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2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2017-05-19

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

2016-03-14

すゝめ

文章

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

慶應大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福沢の言

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節は著名だが、この「云ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉福澤諭吉言葉ではなく、アメリカ合衆国独立宣言から翻案であるとするのが最も有力な説である[2]。

この引用対応する下の句とも言える一文は、

「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」

である。つまり

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るもの貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」

ということである

以上の言葉は初編から引用であるが、虚実渦巻く理想現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷否定し、また、「政治国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3] [4]。

更に古文漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者朱子学者が使うような難しい字句のある漢文古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算基本的道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]。

本書は数章を除いて、高等教育を受けていない者を読者に想定している。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、小学校教科書にも用いられた。難解な政治思想を平易に説明するため比喩が多く使われている。

2016-02-25

初詣明治以降につくられた伝統だという説は怪しい

「看羊録」という書物がある。

豊臣秀吉朝鮮侵略の際に日本拉致されて数年をすごした朝鮮人儒学者日本観察記である

家族までも犠牲となった侵略被害者なので当然ながら日本に対する憎しみは深く、感情的偏見の強い記述も随所に見られるが、一方で科挙に受かったエリートだけはあり、抑留中に見聞きした出来事はもちろん、日本の書物をよく読み、北海道も含む日本列島の詳細や地名や各地の慣習、大名名前性格まで記録しており、著者の姜沆の博覧強記ぶりがうかがわせる。

その中に以下のような記述がみられる

その風俗はひどく鬼神を信じ、神に仕えることは父母に仕えるようであります生前、人の尊信を受けていた者は、死ねば必ず人々に祀られます。父母の命日には、あるいは斎戒・素食しないことがあっても、神人の忌日には一切魚肉を禁じます将倭や将倭の妻妾から庶民の男女に至るまで、祝日や神人の忌〔日〕にあうたびに、おごそかに盛装し、〔寺・社などの〕門前に行って銭を〔賽銭として〕なげる者が街路をうずめつくします。神社は宏〔大、奢〕侈〔をきわめ、〕、金碧に照り輝いています

(〔〕の中は文意を分かりやすくするための訳者の注の模様。なお、翻訳基本的東洋文庫「看羊録」朴 鐘鳴 訳による)


一読して分かる通り、ここに書かれている神社参拝の光景今日における初詣のそれと何も変わらない。ただ一つ違うのは、それが行われるのが広く「祝日や神人の忌避」としており、元旦限定していないことだ。(この「祝日」はもちろん、単なる休日という意味ではないだろう。)

この記述部分は姜沆が抑留されていた京都にて自分で見たものなか、それとも人づてに聞いたものかは判然としない(彼は抑留中は藤原惺窩の世話になっており、慕われて戦国大名の人物評なども聞かされていた模様)。もちろん、当時の日本現代よりはるか地域差も大きかったろう。

だがしかし今日の「初詣」と同じような風習戦国時代日本存在したことは間違いないようだ。「看羊禄」にはほかにも、当時の日本人が大変に信仰深かったことが描かれている。


むろん、元旦に行われないならば初詣とは違うという意見もあるかもしれない。

しかし、こうはいえないだろうか

日本人はもともと信仰深かった。そして祝日があるたびに大勢寺社に参って賽銭を投げ入れるという風習があった。それが明治時代になり、だんだん従来の信仰形骸化し、また近代化によってカレンダーに強く拘束される生活になった結果、最大の祝日である元旦にだけ、従来のお参りの風習が集中する結果となった。」

こう考えてみると、「初詣明治以降につくられた伝統」だという説はいささか偏った見解だともいえる。むしろ数少ない、近代適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。そう考えると、初詣は貴重な伝統文化として大切に保存しなくてはいけない、ともいえるのではないか。



以上です。



もちろん、この資料だけを根拠にあれこれ言うには限界があります。ほかにも関連資料を見つけた際にはまだ別記事にてご紹介したいと思います

「『元旦』にお参りする」という風習については「恵方詣」などを調べていただければと思いますネット上ではこの恵方詣をもって初詣元祖とする見解が多いですが、その前提として「祝日大勢寺社にお参りして賽銭を投げ入れる」という民族的風習があったといえるでしょう。

そのほか、参考サイト

平安時代までは確実に遡る「初詣」の歴史



追記2/29


予想していたよりもはるかに多くのコメントいただき、うれしいと同時に正直戸惑っております(笑)

頂いた反応のうち、特に多くの方から寄せられたものにつき、回答させていただきたいと思います

新たに記事を立てるべきかとも思いましたが、煩雑になる可能性もあるため、追記という形式をとらせていただきます

匿名ダイアリーの慣習などには明るくないため、もしおかし行為でしたら申し訳ございません。



まず第一に、非常に多く寄せられたコメントに「祭りや祝い事が古来からあったなんて当然じゃないか」というものがあります

これは私にとって予想外の誤解だったのですが、私は単に古来から祭りや祝い事があった、と言っているのではありません。

特定の日に、街道を埋め尽くさんばかりの人間が同時に寺社にお参りして賽銭を投げる」という形式の慣習存在していたと主張しているのです。

初詣の原型があった」という主張なのですから、単なる祝い事があったというだけではもちろん、何の根拠にはなりません。

形式において今日初詣と非常に似通ったもの中世の時点ですでに存在したという点が重要なのです。



次に、「初詣明治以降につくられたという説は、鉄道で無縁の大手寺社に参るという点明治以降に生まれものだという説である」として、いったい誰が何もないところからつくられたと主張しているのか、お前は誰と戦っているのか、という指摘がございました。

そして、専門家の詳細な説や意見を紹介してくださった方もいらっしゃいました。

私は、そのように原型のあった部分と変化のあった部分を明確にした上での見解ならば文句はないのです。

(中には、私がそのような専門的な説に対する批判を行っていると勘違いされた方もいらっしゃいましたが、決してそんな不遜な意図があったわけではありません。)


これは私の書き方に問題があり、本文において大上段に振りかぶって文化論をぶつような書き方をしてしまったため、誤解を生んでしまったものだと思います


私が想定しているのは、もっと低いレベルでの話です。

例えばTwitterで「初詣 明治以降」「初詣 捏造」などで検索していただければ、初詣には微塵の原型もなく、明治以降に突然、(ときには陰謀論的に)創設されたものだと思い込んでいる方のツイートがヒットします。

おそらく、どこかで「初詣明治中期につくられた」という話を知り、それを文字通りに受け取って、そのような認識になってしまったものだと思われます

話は変わりますが、私は、「明治以前に神道という『単語』はなかった」というとんでもない主張をする人と出会ってことがあります

おそらくは明治時代国家神道の創設について、中途半端認識が伝わっていくにつれてそのようなことになってしまったものだと思われます

元は専門的に議論され、ちゃんと留保を置いた上で説かれた説が、一般流通していくにつれ、単純化され、しまいにはデマに等しい説にまでなってしまうのです。

「誰と戦っているの?」というコメントを頂きましたが、私はそのような「デマ」が広まることを危惧しています



ここから先は少々、抽象的な問題になります



他に多くの方々の反感を呼んだのが、

「むしろ数少ない、近代適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。」との点です。

様々な反応がありましたが、まとめると、上でもふれられた「遠方の寺社にでかけるのは明治以降である」という認識(それはおそらく事実でしょう)に基づき、やはり捏造された伝統であることは否定できない、という主張です。

これについては、最終的には解釈思想問題になりますので、限られた文字数議論できるとは思いませんし、万人の納得のできる結論も出ないでしょう。


ただし私は、どのコメントを読んでも、あるいは紹介していただいたリンクなどを読んでも、いまいち納得できませんでした。(むしろ違和感が増しました)

というのも、近代化工業化が進めば(直接的な要因が自然ものであれ人為的ものであれ)変化があるのは必至だからで、それは当然じゃないのか、と思ってしまうからです。

「変化した」「変貌した」と言っていただければ何の違和感もないのですが、なぜ「近代になってつくられた」とまで言い切ってしまうのか、その理由が分かりません

近代につくられた」というのは所謂カルスタの方々の昔からの決まり文句ですが、(石原千秋氏は「つくられた系」と批判的に呼んでいました)「近代になって変化した」では当たり前すぎてインパクトが薄いのであえて強調しているのではないかと勘ぐってしまます


また、現在でも地方共同体の生きている田舎では、古来とさほど変わらない信仰地域性の元で「初詣」を行っている地方存在すると思いますが、それは捏造ではない、ということでよろしいのでしょうか?そうするとやはりそのような方面無視して「つくられた」と説くことには違和感があります

2009-06-27

ラーメンは塩ラーメンからはじまったのだろうか?

ふと疑問に思った。ラーメンはもともと中国料理である。確かにラーメンカレーと同様に日本で独自進化し、現在では本国のそれと大きく異なる。しかしもともとは中国料理である以上、初期のラーメン中国料理に近いはずだ。初期のラーメンはいったい何ラーメンだったのだろうか?Wikipediaで調べたのだが、不明だそうだ。

日本で最初にラーメンを食べたのは徳川光圀水戸黄門)だという説がある。倉敷作陽大学の小菅桂子の主張によれば、1659年に明から亡命した儒学者朱舜水水戸藩に招かれた際に、所持品リストラーメンを作る際に使うものが含まれるから、中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。しかし推測の域を出ない。これを復元したラーメン新横浜ラーメン博物館にある。一方、日本への伝搬の起源として明治時代神戸横浜などの中華街で提供された南京そばに始まるとする説と、次が1921年大正10年)に現・北海道大学正門前にできた竹屋食堂からとする説がある。どちらも、現在ラーメンとはスープも麺も作り方から味まで全く違う別物であったが、竹屋食堂では大研究の結果、1926年大正15年)に醤油味、チャーシュー支那竹ネギトッピングした現在ラーメン原形ができている。

なので、勝手妄想してみた。現在ラーメンの味は基本的に

が基本だ。醤油味噌については日本のものなので塩だと考えたのだけど、どうだろう?

 
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