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はてなキーワード: 真言宗とは

2023-05-27

anond:20230527230450

行く前に「宗教の誘いなら済みませんがお断りします」と言えばいい

自分は家が真言宗なんで」とか適当に言えばいい

それでも誘ってきたらパワハラから職場に言ってOK案件

2023-05-17

ジャニー氏と稚児文化

下世話な徒然文です。

TVで、松潤の耳を齧る岡田信長を見て、ふと、ジャニー喜多川氏の墓は、高野山にあり、ジャニーズタレント墓参りに訪れている。ということを思い出した。

いつか、元ジャニーズ自分推しジャニー氏の墓参りへ行ったことをラジオで話していた。

その後、他にも名だたる元ジャニや現ジャニの人がジャニー氏の墓参りへ行っていることを何かで見知った。

ググったら、ジャニー喜多川氏の父は真言宗の僧で、かつては稚児だったとか。

僧の間の男娼文化がそこに蔓延っていたのかいなかったのか。

自分推しジャニ氏への親愛ぶりは有名。

記者会見では遺骨を披露していた。

ジャニー氏が倒れた時には、病床に様々なものを持ち込んで付き添っていたこともトーク番組で聞いた。

当人が性被害にあったかはわからないけど、少年期に合宿所にいたことは周知の事実で。

現在ジャニー氏のかつてのセクハラ、性被害を訴えている人たちは、その犯罪を責めているが、ジャニー自体は嫌いではない。という矛盾したコメントを発しているのが散見される。 

普通、性被害を訴える人が被疑者人格擁護する展開はあまりないように感じる。

自分子どもの時、2回同じ奴から痴漢被害にあったことがある。相手には今でも悲惨な死に方をして欲しいと思う位には、怨んだ感情をもっている) 

グルーミングというやつなんだろうか。

ジャニー氏の性被害問題は、被害者とそして外部がシュプレヒコールをあげているのと対照的に、

関連メディア事務所タレントが先日まで恐ろしく無反応な様子だった。

真言宗天台宗系の寺文化には、稚児にも、上稚児、中稚児、下稚児身分があったらしい。男色相手になるのは言わずもがな。ということは、ジャニー氏の中では、TV活躍しているタレントを上稚児感覚で捉えていたのではないかと、下世話ながら想像してしまった。だから被害声明今日まで表立っていなかったのでは。

芸能というのは、想像以上に奇々怪界世界なのだろう…。いずれにしてもそんな世界に入れようとする親はまともではない。

もちろん一番悪いのは、ノーと言えない環境を作り出して、性的行為強要させる支配者。

私自身は、ノンケだけれども、同性カップル全然構わない。一方、趣向で、恋愛メインのドラマに興味はなく、BLモノは生理的に受け付けない。老若男女問わず、人が上半身でも裸でTVに映っているとチャンネルを変えたくなる。裸や性的場面を公の場で見たくない。ジャニー氏の夜とか想像したくもない。

文頭の、耳を齧るシーンを見た時には、思わずチャンネルを変えてしまった。

とはいえ、それはそれ。

これから推し応援していくつもり。

推しがこれからどんな事をメディアの場で言っても応援できる自信がある。

(…結婚したら…ちょっと自信ない)

なんなら今まで、私の推しがいたグループ解散させた

かの事務所が大嫌いで、関連商品の購入や番組は避けていたけれども、

推しマインドを思うと、

しろこれからは、今逆風にあっている彼らのスポンサー商品積極的に買おうと思ってしまったくらいである。

演出が好きになれない今季大河を見ているのもその一つ)

こんな私もまた支配者層の思う壺なんだろう。

やっぱり、死ぬ前に糾弾されて欲しかったよ。

2023-03-15

anond:20230315110115

空海(25)って名前の女とマッチしたのだが

顔写真顔面ドアップで

あぁそういうことかと思った

そんで会ってみませんかということで

ええいままよと思い勢いで会ってみることにして

まぁ真言宗の尼とかがくると思ったら

茶髪でボブカットの割と可愛い女でびびって

「「くみ」です」

と名乗られてくうかいじゃないことに気づき

「南無大師遍照金剛!」

って言いながら逃走したよ

あれは絶対やばばかった

2022-11-09

俺んちは真言宗なんだけど、カトリックなのかプロテスタントなのかがよくわからない。

どっちなんだろ_?

2022-08-27

良いなと思っていた人が創価学会かもしれない

悩んでいます

婚活をしていて、いいなと思っている方とLINEでやりとりをしているのですが、送られてきた写メを見てあることに気がつきました。

机の上に博文栄光堂と書かれた封筒が。

調べてみるとどうやら、創価学会系の書店のようなのです。

私は新興宗教に対して偏見を持っています

どうしたらいいか頭がパニクってます

相手は良い方です。

ただ、冠婚葬祭の時に変なルール強制されたらどうしようと思うと受け入れられそうにありません。

このような経験をした方がいらっしゃいましたら

アドバイスが欲しいです。

聞く場所間違っているかもしれませんが…。

統一教会の話を色々見聞きして新興宗教に対してアレルギーが出ています

関係が崩れても、次のデート信仰について聞いてみるべきなのでしょうか。

わたしは母方が浄土真宗、父方が真言宗ですが、基本的無宗教信仰が薄いです。

2022-08-01

オウムという特殊事例をに頼らなくても統一教会と同じような霊視商法をやって宗教法人を取り消された判例はあるよ。

大事なのはこれを国民ちゃんと知っておくこと。統一教会はこの手順でつぶすのだと理解しておくこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%84%9F%E5%95%86%E6%B3%95

1984年、後に明覚寺の管長となる男性千葉県野田市水子菩薩を扱う訪問販売会社設立[30]。地元曹洞宗の寺と協力して販売していた男性が、1987年醍醐寺末寺として茨城県大子町1987年宗教法人本覚寺」を設立し、関東一帯にそのグループを展開した[30]。1988年真言宗 醍醐派を離脱独立の寺として霊視鑑定を行っていたが、消費者センターに苦情が寄せられて詐欺商法だとして損害賠償請求が次々と起こったため、一時的活動を中止した[30]。その後、休眠状態にあった和歌山県高野山高野町)[31]にある「明覚寺」を買収し、関西地区で同様の活動を再開したが、こちらでも損害賠償請求が多数起こった[30]。愛知県警明覚系列満願寺名古屋市)の僧侶らを摘発した[30]。1999年12月16日に、文化庁は「組織ぐるみ違法性が認められる」として和歌山地方裁判所宗教法人明覚寺に対する解散命令請求し、和歌山地裁2002年1月24日解散命令を出した[30]。明覚寺は最高裁まで争ったが棄却されて解散になった[32]。犯罪理由にした宗教法人解散命令としては、オウム真理教に次ぐ2番目のできごとであった[30]。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/giji_list/index.htm

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/gijiroku/1329788.htm

第2段落でございますが、「「修行目標」が定められていたこ自体詐欺行為組織的なものであったことを裏付け事実というべきである」。その2つ下の段落でございますが、「さらに、抗告人が相談から供養料が振込入金されることを確認し、その金員を管理していたことについては、抗告人も自認しているところ、この事実詐欺行為組織的なものであったことを裏付け事実というべきである」。以上の理由から抗告人の主張はいずれも採用できないということで、結論といたしまして、原判決は相当であり、本件抗告理由がないからこれを棄却するという決定を行っているところでございます。これに対しまして明覚寺は、10月4日最高裁に対しまして特別抗告を行っておりましたが、資料3-2にございますように、本件抗告理由は、民訴法第336条第1項に規定する特別抗告ができる理由特別抗告をしていないと判断して、棄却する旨の決定を行ったところでございます。以上によりまして、明覚寺は解散をいたしまして、資料3-3の法人登記簿の3枚目の一番下にございますように、平成14年9月27日和歌山地方裁判所解散命令の決定の確定により解散となったわけでございます





明覚グループ霊視商法詐欺事件①」

阪神・淡路大震災が発生し、このときばかりとオウム真理教地下鉄サリン事件を起こした1995年の春のことです。和歌山県高野山拠点を置いていた宗教法人明覚グループの「霊視商法詐欺事件が明るみに出ました。

この明覚グループは、茨城県大子町本拠地を置く本覚寺グループルーツにするもので、関東一円霊感詐欺商法を展開していたのですが、被害者たちの訴訟が増えて1994年から1995年にかけて中部から近畿に転身して霊視詐欺事件を起こしていました。

ルーツである本覚寺時代霊視商法というのは「相談料3000円」という宣伝文句で客を引っ張り込んで相談に来た主婦などを巧みに誘導して霊視鑑定し、祈祷料や供養料を要求するものでした。

問題視した消費者センターは「相談料という宣伝文句は、占いの見料に相当するもので商取引にあたる」と主張。すると「相談料・お布施として」という文句に変更し、あくまでも”宗教活動行為であることを主張しました。

本覚寺管長宗派管轄する長)は、西川義俊という男で、大阪府立大学経済学部卒業したあとに大手製薬会社営業マンとして働き、やがてコンドームなどを販売する訪問販売会社協和」を設立しました。

1984年から千葉県野田市本拠地にし、地元曹洞宗の寺と組んで、「水子菩薩」を売り出して蓄財。一方では京都真言宗醍醐派の寺に通っては修行(笑)し、1985年修験道教師」となりました。翌年には剃髪して得度に至たります

これらは、”宗教は最大のビジネスである”と考えていた西川の予定の行動で、西川日本仏教指導会という団体を開設、「仏教商法」に手を染めることになる。1987年醍醐寺末寺という位置づけで本覚寺本山とし、関東一円に昇運寺、法輪寺、迎春寺、実証寺、春光寺、幸福寺、明星寺、光明寺などの”道場”を開設していきました。

いずれも宗教法人格は持っておらず、謂わば「霊感商法のための営業所」のようなものでした。それぞれの道場には霊能者はいましたが、その多くは避妊訪問販売員が霊能者に扮していたものでした。

1988年には真言宗醍醐から離脱して本覚寺独立寺院として本格的な宗教ビジネスを展開していくのです。

「霊はあるか」安斎育郎さん著 講談社ブルーバックス より

2022-07-18

anond:20220718171130

わからん

でも中学生の時に覚えた、空海真言宗最澄天台宗ってのが、30になった今ぱっと思い出せたので、その時期に覚えたおかげだろうなとは思う

例えばもっと最近の5年前とか3年前に覚えようとしたこととかだとたぶん何も思い出せないし

2022-05-09

[]

多治見市文化財保護センターの多度神社展に行ってまいりましたわ

ここは月曜日開館、土日閉館ですわ

神社に施された見事な彫刻に注目して、江戸時代大工さんの技術力の高さに感心できましたの

いろいろな大工道具の展示が面白かったです

棟札によれば屋根の葺き替えは9~25年に1回行われてましたわ

全ての葺き替えの棟札が残っている前提ですけれども

多度神社真言宗醍醐寺から派遣された山伏さんが管理していたこから

江戸時代神仏習合ぶりも伺えましたわ

2021-05-06

念仏宗無量寿寺の実態:保存版】 

社会的地位を利用し、断りがたい立場の人に狙いを絞り、お金は38万必要

 が とてもいい話が聞ける。この様に誘われることすら、得がたいことであ

 り、行けば必ず納得してくれるだろうと、教団名、宗教であることを隠して

 勧誘する。

京都へ行けば、2日間にわたり念仏宗無量寿信者としての(かなり洗

 脳作用を伴う)教育および儀式強制的に受けさせられる。

 このとき念仏宗の秘儀というものも教わるが、(太陽裸眼で見る方法

 化仏、化菩薩を見る方法等で、この秘儀を伝えられたことにより、極楽往生

 が決定し菩薩の仲間になったと教え込まれる。) これは普通生活では経

 験していないことを教えるだけで、同じようにすれば、誰でも見える。また

 徹底した秘密 主義を誓わせ、たとえ家族のものであれ念仏宗無量寿寺で聞

 いたことを他人に話すと、無間地獄に落ちると脅される。

釈尊本来仏教というよりも 浄土系、密教系の複合したもので 開祖、久

 世太郎本名 福井真尚、別称 戸倉貞和)教と呼ぶべきものである。ちな

 みに開祖の前歴は占い師詐欺による訴訟神戸地方裁判所にて起こされた

 こともある。

念仏宗 無量寿寺の会員(同行という)になると、3人を済度信者勧誘

 すること)するノルマを与えられる。

学術的文献によれば一般に 「隠し念仏」と呼ばれている。浄土真宗側から

 異端仏教として排斥されているものである

 仏教歴史学によれば、秘事法門と呼ばれ、 布団被り、御蔵法門、御杓子講

 空也派、天王寺派等、が存在するようだ。念仏宗が、どの派に近いのか、ま

 た、混交したものであるのかは不明である。 いづれにしても 善智識と呼

 ばれるものを立て、自宗の奥儀として儀式を秘匿し、門外に他言すれば地獄

 におちると 信者に言い含めるのが特徴としてみられる。

⑥2チャンネルの「念仏宗無量寿寺」掲示板や、「知りたい。。。」掲示板

 元信者、現信者家族書き込みに寄れば 無量寿寺への入信が原因で、離婚

 や、家庭不和鬱病に悩まされているという報告が数多く寄せられている。

 また、念仏宗幹部、であり、回向相伝を授けられた土屋 悟 氏が(2001

 年)に自殺した。という事実もある。

念仏宗 無量寿寺 信者にかかる費用任意も含む)

 護持費(会費)1口 2000円・・毎月支払い、口数は各信者自由意志

 その他、地方会費(各地区別院、檀信徒会館、等施設維持のため)として

 信者1人当たり1000円 ~5000円/毎月)の支払いがあるようだ。 

 回向 (先祖供養等) 一体1口 10000円 (1年に先祖1人につき6回必要

 集中回向 一体 100000円

 布施 ボーナス月 7月12月に 各10000円 

 法名 100万円

 仏像 一体 100万円

 葬儀に届く花代 100万円

 御文書 200万円

 本堂の柱 寄進 1本 1000万円

 他、林間学校、等への布施

 

念仏宗無量寿寺は昭和54年宗教法人としての認可を監督官庁から受けた。

 平成4年に 日本仏教 第14宗として監督官庁に認可されたと、無量寿

 の月刊誌に書いてあるそうだが、監督官庁が認可した事実は無い。

開祖久世太郎は 真言宗第195代 琳真大僧正の6番目の末弟というふれこ

 みだが、真言宗確認してみると そのような事実は無いとの返答であった。

念仏宗無量寿寺 信者として、六大祭事初詣、大涅槃会観音祭、降誕

 祭、地蔵盆、成道会)への参加が、義務づけられている。

⑪これまでに5回 世界仏教サミットを開催しているが、これは念仏宗のお手

 盛り、宣伝的なイベントであり、 日本仏教からは 全く無視されてい

 る。

 日本仏教会は、全日本仏教会という組織日本仏教会の9割以上が参加)

 があり、これまでに20回以上も 世界仏教会議というものに参加している

 

念仏宗無量寿寺の相伝(階位免許?みたいなもの

 を受けるに当たっては 五具足相伝に300万円、回向相伝には1000万の冥加

 金を支払わねばならない。

⑬「白装束数珠蝋燭

 念佛宗では信者儀式の際に使用した上記のものを死後8時間以内にこれら

 を身に付けさせ、蝋燭を燈さなければ輪廻の輪から解脱出来ず、極楽浄土

 向かう事が出来無いとしている。

⑭不退相伝儀式

 妊娠中に受けるとよいと勧められる儀式で 30万円

 胎内にいる間に、仏との縁を結び、無事にこの世に生まれさせていただくと

 いう儀式 いわゆる、安産祈願、不退は産まれてくる子が 真実の道、浄土

 へ向かう道から外れないという意味を含むようだ。この儀式を受けたあかち

 ゃんは臍のおが白いと云われるが、元、念仏宗信者の言によれば、他のあか

 ちゃんの臍のおと 変わらないとのことである

現在念仏宗無量寿寺を直接運営している幹部

 開祖久世氏をはじめとして、法主宮川氏、善智識:郡氏、清水氏の4名

 かと思われる。清水氏は企業セミナー講師もしているとの情報あり。

念仏宗無量寿寺 同行となったものは 精進しなければならない。(具体

 的には、本山、 別院、檀信徒会館、王堂 関連の 維持、管理、世話等の

 仕事が順番に回ってくるらしい。)

 以上のことを、施主と称する役職名称で義務付けされる。

2021-03-20

anond:20210319160636

守山区だっけ。けっこうはずれのほうにあって乗り換えも大変だよ

廻りにはパチンコ屋とかカラオケ屋とかある

ちなみに愛知県京都より寺の数が多く、都道府県で一位くらいらしい

https://kostrivia.com/1308.html

覚王山に大きいのがあるし、大須には本願寺から分家が密集してたりする

熱田神宮という神道系の大御所もある(草なぎの剣を奉納されてたとこ)

ので日泰寺はさほど有名どころじゃないぞ

 

中身の仏舎利タイ仏舎利から来たやつ

(だから日本タイ交流の結果として日泰寺という名前になった。

日本派生した大手仏教である真言宗とかの後ろ盾がない?か共同で維持か?、

とにかく完全な外来かつ中立仏教の寺になってるようだ)

タイ仏教ってマジでガチからインドからちゃんともらってきたやつだろうな

中国からもらったパンダとか日本で唯一だった千種コアラみたいな人気はでなくて残念

 

仏教知ってればわかるとおり涅槃に入られてからすぐに火葬したはずだから遺伝子抽出できないからね

2021-01-31

anond:20210131190538

仏教学科はどの大学ドン引きするほど偏差値低いけどそれはそれとして、

佛教大学浄土宗龍谷大学浄土真宗本願寺派大谷大学浄土真宗大谷派高野山大学真言宗と、

実家の寺がどの宗派かによって僧侶資格を得られる大学限定されるのよ。

龍谷大学のほうが良さそうと思っても実家臨済宗妙心寺派なら花園大学行くしかない。

先生はわざわざ青森から花園大学へ進学してるあたりからしてまあそういうことなんだろう。

重ねていうけどさる先生が実際だれなのかは知らないからね。

2020-11-25

宗教のいいとこ取りってできないの?

多くの宗教普遍的ないいことをいってるところがあるから、いいとこ取りして右手から真言宗左手からカトリックみたいなことはできないのかな?

やっぱり両手を使って全力でマダンテを出し切らないと駄目なのかなあ。

2020-06-23

anond:20200623054713

片一方が学会から色々思うのかもしれないけど、宗派が違って、そこに軋轢がうまれるのはしょうがないことなんだよ。

例えばうちは、父方が浄土真宗なので、戒名は代々三文字しかないシンプル戒名だけど、母方の親戚(真言宗)に言わせれば「それはありえない」し。

学会の他宗派への姿勢とか、勧誘方法については自分否定的だけど、供養の仕方なんかはそれぞれの宗派で違って当たり前なんだから、そこはわけて考えたい。

2020-04-22

見ずして死ねない日本の伝統建築10

友人と旅行すると,興味ない人には日本の伝統建築って全部同じに見えてるんだろうなーって思うことが多い.つまり,「見えて」いても「見えてない」んだな.解像度が低い.だから,その深み凄みを紹介するために10建築を選んでみた.

この増田で,日本建築のどこをみればいいかが少しでも理解してもらえればいいな,と思っている.あくま日本建築を楽しむための「入り口」として,もしくは旅行の楽しみを一つ増やすためのお手軽ツール(やや自嘲をこめてるよ,これ)として,読んでくれると嬉しい.

法隆寺中門~回廊(奈良県生駒郡飛鳥時代

 法隆寺は誰もが行ったことがあるだろう.しかし,一般人教科書に載っている五重塔と金堂があるなーって思って,終わりなんじゃないだろうか.違うのよ本当に.中門なんだ.中門から回廊にかけての柱.伊東忠太エンタシスと呼んだ,胴張りの柱.この列柱をみて,何も感じない人間は,おそらく建築に対するセンスを持ち合わせていないのだろうから,これ以降この増田は読まなくてもよろしい.建築は細部に宿るのだ.その原初的プロポーションは,日本にも偉大なる古典クラシック)があったという証なのだ

東大寺法華堂(奈良県奈良市奈良時代

東大寺に行くと,一般人大仏殿で満足して帰る.ちょっと詳しい人は,二月堂まで登って景色を楽しんで帰る.じゃあ玄人は?その横の法華堂だ.しかも,入り口ではなく,裏側からまずその建築美を楽しむ.この風景こそが,まさに創建時代東大寺からだ.実はこのお堂は,左半分が奈良時代仏堂であり,鎌倉時代に右半分の礼堂を増築している.だから側面からみるとチグハグな印象を受ける.なぜこんな事になっているか原初的には,仏像は外から拝むものなのだ.お堂の中は仏の領域であり,そこに人が入ることはなかった.しかし,日本は雨が多いため,実用的な理由で,仏堂に並び建つ形で礼堂という,人が入って拝むためのお堂が作られるようになる.そして,その後この仏堂と礼堂を一つの大きな屋根で覆うようになったのが,日本の最も一般的正方形に近いお堂の形だ.なぜ奥行きがあるのか,それは二つのお堂を包摂してるから.そして,内部を内陣(仏の領域)と外陣(人の領域)に分けている.

 とまあ,東大寺法華堂だけで日本建築史が語れるんだけど,法華堂自体価値とは,その仏堂と礼堂の処理の過渡期的な建築であることはもちろん,何よりも,天平建築天平彫刻がそのままの形で残っていることだ.奈良時代日本はやっと中国・唐から最新の様式を導入できるようになった.そしてそれは王者建築なんだな.力強く,おおらかで溌剌とした建築.柱と梁によるシンプルで強い建築.その素のままの美しさでは,天平建築にその後の建築は敵うはずがないのだ.

富貴寺大堂(大分県豊後高田市平安時代

平安時代建築って,数も少ないし奈良時代以前の建築に比べて,それほど素晴らしいとは思えない.よくも悪くも日本ナイズされて,よく言えば品のある住宅風の,悪く言えば構造ダイナミズムが弱い建築が作られた.平安時代,人は仏堂の中に入り,座って祈りを捧げるようになった.それゆえ,天井は低く,落ち着いた空間が好まれるようになった(卵が先か鶏が先かはわからないが).軽く高床にして,床下の風通しをよくしているのも日本化のひとつ.これらの日本的要素を建築史的には和様と呼ぶ.平等院鳳凰堂和様代表みたいに言われているけど,あれはまあ,例外的な派手派手金持ち建築なわけで,一般的仏堂というのは,この富貴寺大堂のような三間四方(柱が4本で間が3つの正方形型)の阿弥陀堂だろう.これがよい.実に素朴で,柔らかい建築.人と仏像距離がちょうどよくて,いつまでも中に入って祈りを捧げられるような,そんな自然体の空間.こういう空間は,奈良時代ダイナミックな,ところせましと仏像が建ち並ぶ空間とは異なり,ほっとするんだな,日本人なら.とはいえ,この富貴寺は大分のド田舎にあるので,さすがに東京から行くにはマニアじゃないと無理かな.東日本なら,福島県いわき市にある白水阿弥陀堂も同様の建築でよい(らしい.東国はいまいち詳しくない).さらに,平安時代に由来する浄土庭園の中にあるので,こちらの方が平安時代的でよいかもしれない.

東大寺南大門奈良県奈良市鎌倉時代

日本建築史上の最大のトピックといえば,鎌倉時代東大寺再建に関わった僧,重源の大仏である.先述したように,平安時代には天井を低く住宅風の落ち着いた仏堂が好まれたが,重源が宋からもたらした建築は,その真逆をいくエポックメイキングものだった.天井は貼らず,屋根裏まで高く伸びる柱.縦横無尽に頭上を飛び交う貫(ぬき,柱と柱をつなぐ水平の補強材).そんな規格外建築東大寺大仏殿という世界最大級木造建築を作るためには,従来の和様建築では構造的に不可能であった.それゆえ,より合理的ダイナミックな中国・宋由来の建築が取り入れられた.日本建築史上最も巨大な,今見られる大仏殿の3倍にもなる内部空間.それはパンテオンにも劣らぬ迫力のものであったろう.そんな鎌倉大仏殿を今,見ることはできない.戦国時代田舎侍が燃やしてしまたから.しかし,東大寺南大門は当時のまま残っている.東大寺南大門をくぐる時は,ふと上を見上げてみよう.そして,圧倒的な上昇感に震えてみろ.

金剛三昧院多宝塔(和歌山県高野町鎌倉時代

多宝塔って知っているだろうか?下層が方形,上層が円形の平面を持つ,ちょっと変な建築だ.空海に由来するため,真言宗系の寺院によく見られる.これ,塔がそもそもインドストゥーパ釈迦の遺骨を納めた仏教最初期の半球系の建造物)に由来していることをあらわしている.先祖帰りの建築だ。中国にも存在しない、日本オリジナル奇形建築木造建造物としては,かなり無理矢理な形をしていることから,よほどの宗教的意味があったのだろうと思う.今は15mほどの小型のものが多いが,そのオリジナル高野山のコアである根本大塔だ.しかしあれは無理があったのか,燃えては再建を繰り返し,今ではもう鉄筋コンクリートだ.そんな中,金剛三昧院の多宝塔は本場高野山にありながら,鎌倉時代のもので,有名な石山寺多宝塔と並んで最も古く美しい形をなしている.どっちでもいいんだけどね,やっぱり本場の多宝塔を見た方がよいかな,と思うわけだ.

軽くさわりだけなのに,予想以上に長くなってしまった.まだ鎌倉までしか進んでいない.この増田反響があったなら,あとの5つも書いてもいいかな.


消えてたのでキャッシュからリカバリー

2019-01-25

うちの近所に寺があるんすよ。

昨日そこの駐車場から車が出てきたんすよ。

坊さんが自分の車、出してるんすよ。

坊さんの車を先に行かせようとして、止まってボッーと見てたんすよ。

坊さんの車を見送ったら、なんか「?」って違和感が残って。

しばらく考えてわかったよ!

……ナンバーが、21だよ!

弘法大師の命日だよ!

その寺は真言宗だよ!

2019-01-20

ついに1/21が来てしまう…衝撃に備えよ

御影

仏教儀式名。「みえいく」とも読む。祖師の命日に,その図像 (御影) を掲げて供養する法会 (ほうえ) 。代表的もの真言宗弘法大師御影供があり,毎月 21日に行う法会を「月並御影供」,3月 21日の法会を「正 (しょう) 御影供」という。天台宗には天台大師伝教大師・慈覚大師・慈恵大師・智証大師の五大師御影供がある。なお,宗派により同種の行事報恩講,あるいは会式 (えしき) ,御忌会 (ぎょきえ) などと称する。

コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典解説

2018-03-09

創価の人に誘われて飲み会に行った。

僕の家は母方が創価学会で、父方は真言宗だった。

選挙に行けば、母方から公明党に入れろといわれ、父方には母親の言うことを聞かなくてもいいのよ、出来れば自民にいれれば。と言われてきた。

その反発もあってか、リベラル系や共産に人を選んで入れていたように思う。

母親の付き合いもあって、どうしても創価学会の人と飲みに行かないと行けないことがあって嫌々ながらも会社飲み会延長戦だと思って頑張って飲みに行った。

初めは気を使っていたけれども、酔うと大きくなる僕の悪い癖が出て、学生運動の話をしたんだ。

そしたら、飲んでた人がある企業労働組合会長だった。

僕の中で左翼創価学会はいないと思っていたから驚いた。

二人で裸のラリーズパンタの話では盛り上がった。

やっぱり、キツイ仕事は嫌だし、給料が低いのは嫌だって言ってた。だから労働組合会長をやっていると。

初めて、創価って単語で括っていたバイアスが外れた。

みんな人間だった。カテゴライズ出来ない人間はいっぱいいた。

みんな生活第一で、宗教はただの習慣と家系の延長なんだと。

きっと創価家系からそう思うんだとか、言われるんだろうけど、創価の子供ほどネット創価学会を知って嫌になる子は多いよ。

まれても宗教は選べないからね。

これは新興宗教差別される人がいなくなればいいと思って書いただけです。

2017-10-23

支持政党鑑定お願いしま

衆院選も終わったあとにアレですけど、私の思うところを書くので、どなたか私の思想に近い政党を教えていただけないでしょうか?

消費税増税

消極的賛成。

そりゃ嫌だけど、後々のことを考えるとだね……

憲法改正

平和憲法としての性格が残るなら、賛成。

多分ここは立憲民主党が一番近いんじゃないかな。

【男女別姓】

両手を挙げて賛成。

外国人参政権

絶対反対。永住権とか関係なく反対。

【(追記)移民問題

絶対反対。安全第一

唐突ですが、奨学金問題

そもそも大学が多すぎると思う。

無理して大学通う必要ないと思う。

よって、成績優秀者に限り、返却の必要がない奨学金を増やすべきだと思う。

大学研究問題】 

上記に関連し、Fランとかは潰して、上位の大学には助成金増やしてあげて。

小さな政府大きな政府か】

どちらかといえば、大きな政府派。

だって保育園増やしたり、保育士給料上げたり、でもなるべく保育料を抑えようとかしたら、しゃーない支出ってあるやん?

でも、無理に地方活性化させる必要はないなと思う。

それよりは、とにかく人口増やしたほうがいいと思う。

北朝鮮問題

面倒なので、暗殺部隊頑張れ。

後継者が生まれる前に。

【ここまで触れてきませんでしたが、アベノミクスをどう思ってるか】

株やってるんで儲からせて頂いてますけど、どちらかというと、それはアメリカの株高のお陰じゃね?

あと、株価については、年金問題からむわけだが、日経平均上げるだけじゃなくて、小粒の優良企業の株も積極的に買ってあげて。

あと、企業内部留保研究開発や品質向上に回させるような税制とか、なんかできることないのかね。

特定宗教に関心があるか】

典型的日本教人間だと思います

神社仏閣は割と好き。神道のテキトーさが好き。日蓮宗系はどちらかというと嫌い。おまじない真言宗バンザイ曹洞宗もなんかいいな。

こんな感じ。

大学の話がやたら出てくるのは、理系院生からですw

判定お願いします!

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

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1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

2017-01-13

http://anond.hatelabo.jp/20170111004516

他方、死後どうなるかについては割とあやふや

こういう部分は、地域グループ口伝される非公式教義があって、補完されている。

真言宗のような邪宗だと~~な酷い死に方をする、とかね。

公式には言わないけど。

2016-09-21

お坊さんになりたいけれど•••

生きづらいので、お坊さんになりたい。

厳しい修行をして鍛えられたい。仏教インストールして少しでも苦しみを和らげたい。

こんな願望があるのだが、仏教の教えは変わらず素晴らしくともそれで飯を食っていく

仕組みがオワコンになっている。しか在家なので、

僧侶資格がとれたとしても行く先が見つからない可能性がある。

なので、未だに檀家さんをいっぱい持っていて、

娘さんしかいないお坊さん。私を婿養子にしてくれませんか。

※出来れば真言宗。(空海が好きなので)

2014-02-12

宗教から抜け出せれない

和室から仏壇を廃棄すると言ったら親類から酷い批判を受けた

爺様の何周忌も今年からやらない

自分葬儀も坊さんは呼ばなくていい、市営葬にでもしてくれと言った

ろくな信仰があるわけでもないのに坊さんに大金を払うのが勿体ない

恐らく一般的真言宗であり、その他宗教信仰する気はないが、どれ一つ達成できそうにない

抜けようとすると周囲から酷く批判を受ける

この日本はどれだけ宗教に雁字搦めにされているのか

2013-08-25

野崎まど『know』論・前編——知ルはいかにしてブッダとなったか

野崎まど『know』を読んだ。早川SFクラスタでやたらと評判がよいのでいつか読もうと思いつつも、過去に同氏の作品を拝見した中生まれていたわだかまりと作品の底のようなもの邪魔をしていたのだが、ここにようやく機会を得たので所感をはき出しておこうと思う。

本作のジャンルは?

一言でまとめると、『know』という作品はSF的/ライトノベル想像力によって描かれた『ブッダである。つまり〝知ル〟という名の少女が正覚を得るまでの生涯およびその後の万人救済を、それに連れ添ったものの手で描いた物語の体裁を採っている。宗派技術過激派大乗仏教といったところ。福音書と呼んでもよいのだが、本書に織り込まれた示唆エピグラフクライマックス創世記引用であることなど)に反して作中で知ルらが辿った道は真言宗のそれに近いように思えたため本稿ではそちらの用語を採用する。

こう考えると『know』というタイトルも知ルという少女を指すとも解釈できる。だが最もわかりやすいのは目次に並ぶ章題だろう。〝birth〟から〝death〟までまさしく一生が記されている。

物語を振り返る

さて本作の舞台は2081年の京都情報材と電子葉という未知のテクノロジーによって情報空間現実と思考との直結を果たした世界である。一方で情報へのアクセス保護格差法律で規定されるまでに進む。そんな中、語り手を務めるのは作中トップクラス情報エリートである

〝birth〟の章では全知を定められた十四歳の少女・知ルとの出会いとともに、社会革新の原動力となった研究、そして彼女誕生が描かれる。ちなみにこの配置のために作者は作劇上結構な力業を用いている。またここではもうひとりのクラス9・問ウも登場している。彼の姓であるアリステラというのは「最上級」を意味する名前。位置づけがわかりやすい。ただ女性なのは気にかかるが……。

〝child〟では神護寺を訪ねて高僧と悟りについて問答する。ここで択ばれた真言密教とは即身成仏を極意とし、また教えを秘する——つまりオープンの逆をゆく——ことを是とする仏教の一宗派であり、つまりは作品の主題と密接に関わる教義を掲げている。物語構成上から初日にふさわしいといえよう。

〝adult〟では京都御所に匿われた古文書を通じてイザナミイザナギの二柱の行いから生きたまま黄泉路を往く手段を学び取る。これで境界を越える準備は万端、残るは実践のみである

〝aged〟において知ルは当初の目論見通り入定を果たす。その前夜、主人公と知ルは〝知恵の実をかじる〟と称して情報交換における無上の行為に達する。つまりセックスをする。

〝death〟では知ルの死後の肉体と、彼女の還りを信じる主人公の姿が描かれる。この情景は高野山奥の院空海が今でも生存しているという伝説を想起させる。

物語の外側へ

そしてエピローグでは生還した知ルによる革新が成った社会が語られ、物語は終わる。

——わけだが、この小説価値はなんと言っても計算されたフィニッシング・ストローク最後の一撃)だ。

作中では真理に至るための方法を量子葉によって脳を育て、高密度の思考による情報ブラックホール化を行うことだと説明しているが、これはあらゆる意味で知ルを育てた天才技術者の言うように「我々では無理」なのだ。彼の生誕は2014年であり、刊行年の一年先に設定されていることに留意したい。アーサー・C・クラークの名作『幼年期の終わり』は年少の読者に対して希望を残したが、この作者の意地の悪さはそれさえ許さない。

しかも知ルが死後の世界で目にし、人々に広めたものが何であるかは一切語られることなく物語は終わる。

この物語が抱える問題意識情報格差である。作者はそれを人類間のレベルから、全知の存在たる神との格差へと推し進めた。だからすべての人が全知となった瞬間、格差は消滅し、万人救済が果たされることになる。しかしそれはあくまで作品世界内の話にすぎない。読者はその外にいる。その格差を肌で感じた瞬間、初めて読者は揺さぶられ、知ることへの欲求を呼び覚まされる——格差を埋めたいという渇望によって。ただ純粋に「知ることと生きることは同じ」と断じた知ルに比べて何と浅ましいことだろう。けれどそれもまごうことなき人間本質である。語り手が中途半端情報強者に位置づけられていたことも、妙に鼻持ちならない人物であったことも計算ずく。すべてはこの一行の効果を最大化するための小道具に過ぎない。

もとよりメタフィクション指向する作家であると感じてはいたが、人工的な世界を下敷きにすることでより巧みにそれを演出できるようになったらしい。

読者への挑戦状

で。

実はここまではすべて前置きである。読者を操ることを至上とするこの作家メタフィクションへの可能性をこの程度のウェルメイドな小説に留めるはずがない。

この作品に残された最後の謎はずばり〝ただひとりに向けられた暗号である。正直な話、この解明に挑む資格があるのは野崎まどの全作品を電子化して常に携帯するような気狂いだけに違いない。

けれど非才を尽くしてその手がかりくらいは拾い集めておきたいと思う。

(後編へ続く)

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