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2023-09-20

anond:20230920120922

もちろんある程度コントロールは出来るけどな

例えば町内会活動とか嫌いな人は、そういうのがない、もしくは薄い地域に住めばいい

PTA活動とかママ友とか嫌だ、って人は極端な話子供を持たなきゃいい

そういう部分も含めて利口に生きるスキルは誰にでも必要

から飲み会絶対的に嫌な人はそういう職種に就けばいいの

2023-09-19

anond:20230919212505

子育てアウトソーシングの場でもっと時間預かれ!こっちの手を煩わせんな!!と主張する人たちがウザいのは普通に自分の子供だろ

「良い教育を受けられる私立に入れたい」ってのも、私立はその代わり親の負担も高いという現実知ったら猛反発すると思うよ

はてなーってなぜか公立PTAで親の負担高いけど私立はそんな事ないって思い込んでるけど実際はそんなわけねえんだよね

まあ学校にもよるだろうが、一般的には私立の方が学校教育への協力求められるし親もそういうの熱心な人多いよな

受験でそれが出来る親かを見てそうじゃないのを振り落とすわけだし

2023-09-15

コラム父親になったらOSを入れ替えよう!」

イクメンムーヴメントも来て、最近男性育児への参加率が増加してきているが、まだ「しなければならない」という義務感が先行している人、企業成果主義のような感覚で「親としての評価」だけを求めてしまう人が多く、育児を楽しむところまではなかなかいけていないようだ。

父親積極的子育てすれば、これまで見えなかったことが見えてくる。子どもの成長はもちろん、家族夫婦の絆が強まったり男性家事に勤しむことで生活力が磨かれるので、将来もし妻や親が介護になったり、一人で暮らすことになっても安心だ。また家庭という枠を越えて学校PTA地域活動へ参画すれば、会社では味わえない仕事の達成感を得たり、一生付き合える隣人ネットワークも持てる。それによって父親自身世界も広がり、人間の幅が出来てそれが本業仕事や老後の人生にも活かされてくるのではないだろうか。

子育て主体的に関わることがこんなに「いいことづくめ」なのに、残念なことにまったく興味がない男性はまだ多い。そもそも父親を楽しもう」「地域父性を発揮しよう」なんて発想すらない。「育児母親仕事。男は外で働き稼いで家族を養うのが父親役割だ」と、思いこんでいる男性はまだ少なからずいるのだ。

そういう僕も20代の頃は仕事に没頭し子ども特に好きでもなく、そんな考え方だったと思う。でも35歳で娘が生まれとき直感的に「育児義務ではなく楽しい権利なのではないか」と思った。子どものいる暮らし自分なりに目いっぱい楽しみたい。「手伝い」ではなく主体的子育てに関わることで、ひょっとしたら親として、大人として、地域社会の一員として自分が成長していけるのではという予感があったのだ。

そのためには、独身の頃と同じことをしていてはダメだ。まずは「男は仕事。女は家事育児」といった古い価値観アンインストールする。つまり自分の中のOSオペレーションシステム)を入れ替えねばと悟った。実際に始めてみると子育てはいろいろなソフト(寝かしつけアプリ、お風呂入れアプリ絵本読みアプリなど)が必要でそれを円滑に稼働させ育児を楽しむためには、古くて堅い父親像を追い出し、新しい時代必要父親OSインストール意識改革)が必要だったのだ。

またOSが古いと「ワーク・ライフバランス」という言葉も捉え方を間違える。子育てをしてみて僕も分かったのだが、「仕事生活か」のどちらかを取る二者択一ではなく、自分なりのハッピーバランスを考えそれらが融合して人生を形作ると考えることが大事なのだ仕事子育て自分人生と捉えるならば、毎日双方がスムースに運ぶようマネジメントすることが大事で、そうすれば段々と楽しめるようになってくる。ただし大概にして子どもの幼少期と仕事責任が増す時期は重なるもの。僕だってそうだった。子どもが生まれたって仕事面白いし、熱血マンガを読んできた世代なので「男のロマン」的なものあるのだが、そればかりを追いかけて家庭を放ったらかしにして仕事一筋では家族幸せになれず、結局自分人生も楽しくないのだということに何回かの失敗で思い至った。幸い、大事にならずに修正できてよかったのだが、危ないところだったと過去述懐して思う。

セミナーや講演で全国を歩いていると「子育てが始まって妻と不和に陥った」という男性が多いのだけれど、そういう笑顔のない男性には「それはあなた能力や向き不向きの問題ではない。OS問題なのだ」と伝えている。

これから父親になったらOSを入れ替えて、自身の働き方や子育ての仕方を見直し子どものいる暮らしを楽しむことで男性だって楽しい人生を送ることができるのだと考えよう。そして自分人生肯定する父親笑顔こそが、夫婦パートナーシップ子ども自尊心を育むのだということ認識して、父親であることを明日からもっと楽しんでいこう。

https://www.gender.go.jp/policy/men_danjo/column/os.html

anond:20230914182217

2023-09-08

中年男性休日

6時に起きてゴミ出し、朝食の支度。

妻と子供を送り出す。

9時いつの床屋

10時イオンモール。お目当ては今日からUFOキャッチャーに並ぶずっと真夜中でいいのにの景品。

開店と同時にゲーセンで筐体を見つける。一人一個までの注意書きがあって、とれる場所には一個しかない。

俺はUFOキャッチャーなんてやったことがない。1回100円、500円で6回。迷わず5枚の百円玉入れる。

2回目でとれた。

店員に頼んで一個置いてもらう。時間で残り1回。今度は取れない。

また500円入れる。

また2回目でとれた。自分の意外な才能に気づく。さすがに遠慮する。

靴屋スニーカー洗浄剤とブラシ買う。

スーパーで夕食の総菜(鴨のロースト茄子の揚げびたし、イカから揚げ、アジなめろうブロッコリー)と昼飯の材料(肉野菜炒め)買う。

ケーキ屋を除くとタルトセット1250円が1000円で売ってて思わず買う。

家に帰ってUFOキャッチャー戦果フォロワーゼロエックスに上げる。

野菜炒めと即席ラーメンで昼飯。

マツダディーラーで年内に買おうと検討してる新車の商談。予算400万、見積もり450万。

今乗っている9年落ち10万キロ越えの査定、35万。でも今月決めてくれるならプラス18万。

さらに値引き15万とのこと。心が揺れるというか、妻がオッケーなら買ってしまいそう。

ネットで見た方法スニーカー洗う。洗浄フォームつけてこすってふき取るだけ。

水洗いよりは汚れが落ちない。

ゲームしてると娘帰宅。何か玄関で騒いでる。

帰る途中で漏らしたらしい。服を脱がしてシャワーを浴びさせる。廊下雑巾がけ。服と靴を水洗いして干す。

夕方PTA役員会。運動会役割について。

15分説明聞いて終わり。

帰って子供と夕食。娘はゆでたブロッコリーだけばくばく食ってお腹いっぱいとか言ってる。

ご飯食べないとタルトやらんとか言って何とか食べさせる。

子供タルト食べる。

妻は残業らしい。

風呂に入って一息ついて増田

2023-09-01

くそ田舎ダメ昭和文化に育てられたかつての少女

私はクソ田舎の、ダメ昭和文化がこびりついた大人たちに育てられた。

一人目の子どもが産まれた頃から、突然、親や親族から言われた嫌な言葉フラッシュバックするようになった。

それは夢にまで出てくるようになった。

夢の中に出てくるのは決まって母だ。少女の私に向かって嫌なことを言ってくる。

夢の中の私は大声で怒鳴り返そうとするが声がでない。泣きながら吠えるように反論しようとするのだが開いた口からはヒューヒューと空気漏れるばかりでそのうち夫に起こされる。

「大声でごめんなさい、ごめんなさいって言ってたよ」

目覚めると冷や汗がびっしりで喉が痛い。現実では怒鳴る事ができたらしい。

なぜか謝罪を。

今年二人目の子どもが産まれた。

ふと、この子たちには、私が親や親族から言われた嫌な言葉を言いたくないと思った。

ちょうど9月になったので、8月のカレンダーの裏にその『嫌な言葉』を書いてみることにした。

そうしたら、いや、これはちょっと子どもに投げ掛ける方がどうかしているのでは?と思った。

小一かそこらの少女に『あなた結婚するのが楽しみ』『あなたの孫をみるのが楽しみ』とそれを頻繁に投げ掛ける大人

よくあるシーンだろうか。

でも事あるごとに言うものではないと思う。

中卒で働いて二十歳前に結婚して出産することが当たり前の時代だったら幼い頃から結婚出産意識させるのも最もだが、こちとら平成(当時)の世を生きていく幼女(当時)である漠然とした未来の私より、当時の私を見てほしかった。

あなた結婚しないでいると弟くんに迷惑になるのよ』

そんな事を言わないでほしかった。

あなたの顔は親族の誰にも似ていないわね』

からどうだって言うんだろうか。

『どうしてクラスの子に仲間外れにされるの。お母さんに恥をかかせて』

当時の母はPTA会長をしていた。

『お母さんの考えていることがどうしてわからないの!お母さんの心の思う通りに動いてよ』

共働きフルタイムで働いていた母は疲れて帰ってくるとよくこうして叱った。

圧倒的に対話ができない大人たちがまわりにいた。

そんな私が産まれてはじめて存在肯定されたのは高校生の時、祖父が要介護状態になりオムツ替えや床に垂れ流された汚物を拭いたりしているときだ。

あなたがいてよかった!」

あー、こういう時だけかと思った。

そして数年たち就職し働き始めた私は職場人間関係自分仕事のできなさに悩むことになる。

鬱っぽくなり母にポツリと現状を話した。

「あ~~お母さんの職場にもそんな子いるわ~~仕事できなくてね、みんなから嫌われているんだよ~~どうしてだろうね」

……そうだった。母は相談を受け止めるのがめちゃくちゃ下手なのだ

小さい頃から悩みを打ち明けてもなぜか母の職場愚痴で終わる。私はずっと聞き役だ。

泣きながら訴えても「お母さんそんな事経験したこといからわかんない。ホントにそんな事があるの?あなたおかしいじゃない?」と言われてきた。

これは駄目だな……と席を立とうとしたら

「辞めるんなら結婚してからにしてね」

なんかこの言葉でプツンと切れた。

私は家を出ることにした。

24歳の時である

くそ田舎故に、女が結婚もしくは同棲以外で家を出ることなど論外である。でもなんだかもうどうでもよくなった。

五万円以下の築35年のアパートを借り、今までの職場を辞めて、工場夜勤を中心に働くことにした。なぜ工場?と思うだろうが、田舎の昼の仕事はめちゃくちゃ手取りが少ないのだ。

荷物をまとめる私に、母は焦った親族は焦った。

24歳。同級生は大抵結婚子どもを産んでいる。それなのにどうしてお前はそんなヤクザみたいな生き方をするんだ恥知らず。と罵られた。

家を出る日、母が駆け寄ってきて言った。

「これからもお母さんを助けてね、お願いね

こうして見るとなかなかの事を言われてきたなと思った。まぁ24歳の時の独り暮らしがなかったら私は今もあの田舎で親や親族サンドバッグをしてたかたも知れない。書いてみてちょっとスッキリした。

結局、親も親族も私もアイデンティティがなかったのだ。自分がないか相手のこともよくわからない。対話ができない。

私は私。あなたあなた

それを大事にしていけば私が言われた『嫌な言葉』を子どもたちに言わないですむ……ようになりたい。

2023-08-30

anond:20230830210325

ボボボーボ・ボーボボ

  アニメ放送時にPTAから教育上悪いから」ではなく「こんなアニメを見ていたら頭がおかしくなる」という苦情が来る

  それを知ったファンから「ごもっともです」「確かに」などと同調せざるを得なかったという逸話がある

2023-08-29

anond:20230829131348

あとあとPTAとかからイチャモンつけられた時に「自分らはちゃんとしてますよ」と反論するためにガイドラインを設定してるだけで、本当に禁止する気はないんだよね😊

わかるわかるー😊

から狂ってるよ

2023-08-25

リベラルが不人気なのは昔の学園ドラマのせい

リベラル立ち位置って昔の学園ドラマ教頭PTA委員長ですやん

学園ドラマ見て育った世代が反発するの当然ですやん

この国を裏で動かしてる組織が長年かけてリベラル反抗的になるように仕組んだ戦略の成果なのです

おそろしいこっちゃ

2023-08-21

anond:20230821114408

仕事育児を両立するのは妻だけじゃないはずだが

増田は育休とったのか?

保育園の送り迎えできるのか?

急な呼び出しに対応できるのか?

PTA学校行事に参加できるのか?

子供が生まれた後に働けるのは育児サポートがある選ばれた人だけだ

今は子供が大きくなったんだから働けるだろってところは同意

働けるなら働かないと

2023-08-17

anond:20230817085206

人間嫌いな人は子供が大きくなると苦労するよ

子供だって人間なので大きくなれば言葉でのコミュニケーションをしないといけなくなるし

子供が大きくなるとPTAだなんだで他の親とのコミュニケーションもしないといけなくなる

2023-08-10

現代の「表現の自由戦士」の本丸って「非実在青少年騒動以降の人々で、実際のところ腐女子率がかなり高いんだけど、「くたばれPTA」とかやってた昭和対立構造をそのまま引きずってる連中には理解できないだろうなと思う。

2023-08-02

レズカップルに育てられた人

一応今も仲良くしてるものの、女親2人っていうのがしんどくて家を出た。ビアンって言えとか主張は各々あるだろうけど、ここではレズって書く。

登場人物

自分→女でノンケ

親1→レズメンヘラで血が繋がってる

親2→レズモラハラで血が繋がってない

特殊すぎて身バレしそうだから多少フェイク混ぜます

レズカップルの家庭って言うと「お母さん2人だね」っていい話し風になるんやけど、提供者の精液をスポイトでぶち込むみたいな方法で親1の腹からまれたので、自分感覚としては母親+同居してる女の人って感じになる

結局は産んだ方と接する機会が多いし、「母親が2人ですよ」って言われても意外とピンとこなくて、同じように甘えたりはできない。かといってもう1人から父性みたいなのも感じないか父親代わりじゃないな、みたいな?

家族ってある程度は本能理解するのであって、理屈じゃないんだなと保育園くらいから思っていた。

うちはレズカップル公表する系の親で、周りもあんま触れんとこみたいな感じで特に問題なく幼少期は過ごした。小学校3年生くらいまでは親2も歳の離れた姉みたいなものだと思えたし、割とみんなで上手くやってたと思う。

でも雲行き怪しくなってきたというか、嫌だなと思い始めてきたのがその少しあとだった。

私の通ってた学校にはクラスメイトの親たちが朝の時間おすすめの本を紹介して読み聞かせをする企画があったんだけど、親2がそこで大人が読む用の虹色系の本を紹介した。

それだけならまだ良かったのに、あげくに誰にも聞かれてもないのに、私がどうやって誕生したのかみたいなことを赤裸々に話し始めたのである。「精子デリケートから親1の胸の谷間に挟んで持って帰りました」とかエピソードトークを挟んで。小学校やぞ

これが私はとにかく嫌だった。恥ずかしさのほかにそもそも親2は出産無関係だったわけだし、親1と私と精子提供者の男(レズコミュニティ友達の知り合いかなんか)の間のことで、お前は関係ないだろという変な怒りもあった。

親2はアクティブで話が上手くて楽しい人だったけど何かと自己顕示欲強めのレズで、Twitter同性愛ご意見番みたいなアカウントやってて、フォロワー数千人いるのを最近偶然知った。そのプロフィールに元〇〇(国名)在住って書いてあったけど、それは嘘だ。親2は修学旅行で1回海外に行った話をリアルでも擦り続けてるので、見栄を張りたい気持ちが強すぎる。

話は戻って、親2が教室でやったことは今思えば完全アウトのセクハラの域だったと思う。

だけど何言っても差別になりそうだからか、誰かの親がクレーム出すと思ったら驚くほど無風だった。クラスメイトからかわれたりとかもなかったけど、あの時本当は誰かに親2を叱って欲しかった。

すっかり学校で腫れ物になった親2は、その後も学校図書館虹色系の本を多量に置こうと働きかけ、PTA便りに同性愛カミングアウト怪文書を載せるなどしていた。

あと、親1と学校行事に2人で来て人目も憚らずにイチャついてみたり、「着飾った他のノンケママとは違うのよ」感出したかったのか、授業参観すっぴんショーパンキャミサダルで来てみたりとかの奇行も続いた。さすがに児相通報されたり学校に親が呼び出されたりするレベルじゃないけど、子供からしたら本当に恥ずかしい。

私の学校生活が全部親たちの幸せ審査するのオーディション会場に見えてるみたいだった。

「こんなに理想的な家庭!ナチュラル私たち子供達に新しい選択肢を見せてる!」っていう自己陶酔PRというか。歳が行ってからの子供だったから、その時点でどちらも他の母親より若くはなかったし、女親2人っていう特殊条件の子育てに自信がなかったのかなと思うとかわいそうではあるものの、巻き込まれたこっちはたまったものじゃない。お父さんとお母さんが良かった!とはまた別の感情で、「普通が良かった」とずっと思ってた。

そして親2が男性嫌悪も強めで、男子と仲良くするとあからさまに嫌な顔をしたり、昼休み男子と外で遊べないようなタイトスカートを履かせようとしたりするのも当時は悲しかった。小学校時代スポーツが好きで男子友達も多かったのに、『運動ができて男女問わず友達がたくさんいる子』よりも、どちらかというと『賢い女友達に囲まれた賢い子』とか『女子を引っ張る強い女』みたいな立場を求められていたんだと思う。

別にお母さんとお父さんのいる家庭でも片親でも、ゲイカップルの子供でも、どの家庭にも多少はあることだろうけど、私はとにかく親2の顔色ばかり伺ってた時期が長くて、影響受けすぎて中学では本気で男嫌いになり、男の先生とかの前だと緊張しすぎて緘黙みたいになっちゃった時もあった。

当時はあまりにも男と話せないから、自分レズなのかなと思ってた。今は無事に男嫌い寛解してノンケとして生きてる。彼氏がいることは2人には言えてない。

親も別に私をレズとかバイにしたかったわけでもないと思いたいんだけど(親のコミュニティを見る限りレズバイ後天的な人も多い)、「自分たちみたいに幸せになってほしい!」みたいな感覚が強かったんじゃないかなと思う。

母数が少ないだけであって私みたいに同性愛者の親の無理解に困ってた子供もいるわけだからノンケ親だけを「同性愛無理解だ」って責めるのも意地が悪い気がする。

うちの親見てる限り、結局自分と違う恋愛趣向とか家族の形を理解できないのはお互い様というか、想像力限界というか、いくら口では多様性を説いても、経験したものでその人の人生が構築されてるわけだし。

話逸れたけど、そういう学生時代を過ごしてグレはしなかったものの親2への不信感とか、親1の親2への依存とかを見てるのがキツくなってきて、数年前に家を出た。親1は子供に対しても依存心が強くてメンヘラなので説得しきれず、家出まではいかないまでも結構無理やり引越した。

親2のTwitterを見ると私は、早くに自立した最高の娘!一流企業内定英才教育バイリンガル!みたいな扱いになっていて笑えた。近所でも「娘は海外留学した」とか触れ回ってるらしい。実際は職場は早く家出たくて選んだブラックだし、日本語しか喋れませんが。

結局、親2にとっては人生を彩るアクセサリーの1つとして子供しかったのかも。好きなところも楽しい時間もあったし、そういう側面だけじゃないのは分かってるけど、どうしても『親じゃない』という気持ちがある。

親1のことは母親だと思ってるけど、いかんせん親2と私にLINEして1時間返事がないと情緒不安定になって仕事を早退して鬼電してくる厄介メンヘラでもあったので、親2を繋ぎ止めるための道具の1つが子供だったのかな、と思わないでもない。

なんでこんな「そんなのノンケ親にもいるだろ!」って突っ込まれるであろう話を長々と書いたかというと、私の親をよう知らん人に「お父さんとお母さんが揃っていても世の中には虐待とかする毒親いるから、優しいお母さん2人のところに生まれて良かったね!」みたいなことを言われたのがきっかけになる。

それ聞いた時に、「お母さん2人」みたいな優しい雰囲気言葉とか、同性愛者の聖人化みたいなのはあんまり良くないなと思った。身体的な虐待はなかったと思うけど、毒親毒親じゃないかで言えばうちの親はかなり毒だったし、同性愛者による虐待事件だって普通にあるし。

私は無事に大人になったけど、周りの差別とか制度とかの話じゃなくて、もっと同性愛を起点とした親の人間性みたいなところで悩むことが多かった。あの家に男で生まれてたらヤバかったんじゃないか、みたいな恐怖感もある。

差別に繋げて欲しいわけでもないから補足すると、学校での出来事以外はどのパターン家族にも多少形を変えて起こり得ると思う。あと、レズカップルに育てられてハッピー子供さんもいるでしょう。

でもなんとなく親同士が同性って言うとノンケ夫婦よりも崇高なイメージを持つ人が多いんじゃないかなと。モデルケースが少ないのもそうだろうけど、支援者当事者子供を手にしたその先はあまり考えてくれていない気がする。結局、今の技術的にどう頑張っても片方は血が繋がらないわけだし、「海外暮らし養子をもらいます!」にしたって、家族の人数と役割を揃えたところで全てが上手く動き出すわけじゃないのよ。

社会制度を変えることに必死で、普通子供を育てること+の難しさがあるって当事者も周りも気づいてない人が多いのかなと思う。あるいは見ないふりをしてるのかな。

圧倒的に不幸なわけでもない。上を見たらキリがないし、育ててもらった恩もあるし、たまに会うくらいならいいけど、1人で暮らすようになって気が楽になった。彼氏と会うのに罪悪感がないし、親が満足するような、レズカップルの正しい子供をずっと演じていた気がする。

最初に書いた通り多少フェイクもあるけど、起きた出来事は基本ノンフィクションです。

これを立場を反転させて「同性愛者が異性愛者の両親に感じている苦痛だ!」って言う人もいるだろうけど、立場でいうと同性愛者の親に育てられたノンケの方がマイノリティになるので、どうかマジョリティ側の体験談に取り込まないでほしいな、と思う。

2023-08-01

anond:20230801232618

対照用にdeepLの画面で対訳見ながら編集した翻訳和文原稿も吊っておく (deepLが誤解する場所とか主語を補ったりしないとちゃんとした訳にならんのよ)

ここは原文からニュアンス変えすぎでは等の突っ込みも甘んじて受ける。

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「例の件」に関して、彼らは当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもないのに語るべきだろうか、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。俺は長崎の生まれ被爆三世当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者ほとんど残っていないから俺が言う。

長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラー扇風機もない真夏小学校体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺にはそれが辛い時間だった。話をする年寄りもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。もうひとつ辛いことがある。毎年この時期になると、廊下にはずらりと、他所地域ならPTA発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。最近は、原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞く。なので、今も続いているかは知らないが、俺の頃はそこに展示されていた。

小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキング写真だが、それでもどうか見てほしい。どうしてもその写真掲示された廊下を通れなくて、その時期はいだって校舎の別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。

今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の祖父は、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間もっと山ほどいただろう。彼は瓦礫だらけの長崎の狭い道を、handcartを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。当時の祖父子供じゃなかったが、当然それと似たような事をしたこどもたちも居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、兄弟がそれを焼いた話。薪が足りなくて親父の遺体が十分に焼けず、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。

俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。

今は少しだけわかる気がする。

俺が自分トラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。

からひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。

俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福人間のひとりだった。祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば、何でもないことなのだ。

記憶は人に語られる度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶も、もうほとんど忘れ去られている。78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが今や墓の下にいる。

老人たちの言葉と比べて、自分言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。自分のような存在がこれを語ることが許されるだろうかと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、我々が口を閉ざした結果があれなのだ

想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。俺がもう声も顔も、言葉さえろくに思い出せない老人たちの、せめて苦しみの想像が残っているうちに、ここに書き残しておく。

翻訳者注記: このポストは、日本のある投稿者が「自分広島長崎出身でもないのに原爆に関する言論について発言する資格があるだろうか」と悩みながら、それでもバービー原爆の件について発言した投稿に対する返答である世界に読まれ価値があると考えここに翻訳した。

anond:20230801140703

すまん。勝手翻訳した。拡散はどうするかな。redditかに投稿するのがいいのか?

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I have seen some posts asking if they should talk about "the case" even though they were not involved in it and were not born in Nagasaki or Hiroshima, and I am a bit aware of it, so I have to say what I have to say. I say this because I was born in Nagasaki, am a third generation atomic bomb survivor, and grew up hearing the stories of those who experienced the atomic bombing firsthand. I know it's a little bit too much for me, but I'm going to say this because there are very few survivors left.

In Nagasaki, children grow up hearing stories about the atomic bombing. They were stuffed into sushi for nearly an hour in the gymnasium of an elementary school in the middle of summer, with no air conditioner or fan, and told stories about the atomic bombing. That was a hard time for me. I think it must have been even harder for the old people who told the stories, but there was no way an elementary school kid could imagine such a thing, and I had forgotten most of the stories I had been told for a long time. I have forgotten most of the stories I was told. I can only remember one or two at most. There is one more hard thing. Every year around this time, a row of grotesque images that would drive the PTA crazy in other areas are prominently displayed in the hallways. These days, I hear that the atomic bomb museum has been bleached out and many of the radical and horrifying exhibits that traumatized visitors have been taken down. I don't know if they are still there, but they were there when I was in elementary school.

There was one photo that I just couldn't face when I was in elementary school. It is a picture of Sumiteru Taniguchi. If you search for it, you can find it. It is a shocking picture, but I would like you to take a look at it. I couldn't pass through the hallway where the photo was posted, so I always took the long way around to another floor of the school building to avoid seeing the photo.

Now I'm thinking that my grandfather, who headed into the burnt ruins to look for his sister, couldn't have turned away or taken a different path. There would have been a mountain of people still alive and moaning, not just pictures, and a mountain more who would have given up at the end of their suffering. He walked for miles and miles, towing his handcart through the narrow streets of rubble-strewn Nagasaki in search of his sister. My grandfather was not a child at the time, but of course there were children who did similar things. Not that there wouldn't have been. There were. I heard the story from him, and I still remember it. A young brother and sister found their father's body in the ruins of a fire and they burned it. They didn't have enough wood to burn his body, and when they saw the raw brain that spilled out, they ran away and that was the last time they ever saw him anymore.

I can never forget the story I heard when I was a kid, and even now it is painful and painful, my hands are shaking and I am crying. I keep wondering how the old man who escaped from that father's brain could have been able to unravel the most horrible trauma imaginable and expose it to the public with scars that will never heal.

Now I think I can understand a little.

The reason I can't help but talk about my grandfather and that old man, even if I have to rehash my own trauma, is that this level of suffering is nothing compared to the fact that their words will be forgotten. My hands shaking, my heart palpitating and dizzy, my nose running with tears, it's nothing compared to the tremendous suffering that was once there and will be forgotten.

So maybe it's the same thing.

My grandfather, who went through an unimaginable hell, lived to see his grandchildren born, and met his sister's death in the ruins of the fire. In other words, my grandfather was one of the happiest people in the ruins of the fire. My grandfather and that old man were, after all, just people wading in the depths of hell. I think that the suffering that even people who had experienced unimaginable pain could not imagine was lying like pebbles in Nagasaki 78 years ago, and no one paid any attention to it. Their suffering, which I can't even imagine, is nothing compared to the countless, tremendous suffering they witnessed, which they pretend never happened.

Memories fade inexorably every time people talk about them. The memories that those people could not allow to be forgotten are now largely forgotten; the tremendous suffering of 78 years ago is mostly gone, never to be recounted again. Those who suffered the most from the atomic bombing died rotting in the ruins of the fire, unable to tell anyone about it. Many of those who saw it with their own eyes kept their mouths shut and took it with them to their graves. Most of those who spoke a few words are now under the grave.

Compared to the words of the old men, my own words are so light. I would rather keep my mouth shut than speak in such light words. But still, someone has to take over. I realize that even my words, which are so light, are only the top of the voices that are left in this world to carry on the story of the atomic bombing. I know how it feels to wonder if someone like myself is allowed to speak about this. Still, I hope that you will not shut your mouth. This is the result of our silence.

Sometimes I almost choose to stop imagining the unimaginable suffering and live my life consuming other people's suffering for the fun of it. I am writing this while I still have some imagination of the suffering of the old people whose voices, faces, and even words I can no longer recall.

Translator's note: The original post in Japanese is a response to a post by a Japanese contributor who wondered if he was qualified to speak out on the subject of the A-bomb when he was not from Hiroshima and Nagasaki, but still spoke out about Barbie and the A-bomb. I translated it here because I think it deserves to be read by the world.

anond:20230801140703

ai翻訳

I must talk about various things regarding the Barbie incident.

I saw a post about it from someone who is neither directly involved nor from Nagasaki or Hiroshima, and it made me realize that there are things I must say.

I was born in Nagasaki and grew up listening to stories from the survivors, being a third-generation survivor myself. Most survivors are no longer with us, so I feel compelled to speak up.

In Nagasaki, kids grow up hearing about the atomic bomb. We were packed like sushi in a gymnasium without air conditioning or even fans during the scorching summer, and we listened to stories about the bomb. It was incredibly tough for me.

I imagine it was even harder for the elderly who spoke about their experiences. As a child, I couldn't fully comprehend their pain, and now, I can hardly remember most of the stories I heard. I can only recall one or two.

Every year during this time, gruesome images that would make PTA elsewhere go crazy were displayed in the hallways. I heard that many of the horrifying exhibits that used to traumatize visitors at the Atomic Bomb Museum have been removed, and the museum has been considerably sanitized. I'm not sure about the current situation, but that's how it was when I was there.

There was one photograph that I could never bear to look at as a child – a picture of Tadashi Taniguchi. You can find it if you search, but it's a shocking image with a viewer discretion warning. Still, I want people to see it.

I couldn't walk down the hallway where that photo was displayed, and I always took a different route, avoiding it so I wouldn't have to see it.

Now, I think of my grandpa who went to the ruins to search for my sister. He couldn't look away or take a different path. The pain must have been unimaginable.

Besides photographs, there were many living people moaning in pain back then, and there must have been even more who succumbed to suffering.

My grandpa walked for miles, pulling a handcart through the debris-laden streets of Nagasaki, searching for my sister.

Even though my grandpa was not a child, I'm sure there were elementary school kids who did similar things. I don't just think they might have been there; they were there. I heard the stories from the people themselves, and I still remember them.

I can't forget the stories I heard as a child, such as the young siblings finding their father's burnt corpse in the ruins and cremating him. They didn't have enough firewood, and their father ended up half-burnt. They ran away after seeing the brain tissue oozing out, and that became their final farewell.

I can never forget those stories I heard as a child, and even now, they still bring pain and suffering, making my hands tremble and tears flow.

I wonder how my grandpa, who ran away from that father's brain tissue, could expose his unimaginable trauma and everlasting scars to the world.

Now, I feel like I understand a little.

Even someone like me, who experienced such unimaginable trauma, has gone through pain that I can't even imagine being compared to being discarded, forgotten, and ignored. Compared to what those people experienced, my suffering means nothing.

My trembling hands and the palpitations and dizziness I experienced are nothing compared to the tremendous pain that many others went through.

Memories fade irreversibly every time they pass through people's lips. The memories that I couldn't bear to be forgotten are almost forgotten now.

The unimaginable pain that existed 78 years ago has mostly disappeared, and we can no longer pass it on.

The people who suffered the most from the atomic bomb perished in the ruins, rotting away without being able to convey it to anyone.

Even those who saw it with their own eyes mostly took the memories with them to their graves. Most of them are now under the tombstones.

Compared to the words of the elderly, my words seem so light. I think that speaking with such light words would be better than keeping silent, as silence has led to this result.

I feel like I might occasionally choose to stop imagining the unimaginable pain and consume the suffering of others in an amusing way to live on.

Before I forget the pain and suffering of those elderly people, whose faces and voices I can no longer recall, I will leave this here.

バービーの件に関してどうしても語らなければならない諸々の事

例の件に関して、当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもない人間がどうこう、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。

俺は長崎の生まれ被爆三世当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。

俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者ほとんど残っていないから俺が言う。

長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーどころか扇風機もない真夏小学校体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺はとにかくそれが辛かった。

話をする年寄りもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。

もうひとう、この時期になると廊下にはずらりと、他所地域ならPTA発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞くので、今はどうかは知らないが俺の頃はそうだった。

小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキング写真だが、それでもどうか見てほしい。

どうしてもその写真掲示された廊下を通れなくて、その時期はいだって別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。

今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の爺さんは、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。

写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間もっと山ほどいただろう。

瓦礫だらけの長崎の狭い道を、リアカーを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。

当時の祖父子供じゃなかったはずだが、当然それと似たような事をした小学生も居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。

幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、自分たちで焼いた話。薪が足りなくて親父が生焼けになってしまって、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。

俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。

どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。

今は少しだけわかる気がする。

俺が自分トラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。

俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。

からひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。

俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。

まり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福人間のひとりだった。

祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。

俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。

俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないことなのだ。

記憶は人の口を経る度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶ももほとんど忘れ去られている。

78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。

あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。

それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが墓の下だ。

老人たちの言葉と比べて、自分言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。

それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。

自分ときがと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、口を閉ざした結果があれなのだ

想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。

俺がもう声も顔も、言葉さえろくに思い出せない老人たちの、せめて苦しみの想像が残っているうちに、ここに書き残しておく。

2023-07-24

anond:20230724125706

お前みたいなやつに襲われたら大変だから見送りだよ。



見送り活動市町村小学校PTAも認めてる。

2023-07-22

絶対専業主夫バカにする風潮は加速する

働く女性が最多の3035万人だそうで。男女の雇用機会均等がまた一つ進んでいますね。

もっと進んでいけば、いずれ専業主夫主婦の男女比も同等になってくるでしょう。

それで専業主夫主婦への風当たりはどうなるか?間違いなく強くなります特に主夫への風当たりは相当強くなるでしょう。働かない男に価値はない、男の作る料理なんて仕事の後に食べたくない、男の育児は手落ちだらけ。男のジェンダーを絡めた攻撃過激化していきます匿名ネット舞台で、職場で。職場にいる男も騎士団として参加することでしょう。この世の地獄です。

それでもそれらは正当化されます正当化根拠は単純です。「専業主婦が虐げられ続けたから」。これは現状の風当たりの強さの追認に他なりません。

専業主婦は主に同性により追認された攻撃に耐えられず、専業主夫を強く攻撃するようになります。「ヒモ」と呼ぶこともあるでしょう。クズ的な行動をする専業主夫がことさら強調され、どんどん専業主夫はもともとない立つ瀬がさらになくなっていきます子供会PTAでは力仕事押し付けられ役職押し付けられ、労働力搾取をされますベルマークは一緒です。力仕事をしたからと免除されません。

男性差別はこの世には存在しないので、訴える先もありません。終わりです。チャンチャン。

2023-07-21

anond:20230721070316

親になって、ラジオ体操プール子供会大人無償奉仕の上に成り立っているって知ったよ。

ラジオ体操PTAの町会班で係の割り当てがある。係になったら6時くらいには会場入りしてるんだよね。当然起きる時間はずっと前。

プール教員保護者かが見張っておくのが基本で、特に水の事故は危ないので複数で見ておかないといけない。

でも、地球温暖化の影響で暑すぎるのでプールを以前みたいにやるのは無理だろうなと思う。

自分がいる町会の子供会は、はるか前に無くなったと聞いた。

小学校の学年当たりの児童数が過去最多を更新し続けている状況と町会のイベント運営者の高齢化を見るに、若い人が入らなくなったのが原因だろうな。

今の大人はかつての大人ほど体力もないし時間もないんだろうなとなんとなく思う。

まず、親の年齢も我々が子供のころから5-10歳くらいあがったよね。

それでもって、共働き世帯が増えて主婦無償労働させられなくなってきた。

あとはかつての大人よりも与えられて当然みたいな考えの人が増えたのかもしれない。

欲しいなら、仲間を集めて旗を振ってやればいいことのような気がするが、誰かがやってくれて当然みたいな人が多数いるようになると、誰もそんな貧乏くじは引きたがらない。

2023-07-05

PTA役員妊娠したら役員業務サボれて楽w

「去年の秋にPTA役員決めで当たってしまい、4月からPTA役員になった。

やりたくないし超めんどくさい。

くじで決まったんだけど、やりたくない。

で、妊活してみた。

ドンピシャ4月妊娠発覚!やったぁ〜!

PTA本部グループLINE、頻繁に他の役員から手伝い募集の連絡来るんだけど、全部無視w

だって妊婦だもーん!

これで来年から二度とPTA役員やらなくて済むし、役員になったけど相方や他の役員に動き回ってもらうだけだから、私なんにもしなくて良くて超楽!

無責任とか言われようが、そんなの知るかw

まだ長女しか小学生じゃないけど、うちの子小学校は一回役員やったら、2人目3人目が小学校入る時に役員も係活動も何にもやらなくてOKなんだよねー。

うまく制度利用できたよ!

役員決まったら、さっさと妊娠して逃げるのオススメ

来年役員への引き続き作業あるけど、その時は出産後で新生児見ながらなんてできないかサボるーw」

以上、友人から来た連絡でした。

クズすぎて●●しろ、と本気で思った。

旦那避妊しろよ。

2023-07-03

anond:20230703173558

弱者男性趣味をつぶすと社会安全になると思ってるのがPTAですよねという意味

anond:20230703173345

弱者男性と同じ趣味を持つPTAはいるかもしれないけどPTAと同じく子供についての悩みをもつ弱者男性はいないだろうが

弱者男性PTAの話し合いに割って入らないだろ?

女性とか子どもとかの話に首突っ込むなよと

2023-06-27

女性社会進出功罪

女性社会進出は良いことではあるんだけど、社会に出た女性は無からまれた訳ではなく、もといた場所から引き剥がされて社会進出したんだよね。

で、もといた場所はどこかと言うと、それは家庭だったりするんだけど「伝統的家庭が〜!」みたいな話は一旦置いておく。

家庭の他に女性が元いた場所がもう一つあって、それは「主婦の繋がり」のようなものだと思う。

昔はPTAなり主婦連合会だったりが今よりもっと強くて、企業に対して不買運動だったり、政治的な働きかけを今よりもっとしていた。

それが失われたことで、消費者立場だったり暮らしだったりが政府企業蔑ろにされやすくなってる側面もあるんじゃないかと思ってる。社民党消滅しかかってるのもそういうところにあるんじゃないかな。

まぁ家庭を守るのは女性だけの役割じゃないんだから男もやれよって話ではあるんだけど、仕事抱えながらじゃできない活動をかつての専業主婦が担っていたという側面もあると思うんだよなぁ。

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