はてなキーワード: 小田とは
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |
引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半ほどだった。引退までにシングルは31作の累計で1,142万枚、1970年代に最もレコードを売り上げた歌手であった[9]。
オリコンシングルチャートにおいて、1973年6月4日付でデビューシングルの「としごろ」が75位に初登場してから1981年3月2日付で32枚目のシングルの「一恵」が96位にランクインするまで、405週連続で100位以内にチャートインし続けた[10]。オリコンアルバムチャート(レコードのみ)において、引退後の1989年時点でアーティスト別セールス13位(251万枚)、TOP10総登場週数16位、TOP100総登場週数11位、と70年代アイドル歌手(男女共に)では最も上位にランキングされている[11]。
現役時代にはホリプロとの確執があり、『蒼い時』でも意見の相違により社長の堀威夫と衝突があったと振り返っている。当時の制作部長であった小田信吾とともに独立するつもりであったが、ホリプロ側が小田を説得して独立を阻んだため引退を決意したとの見解もある。もし独立が成功していれば三浦との結婚がなかったかもしれず、女優としてその後も活躍していた可能性があったとの見方もある[12]。
3ヶ月前から回文増田の中で盛り上がりを見せている「ヤッホー」とそのブームについて、少しだけまとめておこうと思う。
初出は2023年2月22日の『印刷山脈にヤッホーと叫ぶ増田スマ武家サトーホッや肉ゃ眠冊三位(回文)』でありタイトルにもなっている。
ヤッホーがどういうものかは、実際の用例を見た方が理解が早い。
骨子の部分は「ヤッホー」よりも正確には「○○山脈にヤッホー!と叫ぶ(叫びたい)」だと思われる。
その大きな特徴は「山脈」という語を修飾する○○の節が非常に長い点にある。
そもそもヤッホーの部分が無くても文が成立するパターンが多い。
意味としては、英語で言うと I think that ○○ あるいは it means that ○○ に近いと思われるが、意外とそう単純ではない。
3月中旬までは一つの日記に複数の山脈が含まれるほどのヤッホーブームだったが、だんだん控えめになり、現在では一つの日記で最大一個の山脈にまで落ち着いている。
そういう方たちって123便に関するあらゆる資料、書籍、当時の生々しい写真掲載の週刊誌等々全て把握しインプットした上で当時の報道、公式発表以外の『証言』や『事実』を【陰謀論】と結論付けられているんでしょうか?
もちろん私も生存者、搭乗者ではなく『真実』は掴めることもありませんが色々材料を集めていくと大枠の
いくつか上げさせて頂きます
⚫これだけでも十分ですが...
当時中学生だった私は週刊誌にあった黒焦げの完全に炭化した黒い木の枝のようになったご遺体に強烈なショックを覚えました... これほどまで完全に人が炭になるのかと
しかし数年前にある書籍(タイトルは何か失念しました)の中で専門家が航空燃料で各ご遺体があれ程まで炭化する事はありえないと......
【同種の話で歴史上火災でビルの鉄骨が溶けて倒れたケースはなく600℃にしかならない航空燃料(灯油を精製)が1500℃の融点の鉄骨を溶かすことすら出来ないです 双子ビルはドンドンという爆発音と共に崩壊しましたが... 元大林建設役員はあの映像を見て『発破現場や』と漏らしていました】 →航空燃料ってそれほど高温にならないんですよね
故中曽根元首相が『この件は墓まで持っていく』と発言している事
⚫画期的なOSソフトを開発した日本IBMの次期社長含め社員10名以上が搭乗しておりこの事故でソフト開発は頓挫? 翌年にビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフトが台頭
⚫驚異的な高濱機長の技術で横田基地に何度も戻ろうとするが断られる(VRでしっかり記録されている)
⚫墜落して早々に上野村の青年2人がモトクロスバイクでついらく現場近くまで近づき様子を克明に証言
→自衛隊特殊部隊 (とわかる証拠がしっかり目撃されている)が墜落してしばらくで現場にホバリング
朝方近くまで墜落現場が分からなかったなんていう当時のメディアの報道を信じる方が相当無理がある
等々上げだしたら数百の矛盾 、報道.発表とは異なる【事実 証言】が出てきてるんですよ その1つ1つを全て【陰謀論】に仕立てるための工作だと思う事の方が遥かに無理がある 全てとは言えないでしょうけど当時のその目撃談 証言の大部分は利害関係関係ないですから
一冊だけでも読まれたらいかがですか? 遺族の方々が情報統制、圧力を跳ね除け、集めた事実を色々本にされています 小田周二さんの『524人の命乞い』
遺族当時者の執念に勝てる真実は、私はないと思います 我々は全て所詮『他人事』なのですから
ちなみに私も2002年に家族を【事件】で亡くしました 家にテレビ局が殺到しました メディアの適当さ 、ボランティアではありませんから『資金』を出している者のいこうに沿うのは当然ですよね
たまーにお客さんところへものを送る際、
これ離島なのどうなの?ってそれによって何かいろいろと手続きがあるし
本当に地続きなのかってのもあるし、
軽く手続きに地続きにって韻を踏んでみたけど
でもまあインターネッツのこの時代だから最新のズーチーいわゆる地図は見ることが出来るから
ここ橋出来て本土と繋がってるから配達出来るわね!みたいなことを地図を見ながら調べることがあるのよね。
海沿いの道があって、
大きな道は黄色い印で分かるんだけど、
細かく拡大していって見える道があったりして、
そういった細く海沿いを見つけると
この海沿いの道は知ってみたいなぁって衝動に駆られまくりまくりすてぃー山脈に向かってヤッホー!って叫びたいのよ!
最近本当にまあ例のコロナ禍の中あんまり本当に出歩けてなかったので、
久っさしぶりに遠出でもしたいなぁって欲に駆られまくりまくりすてぃーなのよねー。
どこか遠くへ行きたいわー
夏前忙しくなる前のこの今のチャンスが遠出チャンスかも知れない到来してるんだけど、
まとまった休みが取りにくいってのもあってか、
なかなか踏み出せないのよね。
なので実質ここ何年かは遠出してない記録になるし。
遠くを走りたいわーってなるときない?
今その時期のシーズンの季節だわ。
よく眠れる春なのかも知れないわ。
何に時間や体力を費やしてるのかしら?って思うけど
そう言った行動意欲がここ最近強まって下がってるのよね。
春だからかしら?
だからなんだか海を観たい気分なのかもしれない
その地図に思いを馳せるのよねー。
どっか遠くへ行きたいわ。
その意欲はあんのよね。
うーんと気が済むまで知らないところを走って遠くまで行って疲れたーってやりたいわ。
どっか行きたいわね。
うふふ。
相当買い貯まっているので食べないと減らないのよね。
確信したけど、
さすがになんか液体系はちょっと辞めておいた方が良くない?
うーんもったいないけど。
整理整頓はしなくちゃね。
多少年月が過ぎていた方が熟成が進んで美味しい説もあるんだってよ。
プラシーボかしら?分かんないけど
美味しさがアップすれば笑顔もアップよね!
もう茶器の急須で淹れるより耐熱ガラスで淹れる方が捗っていいわよ。
漉し器はそりゃ使うけど、
急須はなくてもいいのかもしれない人類の三大発明のアイテムかも知れないし
そんな感じかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
まずはお知らせ。
スプラトゥーン3の今回のフェスはそんなに遊べてませんでしたので流しーの
と言うか別のゲームをやってたというのもあるけど、
まあ私ひとりがいたとて!
とてとてな感じなのでゲームじゃなくてなんか他の事に有意義に時間を有効に使おうって思ったのよね。
まあ事務所でお仕事が忙しかったってのが一番の山場は超えたからいいんだけど。
はーまあそんな散々たる結果よ。
朝髪切りに行った予定を入れていたので
今の時間帯なら餃子でルービー決めれちゃう?いやKIMEちゃおう!ってことで
変な時間帯に餃子食べたもんだからお腹いっぱいで動けなくなって
午後から夕方とかの時間帯のパフォーマンスが満腹で埋め尽くされた感じなのよね。
あ!そうそう!
4月と言うことで、
朝ドラ新しいの始まったんだけど、
私はまだあとちょっと『舞いあがれ!』2~3話見るの残ってるから、
追いつき次第新しい朝ドラ観るわ。
で、
世の中は思ったより『舞いあがれ!』話題になってなかったみたいなのかしら?
突っ込みどころ満載の『ちむどんどん』の方があれはあれでむちゃくちゃだったけど
話題になっていたから成功といったら成功と言っても過言ではないかも知れないわ。
そんでそんでよ!
のど自慢!4月からの新シリーズ小田切アナ卒業ごの新しいシーズン!
シン・アナウンサーとともに楽しみにしていたんだけど、
私の好きだった生演奏と鐘の名人秋山気清さんに変わる鐘の人は現地調達の打楽器演奏者を雇うようで、
あのもっと鐘鳴らしてあげて!って
まるで秋山気清さんが審査の全てを担っている突っ込みがもうできないじゃない!
そんでゲストが歌の感想のコメントに困ったときに秋山気清さんの鳴らす鐘の数のことに突っ込んでとりあえずその場をしのぐ緩衝材役ももうできないし、
これじゃー民放のカラオケ番組歌番組と何ら変わりないじゃない山脈に向かってヤッホー!って叫びたいわ!
老舗の美味しいタレで焼く伝統の秘伝の味がなくなっちゃうのよ!
そんなのある?
私生バンドは復活すると思うわ。
秋山気清さんに変わる鐘の名人のキャラクターは新たには生まれなさそうだけど、
生バンドは戻すべきでしょ?ってそれがのど自慢じゃないの?って思ったわ。
でもこれ逆に言えば、
収録規模もコンパクトに出来るからもっと地元の公民館でもできんじゃね?ってなるけど
あれもあれで観覧応募ぜったい倍率高すぎて当たらないのよね!
もう1回言うけどそれなら民放のカラオケ番組と一緒じゃない!って。
秘伝ののど自慢のタレを伝承しなかった今後ののど自慢の味付けが本当に心配になるわ。
とてとてな感じでどうにもならないだろうけど。
なのでリズムについて行けないご高齢の方が過酷なカラオケ大会になってしまうわ。
うーん、
のど自慢の番組は生バンドの件と秋山気清さんの影響で以前より見なくなっちゃうかも知れないけど
今度の動向は見守りたいとは思うし
今回の件で如何にのど自慢は秋山気清さんが支えていたかってことがよく分かったわ。
うふふ。
別に何かを控えているわけではないけど、
朝はそれだけよ。
うーんと思うんだけど果物買うのも困るわよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
確定申告を華麗にも先日終わらせてよっしゃー!羽を伸ばして映画でも観に行こう!ってなったのが先日で、
毎回私言ってるかも知れないけどって絶対毎回言ってるやつなんだけど、
なんかもう毎回毎年毎回毎年書いてるけど、
土煙がもうもうと立ちのぼり、
土煙が晴れるまで相手を倒したかどうかって分からない時の「やったか?」感があるなし級に
なんか手応えがないけど!
なんか大丈夫に終わったみたいでちゃんと納税額もちょっとあったからそれも無事納めて
ちゃんとやれた!と思うんだけど、
それまでうかうかしていられないのよねー。
もしかしたら昨年の確定申告間違ったかも?って思わざるを得ないんだけどまあ指摘があれば素直に応じるだけよ。
うーん、
経費上げまくってもやっぱりちょっとは納税って出てくる必要の義務に駆られるのよね。
確定申告ワークショップってのがあったら言ってみたいものだけど、
もうかれこれ4回ぐらいは雰囲気で乗り越えられているような気がするから、
これでいいのかしら?
売り上げより経費が金額多がかければ儲けがないから課税はないでオーケーなそんな理屈?
全くもって私たちは雰囲気でいかにして確定申告を乗り越えて行ってるのよ!
税理士さんなんて私つけてないからなおのさらのことよく分かってないのよね。
これでいいのかしらね?
理屈が分かればなるほどー!って思えるはずだけど、
それが分かってないから手応えを感じていないのかも知れない山脈に向かってヤッホー!って叫びたいんだと思うわ。
でもまあ日頃の帳簿というかほとんどがカード分での経費なので、
インポートしてポチポチ押していくだけで最後二重に計上していないか確認してって、
これだいたい二重に計上仕分けしている項目は手入力だったりするから、
よっぽどもうインポートしてしまった方が一発で私の場合の経理は済むのよ。
今みたいに確定申告終わった直後は
次にその帳簿なり再開の蓋が開くのは12月なのよ!
この間の間に何が起こったかって1月に入力した仕訳のことなんてすっかり忘れているから山脈に向かってヤッホー!って叫んじゃうのよ!
だから結局年末にパパッとまとめてレシート整理するぐらいで済むから実質1時間ぐらいで確定申告は終わったわよ。
ほとんどがパソコンが新しくなったカードリーダーを再接続したりなどの
再セッツアップ!に要する時間が要するにかかるのよ!
バスの回数券を買った時の領収書はしっかり取っておかないと風に飛ばされて窓の外に飛んで行ってしまうもの。
それだけを気を付けてってことなので、
案外すぐ重い腰を上げたら終わっちゃうのよ。
何が面倒買って支払う税金を目にしたくないだけなのよ!
今年はこんだけ喰らうのかぁって具合で。
事なきを得たというかなき事を得たのかはどちらでもいいけど、
まあ無事に終わってちゃんと納税も終わらせたわ!って仕事の出来る感を自信をもってお送りしているけど
だから今年もよく分かないままなんか終わらせた感じね。
怖いのはあとは住民税よ!
あがんのかな?分かんないけどなぁ。
税金高くなるばかりよね。
それを目にしたくないだけなのよきっと確定申告面倒くさいのは!
べ、別に確定申告終了間際締め切り1日前の今日に終わらせたわけじゃないんだかんね!
うふふ。
同じハムタマゴサンドが並んでいてどちらにしようか迷うときってないかしら?
サンドイッチに限らず同じ品物が陳列棚になれん出るシチュエーションって良くあると思うの。
そう言う時ってどうすれば良いか知ってる?
そのものの声を聞くのよ!微かに耳を澄ませば山脈に向かってヤッホー!って言ってるのが聞こえてくるから。
でもなんかどちらにしようかな?って迷うときって
なんかいい顔の方をやっぱり選びがちじゃない?
いい顔ってのもよく分からないけどその言い方だと。
まあ人はイキフンで確定申告終わらせるのと同じように
ここずっともう2か月ぐらい緑茶飲む習慣を続けているからこのまま続けていきたいわよね。
まだ今は大丈夫だけど、
ホッツ緑茶淹れたてだと熱いので
硝子の器に入れたお茶を二重にして外側の器には水を入れて水冷式で冷やせば比較的すぐに飲み頃の温度の適温にまでもっていけるから、
まあ冷やす手間が省けてよいわ。
緑茶の茶葉の成分の全部を抽出し切れていないような気もするので、
1回ガンガンの熱湯くぐらせた方が良いのかも知れないホッツ緑茶界隈なのかも知れないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ひさしぶりに「NHKのど自慢」を見た。
鐘が鳴って歌い終わった出場者に司会の小田切アナがインタビューする。
女性出場者へのインタビューの中で、小田切アナはその人の夫のことを繰り返し「夫さん」と呼んだ。
インタビューの内容は覚えてないが、用法としては「夫さんも会場に見えてます!」みたいな感じだ(※実際に言ったセリフとは異なります)。
夫さん。耳に馴染みがなさすぎる。だいいち敬語じゃないだろそれ。
「旦那さん」って呼んだりすると、クレーム電話がかかってくるようになっちゃったんだろうなー!
それに迎合しちゃったんだろうなー!
小田切千アナウンサー「さあ、続きまして34歳の会社員。友人の結婚祝いに贈る歌です。どうぞ」
「あきらめない あきらめない あきらめない ない ない ない ない どこまでもぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぅぅ(高音)」
「今ぁ 今ぁ 今ぁ 誰ぁかの声が聞こえるぅ」
「歌ぁ 歌ぁ 歌ぁ 星のちからに導かれてぇ」
「届けたい あのそら fly to the skぁ」
「恋焦がれた光に 寄り添う調べ yeah yeah yeah」
「手の書き物とぉ 産声をあげろぉ」
「巡りめぐる 時代の中 共に歌え」
「あきらめないd…」
小田切アナ「いやっ(苦笑)…随分、高音がでるんですねー?(苦笑)」
会社員「いやっ、友達のリクエストで(はい)この歌を歌ってくれと、言われまsh」
会社員「わ、歌ってないんですよ」
小田切アナ「そこで、ここで歌って?(はい!)恩返ししようと?ちょっと、お祝いの言葉、是非」
ロンドン滞在経験のあるバンドを率いていた日本ロック界のレジェンド
ある日本の大物アーティストXがASKAを手引きしたとウワサされている。
「XはASKAより年上で、バンドを率いていたロック界のレジェンド。ASKAより先にロンドンの滞在経験があったことから、弟分のASKAに現地カルチャーの一つして、マリフアナや合成麻薬を教えたそうだ。当時のロンドンでは『よくあること』だったが、これがASKAを“覚醒”させる一つの原因になったことは間違いない」(ASKAを知る関係者)
ASKAがロンドンに滞在したのは半年ほどだったが「現地に家を購入し、移り住むことまで考えるほど気に入っていた」(同)という。
帰国したASKAはその後、ヒット曲を量産。91年に「SAY YES」、93年には「YAH YAH YAH」でミリオンセールスを記録した。この2大ヒット曲もクスリの力に頼って生み出されたものなのか…。
前出の音楽関係者は「ロンドンから帰国してからは、(薬物を)やらない時期もあったそうです。2大ヒット曲が生まれた時は、そこまでおかしいとは感じませんでしたね。むしろ『あれ?』となったのは、ヒット曲が出なくなった90年代後半から。歌詞に『ドラッグ』や『シャブ』を連想させる言葉が目に付くようになって…」と話す。
とはいえ、一部で指摘されているように90年代前半の曲にも薬物を想起させる歌詞はある。93年3月に発売された「YAH YAH YAH」の両A面シングル「夢の番人」では「運び屋の白い粉袋の秘密で」と歌っているのだ。また、96年4月発売のアルバムに収録された曲「港に潜んだ潜水艇」には「口の中に薬を撃ち込まれた気分さ あちらこちらの 心臓が一斉に騒ぎ出す」との歌詞も。
せめて小田山島鳥隆くらいにして
小山田隆さんは、一時期かなり参考にさせていただいてたんですが、数年前からは「気に入らない相手にハラスメント的発言を嬉々とする品性下劣なおっさん」みたいな印象を覚えることも増えてきました。見てて耐えがたくなったので、Twitterも読まなくなったし日経ビジネスのコラムも読まなくなりましたね……。
筆が乗っていた時は、自分がおっさんであることについて抵抗するというかそのことを念頭に置いて「おっさんだけどおっさんになり切りたくない」という部分がありました。そのころの小山田さんって、自分の感性だけを信じないで、他者の言い分や感性を取り上げて、「うーんわかるけど。でもおっさんとしてはちょっとなあ……」みたいなダラダラした語りをしていましたが、私はそれが好きでした。
個人的な感想ですが、小山田さんは鋭い視点とかで勝負するタイプではなく、いろんな視点を取り込んで自分の中でその意見を転がして見せる手腕が優れているというそういうところが持ち味の作家さんなんですよ。私にとっては。でも、今はそのあたりの自分が良いと感じていた部分が完全に死んでしまったなと
多分だけれど、一定年齢を超えてくると、もう他者の声を受け入れるのってしんどくなるんでしょうね。今の小山田さんのそのたたずまいは、左側の「百田」さんや「小林よしのり」さんというべきものなのかなと。小山田さんはこのお二人ほど影響力が大きくないからあんまり問題視されてないだけであって、最近の立ち居振る舞いはほんとに微妙。
情報を個人の主眼で整理するというスタイルであれば、小山田さんはもとより魅力が乏しい人なのに、無理をして語るくらいならさっさと筆おいてほしいな。(読み始めたころから、小山田さん個人だけの主眼にはあまり価値を感じてないです) 今の小山田さんは、サブカル的な話をさせれば「ロマン優光」さんの完全下位互換であり、政治談議としても知識がとぼしいせいか中の下くらいの価値しか感じないんですよ。総裁選でも全く流れ読めてなくて、まとはずれなことばかり。 役に立たない。 野球観戦してる素人のおっさんの政治バージョンにすぎない。お仕事なんだからもうちょっと頑張ってよって読者側が思ってしまうようではもうお役御免じゃあないですかと。こんな小山田さんは見たくなかったなあというくらい魅力がすすけてしまっている。もともと人格的にはゲスい人だなと感じるところが多かったのですが、年を取るにつれそのゲスさを自重できなくなっており、ここから先は晩節を穢すのみではないか。
今であればギリギリ「最後怪しかったけど悪くない文筆家だった」で終われるラインですよ。でも、文筆家ってよほどの実績がない限りは筆をおいたら死ぬしかないって考えの方が多そうだし無理なのでしょうね。だとしたら、もうnot for meの精神で見ないようにするしかないなと。そう思ってるのに時々悪い発言をしたときだけネットニュースで取り上げられて目立つのでわたしにとっては最悪です