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はてなキーワード: 皇帝とは

2017-08-24

中国の歴史上、一番西洋支配されている時代現在

イギリスロシアによる清朝支配もあったが、まだ清朝存在していた。

現在中国共産主義という西洋思想国民支配している。

共産主義そもそもキリスト教に対するアンチテーゼとして誕生したものだ。

キリスト教ローマを滅ぼしたように、共産主義漢民族を滅ぼした。

いや、滅ぼしていないかもしれない。

習近平皇帝なのだから

2017-08-23

いろいろなプール

ナイトプール…夜間に開かれる水泳場のことで、日焼けをせず写真も映えるとパリピに大人気。基本的に泳ぐことはなく水着ムーディに過ごすことが目的

デッドプールマーベルコミックに登場する不老不死狂人で、メタフィクション的な能力を持ち、トリックスターとして活躍する。1991年に初登場と、アメコミヒーローの中では新顔の部類に入る。

ダークプール証券取引をするにあたって取引所を通さず証券会社の社内だけで成立させるサービス匿名性の高い取引可能となる。

ブラックプールイギリスランカシャー州にある都市保養地として人気がある。また世界最高峰社交ダンス競技会が開かれることでも有名で、映画Shall we ダンス?』にも登場した。

モータープール英語では企業政府機関などが所有する配車場のことを指すが、関西ではそれが転じて駐車場全般を指すようになったという。

ストレートプールビリヤードルールの一つ。15個の的球を番号に関係なく落としていき、最後の一つになったら落とした14個を組んでブレイクしてまたゲーム継続する。

インフィニティプール…周縁から水を落とすことで仕切りがないように見せかけた水泳場のこと。屋外・屋上に設置され、まるで海や空と繋がっているように見える。

モンシプールフランスプロボクサー。元WBAスーパーバンタム級王者王座陥落後に引退、2年8ヵ月後に復帰するも当時のWBAバンタム級王者アンセルモモレノに敗北して再び引退した。

シャープール…サーサーン朝ペルシアの第二代皇帝ローマ帝国との戦争を優位に進め、インドクシャーナ朝を滅ぼし、ゾロアスター教国教とした。後にシャープール2世3世がいる。

クアラルンプールマレーシア首都。クアラ(合流地点)ルンプール(泥)という意味がある。過密化が進んだために2000年ごろから行政機能プトラジャヤ移転している。

2017-08-20

キラキラネームをつけるのは2000年からDQN相場は決まっている。

まず100年前から

森鴎外

於菟Otto真章Max富Tom(以下略

DQNネームをつける。

小説DQNながら医師としての素質もなくかなりのDQNプライドのために海軍で開発されていた脚気対策の麦飯を否定し多くの陸軍兵を殺す。


次に2000年

四人の息子に独自に開発した漢字をつけた。

呉の三代皇帝である学問うつつを抜かし孫堅孫策孫権が建てた呉に混乱をもたらす。子供は内輪揉めで全員殺されその後呉も滅亡。


最近DQNネームアメリカ化の流れだろうね。

社会が二分化して10代前半でセックス始める不良と上位10パーセントに入るようなエリートしか子供が残せなくなってきた。

アメリカ人デブデフ太って簡単計算も出来ないようなアホか

難易度資格をいくつも持ってるような頭いいやつしか見かけない

日本もその内その二層しか居なくなるんじゃないか

2017-08-13

https://anond.hatelabo.jp/20170812232350

1992年

真ゲッターロボ恐竜帝国を道連れに地球北極より飛び立ち、火星に到達。その際火星テラフォーミング観測される(ゲッターロボサーガ

2001年ごろ

火星開発のために設置されたサラ基地統合戦争の激化のために閉鎖。以降火星の開発はストップした(超時空要塞マクロス

2009年

マクロスゼントラーディ軍の重力機雷より逃れるためにサラ基地の反応炉を爆破。基地消滅した(超時空要塞マクロス

2199年

イスカンダルのサーシャ、地球波動エンジン技術を伝えるために来訪する。しかガミラス軍攻撃を受けて地球に辿り着くことな火星で死去。そのまま火星に埋葬される(宇宙戦艦ヤマト

2200年代

伝説忍者を求めてラドリオ星の王女ロミナ、それを追ってザ・ブーム軍が火星に来訪。火星に住むジョウらはロミナに味方しザ・ブーム軍に抵抗。一方で火星開拓長官ハザード地球支配の野望のためにザ・ブーム軍と結託する(忍者戦士飛影

2405年から2472年

火星衛星ダイモスを改造した恒星移民マラソンが建造されるが、この間に困窮する火星による反乱が発生。その影響でマラソン船内にミョルニル軍事サイボーグなどの兵器が悪意をもって隠されてしまう(Marathon

2711年以降2911年以前

火星軌道上に三つの居住可能惑星が作られる。これらは旧来の火星第一マースとして、それぞれ第二・第三・第四マースと呼ばれる(銀河疾風サスライガー

年代不明

終わり

宇宙人もけっこう来てるね

2017-08-02

[]ペルソナ5 115hくらい

シドパレスルート確保まで

はじめたのが0時半で4時くらいまでかかった・・・

途中ちょっと別のこともやったけど、これまでのダンジョンに比べても長くてめんどすぎた

攻略見ながらでもこれだからまともにプレイしてたらもっと時間かかってただろうなあ・・・

楽しいっていうより苦痛しかなかった

一気にクリアしようとしなきゃいいじゃんってのあるけど、もうラストいかコミュMAXにするための日数を確保したいんだよね・・・

12/22が自由行動ラストらしいからそれまでにMAXできるかな・・・

少なくとも宝魔コンプはあきらめた

今のコミュランクイベントで上がるの以外でMAXじゃないやつは

皇帝

女帝

塔8

刑死者8

月9

隠者

戦車

って感じ

日数だけでみればいけそうだけど、それぞれいける曜日決まってるのがちょっとなあ・・・

うーん微妙

2017-07-14

続・違うんだよミスチルさん

新曲MVがさきほど20分前に公開されましたね

himawariとてもいい曲です

久々にちゃんとシングル曲で好きです

ただ問題があるんすけど

live.verってなんなの???

俺さ、今のツアー来月の横浜行こうと思ってんのね

それでそこまでネタバレしないように気をつけてたわけ

ツイッターとかね

それがなんで公式が盛大にネタバレしてんの??

新曲ライブverって今のツアーでやったってことだよね?

こないだのエンジン社長ネタバレツイートもひどかったけど、それを輪にかけて公式に全世界に向けてやるわけ??

バッッカじゃねーの?

横浜でも当然やるんだよね?これ?

あんたらのライブに1万円近く払ってんだぞ?

ヒマワリネタバレだけで3000円分くらい楽しみ減ったわ

からファンはどーでもいいのかよ

お前らは三大キャリア

殿様商売

あと皇帝さんさあ

リフ雑じゃない?

フワフワしすぎだわ

音色はいいんだから

イノセントワールドの時みたいにカッチリしたリフがいいわけ

イノワーのリフはほんと神だと思ってっからオレ

たのむよ

あとついでだから言っておくけどさ、ドコモと25thコラボで初めてCMデモ音源かいましたーってあたかもそれが売りであるように押してるけど、締め切りに間に合わなかっただけだろ?

デモ音源なんてリフレクションの時みたいにネットガチ勢けが楽しむようなオマケな感じがいいのにそれを前面に出してどーするよ?

いちいち迷走してるわー

あーエンジン入りたい

アドバイスしてあげたい

あ、でもグッズのデザインは良かったよ

ただガチャ高すぎだ

https://anond.hatelabo.jp/20170510001454

2017-07-12

https://anond.hatelabo.jp/20170712130904

その皇帝が右利きだったからこそ、自分右手側の席に、信頼できる補佐役を座らせたのではないのですか?

2017-07-01

習近平の敵

習近平民主化運動化を弾圧しても無駄だ。習近平の脅威は民主化運動ではなくて身内の中国共産党からだ。

習近平皇帝のように、一部の党員貴族のように振る舞っていることを他の党員たちは快く思っていない。

習近平を恨んでいる共産党員もたくさんいる。習近平は自らの反対派共産党員粛清したほうが習近平延命になる。

こんなところに書いても習近平は読まないだろうが、日本にいるスパイが読むかもな

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

2017-03-31

暗君東西対抗

単純な失政や暴政よりはエピソード重視。

だいたい次代の奴が自己正当化のために悪く書いただけで、実際はそこまで馬鹿じゃないという話もあるので、話半分に読みましょう。

?-前771姫宮西周の第12代の王・幽王。無口無表情系の美女・褒姒の機嫌をとるために、用もないのに何度も緊急の烽火をあげ、集まってくる諸侯の軍を見ては、褒姒と一緒に笑っていた。ついに反乱が起きた時、幽王はあわてて烽火をあげたが、もはや集まる軍はなかった。これにより西周は滅んで東周が興り、そして春秋時代へと突入していく。
259-307司馬衷西晋の第2代皇帝・恵帝。先帝の御前で家臣が「あいつには玉座がもったいない」と言い放ったほどの暗愚だった。飢饉ときに「米が無いなら肉粥を食べればよいではないか」と言い放ち、かの有名な台詞を1500年くらい先取りした。その無能さ故に、代わって政治の主導権を握ろうとする皇族たちが争い「八王の乱」が起きたが、その無能さ故に殺されることはなく、48歳のときに食あたりで死んだ。
335-357苻生前秦の第2代皇帝・厲王。生まれつき隻眼だったために祖父から忌み嫌われ、たびたび鞭打たれるなど、虐待まがいに育てられた。武勇に優れていたが、残虐で酒を好んだ。宴のときには酒を飲まない者を殺したため、諸官は懸命に泥酔せねばならなかった。また隻眼のコンプレックスから「少」「無」「残」「偏」などの文字を使うだけで誅殺した。従弟たちが起こしたクーデターにより23歳で殺害された。死ぬ間際にも泥酔していたという。
463-477劉昱劉宋の第7代皇帝後廃帝。「天性好殺」と評されたシリアルキラー。従者に凶器を持たせて街を練り歩き、気に入らない者を自ら殺して回った。贈り物が好みでなかったというだけで皇太后を毒殺しようとしたが「喪に服しているあいだは街へ出られませんよ」と諌められて諦めた。一日に誰も殺さないと不機嫌になったという。有力な将軍クーデターにより14歳若さ殺害された。
502-549蕭衍南梁の初代皇帝武帝。当初は名君の誉れ高かったが、次第に仏教に傾倒していき、莫大な寄付金国庫を傾けた。なまじ優秀だったために諫言を聞かず、勝手出家してはそのたびに寺院から連れ戻された。周囲の反対を押し切って、隣国を追われた武将を受け入れたところ、即座に反逆され、凄惨な籠城戦の末に捕縛幽閉された。息子たちの誰も救援に来ない中で、惨めなうちに病死した。
1122-1161完顔亮金の皇帝。「天下の美女を妻に得たい」と嘯き、親族、家臣の妻、母娘、幼女、あらゆる美人後宮に入れ、宮殿のいたるところで乱交した。幼い姪を強姦して殺し、従弟の妻を奪おうとして死に追いやった。南宋に対して大規模な遠征を行ったところ本国で別の皇帝擁立され、それでも遠征を続けようとして部下に殺された。死後、皇帝どころか王とすら見做されず、「海陵庶人」と記録された。
1563-1620朱翊鈞明の第14代皇帝万暦帝。幼い頃から聡明で知られ「朕は5歳で字が読めた」とよく自慢していた。宰相張居正の手腕により、統治の初期は成功を収めたが、その後は外征・内乱が相次ぎ、自身酒色に溺れて堕落した。明で最も在位期間の長い皇帝だが、30年にわたって後宮引きこもり上奏があっても何の返答もしなかったため、国政は機能不全に陥った。ただし徴税だけは熱心だったという。

西

161-192コンモドゥス17ローマ皇帝暗殺未遂や側近の裏切りなどから政治への興味を失い、剣闘にのめりこんでいった。「ヘラクレス化身」を自称して狼の毛皮をまとい、実際に剣闘士としてコロッセウムで戦った。その武勇は素晴らしいものだったが、「皇帝奴隷の真似事を」とローマ市民を嘆かせた。あるとき重臣たちの粛清を図ったが、逆に毒薬を飲まされ、朦朧としたところを襲われて殺された。31歳だった。
203-222ヘリオガバルス23ローマ皇帝ローマ最高神故郷シリアの土着神に挿げ替えてその神官となり、処女を守るべきローマ巫女結婚して神の子を産もうとした。その後は離婚結婚を繰り返し、最後には女装をして男性奴隷の「妻」として振る舞った。さら宮殿の中に売春宿を作り、自ら男妾となって通りがかる男性を誘い込んだ。マゾヒストの気もあったという。近衛兵の反乱により18歳の若さで殺され、死体は切り刻まれて川に捨てられた。
937-964ヨハネ12ローマ教皇カール大帝の子孫という家柄であり、わずか18歳で教皇となった。無謀にも教皇領の拡大に乗り出して大敗を喫し、それを助けた東フランク王国オットー1世ローマ皇帝の冠を与えた。これにより神聖ローマ帝国誕生したが、教皇権威は低下することとなった。不道徳人間で、ラテラノ宮殿売春宿のようにしており、最期人妻と寝ていたところをその夫に見つかって殺されたという。27歳だった。
1012-1056ベネディクトゥス9世ローマ教皇父親の後押しにより20歳にもならないうちに教皇となる。賄賂などはもちろん、殺人もいとわず姦淫にふけり、同性愛も行っていた。従妹と結婚するために教皇位を金で売りとばしたが、すぐに後悔して復位を主張し、混乱を招いた。結果として三度も教皇に就位することになり、最後には新たな教皇により破門されてしまった。四度目の復位を画策していたときに43歳で亡くなったと言われる。
1199–1216ジョンイングランド王。幼い頃から父・ヘンリー2世に可愛がられていたが、父と争っていた兄・リチャードが優勢になると寝返りヘンリー2世失望のあまりに亡くなった。さらにリチャードが亡くなって王に即位すると、フランスフィリップ2世敵対して惨敗フランスにあった広大なイングランド領を全て喪失し、その体たらくイングランド諸侯の不満が爆発したため、やむなくマグナカルタを認めて王権制限を受け入れた。
1835-1909レオポルド2世ベルギー国王アフリカコンゴ私領とし、私財のほとんどを投じて近代化を推進したが、やがて「天然ゴム採取ノルマに達しなければ手首を切り落とす」といった残虐な労働を強いるようになった。さすがの欧州諸国もドン引きして強烈なバッシングを浴びせ、最終的にコンゴ統治ベルギー政府移管された。国民からの信頼は地に堕ち、晩年王妃や娘にまで白い目で見られたという。
1845-1886ルートヴィヒ2世バイエルン王。「狂王」とも「白鳥王」とも呼ばれる。政治への興味は薄く、戦争に負けたばかりで多額の賠償金を抱えていたにもかかわらず、借金までして自身メルヘン趣味に耽溺し、中世風の美麗な城を各地に残した。夜中にソリ遊びを始めるなど、奇行に走る王を家臣たちは危ぶみ、精神病だという理由で退位させた。その翌日、40歳で謎めいた死を遂げた。

2017-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20170216211630

まったく同意です

特にリスクを取りたがらない世相という指摘には首の上下高速運動でもげそうになるくらいです

育児休暇なんかも典型的なんだけれど、じゃあその穴埋めをどうすればいいんだよ?という話です

サラリーマン側のはてなの人々は自分たちこそは経営者という権力者にこき使われている弱者だという自己イメージを持っているようですが、

その自己イメージを利用して巧妙にリスクから逃れようとしているのではないかとすら思えてしまます

彼らが逃れたリスクは一体誰にお鉢が回っているのだい?という

結局、一番立場の弱い人間リスクしわ寄せにさせているだけじゃないか?という

彼らは自分たちが一番弱いと傲慢にも思っているから、

彼らより弱い立場の零細起業者が存在していることなんかに絶対に気付こうとしないのです

零細起業者の所得なんて、彼らのような守られたサラリーマンとは比べ物にならないほど薄弱なものですよ


起業家に対して厳しいというより、異常なほど「無関心である」というのが実相ではないか

無関心だから、何もわからないし、理解しようとしないのです

彼らは弱者をこれ見よがしに理解しようとしていますが、

それがウワベだけというのはよくわかることでしょう

今はまだ問題は表面化しないでしょう

ただいつまで経っても労働者側の意識ばかりで、

起業家目線を決して身につけることなく彼らが今後も変わらずい続けた場合

いつか必ず破綻しま

そう、

「ちゃんとお給料を払う人がいなくなるから」です

資本の無い起業家は彼ら労働者によって駆逐されてしまうのですから

給料を払うのは、超大資本しか残されていません

そんな資本家は、そうなったら今の給与水準じゃ考えられないほどのダンピングをするに決まっています

起業家を大切にしない労働者は、

巡り巡って自分の首を糸くずになるほどまでにギューギューに圧縮して締め上げることになるのです

「長期的な利益犠牲」という視点、まさしく慧眼だと思います


しかしながら、トランプ大統領誕生して以後、

労働者権利ばかりを主張する人々はますます増長する勢いのようです

どうやら、・・・起業家の人を大切にするような精神は、中期的にはまず望みようもないでしょうね

これも日本選択なら仕方がないことです

ただ、わずかばかりの望みもあります

はてなにも多少ものの分かる人がいます

id:REVさんなんかは「龍穂の内政の皇帝を」というタグでこういった問題をよく指摘していますので、ご参考になさっていただければと思います

http://b.hatena.ne.jp/REV/%E7%95%99%E4%BF%9D%E3%81%AE%E7%84%A1%E3%81%84%E7%94%9F%E3%81%AE%E8%82%AF%E5%AE%9A%E3%82%92/

2017-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20170123185812

中国のもの日本のもの

天皇中国皇帝モデル中国では廃止

元号中国では廃止。残しているのは世界日本のみ)

戸籍中国では廃止。残しているは世界日本と台湾のみ)

夫婦同姓を法律強制(これは元はプロシャか。残しているのは世界日本のみ)

原発(もはや中国関係ねぇ。でも多分世界最後まで残すのは日本だぞ)

他にもあるか?

2017-01-19

皇帝になりたい

今年度の予算承認するだけで10月までかかるの

2017-01-03

歴史で習ったんだけど、どっかの皇帝?が子供達を市民に紛れ込ませて監視・密告させてた話

なんとかの眼とか言われてたと思う

調べても中国がどうとか自民党がどうとかでてきてよくわからん

平清盛の禿童みたいな感じ

ペルシャとかあのあたり

ふと思って「ペルシア の眼」で調べたらすぐ出てきたわ

レイオス1世の「王の目」「王の耳」だ…ってか子供関係ねーじゃん

多分禿童と混ざって覚えてたな

2016-12-23

ヨーロッパ朝鮮半島(2)

http://anond.hatelabo.jp/20161221223403

ウェストファリア条約前のヨーロッパは、事実としてプロテスタント国と、カトリック国に分裂していたが、その状態理念としてあるべき姿であると捉えている訳ではなかった。皇帝あるいは教皇のような、国家を超えた存在ヨーロッパ統一している状態こそが理想であり、そのために邪魔プロテスタント存在を認めることなどできず、さまざまな手段プロテスタント否定していった。その最たるもの30年戦争であったが、その戦禍はあまりにも大きく、単一権威によるヨーロッパ統一という理念は諦め、諸国家が互いに干渉せず、国家よりも上位の権威を認めない、現在国際関係の基礎がここに出来上がったのである

現代朝鮮半島状態もこれに似ているのではないだろうか。現在朝鮮半島は、事実として北朝鮮韓国に分裂しているが、決してその状態をよしとしているわけではなく、統一された朝鮮半島理想としている。朝鮮半島統一のためには戦争というオプションでさえ放棄していない、非常に不安定状態である統一を諦めるという選択肢もあるのではないか?と思うが、朝鮮半島がそれを受け入れるには、また30年戦争のような戦禍が必要になるだろうか。できれば、そのような戦禍なしに平和と安定が実現できればいいのに。

参考資料

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84

この条約の成立によって、教皇皇帝といった普遍的、超国家的な権力ヨーロッパ単一のものとして統べる試みは事実上断念された。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国存在を前提として勢力均衡の中で国益めぐり合従連衡を繰り返す国際秩序形成された。この条約によって規定された国際秩序ヴェストファーレン体制とも称される。

ヨーロッパ統一の動きが、ウェストファリア条約によって潰えたという解釈は、国際関係論系の教科書では割と一般的記述であると思います事実として分裂していても、理念としては統一なのですよ。あと、ひとつ物事にはさまざまな側面があって、単に世俗領土獲得が目的ヨーロッパ覇権の獲得が目的と見えても、別の側面からは違って見えるということはよくある。

例えば、4℃アクセサリーを妻にプレゼントするという事象も、法的に解釈すると動産譲渡であり、経済学的に解釈すると消費であり、文化人類学的に解釈するとまた別の何かなのである。どうも、自分歴史に詳しいという自負が垣間見られる方がいるが、それは歴史の一側面でしかなく、別の解釈否定するものではないですよ。

2016-11-24

[] オマンシング・サガ2 (ネタばれあり?)

この一か月ほど、オナホアナルロイドオマンシングサガ2をやっていました。

やってみると色々と細かいイベントまで覚えているものですね。

子供の頃は、穴術めあてにアナルーン島を噴火させてアナマンダーをクソまみれにする奴に対して、

何考えてるんだと思っていたものですが、術も使っていると面白い

穴術が欲しくて、ためらいなくウンコ火山噴火させてやりました。

あとはロックブーケ戦で勃起してしまったりして、当時のことを懐かしく思い出しながらやっています

そしてロックブーケちゃんを倒したらノアナルとワグアヌスを倒してないのに、最終アナル皇帝になってしまって、死ぬこともできなくなりました。

LP節約のため、仲間が死んだら即リセットです。

武器が嫌いなので体術と術メインで戦っています

日中ラスボス七穴英雄を倒しに行こうと思っているのですが、クイックタイムは当然使わずに、最強の体術ワザ「千手観音」で七英雄特にロックブーケ)のアナルガバガバにしてやります

前回の戦いですでに千手観音ガバガバになってるはずですが、さらガバガバにして、ウンコ垂れ流し状態にしてやります

楽しみだなぁ。

アナル増田

2016-11-22

http://anond.hatelabo.jp/20161122094928

2010年代なら「はるまで、くるる」と「らぶおぶ恋愛皇帝 of LOVE!」をおすすめしたい。

前者はどんでん返しと心地よい終わり方、後者は笑いながら泣けるポエムが特徴かな。

それ以外だと「SNOW」とか「きっと、澄みわたる朝色よりも、」とか「処女はお姉さまに恋してる」とか「月に寄りそう乙女の作法」とか。最後のも2010年代か。

Shuffle!」はファンデスクまで含めるとボリュームが多くなるけどやはり名作だと思う。

2016-11-21

[]

図書館魔女を読んだ。エピローグがとてつもなく長くてびっくりした。珍しい外交ファンタジー小説だったけどとても楽しく読み進められました。

でも正直なところ、一巻の中盤辺りまでは退屈な小説だなあって思ってた。文飾がちょっと過剰だし、展開も遅いし、外交ファンタジーをうたっているのに外交する素振りのない内容が続いたからなんだかなあって思ってた。

極めつけに、図書館構造についての理屈詭弁に見えてしまったのが痛烈だった。問答も長いし、その帰結にも納得できなかったから読む意欲が結構そがれてしまった。

けれども、それ以降に出てくるニザマの佞臣との邂逅を描いた場面、つまり外交の一端に触れたあたりからエンジンが温まってきた気がする。

如才ない敵役が現れたことにより、それぞれがそれぞれのシナリオに則った役割を演じて体面を終えるんだけど、そのあとで腹芸の内実が一枚一枚明かされていく流れが面白かった。その後で一巻は冒険小説になるんだけれども。

魔女図書館面白さに関して、先述したような冒険小説のような側面があったり、ミステリー小説のような側面があったりすることも挙げられる。要するにいろんなエンターテイメントが含まれている小説だったわけです。

窮地から脱するアクションシーンがあれば、罠の待ち受ける敵陣へと進行していく場面がある。甘酸っぱいボーイミーツガールが描かれたかと思えば、緊迫した議会の内実が描かれたりもする。

そのどれもこれもが丹精込めて力いっぱい描かれているもんだから物語奥行きがすごいことになっていた。一方で弊害もあって、少々読みにくくなっていたし、展開の遅さにもつながっていたように思う。

二巻三巻と読んでいるうちに慣れたけど、それでもやっぱりくどいし重たい文章ではあると思う。ただ二巻の終わりがけは執拗文章構成却って切実さを演出していた気がする。

キャラクターに関しては、ラノベと見まごうばかりの配置だった。毒舌天才少女アルビノ長身お姉さん、褐色肌の闊達な女軍師ちょっとおっちょこちょいだけど母性に溢れる家政婦など、色物が揃いすぎている。

女性キャラだけじゃなくて、男性キャラクターもそうそうたる面子だった。

かわいい名前なのに有能な政治家であるヒヨコをはじめ、個性あふれる近衛兵の面々、おおらかな知の巨人たるニザマ皇帝等々、主要な人物はもちろんのこと脇を固める人物にも個性があり人格があって、みんな生き生きして見えた。

読書感としては、スワロウテイルシリーズが似通っていると思う。学術的なやり取りの緻密さや、それぞれの土地に与えられた細やかな設定が物語を土台からしっかり支えてくれていた。

スロースターターだけど、ギアがかみ合えばどんどん先へと読み進めたくなる小説だった。読み終わるのがちょっとしかったです。続きを文庫ではよ。

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