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「リーゼントというのは前頭部の髪型(ポンパドール)ではなく後頭部の髪型(ダックテイル)のことだ」って本当なの?
だいたいの前回のまとめ。
さて、今回の記事の主眼は、前回の記事でも書いた「ポール・グラウス」という人物は何者か、というところにあるのだが、そのまえに増田英吉が戦前から「リーゼント」を施術していたという証拠を提示しておきたい。というのも国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ1936年の広告を見つけたのである。
スタア 4(21)(82) - 国立国会図書館デジタルコレクション
「ゲーブル」というのは俳優のクラーク・ゲーブルのことだろう。
などがこれでわかる。
なおインターネット上で「リーゼントの命名者」とされるもう一人に尾道の理容師・小田原俊幸がいるが、彼が「リーゼント」を発表したのは昭和24年=1949年だというので遅すぎる。おそらくは既にあったリーゼントを独自にアレンジしたとかそういう話なのだろう。
さて、では増田英吉や小田原俊幸とは違って、ググっても検索結果に引っかかりすらしない「ポール・グラウス」とは何者なのか。あらためて調べてみると、1931年にイギリスで刊行された『The Art And Craft Of Hairdressing』という書籍にその名が掲載されていることがわかった。
7ページ(16 of 700)より。
PAUL GLAUS, Past President, Academy of Gentlemen’s Hairdressing (London), a former Chief Examiner in Gentlemen’s Hairdressing, City and Guilds of London Institute.
ポール・グラウスは、ロンドンの「Academy of Gentlemen’s Hairdressing」の前会長であり、かつては「City and Guilds of London Institute」の紳士向け理髪の主任試験官でした。
同姓同名同職の別人の可能性もなくはないが、おそらくはこの人が「ポール・グラウス」なのだろう。ただし、この書籍の著者はGilbert Foanという人物で、ポール・グラウスは「Special Contributor」としていくつかの記事を寄稿しているだけである。
そして驚くべきことに、この『The Art And Craft Of Hairdressing』では「リーゼント(Regent)」についても解説されているのである。「リーゼント」は和製英語であると思われていたが、やはり由来はイギリスにあったのだ。
118ページ(146 of 700)より。
One of the most artistic and distinguished of haircuts, the Regent has been worn by elderly society gentlemen for many years. Then it was always associated with long hair, in most instances nice natural wavy white or grey hair. Since the present writer first decided to cut this style shorter, but in exactly the same shape, the style has been in great demand.
リーゼントは、最も芸術的で格調高いヘアスタイルのひとつで、長年にわたり、年配の社交界の紳士たちに愛されてきました。当時、リーゼントは長い髪、それも自然なウェーブのかかった白髪や白髪の髪によく似合う髪型でした。筆者がこのスタイルをより短く、しかし全く同じ形にカットすることに決めて以来、このスタイルには大きな需要があります。
Rub the fixative well into the hair, spreading it evenly, but do not make the mistake of using so much that it runs on to the face and neck. Then, when the hair is saturated, draw the parting and comb the hair in the position required, sideways, going towards the back of the ears.
整髪料を髪によく揉み込んで均一に広げます。顔や首に流れるほど使いすぎないよう注意してください。髪に馴染んだら、分け目を作り、耳の後ろに向かって横向きに髪をとかします。
「リーゼント」の解説を読むかぎり、そしてイラストを見るかぎり、その前髪には分け目があり、側面の髪を横向きに撫でつけて、襟足はバリカンでV字に刈り上げていたようだ。どうやら前髪を膨らませるわけではなさそうである。また、この書き方だと、もともと「髪の長いリーゼント」が存在しており、それから「筆者」によって「髪の短いリーゼント」が生み出されたらしくはある。具体的なところは不明だが。
追記。鮮明な画像を見つけたのでリンクを張る。ダックテイルのように左右の髪を流して後頭部で合わせているのがはっきりとわかる。
https://www.pinterest.jp/pin/59672763786345196/
ちなみに、この書籍の281ページ(316 of 700)では「Duck-Tailed Pompadour」という髪型も紹介されている。おおっ、と思ったがこれは女性向けの髪型で、いわゆる「エルビス・プレスリーの髪型」とは異なるように見える。しかし、後頭部をアヒルのお尻に見立てる発想や、それとポンパドールを組み合わせる発想は、まず女性向けに存在していて、それが1950年代にアレンジされて男性にも適用されるようになった、ということなのかもしれない。
ただし、ややこしいことに、このスキャンされた『The Art And Craft Of Hairdressing』は1958年に発行された第四版なので、どこまでが改訂の際に追加された内容かわからない。1936年にポール・グラウスが日本でリーゼントを紹介した、という話があるからには、少なくともリーゼントは1931年から存在していたと思うのだが…。
追記。Google Booksにあった1931年版に「The Regent Haircut」が記載されていることを確認した。
『The Art And Craft Of Hairdressing』はイギリスで30年以上にわたって改訂されつつ出版されていた名著らしいので、当時のイギリスの理容師のあいだでは「リーゼント」はそれなりに広まっていたのではないかと思うのだが、現在では「リーゼント」という言い方はぜんぜん残っていないようだし、それどころか英語圏でさえ「リーゼント」は和製英語だと書かれていたりするのも謎ではある。
ともあれ推測するに、まず1930年代初頭かそれ以前にイギリスで「リーゼント」という髪型が生まれ、1936年ごろにイギリス人のポール・グラウスが日本に「リーゼント」を紹介し、その「リーゼント」を見た増田英吉が日本人に合うように「前髪を膨らませるかたち」にアレンジして広告を打った、という流れなのではないかと思われる。
というわけで大枠の結論としては前回の記事と変わらないが、いくつかのディテールが明らかになったことで状況の理解度は上がったと思う。こちらからは以上です。
子どもの頃から地元があまり好きではなくて、大学進学で上京してからはずっと東京に住んでいる。
9年前、毎年テレビで見ていたあのお祭りのような成人式(成人祭)には普通の振り袖を着て参加した。
会場で会った高校の同級生たちはみんな普通の格好だったけど、小中学校の同級生にはやっぱり派手な格好をしている子たちもいた。
小学生の時に片想いしていた男の子が30センチくらいのリーゼントに金ピカの袴を着ている姿を見たときは、少しだけ胸がぎゅっと切なくなったのを覚えている。
東京に戻ってからは、友人たちに会場で撮った写真を見せながら「修羅の国の成人式」を紹介して笑い話にした。
地元が北九州であることは変えられないのだから、自虐のつもりで、せめて笑い話にしようと思っていた。
あれから何年も経った今、自分の出身地が「修羅の国」呼ばわりされているのを見るのがつらくなっていることに気づいた。あの頃、自分もそう呼んでいたのに。
思えば、あの日の成人式は確かに「派手」ではあったけれど、決して荒れてはいなかった。
「修羅の国」は発砲事件や手榴弾などが見つかっていた当時の治安を指して言われ始めたことなのだろうけど、だとしても、あの街の治安と成人式の派手さは関係がないのではと思うようになったので、「修羅の国の成人式」という紹介にモヤモヤするようになった。
思えば、あれは一種のコスプレイベントのようなもので、オタクが年に2度コミケで思い切ったコスプレをするのと趣旨は同じで、方向性が違うだけなのだろう。
なんなら、コロナ前の渋谷のハロウィンの方がずっと荒れていたと思うけれど、渋ハロは別に「修羅の国」なんて呼ばれない。東京だもんね。
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
以前から行きつけの床屋があったのだが、そこの人気が出てきて予約もできないため、日によってはカットまで2時間ぐらい待たされることもあった。
その点、今通っている美容院はLINEで予約ができ、場所も自宅からほど近い場所にある。美容院なんて床屋の上位互換だし、美容院に行っても良いじゃないかと思っていき始めたが、難しさを感じている。
私は髪型だとかには無頓着で興味がなかったので、床屋に行くのはただただ伸びてきた髪をカットし、毛量を少なくするためだと考えている。むしろ、おしゃれな髪型になって目立ってしまうことを避けていると言ってもいい(まぁリーゼントとかにしない限り、そこまで目立つこともないだろうが)
以前の床屋では、店員さんに「全体的に短めで。」というだけで丁度いい毛量になった。
ただ、最近行き始めた美容院では「全体的に短めで。」というと店員さんが言外の意味を汲み取ってしまい、おしゃれな髪型になってしまうことが多くなった。店員さんの注文に対する解像度やカットに対する表現力が高いことで生じてしまった問題な気がする。
おそらく、美容院での注文の仕方を覚えて「横の部分はバリカン何mm、頭の頂点付近は何mm、後ろ髪ははさみだけで。」等と注文すればよいのだろうが、言葉通りに「全体的に短め」なカットにする良い方法は何かないだろうか。
4、5部は8月に同時上映みたいなのどっかで見た気がするんだけど
アレ?と思って調べたら上映始まってた
でも調べたら上映館少ねーのな
まぁ4部から見始める人は少ないだろうし減るのは仕方ない…
ん?でも1部上映してるとこも少ないから元々困難なのか?
よくわからん…
まぁ仕方なく遠出して観に行った
ただ、1は良かったけど2、3はやっぱり混戦だと分かりにくかったり、観賞後に謎の頭痛に襲われたりしたのでちょい心配
でもtとかだと概ね好評なんだよな
今観に行ってる奴なんてよく訓練された富野信者だろうからアテにならんけど
ガンダムだからG席で観るとか言っててアホかと思ったけどワテもG席で観ちゃったりして
・クンパ大佐もランニングするんだ…!と微笑ましく観てたらレイハントン家の人だった
・女医先生と目が小さくてやたらいい声の人、いい人かと思ったらやべー奴らだった
でも助かったのは良かった
注射いる?
・艦長聖人レベルでいい人なんで人間爆弾にされてマジで心配しちった
・ジット団、爆弾は偽物だったりそれなりの良識はあるっぽいけど警察(名前忘れた)は普通に撃ってんだよな
昔はチッカラのが好きだったけどツインテール(名前忘れた)の方がかわいく見える
あのアプサラスっぽいやつ強そうだし強いだろうけどどうなんだろ
キア隊長死ぬところ、不覚にもウルッと来ちゃったけど、でもお前が空けた穴やん…?さっきまで戦闘優先してたやん…?というのがちらつく
今女学生が大量に乗ってきてしかもワイの座ってる長シートごとスルーされてんのな
売店あるし
・マニィは普通にいいやつだけど
巨大MS鹵獲はどうかと思う
てか、キャスト観るまでラ・グーのボーカリストが子安と気付かんだ
・フォトントルピード怖…アイツ月光蝶よりヤバくねー?人殺し呼ばわりもやむなしつーか普通に虐殺…立ち直り早いのはいいのか悪いのか
バララの前でマニィとイチャつくのはどうかと思う
・エンディング、普通にGの閃光でよくねと思ったり思わなかったり
まぁ最終章でやるんだろうけど
でもなんだかんだ戦闘シーンはいいしキャラも魅力的だから楽しかったれす(調教済み)
こないだ、たまたま図書館でGレコの本見て、富野のエッセイみたいなんかなと思ったらガッツリ設定語っててたまげた
実はどれがクレセントシップでどれがフルムーンシップかよくわかってなかったり
ガランデンってどうなったんだっけ…?
暴力団や政治結社に入ってほぼ一般人と接触もしないようなお偉いさんへの階段をストレートに駆け上がるタイプ。
それと、解体工事とか鳶とか足場屋とかダンプの運転手とかになって真面目に働いて結婚して子供育てて家買うおじさんになるタイプ。
面白いもんで、後者は見た目が怖いだけの普通のおじさんなのよ、もはや。
文句言わずに激務こなすし、温厚だし、付き合いやすいおじさんでしかない。
何でもかんでもブチ切れる狂犬みたいな同僚が現れれば
と、当の本人が筋金入りの不良だったのにもかかわらず、ひたすらドン引きしてるのが傍から見ていて面白い。
逆にカタギをなぶり殺したり強盗なんかしたりして懲役や死刑食らう見境のないタイプの暴力団構成員とか半グレは、実は中高時代に優等生の部類に入っていた、とか外見は突っ張ってたけど実は根暗で不良ガチ勢から歯牙にもかけられていなかったタイプが多い。
これは半分真実だと思う。
学生時代に不良界の筋金入りエリートだった連中には当てはまっていて、
逆に不良界の二軍、三軍勢だったり、そもそも不良ですらなかった遅咲きデビュー勢には当てはまらないという感じに個人的には思える。
東証一部上場企業(証券会社とか不動産会社とかに多いが)の社員とか、役人とか、有名ベンチャー企業幹部とかで
「昔も俺かなり悪かったよ。今も怒らすとヤベエけどな」
感をすげえ出してる油っこいピリピリしてるタイプとかには、まず不良エリートだった過去を持つ奴はいないと自信を持って言える。
あの年齢相応の内面的老成のなさと、「社会的地位が高いのに悪党」というギャップを希求しちゃってる幼稚さが隠せてない感じは撮り鉄的な情けなさの表れだ。
余談だが、以前、地元の釣り仲間である型枠大工のおっちゃんに某予備校講師について聞いたことがある。
その予備校講師は暴走族出身で昔は手の付けられない不良だったことを売りにしており、
大学受験産業の超有名人なのだが、ひょんな事からこの予備校講師が型枠大工のおっちゃんと学年も出身高校も同じことに俺が気づいたので、伝説の真偽を確かめたのだ。
すると…
「いや、あいつはちゃんとしてる人だった……ちゃんと毎日学校来て問題も起こさないような奴で俺たちとは真逆だった。学ラン改造したりリーゼントにしたりなんか昔は真面目君でもやってたんだよ」
原作改変したことでアニメ版を見た身からも途中が飛んだことがはっきりわかる印象に。
ハードSFらしいかったるい説明と、学者だけで全て済ませてしまう展開はどっかの小説で見た印象。小説家が脚本を描くとSFを使ったサスペンスに終止してエンタメを考えない悪例として刻まれたと思う。基本有川と銘だけが事件を解決してゆく形式で、ほかがおまけ、という雑な配分もハードSF小説くさくて正直ある意味では小説の作法を無視しまくってる。都合の良い狂言回しの人間を使い捨てて無駄に字数を増やすのがハードSFの作法に見えて仕方がない。加藤侍とかいらんでしょ、狂言回しにすらなってないし。SFの解説をサスペンスに仕立て上げる、という手法は古典SFで見られる手法だけども、映像分野に合わないんですよ。ずーっと地味なやり取りが続くだけだから。
ゴジラじゃなくても成立しただろ、という印象を受けた人が少なからずいたはず。
個人的には好きです。オールマイトからエンデヴァーに移り変わったあとの一戦も熱く、オールマイト不在の隙間を埋めてくれましたし、潜入捜査しているホークスや隠された能力に目覚める未だ成長途中のデクくんなど普通に面白さが継続できてるのが良い。今期はきのこがかわいかった。
前回よりも惰性で作っちゃった感じ。過去に思いを残した人々が精算し、狭っ苦しくて制限だらけの今に戻るという普遍的なテーマ。
SFカテゴリで見ちゃだめです。少なくともはてなでは。ただし物語としてはリゼロの作者だけあって過去改変や世界の変容をテーマ化していて、タイムリープものとしては(同一人物と遭遇するシーンの記憶がないのでリープかな)まあまあだったんじゃないかと思う。この作者の肝は熱血と涙にあるので、そこを受け取りたかった人は刺さったと思う。筆者はおっさんだし壮大なヒロイズムに自己同一視できるほど夢は抱いていないので、若い人が感動してくれたら宜しいかと。こういうナウシカみたいな壮大な世界を一人で背負う、ってことに聖女性を見いだせません。だって増田だってクズばっかなのに人を救いたいと思いますかって話。
ちなみに物語的になんで人を救いたくならないかって、Vivyとその周辺にいるのがAIばっかだからです。AIに対する人権とか、Vivyが苦しかった際に救ってくれた人間とか、そういう感情移入させるシチュエーションがない。だからVivyやマツモト博士が勝手に一人で戦って死んだ話にしか見えない。物語を作る際に思い入れる「環境」を作れてない。Vivyが救うトァクのメンバーの実情もスピンオフにしなきゃならないほど語られない。そんな意味では24話構成にしてもいいくらいなんだけど、削りながらでももっと感情移入できるキャラを増やせたとは思う。トァクなんて敵対してただけなのに救いたくないですよね、あんなもん。感情移入と逆のことやってんですよ。
仕組みに振り切るのか、人間ドラマに振り切るのか作者も配分に頭を悩ませたんじゃないかな。
ぐちゃぐちゃ言ってますが悪感情はないんですよね。ただ佳作感しかないというか。
途中まで見て予約がかぶって潰れちゃったのでそのまま放置。このすばよりパワーダウンしてるので見逃してもいいかな感しかなかった。なんかぼんやり見てても頭に入ってくるタイプじゃなく、他のことしながら見てると頭に入らなかったのでそれもまずかったなと。要するにこのすばを期待した層をある意味で裏切った感じがするというか。ほんとよそ見しながらなので的はずれなこと言ってる可能性あり。
ダークホースじゃないか。とぼけたドラゴンと飄々とした魔王、アホの姫が物件を買い求めながらじんわりと旅する。騒がしすぎないのもいい。力を抜いて見られるコメディで、深夜アニメの本道だと思う。
単なる男子よしよしアニメかと思いきや、実は子育てアニメだった件。誰もが途中で「あーもういいからやっちゃえば?」と思っただろう。でも実のところ、このアニメは男のナイト気取り欲求を満たす効果を持っていて、安易なヒロイズムに酔いやすいやつがハマるアニメの一つだと思います。普通はあんな女子高生みたらヤバそうだから関わらないほうが良さそうだ、という思考が最適解として頭をよぎります。
ちなみに、ヒロインがエアーズロックもまっぷたつに割れるレベルのブスだったらどうするんでしょうか。これはもう無理でしょう。成立しません。何が成立しないかって、物語的にブスでも通用するかってこととルッキズムは別問題だからです。
国の上層部が作り出した金剛鉄兵と、別に組織された零機関。そして物語中に挿話される舞台、サロメなど。これらの話はキャラクターの背後にある一人の女の話に絡んでいて、デフロット君と前田義信の奇妙な縁など明らかになる。
丁寧な作りなんだけどいかんせん小粒な感じがある。サロメや他の挿話を十全に知らないと理解できない気もする。原作知ってる人なら言いたいことが山ほどあるんじゃないだろうか。
天スラはキャラが楽しいので日常系に耐えうるのもわかるものの、延々とやられると中だるみするんだなという話。
マインが司書やるあれの空気感をなんとなく感じつつ視聴。かなり王道少女漫画的で、イケメンのあれと仲良くなってゆく過程でうつむきながら逃げ回るなど、まあそりゃ受けやすいと思います。ただしひねくれた女子以外。イケメンに気に入られない自分と比べてしまって辛いらしいね。なんでそんなところに自分が登場するのか謎ですが。おっさん的にはありだと思います。
地味だけど今期で一番人情に振り切った作品じゃないかと。時代劇を意識した作り、子連れ狼などのモチーフ、復讐と許しの葛藤という普遍的テーマ、古典的ながら骨太だとは思います。ただ、名作かって言うとそうじゃなくて、今となってはなくなった形式を今やってみたという作品かと。
中身がニコニコ、旧2ch的。ヤンデレとクズ、陰謀家など嫌な感じのキャラをやり尽くしてんだけど、嫌な性格って実はテンプレ化しやすいな、という印象。話自体はおバカ系なんだけど、それ以外に感想は出てこない。エンディングの「だいだいだい好き」の部位はおそらく「Die」だと思います。
なんか良さげだと持って見始めたら、作者が炎上して延焼すらせず燃え尽きて終了した悲惨なアニメ。二次絵もどういうわけか自分の周辺では見ません。渋のランキングにもあまり見なかったような。中身も深みがありそうでなにもない作風で、原作の文体も正直うまいとは到底言えない文章力なので、「増田カブ」というふざけた二次創作がはかどりました。これは単なる雰囲気アニメでしょう。礼子と小熊がでかいカブを引っこ抜いて、や~ん大きい、などという下らない同人誌が出ることを期待しています。あと、恵庭が嫉妬のあまりコーヒーのプールを作って小熊の殺害を企てるエピソードも見てみたいですね。
うーん。安定しちゃったかな。はっちゃけてほしかったですね。メディアミックスとかスケベ心が出たんでしょうか。
普通です。面白いともつまらないとも言えない。リーゼントの回くらい毎回ふざけてほしかった。
見た。普通。例のヒールみたいにエロに振り切っちゃったほうがいいのでは。
メタネタやパロディが減りすぎててあんまり。もともと大人用じゃないのだな、という厳しい現実がのしかかる。
ロジックが画作りと構成に追いついてない。キャラ原案がありむー岸田メルなんだけどまるで原作絵を再現するつもりがない。やりたいことは明らかにまどマギ系やゆゆゆの類似品。駄作だったアサルトリリィ以下。こうなると何がやりたいのかわからない。低予算が透けて見えるのが悲しい。
この系は絵面さえ良ければだいたい面白いと相場が決まってんだけど、これは本当につまらない。前回の魔女の旅々を思い浮かべたり、その他日常系を思い浮かべるとその退屈さに驚く。退屈なのに驚くってどういうことなんですかね。
もう一つのVivy枠。作者に失礼なんだけど、多分原作の方はもっと悲壮感溢れる感じなんだろう。
日本人の大好きな悲観的なメロドラマで、みんなと心が通じてるのに世界のシステムが許さなくって、という内容。ちなみにこれを男女の恋愛に置き換えると不倫ものになりますし、断絶をボーイ・ミーツ・ガールに置き換える事もできます。ロミオとジュリエットがその原型です。そして断絶と死はとても相性がよく、実際レーナさんたちと86スピアヘッド部隊は出会えません。あとはそれにハマるかどうかという話です。
一話だけ。これは糞だなと思ったので取りやめに。SFとしても中途半端、少年漫画としても王道を履行しすぎてなにもない。
画作りがすごい作品。まあ、あの人監督なら当然でしょう。内容はびっちり西尾節なのでそれ以外に感想はない。やってることが怪異か普通の探偵かの違い。
新宿スワンの作者なのでヤンキーバリバリになるのはやむを得ないでしょう。ただ、キヨマサくんの本物感は声優ともどもよくできてんなと思います。他のヤンキーがいなさそうなのに、あれだけ田舎にいた感じというか。たちの悪そうなボス感もよく表現できてますね。マイキーくんは完全に創作です。あんなヤンキーもいるにはいますが可愛がられる立場で、トップはったりしません。せいぜいトップの腰巾着です。そして連絡係程度のチビは背後の権力を傘に来て偉そうな態度を取ります。なんでそんな事知ってるかって、もともと田舎者だからです。
タイムリープものというより、キャラものとして見るのが正しいかと。なぜなら彼女だけでなく、ドラケンとマイキーの二名に死んでほしくないタケミチ、というラインがしっかり描けているから。
原作よりわかりやすく、かつ原作を踏襲してるのでおすすめ感はあります。ただ原作は大作感のある無味乾燥とした物語なので、見続けることによって激しく感情を揺さぶられるとか、涙が流れすぎてトイレの便器から離れられないといった現象に見舞われることはありません。それはまあ、二期三期と続けてみればこの意味がはっきりわかると思います。作者が感動させに走ってないので。フシというサーガではなくフシという歴史を通した群像劇という立場なんでしょうね。
もうこういうのはいいかなと思ってさっさと切った話。一話目も覚えてない。むしろ見たつもりで見てないかもしれない。
まあこういうもんでしょう。だって他になんか言うことありますか?
単なる雰囲気アニメと言われた一期ですが、二期も割とそうです、ただし、音楽、美術センス、造形どれをとっても渋くて、昭和テイストを残しながら現代的という良い意味での線引を果たしている佳作だと思います。エンディングテーマのマリアッチを思わせる歌声は郷愁を誘います。OPのベンチャーズ的なギターサウンドも良い。肝心のボクシングシーンがしょっぱいと言われた前作ですが、少し改善してます。むしろボクシングを通したジョーの人生を描く作品なので、ボクシングシーンこそおまけかも知れません。
追記:NOMADはノマド以外に「俺はマトモさ」という意味が込められていると思います。
実は零と同じ轍を踏んでいる作品。要するにストーリーの骨組みはちゃんと考えてあるのに、舞台が同じ場所の繰り返しだったり、キャラが多い割に話に広がりがなくラスト二話程度で一挙に情報量が増えるという、昔のアニメにあった悪いパターンが戻ってきている印象です。舞台と勢力、そして敵と味方両方を映し出すだけでちょっとは面白くなったことでしょう。
視聴者をお舐めになってるのでしょうか。
久々に俺節風の人間ドラマが見られる傑作かなと思いきや、いきなりトーナメント化してしまい、某カルタ漫画か! と手に持ったバチを画面に投げつけた思い出。いえ、実際には投げつけてません。三味線持ってませんし。ハイセンスなお母様の全く方言が抜けきってないのはやりすぎじゃないだろうか。自分の音を鳴らせ、じっちゃんのコピーになるなで終わったので二期あるんですかね。
これですね、個人的に好きなんですけど増田でボッコボコだったのでまあいいかなと思って書きませんでした。個人的には見れば面白い類で、キャラに馴染みが必要なので1期からおすすめしたい感じ。トリックスター役の凜雪鴉(リンセツア・鬼鳥)の奇っ怪さが今作の面白さの一つだと思ってる。どうも虚淵玄って名前出すのがいかんらしいですね。
地方でAT-Xに入ってないんです。おわかりください。ちなみに超絶低速回線です。お察しください。
うーん。この手のいわゆる勘違い成り上がり系って80年代からあって、ある意味では普遍的なものなんだよね。でもこの入間くんはその古典芸を古典芸としてでしかやれてなくて、一期の一話目から俺は真顔で見ました。終始真顔でした。それでも頑張って一期の4話まで見たんだけど、どうしても真顔でした。これは二期も真顔に違いないと思ったので見ませんでした。
幼少期編……三浦先生も死んじゃったのにこっちも酷い扱いにしてはだめでしょう……。
中島かずきの脚本で、ガイナックスを忘れられなかった中村が再びガイナックスをやりたがった作品。この人のテーマ性はBNA以外、底辺の場所から天を目指す、という部分に集約されていて、そのモチベーションが「人の持つ無限の希望」にある、と本人の中で解釈されてんですね。しかしこれって彼の最も得意とするところなので、ある意味最も保守的な作品になっちゃった感じがします。細胞の一部っていう仕掛けもありきたりでもありますし。
用語が超わかりにくい。あとコンテの構成(シーン)がバンバン過去と現在を交差しまくるので今何が起こっているのか飲み込みにくい。カメラワークと効果音と演出などは映画風で大変高度だとは思うんだけど、とにかくわかりにくさで損をしている。メモ取らなかったのを後悔しました。絵は美しいし、中国がアニメの本拠地になりかねない別の意味での恐怖を感じさせる作品かと思います。
これ面白いんだけどアニメは知名度ゼロ過ぎて悲しい。基本的に作りは古いです。何しろポストアポなんちゃらで少女漫画のSF黎明期の匂いを強く残している。サバイバルといえばさいとうたかおのサバイバルや自殺島などでも既出なので新規性もありません。ただ、女性作者ならではの繊細な人間関係の描写や、ほんの些細な出来事から気づきを得て成長してゆく姿は、無人島生活ものと相性がよく飽きにくい構造かと思います。作者の目線に人間の身勝手さを越え、人間の暖かさを信じる気持ちが伝わってくる点も良いかと思ってます。
これ語っていいんだろうか。なぜなら1期見てないから。この期に限って言えば運営側の陰謀と陰謀に立ち向かいながらも自らのアスリートとしての矜持を貫こうとする女性たち、という組み立てで、よくよく考えると一番フェミ枠なんじゃあるまいかと。やんなくてもいいのに時代に機微な気がします。なぜならおそらく一期はそういう作品じゃなかったであろう予測がつくから。
ともかくね、尻がエロい。それだけですよ。尻のために全話見るのが正解です。