はてなキーワード: ミュージシャンとは
出てないミュージシャンでは、この感じだとクチロロは絶対入ると思うけどなあ。00:00:00かあるいは渚のシンデレラあたり。あとkiki vivi lilyは間違いなく好きだと思う。
Lampの作品では選ぶなら個人的にはやっぱり「さち子」だと思う。
最近spotifyで流れてきたやつだけど、松木美底も好きそうだなあ。https://www.youtube.com/watch?v=tRJpaD7CSdI
俺は世代が少し上なので、良いとは思うけどちょっと世代的な感性が合わない感じ。ニコ動とかボカロとかSEKAI NO OWARIあたりで育った世代の感じがする。
ZETTAKUNも好きそう。おかもとえみも好きだろうな。 https://www.youtube.com/watch?v=9qyZkP_2pwM
ただの事実なので。あと、判断能力に問題がある女性が母親の場合、子もなる場合が見られるな
精神障害者として判定されていない人を精神障害者として扱ってはいけないし、
精神障害者であっても自己決定は尊重されるべきだし、どこまでの手助けがいるのかは専門機関が個別に判断するべきことだからです
政治家・医者・自然科学の研究者・不動産会社社長・ハリウッドスター・世界的なミュージシャン・複数の国で活躍する芸能人などになる人たちもいる
そんなポルノスターたちと性産業で食い物にされる女性たちの違いを遠慮なく書くと、知能レベルの違いだと思う
で、それ本気でわからないヤツっておるの?
増田が、
政治家・医者・自然科学の研究者・不動産会社社長・ハリウッドスター・世界的なミュージシャン
複数の国で活躍する芸能人などになる人に成り上がるようなポルノスターにも、
AV・風俗業・水商売をさせたくないと考える理由はよくわかったよ
危ないと思うのでさせたくないのだね
ちなみに、増田がリアルで、AV・風俗業・水商売をやっている知り合いがいて
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
それらの業界で重度の発達障害・軽度知的障害・メンヘラに働かせるなはわかる。彼女たちにサバイバル出来るわけが無いので
政治家・医者・自然科学の研究者・不動産会社社長・ハリウッドスター・世界的なミュージシャン・複数の国で活躍する芸能人などになる人たちもいる
そんなポルノスターたちと性産業で食い物にされる女性たちの違いを遠慮なく書くと、知能レベルの違いだと思う
で、それ本気でわからないヤツっておるの?
ワイは『AV・風俗はなくていい福祉に繋がるべき』がスタンスだけど、
それは明確に『お前の知能で考えたことはまともじゃないので従いなさい』って思ってるからだ
ただ、表だったら、必死に自分で生活を立てようとしている彼女たちをがんばったねって肯定し尊重するフリをすると思うよ
本音ではまともではないと思ってるので福祉に繋げることはできないか試みはすると思うけど、親族でもない限り嫌そうにしてたら引き下がるよ
これは文明人なら守るべき当たり前の建前だと思うよ。他人を尊重してるふりくらいはしよう
念のため書いておくけど、アウトリーチ活動を否定しているわけでも、法律が彼女たちを守るように動いてることに否定的なわけでもないよ
ミュージシャンズ・ミュージシャンってやつで、コレクターズやピロウズなんかもそれ。お笑いでいうとバッファロー吾郎やハリウッドザコシショウにあたる
たぶんどのジャンルにもある
当時田舎の学生だった自分は何かのイベントで新宿に行く事になった。
「せっかく東京に行くんだから何か名物になるものが食おう、そうだ好きなミュージシャンがブログでうまいうまいと書いてた二郎って店に行こう。」そう思って歌舞伎町の二郎に足を運んだ。
当時ブログというかweb日記みたいなものしかなく、二郎がどう言う系のラーメンなのかさっぱり分かっていなかった。調べても出てこなかったし。
また学生で視野も世界も狭く、ラーメン=地元の鶏ガラ出汁に背脂たっぷりの中華そばだと思い込んでた為二郎に到着して先人の食べているラーメンを見て驚いた。
今思えば一旦そこで店を出れば良かったのに子供だから一回入ったら注文しないと出れないと思って次のような注文をしてしまった。
・野菜全部抜いてください
・チャーシュー薄切りに出来ますか?出来ないなら抜いてください
二郎の良さ全部抜き。店員さんに5.6回すげえ変な顔されながら本当にそれで良いのか聞かれ、今なら二郎がどういうものか分かるけど分からなかったのでいい加減しつこいなと逆ギレしてしまった。申し訳ない。
先述の通り鶏ガラ背脂がラーメンだと思ってた自分、出てきたラーメンがそうではないので思ってたのと違うからとほとんど食べる事が出来ず逃げるように退店した。
昔は良かった。今こんな事したらどうなるかわからん。
英語が難しいっていうやつって2通りいて
もうレベル高すぎて何が難しいかわからないとこまで言っている人、この手の人はもうどうしようもないですね、っていう感じなんだがもう一方の
レベル低すぎて何やっていいかわからないけどあほなのばれたくないから「英語が難しい」といっている輩だ。
英語のレベルが低すぎるっていうのは要は現在形から怪しいっていう感じのやつらなんだが、こういうやつらに少しアドバイスしようと思う。
なぜ難しいのかを書いてみることにしよう。
という点において現実世界で使われている英語とは違いものになっているからだ。
ここまで書いてみて勘のいいひとはわかるかもしれないが、「英語という言葉は簡単だ、ある程度のレベルまでは」という事であり、そのある程度のレベルというのは、生きていく上で不自由しない程度の知識が身につくという意味だ。
当然ジャーナリストや政治家が使うような英語はレベルが高い。一切の間違いは許されず、豊富な動詞を使って文章を彩り、適切な長さでセンテンスを切っていく必要があるが、そんなのはネイティブの大卒とか日本国内のすごい奴らに任せとけばいい。
次に日本で英語を難しくしているのが、ネットに出てくる「字幕なしで洋画が見れる」とか「辞書なしでニューヨークタイムスが読める」とかそんなのだ。
俺は英語はそれなりにできるが、映画TAXIで最後までフランス語だったことに気付かない程度の間抜けでもあることは先に言っておく。
なんだよこいつら酷い訛りだなといってみていて後日友人に「あれフランスの映画じゃないの」といわれた経験は今も美しい思い出として胸の中にしまわれている。
というように、字幕なしで洋画を見るとか、辞書なしで英字新聞を読むというのは英語とは別のスキルが実は必要なものでもある。逆にそっちのスキルがしっかりしているとある程度検討をつけてみたり読んだりすることができる。
映画なら各キャラクターについてしっかり把握している、物語の背景や何やかやといったものであり、新聞ならその国の直近のニュースや歴史、文化、常識といったものだ。
逆にこれがないなら映画も新聞も無理だといっておく。それら抜きで映画も新聞も行けるならもうその人の言う英語が難しいは全然違うレベルで言っている。プロのミュージシャンが楽譜が読めないといっているようなもんだ。
英語が大してできもしないくせに難しいといっている奴らの言う英語がこういう英語だから難しいんだということを言いたい。
多少支離滅裂だがこれでわかってくれるだろうか。
べつにアイユーライクでも通じるといえば通じる。よくわからんかも知らんが言葉なんて言うのはそんなもんだ。
会話の世界ではテンスも三単現のsも複数形もなんもかもでたらめだ。俺が言うんだから間違いないぞ。
だが重要な単語のチョイスさえ80点くらいをキープできてれば大体どうにかなる。まずはそこを目指せばいいんだよ。
海外に行くとわかると思うが、TOEIC200点台で英語普通にしゃべるやつらがいる。あいつらの英語は全くのでたらめだ。だが通じている。これは実は不思議でもなんでもない。
次に言い直すことを躊躇しない
そして聞き間違えてわかんない時も聞き返すスキルがすごく高い。相手を不快にしないで聞き返している。
パードン?とか使わないんだよな。
たとえば勝手に相手の言ったことを自分なりに理解して怒ってみて「ほんとあいつらショーがネーナ!」とか言ったりしたら行った側が誤解を与えているから言い直すし、それによって誤解が解けると緊張と緩和によって笑いが起きる、こういったよくわからないがコミュニケーションの極意のようなものを身に着けているから英語が喋れるし、上達のスピードも速い。
だが、おそらくTOEICをやっても400点台が関の山だろう程度には英語はでたらめなままだ。
そもそもあいつらは人が好きだから何の躊躇もなくしゃべるという特技がある。
だが、俺が何度でも言いたいのは「英語そのものは簡単だ」ということだ。英語の難しいレベルに入ってから愚痴ればいいよ。
お前らが「英語が難しい」っていうのは俺には「ぼくちゃん勉強したくないパープリンナンデチュー」くらいにしか響いてないから気をつけろよ。
某氏が書いた記事から色々なところで似たようなことが記事になっている。
まぁ前からかかれていたのかもしれないけど、俺が若かったせいかどうかしらんけど、俺のアンテナには引っかかってなかった。
何かと注目度の高い某氏だから色んな人が読んで共感したというだけの話なのかもしれない。
僕は割とやりたいことは片っ端からやってきたので、この手の感情を抱くのも早かった気がする。
25歳くらいには楽しいことはやりたおした気がしたし、30歳くらいには人生あれくらいまでしかできないんだろうなとも思った。
それは息子がいるからということもあるかもしれないが、多分もうちょっと別の話。
前に何かで読んだことがあるけど、例えばミュージシャンなどは自分の限界を悟ると講師になりがちっていう話。
説教おじさんも似たようかな話かもしれないが、まぁマウントを取りながら自分以上の成果を上げる人を育てたいというのは、ある意味本能なのだろう。
そもそもなんだけど、右肩上がりの成長中のグラフであることは大事だし楽しい。
自分のあらゆるステータスを数値化するもよし、定性的にふわっと感じるもよし、それが実感できる状態であれば、生活は日々彩りを増す。
中年現象で無味乾燥を抱いている人の多くは、この成長を自分の中だけにしか向けていない気がする。
ゲームをやりこむなんてのもあるかもしれない。
ただ、若い頃から持たざるものは、そうやって誰かの、何かの成長に自分を重ねて生きているのではないかと思う。
自分が強い人ほど、自分の成長だけをみてきたひとほど、中年現象にぶち当たるのではないかと思う。
あんま細かく書いて自慢話やマウントと取られても嫌だけど、まぁだから中年現象が打ち消される。
結局のところ、色々できて頭が良くて好奇心があって行動力がある人が、その能力にかまけてふわっと生きてきて、それが充実した日々と感じ結婚なんか別にと思っていたことの限界でしょ。
長い思春期が終わっただけだよ。
「日本語ロック論争」は、日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが「議論」された。日本語はロックのメロディーに乗らないという説に、英語派であるミュージシャンは海外成功目標で英語は不可欠という論拠の内田裕也(と、その牽引していたフラワー・トラベリン・バンド)、グループ・サウンズ時代から活動するザ・モップスは英米追随ながら本物のロック音楽志向という立場である。日本語派はっぴいえんどは[注釈 1]、その前身エイプリル・フールから移行発展するなか[注釈 2]うたごえ運動の流れを汲むボブ・ディランらに影響を受けたフォークの岡林信康ら、日本語で歌うアーティストが次世代音楽(ポップス、またはニューミュージック)に進展する中起こった「議論」がある。
誰もが通った道なんや。
この記事を読んで、「きみ」とは自分のことだと思ったら、「ぼく」にひとこと連絡をくれると嬉しいです。
こんな回りくどいことをしないで、人づてに連絡してこいって思うかもしれない。それはもっともなんだけど、久々にきみのことを考えた時、なんとなくインターネットという海に瓶詰めの手紙を流したいと思った。
大学生の頃、きみがNHKで矢沢永吉特集を観て、一冊の本を読み、一人の友人を思い浮かべながら、僕に話してくれたことだ。
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ヤザワと呼ばれるひとたちがいる。というか、これからそう呼ぶ。ヤザワとは、要するに矢沢永吉みたいなひとのことだが、ロック・ミュージシャンとは限らない。
ヤザワは、少し変わったひとだ。少なくとも、世の中の大多数はヤザワではない。
ヤザワは、端的にいってしまえば、夢見がちなひとである。誰もが年をとるにつれて捨ててきたり、置いてきたり、失ったりしたものをいまだに持っていて、それだけでは飽きたらずにそれを持ち続けることがよいことであると全方向的に信じている。
彼らの一部は、「私」や「俺」など、代替可能・抽象的なものではなく、一人称として彼自身の名前を用いる。そのため、彼らが自分について語るときには、主観的に自らを規律しながらも、人称のトリックによって客観的に表現する地位を得ている。
例えば矢沢永吉が「ヤザワはBRAVIA」というとき、それは「俺はBRAVIAを選ぶ」という主観的な語りであると同時に、少し離れて「矢沢永吉はBRAVIAを選ぶ」という客観的な記述をしている。ここにおいて、ヤザワは自ら意思決定をすると同時に、第三者に決められているという一見矛盾した状態に置かれる。この矛盾した状態に置かれていることが、ヤザワを理解するうえで重要となる。
こうしたヤザワは、周りから当然疎んじられる。周囲のひとびとは、口々にヤザワを夢見がちで、キレイゴトを信じ続ける、子供のような存在だと罵る。しかも、たいていの場合、ヤザワはうまくいかずに挫折する。時として、挫折したヤザワは強い反ヤザワになる。
しかし、そんなヤザワのなかにも、時には成功するひとがいる。というか、矢沢永吉そのひとである。
するとその時、今までさんざんヤザワを罵り、いわゆる普通の道を歩ませようと努力してきた周囲のひとびとは、手のひらを返したようにヤザワを賞賛する。ひとびとは口々にいう、「夢も現実になる、キレイゴトを信じてよかった」と。ひとびとが押し殺してきた何かをヤザワがぶちまけてくれることへの感謝である。もっとも、夢を見続け、キレイゴトを信じ続けたヤザワは、そのときには既に周りのひとびとには分からないことばを話すようになっている。
きみは続けた。「そういうヤザワを、ぼくは見守るよ。」
そしてこう締めくくった。「ヤザワは矢沢永吉になる可能性を秘めている。それを周囲のひとたちが潰してしまうのはもったいない」
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きみの話はいつもとても面白かった。ここでは細かく書かないけれど、ある時女の子と一晩限りの夜を過ごそうと思ったら、その子がおばさんの履くような紫色のパンツを履いていて、しかもそのパンツに毛玉があって萎えてしまった話とか、切り絵で女性器を詳細に模して、潮を吹かせる方法を教えてくれた話とか、とてもよく覚えている。
なかでもこのヤザワの話はお気に入りで、お茶碗の裏側ぐらいしか器のないぼくは正直きみの器のデカさにすっかり感心した。それ以降こういう状況に巡り合うたびに、きみのことを少し思い出す。それと同時に、その頃きみが住んでいたシェアハウスの部屋がぼんやりと頭に浮かぶ。
大学を出てからすっかり疎遠になってしまった。この春でもう8年になるね。子供がいるって聞いてるよ。ぼくにはまだ子供はいないから、子育てのことはよく分からないけれど、きっと忙しくしていることと思う。それでもこの夏、東京に戻るから、また一緒に飲みに行ったりできたら、本当に嬉しい。
くれぐれもお達者で。
平沢のファンの民度はとんでもなく低い。少しでも平沢ファンの異常さを知ってほしい。ファンたちは平沢を絶対視して唯一無二の存在として崇めている。それゆえに、平沢の陰謀論に満ちた頓珍漢な発言を鵜呑みにし、反対する者はアンチと認定して排除する。はっきり言って腐ったコミュニティ。まともな人が存在できるわけがない。平沢自身がJ-POPを蔑んでいる節があるのだが、ファンたちはその思想を絶対視して、他のJ-POPミュージシャンを見下す態度をとる。平沢の言動を疑問視しないあたり、ファンの大半は思考停止していると言える。他のミュージシャンの曲も聴く人ならそのようなことはしないはずだから、平沢のファンは平沢以外ろくに音楽に触れていないただの物好き。また、ファンたちは音楽の知識に乏しい。平沢の音域は7オクターブだとか、tab譜を平沢が創ったものだとか、噴飯物の無知具合を披露している。さらに、思想と作品を別だと考えている点も問題だろう。平沢はコロナウイルスを茶番であると、人命を軽視したあまりに不道徳的な発言をしたが、ファンたちは思想と作品は別だから~と論点がずれた詭弁ばかり並べて言い訳をした。思想というのは物事を見たり考えたりするうえでの基礎となる部分で、作品を創るうえで持っている思想の影響は大きい。ファンたちはまともな思考もできないので、このような常識を持ち合わせていない。平沢のファンがこのように暴走している要因に、「馬の骨」という固有名称がある。この固有名称が自分たちは他とは違うのだと、傲慢で身勝手な思い上がりを生み出す。Twitterのプロフィール欄に「馬の骨」と書いている人には近づかないのが賢明だろう。