はてなキーワード: 系統とは
有名なのは、
哲学的ゾンビ、インプレゾンビ、ゾンビシャークだと思うけど(最後はおいといて)
これだけ見ても二系統あるよね
本能というか、ウィルスやゾンビ力に乗っ取られて捻じ曲げられた行動しかとれない、意志を失ったという元々のゾンビ的な属性、
わらわら沸いて増えていくという、今のインプレゾンビで顕著な属性(もちろん、思考不足を揶揄もしているだろう)
他にもゾンビには色々特徴があるので、なるほどなーと思えるところをワードと繋ぎ合わせられたら、バズる目は出てくると思う
紫い、噛む、手を前にして歩く、壁があっても止まらない、内臓こぼれがち、目玉落ちがち、うーうー言う、犬もなりがち、犬は素早い、犬は窓から来てびっくりする
ルーツの「自分がツインテールの可愛い女の子だと思い込んで~」っていうのも完全にその系統だよね
結局オヤジ漫画がオヤジ漫画たりうる根拠って「可愛い女の子」が出ないことなんだよね。
でもそれってオヤジになると二次元の可愛い女の子を求めなくなるというよくわからない論理を支持してることになるわけで…
今エロゲ(性描写なくせばギャルゲとして成立するやつな)やってるやつ20代は80、90代になってもやってるでしょ?っていう。そもそも生きれなそうだけど、生きてたとしたら
なぜ可愛い女の子がでないとオヤジ向けになるという妙な認識が存在するのか、そこに一石投じるために俺は元増田を書いたんだよね
トヨタがEV車に反対している……という話があったんだけど実際には自動車がEV車「のみ」になるのを目指すことに反対してるって話なんだよね。
全部をEV車に置き換えるには材料 (銅) が不足しているという根本的な問題があって、現在の銅の価格や環境負荷の延長線上で計算できない。
ひょっとすると採掘技術を発展させていけばなんとかなるのかもしれないけど銅採掘推進がガソリン車よりもカーボンニュートラルなのかというと少なくとも短期的にはガソリン車のほうが有利と考えられている。
材料が足りる程度にEV車に置き換えればよいかというとそう簡単な話でもなく、工業のコスト削減は量産化の力なので半端な分量でやってると高コストになってしまう。
EV車とガソリン車を共存させていくのもどちらか一方に全振りするよりもコストは掛かる。 まるで性質の違う二系統のインフラを維持するわけだから。
カンニングは卑怯であり、姑息であり、やってはいけないことだ。大前提である。
長いけど吐きたくなった。本当は墓場まで持って行くべきだと、ずっと思っていた。
だけどカンニングのニュースを見て以来、ずっとモヤモヤしていた。過去の清算をしたくなってきた。そんな年齢なのかもしれない。
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私にとってテストの点数なんかどうでもよかった。友だちと遊べて、学校の行事に楽しく参加できればそれでよかった。だけど親は違う。成績が全てだった。普段は優しくて褒めてくれるのに、点数を見たときは怒ってる。だから低い点数なんか取るわけにはいかなくてカンニングした。誰にもバレない上手いカンニングをしていた。
こんなことを言えば「カンニングをするなんてクズ」「性根が腐ってる」「カンニングした奴はぶん殴れ・退学」みたいな意見が出ると思う。そうだろう。自分もそう思う。そう思っててもカンニングはやめられなかった。やめたら点数が悪くなる。そうすると親に怒られる。第三者から指さされるより、自分の母に怒られるのだけは死ぬほど嫌だった。
「なんでこんな低いの?」「なんで勉強をもっとしないの?」「遊んでいるからだよね?」と責められる。
でも当時の私はそれに「はい、ごめんなさい」しか言えなかった。小学生だった当時の自分は「なんで?なんでがわからない」としかならなかった。しかし言えば「ふざけてんの?」と絶対に怒鳴る。怒鳴らなかったとしても頭悪いと思われるという事実が嫌だった。怖くて怖くて怖い。母が自分を否定してくるという事は、小学生の自分にとって死ぬことの次に嫌な事だった。母がキレたときの金切り声が嫌だった。
そして勉強しようと机に向かう。何もわからない。何をどうすれば覚えられるのかわからない。あ、そうだ、聞けばいい、そう思っていたのは最初だけだった。今思えばやらなければよかった。
小3くらいの時、学校の先生に「これがわからない」と聞く。先生は小ばかにしたように「こんなのがわからないの?!」と大声で驚く。クラスメイトに丸聞こえ。クスクス声が聞こえた。「わかんねーから聞いてんだよボケカス」と思った。「ひたすら書けばいい」と言われた。どうしても根本的な説明が欲しくて何度も聞いたが「あー、はいはい。これは教科書のここみて」と言われただけだった。先生はそのまま1軍のグループと一緒に遊んでいた。
また塾で算数の範囲が簡単でどんどんレベルアップして、学校で習っていない割り算に突入した時がある。初めてみる記号でわからない。いつも親切に教えてくれる信頼していた大人が休みだったので、別の人に「教えてください」と言ったら「は?!こんなのわからないの?!」と言われたのが今でも鮮明に思い出す。「えと、初めてみる記号で…」と怯えながら言うと「ぷwwww割り算なんて簡単だよ。ほら6÷2は、鉛筆6本を2人で割るんだよ」と。明らかに面倒くさそうな態度だったから「あ、はい、わかりました」と切りあげた。"割る"という概念すらわからなかった私は適当に解いて採点に出す。全部バツだった。泣きたくなった。全部バツは人生で初めてだったからだ。
中学受験期、受験用の塾に通い始めた。わからないことを塾の先生に聞いた。「この程度で質問しにくるの?こんなとこスルーしていい」と言われた。「この程度もわかんねーから聞いてんだよ」と思った。教えてくれたけど「こんなの簡単。余裕だよ。試験になんかでないよ」と言う。私にとっては本気で悩んで本気でわからなかったことだった。それは簡単なことで質問する質じゃない。自分の質問することは簡単すぎて馬鹿にされる。そう思うようになった。
親に聞く。「塾(または学校)の先生に聞きなさい」と言われた。怒られるかもと思い何度もお願いした。しかし母は上から目線で「ねぇ、なんでわからないの?こんなに説明しているのに?聞いてる?」と言った。私が「どうしてそうなるの?」「なんで?」と聞きすぎたのかぶち切れた。「理由より覚えろ!」
積み重ねによって、わからない→この程度もわからない・簡単と言われるだろう→自分は馬鹿→なら勉強したって意味ないじゃん。といったループになってた。
解説を読んで「なるほど」と思っても、何も見ていないと何もわからない。テキストを解いても見たことある問題だなで終わってしまう。そして解説を見て「あれと同じ問題だったのに覚えていない。自分の記憶力はダメなんだ。自分は馬鹿なんだ」と自分が嫌になる。もっと勉強が嫌いになる。自分も嫌いになる。間違えちゃだめだと普段の勉強で試験並みのプレッシャーを感じていた。そしてもっと勉強が嫌いになって机に向かっても宿題に答えを写す作業だけしてた。
また、父は「遊んでこそ人生。いろいろ遊べ!」そんな人間だったので、私は父親っ子だった。それもあって母に内緒で父と一緒に出掛けたり、買い物をした。バレたときは怒られたが父はヘラヘラしていた。母が父に怒らないようにカンニングをしていたのもあった。私の点数がよければ母は怒らない。父も怒られない。兄弟に飛び火がいかない。
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理科だけは楽しかった。星とか断層とか自然には興味があった。だから塾のテストでも理科だけは点数がよかった。全国順位も高かった。だけど一個だけ点数がよくても塾のクラスは上がらないし、母は「理科がひとつできたところでねぇ…」と言う。中学受験のメインは算数と国語だからと特に褒められなかった。理科のみの受験なんてないからだ。
父は勉強のことを「お母さんに聞いてね」としか言わないのでテストの点数を見せても「点数なんて気にしちゃいけないよ」と言う。励ましだと思うけど当時の自分は母と父、どちらも点数を褒めてはくれなかった。
母はいつも比べる。○○さんは、兄は、テレビのあの子は、同い年なのに、あんたも同じ塾通っているのに。そして仲の良かった友人を嫌がっていた。あの子のお母さん嘘つきだから、あの子貧乏で意地汚いから、あの子は小学生のテストすら0点だから。別に仲いいなら良いけどというが、そんな言葉は嫌いだから言うのだ。
ある時、酷かった国語のテストの点数を書き換えたこともある。先生と同じペンを使ってバレない程度に書き換えた。と思ったがうっすらとバレた。「こんなに間違えているのにこの点数なの?」その時の母の目を今でも覚えている。
母に疑われている。怒鳴られる。○○さんは×点なのにと比べられる。なんで?責めされる。また遊びが規制される。兄弟と比べられる。この子は頭がよくなくてと紹介される。こんな子に育てた覚えはないと言われる。塾の金が無駄だったと言われる。教えてもくれないのに勉強を傍で監視してくるようになる。趣味をバカにされる。
そんなことがドッと脳内を襲ってくる。おぼれて死んでしまいそうな罪悪感と恐怖で吐き気が喉元まで来るが、飲み込む。「そ、そんなことないよ」と答える。大きなため息をされた。冷や汗が止まらなかった。塾のラウンジでみんなが帰宅だと盛り上がる中、テストを見られて責められていた。小学生の頃のある日の記憶だが、今でも思い出すと頭痛と吐き気がする。
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カンニングがひどくなる。塾で一回遠回しに指摘された。親に連絡入っていなかったが、でもやめられない。「バレない方法は」と考え、バレない方法にたどり着いた。でもカンニングには限界があって多少は点数がよくなっても多少で止まる。
でも楽だった。カンニングさえすればちょっと点数が上がる。本当は自分の実力で勝負しようと勉強を頑張った。でもわからない。わからないのにやらなきゃいけない。怒られる。怒鳴られる。金切り声が響いてしまう。頭に全く入らない。やらないといけない何かをこなしているだけだった。
勉強する→わからない→宿題が進まない→進捗を見に来た親に「これしかやっていないのか」「なんで?」と責められる→わかんないと言えば「解説をみてもう一度解くの」と言われる→解説を見たときは理解する→また自力で解くがわからない→解説をみると同じ系統の問題だと気が付き自信を無くす→やる気がそがれて進まない→進捗を見に来た親に…と責められる時間と自己嫌悪の時間になる。
勉強なんて嫌いで仕方がなかった。答えを微妙にアレンジして写すだけの日々だった。勉強時間なんて写すだけなので10分で終わる。10分で終わると親が怪しむので、父が持ってた漫画を借りてこっそり読んでいた。自分の部屋があって良かったと思う。
「私、そばで見ているから」と母が監視しながら塾の宿題をしたことがある。しかし問題を見てもまず何をすればいいのかすらわからない。ずっと悩んでいると「寝てる?」「集中しなさい」としか言わない。怖い。責めてくる。「全然進んでない。なんで?」「なんでわからないの?」と責めてくる。私は「ごめんなさい。わからない」しか言えない。解説をバンと渡される。解説が難しすぎてわからないと母に言う。「文章の通りでしょうが!」と怒ってくる。ますます頭が痛くなって解説が頭に入らない。文字が嫌になる。責められる。そして私は限界に達し「わかんない!うるさい!ババァ!」と叫ぶ。母と喧嘩をして「親になんて態度だ!」と家をつまみ出される。そして「私が悪かった」と泣きながら家のドアをたたく。「勉強しないあんたが悪い」「勉強すればこんなことにはならない」と責めながら家に入れてもらう。そんなのばっかりだ。兄は第一子だから母は優しかった。弟は末っ子だったから母は優しかった。私だけいつもこんなんだった。
でも優しいところもあるからすべてが嫌いになれなくて嫌だった。誕生日は祝ってくれるし、お年玉だってくれる。私の好きな食べ物もわかっていて「あなたが好きな食べ物よ!」と夕飯を豪勢にしてくれることだってある。「男たちには内緒ね」と高級なお菓子をくれることもある。旅行にも連れて行ってくれる。だからなおさら怒らせたくないとプレッシャーがかかった。小学生の頃、勉強の話を家でしたくなかった。みんなで楽しく生活しているのに私のせいでぶち壊れる。勉強して追い込まないとと思っても全然できない。そして誰も見ていないお風呂で泣いてた。勉強のできない自分なんて。何で覚えられないんだ!バカだ!バカ!と自分が大っ嫌いだった。枕が濡れることもよくあった。
小学生の頃には戻りたくない。社会人になった今でも思う。社会のプレッシャーの方が何倍もましだ。
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小学校のテストは授業を聞いていれば簡単ですぐ解けたのでいつも満点だった。でも母は「学校のはあたりまえじゃん」と笑っていた。塾のテストだけを見て、塾のテストだけで怒っていた。
結局、中学受験は面接が重視されるところに受かった。おしゃべりは得意だった。
他の筆記だけの場所は全部落ちた。筆記だけのところはカンニングしていた。でも落ちた。そんな程度の能力だ。私は。カンニングしておいて落ちる。クズでバカだ。
親としては微妙なラインの学校だったらしく「受かって良かった」と言う裏では明らかに嫌がっていた。反抗期がくっそ尖っていた時期に「やっぱそんな学校いれるんじゃなかった」と言われていたのを覚えている。私が大好きな学校のせいにするなと私は怒ったから覚えている。
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中学に入っても母はテストの点数を見てきた。英語が酷くてすごく嫌な顔をしていたのを覚えている。英語は将来必要だとかどうでもいい必要性を1時間述べて、英語を教えてあげると言われたが上から目線だったので、案の定私はキレて断った。
そんな中、中学一年の先生は優しかった。一年が終わる時の面談で勉強が苦しいと相談した時こう言われた。
「君はどんなタイプの子でも仲良くなれる。これほどまでいろんなグループの人と仲良くなれるのは僕の教師人生40年で初めてだ。確かに成績は良くないけど、そこだけで落ち込まなくていいんだよ」そこで初めて勉強以外を褒めてくれる先生に出会った気がする。
「君の友人の**って子は成績がいいから、その子に相談してみたら?」と目から鱗だった。自分は小学生のころから同級生と比べられていたせいで同級生に聞く=恥だと思っていた。人に質問する=恥だとも思っていた。
そこからカンニングをしなくなった。した記憶もないし、していないと断言できる。
成績は悪かったが、学校生活はとても楽しかった。先生たちは私の成績に頭を抱えていた時もあったが「まぁ、君は学校を楽しんでいるからいいか」みたいな感じで責める人はいなかった。学業以外で頼られることも多かった。追試会場でも追試仲間と一緒に先生に「授業が面白くない・わかり辛い。こうしてほしい」と相談することも増えた。そこの校風で職員室がカフェのようなノリで入れるため、おしゃべりが好きだった自分は先生に遠慮なく雑談を仕掛けた。そこからテストの点数が悪いぞお前→じゃあテストどうすればいい?→ここを山にして覚えればいいんだと教えられる→山なら授業のあそこがわかり辛いなどを相談する。
追々々々試くらいまでしょっちゅう行ったことがあるが、先生がバカにしてきたことは一度もなかった。むしろ「君はよく逃げずに会場に来るねぇ」と感心していた。そこから追々々々試に来る、忍耐だけあるバカ共に一から丁寧に教えてくれた。ありがとう先生。
そこから母への反抗期が激しくなった気がする。父方の祖母が亡くなったからのもあった。祖母は戦争体験者で父と似ていて「自由で笑顔であることが一番」な人だった。私はそっち派だった。母からしたら姑としていつも喧嘩していたのは覚えている。
母から何を言われても「うっせぇんだよ!」で返した。小学生の頃は母に怒られたら怯えるしかなかったが、中学〜高校は「世の中は勉強だけで評価されるんじゃないんだ」と感じ、勉強のことしか言わない・認めない母と時には殴り合いになった。
https://covid.cdc.gov/covid-data-tracker/#variant-summary
CDCが言ってること:
https://soujinkai.or.jp/himawariNaiHifu/jn1/
原著 "Irreversible Damage" の内容について "科学的に否定されている" などの攻撃がしきりに行われるのですが、これは主に 米国 "ジェンダー肯定モデル" の医療を推進している主に米 "業界医師" や活動家の人々がそのように主張しているだけです(代表はハフポスト日本語版のサイトに書評が翻訳されている医師のジャック・ターバン氏です)。
実際には精神医学専門家M.Grossman が証言しているように、この主題は専門家の間で立場によって完全に見解が異なり、数年来大きな論争の対象となっています。
すでに英国や欧州・北欧各国(最初に始めたのはスウェーデンです)の当局や専門家は、先日の英国NHSの正式な "思春期ブロッカーの停止発表" のように、未成年者への思春期ブロッカーやホルモン投与を当然のものとする "ジェンダー肯定モデル" についてはその多くが基本的な見直しを開始しており、そのプロセスの途上にあります。
米国の "ジェンダー肯定モデル" 推進派として有名な医師であるジャック・ターバン氏らの同原著に対する主張は、すでについ先日の英国NHSの公式な正式決定(医学的な大規模系統レビューの結果を受けた "ジェンダー肯定モデル" の見直しと "思春期ブロッカー" の処方停止の発表)で、その主張の根幹となる前提(未成年 "肯定モデル"の医学的エビデンスレベルの評価)が否定されているため、主張の正当な根拠をほぼ失っています。
同原著出版時から数年が経ち、政治・医学的論争・世論・メディアの状況は少しずつ動いています。
米国リベラル派代表紙であるニューヨークタイムズ紙(NYT)にもすでに、ディトランスの若者たちを取材した同書とほぼ同趣旨・同主題の記事が昨月掲載される状況になっています。
同原著の内容を間違っていると否定されるならば、NYT紙(ニューヨーク・タイムズ紙)までも出版されるべきでない "科学的に間違った新聞" や "ヘイト新聞" というようなことになってしまい、論理が破綻してしまいます。
「先程回答した通りです」「こういう意味で質問されていますでしょうか」って真顔で淡々と言えば良いところを、大袈裟に言葉を被せながら「えっ?えっ?さっき言いましたけど?(苦笑)えっ、どういうことですか?(苦笑)えっ?えっ?」みたいなのがひろゆきと同系統の典型的煽りクソ野郎って感じ
あと、古市との問答で聞かれてること本気で理解してないならマジでコミュニケーションに難がありすぎる
そもそも自分の真意が伝わってないなら、表現を変えたり「先程も申しましたが~」ともう少し噛み砕いて相手に伝わるように言い直すのが常識的な人間なのに、意志疎通の不十分さや誤解の全責任を相手に負わせようとするのがマジで終わってる
自然言語で喋る以上は多少の曖昧さを含みながら歩み寄って相互理解を深めていくのが普通なのに、石丸は自分からボールを拾いに行こうとは一切せず、自分の足元の極狭領域から出たボールを全て相手の責任に押しつけようとするのがクソだし、そんな人間とまともな議論は成立しない
つーか石丸の回答もめちゃくちゃフワッとしてるし、周りの人間がそれを頑張って拾いに行ってる部分も相当あるのに、それを「つまりこういうことですか?」「いや全然違いますけど(苦笑)」ってお前張り倒したろかってなるだろ
「いえ、そういう意味では言っていないと思います」「こういう意味で質問されていますでしょうか」って真顔で淡々と言えば良いところを、大袈裟に言葉を被せながら「えっ?えっ?…ですけど?(苦笑)えっ、どういうことですか?(苦笑)えっ?えっ?」みたいなのがひろゆきと同系統の典型的煽りクソ野郎って感じ
あと、古市との問答で聞かれてること本気で理解してないならマジでコミュニケーションに難がありすぎる
自分の真意が伝わってないなら、表現を変えたり「先程も申しましたが~」ともう少し噛み砕いて相手に伝わるように言い直すのが常識的な人間なのに、意志疎通の不十分さや誤解の全責任を相手に負わせようとするのがマジで終わってる
自然言語で喋る以上は多少の曖昧さを含みながら歩み寄って相互理解を深めていくのが普通なのに、石丸は自分からボールを拾いに行こうとは一切せず、自分の足元の極狭領域から出たボールを全て相手の責任に押しつけようとするのがクソだし、そんな人間とまともな議論は成立しない
つーかお前の回答もめちゃくちゃフワッとしてるし、周りの人間がそれを頑張って拾いに行ってる部分も相当あるのに、それを「つまりこういうことですか?」「いや全然違いますけど(苦笑)」ってお前張り倒したろかってなるだろ
『俺は全てを【パリイ】する〜逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい〜』は、
孫・ラスダン村・勘違い系にアレルギーがなければ勧めたいけど、作品に思い入れがない人が見て面白いかは謎
サガシリーズのような戦闘観の異世界で、有用なスキルが一切閃かず(授からず)、山に一人で籠って低スキルを十数年ひたすら鍛え続けた主人公の話
この作品のオリジナルフレイバー(独自要素)は、『こんなの余裕ですけど?』『本気じゃないんですよね?』ではなく、
主人公がいつでも本気でギリギリで死にかけているところ。主人公は常にギリギリの戦いを繰り広げているが、何故か周囲からは大物・余裕そうに思われてしまう
そして、必ず『信じられないな。これが世の冒険者にとっては雑魚扱いとは。とても信じられないが目の前にあることが現実だ』と主人公が戦慄し、
『俺は○○にすら死にかけるのか。もっと鍛錬しなければ』と主人公がなるオチがつく
この系統にアレルギーがない人には万人に勧めたいけど、『俺は○○にすら死にかけるのか』のギャグ部分がアニメ版では少し弱いのよ
例えば、主人公はミノタウロスのことを都会の巨大な牛だと思っていることが、原作を見たことがない人にこれ伝わったかなー・・・ってなった
この後、ゴブリンエンペラーや黒死竜と戦ってギリギリで勝つけど、主人公はただのゴブリンや食材用のカエルだと思っているところが、
わかりやすくてテンポのいいギャグになってるといいなぁ・・・・
何も持たざる者 何も得られぬ者
指先に残った かすかな炎
与えられないなら 動くだけ
逃れらんない理不尽と 逃したくないチャンス
「僕なんて」を「僕だって」と言い続けて
誰もみない夢を みたいだけ
擦り剥き 汚れて ふるえてる手足
這い上がるんだ 明日のために
抗えよ ひたむきに叫べ
唯一の終わりなき “才能”さ
「僕にしかできないこと」探す旅
まっすぐに歩いていこう
悔しさだって 乗り越え
どこまでも行こう
失敗だって 愛せると 知ったよ
僕は進み続けるよ
信じた軌跡が 味方する
太陽を知り 月を誇れたら
輝き 満ちゆく光
弾きだせ 閃きに懸けろ
「僕なんて」を「僕だって」と言い続けて
まっすぐに踏み出せ
ノーギフテッド