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はてなキーワード: 依拠とは

2020-05-18

昭和時代の法は素晴らしかったんだよ

   全国のみんなが裁判所の書いた判例を読んでいた、依拠して生活していた時期もあった

   新聞社裁判所が共同し、散々知恵をひねって文章を書いていた

     社会形成するのに、法を使った  お祭り状態で、みんなが怪しまずについてきた

    少しでも組織に変なところがあるのは嫌だから絶対にやる人がいて、みんながその人(1級刑務官警察署長など)を信頼し、その人しか見ていなかった

    昭和50年代裁判所では、上級判事になることに意味があり、判事補はバカにされていた 当時の判例はあまりにも内容がありすぎて現在では背景散逸

    理解できないとか

      もちろん、昭和のすべての判例肯定するわけでもないし、中には臭いもの、すえた臭いのするもの、怪しいものも大量にあるが、概ねよい時代だった

  そのように、昭和天皇の真心のこもった、偽物ではない昭和法に対して

     平成の法は癌だ

        お前のような中途半端言動の怪しい偽物には、一億人生活に用いていた昭和法は分かるまい

     昔は、流行った、人気があった、仕事に使っていた、芸術があった、など、素晴らしかったんだよ

   お前のような偽物世代は何も思い出すことができまい、昔の素晴らしさを

2020-05-12

anond:20200512095605

人権、とかい根拠依拠するならそうだと思うね。

じゃなくてもっと広範な善に基づかないと元増田のような話はできないし、善に基づく語りには困難が生じる。

2020-05-10

政府を信じられる、とは思わないものの、大衆的言説を信じられる、とも思わない。

複雑で込み入ったもの理解を拒み、表層で判断する人、

というのは2-3000年の昔から大勢いるんだろうが、

自分対象について見定めるのではなく、

周囲の人の判断依拠するスタンス

「今回ばかりは、xxさんも言ってるし、これこそ大問題に違いない!!」という思考様式は、

言論に根っこから向いていない。

愚民、などと言い捨てるほどに自分が愚かでないとも思っていない。

正確に言えば、自分を愚かだと感じるし、上記の人々を愚かだと感じる。

からないことだらけなんだ、という前提で、でも自分で決めるしかいね

というリヴァイ兵長のようなスタンス、そうありたいものだ。

「xxはxxxです!!!」という言い切り、

例えば

政府陰謀を画策しているんです!!!」とか

日本対策が遅れているので2週間後には死者で溢れ地獄となります!!!」とか

兵長なら言うだろうか。

判断に足るほどの情報収集分析するのは、多くの人(立場)にとって困難なことだ。

その手前で言い切ってしまう様子は、距離と角度次第で、誰の目からも滑稽なはずなのだが。

だが自分もついやっている。あの人もやっている。気付くのはいつも後になってから

愚かだよな、私は。あなたたちは。

念頭にあるのは、検察コロナ、はもちろんだが、原発大本営ナチズム、、、、as always

2020-05-01

anond:20200501171548

面白いと思った。

個人的なことは政治的なこと(The personal is political)っていうスローガン60年代の初期フェミニズム文脈において、個人的なことが政治的にあつかわれて"なかった"時に有効だった。

社会科学(とそれと相互依拠しているリベラル思想)は、そういう情勢に反発して、それまでパーソナルだと思われてきた事実がどれほどポリティカルかを語り、論証してきた。あたりまえだけど、社会っていうのはパーソナルな人たちによって構成されているので、パーソナルな事実ポリティカル構造関係していると示すのは、難しくなかったはず。今では古典の一部になった社会科学理論によって、パーソナルなことはまさにポリティカルであることが今では自明とされている。

 

いや、そこで、お前の疑問というか、痛みね。

個人的なことが政治的なことになったら、個人はそりゃ幸福から遠ざかるわな。

そういう視点は、確かにリベラル思想には欠けていると思う。今でもそうだ。

 

リベラリズムは、個人幸せを得ようとしていたのに、かえってフーコーの言うところの生権力による支配を、むしろ強力に推し進めてきたのだと言える。

そういう状態に対するバックラッシュっていうのは、これまで無かった訳じゃあないけれども(携帯をわざと持たないことが一部でもてはやされるなど)、今後もっと広く強力になっていくのかもしれないな。だって辛さのほうが強力になっているもの増田ですら、頻繁に、リベラリズムがむしろ人の自由を縛ってくる、それがうざい、ということが言われている。世界全体で見たときにも、リベラリズムの今の衰退についても、原因の一端ぐらいにはなっているのかも。

2020-04-21

anond:20200421130648

まあマルクス主義依拠してるところはあるんやろ

現実的にはリベラル的な政策選択してるということよ

2020-04-19

老人をコロナで死なせないために現役世代犠牲にするのは正しいのか

この病気、現役世代(50代以下)は大して死なないようだね(依拠した数字は※)

死にやすい老人のために、外出自粛・営業自粛大不況起こして、死ににくい現役世代犠牲にするのはどこまで許されるのだろうか。

あくま経済よりも人命という立場を取るとして(そして倒産失業でも人は死ぬという論点無視したとしても)、コロナ入院している老人がICU占拠しているせいで、交通事故に遭った30代の一家大黒柱20代妊婦を死なせてしま悲劇はそろそろ起きてるんじゃないかな。

そう言えば少し前に1000ぐらいブクマ集めてた出産母子ともに亡くした人も、コロナのせいで妻が大病院にすぐに搬送されなかったのではないか、という「疑念」を書いてたっけ。

(※)

新型コロナウイルス国内感染の状況

https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

死者のうち50代以下の割合は7%

50代以下の感染者のうち死者の割合は0.15%

シリコンバレー、実際のコロナ感染者数は公式発表の50倍超 研究

https://www.afpbb.com/articles/-/3279177

もし無症状で発見されていない感染者が50倍いるならば、50代以下が感染して死ぬ確率は僅か0.003%

2020-04-09

西浦とかいハゲの言ってることもめちゃくちゃな件

8割減ってのも2週間ってのも西浦のシミュレーション依拠してるわけだけど、西浦自身もいきなり8割減は無理と言ってるし、段階的に接触4割減、6割減とやって最終的に8割減にしたいというようなことだと解説してた

それはその通りだけど、それを強く言わないから結局8割減と2週間という話が一人歩きしてしまってるのが現状

段階的にやるならその期間も含めて数字を出すべき(各2週間で見るなら8週間かかるはず)だし、実際6週間まで8割減まで行けるのかも分からない

仮に行けたとしても、今から8割減にすれば治まる想定が、6週間やそれ以上先になってからだとしても感染爆発に至らずに済むのか?とかしっかりと説明すべき(政府にさせるよう促すべき)だと思う

やはりハゲにまともなやつはいないのだろうか

テレワーク2日目

昨日は午後3時くらいまで職場にいたので、テレワーク初日と言っても必要な物品の自宅への移動作業が中心だったが、GitHubへのアウトサイドコラボレーターの招待についても着手した。

エクセルでの作業

が多かったけど、エクセルプレイテキストベースじゃないということで他のアプリでの作業統一しようかと思った。まあそれでも職場しか接続できないNAS依拠しなくても済むというメリットはある。メールの添付書類ベースとか・・考えただけでも・・気が狂いそう.

WinMergeなら...

エクセルでも差分が取れるということで部分的にはエクセルも取り入れていこうかと( ^ω^)・・・速やかにリモートリポジトリコンテンツを充実させないと共同作業へったくれもないということで、エクセルなどで作ったものpushすることにしよう!柔軟さも時には大切ということで。とにかく形にしていこう。このように自分に言い聞かせる朝であった。

2020-03-31

anond:20200331142653

SF世界観、というのがその通りで、そういう楽しさのことを、一般的センスオブワンダーって呼んでいると思う。

別に科学依拠していない世界でもセンスオブワンダーはあるってこと。

ハリーポッターとか冒険してないときは割とそっち寄りだよね。チョコレートカエルが動くシーン楽しすぎでしょ。新作の動物学者のやつはほぼずっとそれ。

 

ただまあ、SFでもそうだけど、センスオブワンダーに依拠した作品を書くってのは作者の手間のほうが大変なんだよな。なかなかないのも無理もない。

でも同時に、手間を乗り越えた描写が一回されたらその描写ジャンル全体に広まる傾向もあってさ。宇宙人が必ずしもヒト型ではないとか、今のSFだと普通じゃん。似た感じで、取っ手のないフライパンアイデア、どっかで名作ファンタジー採用したらそのまま一般化すると思うよ。

2020-03-30

anond:20200330130556

一番大きいのは「日本金持ち」のリッチさはたかがしれている、ってこと。

世界一寄付をしているのはたぶんビルゲイツだけど、彼は長いこと世界一金持ちでもあったよね。(今はベソスに抜かれたけど)

 

もう一つは、「日本リベラル」は基本的貧乏だってこと。

いまの老人世代の中でも学生運動に傾倒してたような奴らが、金持ちのわけないじゃん。

日本金持ちは、例えばホリエモンとかは、宇宙ロケット事業に金をぶん投げたりしてるわけだ。社会を良くしようと思ったとき依拠する思想全然違う。

2020-03-15

新型インフル対策特措法改正案に反対した山尾しおり氏をなぜ批判

立憲主義」とは”政府統治憲法に基づき行う原理で、政府権威合法性が憲法制限下に置かれていることに依拠するという考え方。”(wikipediaとある

では、今回の新型インフルエンザ対策特措法は立憲主義に即しているだろうか?

答えは、否である

山尾志桜里氏は、Twitterでこのように指摘している。

『報告さえすれば、宣言も延長もし放題。宣言や期間や措置根拠を正すための市民イベントも開催禁止できる。外出自要請も、保育園老人ホーム使用禁止も指示できる。

これが、国会承認までは不要国会報告で足りる「抑制的な私権制限」なんですか?私はそう思わない。』

https://twitter.com/ShioriYamao/status/1236832421967888384

しかもこの特措法の発動要件は「新型インフルエンザ等の感染が拡大していると疑うに足りる正当な理由」という極めて解釈余地が広いものです。

パンデミック抑止のため初動の柔軟性を重視してこの要件を維持するなら、入り口が広い分だけ民主的統制や期間制限が強く要請されるはず。』

https://twitter.com/ShioriYamao/status/1236832502951510016

また、山尾氏は私案の骨子として、

① 緊急事態措置を行う期間(現行法は2年)と延長の上限(同1年)を6か月する。

② 緊急事態宣言する前に、国会承認必要とする。

③ 延長する場合国会承認必要とする。

④ 実施区域の変更も速やかに国会承認必要とする。

⑤ ④に関して国会不承認議決があった場合、効力を失う。

⑥ 実施状況を国会に報告する義務

を出している。

https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235845649779707906

まりは、政府の行動を監視し、チェックできる機能を強化する方向性だ。

これは、立憲主義的と言える。

山尾氏は問題点をこう指摘する。

『「危機管理法制法律で十分。憲法緊急事態条項は不要野党の多くはそう主張してきた。

その法律国会統制や説明責任ゆるゆるだったら、説得力なくすでしょう。

昨日枝野代表は、安倍総理に対し国会質疑の確保などを求めたけれど、言質をとるだけじゃ足りないから「法」がある。』

https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235449170598617089

『ましてや強力な私権制限を伴う法案事実上の歯止めでは全く不十分。

民主党政権法律だって言われたら、だからこそ足りなかった部分が分かると返せばよい。すぐさま具体的な改善策を提示すればよい。そんなに複雑な作業じゃない。

時間切れの妥協を待つより、私は法案つくります。』

https://twitter.com/ShioriYamao/status/1235449306477285378

また、3月11日には「総理民放放送内容変更・差し替え可能。」という政府側の答弁が出てきた(3月13日撤回)。もはや異常である

解釈次第でテレビ局放送内容を指示できてしまうようなものを、出来ないよう明記して防ぐべきではないか政府解釈わずか二日でまるっきり変わってしまうような状況。であればこそ、法律内で明文化することが大事であり、それが出来ていない法律は許さない、というのが立憲主義的ではないだろうか。

必要なのは権力側が”やろうと思えばできてしまう”ものを、明確に禁止出来るようにすることなのだと思う。そのことを山尾しおりさんはずっと訴え続けてきた。枝野代表ツイッターにも間違いがあると指摘し続けてきた。

また、異常だと思うのは、異論を言うのを認めない空気だ。ある野党支持者は山尾氏の行動が「野党バラバラな印象を与える」などと言っていた。ならば、野党議員は党執行部のゆうことを聞くロボットほうが良いのだろうか?おかしいことを自分政党がやっているのに、何も言わないことが正しいというのだろうか。問題点の指摘、さらには改正案の私案まで出し、発言を続けてきた人に対して、口を塞ごうとするのは、同調圧力しかない。

今回の場合、山尾氏の主張自体に反対する意見は少ない。であれば、どうしてこれほどにまで拙速に審議と成立を目指す必要があるのか?政府与党の出した法案に対して、審議を通じて、良くない点を指摘し、改善し、出来る限りの努力を行うことが野党議員責任ではないだろうか。安倍首相も「今すぐ緊急事態を出す状況ではない」と発言している。審議を伸ばす時間はあったはずだ。

成立した改正法には、付帯決議がつけられたが、付帯決議があったとしても、それは努力義務以上の何の意味も持たない。立憲主義に鑑みれば、明文化して権力を縛るもの法案のものに書き込むべきではないだろうか。それが出来ないのなら、反対の意思を示すべきだ。

将来、時の政権解釈を変更し「テレビ局に指示できる」としたらどうするのか。その時「当時の野党法案に賛成したじゃないか」と言われれば、何も反論できない。法案に反対をすることは、”おかしなことがある”という意思を示すことになる。賛成をすることは、その意思を示すことを放棄している。立憲主義に反する法案に反対せず、事実上白紙委任に等しい賛成を行うことは、立憲主義を捨てたに等しい。

そんな野党は、”立憲野党”とは言えないし、政府与党の出す法案白紙委任をする野党は、存在価値のない、それこそ「いても仕方がない」存在しかない。

山尾氏を批判する、立憲支持者たちにとっては、立憲主義などどうでもいいのだろうか。立憲主義は、”立憲野党”にとって絶対に譲ってはならないものだし、”一度妥協したら死んだも同然”ではないだろうか。

特措法の問題点を指摘し続けた山尾しおりさんや、反対の意志を貫いた議員の方々に敬意を表したい。

2020-03-04

anond:20200304123832

ざっと読んだ感じ、事実についてはある程度ソース依拠していると思うが、意見については100%そうではないのかな、と感じた

増田趣旨に沿うと、専門家会議に出席している専門家以外の意見は信用できないということなので、やはりおかしいかなと思う

別に言っていることについてはどうこういうつもりはないので、当該部分が余計だったと思う次第

2020-02-26

みんな法律ってどこで学んだの?

恥ずかしながら、一般法特別法関係を、今回の検事長定年の騒動で初めて知った。

ぶっちゃけ最初はなんでみんながそんなに騒いでんのかいまいちピンとこなかった。

ブクマにあがってるサイトとか呼んで、法律にも使い方みたいなものがあることが分かった。(この書きぶりからかると思うけど、今でもちゃん理解してるとは言いがたい)

先日たまたま法学部出身の同期と会うことになってたから、そいつに聞いたらいろいろ教えてくれた。

・いわゆる六法憲法行政法)、民法刑法商法会社法)、民事訴訟法刑事訴訟法で、基本となるのもこの六法

法律包括的言葉で書かれているから、解釈余地があって、これは学者論文とか裁判によって確立されていく。(法学部は主にこの解釈にどういうものがあるのかをひたすら勉強するところ)

憲法行政法は、行政府すなわち国家権力を縛る法律。(だから権力者憲法を変えたがる)

民法は大まかに言えば「こういう人にはこういう権利がありますよ」ということが定めらている法律私的自治という考え方が根本あって、これに依拠して解釈する。他にも、権利外観法理とか信義則かいう考え方があって、解釈が分かれたりするのはこういう元の考え方の違いによる。

刑法は「こういうことをすると、こういう刑罰に処しますよ」ということが定められている法律本来自由なはずの人間に刑を与えるものから法律に書いてないことで人を罰してはいけない(罪刑法定主義という考え方)。だから刑法の法が民法より体系立っていて厳格。何が犯罪にあたるか、それをその人の責任にしてよいか、というフェーズがある。あと、考え方については、犯罪行為と結果のどちらを重視するかで大きな派閥争いがあるらしい(?)。

裁判には民事刑事しかない。法律には実体法と手続法があって、法律のもの正義にかなうものでなければならないけど、そのプロセスである裁判正義にかなうものでなくてはいけないよね、という考えによる。民法民事訴訟法刑法刑事訴訟法

民事訴訟法にも私的自治という民法から続く考え方があって、でも同時に裁判を遅らせいないようにするべきとか、あるていどは専門家である裁判官に任せるべきとかの考え方もあって、その兼ね合いになる。刑事訴訟法警察捜査フェーズと、裁判フェーズがあって、捜査は結局どこまで国家権力強制的国民権利制限できるかという問題になる。裁判証拠のこととか、身柄をいつまで拘束してよいか、とか。

・その他いろいろ。

なんとなく知っているつもりだったものにもちゃん理屈がついてたりしておもしろかった。

こういう法律の考え方とか概要ってみんなどこで知るんだろうか。

義務教育法律っていう授業あってもいいのにな。

法治国家で生きてんのに法律よく知らないのって、ルールを知らずにゲーム参加してるような感じなのかも。

同期に法律入門書いくつか教えてもらったから、とりあえずそれを読むつもりだけど。

2020-02-22

anond:20200222162003

どういう立ち位置って「トランス女性って言う立ち位置からなんだけど…

千田論考の言葉を使うならそもそも「なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである女性』に、『トランス女性』を包摂するかどうかが問われなければならないのか」って話。

で、ゆなが指摘しているのは「そうやって男女で分けるのは古いって話をしながら、シス女性トランス女性の二分法についてはシス女性理解を示した形でしか語らないんですね」ってところ。

2020-01-06

anond:20200105161955

別に反出生主義は個人的な願望と全く無関係擁護し得るけど、それこそ倫理学規範としても、哲学的に真っ当な議論としても。だから個人的な願望どうこうというほうがむしろ関係いね

君がこれを「(反出生主義は擁護者の個人的な願望に依拠しているから)倫理規範とは関係ない」と勘違いするのは勝手だが、その誤った認識他者押し付けるのは無益だよ。

2020-01-05

子供を作るかどうか

出生に関しては社会的な都合と個人的な都合の相違が問題だと思う。社会からすると自身継続的ものにするために働き手が欲しいし人口が減るとそもそも社会が無くなる。なぜ社会を存続させないといけないのかに関しては謎であるが、社会社会を存続させたいのが社会の都合だ。一方、個人はどうだろう。今の社会では子供を作ることは大変なコストだ。養育や教育お金がかかるし、何より時間が取られる。個人社会よりも個人大事にするようになってきており、自身キャリア趣味などという高次元自己満足を、子孫繁栄という低次元生物的な自己満足よりも優先させるようになっている。どんどん自分勝手になってきた個人が集まって、社会形成している。社会の都合と個人の都合が乖離してきている。子供を作るかどうかという機能個人判断依拠している。

2019-12-22

個人情報保護委員会も、公取委に言ってくれ……これ位。

公取委個人情報保護委員会とは別にオンラインサービス規制提案して、「サービスの対価として自らに関連するデータ提供する消費者」とか言い出してるけど、EUでも似たようなことが起きてたらしい。

欧州委員会オンラインサービス規制のための新しい指令を起草して、そこで「消費者サービスの対価を個人データで支払う……」とか書いてしまった。これに対し、欧州データ保護監督機関が「何すんじゃワレェ!」したのが以下の見解である

EDPS Opinion 4/2017

https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/17-03-14_opinion_digital_content_en.pdf

EDPSはデータ駆動経済について、EUの成長のために重要であること、デジタル単一市場戦略として唱道されるデジタル環境において抜きんでていることを認めております消費者法とデータ保護法とが共同し相補しあう関係にあることは私たちが一貫して論じてきたところであります。ですから、「デジタル商品」の提供を受ける条件としてデータ差し出すことを要求される消費者保護を強化するために、デジタルコンテンツ供給にかかる契約に関する特有の側面にかかる2015年12月の委員会指令プロポーザル意図しているところを、私たちは支持しております

しかしながら、この指令のある側面は問題はらものです。というのも、これが適用可能なのはデジタルコンテンツのために価額が支払われる場合だけではなく、デジタルコンテンツ金銭以外の個人データその他何らかのデータの形での反対給付と引き換えに供給される場合にも適用可能からです。EDPSは、人々が金銭を支払うのと同じように自分達のデータを支払えるという考え方を導入するような規定を新たに定めることのないよう警告いたします。個人データ保護を受ける権利のような基本権は、単なる消費者利益に縮められるものではありませんし、単なるお値打ち品のように個人データを捉えることはできません。

最近採択されたデータ保護フレームワーク(以下「GDPR」といいます)は、未だ完全には適用可能でなく、新しい e-Privacy 制度は今も審議中でございます。ですからEUとしては、立法者が協議されている入念なバランスをひっくり返すようなプロポーザルは、何であれ避けるべきものです。イニシアティブの重複は、デジタル単一市場統一性意図せずとも損ない、規制断片化と法的不確実性をもたらすことになりかねません。デジタル経済における個人データ使用規制する措置として、EUGDPR適用することをEDPSは推奨いたします。

「反対給付としてのデータ」という概念……このプロポーザルでは未定義のままです……は、所与のトランザクションにおけるデータの正しい機能について混乱を引き起こす恐れがございます。この点で供給から明瞭な情報がないため、さらに難しいことになるでしょう。それゆえ私たちは、この問題解決する一助として、EU競争法におけるサービス定義を一考することをお勧めしますが、その地域範囲定義するうえでGDPRの用いている規定が役立つかもしれません。

見解では、このプロポーザルGDPRとどのように影響し合うことになりうるか検証いたします。

第一に、データ保護制度に基づく「個人データ」の定義が広範であるため、その効果により、この提案指令の対象となるデータが全て GDPRに基づく「個人データ」とみなされることは十分にありえます

第二に、(個人データの)取扱いが発生する厳密な条件はGDPR指定済みであり、この提案指令に基づく修正や追加を必要としておりません。このプロポーザルは反対給付としてデータを用いることを正当とみなしているようですが、GDPRでは、例えば、(本人の)同意有効性を検査し、デジタル取引文脈において(同意が)自由意思に基づくとみなしうるか決定するための、新たな条件を一式用意してございます

最後に、消費者に与えるものとして提案されている契約終了時に供給からデータを取得する権利供給者がデータ使用を控える義務は、GDPRに基づくアクセス及びポータビリティ権やデータコントローラデータ使用を控える義務オーバーラップしている可能性があります。このことで、適用する制度について意図しない混乱をもたらすことになりえます

EDPS Opinion 8/2018

https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/18-10-05_opinion_consumer_law_en.pdf

見解は、EU消費者保護規則のより良い執行近代化に関する指令のプロポーザルと、消費者集団的利益保護のための代表訴訟に関する指令のプロポーザルからなる「消費者のための新しい取引」と題する立法パッケージに関するEDPSの立ち位置を概説しています

EDPSは、目標において最近近代化されたデータ保護フレームワークと密接した領域で、既存規則近代化しようという同委員会意図を歓迎します。EDPSは、個人データの大規模な収集収益化、およびターゲットコンテンツを介した人々の注意の操作依存するデジタルサービスの主要なビジネスモデルが提す課題対応するために、現在消費者法におけるギャップを埋める必要性を認識しています。 これは、消費者法を改善して、個人デジタル市場の強力な企業との間で拡大している不均衡と不公平是正する、またとない機会です。

特にEDPSは、指令2011/83 / EU範囲を拡大して、金銭的な価格にて提供されないサービスを受ける消費者が、同指令が提供する保護フレームワーク恩恵を受けることができるようにする意図を支持いたしますが、それはこのようなサービス今日経済的な現実ニーズを反映しているからです。

このプロポーザルでは、EDPS Opinion 4/2017の推奨事項を考慮して、「反対給付」という用語使用や、消費者によるデジタルコンテンツサプライヤーへのデータ提供が「積極的」か「受動的」か区別することを控えています。ただしEDPSは、プロポーザルで想定されている新しい定義により、消費者お金で支払うのではなく、個人データで「支払う」ことができるデジタルコンテンツまたはデジタルサービス提供に関する契約概念が導入されることに懸念を示しています。この新しいアプローチは、「反対給付」という用語使用したり、個人データ提供価格の支払いを類推したりすることで生ずる問題解決していません。特に、このアプローチは、個人データを単なる経済資産とみなしているために、データ保護の基本権としての性格を十分に考慮していないものとなっています

GDPRでは既に、デジタル環境にて個人データの処理が行われ得る状況に関するバランスを既に定めています。 このプロポーザルで、GDPRで定める個人データを完全に保護するとのEUコミットメント矛盾するやり方で解釈される可能性のあるアプローチを促すようなことは避けるべきです。データ保護法の原則を損なう危険を冒すことなく幅広い消費者保護提供するために、電子商取引指令における「サービス」の広範な定義や、GDPR地域範囲定義する規定、もしくデジタルコンテンツプロポーザルに関する理事会一般アプローチの第3条(1)などに基づくアプローチ代替することが考えられます

したがいまして、EDPSは、「有形媒体では提供されないデジタルコンテンツ供給に関する契約」や「デジタルサービス契約」の定義にて個人データを参照することを何であれ控えていただくことを推奨し、その代わりとして、次のような契約の考え方に依拠することを提案します。 それは、「消費者への支払いが必要かどうかに関係なく」特定デジタルコンテンツまたはデジタルサービスを売り手が消費者提供または提供することを約束するというものです。

その後

きちんと追えていないが、「EU消費者保護規則のより良い執行近代化に関する指令」は、昨月末に採択されたようで、前文に「digital services provided in exchange for personal data」という表現が残ったものの、個人データについては「GDPRに従う」とのことで落ち着いた様である

https://eur-lex.europa.eu/eli/dir/2019/2161/oj

2019-12-20

anond:20191220122216

民主主義はどの立場多数派であるかを決定する手続き(要するに選挙とかそのへん)"だけ"を指すわけではないので

民主主義でない多数派

という命題の真否が自明であるかのような(あるいは少なくとも真否が一意に決定される、ということを前提とした)問いの立て方は疑似問題

そもそも多数派こそが法だ!」っていうならわざわざ成文法依拠する法秩序なんて必要ないんだよなあ、君の論点はそこが矛盾してるんだよ。

2019-12-11

anond:20191211234841

自然法は神がそのように被造物に与えた秩序それ自身のみを存立の根拠としているので、誰のためのものでもないぞ。

近代法学の人定法も人間の理性が自然法発見するところに依拠しているのだし、まずは我々が神の被造物であることを認めるところからはじまる。

2019-11-23

性的消費とは何なのか

フェミニズムLGBT文脈性的という言葉を使うなら「性」ということばを生物学的な意味だけに縮減することは避けねばならないし、身体的特徴のみならず、あらゆる場所に「性」が見出されるはずである。他方で「消費」という仕方を非難するのなら、そもそも消費されない表象など存在するのかという問題が残る。

したがって、「性的消費」なる概念批判的に用いられるとき、そこには客観的な「性」と、表象として「消費」され得ない実在が想定されていることになる。

ところで、このような実在論的な思考はまさしくプラトン以来の男性中心主義的な哲学思想の延長であって、フェミニズムや「性的マイノリティ依拠する理論として悪手なのではないだろうか。

追記

まり何が言いたかたかと言えば、フェミニズム理論的骨子はそもそも社会学以前にその大部分を哲学依拠しているという事実であり、またそうである以上、哲学史的な文脈理解しないままに「性的消費」というタームを無闇に振り回すことは本人が意図する以上の射程を含み得るということ。

哲学における運動とはつまり反省であり、思考の射程を掘り下げていくような運動であるのだが、その運動には自分という主体すらも揺るがされるような危険が伴う。しかし、社会学哲学の成果の上澄みだけを掠め取ってこの運動をたんなる気持ち運動矮小化してしまった。そのような運動においてはもはや危険反省は伴わず、ただ自分肯定してくれるような物語けが空虚なタームとして流通する。

フェミニズムから社会学へ、ではなく、ちゃん哲学へ遡るひとたちが増えればより建設的な議論ができるようになると思う。

2019-11-19

anond:20191119151658

それ、コナンで使われてるだけの妄言じゃん。

フィクションから別にいいけど、それに依拠するとかありえないでしょ。

2019-11-04

anond:20191104143745

社会構築主義おかしい.それに依拠したポスター叩きもおかしい」という論調なら、「社会構築主義にまで話を広げる奴が居るが、社会構築主義の是非はお前らが思う以上に複雑だし、ポスターの話とは関係いから近づくな」と言えばよいだけなのでは。

> そーなんだよね.はっきり言うとこの件社会構築主義とか微塵も関係ないですよ.普通に自由とか権利とか公共とかの話をすべきところでしょ.

理解しているなら、なぜそういう方向に持って行かないで、その論調同調した議論を拡大する方法を取るの・・・

前提が間違っていると思っているのに、それに同調して議論を発展させることは無意味では

もしかして、「社会構築主義の前提が間違っているので、ポスター批判は不当」というのを議論する価値がある論点だとおもっているということ?

価値があるのは「社会構築主義があっているか」と「ポスター批判妥当か」の2点じゃないの?微塵も関係のない2論をあわせるの?

ちなみに、「ラディフェミ(≒社会構築主義)」これはラディフェミ社会構築主義者で構成されているという意味で、その逆ではないでしょ。

anond:20191104135852

「『女性差別社会構造に対する戦い』という認識を持っているが、そもそもその論法おかしい」とか「その認識オタクにはないから会話になっていない」というのが主張だと思うんだけど。なら、議論すべきは「社会構造が間違っているのか」、「社会構造の変更方法として、ポスター批判適当なのか」、「ポスター批判の論拠は適当なのか」などであって、なぜ「社会構築主義が妥当な論なのか」の問題が出たのかわからないんだけど。

いや件の棘は明らかに社会構築主義はおかしい.それに依拠したポスター叩きもおかしい」という論調じゃない……? ブコメコメ欄社会構築主義の是非で話が埋まってない……?

冒頭からいきなり「ラディフェミ(≒社会構築主義)」ってくくってる時点で「社会構築主義を取り入れている社会学や歴史学人類学はラディカルフミニズムだったのか……?」ってなるやん?

そう思ってるなら、「社会構築主義にまで話を広げる奴が居るが、社会構築主義の是非はお前らが思う以上に複雑だし、ポスターの話とは関係いから近づくな」という話と「ポスター批判の論拠が弱すぎる」という話は分けて語らないと、「社会構築主義の前提が間違っているので、ポスター批判は不当」みたいな、関係の無い論をつなげる議論が出てくることは想像できるよね。

関係のない論というか,前提がそういう論だったわけで……

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

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