はてなキーワード: 拍車とは
「自分ひとりが忙しい」「どうも割を食っている」「自分の選択が悪いから今こんなに大変」みたいなネガティブ忙しいときに現れる。
雑ごはんの基本は卵かけご飯。パカッと炊飯器を開けてごはんよそって上から卵割って醤油かめんつゆかごはんですよをかけて食べる。台所で。3食これ。
あとはインスタントラーメン。一週間とか食べ続ける。いい年した大人の食事ではない。
最近は子供が残した食パンの耳が雑ごはん会の雄。ぼそぼその耳をもそもそと食べているとどんどん自分なんかどうでもいい人間なんだ…という気持ちになっていき、ネガティブに拍車がかかってとても気に入っている。
普段は3食ちゃんと食べる人間なので、食に興味がない人からしたら大したことではないのだろうけど自分のなかでは大問題なのだ。
良くないな~ちゃんと食事の支度して食べないとな~と思えば思うほどどんどん雑にしてしまう。
良くない。
地元の医学部に入学しそのまま母校の附属病院で勤務という、いわゆる地元の秀才コース。数年前まで同地域の大学病院に勤務していた。
研修医の大学離れが叫ばれて久しいが、働き方改革でそれに拍車がかかっており、人的リソースは多くの医局において現在進行形で悲惨なことになっている。
大学病院を辞めて時間が経ち、自分が辞めた理由を冷静に振り返れるようになったので、備忘録的に記載してみる。
多くの方がそうかもしれないが、辞職の理由は単一の理由ではなく、複数の要因の組み合わせである。
一つのことであれば我慢できても、同時期にいろいろな問題が重なるとその場に居続けるのが難しくなってしまう。
大学へ行く前から、化学や物理の実験の時間が苦手だった。当時から実験計画を立てて正確に遂行していくのに興味がなかったように記憶している。
大学病院勤務なので、研究の真似事や学会発表、論文執筆は細々としたが、何年やっても面白くならなかった。
仕事だから嫌々やっている状態で、達成による金銭的なインセンティブもなく、全くモチベーションが湧かなかった。
そんな折、大学より「来年度から各講座への研究費は教員当たりの論文数を参考にして支給する」旨の通達があった。
つまり論文数が少ない医局員は講座のお荷物になるということと同義である。
今後、論文数が減りこそすれ増えることは全くないことを自覚していたため、大学から離れる理由の一つとなった。
・地域医療への貢献ができないこと
弱小医局ゆえ、県内の主要病院への医師派遣も行きわたっていない状態が続いていた。
例年、研修医として回ってくる若手をあの手この手で勧誘し、少しでも人員不足を解消しようと全医局員が願っていたように思う。
しかしボス(教授)より不意に、「来年度からA県のB病院へ一名派遣することにしたから調整よろしくー」とぶっこまれた。ちなみにボスはA県出身である。
いやいや先生、まだ県内すら充足していないのに隣とはいえ他県に人を出す余裕はないっすよ、と繰り返し伝えたが、
「もうB病院の先生と約束しちゃったんだよ。同じ大学の先輩なんだよね。非常勤でいいから。お金はしっかり出してくれると思うよ。」と取り付く島もなし。
やむなくスタッフを説得して派遣。B病院の事務と交渉したが、給与はむしろ当県としては安いレベル。
前項のようにボスは気分や口約束で仕事を拾ってくることが多く、悩みの種であった。
科内の方針変更だけであれば不平不満をカバーすることもできるのだが、他院や他科も絡むと厄介この上ない。
あるときボスから、「C科と共同して新しいプロジェクトを進めることにしたからよろしくね。D教授とは話がついているから。C科の先生たちと調整してね。」
明らかに業務量が増えそうな内容であったが、自分の科の医局員にも勉強になりそうであり、資料集めを行った(一部は実費で)。
それからC科の先生方と何度か調整を行い、C科としても非常に前向き。必要な人員やコストを見積もれたのでボスへ報告。
で、返答は「思ったより負担が大きいねえ。うちの科としては無理じゃない?やっぱりやめようか。D教授には直接伝えないけど、医局員同士で話をつけといてね。」
いやいやいや・・・もうC科の先生方は割とやる気ですよ、そのつもりでいますよ、と話したが覆らず。
この辺りは言うに及ばず。
筆頭はやはり夜間の緊急性が極めて低い呼び出し、夜間帯は当直医に運ばせる薬剤、採血や点滴をやらない看護師、あたりか。
挙げればきりがない。
・医局員への不信
まず先に、自分が所属していた医局は非常に雰囲気がよく、医局員も非常にまじめだった(と少なくとも自分は思っていた)。
年々ボスの要求が強まってきているのを、皆が不穏に感じてはいたが。
上述の幾つか不満が頭の中でグルグル回っていた折、決め手となる2つの事態が発生した。
患者さんの病状に関わるような内容ではなかったものの、精神面には少なからず影響を与えそうな事象であり、明らかにこちらに非があった。
自分はその後輩のオーベンという立場で繰り返しフォローを行い、なんとか訴訟にならずに済んだ。
なお外来主治医はボスであったが、フォローの場には一度も顔を出さなかった。
もう1つは自分が出張で不在中、および不在後のトラブル。コロナ禍の真っ最中であり、どこも入院ベッド確保に苦労していた時期である。
自分が長期にフォローしている外来患者さんが、自分の不在時に具合が悪くなったと受診希望があったようだ。
その日の当科救急担当の後輩(上述の後輩とは別の医局員)が電話を受けたが、満床で来院を断ったと。
自分が出張から戻ってきて数日、他院他科の先生から連絡があり、その患者さんが急変して亡くなったとのこと。後輩からは何も報告を受けていなかった自分は、電子カルテを開いてようやく状況を把握した。
「満床なのは分かるが、長期フォロー中の患者の具合が悪くなったのであれば、まずはフォロー中の病院で患者を受けて病態の評価をしたのちに十分な情報提供と共に依頼をするのが筋ではないか」と至極真っ当なお叱りを頂いた。
この辺りで急速に、力が抜けていくのを感じた。しばらく腑抜けた状態が続いた。
大学病院とはこういうものだ。ボスも業務が多くて忙しいのだ、仕方ない。後輩も日々がんばっていた上で、トラブルを起こしたり満床ゆえ断ったりしたのだ、やむを得ない。
結局、自分のフォロー患者の急変報告を受けて数か月後、大学病院を退職。
それから数か月は仕事をせず過ごして、今は臨床研修指定を受けていない小規模の一般病院で働いている。
全く苦労がないわけではないが、仕事に関する不満はほぼない。
家に帰ってから、ボスからの要求や他科の先生との交渉、他院の先生からのお叱りが頭の中をグルグル回って眠れないこともない。
子供関連のイベントはほぼ皆勤賞で出席できるようになった。運動習慣がついた。酒が減った。
もしかしたら上述した要因のうち、いくつかがなかったら、まだ大学病院で働いていたかもしれない。
それでも間違いなく言えること。
追記:
俺は初任給をソープに使うと決めていた、高級ソープで念願のNS3Pをすると。
昔から中出しもののAVか女2男1の3PもののAVばかりでオナニーしていた。性癖がわかりやすい。
しかし、彼女ができても学生ゆえに生でするわけにもいかないし、ましてや3Pする機会などあるわけない。
そんな俺は学生時代からソープでのNS3Pに大きな憧れを抱いていた。
入社直後のガイダンスで初任給が振り込まれる日や給与面について具体的な数字を確認し、
また、先月予期せぬ収入が多少あったので学生時代同様の貧乏暮らしで5月の給料までどうにかなる目処はたった。
GWは風俗は混むという話も踏まえて、長年の夢を叶えるべく初任給振り込み直後の週末にソープを予約した。
大金を渡すことにも緊張したし、待合室が40〜50代ばかりで場違い感があることも緊張に拍車をかけた。
しかし、そんな緊張も嬢との対面で吹き飛んだ。
入念に調べておいただけあり2人とも美人だしスタイルも見事だった。
2人から土下座のような状態であいさつをうけ、あれよあれよと服を脱がされたと思ったら
2人から同時にフェラされてる時にはちんこが見たことないぐらい勃起していた。
ベッドに移り、2人とも股を開いた状態にさせ、交互挿入し、
最後は1人と正常位でセックスしながらもう1人とディープキスしながら射精し、人生初中出し達成。
この後もマットとベッドで1回戦ずつ本当に夢のような体験と、とてつもない快感を味わえて大満足できた。
こうしてソープに行ってみて、
今後仕事が辛くてもこの体験を思い出して頑張れるだろうなと思ったし
ソープに頻繁に行けなくてもたまーに夢の体験をしに行きたいなって思う。
アニメを何も感じれなくて楽しめない時があって、それが結構な悩みになっています。
悩みの具体的な内容と自分なりの分析を書いたのでぜひ読んでアドバイスして欲しいです。
自分には心が硬直しているような感覚に襲われ、そのせいでアニメを楽しめないことが多々ある。
何故、何も感じれずにアニメを楽しめないのが悩みかというと、自分は、(あまり良くないことだとは思ってはいるが)自分が所謂オタクだという事をアイデンティティにしてしまっている節があるからだ。
だから、多くのオタクが絶賛してる作品を楽しめないと自分は本来は本当に何にもない存在なんじゃないかと不安になる。
また、昔のめり込んだアニメや、中盤まで凄くハマっていた作品の終盤に何も感じず、楽しむことができないと、今まで自分がアイデンティティとしていた物が自分にとって何でもなかった物な気がして、自分が保てなくなる感覚に襲われる。
もちろん、多くの人が絶賛してるからと言ってその作品が絶対に楽しめる訳ではないということや、飽きによって次第に感動が薄れていくことはわかっている。
しかし、当人としては、自分がアニメを楽しめないことがあるのは、そういう人間の性質によるものではないような気がしている。
何故そうなったのかは今回は関係がないので省くが、自分はアニメを見る際に『自分はそのアニメを本当に楽しめるのか』と自分を試すような感覚で見てしまっている。
そして、前述したとおり自分はオタクをアイデンティティにしてしまっているので、それが『もし楽しめなかったら』という変な緊張感に繋がってしまい、心の硬直に繋がってしまっているんだと思う。
また、作品が盛り上がってきたタイミングで自分が何も感じていないと、本当に冷や汗が出てきてすごい焦ってしまう。その焦りも感性の鈍化に拍車をかけている気がする。
一応補足しておくと、ここ最近見た作品の中でも凄く感動できた物はいくつかあったので、別に心が完全に死んでしまった鬱状態という訳ではないと思う。
ただ、やはり自分が好きだった作品や途中までのめり込んだ作品、多くの人が絶賛してる作品を自分の心の持ち用という何とか改善できそうな要素で楽しめないのは、純粋に悔しいし、悲しい。
でも、自分でパッと思いつく解決方法はいくつかあるがどれも現実的とは思えない。
自分はまだ18歳の高校3年生なので、いろいろ多感らしい思春期が終わって大人になれば解決するのか、はたまた、一生この苦しみを抱えて生きていかなきゃいけないのか。すごい不安だ。
「#最強の鬱マンガ」ランキングが凶悪な作品揃い…「ブラッドハーレーの馬車」「宝石の国」「おやすみプンプン」などこれはなかなかのもんだ
まあtwitterで募集してランキング~なんてしたらこんなもんだよな。
関わってる人間が全員無能なんだからそりゃこれぐらいつまんない出来にもなる。
俺達が読みたいのは
有象無象やブロガーからのゴミみてーな情報のキュレーションじゃねーんだってのが改めて分かった。
ほんのちょっとだけツッコむけど
鬱漫画とは言えない。
それすらわかんないような感性なら投票とか書評とかやらんでよろしい。
というか作者も「鬱漫画」なんてつもりで描いてないだろう。
突き詰めて考えてることがないのに迫力で押し通す、みたいな怠け癖が増した。
ていうか、お前ら本当にこの漫画で憂鬱な気持ちになったことあるの?
描けもしないキチガイを描こうとしてやっぱり描けないからアップ顔芸で誤魔化してる漫画、
以上の評価が出来ない。
ガールフレンドになりかけた子は可愛かったし
素直にエロあり青春漫画描くのがこの人の本道であり素直な欲望であるのは見え見え。
フェイクじゃん。
表現したいものが無いのに(無いので)キチガイのふりしてるだけの痛々しい漫画。
実感の籠ったものがほぼ絶無。
アビスの方は、
その気持ちのあたりは実感籠ってた。
あれはきっと作者の実体験だと思う。
でもその先の過剰な展開はもう作者の中になんにもないよね。
なんにもないから「異常な行動」とか見開きでブツブツ言ってるコマとか
そういう表層的なオドカシを多用するわけ。
お前ら本当にこんなもん読んで憂鬱になれるのか?なれるわけねーよ。
どんどん強い薬打つみたいにエクストリーム展開やってるだけの空回り漫画じゃねーか。
どっちの作者も才能はあったし当人の本道もあった。
なのにこういう横着なダークサイドに行ったのが運の尽きだ。
リアリティも実感もなんもないのは見過ごすとして
それしか売りが無いのにぶっ殺し方が面白くないのはいかんでしょ。
酷い漫画を描くと決めてこれっぽっちっていうのは単純に能力が足りない。
この作者はタコピーやアビスの作者と違って純粋に体力が少ないって感じ。
で、お前等ほんとにこんなクオリティの漫画で憂鬱になれたのか?
こういうものの見方をする人間がちゃんと漫画読んでちゃんと何か感じ取ってることなんてあるのかな。
ダーク池ちゃんみたいにカテゴリ付けして飛ばし飛ばしで読んで満足してる手合いと一緒じゃね?
ちゃんと時間かけて読んでるとしても、受け取ってるものが池ちゃんレベルなんじゃね?
そういうレベルの能力の人達がことさらに漫画を語る必要ってあるの?
https://pbs.twimg.com/media/FuJlC_KaQAAKMH9.jpg:medium
もう惹句のことごとくがキツいわ…。
こういうこというと「漫画読み様」とか言われるんだけどさ、
漫画読み様が過剰に高い水準にいるんじゃなくて
どう見ても漫画をまともに読めてないって連中がいるだけなんだよな。
俺、本当に「ああ!あああああああ!」ってなった漫画いくつかあるよ。
なんかしらんがストレスがたまっているようだ
これといった原因が思いつかないが、なんかヤバイのは自覚がある
まず気分がダメ
また月曜か、長いな、早く仕事上がりたい、みたいな気持ちがずっと続き、サボりもしょっちゅう
とはいえメンタルが本当にダメだった時は声すら上げられなかったし、ちょっとしたことで崩れて泣き出すくらいな状況だったこともあるので
それと比べたら今は十二分に正常かもしれない
あと浪費に拍車がかかっている
原因らしい原因が思い当たらないが無意識のダメージが積み重なってるということもあるだろうし
昨年今年と続けて家族を亡くし、まだまだ精神状態がよくないのもあるのかも知れず
あるいはそれらのどれでもなく、ただ脳の機能とかの問題、まあつまり普通に鬱とかの病気かもしれず
分からないけど
ああ、なんかもういろいろと嫌になった
めちゃくちゃムカついてるので憂さ晴らしと、注意喚起の意味を込めて投稿しておく。
卒業大学とは別の大学で、不足単位を補う形で免許の取得を目指している人がいれば、まあ大丈夫だろうと思うが、なんかの参考にしてほしい。
教員免許の取得申請をしに教育委員会に行ってきたが、今日になって初めて単位の不足が発覚し、一部申請が通らなかった。
去年の夏頃に一度単位の確認にも行ったのだが、その時には指摘されなかった部分で。
引っかかったのは、教科に関する科目の、「一般的包括的内容」を修められていない、とのことだった。以下説明。
「一般的包括的な内容」 とは、その科目の学問領域をおおまかに網羅するものであること、特定の領域に偏っていないものであることとし、学生の科目履修の際に一般的包括的な内容が担保 されるものであることとする(文科省HPより引用)。
なんのこっちゃという感じだが、ようは科目を履修する上で、「一般的包括的内容を網羅する科目」として指定されているものを取るか、一つの大学である程度まとまった単位取得をし、「一般的包括的内容を修めている状態」として大学に認められていなければならない、ということらしい。
私の場合、卒業大学と現在の大学で、だいたい半々くらいで教科の科目を取っていたのがよくなかった。運の悪いことに出身大学を卒業〜現在の大学に入る、の間に法改正が起きていたのも、状況のややこしさに拍車をかけたように思う。一応現在の大学の方では、「一般的包括的内容を網羅する科目」を必修としているそうなので(今日知ったが…)、普通に私の見落としではある。
ただ、これを今日知ったというのが、本当に悔しい。
複数大学で単位を取得し免許を取る場合、大学側からは「単位は自分で確認するか教育委員会に訊いてね」と言われる。そのため、半年前に教育委員を訪れたのだが、その時には、「一般的包括的内容」という単語すら出なかった。今日持参したものと同じ、学力に関する証明書を、両大学分用意していたのに、だ。
今日控えめに「夏に来た時は、そういう旨は聞いていなかったので、周知はしっかりしてほしい。確認の意味がない」とは言ったが、返答は「その時に対応したのは、私ではなかったものですから……」だった。
いや、その時の担当者も「今日の相談内容は課内で確認して、何かあれば連絡しますから」って言ってただろ。連絡なかったぞ。あんたもその時に確認する機会はあったんじゃないか?現場の一人の責任にしないために課内で確認するんだろうに、全員ザルじゃ意味ないだろう。
単位は取得できていると思っていたから、現在の大学はすでに退学している。ごく個人的なスケジュールの関係で、もう一度入学して取り直し、というのは、当分先のことになりそうだ。
私は運のいいことに、次の職場で教員免許が必須なわけではない。必須であったならば、どうなっていたことかと思うが……。
結構頑張ったんだけどなあ……仕事の合間に勉強したり試験行ったり、大変だったのになあ……。大学だって、仮に退学してなくても、半期分の学費、安いわけじゃないのにな……。
取り直したらまた来て下さい、なんて、簡単に言うなよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/AtTheBlackLodge/status/1639058651095924738
この人ね
https://twitter.com/AtTheBlackLodge/status/1631081913854353408
・タンパク質も摂る
https://twitter.com/AtTheBlackLodge/status/1637311158335180800
最近ハイプロン1シートでは全然効かなくなってしまったのでまた眠剤探さないといけないのが面倒。ODで効果無いとそれこそBADモードに拍車がかかって死にたくなりますね。こんな日曜の昼でも。
どうみても薬物中毒の異常者ですありがとうございます。
精神障がい者のおかしな藁人形論法を悪用して、クソデカ主語で攻撃せずにいられない異常な状態の人間を持ち上げて他人の攻撃の盾にするのを今すぐやめろ。
id:yas-mal おめーのことだよ。
ゲッサンでどうやら同世代が当時を振り返る漫画を連載開始したようなので、別視点で語らせて貰おうか。
めぐり合わせが良かったのかパソコン通信終焉期に同世代としては比較的早期にパソコンを手に入れ、パソコン通信をやっているお兄さんたちからプログラミングを習うようになる。
このお兄さんたちは今の40代、公開されているプログラムの改造についてフォーラムで質問したことをきっかけに、会話の中で自分が小学生であることがバレてしまい、お兄さんたちは面白がって僕にBASICとCを二次関数も知らない小学生へかなり丁寧に教えてくれた。
お兄さんたちは次第に「これからはインターネットの時代だぞ」「大学にはJUNETがあって」などと教えてくれるようになり、インターネットやUUCP、TCP/IP、WWWなどの知識を小学生に詰め込むようになり、指導される言語にPerlやHTMLが増えたものの我が家にはまだインターネット環境がなかった。
Windows 95が我が家に導入されるタイミングでインターネット環境も敷かれ、ここでCGIゲームに出会いプログラミングへのめり込んでいくこととなる。
師匠たちの教えは素晴らしく当時のCGIゲームの主要開発言語はPerlであったため何も不自由なく改造がはかどり、負荷を高めても叱られが発生しにくいCGI対応ホームページスペースを提供してくれているプロバイダを探すこともよくやった。
その初頭(02年くらいから)にAdobe Flash方面で大きな動きがあり、いわゆる「FLASH黄金時代」を迎える。
Adobe Flashの派手に動くアニメーションと音楽に衝撃を受け、そして我が家のPCのビデオメモリの貧弱さに絶望をした(お年玉全額投資した上で親に拝み倒してビデオメモリいっぱい積んでるPCへ新替した)。
2000年代以前もMML(Z-MUSICなど)でDTMを軽く触る程度やっていたもののAdobe Flashの自由自在なマルチメディア感へ完全に影響され、本格的にDTMやCGへ手を出すようになる。
当時主に使っていたDAWはSinger Song Writerで、これは当時の師匠たちの主な環境がミュージ郎であったため影響を受けた弟子である自分はDAWにおいてSinger Song Writerしか知らなかったという意味合いが大きい。結局、手に馴染んでいたMMLを完全に排除するまではいっておらず併用する形でDTMをやっていた。
当時のインターネットと音楽事情を振り返れば今だから言えることだが、BOSSのエフェクターの回路図などがネット上に出回っており、おそらく電気関係を学んでいたであろう師匠たちの手によってミニ四駆改造を主とした電子工作の手ほどきを受けていた自分は師匠たちから渡されたエフェクターの回路図によって自作し、最終出力をMTRなどでレコーディングするという手法を取っていた。
当時のソフトエフェクターは音楽ド素人の自分でもわかるくらいに品質が悪く、何なら最終段をPCM音源出力するわけでなくFM音源でのみ仕上げるときは疑似ディレイや疑似デチューンなどの手法によってエフェクター表現するしかなく、ソフトエフェクターはハードエフェクターを超えられないことが常であった。
Adobe Flashでは主にMotionSWFとSodipodiを利用して作成しており、Sodipodiは後にInkscapeとして派生していくことになり今でも使用しているが、MotionSWFはSWiSH2が登場すると直ぐに乗り換えた。MotionSWFは連番画像を事前に生成する必要がありActionScriptの扱いにも難があったためだ。
Adobeが公式でLiveMotionというFlashアニメーションというのをリリースしていたものの学割が効くとは言え高価で、師匠世代の方々は学割が使えないのでSWiSHを使っていたこともあり影響された。
このあたりにTVアニメなどで使われる背景動画はモーショングラフィックスという技術の括りに入るものと知る。まぁつまりモーショングラフィックスとは静止画をアニメーションさせる技術の総称なのだ。
この時点で自分は中学生、自分の肌感覚だがこの時点でがまだ「オタク」へ対する風当たりは強く、中学校でもイジメと殆ど変わらないであろう扱いは散見されており、自分の姉たちからもオタクっぽい趣味は良くないよみたいなことをよく言われたものだった。
まぁ姉たちも思春期だし、部屋にこもってパソコンへ向かってフヒヒとか言ってたり、電子工作で謎の機械作ってたり、Marshallのジャンクなアンプをどこからか拾って来て修理してる弟は気持ち悪かったんだろう。
ただ運良くも両親が身体デカく産んでくれたおかげで、自分自身はイジメられた経験がほぼ無く、というか面白いものを生み出すオタク友達をイジメる不良が大嫌いだったので思春期だったこともありやり合っていたというのが実情だった。
なにせ一次産業家庭の生まれだったので早朝は実家の手伝い、親父の男子たるものスポーツくらい出来なければという保守的な思想によって野球部へ所属し、帰宅後も実家の手伝いをしていたため身体が鍛え上げられる環境だったのだ。ツルんで威張り散らかし調子に乗ってタバコや酒をやるようなナヨナヨした不良に喧嘩で負ける道理は無い。
親父や教師たちは自分を正義感溢れる少年だと思って度々喧嘩をしても大目に見てもらっていたが、実際のところはオタク友達が「イジり」に遭ったことに腹を立てて「俺たちに構うんじゃねぇ!」と思春期の自分が怒っていただけだ。
ただこの不良たちとも仲直りをした。時代はビジュアル系バンドとインディーズバンドが流行り、そして青春パンクが注目され始めるとき。そんなときにエフェクターやアンプを自作修理し軽音楽部の部室へ持ち込んでいたので軽音楽部にたむろする不良たちが「えっ増田ってアンプ作れんの!?」となるのは別におかしな話じゃない。
不良たちもそのような状況でオタクグループをイジるのがバカバカしくなったのか次第に何かやるとき絡むようになり自分の通う中学校からはイジメが無くなった。
イジメという娯楽はモノ作りという娯楽に勝てない。
イジメを根絶する力をボクは師匠たちから学んだ。今の世を見れば不良の一部はオタク側へ吸収されてしまっているし、そのような流れを作ったのは自分の世代へ憧れを抱かせた40代になった今のアナタたち師匠だ。
Flashの影響が落ち着いてきたあたりでインターネットには新しいコンテンツ配信システムが注目される。インターネットラジオだ。
これは爆発的に普及し、当初個人サイトだった「らじちゃんねる」は「ねとらじ」となりつつも個人運営では負荷処理が追いつかずlivedoorへ譲渡されlivedoorねとらじになる。
奇しくもほぼ同時期に2ちゃんねるでは若年層が新しく設置されたニュー速VIP板へ集うようになりVIPPERもインターネットラジオ配信をほそぼそと始めるようになった。
この頃のニュー速VIP板は明らかに自分と同年代が集っており、Flash黄金期の影響を如実に受けておりクリエイティビティの発露が著しく様々なネタスレが生み出され安価スレはその代表格で、更には涼宮ハルヒの憂鬱を発端とする深夜アニメブームからクリエイティビティは極限まで達しSSスレやゲーム製作スレなどが大いに賑わうようになった。
そして負の側面も表に出るようになり女神スレや女VIPPERによるインターネットラジオ配信が定番化すると、ニュー速VIP板内でのパートスレによるスレdat落ちが問題視されるようになり、女VIPPERはヘイトを集めるようになった。
それ以前から2ちゃんねるでは主に801板住民による板違いスレ違いや同性愛サロン板での荒らしが問題視されており、女VIPPERによるインターネットラジオ配信によってBLファンであることが多いことが明らかとなっていたため、ニュー速VIP板内でも女VIPPER、特に腐女子に対して風当たりが著しく悪くなった。
そこでパートスレを嫌うVIPPERは腐女子へのカウンターとしてふたば☆ちゃんねるから2ちゃんねるへ輸入されたくそみそテクニックから作られたAAを使って女VIPPERによるインターネットラジオ配信スレを埋めるという連投荒らしをするようになる。
この動きは当の801板住民へも影響を与えたのか、801板では同人サイトの作成を奨励されるようになり、それ以前から評価の高かったYahoo!ジオシティーズや携帯勝手サイトの魔法のiらんどが同人界隈で注目され同人サイトの開設が爆発的に増えた。
しかしながらこの動きにも負の側面があり、同人サイト運営を行っている主に学生内で無断転載やホームページ素材サイトからの直リンク問題が発生。Web系の技術者やホームページ素材サイト運営者からのヘイトを加熱させるという現象が起きてしまった。
特に怒り狂っていたのはいわゆるツクール系のゲーム製作者・ゲーム素材サイト運営者であり、当時のゲーム素材はまだGIFなどのドット絵素材が多かったため当時の携帯電話と相性がよく、同人サイトを運営する学生が無断転載や直リンクするという行為に走ったのだった。
当時のHTML/CSSにも問題があった。携帯電話各社でHTML/CSSの仕様が違い、自身の同人サイトを彩りたい学生からすると携帯電話によって表示にバラつきが起きることは悩ましいことであり、画像素材はそのバラつきを最小限に留めることが可能である。
さらに言えば魔法のiらんどなどで利用者が使えるストレージサイズが小さいという問題もあり、装飾にストレージ容量を消費すると自分のイラストやSSを投稿できる量が減るといった悩みがあって直リンクへ手を染めていた。
もっと言えば当時の学生はあまりにも送信量が多いとプロバイダやレンタルサーバ、レンタルホームページ事業者からホームページ運営者が怒られたり、送信従量課金制契約の場合は実際にホームページ運営者が実費を負担していたという事実を知らなかったのも無断転載や直リンクへの拍車をかけていたと思われる。
現在は社会人となっっているであろう同人サイト運営していた学生だった者はおそらく今まさに素材サイトの管理人へ金銭負担させていた事実を知って驚いていると思うが、何故あんなにも注意され、素材差し替えなどで当時は嫌がらせと思うようなことをされたのか?を理解していることだろう。管理人は怒って当然なのだ。
そのような状況を傍目から見ていた自分は2ちゃんねる内の様々な製作系板やスレなどへ常駐し、HTML/CSSスレなどで素材提供などをし、更にはCGIゲーム罪と罰++ 二律背反のホスティングをしていたが、当時のDTM雑誌であるDTM magazineで1つの告知記事を見る。それが「プロ歌手デビューのオーディション(VOCALOID中の人採用特典付き)」だ。
そうつまりこれKAITOとMEIKOがデビューしたオーディションであり、当時の2ちゃんねるDTM板でVOCALOID評価はそこまで高くなく、たいていは「ボコーダ/ボーカルシンセの代わりにはなるのではないか?」程度の評価だったのだ。
様々な音楽制作系雑誌でもVOCALOIDの扱いは非常に小さく、例えば当時のPC系雑誌で定番の特集だったフリーソフト100選みたいなノリでVSTプラグイン100選の中にVOCALOIDがボコーダ枠で入ってるくらいの極々小さな扱いであった。むしろ登場時に言及していた名無しが評価の仕方は別としてVOCALOIDに触れているだけでもスゴイまである。
前回:PS5を買ってからプレイしたオープンワールドゲームの評価
序盤で脱落した。
パルクールを売りにしたゾンビゲー。しかしゲームをする以前の問題で、小一時間のプレイで激しく3D酔いする。
一人称視点で動きがもっさりしていて画面がよく揺れる、というあたりが要因なのだろうが、とてもプレイしていられない。
人為的に3D酔いを誘発するために開発されたゲームだと言われたら信じる。
ただ序盤の時点で「酔いを我慢してでも続きをやりたい」とは思えなかったのも事実である。
序盤で脱落した。
GTAは「オープンワールド」という形式を普及させた偉大なゲームシリーズだが、やはり現在では時代遅れになっている部分が多くある。
たとえば敵の拠点に潜入するクエストがあるとしたら、潜入ルートは決まっているし、途中で敵に見つかるのも決まっている。
見つかったあとの逃げ道も決まっていて、途中の壁を乗り越えて逃走したりはできないようになっている。
GTAにおけるオープンワールドとは「ミニゲームをプレイする順番を選択できる」というだけにすぎない。
序盤で脱落した。
GTAフォロワーである「セインツロウ」シリーズのリブート作品。問題点もGTAと同じ。
中盤で止まっている。
起伏に富んだフィールド。自由な移動。かわいらしい野生のポケモンたち。
新しいポケモンを求めて寄り道してしまうような探索の楽しさがある。
理想的にはポケモンの生態シムみたいなところまでやってほしいわけだが。
あとエリア間の移動を禁止するために高い山で区切ったりするのは論外。
作り手の都合だけでオープンワールドの自由度を破壊する最悪のやり方だ。
どこが優れているというわけではないが、オープンワールドに求める必要最低限を確保している。
広大な街を飛び回って頭上からマフィアたちを急襲。敵を倒したらさっと飛び上がって次の現場へ。
こういうのでいいんだよ、こういうので。
ただメインクエストで「ステージ」のなかに入ると一気に作りがリニアになるのは難点。
せっかく操作キャラが4人いるのに同時に出撃できないというのも残念だった。
あくまで「最低限」であってリッチなオープンワールド体験ができるわけではない。
オープンワールドはゲーム内に昼夜があってもだらだらとプレイしがちなところがあるので、
「準備の昼パート」と「実戦の夜パート」を分けてサイクルを設けたのは効果的だったと思う。FF15を思い出した。
超大作というわけではないが、限られたリソースをやりくりして上手く作ったという感じ。
スパイダーマンのように高速で飛び回るようなことはできないが、
高低差のあるビル街を活かしたゲームプレイが楽しめるようになっている。
オープンワールドは負荷対策やコスト削減のために「人がいない世界」を舞台にしがちなのだが(撲滅すべき悪習だ)、
そこでコミカルな「幽霊」を出したり、口の悪い「相棒」を用意したりと、賑やかになるよう工夫しているのも良い。
あと、このフィールドでペルソナシリーズのオープンワールドをやりたいよな。
FF15のスタッフが製作したアクション寄りのファンタジーRPG。
売りである「魔法パルクール」という移動システムは本当に素晴らしい。それを活かした戦闘も非常に楽しかった。
また、こちらの作品でも口の悪い「相棒」が効果的に機能していた(まあFF15の複数人パーティのほうが楽しかったが…)。
基礎はよくできているのだから、あとはその上に優れたシナリオを構築するだけだ…と思ったら、
それ以外ではひたすら従来のゲーム作りを踏襲している感じなのが残念だった。
まずメインシナリオは極めて単線的である。ボスを倒す順番すら決まっている。
そして、そのボスを倒すごとに強制的に状況が悪化するので、物語を進めていくモチベーションがひたすら下がっていくのである。
そんなところまでFF15を踏襲しなくていいんだよ。もっと他の美点を踏襲しろ。
フィールド上に本当に人がいないので魅力的なサブクエストが存在せず、シナリオが横に広がっていかない。
入手できるアイテムが汎用の強化アイテムばかりなのもフィールド探索のつまらなさに拍車をかけている。
ハクスラ的な装備のランダム生成とオープンワールドとの相性の良さを再確認した。
あとエリアを高い山で区切るのやめろって言っただろ。
いや、無限に文句が出てくるんだが、それは悪いところが明確だからで、それさえ直せば傑作になるとわかっているからだ。
FF15とForspokenは、どちらも魅力的な長所と致命的な短所とが明確な「傑作になりそこねた作品」だった。
次回作こそは…次回作こそは真の傑作を…国産のオープンワールドゲームを…頼んだぞ…。
同時期に発売されたことで何かと比較されたForspokenと比べるとアドベンチャー寄りのつくりである。
とにかくアートワークが素晴らしい。ファンが想像するホグワーツをそのまま再現したかのようだ。
だが…この作品は「ホグワーツでの学校生活」を再現してはいない。
「ホグワーツを再現したテーマパークでひたすらミニゲームをさせられる」と表現するのが正しいだろう。
「広大なフィールドで自由に行動する」オープンワールドと、「限定された空間で正解パターンをなぞる」ミニゲームの相性は悪い。
フィールドをミニゲームで埋めるよりも、もっとシナリオにコストをかけるべきだった。
ネガティブな事件や体験はどこにでも転がっているのでそういう事が好きな人にはこの日記は特に意味無いと思います
ポータルと呼ばれるものをスマホの地図上で探して現地に行き、他の同じ色のポータルとリンクさせることで三角を作るゲームです
独特なUIとか用語とかを無視すればやっていることは恐ろしく単純です
ポケモンGoでいうならば、ジム戦を次々に行いいかに多くのポケストを占拠しつつそれらをリンクさせる、というものでしょうか
実はIngressの技術はアイディアは既存のゲームにあったと思います。リリースされた2013年頃には他にも位置情報を利用したゲームは存在しました。有名なのは3DSのすれ違い通信を利用したドラクエ7とかでしょうか。
他にもスポットを登録するゲームはわずかですが存在していたと記憶していますし、ゲーム以外ではFourSquareが有名ですね
けれど、スマホを利用しリアルタイムで自分の位置情報と世界を同期させて現実世界でバトルを行う、という手法は当時としては斬新です
特にポータルに与えられた「異世界から溢れたXMと呼ばれる物質が世界中の歴史的な場所や不思議なものに出現するもの」という設定が魅力に拍車をかけました
地図上にスポットを登録するといえば、有名なレストランや便利な公共施設などを考えますよね
けれどポータルはそういうものを含めて、歴史的・文化的なものであれば基本何でもよく、また普通の人があまり気にしないような寂れた神社や奇抜な銅像なんかでも設定できました
良い意味でポータルはそれまでのスポット登録システムを破壊し、日常に潜む面白いものにスポットを当てて楽しむ構造ができたんですね
便利な物、役に立つ物ばかりではなく、ユニークだけど見過ごしがちなものがゲームとして途端に価値を持つようになりました
そしてそれらを巡ることだけがIngressの面白さではありません
ポータル同士を結ぶという行為自体にも既存の物を凌駕する楽しさがあります
Ingressは単にスポットを巡るだけのスタンプラリーゲームではありません
そこに実際に足を運んで敵陣営を破壊し自分のものにしつつ他のポータルとリンクするという陣地バトルがあります
正直これはとてもハードな遊びです
第一に、ポータルは誰にでも取られる上にリアルタイムで自分以外の人が巡っているわけです
自分が「このポータルとこのポータルを結んで三角にしよう」と考えていても、敵陣営や味方はお構いなしに勝手に三角を作ったり破壊するなどをして、あなたの行動が無事に終わるとは限りません
第二に強さの上限があります
エージェント自身のレベルは16までありますが実質的にレベル8までで強さの上限は止まってしまうため、どんなに経験値を重ねてもアイテムを沢山持っていても、基本的に「おれつえーーー」はしづらい構造です
破壊するためのバースターや構築に必要なレゾネーターやキーといったアイテムは無限に自力で収拾できるわけではありません
高レベルな破壊アイテムは高レベルのポータルからしか入手できず、アイテム総数の上限もあります
自力で作れるポータルのレベルには上限があることから、基本的に仲間と協力し合わないと効率的な補給はできずレベルをあげて無双するなんてのは難しい構造です(現在はそれが大幅に緩和されています)
人間自身が移動しなければならないためどう考えても物理的な側面に阻まれますね
日本中を一日で飛び回り全てのポータルを占拠することは出来ませんし、自身のポータルが破壊されているからといって何十キロと離れた場所に駆けつけて対処することもできません
第四に実績として残りづらい点です
一日掛けて沢山の三角を作っても次の日に全て壊されて地元の人に占拠されてしまうのは普通なんです
いくら補給用のファームを作っても、いくら見栄えの良い三角を作っても、ゼロサムゲームであるIngressでは簡単に取り替えされてしまい自分だけのものを持つことが困難です
何度やっても直ぐに崩れるわけですから
このように、Ingressの陣地取りバトルは自分一人で遊ぶようには設計されていません
一人で黙々と陣地を広げたり他陣営を破壊してうぇーいすることも可能ですけど、そこには現実で同じようなことをしている「他人」が存在します
アイテムの収拾に関しても全てを自己完結するのが難しく、常に他者との競争や協力を前提に作られています
これはIngressの良い面でもありますが、現代のゲームの中では著しく縛りの多く、大変理不尽なゲーム性かと思います
自分の経験値やアイテムがいくらあろうと簡単に盤面が覆るわけですから
こんな感じでIngressは基本的に自分だけで全て完結して遊ぶデザインにはなっていません。例外はミッションですがこれはスタンプラリーなので割愛します。
とはいってもIngressの面白さはやはりこの陣地取りにあるなと常にあると思います
焼いて焼かれて壊して壊される
ただひたすら自分のやりたいとこを追求して、それでも自分ではできない壁に当たりながらあがくのは至高です
「じゃーこんな縛りプレイをするIngressはどう遊べばいいんだ」と思うでしょう
実際、多くの人はIngressをどう遊べばいいのかよくわからないまま終わります
たとえ陣地を占拠してもそれだけで終わるゲームに魅力があるとはあまり思わないでしょう
10年前なら目新しかった要素も既にポケモンGoやドラクエウォークといったものに上書きされています
では他の位置情報ゲームになくてIngressに突出して存在する魅力とは何か?
「いやいやそんなの普通のゲームでもあるっしょ」「俺はソロで無双したいんだ」という意見が多いと思いますがとりあえずどういうことをするのか考えましょう
Ingressの協力プレイで真っ先に思いつくのが、巨大な三角やそれらを利用したアート作品です
単純な話、Ingressは三角を作って陣地を広げるゲームですが一人で作れる数や大きさには限界があるのでみんなで協力し合って立派な物を作ろう、というだけのことです
大きな三角を作るには大勢が移動して各種ポータルを占拠してポータルキーでそれらを結べばいいわけですが、実際にはそこまで単純ではありません
Ingressのルールではポータル同士を結ぶリンクを横切るようなリンクは作れません
つまりポータル間の距離が開けばそれだけその間に存在する全てのリンクや三角を取り除く労力が増すわけです
例えば東京タワーのポータルと札幌テレビのポータルを結びたいと考えたとします
東京だけでどれくらいあるかわからないくらいあるそれらを横切らないようするには一人の人間の力だけでは到底かなえられないでしょう
もちろん東京タワーから札幌まで車で移動しつつリンクを切ることは可能ですが、当然他の人には勝手に他のリンクを張られておしまいです
ではどうするのか?
大勢の人を集めて目的のポータル同士をリンクできるように緻密な作戦を立てるのです
そのため
日本の内陸を横切るリンクを長距離で作ろうと思えば、その距離に応じて人を集めないといけません
他にもポータルキーの移動などもあり実際以上に繊細な下準備が必要ですし、コロナや天災といった人間にはどうしようもない事象も妨害要因だったりします
「そこまでして頑張ると何か特別な報酬が貰えるの?」と思うでしょうね
いえ全然ないです
仮に50名が参加しても実際に現地で動くのが40名、その現地の人が実績を稼げるかというと殆どはないに等しいかと
失敗したらゼロに終わりますし、成功しても経験値稼ぎやメダルの実績アップが少し増える程度です
それならまだしも移動における交通費を考えると普通は大赤字でしょう
さらに現地に行かないバックアップ要員に至っては何の実績にもなりません
基本的にこういう作戦はエージェントの独自企画である事が多く、公式のイベントとして成立することはまずありません
そうなんですよ、公式が「大きな三角を作るイベントを主催します」なんてことはないんです
ほぼ全てがエージェントが自主的に企画し秘密裏に決行し、できたものをSNSや公式掲示板にアップして作戦内容を公開する、だけです
でもこれが滅茶苦茶面白いんですよ
そしてイエスと言うか言わないうちに作戦部隊のTelegramに招待拉致されます
次に言われるのは「これとこの資料を読んで必要事項を記載してくれ、終わったよね?OK。では君はこの班でリーダーと打合せをして現地で頑張ってくれ。もちろんこれら全ては他言無用だ」とどう考えても仕事と変わらない量の資料と緻密なスケジューリングと各種連携が取れているわけです
殆どの作戦は外部に漏れないようされるため信頼できる人しか案内されず、情報統制なんかも役割毎にしっかりしているのが普通です
普通のゲームにおけるレイド戦なんかとは全然雰囲気が違いますよね
みんなで育成したりレベル上げしてメンバー募ってゴーって気軽に出来ない一方で、秘密裏の作戦はそれだけで高揚感あるものです
決行日にまで自分が何をすべきなのか、どういうツールを用いどこに何時に誰といけばいいのか
そういうことを公にせず、家族にも内緒にしてこっそり行う作戦は非常に魅力的です
ゲームとしてやることは極めて単純ですが、そこに至るまでのプロセスが非常に面白い
なにせ職場に集まって会議するばかりじゃないわけで、遠隔の人や言語の違う人とも連携する以上多くの下準備とコンセンサスがいるわけですから、仕事以上に仕事ですね
これがMMOなどと違うのは、位置情報ゲーム故にその場所にいかないと成り立たない点です
そして他の位置情報ゲームでもこのようなことはまず起こりえません
Ingressは他人との交流が多いのですが、それは端末の中だけのものではありません。実際に生身の人間と出会うことで産まれる相乗効果があります。
「いやいや、そんなの他のゲームでも一緒ですよ?特にドラクエウォークやポケGOは現地で大勢会うじゃん」
まあそうなんですが、元々Ingressはプレイ人数が限られているためプレイしていても必ずしも人と会えるとは限りません
なので必死に勧誘をしますし現地で偶然プレイしている人を見かけると声を掛けたりもします
ポケモンなどのように大々的に集まることがゲームの性質上難しく、また現地で会う確率も低いことから、Ingressではエージェント同士の交流を重視する傾向にあります
その象徴がミッションデーなどのお祭り企画、またはバイオカード文化です
ミッションデーはミッションというスタンプラリーゲームを地域限定で行うイベントです
企画する人が独自に考えたルートを巡ることでメダルを獲得するという公式イベント
現代ではこちらのほうがIngressの主流となりつつありますね
もちろんここにもIngressのエージェントの企画力が生かされています
またエージェント同士のコミュニケーション文化としてバイオカードがあります
ようはトレーディングカード状の名刺です
https://fs2018.game-cnt.net/2018_10_25_387
ゲーム内アイテムだったものをエージェントが独自に名刺交換に活用したことから全世界に広まりました
こういうのを交換し合う文化を通じてエージェント同士はコミュニケーションを実際に取ったりしています
世界中を見ても一つのゲームの中で決められたフォーマットを用いて大々的に名刺を交換する、というのはあまり見られない傾向ですね
Ingressのデザインは位置情報ゲームということもあって基本的に歩くことを前提とした非常に簡素なものです
遊び方そのものは15分もあれば説明できてしまえるくらい単純で、はまれば大変面白い
ただ、やっていることの多くは単調なため飽きやすいという側面があります
課金要素も少なく、デザインの面でも他のゲームに大きく劣る面が多々あります
なによりゲームとしてのコンプリートや収集癖を煽るものではなく、自分で目的を探すことでしか続けることは難しいと言われています
さてそんなIngressもリリースから10年が経ち、多くが変わりました
本来のコンセプトを逸脱・破壊する変更もいくつか行われています
でも個人的にはIngressは「ゲームであって欲しくない」と考えています
あれはゲームというのは未熟すぎ、あくまでもツールとしての側面が強いからで酢
他のゲームと同じく課金によって強くなれるというコンセプトを取り入れた場合、当然他のゲームとの比較がされることになります
そうなっては勝ち目がありません
Ingressは位置情報ゲームではありますが他のポケGOやDQWとは明確に違った立ち位置でゲームとは異なる何かでないと生き残ることはできないと思います
だって、Ingressの収益をみてみればこのゲームが10年持つ理由が全く不明なんですよ
収益度外視、実験的且つ先鋭的なオリジナルIPとして「ゲームのようでゲームではない」ものとして扱わないといけないんですよね
Ingressに触れた人に対して「これはゲームと違うな」と思わせて欲しいのが本音です
Ingressのデザインセンスで他のゲームと渡り合うなんて無理なんですから、全く違うベクトルで勝負して下さいよ
自分はIngressの全盛期を駆け抜けて未だに脳が破壊されたままになっている変人です
それだけIngressは他にはないものがあり、いまだ唯一無二の存在だと思っています
似たような人はまだおり、アノマリーやミッションデーに参加する人は結構多いですよね
界隈では有名なGameDeepさんも未だにIngressの同人誌を作っていますからね
http://gamedeep.niu.ne.jp//yapw.cgi/GameDeep?time=1672320494
元増田じゃないけど以下、駅メモプレイヤーの自分が地獄だと思うところ。元々荒れやすい要素を持ったゲームが鉄オタの行動力、粘着性、閉鎖性が合わさって民度の悪化に拍車がかかった感じ。
あまり他のゲームの事情は知らないがウマ娘の運営が良心的に思えたほど。イベントを完走するためにすら課金が必要なのは衝撃的だった。しかし駅メモプレイヤーの大半が電車が大好きなお友達であり彼らにとっては電車賃や遠征費の方がむしろ高くつく。結果金銭感覚が狂ってしまい、みんなついつい「電車賃よりは安いよな」と財布の紐を緩めてガチャを引きまくり、ゲーム内のインフレを加速させてしまう。
・「フットバース(通称:足湯)」と呼ばれる駅にリンクしている相手を強制的に排除するアイテムがあり、公式も使用を認めているがこのアイテムの使用は基本的に御法度。これを使用されると必死に課金して上限解放した高性能キャラが無力化されてしまうため、モラルがどうのと理由を付けては使用した相手をSNSに晒し上げたりプロフの自己紹介欄でお互いを煽りあう文化が生まれる。
・シャルロッテというキャラ(過去に自分がアクセスした駅にランダムでアクセス出来る)の使用も一部ユーザーからは蛇蝎の如く嫌われてる。この「シャルロッテ」と上記の「足湯」を併せて使用すると真夜中に遠く離れた場所から相手をほぼ一方的に攻撃することが出来る。これによって占拠してる駅のリンクを切られたプレイヤーが怒り狂って足湯を飛ばしてきた相手の地元を突き止め、報復粘着するために新幹線に乗って遠征してくるなんてケースも発生。「そんな事のために?」と思われるかもしれないが彼らは鉄オタなので電車での移動を全く苦にしないのである。
・地主プレイ(カンストキャラで特定の駅を長時間占拠)も一部のユーザーからは嫌われ、害悪地主としてヲチスレに晒される。この様にとにかくこのゲームにはユーザーが作り出した暗黙の了解みたいなものがやたらと多い。
このゲームでは温泉娘のキャラクターが使用可能。最近話題の仁藤夢乃さんが熱海を旅行した際、駅メモプレイヤーが温泉娘のキャラ画像を大量に送りつけるという嫌がらせが発生。その他、某熱海の居酒屋とオタクの騒動とかは実はこの辺の連中がキッカケ。
某女性プレイヤー曰く「オフで会った駅メモプレイヤーに何度もセクハラされる。顔面偏差値がいくつだとか貧乳には興味が無いなどと面と向かって言われる」
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
寂しかった、緊張をまぎらわしたかった、ストレスを忘れたかった。だから、すすきのに居た時は酒を飲んでいた。
おさけは凄かった。普段は言えないことも、お酒の力で言うこともできた。緊張がやわらいだ。酒を飲むことによってストレスはむしろ増えていたけれど、酒を飲まないというストレスに耐えられなかった。酒を飲まなければ私じゃなかった。酒を飲んでる時のわたしのことを私は好きだった。お酒も好きだった。お酒のつまみも好きだった。お酒を飲むところが好きで、いる人たちも好きだった。だからバーでミルクを頼む気にはなれなかった。
いつも1杯だけと思って、お店を訪ねた。飲み始めるとブラックアウトをするまでのんだ。初めて入った店のトイレで気絶していたこともあった。酷い飲み方に拍車がかかってから、友人が減った。毎日ブラックアウトするまでのんだ。資金繰りに困るようになった。
当時同居していた7年付き合った彼氏と酒が入るとよく喧嘩するようになった。その人も酒が好きな人で、飲んだら暴言とかるい暴力をふるってくるような人だった。いつも彼が何か粗相をした時に、何とかしてたのは私だった。私がそうなってみれば俺が恥ずかしいからやめて俺の世話をしろと言っていた。そのうち帰ってこなくなった。他にも決定的に課題があって別れた。知り合ってすぐの人と見せびらかすように付き合い始めた。弱ったようだったけど、いない時にしか私に関心がないんだな、と思った。その知り合ってスグの人とは割とすぐ別れた。
終盤は休日であれば朝から飲んでいた。それは友人が教えてくれた悪くて楽しい飲み方だった。その友人と一緒に、その友人の休日には朝から晩まで飲んだ。仕事がある日も夜に毎日飲んだ。楽しかった。わたしは仕事をやめていた。何もかもどうでもよかった。いつ死のうかと思っていた。アルコールをやめたかった。
アルコール依存症の初期症状が出始めてから4年、とんでもないような田舎に引っ越して四苦八苦して半年の禁酒に成功した。その4ねんの間に結婚した。最近街にまたこしてきた。大丈夫だと思ったから。少し楽しみだった。夫と少し距離が欲しかった。夫のことは好きだけれど、一緒に居るのはすごく窮屈だった。
そうして、このあいだ夫に隠れて初めて飲みにいった。ブラックアウトはしなかった。バーボンのダブル三杯と水をゆっくりのんだ。私は変われたんだ思った。夫は心配しすぎなのだ。
でも昨日は違った。明細を見ると日本酒3合、バーボンのダブル4杯、ハイボール1杯をハイペースでひとりで飲んでいた。ブラックアウトした。帰宅の時間も定かでない。完全にスリップした。案の定、夫にはバレた。やめる、今後一切行かないと約束した。これは空手形だと思った。後悔してるしやめたいけれど、そんな簡単じゃないことを知っている。お酒が飲めないように工夫をいくつくかするつもりだ。でも、本当は自信が無い。AAに通うのは夫が許してくれないと思う。夫は私か他人とかかわるのを嫌がっている。夫のことも大好きなままでいたい。でも、私どこかで、やめたいと思ってるアルコールのために離婚してしまうような、そんな気がしていて怖い