつもりでございまして、憲法改正についても、では、なぜ九十六条かということであります

 九条憲法改正の要綱でありますが、憲法改正をするために今、三分の二の発議が必要でありまして、これは、衆議院参議院、それぞれであります。これはいわば極めて高いハードルだというふうに考えているわけでありますが、その後に国民投票に向かうわけであります

 これは、明治欽定憲法昭和憲法も両方とも国民投票は経ていないわけでありますし、国民投票と同時に、いわば衆議院解散を行って憲法改正ということを問うたわけではなくて、まさにGHQ占領下にあってこれはできたものでございます

 そこで、では、なぜ九十六条かといえば、三分の一をちょっと超える人たちが反対をすれば、たとえ国民の六割、七割が変えたいと思っていても、国民投票すらできないのはおかしいではないかという問題意識であります

平成26年本会議

松野頼久議員による、維新積極的改正を求めてるのに、与党積極的でないのが困る、との質問に対し

国民投票制度のあり方については、憲法改正に対する国民主権行使に関する、いわば憲法改正土俵とも言えるものであります

 私は、与党リーダーシップにより、各党各会派での議論を加速させ、国民責任ある提案がお示しできるよう、早期に結論を得てまいりたいと考えております

はい、あきらかに与党最大の党の総裁としてのリーダーシップ約束された答弁ですね。

平成26年予算委員会

同じく維新小沢鋭仁議員の、他国に比べて改正回数が少ないことを受けて、憲法改正必要性についての総理見解を聞かれて

法というのは、国の形、あるいは未来、そして理想を語るものであろう、このように思うわけであります

 私は、従来から憲法改正を主張してまいりましたが、その理由として三つ挙げてきたところでございます

 一つは、現行の憲法は、やはり、いろいろな議論がございますが、基本的占領軍の強い影響、同時に、原案については、事実上占領軍がつくったものであるということであります

 そして二つ目は、もう憲法が成立をしてから長い年月がたちました。時代にそぐわない条文もございますし、新たな、大切な価値観権利も出てきているわけであります

 そして三つ目は、やはり私たちの国の憲法私たち自身で書いていく、この精神こそ未来を切り開いていくんだろう、こう信じるからでございます

はい主語私ね、個人見解をはっきり述べられておりますな、占領軍が作ったから、という理由を述べることが憲法尊重義務をしっかり守られて、議会での発言が縛られている方のご発言ですね。勉強になる。

同じく小沢議員緊急事態条項必要性についての質問に対し

また、憲法改正に関する委員の御提案でございますが、ちなみに、自民党案においては、一昨年、谷垣当時の総裁のもとでつくられた自民党案によれば、第九章、一章を割きまして、自民党案の九十八条において、緊急事態宣言を行うという項目があります。そして、九十九条において、緊急事態宣言効果について書き込まれているわけでありまして、自民党としては、憲法改正した際には、しっかりと緊急事態について章を割くべきだという考えを持っているわけでございます

はい自民党としての見解開陳されてますね。さすが、党総裁としての立場政府総理としての立場を明確に分けられているお方は違いますな。

平成28年予算委員会

大串博志議員が、総理の対談集の中で、GHQによる押し付け憲法から変えなければならないというような発言をしていることを問いただしたことに対して

これは幣原喜重郎内閣でございましたが、ここでいわば憲法をつくるということになった。そこで、松本烝治氏が担当大臣になって、いわゆる甲案、乙案というものをつくったんです。それを、先ほど新聞名が挙がりましたが、毎日新聞スクープしたんですね。西山柳造という記者がこれをスクープしたわけでございます。それを見てGHQがこれは絶対に受け入れられないという中において、ホイットニー当時の准将がケーディス氏に、民政局の次長に指示をして、約八日間で二十五人の委員でつくったのは事実だろうと思います。そしてそれが草案になったところでございます

 そこで、私が大切にしているところは、やはり私たち憲法なんだから、この中においてもちろん、平和主義国民主権等々ありますよ、基本的人権、そうしたものは守っていかなければいけませんし、これは貫いていく必要があるんだろうと思います。それは私も今まで評価もしてきているわけでございます

 ただ、形成過程がそうであったという事実私たちはしっかりと直視をしなければいけない。歴史直視しろというのはそういうことなんですよ。そういうものもしっかりと直視しながら、そこで、では、私たち自身憲法なんだから私たち自身がしっかりと考えてみようじゃないかという精神を失ってはならない。

 指一本触れてはならないと考えることによって思考停止になる。思考停止というのは、これは悪い影響だと思いますよ。思考停止になってはならないんですよ。みんなでやはり考える。考えた末、このままでいこうということであれば、それはそれでいいわけですよ。考えることすらだめだ、天から降ってきたんだからこれはもう変えられないということにはならない。

この後でもいうんだけど、基本的には安倍さんは、与党とか維新に聞かれると自民党としての立場でもほいほい答えるんだけど、民進とか社民とかに聞かれると、「私は総理から個々の事には答弁しない、党としての案は自民党草案をみろ」って言って答弁拒否してたんだけど、今回自民党草案全然違うこといっちゃったからいつものセリフが言えなくて、自民党草案を見ろ、の代わりに読売新聞を読め、とこう言っちゃっただけなんだよね。それがどういう風にまずいのかも多分本当の意味では理解してないと思う。それに第一次とか第二次最初の頃のねじれが残ってたころだと、聞かれたら一応答えて、今ほど答弁拒否はしてなかったので、単に支持率が下がらないからゆるみきって、野党特に民主、民進をひたすらバカにする態度をあからさまにしてきてるだけだよね。

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