はてなキーワード: 三振とは
部活動のあり方がニュース記事になってたのを見て、自分の人生にとって部活とは?とふと中学の頃を思い出した。
俺は小学生の頃、おそらく同級生の中で一番の運動音痴だった。なのに中学で突然思い立って、野球部に入った。
実をいうと、最初はなぜ皆は部活に入ってわざわざ忙しい道を選ぶのか、理解できなかった。が、体育の授業の持久走で同じく運動音痴だと思ってた奴より遅く走り、明らかに体力がないことに気づき、このままでは体育の授業すらついていけなくなるという危機感を抱いて運動部に入ることを決めたというのが実態だ。
・プロ野球をテレビで見たり、野球漫画を読んだりはしてたので、他のスポーツよりはなじみがあった
さて、そうは言ってもド素人の俺。最初はキャッチボールすらままならない状態だった。遠投で塁間届かないくらいだったし。見方によっては相当の「お荷物」なんだろうが、先輩も優しかったのと、一回戦勝てないことが多いくらいの決して強くはないチームだったのと、同級生も中学から始めたのが大半で、俺ほどではないが決してうまくはない人も多かったので、まあ練習に混ぜてもらう分には問題なかった。
でも、スタートとしては大きく出遅れていた上に、同級生だけで12人。当然誰かよりも上手くならないとレギュラーになれない仕組みな上、2年生になると後輩がすぐにレギュラーになったりしてる有様なので、いわゆるレギュラー争いとは無縁だったし、そんなもんだろうと割り切っていた。
ただ、一生懸命やってるという評価だけはもらえたようで、背番号もらってベンチには入っていた。もはや補欠とも呼べないのに、これでいいのか?と困惑しながら。
3年になっても球拾いを続けてたが、最後の大会だけ記念という理由だけで試合の勝敗にかかわりそうにない場面で代打で出してもらい、見事に三振した。試合出たのはそれが最初で最後。
不思議と後悔はしてない。別に最後の試合だって出れなかったらそれはそれで後で笑い話になるだろうと思ってたし。
万年補欠どころかそれ未満って、それはそれでいい思い出だったりする。活躍できないから辞めるなんて勿体ないよって思う。中学の部活だからそれが許されたとも思うし。
江川氏は94年スタートの前身番組「スポーツうるぐす」でメインキャスターを務め、2010年から「Going」に11年8カ月出演。この日の放送では「江川卒業SP」と題して、番組での江川氏のMCぶりや、試合解説で選手の様子や変化を見極めて結果を当てる「予言解説」を展開してきたことなどが特集された。
巨人原辰徳監督(63)からはビデオメッセージが届き、これまでの労をねぎらわれるとともに、「まだまだ江川さんは体も知力もお若いでしょうから、少し時間があるんであれば、実弾飛び交うジャイアンツのところに降りてコーチ、あるいは監督という形でやってもらえる可能性も、ちょっと増えたのではないかと思っています。先輩、ご苦労さまでした」と、今後の監督業も期待された。
MCのくりぃむしちゅー上田晋也(51)もこのVTRを受け「我々としても、江川監督って言うのを見てみたいというのは長年思っているんですけど。そういう方向性というのはいかがでしょう」と問いかけると、江川氏は「ほぼないですね」と回答。上田が「え~やりましょうよ」と食い下がると「ないと思いますよ」と淡々と続けた。
上田はあきらめず「ひょっとしたら原監督から『ちょっと江川さん、お願いします』って、臨時コーチとかあるかもしれませんよ」と粘ると、江川氏は「そうですね、臨時であれば、やらないですね」とクールな返答で笑いを誘った。ただ、最後は上田が「やってくださいよ、日本中に見たい人がいっぱいいますから。その日を楽しみにしたいと思います」と言うと、江川氏はまとめるように「はい」と回答。今後の監督就任を“完全否定”はしなかった。
終盤には、今年まで巨人の場内アナウンスを担当した山中美和子さんの「9番ピッチャー江川、背番号30」のアナウンスに送られてあいさつ。江川氏は視聴者やスタッフに感謝の言葉を述べると、「私はもう少しマウンドに登ってみたいと思っています。ありがとうございました」と、意味深なコメントで締めた。
選手としての特徴
江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている[49](プロ入り後の最速は154km/h[50])。スピードガンが各球場に導入された頃、江川のストレートの球速が135km/h前後と表示される記録映像が残っている。これについて掛布雅之、西本聖、槙原寛己など多数の人物が異口同音に「江川の球速が140km/hを下回ることはありえない」と証言、当時のスピードガンは精度が低く、数値の正確さには疑問があると指摘している。特に掛布は「最低でも150キロ、好調時は155キロ以上出ていただろう」と述べている。2021年12月4日のGoing!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年の中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された[51]。
江川が投じる速球の威力の高さは、投手としては指が短めだったこともその理由とされる。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。掛布や高木豊の弁によると江川は手首の関節が非常に柔らかく、打席から見るとリリースの寸前まで手のひらが見えたという。この柔軟かつ強靭な手首によりボールに強烈なバックスピンを与え、江川独特の伸びのあるストレートが生まれたのではないかと高木は解説している。このことを掛布は「スピンが効いた独特のストレート」と評した[52]。
1980年代では、スピンが効いたストレートは「球質が軽い」「長打を打たれやすい」などと呼ばれ軽視もされていた。 しかし2000年代に入り流体力学を使った解析により、バックスピン数が高いストレートは普通の直球よりも沈まず、打ちにくい球であることが判明した。 江川の浮き上がるようなストレートはこの効果によるものと考えられている。
《なお、2021年のMLBでは、回転数が高いボールの効果があり過ぎるため、指に粘着物質を付ける投手が激増したことから、取り締まりに至る事態になっている。》
1985年頃から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」、コシヒカリが話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手のマスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」、マスクメロンを開発している[19]。現役時代のライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[53]。
阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[54]。
9回を完投するため、中心打者には「最高出力」まで上げ、下位打線の選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[55]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている[55]。現役時代にチームメイトだった篠塚和典は「江川さんにはギアがある」と表現しており、「試合の中でここぞという時、特に主力打者と対戦する時はトップギアに入れた。あの大きな体が更に一回り大きく見えた」と述懐している。
江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[56]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリのコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[57]。また与四球も少ない。江川の場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川はボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2ストライクノーボールからヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手からの懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[58]。一般的に速球派投手はコントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。
被本塁打が多く、「一発病」といわれた投手の1人であり、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年はリーグ最多の36本塁打を打たれた。9イニングあたりの被本塁打は通算で1.23本である[59]。
上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーとなり、対阪神戦通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁は阪神に移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後は引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の1980年8月16日、対阪神戦(後楽園球場)での小林繁との初対決では、打撃でも小林から決勝適時打を放つ活躍で、3失点完投勝利を収めている[60]。のちに、「プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうが、その中の一つがその試合だと思って試合に臨んだ」と懐述している。
打撃の優れた投手としても知られているが、初安打はデビューから36打席目だった[† 28]。プロ入り最初の打席で、阪神の山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため、「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これはやばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[61]。
少年時代の写真に笑顔で写っているものはない。それは父親から「写真は真顔でとられろ」と言われたからである[62]。
裕福な少年時代を送っていたわけではないが、父親が財産の管理が上手かったことから、年2回の旅行を行えたり、電化製品をそろえることができるなど、物資には全く不自由しなかったとのこと[63]。
幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京→盛岡→青森→函館→札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多→新八代→鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌年、1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材したときでも、松山→岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。横浜DeNAベイスターズの春季キャンプの取材で沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会のハワイでの取材時にも長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである。飛行機嫌いの一因には幼少時代の体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。
大学時代、後の夫人となる女性と交際していたときにデートと東京六大学の試合の登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から何時間後」というように時間を指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[64]。
現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗して多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたために資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなる[65]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(のちのエフ・アール・イー、2007年1月に破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社の役員にも名前を連ねていた[66]。なお、同様の呼び名は桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。
現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄や羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだったという[67]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。その後駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。
本人曰く「成金趣味」に結構な金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[† 29]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。
テレビでの野球中継において選手を呼び捨てにしている解説者が多い中、江川は基本的に呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。
大谷翔平を応援してるので、「今日の打席はどうだったのか!?」と気になり、ヤフーで結果の記事を最近よく読むんだ。
だけどこれがなかなかに酷い。
というのも、ヒットがないと大抵『ボール判定の球を見逃して三振!』という記事ばかりで、確かに動画で確認するとボール判定をストライクにしてる。
で記事の続きではボール判定に対する苦情を綴り、あたかも大谷にだけ厳しい判定をしているような描写をしている。
しかしその後、実際の試合を観戦してみると大谷に限らず誤審はあったし、大谷が登板している時にはこうした誤審に助けられていることさえあった。そのくせ、登板したときには誤審のことには全く触れないし、全体を通してみれば誤審もけっこうあるのにも関わらず記事の中では全体の誤審については全く触れず。
ただ『大谷、また誤審で三振!』と煽るように書き、差別的なものがあるのではないか?と暗に示すような内容。
客観的に見れば差別的なところはないのにもかかわらず、穿った書き方で差別的な見方を提供しようとする現代のコタツ記事ってどうなのよ?
なんだか、「モラルなんて置き捨てて、こうした差別意識を喚起させるような記事の方がPV多いんだよ!」っていうのを見せ付けられているような気さえする…
久々に野球の延長のせいで見たい番組の録画に失敗するという経験をした。
アニメ自体は別の媒体でも見れるのでそこまでショックでもないが、問題はその後。
録画されていたのは高校野球。
なんでこんなに野球が嫌いなのか、改めて自分の中でまとめてみたくなったので匿名で書く。
プロ野球の放送で見たい番組が潰れた、録画がズレたりそもそも録画されなかった、という安易な理由も当然ある。
高校野球の優遇っぷりや、野球に関わっている人たちの傲慢な発言や態度が気に食わない、という個人的な嫌悪感もある。
でもそれ以上のキッカケがあったな、と。
僕が小学校時代、地区のこども会で強制で参加させられたソフトボールという競技である。
30年以上たった今でも鮮明に覚えているあたり根が深い出来事だったな。
自分が住んでいた町では5月~8月末まで、小学3年生~小学6年生の男子はソフトボール、女子はドッジボールに強制参加させられた。
各学区ごとの予選があり夏休み終盤には町大会が開催される。子供たちに拒否権は無い。
ちなみに僕は参加させられるまでソフトボールの正式なルールなんて知らず、せいぜいピッチャーが投げたボールをバッターが打つ、程度の認識だった。
僕の住んでいた学区は人数が多くA,B,Cチームに分けられ、僕はCチームにアサインされた。
均等に分けたという建前はあったがAチームには少年野球をやっている子が多く集められ、Bチームはサッカーなどのクラブチームに入っている子が多かった。
Cチームは別競技を習っている子が多少はいたが、どちらかといえばインドア系の子が多かった。
また、A,Bチームは過去に野球をやっていたという親御さんが監督/コーチとして指導していたが、Cチームはただ野球が好きなだけというPTA会長のおっさんが監督だったのも色々察せられる。
小学3年生になり参加した初日、いきなり守備の審査が行われた。
まずはピッチャーを決めるらしく、全員がマウンドからキャッチャーに向かって投げろと言われたので上手投げしたらめちゃくちゃ怒られ、その時に初めて「ソフトボールは下手投げ」ということを知った。
生まれて初めて自分の意志で下手投げをしたが当然上手く行くはずもなく、狙いは定まらずキャッチャーの頭上を大きく超えた。
「この下手糞がぁ!!」と怒鳴られ、当然ピッチャー候補からは外された。
キャッチャー、ファースト、セカンド、サード、ショート、レフト、センター、ライトと審査が進んでいったがそもそも運動が苦手なのと、今まで感じたことのないスピードで飛んでくるボールにビビッてエラーを連発、どの守備位置にするにも難しかったと思う。
そもそも子供の人数が多いため初日から補欠扱い、正式メンバーと交代でレフト、センター、ライトの練習といった感じだった。
2日目、攻撃の練習が始まったがそもそものルールを説明されていない。
1打席目はとりあえず打って1塁に走ったがどうやら守備側がボールを先に塁に送るとアウトらしい。
いつまでも1塁に留まっていたら「何やってんだ!!さっさと戻れグズがぁ!!」と怒鳴られた。
2打席目は当たり所が良かったのか1塁に出れた。
次の打者が大きく上に打ち上げたので2塁に走ったが、守備側がそのボールを上手くキャッチし1塁に投げたのを見ていたらアウトだから戻れと言われた。
えっ・・・?なんで・・・?と思っていたら監督にバットで小突かれ、「子供のくせに野球のルールも知らねえのか!お前の親は何を教えてきたんだ!!」と怒鳴られた。
こんなことで親をバカにされた悔しさと申し訳なさで初めて泣いたので記憶に残っている。
3日目からは友人に聞きながらルールを少しずつ覚えていったが、多少ルールを覚えたところで競技が上手くなるわけもなくエラー、三振、凡ヒットなどを繰り返しながら練習だけは参加し続けた。
なおここまでもこれからも監督からソフトボールという競技のルール説明は一切ない。
下手糞ながらも練習を続けていたある日、そろそろA,Bチームと練習試合をするということになった。
僕は正式に補欠ということになり誰かがケガでもしない限り出ることはないはずだったが、レフトの子がケガをしてしまったのと別の補欠の子が休みだったため急遽レフトをやることになった。
地区で一番強いAチームは打力もあり、レフトが弱そうと知ると集中的に狙ってきた。
当然エラーを連発、そもそも球に追いつけない、捕球して返す球はヘロヘロといいとこなしでボロ負けしたのを覚えている。
練習試合後の反省会は誰が戦犯か吊るし上げるまでもなく、激怒している監督がバットで僕の顔面に向かってスイングし乳歯が折れ流血沙汰になった。
僕の両親と監督の指導に疑問を持つ一部の親が暴力事件として町と教育委員会に話を出したが、「本人にも聞き取りを行ったが、あくまでも指導の一環で本人のやる気のなさを自覚させるために仕方ない行為でケガをさせる気はなかった」と結論づけられ大事にはならず謝罪もなく、田舎のPTA会長という肩書の強さを思い知った瞬間だった。
また、監督の金魚のフンのおばちゃんには「こういうのは勝つためじゃなくて、チームでやるということの意味と本人のやる気が全員の力になるっていう事を教えるためにやってるの」って諭すように言われたのも記憶に残っている。
流血事件が起きてからも何とか練習には通っていたが、失敗すれば「下手糞!」と怒鳴られ、たまに成功すれば「たまたま上手く行っただけでお前の実力じゃない!調子に乗るんじゃない!」と怒鳴られ、挙句に「お前みたいなチームの足を引っ張るやつは来なくていい!」と言われのをキッカケに練習をサボるようになった。
久々に17時からのアニメを見れたのがとても嬉しかったのを覚えている。
そして2日サボったところで監督が「お前みたいなグズが練習サボるとはどういうことだ!それを良しとしている親も親だ!!」と怒鳴り込んできて、また親へ申し訳ない気持ちになり、親には言い訳しつつ渋々練習に参加するようになった。
夏休みも中盤になり地区予選が始まる1週間前、補欠を含めた全員にユニフォームが渡されることになった。
最初はスタメンから順に渡されていき、監督もテンションが上がっているのか「頑張ってな」「他のチームは強いけど気合い入れていけよ」と声をかけていた。
交代要員あたりになると「交代時はお前が支えるんだ」「ピンチの時は頼むぞ」と声をかけていた。
そして僕を含む補欠メンバーになるとそもそも手渡しではなく、砂にまみれた地面にボフッと置かれ「これ」とだけ。
なかなか屈辱的な経験を早めにさせてくれてありがとうございましたとでも言うべきだったな。
なおこの年の地区予選では見事にCチームは破れ、Aチームが町大会へと進出していた。
監督はスタメン以外のメンバーに切れ散らかしていたのが思い出深い。
小学4年生、小学5年生の間は下級生より下手糞な僕に監督からの辛辣な言葉が増えた程度で扱いも地区予選での敗退も変わらなかった。
そして小学6年生の夏、Cチームは地区予選を優勝して町大会へ行けることなった。
これが決まった直後になかなか衝撃的なことが起こった。
Cチームのメンバーでは町大会では勝てなさそう、ということでAチームとBチームから少年野球をやっている子を引っ張ってきて加入させていた。
さっきまでAチームでピッチャーという花形を務め、敗退して泣いていたS君がCチームのピッチャーになった。
さっきまでBチームでホームランを2回打ち、ヒット率も高いT君がCチームの代打要員になった。
町大会のルールでは他チームからのトレードや引き抜きは禁止とあったのに、それを平然とやっていた。
今までチームメンバー表を提出しなかったのもこういう時のためらしかったし、大急ぎで書き換えているのを大人も子供も何人もが見ていた。
「勝つためにやってるんじゃない」という発言の軽さと、こんな汚いことしても許されるのがスポーツなのか、と思った瞬間でもあった。
Cチームのスタメンの半分が入れ替わり、交代要員にされた元スタメンの不満を押さえつけ、元交代要員は準補欠という謎要員にされ、補欠組はいよいよ試合に出る機会はなくなった。
両親は反発してたけど、行かないと今後こども会の行事への参加は禁止するって言ってたのが聞こえていたし、応援するだけで面倒事を避けられるならいいかと思って渋々行った。
町大会は町の大きめの運動場で行われたが、そこまでの移動はスタメン、交代要員は地区で用意したバス、それ以下のメンツは自力で、とのことだった。
現地について試合会場に入ると思ったよりもベンチが小さく全員が入りきらないので試合に絶対に出ない補欠組は地面に座るように言われた。
優勝決定までは3試合くらい必要らしく1日かける町大会だったが、この日は当時にしては日差しが強く気温も高かった。
運動中に水を飲むのは厳禁、という当時の思想があったり、Cチームとして大きなタンクに氷水を準備して持ってきていたらしいが監督が「補欠組はこの水を飲むことは禁止だ!優先度というのがある!!」と宣言したので補欠組は水タンクに近づくことも許されなかった。
2試合目あたりで限界に達してぶっ倒れて意識朦朧となったが監督は「町大会まで来て迷惑かけるような軟弱なやつに構うな!」と言って放置されていて、観客席で気付いた母親があわてて救急車を呼んだことで監督とその囲いから散々嫌味を言われた。
僕は病院に運ばれたので伝聞でしか知らないけど、Cチームは町大会でも準優勝まで勝ち進んで監督はご満悦。
閉会式での監督インタビューで「野球というものは精神と頑張る力を成長させチームワークを芽生えさせる素晴らしいスポーツ、そのキッカケとなるこども会でのソフトボール大会は残すべき文化です」とか語ってたらしい。
メンバーを入れ替えたこと、倒れた子供を放置していたことなどを町と教育委員会に話すも、「同区から複数同じ話を聞いているが全て終わった事だから今更蒸し返して結果を弄りたくない、それで反感買って住みづらくなりたくないでしょ?(要約)」的な返事がきてたのも子供心に「クソだな」と感じた。
まとめてみると野球というより野球好きのPTA会長のクソさが元凶だな?
スポーツ全般に対していい印象なんてないけど、それでも野球に対して特にそう感じるのはソフトボールという競技に関わってしまったために受けた嫌な気持ち、野球という競技にやられた理不尽な行いで間違いないと思う。
野球は素晴らしい、野球というスポーツのルールは全員知っていて当然、野球は他のスポーツひいては文化系より優遇されてもいいとかいう風潮が鼻につくのかな。
教育の一環といいつつ流血沙汰が肯定され、下手糞はゴミのように扱っても問題なし、勝つためにはルールを破ってもいい、それがスポーツ!という現場を見て、体験してしまったからかな。
これが他のスポーツだったら、そのスポーツが嫌いになってたんだろうな。
野球が好きな人は好きでいいと思うし、楽しんでる人に対してあーだこーだいう気もないからどうぞご自由にって感じ。
なんか上手くまとめられなかったのでこの辺で。
初期刀選びのときから陸奥守吉行に一目惚れし、舞台やアニメも彼が出るものは全て行った。
が、二次創作は書く方でも読む方でもあるが、早々に怖くてやめてしまった。
陸奥守吉行ファンのツイッターをたくさんフォローした結果、不可思議な現象にぶち当たったからだ。
まず、陸奥守吉行の同人作家の中では、創作刀剣男士“ウメタダ”が当たり前のように出てきた。誰?刀剣乱舞にそんな刀剣男士はいない。実在する刀のようだけど、実装されていない。にもかかわらず、作家内では性格など共通認識で出来上がっていて、「ウメってこういうとこある」「そんでウメがさ」みたいな当たり前にいるような会話がされていた。
正直意味がわからなかった。しかしあまりに作家陣が当たり前に話しているので、解らない人間は陸奥守吉行を語ってはいけない気もしてきた。あの時代周囲に合った刀をすべて網羅し、人格を与えるくらいにディープになっていなければ浅いと思われるのかもしれない。疎外感もあった。モヤモヤして同じ刀剣男士ファンの友達を作るのを断念した。
次に土佐弁である。とにかく創作刀剣男士ウメタダを語る人たちは、同じように「正確な」土佐弁を求めた。
「二次創作なら気にしませんから、書いてください!」とか言うが、公式が少しでも間違えようものならぶっ叩くし、公式でアンケートが実施されたときは修正依頼を陸奥守吉行ファン以外にも出してくれるように要求までする。メール何回も出しているけどしゅうせいされないんです!と。土佐弁の同人誌を出したから買って勉強してくれみたいなことも言う。そのムーブを眺めていて、二次創作なら気にしません、なんて到底思えない。読みながらこいつ間違ってんな勉強なんでしないのかな……くらいは思ってるだろう。
自分で書くときは文章を土佐弁に変換してくれるところを利用させてもらっていた。間違いも多いらしく(そりゃ素人が作ったものだ)界隈ではあまり良く思われていないようだった。土佐弁なんてまったく解らない自分からしたら、神のようなサイトだ。イチから知らない言語を学ぶところから創作をしろと言われたら、日中働いて時間を捻出して同人活動をしている私には無理だ。本当にサイト主さんには感謝しか無い。マイナスな感情などイチミリも無い。
そんななか、陸奥守吉行からの手紙で公式がここを使っているような疑惑が出た。めっちゃぶっ叩かれていた。正直関西弁も京都弁も創作にはあやしいものはたくさんあって、まちがっていることもある、とそういうものだと思っていままで創作に触れてきたので、そこまで叩くことか?と思った。
陸奥守吉行を担当してくださっている声優さんが土佐弁ネイティブで、アニメでもだいぶ監修されていたので、ゲームも声優さんに直してもらえ!と言われていたが、彼が声を入れていない手紙の文章を監修してもらおうと思ったら、わざわざ正式に監修依頼をしなければならない。彼が台本を読んで修正するのとはわけが違うのだ。金銭の問題も出てくるだろう。その辺の手間や予算がなかったのでは?と思う。
とにかく寛容さがなく、自分が正しい土佐弁を使えるという自負から下に見ているような物言いが怖かった。
そもそも、「正確」な土佐弁とは何なのだろう。かつてアニメでエセ関西弁がどうこう言っていた時、関西の友人たちは地域や年代でも違う。そもそもネイティブがやっても嘘っぽく聞こえるのが関西弁だから、あまり気にしていない。と言っていた。
土佐弁についても、実は友人が数人おり、聞いてみたことがある。やはり地域と年代でかなり違うし、そもそも陸奥守は龍馬の時代の、そうとう昔の土佐弁を理想として、でも現代人でも理解できる程度にアレンジしてあるようなものだと思う。と彼女たちは言っていた。プレイヤーに意味がわからなかったら、そもそも理解できないキャラなど好きになるどころか親しみも持ってもらえない確率が高い。だからそうするのは当然だと思った。
陸奥守吉行が使う「正確」な土佐弁指導とは、なにをもってそれを「正確」とするのだろう。公式だけが決められる基準ではないのだろうか。
かつて陸奥守吉行の同人小説を書き上げようと思ったことがある。というか、何度も思っているし、ネタも溜まっている。
でも、いちいち陸奥守吉行のセリフを書くたびに辞書を引き、調べていては勢いもなくなるし、テンポも悪くなる。そして楽しくない。ではあとからすべて治すにしても、私は長編書きで、数百ページ分の文章から陸奥守吉行のセリフを取り出し、全て調べて修正するとなると、どれだけ時間がかかるか考えてやめる。
他の作家さんのコメントやツイートでも、土佐弁が難しくて手が出ない、というのをいくつも見た。
陸奥守吉行の二次創作は消して多くない。グッズも多くない。ファン同士のコミュニティも“ウメタダ”系いがいはあまり見ない。
それは敷居の高さ、目の厳しさ、寛容さの無さ、出来上がっている謎のコミュニティからも来てるんじゃないだろうか。
今では陸奥守吉行、肥前忠広、南海太郎朝尊の土佐組と言われる通常三振りに、当たり前のように四振り目がいたりする。公式がいっそ全く違うウメタダを出してくれれば、このなんとも言えない怖さはと内輪の創作男士が当たり前のように公式と同じにみたいに扱われる気持ち悪さはなくなるかもしれない。
横増だけど投資するサイドの会社に居たことがあるので自分なりの考えを書く
元増田が言ってるバランスってのは投資と回収のバランスだと思う
VCが求めてるのは数千万~1億円程度の投資で5~7年後に4~5倍くらいのリターンだとする
でもそういう着地を描けてるのって全然居なくて
「投資額を抑えてとりあえず黒字化して1年後には少しだけど日銭が入ってきますよ」みたい小物か
「あと5年くらいはキャッシュアウトが続きますけど、10年後には上場しますわ」みたいな極端なのばっか
こっちとしてはシングルヒットしか打てないアヘ単もHRか三振かのアダムダンも求めてないの
そこらへんを理解してない人がすげー多いと思う
以下、ネタバレがある。
ジャンプ新連載の野球漫画「クーロンズ・ボール・パレード」は、
主人公であるメガネ少年が野球の名門高校「白凰学院」に憧れを抱くところから始まる。
このとき彼は中学一年で、それ以前から野球をやっていたかは定かではない。
話は二年後に飛ぶ。
この二年間、彼は本格的なトレーニングとデータ収集を続けていた。
もちろんそれだけでは白凰学院へのスカウトも推薦も望めないため、セレクションを突破しての入部を目指すことになる。
半ば「野球エリートには敵わない」と自覚しながらも「いや僕がいちばん努力してきたんだ」と己を奮い立たせる。
メガネ少年は基礎試験をギリギリで突破、なんとか実戦試験に入るが、そこで思わぬ大活躍をする。
ライバルとなる「アメリカ帰りのフィジカルエリート捕手」も三振に切って取り、
もしかしたら合格できるかも……とメガネ少年が淡い希望を抱いたとき、
そこで突きつけられるのが「白凰学院に必要なのは作戦どおりに動く屈強な兵士である」ということ、
つまりメガネ少年のような「フィジカルを頭脳で補う選手は必要ない」ということだった。
しかし、その帰途で――
つまり「研究熱心なはずのメガネ少年が白凰学院の分析班の存在すら知らなかった」というのは元増田のミスリードである。
メガネ少年は、「分析班がいるから選手個人は考える必要がない」と白凰学院が考えていることを知らなかった、のである。
試験に落ちたあとのメガネ少年の第一声は「なんでだよ」でも「おかしいだろ」でもなく「こんなもんだよな」である。
もしかすると、過去の合格者の傾向などから、フィジカル優先の方針であることも察していたかもしれない。
なまじ夢を見てしまったから、あらためて「おまえは不要だ」と言われたことがショックだった。
そういう話である。
素直に読めばこのくらいの解釈はできるはずだ。
解釈に迷うような部分をすべて悪意的に受け取り、作者を馬鹿だと決めつけ、作品を貶めている。
作品に「つまらない」という烙印を押すために読んでいるような不誠実な読者である。
追記。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4698569589914734050/comment/Arturo_Ui
は?
主人公(メガネ少年)は「捕手枠の採用は1人だけ」であることをちゃんと調べているが。
というか作中でその情報が明かされたのはまさに主人公の発言によるんだが。
どういう勘違いをしてるんだこいつ。