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はてなキーワード: 修行とは

2017-06-26

レクリエイターズラスボスさん

最初かっこよかったのに最近ラスボス(笑)って感じなので

剣の修行でもしたほうがいいと思う

2017-06-23

就活疲れた

今までの人生、失敗ばかり。

若い時の時間の使い方を間違えた。

高校の時は受験勉強大学時代バイトしかせず、就活はうまくいかなかった。

自分と向き合う時間がなかった。

就活自己PRが非常に苦手だ。

自分をどういいように言い繕っても嘘っぽく感じる。

自信がないからだ。

思うに、高校以後の学生時代勉強というのは二の次で、

自分がどんなものに心が動かされ、なんに対して感動し、

どういう人間であるかっていうのを知る時間だったんだなと後悔している。

それが見つからなければ、勉強する。

勉強して、何に心動かされるかを見つける。そしてそれについての教養思考を深化させる。

自分場合勉強という手段目的化していた。

そういう人間はやがて、燃え尽きると、心が折れる

場所がわからなくなる。

20代最後の歳だから、もう一度やり直そうとしている。

今度はどんな人生を歩もうかな。

今度は失敗しないぞ。

まだまだ人生修行中。小さな決意表明である

2017-06-20

ドラゴンクエスト 勇者アベル伝説観てるけど

ティアラ脱出したあたりからわりと面白くなってきた。

デイジーとの剣の修行のくだりはいい。

EDはなかなかいい。

2017-06-19

https://anond.hatelabo.jp/20170619190010

一人一人修行して自助努力悟りなさいってすすめたのに南無阿弥陀仏だもんな

まりに変わりすぎてて自分の教えと認識しないでしょ

2017-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20170614002743

私はめちゃくちゃ恵まれている方だと思うが書いてみる。

1.あなたには現在夢がありますか。またその中身についても差し支えなければ教えてください。

ある。

2.就職活動就職は、あなた人生において大きな分岐点となりましたか

なった。

3.社会はやり直しがいくらでも効くと思いますか。

効く。ただし、ちゃんと修行勉強を積んで、しかもその分野だけでなくそから応用や転化できるのが大事

4.あなたの中で「人生詰んだ再起不能状態とはどのような状態を指しますか。またはそんな状態はない、と思いますか。

3と関連してない。

5.ハイリスクハイリターンのある将来を目指したり、夢を追ったことはありますか。その結果後悔していますか。または胸を張って自分人生肯定できますか。

研究者になった。後悔なし。

6.近い将来の楽しみ、遠い将来の楽しみはありますか。

ある。近くだとドライブして美術館に行ってその街に泊まること。遠くだと家を建てて本棚めっちゃ作りたいとか考えること。

7.居心地がよいと感じることができるコミュニティはありますか。それはどこですか。

ある。研究者仲間、職場、友人関係、親戚関係恋人地域コミュニティサークル

8.自分の中で、人より劣っていると思った部分があり、それを良くしようと努力をした経験はありますか。

ある。上手く表現できないけど、仕事への取り組み方や周囲との協力の仕方(協調性がないと思ったから)。

9.あなたがもし今不安を抱えている場合、その中で最も大きく占めているモノは何ですか。

不安はあるけどとくに気にならない。

10.現在あなたを生きながらえさせているエネルギーの源はどこにあると思いますか。

つのことがらからエネルギー源を得ていない。

2017-06-10

母親(微毒)の誕生日、何かをしてもしなくても悪い結果しか予想されなくて詰んでたんだけど

こんにちは。初めて匿名ダイアリー投稿します。


私は30代前半、既婚の女です。今は結婚数ヶ月目、旦那さんと2人で暮らしています

27歳のときに2年ほど一人暮らししましたが、そのあとまた実家に戻って、結婚するまで住んでいました(ちなみに一人っ子です)。


母との関係性が壊れ始めたのは、結婚が決まる少し前から

(といっても、大学生ごろから少しずつほころびは見えていたのですが…)


もう30歳にもなろうとする私に対して、母は、

「娘の帰宅が遅い」と会社電話してきたり、

彼氏の連絡先を入手するやいなや、デートで私の帰りが遅くなると、SMSで、

「こんなに夜遅くまで出歩かせて、申し訳ないという気持ちはないんですか」

「親だから心配なんです、私の気持ちをわかってくれますよね?」

あなたまだ子供ですね、人の気持ちもっと考えられるようになってください」

勝手彼氏に連絡したり、

10万円もする健康器具(正直私は使いたくない)を「あなたのために買ってあげるね!」と言うので断ると、

感謝を知らない冷たい子」となじられたうえ、

あんたは気づいてないけど、あんたのためになるんだから使いなさい」

絶対お母さんに感謝することになるから!」

と結局渡されたり(しかも「嫁入り道具に持って行け」と…新居狭いのに…)、


と、これらは一例ですが、とにかく私への依存・過干渉エスカレートしていきました。

私の結婚が決まると、寂しさからかその態度はいっそう強くなり、


私が「半年後くらいには引っ越しして、そこから2人で結婚式の準備をしたい」と無邪気に伝えると、すごい剣幕で叩かれ、

結婚式入籍引っ越しは同じ日にやるのが常識でしょ!!!!!!!!」

プロポーズされてから最低1年は花嫁修行の期間として家にいなさい!!!!!!

友達の娘はお母さんにそういうの相談しながらやってるのに、なんであなた勝手に決めるの!!!!!!!」

とまくしたてられたり(当然大げんかになった&話し合いは平行線のままだったが、私の理想スケジュールは、申し訳程度だが伸ばすことになった)、



「当然うちの近くに住むでしょ? 女の子はそうするものもの

と言われ、答えに窮していると(当然私は離れたいと思っているが、言うと大変な事態になるので言えない)

あんたはほかの女の子と違う!!!!!!」と泣き叫ばれたり、


そういう喧嘩の中で、私の人格や、彼氏人格までバカにされ、

まりに聞き続けるのが苦しかったし、だからといって応戦するのも馬鹿らしいと思って自分の部屋で声を出さずに泣いていたら、部屋に勝手に入ってきて、「こんなことで泣くなんて嫌味な子!」とまたマシンガン罵倒がはじまり

もうだめだ壊れてしまうと思って「やめてーー!」と言って耳を塞いだら、「やだお父さん、〇〇が頭おかしくなったみたい」と父親を呼んで2人でヒソヒソしだしたり、


私たちの新居を見て「火事になりやすそうなとこね」「空気も悪い」とだけ言いすてたり、


彼氏(夫)もそういう様子を私から聞いたり、結婚挨拶ときに目の当たりにしているので私の実家に寄り付かず、

「短時間だけ!」と私が頼み込んで、義理を果たすためお正月に夫を連れて実家に遊びに行き、お昼ご飯を食べて15時ごろに「今日はそろそろ帰るよ。夫くん、個人仕事が忙しいみたいだからさ」と帰ろうとすると、

母親が、今度は私に対するのと同じような剣幕で夫に「〇〇(私)の幸せを考えたら、もっと奥さんの実家に通うのが夫のつとめでしょ!?

「思いやりがない!!!」「あなた子供!!!」と迫ったり(結局その日は夫と私、2人で応戦したが話通じず「興奮してるみたいだから帰るね」と帰った)、


あげくの果てに、

結婚式の前日に私と両親でご飯を食べることになったのですが、母親正月のことを根に持っていて、食事中ずっと無言&口を開いたと思ったら

あなたは冷たい子、いつかきっと後悔する日がくる」

とだけ言われ、


もうなにもかも嫌で結婚式の日は一言も会話をかわしませんでしたが、式のなかで、両親にギフト(私の手作りです)を渡すと「なにこれ、かわいくない…」と言われ、

なんかもうダメだなと思いました。



それから今日まで、数ヶ月、会っていません。

連絡も、向こうからきたものに「ふーん」「そうだね」とかひとこと返すだけで、まったくとっていません(一人暮らしの時は、ほぼ毎日連絡しないと怒られたので、こんなことは初めて)。




そんな母親に対して(父はそこまで実害はありませんが、裏で母親と一緒に私の悪口を言って火に油をそそぐ係をしているので、あまり信頼していません)、

一度は絶縁も考えましたが、いまいち踏み切れずにいます

まぁ、ここまで書いてきて、「結構ひどいことされてきてるな」とは思いましたが・・、DV無視はされなかったし、小さいころはけなされなかったし、風邪をひくと一生懸命看病してくれるし、「子供母親」としてはいい母なんです、本当に。

大人になった子供母親」として、ちょっと未熟だっただけなんじゃないかな・・と。

から、「毒親」と呼ぶにはちょっとためらうんですよね。「微毒親」ぐらいかな、と。




正直、今は連絡をとるのが怖いです。コンタクトとると大体何かしらの形で傷つけられるので。しかも、親だからか、めちゃめちゃ一言一言攻撃力が高いんですよ。立ち直るのにも時間がいります。それが怖い。

じゃあ絶縁すればいいじゃん!とも思うんですが、「絶縁したいのか?」と自分に問いかけると、そうしたいわけではないんです。


超超超理想を言えば、親と仲良くしたいです。

理解はされなくてもいい、でも、軽めの家族交流ができる程度にはつながっていたい。私がなにか態度を工夫することでそれが可能になるなら、そうしてみたい。

もちろんそれが甘いってことはわかっています


でも、「微毒」だったら、絶縁以外でもなんとか付き合っていける方法はあるんじゃないか、と、思っている・・・




で、ようやく本題ですよ。

母の誕生日が迫ってきました。


先ほど言った通り、母親コンタクトをとるのは怖い。

会いにいけば、これまで会いにいかなかったことを罵倒されるだろうし、

メッセージプレゼントを送れば、それに対する返信で「会いにもこないでひどい子ね」とねちねち嫌味を言われそう。

からと言って何もしないと、きっとすんごく悲しむのが目に見えているし、後々すごい恨みになって返ってきそう。


どちらを選んでも、悪い結果しか想像できないんです。


昨日の晩、そろそろ結論を出さねばと思ってぐるぐる考えていると、すごく辛くなってきて、ひとしきり泣いたあとに寝込んでしまいました。


そのときから「そろそろ帰るよ」とメールがきたので、

「ごめん、具合悪くてなにもできてないんだ」と返信すると、

1時間後、私の好物を買って夫が帰ってきました。


私は、セブンイレブンレアチーズどらやきを食べながら、夫に本当のこと(具合が悪いんじゃなくて親のことで落ち込んでたこと)を話し、

その時点で導き出していた、一番答えに近そうな考えを伝えてみました。



「私ね、自分の状況を客観的にとらえるために、別の似たケースを探してみたんだ。そしたら『ダイエット』と似ているなって思ったの」


「例えば私がダイエットをしているとしよう。

そんな私の目の前に、すごく美味しそうなケーキがあって、私はそれをすごく食べたいとする。

でも、ダイエット目的は、『痩せたい、もしくはこれ以上太りたくない』だよね。そのためには、おそらくケーキは食べないほうがいい」

「でもね、それを第三者である私が見てたらこう言うと思うの。

ストレスをためるほうがダイエットに悪いとも言うじゃない。自分気持ちに素直になった方がいいよ、食べちゃいな! その代わり、そのカロリー運動で消費しよう!』」




「これを今の私の状況に置き換えてみると」


「目の前に、親にコンタクトすべき機会が迫っているんだけど、私は何もしたくないと思ってる。

でも、最終的な理想は、『親と仲良くなりたい、もしくはこれ以上仲を悪くしたくない』。そのためには、おそらくなにかしたほうがいい」

「それをさっきの第三者セリフに置き換えると…

『長い目で見たら今は連絡しないほうがいい可能だってある。自分気持ちに素直になった方がいいよ、連絡しなくても大丈夫! その代わり、別の方法コンタクトしよう!』」








「こんな感じだと思うんだよね、でもその『別の方法』がわからないんだよ・・・

夫は「意外と面白い話だったw」と笑っていました。

そして、

「お母さんの好きな食べ物はなに?それを贈るのはどう?」

と。

エビかな。でもそれだけ贈るのって、やっぱなんか『冷たい子』『よそよそしい』ってぐちぐち言われそうじゃない?」

そう答えると、夫はうーんうーんと何やら考え始め、「エビのグッズとかないの?」と言いました。

私「えっどういうこと」

夫「なんかさ、エビ贈るだけだと、真面目っていうか、形式的な堅い印象やん。

でも、送られてきたのがエビなんだけどアクセサリーだったり役にたたなそうなものだったりとかしたら、『何これww』ってなりそうじゃない?」

私「たしかに・・それを先に送りつけて、後日『本物もあるから』って言って本物送ればフォローもできるしね」

夫「プレゼントへの返答も、自然と『何これw』にならざるを得ないから、心配してた返信メッセージの怖さも軽減するよね」



そうして2人でエビグッズを探したところ、見つかったのがこれ

[rakuten:http://item.rakuten.co.jp/wishorder/a520065011384s/]




私「これなら、使用シーンの写真とか自然と送りたくなるし、『責める(親)』『避ける(私)』以外のコミュニケーションが生まれそう!これなら親が望んでいる、『私とのコミュニケーション』が私にとっても嫌じゃない形で実現できる。めっちゃいいじゃん!!」

夫「よし、じゃあ次は本物のエビを探そう!」





とまあこんな感じで、

エビプレゼントすることになりました。




結果はまだわからないけど、ダイエットのたとえのところで書いた「連絡しない、会わないで済む別の方法」が見つかったなという気持ち

あと思ったのは、日常なかにもっとユーモア」が必要なんだな、ということ。

私は少々頭が硬い(合理的主義)ところがあるので、こういう視点を忘れないようにしたいなぁと思いました。






結果がわかったら、トラックバックとかで読めるようにしてみます

2017-06-05

子供を作るのは生命本質からえらい

じゃあ、自分遺伝子差し置いて赤の他人を助ける自己犠牲なんざ、これっぽっちもえらくないな

逆に自分の子供のために他のやつらを出し抜いたり蹴落とすようなのが本能に忠実でえらい

本能である欲を制限して修行してる坊さんとかもえらくない、むしろ邪悪

子供一人しか作らない夫婦は二人作る夫婦より劣るし、30人作る夫婦に比べたら子無しと変わらない誤差範囲

2017-06-04

麻原彰晃に救済された話

中学生の頃、俺は不登校だった。軽いいじめと、勉強についていけなくなったことが原因だ。不登校だが近所のスーパー本屋には行っていたので引きこもっていたわけではなかった。しかし、俺が外出するのは決まって夜だった。夜なら同級生とすれ違っても顔を見られないからだ。その頃は同級生が怖かった。学校から逃げた自分がどう思われているかを考えると恐ろしかった。知らない人や親とは自然に会話ができたが、同級生とだけは顔を合わせたくなかった。当時の俺は、自分勉強運動もできないし、あげく学校にも行かない屑だと自己否定しまくっていて、とにかく精神不安定だった。居場所がなくて押しつぶされそうだった。そこまで真剣に考えたわけではないが自殺も考えた。

こうして俺はFPSにのめり込むようになった。FPSは決してうまいわけではなかった。さほど楽しかったわけでもない。でも家にいるのは暇だったから、ただなんとなくFPSばかりをしていた。そんな時に出会ったのが麻原彰晃だった。

もちろん本物の麻原ではない。麻原彰晃という名前プレイヤーだ。麻原はいわゆる荒らしだった。特に、味方を殺して足を引っ張るタイプ荒らしだった(もちろん武器AK47だった)。麻原は、俺がよく行くサーバーちょっとした有名人だった。当時中学生だった俺は倫理感が欠如していて、麻原がやっていた行為を最高に面白いと感じた。そこで俺は、上祐史浩という名前で新しいアカウントを作って、麻原が建てたマップで麻原と一緒に味方殺しをしまくった。FPS用語で味方殺しのことをフレンドリーファイアと言うが、俺達はそれのことをフレンドリーポアと呼んでいた。今思うと不謹慎だし趣味悪いし迷惑まりない行為だ。でも、当時のプレイヤーには申し訳ない限りだけど、当時は本当に楽しかった。フレンドリーポアをしている間は当時感じていた焦りとか劣等感を忘れることが出来た。心からゲラゲラ笑えた。ポアが生きがいだった。麻原彰晃は本当に面白い人だと思った。俺は尊敬の念を込めて、麻原のことをグルとか尊師と呼んでいた。グルも俺のことをマイトレーヤホーリーネームで呼んでくれた。マイトレーヤオウム真理教ナンバー2だ。麻原彰晃の右腕。こんなに名誉なことはないと思った。俺達はフレンドリーポア以外にもいろいろなことをした。サーバーチャットオウムソングを一緒に歌ったり、無差別で知らない人にダイレクトメールを使って修行するぞ修行するぞ修行するぞと送り続けたり、警告文を送ってくる運営に対して宗教弾圧だと反論したり、瞑想とか言って敵が来そうなところでずっとしゃがんでいたり、今思えば本当に迷惑だし、中二病の極みで恥ずかしい限りだ。当時の自分をぶん殴ってやりたい気持ちになる。しかし、当時の俺にとってはグルと救済計画を進めることが救いだった。

グルとはかなり長い時間一緒に荒らしをしたが、俺はグルのことを何も知らない。職業も、年齢も、性別すらも知らない。でもそんなことはどうでもよかった。今思い返してみると、俺はグルとまともな話をしたことがない。「グル、新マップはいまいちですね」「うむ。運営をポアしろ」みたいなしょうもない会話ばかりしていた。それでも俺はグルといる時間が楽しかったし、グルカリスマ性すら感じていた。

ある時から運営宗教弾圧が激しくなっていった(今思えば100%自分が悪いのだが、不思議なことに当時は本当に弾圧されている気がした)。俺達の救済計画はさすがに運営の目に余っていたのだろう。オウム関係名前アカウントを作ると、全然活動していなくても3日後くらいには「不適切名前」とかなんとか理由をつけられてBANされていた。運営宗教弾圧結構周到で、比較マニアックな教団メンバー名前を使ってもBANされたし、ホーリーネームでもダメだった。俺とグルは次第に連絡が取りづらくなっていった。それでもいつものサーバーにいけば一週間に一度くらいはグルに会えた。俺達は細々と救済計画を続けた。

中3の冬になると、俺の高校進学が決まった。俺は将来のことを全く考えていなかったが、心配した親が高校を紹介してくれた。俺は中学同級生は怖かったが、人と、特に世代の人と話をするのは決して嫌いではなかった。紹介された高校は、中学同級生と鉢合う恐れのない遠くの工業高校だった。正直言ってそんなに高校に行きたいとは思っていなかったが、このまま行くと不登校中学生ではなくニートになってしまうことを恐れた俺は嫌々その高校受験した。そうしたらなんと受かってしまった。高校に行けると分かった途端なんだか嬉しくなった俺は、グルに「高校決まったよ」と珍しくプライベートなことを喋った。グルは「イニシエーションの賜物です」と言った。「勉強頑張って」と。グルに認められた気がして嬉しかったが、あまりプライベートな事を喋って関係が崩れるのも嫌だったから、「これからも修業に励みます」とだけ返して、気恥ずかしさを隠すようにサーバーチャットオウムソングを歌った。

それから尊師とはほとんど会っていない。運営宗教弾圧の影響もあって尊師ゲームから離れていったみたいだし、俺も高校友達とまっとうに会話を重ねていくうちに、やはり荒らしはいけないなと思うようになって、FPSから離れていった。それから6年経った。俺は就職して、いっぱしの社会人になった。俺がこうして社会人になれたのは尊師のおかげだと思っている。尊師は今どうしているだろう。俺を救済してくれた麻原尊師今日もどこかのゲームのどこかのサーバーで、昔の俺みたいな奴と一緒に救済計画遂行しているんだろうか。

2017-05-28

嫉妬

男性からチヤホヤされて楽しくやってたら、歳上の女性嫉妬された。

嫉妬されるのって気持ちがいい。女として勝利した感ある。

しかし私もメンバーを変えれば、注目は別に行ってしま存在

まだまだ修行が足らんな。

インターネット動画配信サイトがもたらした我が家への影響

父(50代前半、会社員

インターネット上に違法アップロードされている、乃木坂46の出演する番組乃木坂って、どこ?」及び「乃木坂工事中」のアーカイブ(合計約280本×30分)のイッキ見に挑戦中。ここ数日、在宅時間ほとんどを費やしているが、先程「もうしんどい」との発言修行の粋に達している。また、PCのマイビデオには秘蔵AVが保存されている。たまに増えている。

母(40代後半、専業主婦

スマートフォン及びタブレットにてYouTubeを視聴。なんだか怪しい動画を見ている。タイトルに【衝撃!】とかついてる文字読む動画とか。機械に弱く、リテラシーが壊滅的なので、とても危なっかしい。この前はタブレット家族共用だが主に母が使用)の検索履歴に「イケメン動画」と残っていたのを見つけたので、履歴が残らないように変更しておいた。我ながらGJだが、母はおそらく気づいていない。Googleアカウントも未取得。

私(大学四年生喪女

ニコ厨10年くらい。ランキング巡回は欠かさない。いまだにYouTube嫌いが抜けていない。

妹(大学二年生、キョロ充

YouTube流行りのバンドMVとか見てる。ツイ廃なので、情報がやたら速い。中高生に人気みたいな動画とかは、だいたい妹から教わる。ピコ太郎テレビに出る前に妹から教わった。

私と妹がスマホばっかりいじってるのは、随分前からだが、最近家族全員が各々画面を覗き込んでいる。それぞれの趣味嗜好や生活時間の違いが、スマホ文化と上手く合致したのだと思う。それを特に悲観するつもりもないが、食事中の気まずい間を繋ぐBGMマシーンと化している我が家テレビを、たまには家族団らんのツールとして使ってあげたいようにも思う。最近、みんなでテレビ見るなんてこと、めったにないもんな。

2017-05-21

今季一番面白いアニメってどれだと思ってる?

id-0カドひなこのーと

俺はアイカツだと思う。

アイカツめっちゃ面白い

歴代でもトップクラス面白い

ホビー物アニメの二周目として完成されてる。

今まで娯楽業界が積み上げてきた伝統がそこら中に溢れててたまらん。

謎に満ちた凄い敵が現れる→戦いの鍵は新しいアイテム→新しいアイテムを手に入れるために相手と同じレベルでの修行

勝てる気がしない相手が出て来てるのにいつかは勝てるんじゃないか確信させてるくれる構成

完璧だね。

さんざん見飽きた展開なのにとても楽しい

ホビーアニメのココが面白いって所を的確に踏襲してくる。

ひたすら王道

王道から安心して見ていられる。

安心して見ていられるから話に集中できる。

OP構成とかもう完璧だよね。

これから何が起こるのかを視聴者最初説明してくれる。

コンプライアンス完璧

王道一直線で良くできてる作品は本当にいい。

王道力不足なら陳腐しか映らない、だからこそ皆ビビって微妙に逸れたがる。

でもそんな逃げをサンライズはしない。

真っ向勝負完封勝利

本当に素晴らしい。

1995年の凄まじさ

オウムに限らず、1995年は何とも怪しい年だった。

当時小学生で、妙な好奇心が強い年頃だったからか異様によく覚えていて、影響もかなり受けている。

しろ年明け早々には阪神淡路大震災3月には地下鉄サリン、夏には映画学校の怪談」、秋には新世紀エヴァンゲリオン放映開始だ。

その中でもやっぱり地下鉄サリン事件オウム真理教は印象的だ。

今では考えられないけど、朝から晩まで妙な新興宗教の変わった修行(水中で息止めるとか、生き埋めになるとか)やら洗脳ソングやら幹部高学歴っぷり(上位大学はほぼ揃ってたはず)が報道されてた。

テレビというのは当時メディア王様で、「テレビで堂々とやってるのなら」って感じで皆普通にオウムの話をしていた。

子供も影響を受けて、音楽の授業を真面目に受けて、放課後洗脳ソングリコーダー練習したりしてた。

しか学校の怪談ブームの真っ只中で、学校でコックリさんやったりオカルト話したり、テレビスプーン曲げやってたり。

オカルトマニアにとっては「あれ、俺たちマニアだけどマジョリティじゃない?」って思えるくらいの時代だったと思う。

から始まったエヴァにはキリスト教モチーフが沢山出てくるし(子供の頃は難しくて分からなかったけど)。

その後の97年の少年A事件、99年のノストラダムスの大予言など、90年代後半はとにかく世紀末というのがぴったりの世相で、今の若い人が惹かれるのも分かる。

僕もあの時代のことは妙に懐かしく、不謹慎ながら魅力的に思い出してしまう(思い出補正がかかってるだろうけど)。

何というか、アニメ世界観が現出しちゃった感じの世の中だった。

この「あっ二次元世界観現実に!」に近い感覚は多分ネット祭りなんだけど、最近は大規模な祭りあんまりないしねぇ。さてどうしたものか。

http://anond.hatelabo.jp/20170520102940

2017-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20170520102940

何度か京都オウム道場に行ったことがあるけど、信徒さんも出家の人も純粋で楽しそうに修行していたのを思い出します。

牧歌的時代だったと言えなくもないけど、今の時代でもそういう生き方が出来ないことも無いと思いますよ。笑

2017-05-19

ジブリに若手スタッフが戻らない理由を教える

アニメ業界の者です。

ジブリが若手スタッフ募集しているが、残念ながら若手スタッフジブリに戻らない。

全盛期であれば、宮﨑駿という神の作品に携われるという事で、ジブリには山ほど人が集まった。

けど、ジブリを一度解散した今、宮﨑駿の信者以外のスタッフは集まらないと私は個人的に思う。

そもそも実力のあるアニメーターはかなり限られており、ジブリスタッフ解散後、様々なところに引っこ抜かれてる。

君の名は」で元ジブリスタッフ採用したように、元ジブリの才能ある人材ほとんど抜かれてる。それも高待遇と高い地位自由度を与えられてる。

ジブリ基本的に宮﨑駿が王であり全てである

そして給料はそこまで良くない。

それは才能ゆえに許されてきたし、ジブリブランドがあったから皆ついていっていたんだけど…

正直、いま実力あるアニメーター待遇自由度仕事先を決める。

縛りが強く、求められるクオリティも高いスタジオジブリに戻りたいというスタッフが何人いるのか。

もう時代が違うんだよ。

大物のもとで修行できる事に魅力を感じる人は少ない。みんな働きやす職場を求めてる。

ジブリ人手不足で悩むに100ペリカ。これは私の個人的な予想であり、あくま匿名駄文なのであしからず

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2017-05-15

ハイヒール滅びろ

ヒールを履かなきゃならない理由果たしてこの世にあるのか。

脚がきれいに見えるって、誰の為に脚をきれいに見せなきゃならんのだ。

かの悪名高き纏足と何が違う。

もうパンプスハイヒール義務化するのをやめよう。

フラットシューズを履こう。

それの何が問題だ。

マナーから履かなきゃならない?

マナー礼儀大事だ。

でもハイヒールマナーである理由って何だよ。

そもそもマナーって何だ。

敬意の表明を形式化し、人付き合いを円滑にする為の道具だ。

これをやっとき問題ないっていう便利道具。

で、パンプスでなきゃ絶対に表明できないマナーって何だ。

ハイヒールは本当に人付き合いを円滑にしているか

笑顔の裏で営業の人が、ハイヒール殺意の波動を送っている。

外回り職員が、早足の上司を後ろから刺す妄想をしている。

それでもヒール必要か。

フラットシューズで働けたらいいのに。

それができない理由って何だよ。

フラットシューズマナーになれない理由って何だよ。

マナーって何なんだよ。

爪先立ちの不安定な靴を履けるかって話か?

ヒールを履いた女の方がそそるかって話か?

ふざけんな違うだろ。

画一されたドレスコードを守るだけの常識があるかって話だろ。

痛みを耐え忍ぶ事を強制するのがマナーか。

痛みを伴う社会常識は守るに値するのか。

互いを敬うマナーを推奨するなら、爪先立ちの靴から労働者解放する事が筋じゃないのか。

フラットシューズマナーに加えてくれよ。

から笑顔相手と向き合える靴を履かせてくれよ。

これは我儘なのか。

風呂に入るのや毛を剃るのが面倒とかいうのとは話が違う。

風呂剃毛修行せずとも出来るが、ハイヒールはいきなり履けやしない。

革靴は電車ホームの間にも中々落ちないが、ヒールの踵は側溝に挟まる。

世の中皆がperfumeじゃない。

あれはヒールで踊る事を選んだ人達だ。

私に選ぶ権限はなかった。

「履きたくなきゃ履かなきゃいい。

 でも履いていないと、履いている人間と比べて不利になる。

 だから仕方ない。

 皆、履かざるを得ない。

 結局、互いを縛るのは互いに過ぎない」

正論に見えて何の解決にもなっていない。

「どうすべきか」の答えはもう少し先だ。

現状は囚人のジレンマ

AさんとBさんがそれぞれヒールを[履く、履かない]。

履かないBさんの評価相対的に下がって、社会的に不利になる。

ゆえに[履く、履く]という構図が不利益を防ぐ均衡なわけだが、

実際のところは[履かない、履かない]で公益は最大だ。

まり現代社会におけるヒールの着用は効率的ではない。

我慢するぐらいなら履かない方が良いに決まっている。

でもリスクが怖いから[履く、履く]になってしまう。

じゃあ囚人を解き放つにはどうすればいい。

履かなくても不利にならない状況を作るしかない。

からフラットシューズドレスコードに加えよう。

フォーマルフラットシューズを開発しよう。

フラットシューズが正装になれば、ヒールと並んだ時に顔をしかめられる事もなくなる。

ヒールを嫌々履く意味もなくなる。

「履きたくて履いてる人もいる」と別の人は言う。

そりゃそうだ。

履きたきゃ履けばいい。

だが履かなきゃならない理由にはならない。

カレー辛口は訓練すれば食べられるが、誰もが食べなきゃならない道理はこの世にない。

全員がスカーフを巻かなきゃならないわけでも、サングラスをかけなきゃいけないわけでもない。

履きたい人間否定する必要はない。

履くのが苦痛だという人間権利も守れたらwin-winだという話だ。

メガネの形、腕時計の素材、

それらが選べるなら靴の種類だって選ばせてほしい。

サンダルスニーカー許可しろって話じゃない。

フラットシューズで働かせてくれって話である

身だしなみを巡る問題にはそりゃもう色々と感情的な要素が絡んでくる。

自分は守ってきたのにとか、嫌でもやるのが社会人とか。

だが、これらの意地や怒りは良いものか。

これらに従う事は、少しでも何かを良くするか。

最初から無い方が良かったものじゃないのか。

他人の足を引っ張るより、辛い経験を皆で過去に葬った方がいいんじゃないのか。

から叫びたい。

ハイヒールを履かない事の何がそんなに問題だ。

ハイヒール義務をなくしたら核爆発が起こるのか。

ヒールをやめたい」「ヒールでないと正装に見えない」

「なら正装の条件を変えよう」「慣習を逸脱するのは良くない」

堂々巡り議論はもう沢山だ。慣習が変わればすべて片付く話だろ。

最初違和感がある、或いは見苦しく思えても、定着すれば問題にはならない。

からフラットシューズを履こう。

フラットシューズ万歳

フラットシューズを履かせてくれ。もう私の足は限界だ。

2017-05-14

[] 阿闍梨

阿闍梨あじゃり)餅は、京都市満月製造する菓子

  

丹波大納言の粒餡を、さまざまな素材を練り合わせた秘伝の餅生地で包み、焼き上げた半生菓子

しっとりした皮と自家製餡の絶妙なる調和…。

独特の食感を楽しめる逸品。

  

比叡山修行する僧にちなみ命名。形は阿闍梨かぶる網代笠を象った。

http://www.ajyarimochi.com/a_ajarimochi.html

http://www.ajyarimochi.com/a_kasidukuri.html

ネトフリDBZだけど

ナメック星編】

20Gの修行の成果すげー

ベジータナメック星人虐殺してるけど

こんなんでよくブルマ結婚させたな

しかベジータ悟空と同じで「とにかくもっともっと強くなりたい」キャラクターなんだな

クリリンドラゴンボール持ちながらブルマとご飯のところに向かうとき、何で後ろからいかけてくるベジータザーボンに気の気配で気づかないんだ?と思ってたけど

そのあとクリリンが「浮かれてて気づかなかった」って回収してた。

最低でも三交代確保できないとつらい保育になるだろうなぁ

http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/10/unicharm-cm_n_16524060.html

ムーニーのおむつCMに「ワンオペ育児を賛美しないで」批判

ムーニーのCMを見て泣いたと専業主婦の妻から言われて、ふと思った。

自分場合比較的恵まれている職場で、平日でも12時間程度は家に居られたし、その分家事も育児もしているつもりだったけれど、それでも二人ともつらかったというのは何だったんだろうなと。

イクメンもどきだったの?

本当にきついとき夜泣きをガン無視して寝続けたこともあったけれど、比較夜泣き対応もしていたと思う。

3時間ごとの授乳の頃、妻は赤ちゃんの鳴き声で起きられない体質だったので、ちょっとの物音で起きられる自分ミルクをやってた。仕事をしながらのこれは本当に修行だった。

離乳食を食べるようになってからは、1週間分の冷凍離乳食作りを毎週末にやってたし、週末の食事は当日に自分が作って食べさせていた。妻は自分が作った離乳食レンジでチンするだけで与えられるようにしていた。

平日は朝晩の食事洗濯子供沐浴おむつ換え、寝かしつけくらいをしていて、睡眠時間が4から5時間だった。「昔の受験生かよ」と自分自分突っ込みを入れながら眠い日々を過ごしていた。

妻は専業主婦でしょ?

育児労働時間は何時間なのかという疑問がわく。

即応できるように待機しているという状況は労働時間カウントするようで、そうすると育児は1日中になる。

保育園を使えると、即応できる状態である必要は無くなるので、育児労働時間からその分減らせそうな気がする。

妻は何がきつかったと思う?

夫が出かけて帰ってくるまでの昼間は完全にワンオペで、この時間がきつかったのでは無いだろうか。

その時間事故があれば自分のせいになるという心理的プレッシャーはかなり大きいと思う。

初めての育児で、他に教えてくれる人が居ない状態というのは、泣いている理由を探るのも一苦労だったのではないだろうか。

何か提案は?

ワンオペ育児がきついというのに大抵出てくるのは夫の協力を得られるようにするという話なのだが、夫の協力が得られても所詮ワンオペが1.5オペになる程度で、大きく改善はしないと思う。

リフレッシュ目的での保育サービスもっと使えるようになって、使うのがある程度社会的に認められるようになってくるとかなり楽なのではないかと思う。

2017-05-10

嫁がカクヨムデビューしたいらしいので全力で止めて欲しい

メルカリタンスにあった服をあらかた売ってしまったので今度は小説家になりたいらしい。

ただ、俺にはこれが良いものかどうかわからないが、嫁はけっこう大病をして入退院したこ

ともあったので小説家とか、不規則仕事を専業にしなくても、俺がもっとしっかりすりゃ

いいんじゃ無いかと思う。

つきましては増田の目の肥えた皆様に、とくに「この話は○○に似てる」とか、

これで食っていけるなんて修行不足とか言ってもらいたい。

文中出てくる「アルマジロ本」は、どうもITの小説資料として古本屋で買ったらしい。

ISBN:4873111382

すがすがしい一週間がはじまろうとしている、月曜の朝7時。

 

むぎゅっ、むぎゅっと、本の表紙に描かれたアルマジロは、紫の髪の毛を生やしたおばさんのタイトなお尻に、いままさにつぶされようとしていた。

「うおおおうこの本高いんだって! あああぁ」

本の持ち主は、糸井ヨシヒコ。もうすぐ40才、小学生の一男一女がいるパパさんであるしかし平日昼間は、しがないサラリーマンしかも、先月急に異動を命ぜられ、今は会社の一番隅っこの席で本ばかり読まされている。

前はお客様会社に車で直行直帰だったから、こんな満員電車でのバトルはもう何年ぶりのことだった。会社でも肩身が狭いっちゅうのに、ここでも隣のお姉さんに手が触れようものならチカン扱いだ。しかも。

ちょっとアンタ! 何アタシのカラダ狙ってんのぉ!?

と、ぜんっぜんアウトオブ眼中のおばさんにまでニラミをきかされる。思わず手先がふるえるけど、この本はまじで6000円くらいしたもんだから、手放すわけにはいかない。

「いや違うんです! ボクはこの本が……あ、いや、すみませぇん……いやこの本……」 

 

とりあえず糸井のチカン疑惑は晴れ、なんとか始業までに会社--システムビッグ略称SB社)にたどりついたものの。さてこれからが大変だ。糸井は眼鏡にくっついていたまつ毛を2本爪で飛ばして、デスクにあの『アルマジロ本』をバタンと立てる。

SB社とは(決してポテトスナック販売元ではない)、名前はなんだか壮大そうだが、単に社長カタカナ好きだっただけである。もともとは”永島帳票印刷”--といういかにもな社名で、小さな工場商店で使う専用帳票を作ってきた。最近は、大のパソコン好きの社長の息子(いま専務)がはじめた事業パソコンの使い方を教えたりとか、客が出す電子メールがちゃんと届くように『サーバ』を管理することとかの方が売り上げが多い。糸井もこの前、『帳票課』からシステム管理課』へ異動したばかりなのだ。--人手が足りないらしくて。

 

おはようございますぅ(はぁと)」

さっきのおばさんもともかく、庶務の新田ヒカリも、糸井の”どうにかしてほしい人リスト”の筆頭である。たしか年は27か28だったと思うのだが、制服に某ネズミとか某犬のバッジつけまくったり、真っ赤なマニキュアに砂粒乗せたり、それでもってその言葉遣いもそろそろやめてぇな、と思っている。そのうえ、目当ての男にしか丁寧な言葉が向けられない。

「さ・さ・き・さぁ~ん、どうぞ~ん(らぶらぶ)」

ほどよい熱さのコーヒーを、こん切ゆっくり丁重に、その男デスクに置く。すでに朝の作業を始めている佐々木カナメは--「ああどうも」と短く切って、パソコンモニタに流れる文字をじっと見ている。

佐々木は実にクールガイだ(死語?)。必要最低限のコトしかさない。タタタンタタタと、やせた指でコマンドを打ち続けている姿は、まるでピアニストだ。糸井とは同期だった。(佐々木高校を出てすぐSB社に来たので、年は4~5才離れているが。)同じ『帳票課』から異動してきたメンバーの一人ではあったが、入社から機械いじりが好きだったらしく、専務ともよく話が合うらしい。異動してきてからは、ずっとSB社自体メールサーバ管理する仕事をやっている。

それに比べて自分はどうだ? 糸井は”ふせん”のいっぱいはさまった、『アルマジロ本』を見つめた。新田がその様を気持ち悪そうにいちべつして、プイと給湯室に去ってゆく。糸井にお茶挨拶もくれない--いるもんか、あっかんべー。と舌を出したら、ちょうど目の前に課長がいた。

 

「ほほう。糸井、いい度胸だな。朝一番から

「あがっ」

 

「そんなにオレのワキガが気になるか」

「誰もそんなことツッコんでません……」

糸井や佐々木新田所属するシステム管理課の課長、進藤ユウジロウは、頭を9:1に必死で分けていることよりも、ワキガを持病と認定していた。夏場は近寄りたくないが、めちゃくちゃ気にしなくても、と糸井はため息を吐く

「ほら、ほら、臭いんだろ?」

「違いますって!」

ベタン。『アルマジロ本』が、倒れた。

 

システム管理課に異動が決まった時は、係長昇進か?! と焦って特上うな重と松の寿司セットを家族全員でおいしくいただいてしまったが、フタを開けてみれば、”もうすぐ”どこかの会社からサーバ管理する仕事が入るから、それまで勉強しててくれ、わかんないとこは佐々木に聞いてね状態で、まったく後味の悪い出前だったなと糸井は振り返る。

しかしほんまにこのまま、100円寿司にも行けなくなって、子ども誕生日駄菓子すらも買えなくなったらばどうする? めくったページはずしりと重く左手首にのしかかる。この腕時計は--あかん、これは親父の形見から絶対質屋には入れないぞ。

 

たばこを吸いに喫煙室へ、あるいは数回トイレに立ちながらも。ほぼ1日じゅう、糸井は『アルマジロ本』をずっと読み続ける。たぶんこの本とはお友達になれるかもしれないくらい。(表紙のアルマジロはけなげなまなざしをたむけるだけで、糸井のことをどう思っているかなんてわからないが。)そして、わきのパソコンを使って、本に書いている文字--コマンド、を指一本で打ってみたりする。しかし本の通りに文字が出てこないことがたいていだ。その度たびに、糸井は佐々木にそっと手で合図を送り、「これ打ってみたけどアレがコレと同じようにならないんだ」と困ってみる。たいてい佐々木は「デストリビューションが違うんで」とまだ理解できない返答を一言だけつぶやく。デストリだかデスティニーだかよくわからんので、糸井は適当にふむふむと無茶にうなづいて、また椅子を鳴らす。以下、繰り返し。

 

 

15時過ぎには新田が何かしらの手作りおやつ佐々木にふるまい、16時台は眠気と戦い、そして17時になるとまず新田が「おつかれさまでしたぁ~、さ・さ・きさぁ~ん、また明日もよろしくおねがいしますぅ(ウインク)」と去ってゆく。糸井も残業申請できるような仕事をやっていないのでいちおう定時で帰ることはできるが、良心がとがめてもうちょっとだけ『アルマジロ本』にマーカーで線を引く。佐々木ネットワークトラブルが無いことを確認したら18時くらいには席を立つ。

今日は、課長の進藤は客先での打ち合わせが遅くまであるので、ここには帰って来ない。--糸井は頃合いを見計らって、カバンの口を開けた。

 

 

夕方のけん騒がやけに背中にしみる。駅は徐々に帰宅ラッシュ客を迎え入れていた。駅前本屋に寄りたかったが、またアレなおばさまとかにめぐり会うかもという不安トキメキの方が大きくて、急いで定期入れを胸ポケットから取り出す。

ちょうど、東側の窓際の横椅子に座ることができた。向かいから、まんまるな夕日がきれいにきれいに、通り過ぎる電線の上をはねたり転がったりしていた。あああ、きれいな夕日だなぁ、と、鼻の脂がちょっと残ったレンズからあかね色のそれを吸収した。

 

から家までの間に、1本でも、とたばこを取り出したら、あららとはじき落としてしまった。しかもそれは、どこからかたまった水たまりの中にダイブした。--くしゃり、とつづきのたばこはもう箱になく、握りつぶしてから気づいてまたため息をひとつのばした。

 

慣れちゃいけないとは思いつつも、充実感の全く無い日々が、彼の血管をひとめぐり半はしていた。

しか家事の傍らいつ書いたんだろうか。。。

追記 いちおう掲載許可はもらった。

追記の追記 でも、カクヨムまったりマイペースで書いて、楽しんでくれるなら、彼女身体にもよいのかもしれないな。カクヨムって絶対みんなプロになるために登録してるものなの?

2017-05-07

修行としての苦労はしたほうがいいと思うんだけど

するに足るアクチュアルな苦労ってなんだろうということは常々思います

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