はてなキーワード: 専務とは
ある会社の専務は、部下の若手社員たちと一緒に新しいプロジェクトに取り組んでいた。
しかし、その中で部下の一人が「ここはお局さんの意見に従うべきだと思います」と言い出した。
専務は驚きながらも、お局さんに話を聞きに行くことにした。お局さんは、自分が以前担当していたプロジェクトの成功を引き合いに出し、「私が間違っているはずがない」と自信を見せた。
専務は、お局さんが回文が得意であることを知っていて、会議中に回文を試してみることにした。「たとえお局さんが正しかったとしても、今回のプロジェクトにおいては、協力しなければならない」という回文を提案した。
すると、お局さんもそれに対して「なるほど、あなたの言うとおりですね。協力して取り組みます」と、意見を改めたのだった。
さすがに内容が内容だけにアウトすぎるわ!
その会社の別支店の支店長が物品をくすねているオーリョー疑惑!
そのオーリョー疑惑の支店長が別のところで自分の事務所を構えているっぽくって、
そのオーリョー品をさばいてるらしいのよ!
そんで内密に進んでいる社内で私含めて3人しか知らない極秘調査委員会、
支店長にババアって言われたことをもう相当お局さん怒ってるようで、
しかもお局さん社長の娘なのよ!権力ありすぎて権威濃すぎなのよ!
おっかないでしょ?
まあ全部これ嘘の話だから嘘よ嘘よ!
何度もここで言ってるけど、
小田切千アナウンサーが「中条きよしさんで、うそでした!」ってウソだったんかーいって、
もうさ、
そんなおっかない話ししてなくて
って言ってもこれ全部嘘だしまた動きがあり次第お知らせするわ。
楽しい話を
となるとゲームの話になるんだけど
ちょこちょこやってるわよ!
『HADES』をやり込んじゃうとまた1日終わっちゃうので、
いつものルーティーンのスプラトゥーン3の1日1勝するのとガチャ引くのを欠かさないようにして、
あとはゼルダね。
あちこちに行けるんだけど、
私のハートまだ4つなんだけど!
これってかつての私の年収少なすぎお姉さんを彷彿と足せる私のリンクのハートの数が4つで全然増えない山脈に向かってヤッホー!って叫んじゃうわ!
こんなもの?
あちこち祠を見つけてはクリア出来そうなところをコツコツとやってるのよ。
なんか祠のパズル要素が多くて、
敵を倒す場面ではなんかガーディアンだっけ?強くて倒せないし、
パズル要素なところの祠はこれどうやっていくの?って遠くから祠の全景を眺めて首をかしげてうーんって唸ってしばらく見つめている山脈に向かってヤッホー!って叫んでいるのよ。
そんでなんかずっと見ていたら
なんか閃くから
これジャンプ台の上にマグネットでくっつく宝箱乗せてその分宝箱の高さの分高くジャンプできるから柵乗り越えられるんじゃね?って
むずっ!って感じ。
あとさ
フィールドを歩き回ってるとなんか知らない場所に行き着いて足場がたくさんある工事現場みたいなところを
どんどん上に登って行けて登っていったり、
古代研究をしているもうひとりの研究者がいるのを教えてくれたんだけど
あるけど、
武器貴重なので使えないのよ!
もうさ武器もないルピーもない!こんな村嫌だ!って吉幾三さんばりのあの歌を歌いながらてくてくと歩いてフィールドを進むんだけど
そうするとなんか遠くで明かりが見えてきて、
ちょっとした村があったりしてほっとするけど
またこれ時間があっと言う間に過ぎてしまうので気が付いたらまた夜になっていたわよ。
最低でも試合の合間に飲めるじゃない、
ゼルダだとそうは問屋が卸さない山脈に向かってあの山を登ってみようと思うけど頑張りゲージが全然足りないネット広告を一世風靡したセピアじゃない方のあの年収少ないお姉さんをまた彷彿とさせるゲージの少なさ山脈に向かってヤッホー!って叫んでいるのよ。
口笛を吹いているんだけどね!
武器もろくに無いし、
だけどあちこち歩き走り回っているのが楽しすぎるわ。
マップのさ目印に向かって行こうと思うけど
山があっていけないのをどうやって迂回していけば良いのって歩きながら考えるんだけど
そしたらそしたで
余所見したらなんか面白いところ寄り道してしまって本題を忘れちゃってしまったり、
回復アイテムのリンゴが手持ち少なくなって心細くなってきたし、
最初の大地の食料が豊富なところにワープしてリンゴ探ししなくてはいけないかも!と思いつつ
矢をまた消費するのがもったいなくて撃てないのよね。
もどかしーわ。
でね
こないだオオカミみたいなのを倒したら
マンガ肉みたいなのを2つゲットしてこういう時に限って調理台がないのよ!
どこにあったっけ?って探して
岩塩やらなんか名前忘れたけどお肉と焼くと美味しそうな香味付けのハーブ的なアイテムと一緒に肉料理を作ったんだけど
もうさボリュームが凄すぎて
私の持っている今のハートは4つなので、
これを食べるのももったいないのよね。
ってそんなことをしていたらあっと言う間に時間が経ってしまって、
本編が進んでなさそうな感じで寄り道ばっかりだし
とにかく私は今ある目の前のコツコツと見つけた祠を1つ1つ攻略していくしかないのよね。
先が思いやられるわ。
うふふ。
ここんところサンドイッチ屋さんに行けてなかったので
行ってなかったのでやっぱり少しは顔つないでおくためにも行っとかなくちゃねって。
たまに食べるとありがたさが分かるわ。
また作らなくちゃ!ってところね。
お茶っ葉もなくなってきそうなので、
それもまたあわせて買ってこなくちゃ!
忙しいわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
もうさ、
大声で叫びたいんだけど!ってぐらいなんか本当に内緒で隣の会社のことのオーリョーの件調べてんだけど、
でね、
その隣の会社の人たちはそんなこと調べているなんて、
本当に陰で動いているってーかおっかいないわ。
いろいろと調べて尻尾つかんでいついつまでには決着を付ける!みたいなもうおっかないだけど。
なので
まあこれ全部嘘だけど!って言っておけばノンフィクションになるから、
嘘よ嘘!
あーもう!って感じね。
そんでね、
やっぱりあれはあれで私たちがログインしても90日ぐらいの情報しか遡れないけど、
運送会社の中の人は一昨年ぐらいまでは普通にいろいろと伝えたら情報が教えてくれて、
マジでこれ叩けば埃が出るって、
勘の良いお局がこのリストの指示で私がエクセルをエクセレントに使って抽出した行にみごとビンゴ!
お局の勘は当たっていたのよ。
だから恐ろしいわ。
おっかいおっかない。
あれってさ犯人を白!か黒!って言うときの刑事ドラマってあるじゃない、
どっちが犯人の色なの?
白?黒?
というか私は最初からどっちがどっちか分からないままイキフンで使っていたことを白状するわ!
だからさ
その手書き伝票が超絶怪しいのよね。
おっかないおっかない。
もうさ
話せないことがたくさんあって、
穴があったら本当に王様の耳はロバの耳!!!山脈に向かってヤッホー!って叫びたいわ!
重いわ!
重いコンダラ!だわ。
そんでね、
私もこれ気分重いまま過ごすのも嫌じゃない!
事務所でシーディーをかけてみたいと思うわ。
まさかサンバが流しているやつが陰でなにか調べてるとは思わないでしょ?
あーはやく開放されたいわ。
うふふ。
ホッツ緑茶ウォーラーは水筒に詰めていくやつをちょっといただきつつも
なくなったので、
今夜こそは仕込んでまたたくさん飲めるようにしておかないとね。
なんかソワソワして腰が落ち着かないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
セキュリティの関係で朝7時からしかビルに入れないのに、毎日5時50分には最寄駅で出社スタンバってる専務とかいるんだぞ(朝4時起き4時半に家出てるらしい)
新卒1年目の新人がいきなり月300時間労働させられて、朝っぱらから顔色悪いどころか死相出てるのがデフォになってるのに、それに気づいた先輩や上司の第一声が挨拶ではなく
って呆れ突っ込みなんだぞ
って判定がめちゃくちゃ簡単にされるけど、うちみたいな高給でもないのにブラックな文化の企業はまだまだ全然残ってると思う
豆苗さー
なんか上手く育てられてないのかどうか初だったので仕上がりの出来栄えがどうだか分かんないんだけど、
うーん、
いったいどうなってるかどうか分かんないんだけど。
家の中でキッチンに置きっぱなしにしていたので
ひょろひょろの緑色の薄い色の芽が伸びてきたのは伸びてきて食べてみたんだけどね。
これが正解の豆苗の2回目の味なのか?
私は正確には判定できなかったわ。
これを何度も繰り返していって2回目の豆苗の味ってこんなもんなのね。
食べ時が分からないからやっぱり回数を重ねて精度を上げていくしかないわ。
話それるけど、
なんか最近さ、
隣の私が以前いた会社の中がそわそわしているらしくって、
それが伝わってくるのよね。
でなんかその会社の別営業所の支店長がオーリョーしてんじゃないか疑惑が上がってて
おっかないわよね。
そんで私は関係ないけど
精査してって頼まれたの。
もーおっかないでしょ?
そんで、
さすがにもらうことが出来なかったので、
これは成功報酬でいいですよ!って言ったのに、
封筒押しつけられちゃったわ。
なんかこのお金良いのか悪いのか、
まあ私はそのエクセルのファイルのデータをエクセレントに調べただけなのによ。
いや実におっかないわ。
隣の社内がそんな状況なので、
不穏な空気がこっちにも伝わってくるのが、
ソワソワしてしまう原因かも知れないわ。
いやーおっかないわね。
うふふって言ってる場合じゃないけど
うふふだわ。
景気よくサンバでも聴きたいところよ、
うふふ。
ミリンって10回言ってみて!の鼻の長い動物はなーんだ!ってクイズを出したいところだわ。
なのでだんだんと目覚めるのが早くなってきて快調だわ。
なくなっちゃったので、
また今夜仕込みます。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ワイも幼稚園の時あったわ。
いま思い出しても悲しみに打ちひしがれる。
「モロッコヨーグルのフタを牛乳に漬けとくとモロッコヨーグルが無限に増えるぞ!」
って大マジで言われてクソ真面目に信じて牛乳腐らせたという一大事。
「はい、わかりました。」
「すみません。」
「もうしません。」
を呪文のように唱えるだけで、
全く反省している気配がない。
保護者と会って、イメージの違いに驚いた。母は至って上品、超金持ちの雰囲気。
「トラブルメーカーですね」と真顔で答えた。
社食での飲酒・喫煙や、立小便事件、その他さまざまな話をしたが、
お母様はひどくショックを受けられているご様子。
あらあら、お子様のことをご存知なかったの?
「就業中は、寝たり途中退室したりと落ち着きがないですが、何らかの障害の診断は受けたことありますか?」
と尋ねると、みるみるお母様の顔色が赤くなっていき、お怒りのご様子。
お母様も、
「学生時代は真面目に過ごしていると言われましたけど」
お母様が発散し終えたところで
「お母様はそうおっしゃっているけど、君はどう思う?」と学生に質問してやる。
すると、「え、なんとなくおもしれーかなと思って・・・」
と、歯切れの悪い答え。
こういう社員は、グループでつるんでいたいから会社を辞めたがらないが、
親の前では『良い子』を見せたいから、こんな答え方になる。
「いやいや、君が悪いかどうかじゃなくて、
小学生でも知っている一般常識をわざわざ指導するようなサービスは、
「ま、ご自宅でゆっくりお母様と話し合ってください」と切り上げる
便乗。俺が働いている訳じゃ無いけど。
資源回収・解体業。いわゆる産廃処分業である。創業社長、現在の会長が高度経済成長期に帰郷して立ち上げた会社。
現在はその息子が社長(66歳で高卒)孫が専務(37歳で大阪の大学を出て、商社勤めしていたことがある)と言う布陣。
従業員数はたぶん100名はいるんじゃないか。専務曰く、フルタイムで働いているのは20人ぐらい。残りは正社員の肩書きは持っているが、年寄りが多く、半日勤務とか、働ける範囲で働いているとのこと。
昔は農家が農業だけでは喰っていけず、アルバイト的に兼業で来ていた従業員が主力だったそう。今たぶん違う。
そして、日系ブラジル人とか5人はいるし、暴力団だったという噂のあるじいさんとかもいる。女性は社長の奥さんと専務の奥さんだけ。常にハロワに求人でているが人が集まらない模様。落とした奴は一人しかいないとは専務。
創業者の代から、中卒で入ったら会社が金を出して定時制なり通信制に行かせる、と言う事をやっている。が、十年以上在籍しても卒業できないんだよ、とかネタにしてる奴がいる。いや専務の目笑ってないけどな。
外に出しちゃ駄目なやばい奴と、出してもいいやつの二種類に分けられている。やばい奴は電話も出るなと徹底されている。
そうして持ち帰られたものを、外に出しちゃ駄目な奴が工場で分別などの処理をするという流れになってる。
敷地には、専務が作った自動プラントが聳え立っており、同業者や自治体が取材に来るぐらいのインパクトがある。社内でゴールデンタワーと呼ばれているが、これは借金借金言いすぎたら借金タワーという名前が定着してしまいそうになったため、ゴールデンタワーと呼べと徹底がはかられた結果らしい。
敷地がむちゃくちゃ広く、何処からともなく拾ってきた車を緑色に塗って巣を作っているやつがいたりするし、養蜂をやってる奴とか、ゴミの中から出てきた物を修理してジモティやメルカリで売り払ってる(業務上横領)話を、自慢げに専務に話す愉快な連中。
社名で検索すると、金属泥棒の片棒を担いで処分を受けたと言う新聞記事が出てくる。
金属泥棒をやって持ち込んでた奴はさすがに警察に突き出されているが、何故かそいつは今は社員として働いている。
こいつがどうしょうもないクズ野郎で、金属泥棒の経験が解体業に役に立つと公言したのを見たことがある。素行が悪いとしか言いようがない。クズは所詮クズ死ぬまでクズ。
時給制と日給制。安い。
だが、残業はし放題なので稼ぐやつは残業が出来るし、ここが面白いところなのだが、売上げや利益の額がオープンにされていて、この利益の半分はボーナスに回すと言及している。なので、年5ヶ月分とかボーナスが出る。
業務や資格ごとに手当が出る仕組みになってる。外勤手当が5万円、重機が使えれば月1万円、高卒なら5000円、大卒なら8千円、と言ったノリ。それを全部入れれば人並みの給与にはなるっぽいが実際は知らん。
これを専務は「ジョブ型労働」と呼んでいたが、それは、なにか、違うと思う。
行くといつも休憩室にいるおっさんとか、持ち場についているのに何もしてないように見える奴とか、そういうのがいるのでたぶんまともじゃ無い。
また、この仕事の9割が儲からない仕事だと言うのが口癖。え。じゃあ残り1割ぼってるってこと?
社内のノリは完全に年功序列。年寄りが一番偉い。外勤担当のエースであっても、年齢が若いので子ども扱いされる。
おそらくパワハラセクハラだと認識してないハラスメントが多数降り注ぐ感じ。昭和まではいかないが、平成中頃の内輪のノリと行ったらいいだろうか。
なお、経営者一族はゴリゴリの自民党員で、選挙が始まると仕事そっちのけでフルコミットするので仕事が遅れて酷いことになるが、みんな知っているのでその時期はみんなで諦めている。
本来15人ほど必要な仕事を、6人のスタッフと2人の新人で回している状態で、するとどうなるかというと、6人が2倍働いたうえで、新人の面倒も見ることになる。
当然うまくいくわけがないので、全員が毎日遅くまで残業してどうにか帳尻を合わせている状態が続いてた。
人手不足を解消しようと採用を行っても、出来のいい新人は入ってこない。
うちは同業よりも七割ほど給与が低いので、他社で落とされた人材しか回ってこないからだ。
面接で優秀だと感じた人に内定を出しても、「他で内定が出たので」と辞退されてしまうことが、月に1回起きていた。
状況を打破しようとして、給料があげられないか打診してみたが、話にもならなかった。
うちの部署の責任者である専務には、俺を含めて現場の人間が何度も進言したが、「仕事もできない新人に高い給与は払えない」と一蹴されてしまう。
俺たちは、2倍仕事をしたうえで、新人と5000円しか違わない給与で働いていることを忘れているらしい。
2年前まで、面倒見のいい課長がいたころは、それでもまだなんとかなっていた。
しかし彼が退職し、専務が直接うちの部署をみるようになってから、状況は徐々に悪くなっていた。
話を戻そう。
出来の悪い新人と、忙しくて余裕のない先輩の組み合わせで、育成がうまくいくわけがない。
一ヶ月ごとの報告で、新人の育成が遅れていることを知った専務は、決まってこう言うのだ。
目の前にある現実を直視すれば、仕事の覚えの悪い新人と、大量の業務におわれてイライラしている先輩がいるだけだ。
新人が質問しようとすると、先輩はパソコンから顔もあげず「ちょっと待って!」と言い、十分ほど放置されてから、ようやく質問ができる。
これで伸びるわけがない。
(「お前が悪い」と言われるだろうから先に書いておくが、俺はこの問題を認識していたので、質問されたら必ず手を止めてその場で話を聞いていた)
育成がうまくいかないのは、こうした現状が原因だと説明し、業務量を調整できないかと相談すると、「だから今採用をしている」と返される。
そこまでにかかった手間も時間もパーになり、また次の出来の悪い新人を育てるのだ。
中堅も1人辞めているので、今度は5人で業務を回しながら育成もしなければならない。
過去に違う部署の新卒に似た事例があって、親と相談して医者に連れて行ったところ、発達障害の診断が下されたらしい。
これが成功体験となって、ミスを繰り返す出来の悪い新人がきたときは「発達障害」のラベルを貼ればいいということになってしまったようだ。
つまり、専務は、『有能な人材を採用できない』『新人を育成できる環境を用意できない』
という管理職としての無能を、すべて「採用した新人がたまたま発達障害だった」という言い訳で乗り越えてきたのだ。
出来の悪い新人が「自分は発達障害なので仕事が覚えられない」といいわけをしたのではない。
無能な専務が「発達障害を隠して入社した新人のせいで自分が苦労している」といいわけをしているのだ。
「発達障害について調べたので詳しい」と自慢げに言うが、調べた情報のなかには「医者でもない人間が勝手に診断してはならない」とは書かれていなかったらしい。
結局専務は自分の無能と向き合うことなく、新人が辞め続ける状況のまま、2年が経った。
俺が辞めたときには、中堅2名と新人3名になり、業務の大半を高い金を払って外注業者に委託していた。
せめて1年前に外注業者を使えていれば、少しは違う結果になっていたと思う。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
普段は何とか自社まで持ってきて、自社で整備するかあるいは近場にある馴染みの整備工場で修理する。
うちは40年代に造営された古い工業団地に工場があるから、近くには似たような業種やそれをサポートする整備工場がある。
車検とかローンとかもそこでやるしね。
でも今回はダメで、具体的な場所は言わないけどかなり遠く、また往来も少ない場所で自走不能になってしまった。
困ったなぁって社長と奥さんの専務と話してたらさ、社長の父さんって80代だけどまだ現役でたまに工場に顔出すんだけど、そのじいさんが「ジャフを呼べ」っつーわけ。
何だそれはそんなもん入ってたか? とか社長と専務とで話をしてたら、社長の母親まで顔を出してきた。
社長の母も80代で、その年代特有のテンションの高い社交スキルで工場を切り盛りしてきた女だ。アメとかすぐ寄越すタイプ。
実は社長の母っつーのが本家筋にあたるわけで、社長の父は優秀なスキルを見込まれ婿として家を継いでいたのだそうだ。その時はじめて聞いたんだけど。
だからたまに社長のお母さんは古い決まりごとだとか昔のやり方だとかを話したりすることはあった。明るい性格だから押し付けるとかはないんだけどね。
それで、工場をこの場所に建てた以前からの古い契約、具体的にはここに移ってきた時に交わした総合的な契約の中にジャフってのが含まれているということだ。
80代の2人の記憶は互いに曖昧で「あーでもないこーでもない」と思い出話を含め語り始めてしまったので、専務が書類のありかを教えろとはっきりいう。
探したところ、パソコンの中の古いpdfデータに含まれていた。連絡用の番号やアドレスが到底今では使えそうのない桁番号のため、俺がジャフの現在の連絡先をネットで調べることになった。
「こんな田舎まで来れるのかね? ジャフって」
「昔、西の方で路肩に落ちたのを引っ張ってるのをみたよ」
「青い車」
連絡先はすぐにわかり、俺が打電することになった。
こーいうのは契約時の契約番号を言えば相手もことを進めやすい。契約書pdfの文字列を手書きメモに移す。会社は工場だから電話とパソコンに距離がある。
JAFの対応は丁寧で、場所を示すと「今から行く、ただ年末でみんな氷で滑ってるから4時間みてくれ」とのこと。
途中のセーコマであったかい缶コーヒー買って、保温装置に入れて現場へ。
車の温度計はマイナス14度。現場の2人はいろんな意味で青ざめていた。
近距離用のジョンソンタナカドライブから一般航空用起動への切り替え音が、どこともない天空から届いてくる。
JAFがきた。
12輪の空陸両用車で、近くの路肩ポートに静かに着陸。青と白と橙色の車体は往古からのしきたりなのだそうだ。
自衛隊の空陸車両はここらでも見かけるが、それよりもやや小さい感じだ。
「どうもJAFでーす」
「お疲れ様です」
「あげれば自走する感じですか?」
「そうっすねエンジンかかって動きはしますので、・・・上げていただいてもっかい判断かなと思いますけど」
手早い処理で道路に車両が上がってくる。30分くらいだろうか。
俺も運転の2人も車を仕事にしてるから、何も言わずただJAFの仕事を見ていた。
「こんなとこにも来れるんすね」
「ガニメデに拠点ありますから割とすぐ来れましたよ、もうちょい田舎だったら時間かかりますけど」
「年末でも大変ですね」
「この時期って滑るし帰省とかもあるんで。でも天球って色々あるから季節も色々で、常に忙しいんですけどね。ただこの時期は特に」
復帰した車両と2台で会社に戻る。社長夫婦と先代夫婦が待っていた。
社長たちもこれを機会に古い話をもっと聞いておこうという気になったみたいだ。
なんだか年越しのような雰囲気で成り行きや顛末をみんなで語り合った。
ストーブの上のヤカンが水が少なくなってカンカンと音を立てていた。
ということでJAFってすげーって話。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1983333
これ見て思いつきでブコメしてる人多いからちゃんとまとめておく
ファミコンより前まで遡ってもいいけど面倒なのでファミコンからスタート
ファミコンは B A の順番
Aで決定、が多かったように思うがSTARTの方が多かったかも?
スーファミも B Aの順番で、Y Xが増えた
これも決定はAを使う
メガドラ2になってX Y Zが増えたが、基本的にはA B Cを使う
いや、Aでも決定できたような気はするけど基本的にCを使ってた
なので一番右側のボタンで決定というのはスーファミと変わらなかった
プレステはご存じの通り□ △ × 〇
NINTENDO 64は・・・BとAが左側で縦並び、Cが4つで右側に配置
あんまり遊んでないから記憶が定かじゃないが、決定はAを使うことが多かったように思う
ただ、このコントローラーのアナログスティックは使ってみると非常に使い勝手がよくてみんな真似した
プレステはDUAL SHOCKで実装、セガもマルコンで実装した
ニュースを騒がせている中祐二という天才が作ったナイツっていうゲームに付いてくるのがマルコンなので覚えておくように
ただ確かこの辺から海外でかなり広まってきて、×ボタン決定の話を聞いたような気がする
続いて湯川専務のドリームキャストだが、なんと上段「X Y」下段「A B」の配置に変更
つまり伝統的に使われていた決定のCボタンが無くなり、4ボタン制に以降した
マルコンを踏襲してはいたが真ん中に拡張パッドがあったりケーブルが下から出ていたりして今でも最強のコントローラーだと思っている
とはいえ、Cボタンが無くなったために決定ボタンはAボタンに変わった
つまりは左下が決定になった
ただPS2の登場で勝てる要素が全く無く、セガは退場することに
さて、セガ退場から約3年後に発売されて全然売れなかったのが初代XBOX
ボタンの並びはドリームキャストと同じ「X Y」「A B」の並び
当然Aが決定なので左下決定ボタン
セガの社員が引き抜かれたんじゃないかな?と思っているが真偽を知る人はいるだろうか
コントローラーは・・・形容しがたいが・・・でっかいAボタンの左下にB、右にXで上にY
決定はAだった、と思うがこれもバイオハザードぐらいしか遊んでないから覚えてない(誰か情報求む)
プレステ3は初代と同じ
XBOX 360も同じ
任天堂はWiiを出して、またしても形容しがたいが、十字キーの下にA、一番したに1と2、トリガーが付いてるような形
当然決定はA
このあたりで海外ではXBOXが売れてきた&米国では×がチェックの意味になるから×が決定になりつつあって
プレステ4は初代と同じ
XBOX Oneも初代と同じ
変えるのはいいんだ!PS4のときだけキーコンフィグさせてくれ!アホ!
XBOXは同じ
Nintendo Switchも、まぁ同じ
64のときにAを左下にしたからセガがドリームキャストであの形になったと思っていて
ってなったのにゲームキューブでは明後日の方向に向かいやがった
しかも、その辺を踏まえてXBOXコントローラーが出来たと(勝手に)思ってるから
37歳バツイチ男の1日
・朝起きたら作業着に着替え、アパートの前の自販機でブラック缶コーヒー買って飲みながら出社。
・社長の奥さんが作るおにぎりを仲間とかっ喰らって仕事開始。昼休憩までには手も爪も鼻の中まで真っ黒。
・昼飯。今日は豚汁とメンチとコロッケ。毎日社長の奥さんと、専務やってる社長の弟の奥さんが作ってくれる。
・午後の仕事開始。何回もパクられて高校中退してここに入ってきた威勢だけ良い新米のガキがもうだらける。作業状況、機械の位置、安全を確認してから蹴りを入れる。
・午後の休憩。工場の前の自販機にあるブラックコーヒーかカフェイン増量のペプシとタバコで一服。大人の雑誌を読んだり昼寝したりパチンコ の話で盛り上がったり過ごし方は人による。新しく高卒で入った真面目な新人は休憩中いつも車。ベトナムの奴らからベトナム仲間が経営してるオススメの裏風俗情報を聞き出す。
・作業再開
・終業。ベルが鳴ると開放感が半端じゃない。爪もつなぎも手も真っ黒。
・社長から給料を前借り。若いガキ共とベトナムたちを連れてこの服のまま入れる居酒屋へ←今ここ
手取りは約400万。そっからサラ金への借金の返済や元嫁への養育費で3分の1がごっそり持ってかれる。俺一人だったらサラ金の返済も元嫁への養育費も払えてないだろうけど、社長の奥さんが計算して毎月分の返済と養育費をあらかじめ抜いてサラ金と元嫁に振り込んでくれてる。