はてなキーワード: 紛争とは
「ハウルと動く城」にはよくわからない「戦争」が出てくる。心正しい魔法使いハウルはその戦争の惨禍をどうにかしたいが力及ばないらしい。
なんで戦争してるのかはわからない。わからないままに毎夜続く戦闘。
そして摂政のババアが改心して「やめましょう」というとあっさり終わる戦争。
とっくに終わった戦争について「悪い人が勝手に起こした」「戦争したいからしてただけ」「二度とそんな戦争を起こさせないようにしましょう」と膾を吹いてるだけ。
リアタイの戦争ってもっと抜き差しならないもんだろ。だれもが避けたいと思いながら圧倒的必然性を持ってみんなを巻き込み社会がそこに転がり落ちていく蟻地獄のような。
暇空茜がnoteで公開している判決文を、ChatGPTにOCR処理してもらった後、NotebookLMにて『目次』を生成した。
原告: 仁藤夢乃、一般社団法人Colabo(代表理事 仁藤夢乃)
原告 - 弁護士 神原元、角田由紀子、端野真、堀新、太田啓子、岸本英、伊久間勇、河西拓哉
被告 - 弁護士 垣鋭晶、訴訟復代理人弁護士 邊美陽子、松永成高
・原告Colaboへの損害賠償請求:550万円および遅延損害金
第2 事案の概要
原告らは、被告が自身のブログサイトおよび動画投稿サイトにおいて、原告らに対する名誉毀損にあたる投稿を行ったとして、損害賠償、投稿の削除、謝罪文の掲載を求めた。
1. 前提事実
(1) 当事者
・原告Colabo:10代女性の自立支援を目的とする一般社団法人
・被告:Twitter、ブログサイト、動画投稿サイトを管理し、原告らに関する投稿を行った者
(2) 本件各投稿
・被告は、ブログおよび動画投稿サイトにおいて、原告Colaboの活動に関する記事や動画を投稿した。
・投稿内容は、原告Colaboが10代女性を劣悪な環境の家に住まわせ生活保護を受給させているというものだった。
2. 争点及びこれに関する当事者の主張
(1) 本件各投稿が原告らの社会的評価を低下させる事実を摘示したものといえるか(争点1)
・原告:投稿は原告らが10代女性を利用し生活保護費を不正に取得したとの印象を与え、社会的評価を低下させる。
・被告:投稿は公開情報に基づく意見論評であり、事実の摘示ではない。摘示されたとしても、非難されるべき事実ではない。
(2) 本件各投稿につき真実性又は真実相当性の抗弁が成立するか(争点2)
・被告:投稿は公益を目的とするものであり、摘示事実に真実性または真実相当性があるため、違法性は阻却される。
・原告:被告の投稿は原告らを誹謗中傷するためのもので公益目的はなく、摘示事実も真実ではない。
(3) 原告らが本件各投稿による社会的評価の低下を受忍すべきであるか(争点3)
・被告:投稿は原告Colaboの公金使用に関する監視を促す目的であり、原告らは社会的評価の低下を受忍すべき。
・原告:被告の主張する不正の疑いは監査の結果、否定されており、原告らが社会的評価の低下を受忍すべきではない。
・被告:原告Colaboは不正を行い、被告の情報発信による不正発覚を防ぐために訴訟を提起したものであり、権利濫用。
・原告:被告の主張は監査の結果、否定されており、訴訟は不正発覚を防ぐ目的ではない。
(5) 原告らの損害の有無及びその額(争点5)
・原告:投稿により社会的信用が大きく損なわれ、損害額は500万円を超える。
・被告:損害は原告らの不当な活動が原因であり、投稿との因果関係はない。
(6) 本件各投稿の削除及び謝罪文の掲載が必要であるか(争点6)
・原告:投稿は根拠のない誹謗中傷であり、削除が必要。名誉回復のため謝罪文掲載も必要。
・原告らの活動内容、原告仁藤と被告の紛争経緯、原告Colaboの活動資金問題、原告らの活動の現状、本件訴訟の経過等について詳述。
争点1(本件各投稿が原告らの社会的評価を低下させる事実を摘示したものといえるか。)について
・本件各投稿は、原告らが経済的に困窮している女性を利用して利益を得ているとの印象を与える内容であると判断。
争点2(本件各投稿につき真実性又は真実相当性の抗弁が成立するか。)について
・原告Colaboが公開している情報からは、本件各投稿の摘示事実が真実であると認めることはできず、被告が真実と信じる相当な理由も認められないと判断。
争点3(原告らが本件各投稿による社会的評価の低下を受忍すべきであるか。)について
・原告Colaboの活動資金問題を理由に、原告らが社会的評価の低下を受忍すべきとはいえないと判断。
・原告らによる訴訟提起が被告の情報発信を委縮させる目的で行われたと認めるに足りる証拠はないと判断。
争点5(原告らの損害の有無及びその額)について
・原告Colaboには150万円、原告仁藤には50万円の損害賠償が認められると判断。
争点6(本件各投稿の削除及び謝罪文の掲載が必要であるか。)について
・本件各投稿の削除は相当であるが、謝罪文掲載は相当とまでは認められないと判断。
第4 結論
原告らの請求を一部認容し、被告に対し、原告仁藤へ55万円、原告Colaboへ165万円の損害賠償の支払いと、投稿の削除を命じた。
出典: https://note.com/hima_kuuhaku/n/n88a879d916b8 (20240718_判決_墨消し済み.pdf)
ああ、台湾侵攻のシナリオについての話だね。正確なコストを算出するのは難しいけど、大まかなイメージは伝えられると思う。以下に分けて説明するね。
1. **人的コスト**:
4. **その他のリスク**:
1. **人的コスト**:
4. **その他のリスク**:
どちらの場合でも多くのリスクとコストが伴うことは明白だね。具体的な状況や背景によっても変わるから、慎重な判断が求められるね。
子曰く、「増田、彼を知りて己を知らば、百戦して殆うからず。」台湾侵攻の話に関連して、「失われるものなんてない」という見方は慎重に考えるべきだ。孫子の『兵法』で言うように、戦争とは単に領土や体制を変えるものではなく、その地域と関連するすべての国家や人々に広範な影響を与える。
まず、台湾の民主主義が失われることは単なる一部の変化ではない。民主主義はただの政治体制ではなく、人々の自由と権利を保護する重要な基盤である。それが失われることは台湾住民の生活と未来に甚大な影響を及ぼす。
また、アジア太平洋地域における安全保障の均衡が崩れれば、世界的にも深刻な影響が予測される。この地域は国際貿易において極めて重要な役割を果たしており、紛争が生じれば経済的な混乱は避けられないだろう。
さらに、「民主主義より命の方が大事」と言うが、民主主義があってこそ人々の命や生活が守られる。もし戦争が避けられない場合、それでも多くの命が失われる危険はあるが、正義や自由を守ることが究極的には多くの命を救うことにもつながるのだ。
孫子が教えるのは、慎重かつ賢明に行動すること。軽視できる問題は一つもない。増田、真に世界と私たちのためになる選択を模索しよう。
Thomas Lockley Author
これは私たちの時代には前例のない状況です。私たちや私たちの愛する人たちの多くにとって、フラストレーション、痛み、苦しみ、そして最終的には死の時代です。先進国、特にその富裕層は、最近の世代を通じて比較的スムーズな生活様式とより良い生活水準に慣れてきました。
これは歴史的な標準ではありません。
人類の歴史を通して、私たちの時代はほんの一瞬です。99%の人間は、自然災害、医療の欠如、食糧不足、または紛争とそれに伴う病気、飢餓、奴隷制などの悲惨さから、混乱した、短く、しばしば残酷な人生を送ってきました。
ヤスケの人生はそのような人生でしたが、彼はそれをうまく生きました。
彼は少年時代に家族から引き離され、両親が虐殺されるのを見たかもしれません。
彼は十代の頃、残酷な扱いを受け、少年兵、プロの殺し屋として訓練された。
彼の人間性がこれを乗り越えたことは、彼の生涯に関する歴史的記録に明らかであり、私たちが彼を人間として尊敬する理由をさらに与えてくれる。
彼は雇い主によって16世紀の日本の戦場に連れて行かれ、現代のほとんどの人が考えられないような危険を冒すことを求められていた。
1581年、日本の中央地方を巡業していたとき、彼は暴徒に襲われ、暴力で死にそうになった。他の人々はそれほど幸運ではなく、黒い肌の神だと信じていた男を一目見ようと騒ぎ立てる群衆に押しつぶされて死んだ。
その後15か月間、彼は2回、あるいは3回も戦争に行き、戦闘で忍者と対峙した可能性があり、何千人もの虐殺された民間人や焼け落ちた集落、致命的な病気、死体をむさぼり食うカラスに遭遇したことは間違いない。
知られている最後の戦いは、13,000対30の戦いで、彼は主君の切腹に立ち会い、切り落とされた首を主君の息子に与えた。主君の息子は、父の首が差し出された1時間後に非業の死を遂げた。弥助は屈辱を受け、敗北し、歴史から消えた。彼の日本の一族はほぼ消滅した。彼の財産と地位は永遠に失われた。
それは混乱と危険と苦痛の人生だった。おそらく、ここ数週間、数か月の間に私たちの多くが突きつけられた人生と似ているだろう。
しかし、私たちは、弥助がユーモアがあり、礼儀正しく、行儀の良い人物として同輩から見なされていたことを知っている。他の人から尊敬される人物であり、450年経った今でも尊敬されている。彼は悲劇的な若さにもかかわらず、自分の運命を自分で切り開いた人物だった。彼は、地球の反対側で自分の居場所を見つけ、運命が与えてくれたわずかな可能性を掴み、誰も想像できなかった輝かしい人生を切り開いた男だった。少なくとも、彼自身は。
彼の苦しみの果てには、輝く不滅の光があった。彼は日本で愛する家族と安らかに余生を過ごしたとさえ考えられている。
今日、彼の人生は記憶に残り、世界中の多くの人々にとっての道しるべ、いや英雄と見なされている。私たちの中に、このような偉業を夢見ることができる人がどれだけいるだろうか。
これから数週間、数ヶ月、私たちはみんなヤスケだ。私たちは危険で死に至る世界を切り抜け、全力を尽くしてそこから抜け出さなければならない。
家族や愛する人の安全のために、必要なリスク以外は、愚かなリスクを冒さないように。
自分の再選だけを気にする利己的な政治家のアドバイスは無視してください。
ヤスケになりましょう。生き残りましょう。 向こう側までたどり着いた人になりましょう。
昭和12年11月11日 出生
昭和30年3月10日 名門高等学校を経由して東京大学理科3類に合格
その後、次第に昇格し、解剖学の教授となり、脳剝ぐ、脳出しなどの技術を習得。
昭和40年代~50年代 解剖学教室教授時代に学内紛争が発生しそれに巻き込まれたと書いている。
平成元年以降 唯脳論、涼しい脳みそなどのエッセイでヒットし、愛読者が増加。 例 私の教室にヤクザが来たことがあった。そのときに私はヤクザの前に人体の
切り落とした腕を置いた。そうしたらヤクザは黙って帰って行った。切り落とした
腕は自然である。ヤクザもそれには勝てないというわけであろう。
平成18年度末の3月31日以降に精神状態が悪化し、有名ラジオ番組で、後ろの方から喋るといった状況。それ以前の書籍は具体性があったが、バカの壁の第2弾辺りから
同じことの繰り返しが増加して現在に至る。
麻原彰晃についての見解: なぜあんな風体の者についていくのであろう。あのような風体のものを信仰すること自体がおかしいであろう。
なかなか強力な布陣で選挙に臨むらしいと聞いたので、取り急ぎ以下のお二方について調べてみました。
1958年生まれ。東大法学部卒。松下政経塾出身。「陽転思考」なるものを掲げて講演活動を広く行う一方、「社会教育家」として肩書多数。
弘法寺の公式サイトによれば、僧侶としては小田全眞と名乗っている模様。
公式サイトの記載の住所に従ってグーグルのストリート・ビューで見てみると寺は慶應三田キャンパスにほど近い路地裏にあり、およそ大本山という風情には見えず、なぜか“弘法寺”ではなく“高野山龍生院”という文字が見える。
ただし、ストリートビューは6年前の画像となっているので、現状ではどうなってるのかわからない。
また、真言宗といえば高野山真言宗、東寺真言宗はじめ醍醐派だの豊山派だの分派が多いことで有名で、現在では50ほどの分派があるらしいが、この“大本山”がどこに属しているのかは未確認。
妻は、元衆議院議員の深谷隆司の次女で、弘法寺尼僧の小田海光。この人も寺の公式サイトに顔写真入りで紹介されている。
1953年生まれ。東京の大学出身で安田闘争に感銘を受けた模様だが、出身大学は不明。
自民党田中派の代議士秘書から大阪市議に当選、その後、小沢一郎が率いる新生党に参加。1996年に当時の民主党から衆院選に、1998年には三重県名張市長選に出馬するも落選。
なお、当時は藤川基之という名義だった模様。
その後、インドネシアで事業を手掛けるも、現地の紛争の余波で帰国。その後は民主党、みんなの党の選挙参謀や減税日本の選挙対策事務局長、東京維新の会の事務局長を務め、一部では“選挙の神様”との異名を取る。
かつて埼玉県知事選挙で野党候補一本化のために動き、現職の大野元裕知事の誕生に貢献したのもこの人らしい。
(なお、大野が初当選したときの自民党の対立候補は当時は野球評論家の青島健太。地元では流石に埼玉県民舐めすぎだろ当選するわけないといわれ、事実、落選した。そんな青島健太も2022年の参院選で維新の比例代表候補として出馬し、今はめでたく参院議員である)
そんなわけで、お二方ともなかなかに個性的な経歴だが、これを踏まえて石丸氏どう評価して投票行動につなげるかは、あなた次第です。
クドカンのドラマでドランクドラゴン塚地が「男か女か分からない」絶妙な容姿と表情の看護師を演じることが話題になった
「こういうおばちゃん看護師いる!注射打つの上手いから当たりの看護師」 「病院に一人はいる頼もしい上司、こういう看護師を味方につけられるかが勝負なんだよね」と、病院あるあるや看護師あるあるを楽しく語る人もいる中で
「LGBTを笑い者にするのはやめろ、クドカンはやはりアップデートできていない」と猛抗議している人も一部で存在している
まずこのドラマは放送前で塚地が演じる登場人物のパーソナルな部分はまだ判明していないしどう描かれるか分かっていない
周りの登場人物が彼女(彼?)をバカにしているなどという情報ももちろん存在していない
SNSで草を生やしたり笑顔の絵文字で反応した人も塚地を見下したりいるわけではなく、「こういう人いる!凄い!」と、共感&賞賛のコメントをしているだけだ
これについては「まだ放送前なのになぜ“笑い者にされている”と決めつけるのですか?」というツッコミが多数寄せられていた
ドラマファンや芸人ファンにとって塚地は「コント師であり、俳優としても実力があって、親しみのある笑顔が素敵な塚っちゃん」だが、
「差別だ」と言う奴は塚地に対して「不細工なおじさんで気持ちが悪い」 「芸人なんてみんな河原乞食だ、敬意なんて一切払う必要がない、笑うとしてもポジティブな意味ではなく侮蔑を込めた嘲笑をぶつける相手だ」という差別や偏見を持っているから嫌悪感が先立って叩いてしまったのだと思う
自分が笑い者にしているから「笑い者にされているに違いない」と思い込んだ
日頃被差別階級のように扱っている存在が特権階級であるLGBT様を演じることが耐えられなかったのだろう
本当に、「見てもいないのにジャッジする」があの手の界隈で常態化しすぎているなと思う
やられたのがクドカン作品だから今回は特別にファンネル飛ばして庇う声が大きかったがほとんどの場合雑に火つけされてそのままほったらかしだ
先週は別件でこんなこともあった
オリラジ中田やキングコング西野が出演したこともある某番組で、後輩の芸人が「自分はあの人たちとは別の道を行きたい」という意図の発言をして、
ここでいう思想は西野の「ディズニーを超えたい」発言だとか彼らがお笑いを離れ自己啓発セミナー的な活動に注力していることを指していて、
あの人たちのようにマルチに活動の幅を広げるのではなく自分はお笑い一本で行きたい派なんですよね、という軽い雑談のひとつに過ぎないのだが
それについて文脈をあまりよく分かっていない人が「思想系」の「思想」を「フェミニズム、ガザの紛争、LGBT差別、支持政党などについて何かしらの意見を持つこと」という意味だと勘違いして
「ある番組である出演者が思想することを揶揄していた!」と番組名等の詳細を伏せつつ喧伝して火つけしたのだ
取り巻きの人たちは「反知性を推奨するプロバガンダ!」 「国民が政治に関心を持つことを阻止しようとしている!」などと大激怒していたが
「なんの番組?実際にはどのような文脈で語られた発言だったのだろう?見逃し配信で見られるなら確認しよう」と知ろうとするどころか
具体的な番組名やプロデューサー名、発言者の名前にすら関心がなく誰もそれを確認しないまま大激怒し続けていたのだ
「これだからテレビは」と唱え、世界が狂っていることを再確認して安心したいだけでそれ以外のことはどうでもいいし何でもいいんだなと思った
ネット配信限定のABEMAの番組のスクショを見て「このようなものをテレビで垂れ流しているのか!」って怒ってる人もしょっちゅう見かけるし
ソースを確認したら負けなのだろうか?そこに思想はあるんか?ソースを出さない奴やソースをよく読まない奴をバカにしていた昔の2chの方がまだまともなのではないだろうか
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
AIさん、また自信満々に嘘ついてない?
ジェンダー:15回
ジェンダーバイアス:1回
男女共同参画:8回
25回(ジェンダー平等2回、ジェンダー視点3回、ジェンダー問題0回、ジェンダーバイアス1回)
人文社会科学系のGender Equality Matters ─日本学術会議総合ジェンダー分科会第24期の成果から─
「学術支援・研究職」の現状と課題 ─ジェンダー視点からの検討─
「卵子の老化」が問題になる社会を考える ─少子化社会対策と医療・ジェンダー─
若手研究者養成とジェンダー ─人文・社会科学領域における女性・若手研究者養成の支援―
減災の科学を豊かに -多様性・ジェンダーの視点の主流化に向けて-
教養教育は何の役に立つのか? -ジェンダー視点からの問いかけ-
日本のジェンダー平等の達成と課題を総点検する -CEDAW(国連女性差別撤廃委員会)勧告2009を中心に-
8回(特集7件)
日本の戦略としての学術・科学技術における男女共同参画 ―「第4次男女共同参画基本計画」との関わりで―
男女共同参画の一層の推進に向けて
どこまで進んだ男女共同参画
2回(ジェンダーと1件重複)