はてなキーワード: 儒学者とは
I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。
安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。
統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。
困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。
2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
太郎乙も漢語・英語・蘭語を使えたので、幕府の洋学校教授や外国奉行などを歴任した。
1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッドの来日が決まったとき、
各藩から英語が出来る人物が呼ばれて接待係に任じられたが、静岡藩からは太郎乙が選ばれた。
その折、薩摩藩の軍楽隊を指導するために来日していた軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから、
「歓迎の式典では国歌を流さなければならないが日本の国歌は何か」との問い合わせがあった。
接待係たちは国歌などというものを聞いたことがなかったので、どうすべきか政府上層部に問い合わせたところ、
「その程度のことでいちいち問い合わせてくるな、そういう問題を何とかするためにおまえらを呼んだんだろ」
そのときに太郎乙が「もう古歌のなかから適当に選定すればいいんじゃね」と、
徳川将軍家が毎年の正月に行っていた「おさざれ石の儀式」で歌う、
という古歌を推薦した。
これが採用されて、そこにフェントンが作曲したメロディが付けられた。
つまり乙骨太郎乙は国歌「君が代」の生みの親と言っても過言ではないのである。
ただし諸説あり。
当初11%以下だった自民党支持層の岸田支持率が河野に肉薄して来ている。
政策が好感を得ているってのもあるとは思うが、どうやらプロを入れたらしいイメージ戦略が奏功してるのは間違いない。
SNSの活用、インスタライブ、Youtubeのライブでの非政治ジャンルのカジュアルなQAから、こまめな政策発表も良い効果があると思うが
個人的には、細々としたところで感心させられる。例えば、岸田は演説の冒頭で、まず菅政権の実績に敬意を表して成果は成果として公正に評価しているということ。
河野はワクチン大臣としての業績はアピールするが、それを菅政権全体での成果としてはあまり触れない。あなたの成果は立派だが、それは政権あっての事ではないのか?と言いたくなる。
高市は特段菅政権を論う事もないが、かといって賞賛する様な事もない。そもそも後ろ盾の安倍と二階菅は友好的な関係ではないので止む無いのかもしれないが、勿体ないことだ。
枝野は、常に口角に泡飛ばして批判をするばかりだ。経済政策すら発表しないお前らに何が出来たというんだ?という疑問が頭から離れる事がない。
こうなると岸田の、菅首相の実績を評価し努力に賛辞を送りつつ、それでも自分はそれを超えて見せるという態度は頼もしく、好ましく、能力があるように見えてくる。
普段の振る舞いからメディアへの露出の仕方、演説の方法、言葉の選び方に至るまで、プロの目が入ってるんだろうなという事を感じさせる場面が多い。気付いても、気付かなくても、自然な形で岸田の印象はプラスになると思う。
アメリカの大統領選では、PRのプロが指導、アドバイスするのは当たり前の事なんだろうけど、今の岸田を見てその威力の大きさを改めて感じた。
古来、儒教にせよ、小笠原流にせよ、礼儀作法ってのが権力者の嗜みになっていたけれど、それにはそれだけの理由があるのだなと。所作一つで好印象が買えるならば、安いものということだ。
Tmr1984 儒教と小笠原流を並列に並べてるところが引っかかった。多くの人が並列にしないものをわざわざ並列にする理由を考えている。
単に、あなたに知識がないだけ。儒教ってのはかつては礼や楽をも代表するものだった。儒学者の礼が嫌いだった劉邦が、儒学者の冠を取って中に小便して返すような悪態をついていたというのは有名な話で
新自由主義を批判していることで知られる、英国の著名な人文地理学者David Harveyは、彼の著書の中で「『個人の自由』を至上の価値に戴く個人や集団は、容易に新自由主義に乗っ取られる」と云う箴言を記しています。
福澤諭吉は、おそらく最も本邦のネットウヨクに人気がある思想家です。福澤諭吉は神仏の類いを一切信じず「人間の在り様は全て『個人の努力』のみによって決定される」と考えるような「近代日本における『自己責任論者』のパイオニア」でした。ですから、巷間よく言われる「ネットウヨクは『保守』ではない」と云う言葉は、正しいと言えると思います。(四書五経や日本の儒学者の著作、仏典、古事記・日本書紀・万葉集・古今和歌集などの国文学等に親しんでいるネットウヨクなどは、ゼロではないでしょうが多数派でもないでしょう。)
その福澤諭吉は、彼の自宅を訪れる人間が貧しかったり地位が低ければ「そいつがそんな状態に在るのは、努力を怠っているそいつ自身の自己責任なのだから、そいつをぞんざいに扱っても構わない」という態度で、わざわざ安物の茶を出すなど対応の仕方を変えていたと伝えられています。
我が国におけるアジア諸国に対する蔑視感情も、福澤諭吉の系譜に連なる「日本は努力して脱亜入欧を果たした。しかし、彼奴等の国は努力をしなかった。だから、オレたちが彼奴等を見下しても彼奴等の自己責任だ」という考えに帰着します。
さて、現在のはてな界隈では「不寛容な(例えば、人権意識が低い)人間に対しては、こちらも不寛容な態度に出ても構わない」とする考え方が主流のようです。
そこで、私個人の考えていることは、
(1) 寛容性は、教育・学習により身につく知的な財産である。
(2)_a 格差社会が深刻化すれば教育・学習格差も拡大して、貧しい教育しか受けられない人間が発生する。
(2)_b 仮に経済的に貧しい家庭ではなくとも、保護者に問題があって、教育ネグレクトや洗脳の状態に置かれれば、学習機会を得られない人間が発生する。
(3) そうして教育・学習の機会が貧しくなり、寛容性を身につけられなかった人間が発生する虞がある。
ということです。なお、(2)_bの教育ネグレクトや洗脳の被害者に対するセーフティネットも、格差社会が深刻化すれば、貧弱なものになると予測されます。
それを踏まえて、ここで私が問いたいのは、我々が不寛容な人間に遭遇した時に「それは、そいつが『不寛容な人間』にならないように努力することを怠った結果なのだから、我々もそいつに不寛容な態度をとっても構わないのだ」とすることが許されるのか?と云う点についてです。
ある人は言うでしょう。「教育・学習の機会が貧しくても、そういう人間の全てが『不寛容』になるわけではない。だから、そいつが不寛容なのは、やはり、そいつ自身の責任なのだ。したがって、こちらも不寛容な態度をとっても構わない」と。
あるいは「こちらが不寛容な態度をとることによって、奴らに目を覚まさせるのだ」と。
かつて生活保護バッシングが起きた時(と言うか今でも現在進行形で起きているのですが)に、決り文句のように言われた/言われるのが「貧しい人間の全てが、生活保護に頼っているわけではない。条件に拘らずに働き口を探せば、生活保護を受けるような貧困状態に陥るはずがない。生活保護を受けるような人間は、そいつが怠惰だからなのだ」とか「生活保護に頼らざるを得ないような、不健康な状態にまで身体を壊したのは、そいつが努力を怠って不節制な生活を送っていたからだ」といった言葉です。
はてな界隈では、リベラルや左派の方が多いので、経済的な貧しさ、疾患・障害などの肉体的な貧しさ等に関しては『自己責任』論者が批判される傾向にある一方で、知的な貧しさに関しては『自己責任』論者となる人が屢々見られるので、私は不思議に感じてます。
以前は「攻撃や争いよりも対話や教育を」という姿勢の方も多数見かけたような気もしますが、最近では「彼奴等は、あんな奴らだから、関わったり対話を試みるのは徒労だ」として、対話の努力を放棄したかのような人も増えたように見えます。
はてな界隈は、個人の自由を重んじる人が多いので、D. Harveyの言うように新自由主義に乗っ取られてしまい、結果として「自己責任論者」が主流となったのでしょうか?
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
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1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節は著名だが、この「云ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[2]。
「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
ということである。
以上の言葉は初編からの引用であるが、虚実渦巻く理想と現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3] [4]。
更に古文や漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者や朱子学者が使うような難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算、基本的な道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]。
本書は数章を除いて、高等教育を受けていない者を読者に想定している。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、小学校の教科書にも用いられた。難解な政治思想を平易に説明するため比喩が多く使われている。
ふと疑問に思った。ラーメンはもともと中国料理である。確かにラーメンはカレーと同様に日本で独自進化し、現在では本国のそれと大きく異なる。しかしもともとは中国料理である以上、初期のラーメンは中国料理に近いはずだ。初期のラーメンはいったい何ラーメンだったのだろうか?Wikipediaで調べたのだが、不明だそうだ。
日本で最初にラーメンを食べたのは徳川光圀(水戸黄門)だという説がある。倉敷作陽大学の小菅桂子の主張によれば、1659年に明から亡命した儒学者の朱舜水が水戸藩に招かれた際に、所持品リストにラーメンを作る際に使うものが含まれるから、中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。しかし推測の域を出ない。これを復元したラーメンは新横浜ラーメン博物館にある。一方、日本への伝搬の起源として明治時代の神戸や横浜などの中華街で提供された南京そばに始まるとする説と、次が1921年(大正10年)に現・北海道大学正門前にできた竹屋食堂からとする説がある。どちらも、現在のラーメンとはスープも麺も作り方から味まで全く違う別物であったが、竹屋食堂では大研究の結果、1926年(大正15年)に醤油味、チャーシュー、支那竹、ネギをトッピングした現在のラーメン原形ができている。