はてなキーワード: ブリティッシュとは
思い立ったので書く
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
多くの自動車メーカーに影響を与え、後に自動車のスタンダードとなるような技術・理念を持つことを選考基準とした
世界初のガソリン内燃機関を動力とする3輪自動車。現代の自動車の始祖にあたる。
自走式の自動車はモートルヴァーゲン以前に前例があるものの、馬車を改造したものでしかなかった。機動性と実用性を考慮し、ドライバーが手足のように操作できることを念頭に開発された自動車は、モートルヴァーゲンが初となる。「バランスを取ることなく、ドライバーが自由にコントロールできる自走式の乗り物」を自動車とするならば、それを定義したのがこのモートルヴァーゲンといえる。
発明者のカールベンツはメルセデス・ベンツ創始者の一人。その妻であるベルタベンツは1888年、旦那に内緒でモートルヴァーゲンを持ち出し、息子2人と長距離旅行(実家に里帰り)を敢行。ガソリンスタンドなど無い時代に、幾多の故障とトラブルを乗り越えながら往復200kmの長距離走行を成功させている。この時の経験は、モートルヴァーゲンの改良に大いに役立ったという。
世界初の大量生産車。ヘンリー・フォードによるライン生産方式の発明により、一部の富裕層の乗り物であった自動車が大衆のものになった。自動車史のみならず、人類の歴史にに大きな足跡を残した偉大な車である。
大成功を収めたフォードであったが、その十数年後にはゼネラルモータースの台頭により、フォードは窮地に立たされることになる。
いわゆる「ビートル」。基本的な設計を変えないまま2003年まで生産された。累計生産台数は2152万9464台。フルモデルチェンジを含めない単一車種の生産台数としてはぶっちぎりでトップ。
この車の偉大さを伝えるにあたり、長ったらしい解説は必要なし。世界中で広く愛され、たくさんの人々の生活を支えた。
世界で初めて衝突安全ボディを採用した車。衝突時に車体を意図的につぶすことで、衝撃を吸収し安全性を高める。
今では当たり前の技術だが、その当たり前を作り上げ沢山の命を救った功績は大きい。
3点式シートベルト(現在一般的に使われているシートベルト)を世界で初めて標準装備した車。ボルボは「安全は独占されるべきでない」としてこの特許を無償で公開。その結果3点式シートベルトは急速に普及し、世界中の自動車の安全に大きく貢献した。メルセデス・ベンツとともに敬意を。
スポーツカーとしての高い走行性能と、人や荷物を載せる実用性を高い次元で両立させた車。高級スポーツカーとしては珍しくルーフキャリアが装着可能で、荷物を屋根積みすればスキーやキャンプなどレジャーにも使える実用性を有する。初代の発売から現在に至るまで、世界中の自動車メーカーにとってスポーツカーのお手本であり続けている。
エンジン横置きFF(フロントエンジン・フロントドライブ)大衆車の先駆車。コンパクトな車体ながら広い室内空間を確保できるこのパッケージングは、現在の自動車の主流となった。
BMWにブランドが買収された後は、様々な自動車メーカーが挑戦し失敗し続けた「小さな高級車」を初めて成功させたブランドとなった。
フェラーリの創業者エンツォフェラーリが最後に手掛けたスペチアーレ(限定モデル)。希少価値を高めるため「欲しがる顧客の数より1台少なく作る」ビジネスモデルは、高級車はもちろん高級時計やブランドバッグなど、ラグジュアリーブランドビジネスとして今では一般的な手法となった。世界最強の高級ブランドフェラーリを象徴するF40は、自動車業界の枠を超えて特筆するべき製品といえるだろう。
世界初HV乗用車。初代プリウスは赤字覚悟の実験的なモデルだったが、2代目プリウスは商品力を高め大ヒットを記録した。
近年のトヨタはEVの販売が積極的でないため脱炭素できていないと叩かれがちだが、発売から現在までCO2排出削減に最も貢献した車は、他でもないプリウスである。「良い製品でも売れなければ意味がない」というトヨタの考えを地で行く名車。
走るスマートフォン。もはや自分で運転する必要などない時代を予感させ、モートルヴァーゲンが定義した自動車の定義を覆そうとしている。トヨタが「自動車メーカーからモビリティメーカーへの変革」を目指すようになるなど、世界各国の自動車メーカーが経営戦略の転換を迫られた。
また、テスラの運転支援技術が悲惨な事故を引き起こすなど、自動運転技術が普及していく過渡期として重要な出来事も引き起こしている。良くも悪くも、今後自動車史における大きなターニングポイントとして語られることは間違いない。
・1920年代のゼネラルモータース(シボレー、キャデラック等)
たくさんのブランドや車種を展開する販売戦略(多品種少量生産)やオートローンなど、現在は当たり前になっているマーケティング手法を生み出した。自動車史において非常に重要であるものの「これ!」となるような特定の車種を選ぶことができなかったため選外とした。
夢のエンジンと呼ばれたロータリーエンジン。世界中の自動車メーカーやオートバイメーカーが研究したが失敗。唯一実用化に成功したのは、東の最果てにある小さい自動車メーカーだった。高く評価されるべき技術だが、広く普及した技術とはならなかった。
ちなみに、ソ連がロータリーエンジン車を生産していた事実はあまり知られていない。一説によると3ローターの市販車は、マツダではなくはソ連が初だとも言われている。昭和51年にマツダがソ連技術者に工場を案内したことがあるらしく、その際に技術流出した(らしい)。
油圧サスペンションやモノスポークホイール、流線型で宇宙船のような外見など、意欲的な工夫が多数盛り込まれたシトロエンの傑作。特殊な車に見えるが、大衆車として145万台以上生産された。
誰もが認める名車だが、マツダロータリーと同じく一般的な技術として普及しなかったため選外。
ちなみに、油圧サスペンションの油圧はブレーキやパワステ、トランスミッションの駆動にも使われているため、何らかの原因で油圧がかからなくなると、最悪サスペンション、ブレーキ、ハンドルすべてが利かなくなる。
・メルセデス・ベンツ ミディアムクラスW124(1985年)
「最善か無か」最後の時代のメルセデスとして名高いW124型ミディアムクラス/初代Eクラス。安全性を最優先に考え、最善の自動車を実現するべくコストをかけて徹底的に開発された名車。世界中の自動車メーカーの研究対象になった。
しかし、日本車の躍進や東西ドイツ統合による経済的混乱などの理由で、メルセデスベンツはこの車以降、コストをかけた車づくりをあきらめることとなる。
日本車の高級車市場進出の象徴ともいえる一台。この車が出るまでは日本車=安くて丈夫な大衆車だったが、それを覆した。きわめて静粛な車内と乗り心地、そして高いクオリティに対する値段の安さは、全世界に衝撃を与えた。メルセデスが「最善か無か」の車づくりをあきらめたのはこの車が原因。
世界中の自動車メーカーが不可能と思われていたアメリカの環境規制、マスキー法を初めてクリアした名車。ホンダが北米市場で躍進するきっかけとなった。
ちなみに、マスキー法はビッグ3(フォード、GM,クライスラー)の反発により実質的な廃案となる。アメリカの環境規制がマスキー法同水準に達するのは、1995年になるまで待たなければならなかった。
アフリカや中東、南米ジャングルの奥地...。どんな場所でも生きて帰ってこれる車。厳しい環境で、農業や鉱業、人命救助などに活躍している。この車がないと生きていけない人が、世界中にはたくさんいる。
開発者インタビューによると、地引網漁に使われている事例もあったらしい(ランクルで浜から海にざぶざぶと入って網を投げ、引き上げる。釣った魚を売る時にも使う)。
パワーがないけど、軽量で安く走る楽しさにあふれるスポーツカー。デビュー当初、この類のスポーツカーは瀕死寸前だったが大ヒットを記録し、数々のフォロワーを生み出して今に至る。
https://www.nytimes.com/2024/04/09/health/europe-transgender-youth-hormone-treatments.html
ヨーロッパ5カ国は最近、性別に悩みを抱える青少年に対するホルモン治療を制限した。
英国の今回の変更は、独立した小児科医であるヒラリー・キャス博士が火曜日の夕方に発表した4年間のレビューによるものである。「ほとんどの若者にとって、医学的な治療法は性別に関連した苦痛を管理する最良の方法ではない」と報告書は結論づけた。医学雑誌に掲載された関連論説の中で、キャス博士は、若者のジェンダー治療が有益であるという証拠は "不安定な基礎の上に成り立っている "と述べた。
NHSは今後、臨床研究に登録された患者を除いて、思春期を阻害する薬を提供しない。そして報告書は、テストステロンやエストロゲンのような永久的な身体的変化を促すホルモンは、"細心の注意 "をもって未成年に処方するよう勧告した。
英国の動きは、北欧におけるより広範なシフトの一部であり、保健当局は近年、思春期の性別治療の需要が急増していることに懸念を抱いている。
12月、ノルウェーの地方保健当局は、青少年の性別医療を「試験中の治療」に指定し、臨床試験に参加している青少年にのみホルモン剤が処方されることになった。デンマークでは、今年最終決定される新ガイドラインにより、ホルモン治療は幼児期から性別違和を経験したトランスジェンダーの青少年に限定されることになる。
若者に対するジェンダー治療の先駆者はヨーロッパ人である。1990年代、アムステルダムのあるクリニックは、幼少期から自分は違う性別だと感じていた青少年に思春期抑制剤を投与し始めた。
世界中のクリニックがオランダのプロトコルに倣うようになった。これらのクリニックへの紹介は2014年頃から急増し始めた。例えばスウェーデンのクリニックでは、2014年には約50人だった紹介患者が、2022年には350人にまで増加した。英国では、その数は2014年の470件から2022年には3,600件に増加している。
そして、オリジナルのオランダの研究の参加者とは異なり、新しい患者の多くは思春期まで性別の苦痛を経験せず、うつ病や自閉症を含む他の精神的健康状態を持っていた。
現在、オランダで発表された当初の知見が現在の患者にとって妥当なのか疑問が呈されている。
フィンランドで2011年から青少年ジェンダー・プログラムを率い、この治療を声高に批判するようになった精神科医、リイッタケルトゥ・カルティアラ博士は、「世界中が、何千、何万もの若者に対して、1つの研究に基づいて治療を行っている」と述べた。
カルティアラ医師自身の調査によると、フィンランドのクリニックに入院している患者の約80%は女性として生まれ、思春期の後半に性別の悩みを経験するようになった。多くの患者は心理的な問題も抱えており、ホルモン治療では改善されないことがわかった。2020年、フィンランドは薬の使用を厳しく制限した。
同じ頃、スウェーデン政府は厳密な研究レビューを依頼し、青少年に対するホルモン療法には「不十分な」エビデンスがしかないことを発見した。2022年、スウェーデンは「例外的なケース」のみにホルモン療法を推奨し、その理由のひとつに、どれだけの若者がこの先、医学的移行(脱移行と呼ばれる)の中止や逆戻りを選択する可能性があるかという不確実性を挙げている。
2021年、タヴィストックの臨床医たちは、思春期阻害剤を服用した44人の子供たちを調査した結果を発表した。
薬によって自傷行為や異和感の程度が軽減されることはなかった。2020年、NHSはキャス博士に治療法の独立レビューを依頼した。彼女は科学的レビューを依頼し、国際的なケアのガイドラインを検討した。また、若者とその家族、トランス成人、離脱者、擁護団体、臨床医と面会した。
レビューの結果、NHSのケア水準は不十分であり、性別による苦痛の原因となりうる精神衛生上の懸念に対処するルートはほとんどないと結論づけられた。NHSは先月タヴィストック・センターを閉鎖した。
キャス医師は、火曜日に発表された『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌の編集者とのインタビューの中で、「子供や若い人たちは、実にお粗末な扱いを受けてきました」と語った。小児医療において、若い人たちに取り返しのつかない治療を施し、大人になったときにどうなるのか全くわからないというようなことは、他に考えられません」。
今月、NHSによって制定された変更は、「私たちの懸念が実際、妥当であったことを認めたものです」と、2018年に懸念を表明したタヴィストック・スタッフの一人であるロンドンの臨床心理学者、アンナ・ハッチンソンは言う。"これらの子供たちに関連する決定について、より強固でエビデンスに基づいた道筋に戻ろうとしていることは心強い。"
フランスでは今年、医師が思春期阻害剤やホルモン剤を処方することを禁止する法案が提出され、懲役2年、罰金30,000ユーロを科した。そして月曜日、バチカンは性転換を人間の尊厳を脅かすものとして非難した。
https://www.nytimes.com/2024/04/09/health/europe-transgender-youth-hormone-treatments.html
ヨーロッパ5カ国は最近、性別に悩みを抱える青少年に対するホルモン治療を制限した。
英国の今回の変更は、独立した小児科医であるヒラリー・キャス博士が火曜日の夕方に発表した4年間のレビューによるものである。「ほとんどの若者にとって、医学的な治療法は性別に関連した苦痛を管理する最良の方法ではない」と報告書は結論づけた。医学雑誌に掲載された関連論説の中で、キャス博士は、若者のジェンダー治療が有益であるという証拠は "不安定な基礎の上に成り立っている "と述べた。
NHSは今後、臨床研究に登録された患者を除いて、思春期を阻害する薬を提供しない。そして報告書は、テストステロンやエストロゲンのような永久的な身体的変化を促すホルモンは、"細心の注意 "をもって未成年に処方するよう勧告した。
英国の動きは、北欧におけるより広範なシフトの一部であり、保健当局は近年、思春期の性別治療の需要が急増していることに懸念を抱いている。
12月、ノルウェーの地方保健当局は、青少年の性別医療を「試験中の治療」に指定し、臨床試験に参加している青少年にのみホルモン剤が処方されることになった。デンマークでは、今年最終決定される新ガイドラインにより、ホルモン治療は幼児期から性別違和を経験したトランスジェンダーの青少年に限定されることになる。
若者に対するジェンダー治療の先駆者はヨーロッパ人である。1990年代、アムステルダムのあるクリニックは、幼少期から自分は違う性別だと感じていた青少年に思春期抑制剤を投与し始めた。
世界中のクリニックがオランダのプロトコルに倣うようになった。これらのクリニックへの紹介は2014年頃から急増し始めた。例えばスウェーデンのクリニックでは、2014年には約50人だった紹介患者が、2022年には350人にまで増加した。英国では、その数は2014年の470件から2022年には3,600件に増加している。
そして、オリジナルのオランダの研究の参加者とは異なり、新しい患者の多くは思春期まで性別の苦痛を経験せず、うつ病や自閉症を含む他の精神的健康状態を持っていた。
現在、オランダで発表された当初の知見が現在の患者にとって妥当なのか疑問が呈されている。
フィンランドで2011年から青少年ジェンダー・プログラムを率い、この治療を声高に批判するようになった精神科医、リイッタケルトゥ・カルティアラ博士は、「世界中が、何千、何万もの若者に対して、1つの研究に基づいて治療を行っている」と述べた。
カルティアラ医師自身の調査によると、フィンランドのクリニックに入院している患者の約80%は女性として生まれ、思春期の後半に性別の悩みを経験するようになった。多くの患者は心理的な問題も抱えており、ホルモン治療では改善されないことがわかった。2020年、フィンランドは薬の使用を厳しく制限した。
同じ頃、スウェーデン政府は厳密な研究レビューを依頼し、青少年に対するホルモン療法には「不十分な」エビデンスがしかないことを発見した。2022年、スウェーデンは「例外的なケース」のみにホルモン療法を推奨し、その理由のひとつに、どれだけの若者がこの先、医学的移行(脱移行と呼ばれる)の中止や逆戻りを選択する可能性があるかという不確実性を挙げている。
2021年、タヴィストックの臨床医たちは、思春期阻害剤を服用した44人の子供たちを調査した結果を発表した。
薬によって自傷行為や異和感の程度が軽減されることはなかった。2020年、NHSはキャス博士に治療法の独立レビューを依頼した。彼女は科学的レビューを依頼し、国際的なケアのガイドラインを検討した。また、若者とその家族、トランス成人、離脱者、擁護団体、臨床医と面会した。
レビューの結果、NHSのケア水準は不十分であり、性別による苦痛の原因となりうる精神衛生上の懸念に対処するルートはほとんどないと結論づけられた。NHSは先月タヴィストック・センターを閉鎖した。
キャス医師は、火曜日に発表された『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌の編集者とのインタビューの中で、「子供や若い人たちは、実にお粗末な扱いを受けてきました」と語った。小児医療において、若い人たちに取り返しのつかない治療を施し、大人になったときにどうなるのか全くわからないというようなことは、他に考えられません」。
今月、NHSによって制定された変更は、「私たちの懸念が実際、妥当であったことを認めたものです」と、2018年に懸念を表明したタヴィストック・スタッフの一人であるロンドンの臨床心理学者、アンナ・ハッチンソンは言う。"これらの子供たちに関連する決定について、より強固でエビデンスに基づいた道筋に戻ろうとしていることは心強い。"
フランスでは今年、医師が思春期阻害剤やホルモン剤を処方することを禁止する法案が提出され、懲役2年、罰金30,000ユーロを科した。そして月曜日、バチカンは性転換を人間の尊厳を脅かすものとして非難した。
アマプラでブリティッシュベイクオフの日本版を見てイギリス版との違いに心底がっかりしたんだよ!!!!馬鹿!!!!
な~~~にが「大学生イケメンベイカー」「かわいい♥」「見た目とやってることのギャップが激しすぎます(ゴツい男性が花飾りのケーキを作ることに対して)」「個性爆発の見た目(赤髪の女性に対して)」じゃい
あのさ、料理を見に来てるの
容姿を見に来てるんじゃないんだよ
本家のイギリス版は各々の生い立ちとか家族構成を淡々と紹介していく形式で、同性パートナーを持っていようが、刑務所長が超かわいいケーキを作ってようが、常に一定の温度だったわけ
何もかも違う人間たちが淡々と紹介されて料理だけが番組の中心にある、その雰囲気が好きだった
俺も最初は、え!同性パートナー持ちの紹介をこんなあっさり終わらせるのか!と思ったこともあったけど、視聴を続けるうちにその考えを恥じた
それに毎週毎週ひたむきに料理に打ち込んで励まし合う皆の姿を見てるとなんかさぁ!人間っていいな~~~と思えたりしてさ!
そういう思いを抱かせてくれた番組としても凄い思い入れがあるから、イギリス版が抱いていたマインドが日本版に全然継承されてないのを見て心底がっかりしたって話
かなしい
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
タワレコやHMVに通ってた時代にシングル『東京』を買ってみたけど、あまり刺さらなかったよ。
それ以降も、ありきたりなブリティッシュロックを続けている印象しかなくて、
ブリットポップが軽薄なブームとして否定的に回顧されている時代に間抜けな音楽をやってるな、と思っていた。
岸田氏がホットエントリになったのを受けて、未聴のシングル曲をいくつか聴いてみたが、
今度はマグースイムやロッキーチャック、インスタントシトロンあたりをロックアレンジにしたような
軟派なダンスロックにも手を出してて、相変わらずピンと来ない。こんなのを音響派と思いたくない。
コレクターズや曽我部恵一、Plectrumのようなエモーショナルな魅力は無くて、
なんで糖尿病って「糖尿病になると一生治らない。たとえ生活習慣の改善によって薬なしで血糖値を保てるようになったとしてもそれは治ったとは言わない」と言われるんだろう…
薬なしでも症状が出ない間が一定期間続いたなら、それはもう「治った」でいい気がするんだけどな。「治ってない」ではなくて、「一旦は治ったけれど再発した」じゃあ駄目なの?
たとえば癌とかだって手術して患部を取って数年後に再発するなんて事もある訳だけど
その場合はあくまで「再発」であって「治ってない」とは言わないよね?
いや手術とかを伴う疾病じゃなくとも、自分なんかは喘息で一度治療を受けて以後症状は出てないんだけど
この場合今後また症状が出たとしてもそれは「治ってない」ではなくて、「一旦治ったけれど再発した」でいいと思うんだよね
あと、仮に現時点の医療技術では絶対に治らないとしても今後の再生医療の発展などにより根治が望める可能性だってゼロじゃないと思うんだけど。何故絶対に治らないと言い切るんだろうか
糖尿病は治らない治らないってこうも言われると、運動や食事療法による糖尿病の血糖値コントロールが上手くいかない人が多いのって、「糖尿病は治らない」と言い切られる事によって
どんなに頑張っても無駄というスティグマを植え付けられるせいなのでは?
こんな記事もあるみたいだし、「糖尿病は治る」というイメージを伝えてモチベーションを上げさせた方が、患者にとっては有意義だと思うんだけどなあ
https://diamond.jp/articles/-/220441?page=2
「最初に報告されたのは、2017年9月にリスボンで開催された欧州糖尿病学会(EASD)でした。英国のニューカッスル大学のロイ・テイラー教授が、約40年間におよぶ糖尿病研究の集大成として、『肥満のある2型糖尿病の人でも、カロリーを適切に調整した食事と運動を続ければ、糖尿病が“治った”状態を維持できる』と発表したのです。この内容は、医学誌『ブリティッシュ メディカル ジャーナル』にも掲載されています」
https://diamond.jp/articles/-/220441?page=3
それから約2年後の今年9月、「大幅な減量をしなくとも、5年間で体重の10%を減らすだけで、2型糖尿病が寛解し得る」という論文が、同じく英国の研究チームよって発表され、本サイト(10月20日公開記事『過度なダイエットは不要、2型糖尿病は体重を10%減らすだけで改善!?』)でも関連記事が掲載されている。
今NHKでやってるBBCが放送してた海外番組ブリティッシュ・ベイクオフを見てる。
アマチュアがパンやお菓子の出来を競う料理サバイバル?番組だ。
https://www.nhk.jp/p/ts/PN79NV19XL/
事前オーディションで選考されたアマチュア料理家(番組内では「ベイカー」(Baker)と呼ばれる)たちが、毎週与えられるテーマに沿ったパンやパイ、ケーキや焼き菓子などの出来栄えを10週に渡って競い合う番組。
なんでこの番組を見てるかというと、NHKはこの前に「ソーイング・ビー」という番組を放送していたからだ。
https://www.nhk.jp/p/ts/PM58N4MYMN/
当時ぐうぜん見かけてこれは面白い!と結構長い間見ていたが、それも終わってブリティッシュ・ベイクオフになった。
両者の関係はというとソーイング・ビーはブリティッシュ・ベイクオフのスピンオフ的番組で、番組のフォーマット、アマチュアたちが3つの課題をこなしだんだん脱落していく、をそのままに対象を料理から裁縫に変えた番組。
つまり日本放送でいうと新しいほうから放送して元祖のより古い番組を今放送しているということになる。
そのせい(古いせいで洗練されていない?)かはわからないが、ソーイング・ビーと比べてブリティッシュ・ベイクオフは面白くない。
そんな増田がなぜソーイングは面白くてベイクオフが面白くないのか考えたら、単純に二つの理由かなと思った。
食べ物の評価となると当然、味が評価対象になるわけだけど、見てる側には味なんてわからないんだから見てても「そうなんだ」以上の感想がわかない。
硬い・ふんわりとしている・水っぽい・リキュールが効いてるなどなどあるけれど、調理途中でアクシデントが起こってそうなったとわかるものもあればなんか普通に作ったけど最後の焼きが悪かったのかなんか失敗した。みたいなものも多い。
もちろん見た目の評価もあるんだけどまあ料理の範疇なので見ていても「どれかと言えばこれが好き」程度に落ち着いてしまう。
なんというか一緒に審査している感がない。他人の食事を見てるだけ。のような疎外感を覚える。
だから結果発表もえーそれが一位?俺はこれだったわーみたいにならない。あーそうなんだ。よく作れたんだ。で終わる感じ。
対してソーイング・ビーは服なのでもうほぼ見た目が9割。途中の失敗が目に見えて結果に反映されるし、時間が足りなかったらそれで未完成品が出される。他方で上手い人の作品は本当に見た目も作りもきれいでああこれは褒められるなとわかりやすい。目に見えて良し悪しがわかりやすいのだ。
さらにリメイクの課題ではそんな素材で!?(パラソルやウエットスーツ)そんなものを!?(SFな服や犬用の服)みたいな物が多くてもう千差万別のものができあがる。
そのなかで上手に出来たものの中から一位予想が楽しいし、予想が外れても「俺はこのデザインのほうが好き」でなんかオッケーな気分になれる。
また、両番組とも「レシピ通りに作る課題」があるのだけれど、ベイクオフは上手くいけば当然どれも似たり寄ったりになるわけで。完成してもめっちゃ地味。
大してソーイングなら生地の選び方からセンスがでるし、生地の種類ごとに合う合わないがあって難易度が勝手にあがる参加者もいたりして、「型通りに作る」んだけれど完成品はみんなバラバラな印象になる。
審査員は男女二人。どちらかと言えば両方の番組で海外男性がセクシーで注目している。まあそれはどうでもいいや。
でもま、ベイクオフの男性審査員、ポール・ハリウッドがもう辛らつ。料理の出来が悪いと本当に悪い点をたくさん上げてくる。
まだシーズン初期なので下手な人が落ちきってないという面もあるんだけど、それでも悪い料理には悪い点の指摘しかしない。
女性審査員のメアリーはまだ比較的ましかな?程度。ポールのほうがしゃべるのでやや発言が少ないが、やっぱりダメなものはダメという。
焼きが足りないとかこねすぎとかこのフルーツは合ってないとかプロとしてご意見はごもっともなんだけど、聞いていて結構つらい。厳しい先生。
対してソーイング。男性のパトリックと女性のエズメなんだけど、二人ともまあやっぱり怖いは怖い。威厳がある。
変な生地を選ぶと作ってる途中にパトリックがこれでやるのかい?だとか生地が伸びて難しいだろうが…頑張って。とか言ってくる。
でもユーモアもあって、進行役のタレントからよく弄られたりする程度にはフランクだしそれに冗談で返したりもする。
そしてなにより褒める!
二人ともどの作品もひとつは褒めるんだよ。(たまーに本当にヤバい作品が出るときはこれは完成していない…とかで終わるけど)
まあ大抵生地(色使い)がいいとかステッチが丁寧とかフィットしているとか私は好きよ。とか。
どんなにひどいミスがある作品でも時間切れで未完成品でも「ここは良い」がある。ミスが必ず見つけられて怖いけど優しい先生。
ミスから挽回したりできなかったりした作品には(心配したけど)よく頑張ったねとか声かけしてくれる。
だからちゃんと見られてる感があって厳しい指摘も見ていて受け入れられるんだよね。
つまり
評価がわかりやすく会話にジョークが混じり指摘中に必ず褒めるソーイング・ビー。
めっちゃ単純に心理的安全性がある組織とない組織みたいな対比になってる。
んで社会人としてどちらがエンタメとして優れているかと感じるかというと…まあ後者だよね。(ガチンコとかマネーの虎とか厳しい系が流行るときもあるけどね)
つらい番組は見たくないし。比較対象が優良だったらなおさらだよね。
ブリティッシュ・ベイクオフを見ていて面白くないと感じる原因はソーイング・ビーを見ていたせいでなんか転職に失敗しました感を感じてるからかもしれない。
灰の水曜日の前の日がパンケーキデーでイギリス人はパンケーキを食べます(イギリス人以外も食べるのかもわかりませんが)
このパンケーキが素朴で材料もほとんど要らずとてもうまいのでおすすめしにきました はやりのフワフワとは真逆の食べ物です クレープみたいな感じです
一人分なので作るときは人数分増やしてください
小麦粉 150g
卵 1こ
ミルク 300ml
バター すこし(なくてもいい)
小麦粉に卵を落とし軽く混ぜ、バターとミルクを半量入れてダマがなくなるまで混ぜ、なくなったら残りのミルクを入れて伸ばす
生地を10分寝かせたあとフライパンを熱し、お玉にワンスクープしてパンを回して平たくし、焼けたらひっくり返して軽く焼いて完成