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はてなキーワード: 依拠とは

2018-11-13

anond:20181113175022

ポーズ画集の「トレパク」は許されてるのでわかるとおり、

法的には目で見て描線を模写する(しかも一冊まるごとでなく1-3ページ程度のコマワリとポーズのみ)

のは複写とちがって直接複製権侵害にはならない場合が多い。

トレストレスもグレー。

もし、透かし入りデジ絵の加工であれば、

透かしが再発見できれば依拠発見できるから

ようやく今度は改変権の侵害だねともっていける。

透かしがなくても何万ピクセル単位でおなじだったりしてくれればね。

(そういう意味でも電書のみ発行本は紙より保護が強い)

 

ただ、やはりおなじ枠組みでおなじような演出法がどんどんでてしまう中で

映画なんかも健全なセッサたくまをして成長してきたわけで、

許されないとおもったらみんなで真に魅力的な真の神を買い支えしかない。

 

2018-11-05

anond:20181105142146

抱き枕と同様の性質作品にあってそこを批判されてるのでは?

抱き枕と同様の性質エロ は確かに存在するが、それは作品から引っ張ってくるものであって、作品とは関係のないところから持ってこられたら反感を買うのは当たり前でしょうに。

そもそもエロがあるからこの作品はクソと批判されることが、作品批判として成り立たせるには、個人依拠したお気持ちしかない。だからお気持ち批判をするとバカを見る(これはオタク側)

そして、作品に内在されると言われるかもしれない女性差別かいう話も、抱き枕から帰納法的に導くのは作品批判としては受け入れられない人も多い。自分たちで満足するなら勝手だけど、

この作品女性差別が内在されていると、わからせたいんだよね?じゃあ作品から批判しないと(これはフェミ側)

時間を遅くしても現状配信もして閲覧に年齢制限もしてない状態ではやはり公共のものだし議論俎上には乗せられるだろう

いや難しいでしょう。公共のものとはいえ普通の人が見る時間でないのは大きい。

完全に自分から不快ものを見に行っていることに変わりはないでしょう。

2018-10-14

anond:20181014152128

「おまえにとってはな」で終了しないか

そもそも空想」を構築するデバイスもきみ自身現実世界依拠した存在だよ。

2018-10-13

ツイッターオタクとちょくちょくオフ会するようになって分かったこ

どうやら俺はオタクが好きなのではなく、社会不適合者が好きだということ。

オタクの皮を被った実質ただの人間関係野郎と会った時には鼻で笑い、関わる価値のない存在だと思った。

しかしそれ以上に、アニメラノベ漫画もたくさん消費していて、それでいて人間関係も性関係もきちんとやっていっている人間に遭遇した時には、言いようのない殺意を覚えた。

彼の話すオタクトークは分かりやすく、確かに面白かった。しかし、彼が健常者であるというだけで、それは聞くに値しないものに感じられてしまった。

彼は俺よりもオタクとして深くやっていっているのは理解できた。それなら敬意を払ってこそ然るべきだと頭では分かっていても、生理的嫌悪が拭えなかった。

そして俺は最初に書いたように理解したのだ。

これまではオタクと会うのが楽しいと思っていたのだが、それは単にオタク社会不適合者はかなりの程度重なり合う集合であり、

俺がそれまで関わっていたのは大部分がその論理積であったというだけなのだ

からオタクではあるが健常者である存在に触れると、ただただ不快なだけだったのだ。

というかそもそも自身社会不適合者ではあるが、オタクではないのかもしれない。

健常者との兼業に負ける程度なのだから

いや、もしかしたら不適合者ですらないのかもしれない。

完全な健常者では決してないにせよ、不適合というほどでもない。

何せ障害者手帳を持っているわけでもなし、少なくとも書類上ではこの上なく「まとも」な人生を歩めてしまっている。

俺が社会不適合者だというのは高度に俺の主観及び俺自身自発的な行動に依拠しているものである

そうだとするなら、俺が社会不適合者と関わって楽しいと思えている理由は、単に社会不適合者を見下して優越感に浸れるから、ただそれだけではないか

健常者にも不適合者にもなりきれず、本物の不適合者を見下すことだけが生きがいで、オタクを装ってはいるがその実大して対象への愛もない、空っぽな出来損ない。

それが自分なのだとしたら。

俺のこの不快感は、自分がそのような存在であることを否応なしに気づかされてしまたから、なのだとしたら。

2018-10-10

anond:20181010152800

お前はもうずっと増田で、「査読がないことは論文の質を決定する要素ではない」と言っているだけ。それに対して、高いレベル査読が行われていなければ再検証対象としての優先度は下がるし、再検証されない論文は被参照数が増えず、論文としての価値が低いと言っているわけだ。査読は優れた研究であることを同業者に認められるための条件の一つになるが、査読されていなければ再検証も行われず優れた研究と認められることは稀である。ゆえに査読されない事は、論文価値を実質決定する。

引用数にやたらこだわる人が多いと思ったらそういう理由があるのね。当たり前だけど、マイナー事象を扱っていればメジャー事象を扱ったものより被引用数は少なくなるから、それは直接価値を測る尺度にはならんよねって話をしてるわけ(この問題はとうぜん査読誌にも存在するよ。英語圏でも日本語圏でも、ナチスについての歴史研究とそのへんの小国歴史研究、読まれる頻度が高いのは研究人口からいって前者なわけで。まあ当の小国で出た論文に限れば頻度は逆転するわけだけど)。あと、論文の中でダメダメ研究引用した上で批判する、なんてのもよくやるよな(まさかやらんのか?)。このような研究分野において、被引用数は文字通りどれだけ多くの人に引用されたかという尺度に過ぎず、引用多寡は直接的には論文価値リンクしない……というのは流石に理性があればわかってくれるよね? まあ実質的リンクしている分野があるのは理解したけれど、他分野においてもリンクしている、あるいはリンクさせるべきだという主張はまったくもって理解に苦しむ。

そして、社会学においては、偉い先生が書いた査読もされない招待論文価値があるとみなされる構造問題があると言っている。当初から査読の有無は問題視されていない、論文クオリティ担保する仕組みについて社会学での在り方が、社会学者内でも文科省でも疑問視されている事を指摘されている。

偉い先生が書いた良い査読なし論文には、そのへんの若手が書いた微妙な出来の査読論文よりも価値がある、という話なので。そしてもちろん近年は査読重視にシフトしている、という話もさんざんなされているわな。同じ社会学でも世代とか環境によって「格」の考え方には差があるわけで、1人の学者放言に基づいて構造を云々してしまうのは到底科学的な態度とはいえない。まして、社会学限定するのではなく、「文系」というより広いくくりでの議論をしようとするならば。要するにきちんとリサーチしろと言っている。ろくに対象について調べずに的外れなこと言ってんじゃねーよバーカ、って言えばわかりやすい?

お気持ち明学問とは違って、理工学は先行研究との間の比較実験をして、実験結果について先行研究との比較を解析的に行う。先行研究との比較には、同様の実験を再度行う場合や、同じシステムを構築しなおす手間を含む。時には、予算時間も考えられない程かかる。

先行研究との比較ねえ。まず文系といっても色々あるので一概に言えないわけだが、たとえば歴史学なら先行研究引用されている史料はチェックするよな。文学なら、まあ文学といっても多種多彩だけど、刊本が容易に手に入る小説の内容についての分析なら手元か図書館に同じ本があるはずなんだから再検証は容易にできる。のでみんなやってるはず。逆に文化人類学なんかはフィールドワークデータ依拠する以上原理的に完全な再現不可能だけれど、そこは天文現象についての研究と同じだと思ってもらえれば。一回性の振る舞いを膨大に集めて理論を構築していくという意味で。社会学も、フィールドワークに基づいたやつなら文化人類学と同様だし、統計に基づいているなら統計に基づいた議論ができるよな。法学は、まあ、条文が目の前にあって、それをどう解釈すべきか、あるいは個別事件がまずあって、そこに条文をどう当てはめるべきか、という議論から再現性とかあんまり関係ないと思う。とまあこんなふうに、分野によって「再検証」のあり方というのは実に多種多様なのね。理系とひとくくりにされてはいても、工学天文学と生物学理論物理学と数学じゃあ「再検証」のあり方は違うっしょ? 理工系スタンダード研究のあり方、ということではまるでないわけで、そうなんですか理工系ではそうなんですね勉強になります、以上のことは言えない。

逆を言えば、文系場合は、査読の有無にかかわらずただ読むだけでいいという事だろう。論文の良しあしに関わらず、ゴミの山に埋もれるのは空しいな。そして競争もない。

ただ読むだけでいいというのが何のことなのかはわからないけれど、普通に競争はある。考古学なら新しい遺物発見されたとか、歴史学なら新史料を見つけたとか、そういうマテリアル新規性もあるし、独創的な理論解釈提唱したという意味での新規性もあるわな。そして同じ事象研究するにしても出来のいい研究と悪い研究とでは当然与えられる評価も異なってくるし、違う事象について研究していても同じディシプリンの中にいる以上出来の良し悪しというのはわかってしまうわけで(だから引用数を重視する文化存在しない。たとえどれだけナチス研究の方がそのへんの小国研究より注目されていようと、出来の悪いナチス研究と良く出来た小国研究なら後者の方に価値があるから)。

2018-10-08

Vtuberってのがよくわからんかったが今回の事で増田とか他の場所でいろんな議論議論?を見ていってて

個人的にはデジタルで徹底的にメイクアップしたアイドルってのが一番近いのかなって思った

ガワの作成キャラ付け意向やおおまかなホンはバックの事務所がつけてるとしても

演者パーソナリティ依拠する部分も結構多い、みたいな

まあ、一挙手一投足を全て後ろにいる監督脚本制御されたキャラと見るか(非ナマモノ

デジタルメイクアップされたアイドルナマモノ)と見るかは議論の分かれるところだと思った

2018-10-05

例のフェミの人たちはキズナアイへの敬意が欠けてたよ

バーチャルYouTuberアニメ漫画キャラとおおきく違う点って、キャラクターのアイデンティティーがかなりの部分で中の人人格依拠してるところだよね。

趣味の話になれば中の人の好きなアニメ漫画話題が嬉々としてでてきたり、日常の話をすれば中の人最近身近でおきた出来事がそのまま話されたり。

そういうの全部、「中の人の話」じゃなくて「キャラクターの話」として受け入れられるんだよね。本来キャラクター設定にはない、想定したイメージにはとても似つかわしくないような話でも、「そういうギャップのある子なんだ」として回収される。

そうやってただ決められた台本を喋るんじゃない、中の人人間性丸出しな内面話がそのアニメ漫画的な外観や設定と混ざり合うことで、生身の人間ともアニメ漫画キャラともまた違う独特の、「キャラがそこに生きてる感」みたいなのを視聴者は感じるんだよね。

キズナアイはそうしたVtuberたちの中では、どちらかというと元々のキャラ設定に忠実なタイプだと思う。

たとえばキズナアイ二次元三次元アイドルが大好きでこれも明らかに中の人趣味なんだけど、そういう話をする時にも「けやき坂大好きだけど現実物体干渉できないか握手会にも行けないし悲しい」とか「見てみたい映画があるけどネット配信サービスにはないから見れなくって困ってる」とか、中の人趣味話題でも設定と矛盾しない形にしてライブ配信フリートーク中でもごく自然な感じで出してくるから、「隙を見せないな」と見てて感心することもある。

他にもそういうAIとしての細かいロールプレイRP)を積み重ねることで、一見するといかにもアニメ的な自称AIキャラクターなんだけど、ただのキャラというには一個の人格としてあまりにも自律性があって、かといって中の人剥き出しかというとそうでもなくて、馬鹿馬鹿しいようだけど、見てるとたまに「キズナアイってもしかしてガチマジで本物のAIなのでは…?」みたいな感じになってくるんだよね。

キズナアイVtuberとしての主な活動YouTube上での動画投稿で、そこで見る彼女の多くは「元気で明るくてアホっぽい自称スーパーAIかわいい女の子」に見えるだろうけど、決してそれだけが彼女の全てじゃないんだよ。

ホリエモンコラボしてホリエモンと絡んだってそれだけの理由批判の嵐にさらされた時に「それでも自分はこの方向性はやめない」と語った、

別のVtuberの子話題に出して、タチの悪いアンチが「そいつと関わるな」とイチャモンつけてきた時に「はっきりイヤだしそんな言い方はその子に失礼だ」とはっきり言い放ってくれたことも、

自分言葉が知らずのうちに誰かを傷つけているのかもしれない」とこぼしたことも、

全部キズナアイなんだよ。

決してただの薄っぺら萌えキャラアイコンでも、ただの相槌しかできない典型的アホの子キャラでもないんだよ。

騒ぎ立てた人たちはどこまでそれを理解していたのかな。もしかしたら「キズナアイ人格」なんて考えようとしたことすらないのかな。

キズナアイネットめっちゃ見てるし今回の出来事もすでに把握しているだろうけど、彼女が深く傷ついていないことを祈るよ。

2018-09-26

最近「わかりやすさが大事だぁ!」とか「どれだけフォロワーいるか大事だぁ!」って喚くバカ多いけどさ

今のメディアが陥っているピットフォールは「読者の共感を得ること」を目的としていることだと思います
「わかるわかる」を共有できる読者や視聴者だけに向けている、でも、そうやって「親しみ」や「なじみ」に依拠してコミュニケーションを構築しようとする限り、そのような表現を受け容れるマーケットはひたすら狭隘ものになるしかありません。
コミュニケーションを基礎づけ、それを広げてゆくのは「敬意」です。「身内の親しみ」ではありません。

ある編集者への手紙 - 内田樹の研究室

ほんとこれな。わかりあいたい笑

2018-09-11

ばすてき権

anond:20180910232722

俺も素人だし、貰ったPDF増田の元記事矯めつ眇めつしてみても、イマイチしっくりこない。状況はかなり錯綜しているようにみえる。ばすてきの著作人格権は誰のものか。

典型的製作委員会タイプアニメの例を参考にすると、

アニメ3DCG著作人格権は、ヤオヨロズに属する」という解釈妥当っぽい。

通常、制作会社勝手に続編を作るなどという事態問題にならないのは、製作委員会がおカネを出さないと作れないからだ。しかし、たつき監督はこの点でイレギュラーだった。やってのけてしまった。著作人格権保有者は好きに続編を作れるので、誰も咎めることはできない。

他方、吉崎観音さんを原作としてみるとアニメ本編、3DCGも、ばすてきもみな二次的著作物だ。

それなら過去判例を参考にする限り、改変をコントロールする権利吉崎観音さんにあるようにみえる。製作委員会サイドの吉崎観音さんが著作人格権保有者なら、彼の許諾無しで、ばすてきを出すことは許されない。

二次的著作物は... (中略)... 原著作物の創作性依拠しないものはあり得ないとみることも可能であることから、両者を区別しないで、いずれも原著作物の創作性依拠しているものとみなすことにしたものと考えるのが合理的である

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/著作


どちらの解釈が正しいのか判らない。ただ人格権行使条項問題の核ではないと思う。

もしも、ばすてきを作ったのが「制作会社以外だったなら」例えば製作委員会以下の別の組織が作ったなら、事前に著作人格権行使条項ーーばすてきを作ってもいいよ契約、これを明記させておくことは必要だ。そうしないと人格権保持者の一存で一方的にばすてきを取り下げさせることができてしまう。しかし実際には制作会社自身が作ってしまったので、

となる。どちらでも問題はない。


ばすてきの法的問題は、著作財産権公衆送信権にあると思う。

ナイーブに考えると、製作委員会との契約で、けものフレンズに関わる全コンテンツ委員会の許諾なしでアップすることは出来ないはずだ。だからたつき監督のばすてきYoutubeアップロード違法だと解釈できる。

ただ、そこに黙示の合意があったなら話は違ってくる。たつき監督の目がキランと光って吉崎さんが冷や汗、というシーンがあったと思う。これを黙示の合意と取ることも可能かもしれない。

または、増田の説の"財産権バージョン"ーーヤオヨロズに対して「本編アニメは」勝手に公開してはダメだよ、などと限定してしまっていたなら、これは合法ということになる。著作契約がここまで込み入っている以上、このようなミスが起こってもおかしくないと俺も思う。専門家を雇うカネをケチったということはないと思うけど、そこまで気が回らないほど人員スケジュールタイトだった、ってのはありそうだ。

うう〜ん、部外者からではやはり多くは判らないので、やっぱり憶測なっちゃうね。ただ増田や別増田のお陰で俺自身著作理解更新したと思う。それはありがとうと言いたい。一応の解釈を持つことができたので、この件に関してはスッキリした気持ちで二期を待てるようになったのも良かった。

ただ、何故たつき監督が二期に乗らなかったか元増田のまとめを読んでもやはり釈然としない。増田が言ったように、著作問題はカネで解決することが可能だ。二期では、ばすてきのようなことはやりません、とか、アップする前に許可取ります、ではどうしてダメだったのか。

2018-09-09

anond:20180909175426

完全に誤りというほどではなくね? 共有著作権についても把握できているしおおむね良いと思う。

誤解があるとすれば二次的著作物自体著作権でどのように保護されるかという点か。

二次的著作物は、その性質上、ある面からみれば、原著作物の創作性依拠しそれを引き継ぐ要素(部分)と、二次的著作物著作者独自創作性のみが発揮されている要素(部分)との双方を常に有するものであることは、当然のことというべきであるにもかかわらず、著作権法が上記のように上記両要素(部分)を区別することな規定しているのは、一つには、上記両者を区別することが現実には困難又は不可能なことが多く、この区別要求することになれば権利関係が著しく不安定にならざるを得ないこと、一つには、二次的著作物である以上、厳格にいえば、それを形成する要素(部分)で原著作物の創作性依拠しないものはあり得ないとみることも可能であることから、両者を区別しないで、いずれも原著作物の創作性依拠しているものとみなすことにしたものと考えるのが合理的である

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/著作物

共有著作権者が二次的著作物の利用に関して契約で許していれば問題ないし、そうでなくとも黙示の合意があったらよい、とも判例には書かれてる。増田の言ってる「3Dモデルの買い取り契約」というのは「著作者人格権の不行使条項」のことだと思うが、共有著作権になっている時点でこれは問題ないとおもう。もし問題ならCDジャケットかばちゃんを描くことさえもできなくなってしまうだろう。いや、それも権利者間での権利割り当ての契約がどうなっているかに依るか。

ところでリンクPDF説明からわかったんだけど、共有著作権者がばすてきに対してできることはせいぜい差し止めだけみたいだ。利益は発生してないわけだし。そうするとやっぱりヤオヨロズが二期で避けたかったのはばすてきのようなもの自由に作れなくなる状況だったのか…

2018-08-18

anond:20180817212702

コミケにおいて」許される範囲だったのかどうかという点で良し悪しを判断する

全然意味が分からない

現実の ∋ 日本の ∋ 東京の ∋ コミケの ∋ 出来事 だろ

コミケ闇市からコミケ村の掟以外には従わない、とはならないだろ

つかコミケ理念に「法令遵守」はあるから

仮にコミケ治外法権だとして、判例が有るわけでもないのに曖昧な慣習不文律依拠しても

レスバ以上のものにはならないし、実行力もないから実際に同人ゴロとか野放し

あるのは精々コミケ自衛本能に訴えるものぐらい、結果参照されるのって日本法律やん

2018-08-03

anond:20180803115450

サービス絵描きさんの作品依拠してるわけで

理由はなんにせよ嫌われちゃったらもうどうしようもないですね

buhitter問題

絵描き連中が叩いて技術屋連中が擁護してる構図になってる

論としては技術屋の言ってる事が全てで

自分理解ではルール問題ないし、無断転載でもない

ただ、コンテンツとして絵描き作品依拠してるから

そこの気持ち損ねちゃうともうどうしようもないね

ルール問題なくても事前に頭を下げて回る精神ウェブサービスにおいても重要なんだなぁ

2018-08-02

anond:20180802035122

欧米のほうがマシだと思うのはキリスト教にせよイスラム教にせよ「こうあるべき」という経典があって、解釈の違いがあるにせよ、依拠するところがあることなんだよなあ。

日本場合の「こうあるべき」は、すべて「ぼくがかんがえたさいきょうの、ふつう」になってしまうこと。

良くも悪くもなのだろうが、依拠するところが合意できてることは強い。

2018-07-13

anond:20180713124227

損得理解してるなら卑怯であっても故意ではあるからいいと思うんだ

問題無意識に醸成されてる価値感を完全にオリジナルだと思い込んでる人

恥ずかしいとかダサいとかそういう感情が他社の視線依拠してる事に気づいてない

2018-06-16

anond:20180616051216

こういう意見見て思うけど自分をどれだけ過信してるんだ?

日本はもうダメだ、世界ダメだ、の「ダメ」って一体何?

まりお前の資産価値観ほとんどすべて日本社会かあるいは友好国の社会依拠してると思うんだが?

それを切り捨てて生きていけるって自信は一体どこから湧くんだ?

2018-06-08

https://togetter.com/li/1234512

これおそらくは有用なんだと思う(ただ出典明記がないとか、いろいろまとめてる人の感覚だけに依拠しすぎの惧れはあるかも)けど

なんかイラッとした。

こういうちっちゃな「イラッ」の理由を考えるようにしたい。

たぶん自分英語コンプレックスをくすぐったんだと思うが、それだけじゃない気もするんだよな

イラッとしてるけど、なんでイラついてるのかわからない、この状況がまたイラツキを加速する

いずれこの二つが同化して、一つのおっきな怒りになるパターン

キチンと切り分けて考えられるようにしておきたい

2018-04-24

野間易通オタク差別全盛期の差別当事者

される側のね。


1.苛烈オタク差別に直面した野間世代

そもそも野間がイキってる写真とか見るとわかる人にはわかる。

あれは不良のセンスではない。

しろオタクセンスに近い。

野間自分より一回り以上上の世代だが、あの世代のオタク独特の臭いが強くする。

エヴァ放映時に30過ぎだった世代エヴァに最も発狂的反応を示してた世代)だ。


あの世代の人達メインストリームから外れることに多大な勇気必要だった。

メインストリームで生きづらい人の大変さが今と比べても強かった。

いま30代後半の自分達は思春期にかろうじてその空気尻尾を感じた。

あれの空気本体思春期に重なったた世代はさぞ苦しかったと思う。


差別に直面し苦闘したオタクたちは色々とヘンテコリン自意識を生み出した。

いまギャグとして消費されてる「イキリオタク」はライト病理から誰にでも笑える(理解出来る)。

20代の小汚いオカマ氏が「要するに未充足、飢餓」とまとめてたが、それは多かれ少なかれ誰にでもあるものだ。


野間世代当時のオタク自意識とそこから生み出されるファッション自己演出は広く笑えるものではなかった。

オタク同士だと辛うじて痛々しさを理解できて笑えるようなものだった。

今よりはるか過酷環境下での切実な防衛のための自意識で、

情報入手手段も乏しく、「大人」になった先輩もまだおらず、

オタクとして見習える穏当なロールモデルがまだない。

みんなオタクとして社会に抗するためのスタイルを手探りで自己開発してたから。


その中の一派として、オタクでありながら不良っぽくイキるオタクが居た。


2.自意識武装するオタク

もう名前出しちゃうと有名どころでは大張正己とかだ。

当時スターアニメーターとしてメディア露出してた大張は袖の無いジーンズなんかを着てバンダナ巻いてた気がする。

「大張アニキ」って書かれてた。

ちょっと欧米パンクイメージも混ざりこんだ、オタク想像する精一杯のタフガイ

申し訳ないけど、当然ながら似合ってなくてすごく痛々しかった。


あとメタル音楽に傾倒するオタク

有名どころでは萩原一至とかだ。

あの世代には変に洋楽好き・メタル好きをアピールするオタクがやたら居た。

黒い服を着て怖いルックス外国人音楽聴くオタク発見した精一杯のタフガイ


みんなぶっちゃけ同じオタク気質の持ち主で、

でも当時馬鹿にされていじめられる対象として知れきってた「オタクであることを肯定できずに

メインストリームじゃないけど得体の知れないもの

メインストリームじゃないけど別の権威のあるもの

で身を固めてた。


バンダナとか指貫きグローブを装備するオタクが本当に居た時代の話。

彼等は普通になれない自分世間説明する為に「タフガイ武装をしてた。

それが見当外れで更に外面を異様にするものであっても。


いま野間説明しようとしたら大張・萩原という名前自然ポンポンと出てきたけど、

調べてみたら見事に同い年や同世代だった。(野間大張が1966年まれ萩原1963年まれ。)

勘で喋ってるけど大きくは外れてないんじゃないかという自信を得た。

野間は明かに大張や萩原のようなあの世代のオタク臭いが濃厚にする。

オタク気質でありながら自分オタクと率直に認められない。

タフガイを装備して自分説明しようとした。


3・サブカルというもう一つの(逃げ)道

オタクでありながら差別のせいでオタク自分を認められない人間

当人なりのタフガイ属性を装備した変なオタクになっていたという話をした。

しかしそういうオタク気質・強い自意識の持ち主の為のもう1つのパスが当時あった。

サブカルだ。

(ここで言うのはテクニカルタームであって、一般的意味サブカルチャーではない。)


サブカルとは何かを説明するのは難しい。

端的には「音楽映画についてマニアックなところ(最初から売れないマイナーなところ)に取り組み、

しかオタクではないことを強く自己規定する人達」とかになる。

この人達に無理があったのは、どうしようもなく存在意義他所依拠していたところだ。

メインカルチャーとは違うんだ、けどオタクとも違うんだ、という所だけで成り立ってた。

から非常にオタク意識オタクに執着してオタク蔑視して攻撃してたのもサブカルだった。

近縁種でありながら自分達ほど自意識が高くないオタクにつきまとって蔑視することで自己肯定感を得ていたから。


結果論から言ってサブカルは滅びオタクは栄えた。

オタクが堂々と自称できる世間になってしまった。


オタク自意識戦場から本格的に去ってしまった後はサブカルは空回りするしかなくなった。

そしてわりと自由創作や消費をし続けていたオタクの影響力経済力に勝てなくなった。

自意識問答にあまりに長い時間を割く人間は結局は敗れ去る種だったのだ。


これは後世の人間による傲慢歴史的結果論だが、

オタク丸出しでオタクをやれてたオタクや、バンダナ程度の武装自己肯定出来てたオタクは、

アニメを捨て馬鹿にされないための映画音楽に走ってカルト度外れ度を競うという

自意識の強さゆえに終始無理してるサブカルより強かった。


4.自意識から卒業できなかった方のオタク

もう結論が見えてきただろうか。

野間オタク差別全盛時代差別の脅威をヒシヒシと感じて育ったオタクで、

メインストリームでは生きられない自分の精一杯の防備を固めるためにサブカルオタク蔑視することで差別される弱者位置から逃れようとする生き方)に走り

サブカルをやってたせいでオタクにもたらされた開放に立ち会えずに

未だに自意識の檻に囚われ続けているオタクだ。


野間差別に強い関心があるのもオタクに強い執着があるのも理由が分かるだろう。

ずっと被差別感を持っていて、オタク蔑視する時にそこから逃れてきたのだ。

典型的差別被害者差別主義者だ。

今更そこは責めない。

まして彼等より安穏な時代を生きる世代断罪していいものと思えない。


ただし野間を長年苛んだ差別は明かに在日差別のようなソリッドでトラッド差別ではない。

80年代の「ネクラ」「ダサい」のようないじめ空気だ。

そのいじめ空気と格闘し続けて中年になったのはそれはそれで面白い人で、

そこを率直に出すことでメディアや論壇に居場所の確保が出来たと思う。


しか野間はまたしても自分肯定できなかった。

そんなことにクヨクヨと悩んできた自分を認められなかったのだ。

またもサブカル特有自意識の強さであり、あっさり被差別者としての言論を確保したオタクとは対照的だ。

サブカルオタクよりも弱い人達だった。

当人の心性も、結果的に追い込まれ立場も。


オタクが開放されて去ってしまサブカルとしての今後に行き詰まりを感じた野間

在日差別反対」という明かに当人が長年取り組んできたミッションとは違うものを掲げてしまった。

そして当人なりの精一杯のタフガイあの世代にとってのそれは不良)として革ジャンを着て釘バットを持ち中指を立てた。


差別反対を標榜すること、やけに暴力性をアピールすること、オタクに強い執着を持って追いすがり繰り返し侮蔑すること、

傍目にはヘンテコちぐはぐな彼の行動が、成分を分析すればいたって自然帰着なのだ


大張や萩原はとっくの昔に武装を脱ぎ捨てて普通のおじさんになった。

野間を追い込み続けるのは自分肯定出来ない弱さとその逃げ道としての自己欺瞞だ。


5.野間という人

プライドが高い野間には許せない。

世間空気いじめられて悩み続けてきた自分を。

あっさりと「いじめられた」と認めて被差別言論を獲得するオタクどもを。


野間は決して頭悪くはない。

抽象的な議論が出来ない方ではない。

なんたってオタクから。悩み続けてきた人だから

定期的にめちゃくちゃな暴論をぶつのはそれがタフガイ仕種から

「乱雑で悩みなんか持たない自分」を世間に表明する必要が定期的に生じる。

それは精神的な発作だと思う。


からおそらく、自分サブカル経歴が見る人から見たら弱点バレバレなのもたぶん自覚してる。

いま野間wikipediaを見たら、なんと前半生がまるまる削除されていた。サブカル時代の経歴の全てが。

45歳時点からまりそれ以前について触れないwikipedia人物記事って地味に異様だ。

もともと野間雑誌編集者とかギタリストとか紹介されてたはず。

学生時代から参加してるバンドサブカル界隈ではそれなりに有名で、

ミュージック・マガジン』なんていう典型的サブカル誌の編集者でもあった。


いったい誰の手の者が人の前半生をこんな風に抹殺したんだろう。

野間否定的な者ではあるまい。

野間肯定的な者でもあるまい。

このサブカル活動文脈理解できて、その裡のみじめな自意識懊悩理解できるオタク教養のある者、

そしてこの経歴にすら強い羞恥心を感じて肯定できなくなった者に違いない。


調べてみると近年の野間は「サブカル」を批判対象へのレッテルとして結構連呼しているらしい。

脱オタクしてサブカル立場オタク侮蔑し、

サブカルして活動家の立場サブカル侮蔑し、

まりいつまでも自分自身を肯定することが出来ない。


6.まとめ

一部にみられたこういうのがあまりにも見当はずれな分析なのでひとこと言いたくなりました。

野間氏は不良ではなくオタクです。

2018-03-17

anond:20180317085155

よく読んで。ゾーニングの話なんて一切してないよ。

「『権利Aを放棄すること』はあなただって嫌でしょう? だから他人にそれを求めてはいけない」という説得論法は、『権利Aを放棄すること』を忌避しない相手には通用しない。ということについての記事だよ。

その種の論法依拠して説得しようとするのは相手によっては効果がないことがありうるし、時に危険でもある。なぜならその論法は「『権利Aを放棄すること』に同意した存在他者の『権利A』を奪って良い」という風に展開可能からだよ。

敢えて言えば、これはエロともBLとも関係ない。説得論理問題だよ。

2018-03-08

anond:20180308002307

あれ?使い方間違ってる?

自分所属集団依拠して発言してる様を表してると思ったんだが

2018-02-17

特定研究者を叩くのはいいけど他の研究者への流れ弾はやめてほしい

当方文系若手研究者

https://anond.hatelabo.jp/20180215032409

英語論文出してない「国際政治学者」って大丈夫か?

それとも日本で言うところの国際政治学ってやつはあくま国内政治の一研究分野なのか?

国際分野なのに英語論文発表してないことが最大の違和感。必ずしも三浦瑠麗を叩きたいわけじゃなくて、日本国際政治学全体のレベルが低い?あるいは政治学者仕事世界に向けた学術研究発表よりも国内政治ご意見番をすることのほうが重要っていう認識業界一般的になってるならそれも受け入れる。

著書「シビリアンの戦争」は博論出版したものって理解でよいか文系博論は分厚くて書くのが大変とは聞く。でもグローバルな表題なのに世界では通用しない研究(少なくとも英語でないので読んでもらえない)って考えると悲しい。


こういうの勘弁してほしい。三浦瑠麗を叩くならどんどんやればいいと思うしやってほしいけど、叩く対象限定してくれ。

文系では和文でも立派な研究業績になる。最近の若手研究者積極的外国語論文書くようになってるし、私だって欧文論文の1本や2本あるけど、仮に査読論文和文しかなくても質が高いものを書いていて博士号もらってれば立派な西洋史研究者英文学者/アメリカ政治研究者etc.だよ。そういう世界なんだ……。

「ちゃんとした雑誌に載せてる論文が3つしかない」っていうのもどうかと思う。業績リスト見たら、まあ新書2冊はおいといて、それなりに専門的っぽい本を分担執筆してるよね。その本を読んでないから何ともいえないけど、雑誌じゃなくて本(アカデミック論文集)の1章として学術論文を発表することはあるし、それはふつう業績としてカウントするよな。繰り返すけど中身は見てない。中身はメチャクチャレベルが低いのかもしれないし、その場合「この程度の論文しか書いてないじゃないか!」っていう批判は正当だと思う。けど共著を業績にカウントせずに「業績が3本しかない!」っていうのはやめてあげて。

私も、さすがに学振PD持ってて日本Ph.D.獲ってるのにこの業績数はショボいだろ……と思うけど、博士号取得に際して論文数の要件がなければ(少なくとも私の出身大学院では存在しない)、とりあえず雑誌投稿とかしないでひたすら博論執筆するっていう研究スタイルもアリだと思うし、一概にそれが駄目とはいえない(単に茨の道ってだけで、制度不可能ではない)。あと一部の国では「博論に既発表論文を大幅に組み込むのは禁止(=博論は書き下ろせ。既発表論文切り貼りは不可)」っていうルールがあったりするから、そういう国に留学してた人は博士課程のあいだに出した論文数がどうしても少なくなっちゃう。

和文で書いてればレベルが低いっていうのは誤解。そりゃレベル低い和文論文もたくさんあるだろうけど、質の高い研究はたくさんある。もう15年以上前のことだけど、日本西洋史研究者研究対象の国のひとたちと論文集を出した時は、日本参加者レベルの高さが評価されたりしてたし(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39022/1/50-013.pdf)、それらは「外国研究者から読んでもらえない」かもしれないけど「レベルが低い」わけじゃない。

何が言いたいかっていうと、三浦瑠麗の言説の酷さは都度指摘すればいいし、彼女研究問題があるなら存分に批判すればいいと思うんだけど、業績リストだけを見て和文しかないとか批判しだすのは他の文系研究者に流れ弾あたってるからやめやがれください。ていうかやめて(自分の業績リストを泣きながら握りしめる)

『シビリアンの戦争』は、彼女博論タイトルそのまんまだから博論書籍化という理解でいいと思う(https://ci.nii.ac.jp/naid/500000550395)。私はどちらも読んでないので違ってたらごめん。博論書いてそれを本として出版するのは、文系研究者としてはよくあること。

せっかく質が高い研究してても読んでもらえないのは悲しいってのはその通りで、日本語文献が読むべき先行研究として通用してる分野は日本東アジアにかかわる研究くらいかアメリカ人でも前近代中国史やってたら日本語読むことを要求されると思う。中東研究する日本人フランス語要求されるみたいな感じで)。これの解決は難しいけど、欧文で和文文献のレビューをするとか、欧文で良い論文書いてその中で和文文献引用しまくるとかして、「日本では面白そうな研究をやってるんだなぁ」と認知してもらうことがまず必要なんじゃないかと思ってるんだけどこれは三浦瑠麗とは関係ないので措いておく。

ていうか、欧米日本学だって英語仏語独語日本についての博論書いてるんだから日本人イギリスフランスドイツに関する研究日本語で発表してもいいよね。日本だけじゃなくて、ある程度歴史と規模のあるアカデミアがある国では、文系博論論文自分らの言葉で書くことは結構あると思うんだ。

あとこれな。

https://twitter.com/chutoislam/status/963834829723729920

https://twitter.com/chutoislam/status/963834833360248832

これも、一般人デイリーメールを端から信用しないのは処世術としてはいいんだろうけど、時にはそういうソース依拠することが必要なこともある研究者もいるんだから、「デイリーメール引用してる」って理由だけで叩くのはやめて、って話だと私は理解した。余計なところに流れ弾を飛ばされると「それは違うでしょ」と三浦瑠麗弁護みたいな立ち位置にならざるを得なくなるというか。私だってこんな記事書いたけど三浦瑠麗学者としての資質は相当疑っている。ただ流れ弾を撒き散らさないでほしいだけなんだ……

追記

vkgofboston 査読の有無は和文英文に関わらず業績として見なす上で肝だと思うが、それに関しての考えを聞きたいね

三浦瑠麗が書いた雑誌のうち、『レヴァイアサン』は知らないけど『年報戦略研究』は査読あるよ→http://jsss.sakura.ne.jp/PDF/jsss-1507-tokokiteiyoko.pdf(当時もあったのかは知らん。『国家学会雑誌』はどうなんだろ。あってもなくても不思議じゃない。でもあそこ連載論文とか載せるからないのかなぁ)。ていうか和文の主要な研究雑誌にもそりゃ査読はあるし、だれも査読重要性は否定してないんですけど……(ただ、査読がなくても良い論文なら業績として扱っていいんじゃない、とは思う。査読つきの良い業績を積み上げてる人が一番評価されるべきなのは当然として、いちおう査読はされてるけどクソつまら研究と、査読されてないけど面白い研究だったら、一概に前者の方が業績として立派とはいえないんじゃない? 当たり前だけど公募では業績を提出させるわけで。まあわたし査読無しの媒体にはあまり書きたくないけどね)。

2018-01-29

 当方おっさん。つーか初老。外見がおもしろい。どれくらいおもしろいかというと、鏡を見た瞬間に「ああ、これは俺に好意を抱く女性はいないですね」と、怒るでもなく絶望するでもなく、ふつうに納得するレベル。そんな人間でもなんかのまちがいで結婚できたので、人間どうなるかはだれにもわからん。ただそれは結果としてそうなったというだけであって、女性と縁のなかった年月のほうがはるかに長い。

 子供のころから自分男性であるということに強い違和感があった。といっても女子小学生になりたいとかそういうことではなくて、というか本当は女子になりたかったのだが、なりたすぎて「現実的女性になるにはどうしたらいいのか」というようなことを考えていた。その結果、顔面おもしろいので女性になるのは諦めた。というのが小学生のころの話である

 そこで、女性になれないのであれば、男性として生きるしかなくなったわけだが、なら、なぜ男性であることがここまでいやなのかと考えた。そもそも性別ってなんだ。ちんこついてるから男なのか。ちんこときで俺を男扱いするのはやめてもらおうか。などと考えていて気づいた。なるほど、俺は「男性として扱われる」ことそのものがいやであったらしい。

 俺が子供のころはまだまだ「男は男らしく」という価値観が相当に支配的な時代だった。「男のくせに」「女のくせに」とかがわりと平然とまかりとおった時代である。つまりはいろんな人たちが押し付けてくる「男性」が気に入らなかったのだ。そう気づいたのは、高校くらいになってフェミニズム関連の書籍を読んでからである。どうやら俺が気に入らなかった「これ」はジェンダーと呼ばれるものであるらしい。いやだったのは自分ちんこがついていることではなかった。フェミニズム思想は、俺を救った。

 しかちんこついていても排尿くらいにしか使いみちがない。なぜなら俺はもてないかである。この「もてない」というのは子供のころからわりと決定的な条件だった。しかしここで「俺を愛さない女が悪い」とかはまちがっても思えないのである。なぜなら、鏡を見るとそこにおもしろい顔があるから。だれよりも最初自分が納得しているのである。なるほど、この顔面はいかん。これはどうにもならねえ。

 でまあ、最初から女性となんらかの関係を持つのは諦めていた。諦めたというか、恋愛とかそういうのは魔法やら超能力と同じようなものだと思うようになった。不思議もので、こうなると恋愛異世界ファンタジーである。「俺はそこには行けないが、ここではないどこかには、美しい世界があるに違いない」などと思いはじめる。実際、クリスマスの町中を歩くのが好きだった。俺には関係ない世界だが、だれかは幸せであるに違いない。そうしたものが町にあふれているのは決して悪いことではないじゃないか

 とはいえ、性欲はあるのである。幸いなことにこの世にはポルノというものがあった。まじちんこ助かる。しか現実女性というものをあまりに俺とは無関係ものである判断した結果、二次以外では反応しない体質とちんこになった。そもそも女性性的関係もつ可能性を想定していないのである。ならば、その肉体は男性と同じである。俺にとって男性女性もひとしく「人間」でしかない。青年誌とかのグラビアを見てもなにも感じない。そのころのグラビア記憶として残っているのは、小倉優子が表紙のヤングアニマルかなにかを見たときに「これはすごい。胴が長い」と驚いたことくらいである。

 こうした価値観は、俺の内部に相当の歪みとか恨みみたいのを蓄積させているらしい。個人としてはわりとさまざまな不都合があった。ただまあ、これは結婚できたからこそ言えるのかもしれないが、にもかかわらず、よかったと思っていることもある。

 それは、仕事やらなんやらで出会人間について男と女区別することが絶無であることだ。本当に男女の違いは心の底からどうでもいいのである。具体的には、ある特徴があったとして、それを「性別」という場所に落ち着かせることがない。というかその発想が出てこない。すべて単なる個性である。仮に巨乳だとして「なんか胸のあたりが大きい人間」でしかない。それは俺にとって二の腕ものすごい太い男性と似たような意味しか持たない。結婚してからは、女体を性的目線でみることの意味合いが多少は理解できてきたのだが、しょせん後天的学習の成果である。油断しているとすぐに忘れる。

 もちろんこうした価値観は、どう隠したってかならず漏れる(隠そうとする知恵くらいはついた)。おもしろいのは、このスタンスで生きていると、一定数の女性から蛇蝎のごとく嫌われることだ。理由は単純で、その人が依拠しているものを完全に否定してしまっているからだと思う。俺にとって救いのは、世代が下になるにつれ、このようなやりかたで俺を嫌う人間が減ってきていることである。まあこっちがおっさんになったという観察者問題もあるかもしれない。

 フェミ関連で荒れるようなもんがホッテントリに上がってくるたびに、俺は自分がそれに救われた経験から「違う。フェミニズムってのはそういうものじゃないんだ」と叫びたいような気分になる。男とか女とかそういうの別にいい。ちんこまんこ代表されるものはそれが必要とされる場面以外では出さなくていい。まず人間だ。みんな人間だ。みんなメシ食ってうんこする。その程度のものだ。俺はアゼルバイジャン人間よりもカレーを嫌いな人間のほうが理解できない。しかしだからといってカレーを嫌いな人間をそれだけで嫌ったりはしない。なぜうんこの話のあとにカレー話題を持ち出した。さっきカレー食ったからだ。よけいタチが悪い。

 おもしろ顔面は、俺にもてないという運命を与えた。もちろん外見だけが人間を決定するわけではない。そんなことはいやってほど理解してる。それでも「顔がダメ=もてない」という図式をかつて俺は完全に受け入れた。いまにして思えば、俺があれほど自分性別違和感を持ったのは「自分ではどうしようもない身体的な条件に対して、なにか義務を与える」というこの性別というもの構造のものに対する抗議だったのかもしれない。

 具体的な抗議行動として、今期は斉藤さんになって志摩リンのことを「かわいいなあ」「ほんとにかわいいなあ」「ずっとこのままでいてほしいなあ」などと思いつつ、たまにその感情閾値を越えて友情のふりして抱きしめるという暴挙に出たい。あとあんまり関係ないけど、俺のことをキモいとか言った女子よりも、もてないことを理由嘲笑した男たちのほうが許せない。いまでも許す気ない。

2018-01-13

EUモロッコ間で締結の漁業協定は……

EUモロッコは、1996年に提携合意を、2006年に漁業クタにおける協力合意(以下「漁業協定」という)を、そして2012年に農産物・加工農産物及び水産物・加工水産物に関する自由化協定を締結した。2016年12月21日に当司法裁判所は、欧州委員会に対しポリサリオ戦線が提起した訴訟における判決への控訴において、EUモロッコ間で締結された提携合意協定西サハラには適用されていないと判断した。しかし、この事件は同漁業協定に関するものではなく、それゆえ当裁判所判決において、その協定については何ら有効性の判断を行わなかった。

UKにおいて、西サハラキャンペーン(WSC)は、西サハラの人々の権利認定サポート目的とする独立ボランティア組織である。WSCは、高等法院(英国及びウェールズ)の女王座部(行政裁判所)にて、EUモロッコ間で締結した漁業協定と、同協定を首肯し施行する規則類は、同協定規則類が西サハラ地域水域適用される限りにおいて無効であると訴えている。WSCはそれゆえ、UK当局が同協定を履行すること、とりわけ西サハラ産品をモロッコ王国の産品と認めて特恵関税待遇を与えることを違法行為だとみなしている。さらに、WSCはUK当局西サハラ近海漁業ライセンスを発行する権限を有していることについても争っている(同協定で、EU漁船特定の条件の下でモロッコの漁場内で漁獲してよいと定めているため)。

高等法院は当裁判所に対し、まず、西サハラキャンペーンEU規則類の有効性について国際法を遵守していないとして争うことができるか、次に、EU法のもとで同漁業協定有効なのか、について確認を求めている。EUが締結した国際協定とその施行規則類の有効性の審査のための仮決定的手続のもとで請求が行われているのは、これが初めてである

 今日、メルキオール・ウォスレ法務官は、彼の見解のなかで、当裁判所は「EUが締結した国際合意適法性査定する裁判管轄を有しており、WSCのような団体は同漁業協定適法性を争うことができ、そして、同漁業協定西サハラ地域水域適用対象とするために無効である」と回答すべきである旨を主張している。EUが締結した国際合意適法審査する枠組みのなかで、国際法上のルール準拠することが自然人法人に開かれているかについて当法務官は、そのルールが無前提かつ充分明確であり、その性格と主要なロジック申し立てられた法の適法審査を妨げていないのであれば、EUが拘束されている国際法上のルール依拠して法的な手続きを行うことが可能でなければならない……と、みなしている。

 当法務官は、WSCの依拠する以下の国際法上の3規範に関して、こうした条件を満たしていると考えている。それは:(1)自己決定権、(2)天然資源にかかる永久主権原則~それが西サハラ人民利益のために当該資源の利用を要すかぎりにおいて~、そして(3)占領地域天然資源の利用にかかる国際合意の締結に適用される国際人道法のルールである。当法務官は、これらの規範EU締結国際合意適法審査の枠組みのなかにあり、これらに依拠することは可能である……と結論している。

 そして当法務官は、同漁業協定とこれを首肯し施行する規則類が、これらの3規範に適合しているか審査している。

 まず当法務官は、西サハラの人々が国連総会の設けた条件で自己決定権行使することすら、かくも永くの間、機会を奪われている……と、述べている。西サハラ併合によってモロッコ王国統合されたが、この地域の人々が自由意思表示をしたことによるものではなかった。モロッコ領土への西サハラ一方的統合と、当該地域にかかるモロッコ統治権主張を根拠として、モロッコが同漁業協定を締結して以来、西サハラの人々はその天然資源自由処分していない。それが、自己決定権によって求められているにもかかわらずである。したがって、申立ての規則類によって定められ行われる西サハラ近海でのEUによる漁獲は、西サハラ人民自己決定権尊重するものではない。

 モロッコによる西サハラ統治権の主張は西サハラ人民自己決定権を損なったことによるものであるから西サハラ人民自己決定権モロッコによる侵害の結果である違法な状況を是認せずその維持に援助を与えないようにする義務を、EUは怠っていた……と結論する。この理由のため、西サハラ地域とその近海への適用に限って、同漁業協定とそれを首肯し施行する規則類は、欧州連合に対し外事につき人権保護国際法を厳格に遵守しなければならないと要求する欧州連合条約の定めに適合していない。

 当法務官は、西サハラにおけるモロッコデファクト施政勢力もしくは占領勢力としての地位は、同漁業協定の締結を正当化できないと考えている。第一に、「デファクト施政勢力」の考え方は国際法存在していない。第二に、モロッコ西サハラ占領勢力であるが、同漁業協定の締結のされ方が、占領地域適用される国際合意占領勢力による締結に適用される国際人道法のルールに適合していない。

 次に同法務官は、同漁業協定により提供された漁獲のほとんどが西サハラ近海限定的関係している(これらの海域で得られた漁獲は、同漁業協定で定められた漁業文脈で行われた総漁獲量の91.5%付近にのぼる)と認定する。同漁業協定に従ってモロッコ王国へ支払われた財政的貢献は、ほとんど西サハラ人民利益のためだけに使うべき…ということになる。当法務官の見解では、同漁業協定西サハラ人民利益のための漁獲となるために必要な法的セーフガードを含んでいない。この意味において、天然資源に係る永久主権原則占領地域天然資源の利用にかかる国際合意の締結に適用される国際人道法のルール、そして最後に、これらの原則ルール違反した結果である違法状態是認せずその維持のために援助を与えないEU義務を、同漁業協定及び他の申立ての規則類は遵守していない。

 これらの理由全てにより当法務官は、同漁業協定無効である結論する。

2018-01-12

チョコワッフルを頬張る妻を見て、涙が止まらなくなった。

ある日、ボロボロだった転職面接の帰り道に、妻への手土産を買った。

マネケンチョコレートワッフル、妻の好物だ。

家に帰り、「面接大変だったね」と声をかけてくれる妻に

チョコレートワッフルを渡し、

妻は受け取ってすぐ嬉しそうに食べてくれた。

その姿を見て涙が止まらなくなった。

喜んでくれて嬉しかったのもあるが、

「150円くらいのチョコワッフルで喜んでもらっている」

という事実にいたたまれなくなったのだ。

私たち共働きで、妻は私よりは遥かに高給取りだ。

旅行好きでロマンチストなので、

常々ヨーロッパ旅行に行きたいと言っている。

チョコワッフルは確かに美味しいけれども、

私は本当は妻をベルギーに連れて行ってあげたい。

ベルギーで本場のワッフル経験してもらったうえで、

マネケンワッフルも美味しい」と喜んでほしい。

私の低給が足を引っ張っていなければ、

妻はベルギーに行く余裕があるんじゃないだろうか。

妻にいろんな夢を我慢させているのではないだろうか。

きっと私は今幸せだ。

クソみたいではあるが定職があり、

会えば飲みにいける友人もおり、

妻もいて、もうすぐ子供生まれる。

私の会社は小さく、社長毎日威張り怒鳴り散らしてるし、

死ぬほどつまらない飲み会を頻繁に開催しては、

終電まで、ときには終電後も付き合わされる。

仕事では入社前に約束していたと任されているポジションも違うし、

給料は異常に安いし、残業代ボーナス代どころか交通費も出ないし退職金もない。

待遇についての面談を打診しても「忙しいから」といい理由で受け入れてもらえないどころか

年末契約更改すら「時間いから」と行われなかった。

会社他の人はいい人だ。いい人過ぎてその会社に残っているんだろう。

離職率90%超えの職場に残ってるのはそんな人たちばっかりだ。

幸い、妻は私よりは遥かに高給取りだが、

子供も生まれるし、このままの私の給与環境では生きていけない。

転職を始めてみれば「あなた市場価値はない」と言われ、

専門知識が優れてるわけでもないし、経験が多いわけでもないし、特別資格もない私だから当然だ。

年齢も30を超え、かと言って責任ある仕事をしてきたわけでもなく、何も売りはない。

妻には「優しくて面白い」と言ってもらえるが、それに転職市場での価値はない。

このまま私は妻をベルギーに連れて行ってあげられないんじゃないだろうか。

マネケンワッフルで満足させてしまっているんじゃないか

妻は満足していないのかもしれないが、それを微塵も表には出さず、

相変わらず「おいしい」といってワッフルを頬張る。

そんな妻を見て、

死にたい

とは思わないが

「人ではない何か概念として生きていきたい」

と考えながら、涙が止まらなくなったのだった。

追記

たくさんの反応ありがとうございます

泣きながら書きなぐったので誤字脱字がたくさんあると思いますが、

とりあえず高級→高給に直しました。

> なんか、奥さんと自分を比べてちょっと卑屈になってない?

> ベルギーで食べる非日常幸せと、旦那が買ってきてくれる日常幸せは全く別のものだよ

> 奥さんが作ってくれたカレーを食べて、ああ…本場のインドカレーの美味しさを知りたい…なんて思ったことないでしょ??

> 男って自分価値仕事依拠してしまうから弱いのだよな。逆に言えば仕事さえしてれば何も考えなくて済む性格とも言える。

> 足を引っ張っているのは低給ではなくて、増田プライド

この辺のコメントがとても刺さっております

ホントそう。私のプライドだけの問題なんじゃないかって、今日は思える。

前にも同じように精神をすり減らして無職になった時期もあり、

それを支えてくれたのも妻でした。

そんな素晴らしい妻に感謝を形に表したいのです。

精神がすり減ってはいるけど、それを支えてもらい続けるのは本末転倒

伸び伸びできる仕事を探すか、思い切って専業主婦という形で夫婦人生に貢献したいです。

もちろん妻と話し合って決めることだけどね。

これからも妻が喜んでくれるならチョコワッフルを買い続けます

マネケン美味しいよね。

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