はてなキーワード: 流線型とは
「ボクにお礼をさせてほしいっポ!」
いつものように日の光からの隠れ蓑の土管の中で、ひとり昼の残りのパンを食べながら時間をつぶしているところに現れたイカのフォルムをしたソレは、最早残飯でしかないものを食らいつくしてからしゃべりだした。
「ボクの星のラッキーアイテムを使えば何でも夢がかなうんだ。お礼になんでも言ってよ!!」
白くきれいな流線型のソレは、地を這いつくばりながらラッキーアイテムなる便利道具ーーーどうみてもガラクタか子供のおもちゃにしか見えないがーーーを次々とほおり投げてくる。
なるほど。
タコは足をくるりと曲げた「ゆでだこ」フォルムならば地球侵略に来た際でも他の地球生物同等に歩行ができるが、すらりと足の伸びたイカではそれができない。できたとしてスミを吐きながら床平面の陣地を取り合う程度のことしかできないだろうよ、と謎の納得をしながらーーー
さて、このお誘いをどう断ろうか。
わたしは必ずしも裕福とは言えないが、貧しいわけでもない。友達は少ないがいじめられているわけでもない。むしろ一人を満喫し、他者と距離を取りたいがためにいわゆる「陰キャ」を演じているただの地球人A。欲望がないわけではないが、この地球外生命体を満足させるであろうどす黒い欲望ーーー例えば殺戮衝動とか?ーーーもしくは、地球のxx問題をどうにかしたい!といった救世主思想ーーーなんてものはとんと持ち合わせてはいない。
こんなお誘いが似合うのは、ずっといじめられ続けて苦しみ、いじめっこへの復讐を考える被害者Bか、地球の更なる発展を具体的な方法として落とし込める英雄Cだろう。発想が貧相で、教科書通りにまねっこをして良を貰っていた、ただの及第点ホルダーAには荷が重い。
「いや、せっかくだけど遠慮しておくよ。」
イカポーという舐めた名前のソレは、それでもなお、トビウオよろしく、わたしの琴線の外にあるガラクタをジャンプしながら投げつけてくる。
その胴体が強かに打ち付けると同時に舞い起こるしぶきは、夏の磯を思いおこさせる香りをばらまいた。
「そんなこと言わずに、なんでもできるっポ!本当だっポ!」
そんなどうでもいいことを考えながら、「じゃあ」と無難な、でも、どう答えてくれるんだろうと少し意地悪なお願いを投げてみた。
「わたし、一度でいいから賞賛されてみたかったんだ。何もとりえはないけど、何かを達成して、みんなから拍手喝采!みたいな。できる?」
「そんなの簡単だっポ!これを使えばいいっポ!」
イカで言えばひれ(耳というんだっけ?)の部分でぺしり、と私の目の前にたたきつけたガラクタは、星形の黄色いワッペンみたいなものだった。
「これは?」というや否や、ソレが解説をしてくる。
「これはすごいねスターって言うっポ!これをみんなに渡せばみんなからすごいねって賞賛のコメントがもらえるようになるっポ!何個でも渡せば渡すだけ賞賛されるっポ!ラッキー星ではみんなやってるっポ!みんなスターをいっぱい集めることに夢中っポ!」
ーーーなんて悪趣味な道具なんだろう。スターをお仕着せてスターを集める?そんなの誰が喜ぶ?こんなの流行るわけがない。
そもそも、みんながみんなスターを貰ったら価値なんてゼロだろう。喜んでスターを集めようなんて普通考える?ばかばかしい!ーーーという言葉をぐっと飲みこんで。
さっと立ち上がると、スターを地面に置いて足早に立ち去る。
残されたソレは「すごい!」「素敵!」とか「レッドすごいねスターもつけちゃうよ!」とかよくわからないことを言っているが、我関せず。興味を失ったわたしはその場を立ち去った。
以来、いつもの土管にはいつもの静けさだけがのこり、ぽーぽーうるさいソレとは二度と会うことはなかった。
もしかしたら今でもウラでわたしにスターをつけて賞賛しているのだろうかーーー想像してぞっとする。
なんて悪趣味なんだ。
息子のおもちゃを探すと、新幹線といえば今ははやぶさになってることに気づく。
自分が子供の頃は新幹線といえば、こだまとかのぞみだった。流線型ののぞみは憧れだった。
今も新幹線のイラストとかは、富士山にのぞみなことが多いけど、はやぶさで育った世代になったらグリーンの車体こそが新幹線になるんだろうか。
JR東海はリニアもそうだけど、白を基調にしたデザインが多く、自分たちが築いてきた新幹線のパブリックイメージを守るようなデザインが多い気がする。高度経済成長の象徴だった新幹線を作ったのは我々だという自負心すら感じる守りのデザイン。
今おもちゃのラインナップを見ると、はやぶさドクターイエローこまちかがやきとカラフルな車体が人気のよう。新幹線と聞いて最初に頭に浮かぶのが白ではなく、緑や赤になる日も近いのかなと思っている。
レディットみてたら、コロラドの雨、みたいなタイトルの投稿があった
いま、コロラド、なんかすげえ天気悪いらしく、むちゃくちゃ雨が降りまくってるとのこと
そのすげー雨を、どんな場所なのかわかんねえが、全面プラスチック張りか何かの、温室みたいなところから眺めている動画だ
流線型の屋根を大雨が流れていくので、ほとんど滝を裏から眺めているみたいになっている
それに対して「ここでならすごくよく寝られそう!」っつうリプライがあった
それに対し、「動画で見るよりうるさいと思うぞ」という現実派のリプライ
そこについたのが、「もっとうるさく寝ればいいじゃん(Just nap louder )」
すげーいいな、と思った
いいんすよ
ZZZZ、ですよ
鬼滅の刃の「禰豆子」がかわいい。とんでもなくかわいくて愛おしい。このキャラクターを考案した吾峠呼世晴氏はマジの天才だ。色んな属性のヒロインが生まれては消えゆくこの時代、何故ここまで魅力的なキャラクターを作れるのだろうか?
広いおでこ、まんまるで大きな瞳、流線型の顔、ふっくらした身体にちんまりした手足、禰豆子の印象は「赤ちゃん」ないしは「小動物」である。このベビーフェイスのおかげで男女問わず、本能的に庇護欲が掻き立てられる。
そんでもって、身体の大きさが可変だ。頭身を自由にいじくることが許されているため、かわいいシーンでは幼く書き、切羽詰まったシーンでは大人っぽく描ける。デフォルメの自由さのおかげで「しっかり長女」と「おてんば妹」を使い分けられる。ずるい。そんなのアリか。
基本的に禰豆子は誰かから常に守られているキャラだ。文字通り箱入り娘と化した禰豆子は、かまぼこ隊や柱達からたくさん可愛がられている。戦闘中であろうとも、炭治郎は禰豆子を守ることに常に意識を向けている。
しかしながら、禰豆子は鬼殺隊の一般隊士より遙かに強い。血気術は使えるし、四肢を切断されても時間が経てば再生する。中身は鬼なので当然と言えば当然だが、正直、闘いの半分ぐらいは禰豆子がいなければ負けていたと言えるほどには強い。
この弱さと強さのバランスが、禰豆子を魅力的にしている。いくら禰豆子が強いとはいえ、一人で鬼に勝てるほど圧倒的な強さではない。敵の鬼のほうが人間を食っている分、当たり前に強いしガンガン追い込まれていく。そこを仲間との協力で何とか倒すのが禰豆子流戦闘術だ。
少年漫画にありがちな「守られてばかりヒロイン」でもなければ、「さすが禰豆子の姉貴」でもない。動物で例えるならチワワとドーベルマンのキメラだ。時に儚く時に逞しいのが禰豆子。ずるい。そんなのアリか。
私が禰豆子を初めて見た時、この身に衝撃が走った。12歳のロリっ子が猿ぐつわを咥えさせられている。変態の発想だ。フェティシズムとハレンチの境界ギリギリを攻めた超ラフプレー。世が世で国が国なら作者は公安にしょっぴかれているだろう。
時に、少年誌では作者の趣味や読者サービスによってキャラの露出が増える。ピチピチの服のほうが動きやすかったり、圧縮した霊圧の高さで背中の衣服が吹き飛んだりと、色んな理由をつけて肌色が増えるがそんなの建前であり、つまるところ「書きてぇ」からだ。
そして禰豆子にも猿ぐつわを咥える理由がある。鬼になっちゃったからだ。鬼になっちゃったら人間を噛むかもしれないので代わりに竹を噛んでいる。正直、鬼なら竹食い破れるから抑止力にならんだろと思うかも知れないが、そんな理由も全然アリである。それは吾峠呼世晴氏が「書きてぇ」からに他ならない。
そして令和の世の日本国において、作者の性癖は「エロい」よりも「かわいい」と見なされたのであった。
最後に、禰豆子の魅力を一番引き出していると思われる要因がこれである。
いきなりだが、自分が犬を飼っているとして、その犬がいきなり人語で会話をし始めたらどう感じるか想像してみてほしい。中には意思疎通が取れて嬉しいと感じる人もいるかもしれないが、多くの人は見た目と性格とのギャップに驚くに違いない。私達はチワワなら繊細で、ドーベルマンなら勇敢だと考えがちであるが、それは見た目としゃべらないことが原因で思い描く勘違いである。実際のところ、チワワの性格は見た目に反して勇敢であり、ドーベルマンは結構甘えん坊だ。
そう、「しゃべらないからこそ可愛い」ということは往々にしてある。鬼化した禰豆子の性格は、見た目そのままかわいい生き物としてどんどん補完していくことができる。
また、しゃべらないということは、容姿と動作に自然と目が行くことでもある。そうなれば禰豆子はもう無敵だ。容姿は守ってあげたくなる小動物フェイスであり、動作は「む~~」だったり「ヴーーッ!」だったりと変幻自在。まんまるの目で語りかけてくる甘えん坊かと思えば、拳と背中で語り掛けてくる勇敢な姉貴にも変わる。
一般に「リーゼント」とは、ポマードなどを使って前髪を盛り上げ、側面の髪を後ろに流して固めた髪型のことを指す。
英語圏では、前髪を盛り上げる髪型をポンパドール、側面の髪を後ろに流す髪型をダックテイルと言う。
特に近年では「3」が正当で「1」や「2」は誤用だとされることが多い。
事実は奈辺にあるのだろうか。
以下のブログで引用されている1964年の新聞記事には、理容師の増田英吉によるリーゼントの誕生秘話が書かれている。
http://mudamuda.hatenablog.com/entry/regent
むかし、リーゼント・スタイルというのがあった。戦後も一世を風びした、流線型のあれ。これを二十代で考案したのが増田さん。
(中略)
ヨーロッパ人にくらべ、日本人は髪がかたいこと。もう一つは「ひたいから頭のうしろまでの距離が短いこと。まあ顔面角のせいなんでしょうかねえ」。あとの方のハンデを克服しようと考案したのが、リーゼント・スタイル。前面をいったんふくらまして、うしろになでれば、髪が落ち着く距離が長くなる――これがそのヒントだった。
リーゼントについて詳しく調査された以下の英語記事でもほぼ同じ説が採用されている。
https://neojaponisme.com/2014/10/09/history-of-the-regent/
1920年代後半、東京のモダンな街・銀座には、スタイリッシュな若者たちが集まっていた。モボ(モダンボーイ)はワイドパンツにかっちりとしたスーツを着こなし、モガ(モダンガール)は洋装と和装をミックスしたスタイルだった。彼らの髪型として、モボはポマードで髪を後ろに流しており、その見た目から「オールバック」と呼ばれていた。
1933年、東京のモダンな理髪店は、現代の紳士のための次のスタイルを求めていた。銀座のとある気鋭の美容師が、サイドを後頭部に流し、高島田の花嫁のように前髪を押し上げるスタイルを考案した。エキサイティングな外国語の名前を探していた理髪師は、それを「リーゼント」と名付けた。
これらの説明によれば、この時点ですでに「リーゼント」は単なる「ダックテイル」ではなく、「膨らませた前髪」と一体になった髪型を指している。
ただし、ここでの「膨らませた前髪」はポンパドールと言えるほど大きなものではなかっただろう。
ちなみに「オールバック」も和製英語で、英語ではスリックバックなどと言う。
一方、Google Booksで検索すると「ポール・グラウス」という人物が浮かび上がってくる。
1934 (昭和7 )年ごろ、日本にリーゼントが紹介された。正しくはその前年1933年6月のこと。当時発行されていた専門誌『美髪』の口絵写真に掲載された。これをもってリーゼントの流行は'33年に遡る、とするむきもあるが、それは正しくない。リーゼント型、という名前とその写真がのっただけで、はやったわけではない。いや、はやらそうにも誰もその仕上げ方を知らなかったのだ。再びリーゼントが紹介されるのは1936年3月。同じく『美髪』誌上で、イギリスの理髪師ポール・グラウスなる人物が技術解説を試みた。
グラウスは1932年ごろにイギリスの理容雑誌で「リーゼント・スタイル」を発表しているらしい。
つまり、このグラウスが「リーゼント」の生みの親であるという。
命名者がイギリス人なら「撫で付けた横髪がリーゼント・ストリートのようにカーブしているから」という日本人離れした命名センスにつじつまが合う気もする。
このグラウスのリーゼントは「前髪を横分けにして、横髪は長く伸ばして後頭部へ撫で付ける」というものだったようだ。
「ダックテイル」に近いが、やはり「前髪」の形とワンセットで説明されている。
いずれの人物が考案したにせよ、二十世紀初頭に世界的に流行したオールバックのバリエーションとして、日本では1930年代に「リーゼント」が登場したということになる。
さらに言えば「ダックテイル」が発明されたのは1940年のアメリカだというので、むしろ誕生はリーゼントのほうが先である。
まあ、元となったオールバック自体がシンプルな髪型だから、当時似たようなアレンジは多かったのだろう。
当時の日本で、リーゼントで有名だった人物としては榎本健一や灰田勝彦、岡晴夫あたりが挙げられるが、いま見れば「前髪を横分けにしたオールバック」といった感じである。
ただ、前髪をぺったりと撫で付けたオールバックと比べると、この「リーゼント」の前髪はボリュームがあると言えるのかもしれない。
https://www.amazon.co.jp/dp/B001BBXG4Y
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5DHEU9
さて、リーゼントはポマードを大量に使うので戦時中の日本では禁止されて退潮したが、戦後すぐにアメリカ兵のファッションを真似るかたちで復活した。
https://danshi-senka.com/archives/191
リーゼントヘアで頭を固め、サングラスにアロハシャツ姿で第2次大戦後の街中を闊歩するアンチャンたち。無軌道な行動をとるこのような若者たちを、当時のマスコミはフランス語のアプレゲール(戦後という意味)からこのように呼んだ。(中略)彼らのファッションのお手本となったのは、日本に進駐してきたアメリカの兵隊たちのカジュアルな服装で、つまりは戦後まもなくのアメリカンスタイルの真似をしたに過ぎない。
リーゼントとアロハシャツは岡晴夫の影響だともいうが、要するにアメリカかぶれの不良少年といったところである。
どちらかと言えば紳士向けの髪型だった「リーゼント」が、この時期から不良文化と結びつけられるようになったのだと思われる。
ちなみに欧米でも「戦争でポマードが統制され短髪が奨励される」→「髪を伸ばしてポマードを大量に使う俺ってワルだろ?」という流れで、ポンパドールやダックテイルが不良の象徴となったという面はあるらしい。
イギリスではテディ・ボーイ、アメリカではエルヴィス・プレスリーやジェームズ・ディーンと言ったように、欧米で流行していた「ポンパドール+ダックテイル」というスタイルが日本に輸入されてきたのである。
特にエルヴィスの影響力は凄まじく、日本でも1958年にデビューした「ロカビリー三人男」などがエルヴィスを真似たスタイルで人気を得た。
このときに「ポマードで固めた前髪と後ろに撫で付けた横髪」という共通点で括られて、エルヴィス的な「ポンパドール+ダックテイル」のことを、日本では「リーゼント」と呼ぶようになったのだろう。
まとめてみよう。
表題の通り。
四連休の3日目の月曜日の今日、暇でゴロゴロ布団で惰眠を貪っていたんだけど、その時、歯車のような、流線型のような、模様のような黄色?の幻覚のようなものが見えたんだ。イメージ的にはお洒落な雑貨の幾何学ちっくなデザインのような、あるいは典型的なサイケデリック模様のような感じ。
特に昼寝の時、覚醒と睡眠の狭間にいるときに、多かれ少なかれ見るんだ。で、これは自分にとってまあまあ普通のことで高校ぐらいから見える、というか知覚できるようになった。当時、友達に話してみたけどわかんないって言ってた。増田のみんなで経験がある、またはその分野に詳しいという方、コメント待ってます。
以下追記です。
→閃輝暗点
偏頭痛もちだけど、その時は現れない。しかも、生理的な、単にギザギザした光の形というというよりは無意識、夢の世界に近くて、アーティスティックぽささえあるように思える。頭痛はないけれど、倦怠感はある。
→ ナルコレプシー
Wikiで調べたんですが、これ系ぽいですね。わりと慢性的にやや倦怠感があり、特に感情が高ぶったりすると、運動神経全般がぎこちなくなるような感覚があります。ただ、軽く力が抜けるという程度で、倒れたり、体が動かなかくなるというのはないので、この症状と上手く付き合っていきたいところです。なお、神経内科で診てもらうのも検討しておきます。
当時から結構な音楽好きで、サイケデリック・ロックやプログレッシブ・ロック(すまんが知らん人はググってください)をよく聴いていて、何となく幻想的な精神世界に興味を持っていました。初めてこの症状を見たときは、高1の冬休みに、チャイコフスキーの『冬の日の幻想』を聴いていた時で、(とは言ってもそこまで自分には響かず、退屈感も少なからずあった)目を閉じると幻覚的な光景が、色鮮やかに映し出されていって、不思議でもあり、怖くもあったのでますが、知的好奇心に身を任せ、束の間の風景を楽しんでいました。こうしてみると、この症状は少なくとも自分にとっては音楽と強い関わりがあるように思えます。
彼女は上気させた表情を浮かべながら、僕の上に跨がり、右手に握りしめたその銀色の流線型を、勢いよく僕の胸へと突き立てた。薄く、冷たい金属が体内を侵し、一瞬の間をおいたあと、苦痛の代償として血液が排出され始める。苦痛。それを意識した瞬間、思考が痛みに塗りつぶされる。視界が、赤と黒の斑な色彩に変わっていく。心臓の音が大きく響き、脈を打つたびに血液が失われていくのを感じる。見上げると、既に彼女は僕の方を見ていない。微かに残る視界には、恍惚とした表情を浮かべながら、中空を見つめる彼女だけが映っている。そういえば、家の鍵を締め忘れていた気がする。指先の温度は完全に失われた。昨日はゴミ出しの日なのに出していなかった。洗っていない洗濯物が溜まっていることを思い出した。呼吸ができない。冷蔵庫に入っている牛乳の賞味期限が一昨日だ。書店で取り寄せていた本をまだ受け取っていない。そろそろ、髪を切りに行かなければ。走馬灯と呼ぶにはあまりに陳腐な思考は、しだいに全身の感覚と共に薄れ、淡い痛みだけが胸元に残る。僕の意識は、そのわずかな感覚と同化し、死という悠久の悦楽に身を任せるのであった。
最初は混んでいたものの、主要駅に止まる度人がどっと降りてはわずかに乗り込む。
繁華街から住宅街に向けて走っていく電車には、気づけば顔の赤いサラリーマンと、若い大学生の男性と、声を潜めて笑いあう中年の女性達と、その他に音楽を聴きながら船をこぐ人が幾人か。
先ほどぎゅうぎゅうに乗っていたとは思えないほど座席は歯抜けの様相だった。
どこに座っても良かったが、なんとなくそのまま立ってドアに寄りかかり、ガラスに映り込む車内を眺めていた。冷房で冷えたドアが湿気でべたついている。
その時ごおっと音がして、電車の揺れで頭を打った。予想外の痛みに驚いてその部分をさすりながらドアの外を見れば、電車は地上に出ていた。
上へ出た衝撃で電車が揺れたのか、と眺めていると街の白い明るい光が流線型に流れていく。川の上に差し掛かり遠くを見れば、明かりはオレンジや黄色が増えて光っていた。
真っ暗な川の水面が電車の光を受けて銀色に光っては黒く戻って漂う。
そのまま終点まで行ってみようか、と思いながら結局最寄駅で降りた。雨は止んでいた。
夢のような夜だった。
タイトルの通りのことが言いたかっただけなんですけど、いや、チェロってすっごくエッチじゃないですか〜〜????見てくださいよ奥さん〜〜〜〜!!!!!(ここテレビショッピング)
あの流線型の素晴らしいフォルムも、焦がしたメイプルシロップのような素敵な色も、立ち上る松脂のかおりも、そっと触れた時の木のぬくもりと弦の冷たさと、奏でた時の音域の広さも、素晴らしいと思うんですよ。とっても。
突然転校して来た謎の美少女だったり、近所の優等生な幼馴染だったり、蠱惑的なのに包容力のある先輩だったり、なんでも受け止めてくれる義理の姉みたいだったり、もうたったひとつのチェロに一体何人もの攻略対象のエッセンスが詰まってるんだよって話なワケ。エロゲだよエロゲ。
ヴァイオリンやヴィオラ、コントラバスではいけないのかって話なんですが、私はチェロしか触れたことがないし、チェロとしか関係を持ったことないし、そんな他の楽器のえっちさについて語ってたら自分のチェロに愛想つかされちゃうじゃないですか……でもコンバスの低音には抱かれたいかもしれないし子イヌのような可愛らしいヴァイオリンの音色も素敵だし、わかる人にわかればいいのと隙間を縫うように旋律を支える影の功労者的ヴィオラも魅力的だとは、思いますけどね!!ええ!!あっまって今のなし
楽器ってやっぱり触れるときってドキドキしますよね。きちんと曲が奏でられた時なんてもうめちゃくちゃ気持ちいい。自分の努力に楽器が応えてくれたことが嬉しい。自分の努力の合わせ鏡だし、私の努力は私の楽器が全部見ていてくれる。天使じゃん?
逆に手を抜いた時とか、はいはいこの曲何回もやった〜〜って流して弾いちゃうと、もうすっごいがっつり曲に現れちゃうんですよね。すごい。私やる気アリマセーンって感じで弾くとすっごいダサい音が出る。こんなダサい音を私の楽器から生み出しちゃいけない!!と思うくらい私が弾くにあたっての心構えとか気持ちとかって、全部曲に現れちゃう。そんなダッサイ演奏した日には、チェロにも周りにも合わせる顔がない。怠惰でごめんなさい。ってなる。
色々書いたんですけど、私はチェロが大好きです。オススメの曲はヴィヴァルディのチェロソナタ5番ホ短調です。
寝ます。
わかる。
街を歩いていて「おっ、かっこいいな」と思って目がひかれると、それはマツダだったりする。
ただ、ブランドイメージがよくない。
もっとライフスタイルを意識させるようなCMとかやったりブランディングもやっていったらさらに惹かれてしまう。
現状、めちゃかっこいいけどマツダかあ、的な認識。個人的には。
あの流線型で丸く膨らみを帯びたエレガントなフロントボディはまさに一つの理想。
ほんっとにかっこいい。
マツダ、がんばれ!哲学をもっと語ってくれ!!物語を生きさせてくれ!!
ほんとにとにかくかっこいい。あんな目が奪われる車は他にない。
ブランディング超絶頑張って欲しい
誰にもいわないけどマツダの車が一番かっこいい。夢に描いた車の形に一番近い。