はてなキーワード: 明治時代とは
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繁華街の近くにあって立地が良いだけで、他に良いことは何一つない神社。
それが護國神社。
寺社仏閣としての歴史は浅くて明治時代以降に作られたものだし、社殿は質素で特にみるべき物は無いし、観光に行っても何一つ面白いことはない神社。
それが護國神社。
靖国神社は明治維新から大東亜戦争までの歴史資料の展示があるし、アームストロング砲やゼロ戦などの兵器の展示があるし、食堂では海軍カレーが食えるし、お土産屋では兵器を模したグッズだったり、小林よしのりや百田尚樹の右翼本が売ってるんだぞ。
地方を観光する際にせっかくだからと護國神社に寄ることもあるけど、どこに行っても観光する価値が無くてガッカリするんだよな。
改めて思うけど、これが「ポリコレ」で褒められてたとか、日本のリベラルのズレっぷりに笑っちゃう。
よく言われる谷垣回りの問題はさておいても、最終的に子供(プリティーンのアシリパ)が「人を殺す覚悟」を持つことを肯定する大人って。
それこそ欧米では一番タブー視される「子供に無理な責任を負わせる」の扱いが、何故か日本の「リベラル」「ポリコレ」では無茶苦茶軽いんだよな。
そもそもすべての表現規制の根拠はここで、「精神の未熟な子供に有害な表現を避ける」ということがあちらではゾーニングの基準になっているのに。
だから、見るのが大人だとさえわかっていれば、あちらでは「見てはいけない表現」というものは存在しない。
それが日本に入ってくると、なぜか「これは書いちゃ駄目なもの」という思想規制みたいなこととすり替わる。
大人が見て気持ち良いものだったら無邪気に「子供でも見ても良い」と言う(鬼滅の刃のグロ描写)けど、一方で一部のリベラル大人が不快を示すものは、例え大人向けでも書くこと自体がだめと言い出す。
「保護対象」という目的意識がブレたまま、「表現規制」という格好だけ真似するからこうなるんだよな。
自分がいつまでも子供のつもりでいるから「自分に配慮しろ」と平然と言えるし、自分が子供のつもりだから本当の子供に対して責任感も感じない。
欧米だけじゃなく、台湾や韓国にもどんどん置いていかれる原因は、多分ここ。
日本以外で、大人がここまで子供扱いを要求するみっともない国は見たことがないもの。
明治元年 明治天皇その者が、幕府の完全的腐敗に怒り狂い、ドイッチュランドから憲法を輸入して革命を起こした。天皇は全ての光であるとされ、国民においては、
顔を見てはいけない、大審院においては、裁判官の顔を見ることは絶対的禁則事項、ただし明治時代の絶対的権力は行政権にあったので、司法権の
昭和22年 軍人の長谷川と森脇が戦争に進出して失敗したのに怒り来るし、以後、40年間、素晴らしい時代を現出した。継続したのは 昭和59年まで。
昭和53年 戦後の男が失敗したので、終戦後はあまり人気のなかった洋食亭がレストランとして出現機能し、弱者や女性でも生きていける時代が開始した。
昭和54年~59年の警察の失態や腐敗については、 西部警察という放映会社が、意図的にその痴態を構成して歴史的資料となった。
昭和58年 ファミコンが出現したが、最初のドラクエ1にはそれほど意味は付与されていなかった。
昭和62年 ドラクエ2に至って、開花、 ロンダルキア(飽きるんだろ)その他に様々な意味の付与される出現、機能の時代。
平成7年 までに、ドラクエ6まで発売され、機能終了。 最終的には、まぼろしの大地というタイトルで結論を出し、国は要らないという結論が出た。
備考 総務課長の啓佑はこの時代に採用された。 板津素子は啓佑のままん。
読むと頭が良くなると言ったが、まぁそんなのはどうでも良くて、おもしろい漫画列挙してみたよ。
若い頃はかなりジェンダーレスであることを意識してて、髪を短く刈ったりメンズっぽい服を着たり体を鍛えてみたりもしてたけど、どうしても「女の子扱い」されることってあるんだよね
昔、知人男性に「女の子扱いされたくない」と言ったところ、「でも女の子じゃん。甘いもの好きだし、髪長いし」と返されたことがある
髪が長かったり甘いものが好き=女の子なら、棚橋弘至(プロレスラー)もスイーツ真壁(プロレスラー)も女の子ということになるが…
女らしさから降りたと思われようとしたら、明治時代のバンカラみたいになるしかないのかな
身だしなみは整えず、酒、女、ギャンブルに溺れて、甘いものや可愛いものには一切興味を示さず…
というか、「女らしさから降りる」=「男より男らしくなる」ってことではないと思う 女性っぽい(と言われる)ものをすべて拒否する必要はない
明治時代は確かに学問が凄かったのだけどそこまで進展していたのかよく分からない、明治天皇は一億国民の平均余命を50才にもっていったけど何をしたのかは分からない。
戸田橋は、1934年に、古いのがかかっていたんだけど、 昭和48年のですね、昭和天皇が最盛期の時代に、85億円で着工計画があって、昭和53年に完成してすぐ終わった
んですよね。行政が85億円もかけるとか異常っていうか、単にですね、さいたま県からトラックを流してくるしか機能がないわけですが、85億円って異常だしね。東大工学部などの大作戦
だったと思いますが、国交省の。まあ楽しかったんでしょうな。大規模で最高級のアイデアを実行力で出来ている巨大な橋だから、斎藤秀司がノリノリだった時代に有頂天で出来た橋だと思い
ますね、そこの近くにお前が住んでるわけですが。行政の真夏っちゅうんですか、色々な数学者や物理学者や工学者が何段階ものアイデアを出して追い詰めて出したんだと思いますが誰が覚えているの
か
戸田橋って大雨が降ったときに速やかに雨水を排出する機能と、交通機能くらいしかねーのですね、大型車を東京都からさいたま、逆方向にいかせるだけで、それがかかってるわけだから。
その着工計画に85億円の国税がかかったんですがえー、ああいう道路を作ると一発あると思ったんでしょうね、国交省が、東大の官僚が、黒羽刑務所にいた、ときわさとしという特大もぐらが、
笹目橋にいけばいいんじゃないのっていったんだけどまあこういうものを見たときに何か参考になるかというと、ものがでかい、どうやって作ったのかそれくらいのことで。その辺のことしか魅力ないわけで。
昭和時代に調子に乗ったオヤジの結末っていうんですか、それしか魅力がないので。板橋区の自慢ってその価値のある巨大なものがあって、その構成段階の着想とかが面白いだけだから、哲学の街
「鉱山事業はボロ儲け」なので保険会社は明治時代から鉱山を運営していたが(広海仁三郎など)、手厚い労働者福祉が求められる現代では撤退した。
現代の機関投資家は代わりに「小金持ちからカネを掘り起こす」。ビッグモーターもその計画のひとつではないか。振り込め詐欺から金持ちに賄賂を払わせる保険医買収(医療殺人隠蔽)の手配、国家的詐欺まで、幅広い犯罪をカバーしていると見られる。
なお保険会社の犯罪計画で買収された個人は銀行の住宅融資を受けている者が多いが、証拠隠滅のため、融資返済後、5年程度で死亡するのが常であるらしい(ただし保険医は何度も利用するので死なせない)。
裁判所や弁護士は保険会社を守る態度を維持しているし、国交省も下部機関は買収されていると考えてよい。警察もこれまでBMすら摘発しておらず買収が疑わしい。
今年、娘が小学生になった。都内の公立小学校に通っている。そんな娘に「パパは小学校楽しかった?」と聞かれて、僕は「楽しかったよ」と答えたけど、これはハッキリ言って嘘だ。
娘に変な先入観を持ってほしくないから、ポジティブに答えたけれどパパは小学校が大嫌いだった。正確には学年が上がるとともに制度と先生が嫌いになっていった。
平成初期に生まれた僕は小学校3年生まで80年代に開発された所謂ニュータウンに住んでいた。比較的若い住民が多く、大きな電機メーカーの工場などが集積していたので、所得や教育水準もそれなりに高かったのだと思う。小学校も開校20年程度だったと思う。好きな先生もいたし、友達ともよく遊んだ。指の皮が剥けるまでスマブラ64をしていたと思う。
その後、両親の離婚を経て、僕は母方の祖父母の家に住み、かつて祖母や母が通ったという小学校に転校した。明治時代からある古い学校だった。
この学校に転校した時は激しいカルチャーショックに見舞われたので一部ご紹介する。
1.男女でトイレが分かれていなかった。壁際に小便器がずらっと並び、その後ろには個室が並ぶ。要するに男子便所と同じ構造だ。そして、この個室には男子も女子も関係なく入る。ジェンダーレストイレが話題になった今となっては時代の最先端なのかもしれないが、当時は本当に驚いた。
2.自転車に乗っていいのは小学4年生から自転車の解禁が小学4年生以降だった。何も知らずに毎日自転車乗っていたら、ある日学年集会でいきなり晒し上げられてルールを知った。
こういう一つ一つ、当時の自分が嫌なポイントが増えていったのだが、決定的だったのは先生の質の低さだ。
とにかくヒステリーをよく起こす人で、どうでもいいことで一々叫び散らす先生だった。クラスで少し問題があるとなんでもかんでも集団責任と言い、一々放課後に全員で居残りさせられて迷惑だった。クラスでいじめられている子がいて、僕は転校生でクラスのヒエラルキーの外にいたので、助けようとして喧嘩になったら怒られたり、その放課後に、このクラスにいじめはありません!とか宣言しててこの人もうダメだと思った。毎日上履きに泥を詰められたりして、◯◯菌とか言われてる奴がいじめられてなかったらなんなんだろう。
この先生はかなり変なおじさんだったが、好きだった。いつも扇子を持ち歩き、教室に畳を敷いて、カーテンを簾に変えていた。将棋が趣味で将棋を教えていた。その先生から将棋を教わって将棋を始めたクラスメイトはその後、当時史上最年少で女流棋士としてプロになったのでその一点だけでも凄い人だと思う。
30代半ば/男性
この人はマッチョな見た目そのままの脳筋だった。子供ながらこんなに頭悪いのに学校の先生になれるんだなぁ、と思ったものだ。悪気があるのか無いのかわからないが、事ある毎にうちが母子家庭であることをクラスで話し、当時は今ほどシングルマザーに理解も無かった時代、そして土地柄。そのせいでクラスメイトやその親から「お父さんいないってどんな気持ち?」と聞かれたり、煽ってくる奴がいた。
決定的におかしいと思ったのが、成績の評価だった。大前提として、僕は公立小学校程度のテストならばどの科目も殆ど100点以外取ったことが無かった。年に1回の県統一の学力テストでも成績は学年1位だった。そういうわけで国語、算数、理科、社会の通信簿は常に5段階中の5以外もらったことがない。
ところが、僕はこの先生に「3」を付けられたのだ。そして、自分より頭の悪い子が5を取っていた。この成績を見た母は「1学年1位の息子が何故3なのか?」と学校に問い合せた。実は当時、通信簿の評価がそれまでの相対評価から絶対評価に切り替わった。先生曰く、生徒一人ひとりの成長を元に点数を付けることになったが、100点しか取らない僕は成長が見られないので中評価だという説明だった。
それに加えて、各科目の課題や授業に対する態度が悪いということ。具体的にはドリルとか問題集とか、その学期を通して行うべき課題を最初の1週間で全部終わらせて提出したことが悪い、授業中騒いだり他のことをしたりするわけではないが、かと言って授業も真面目に聞いていないことも理由であったと。
学校の簡単なテストは100点以外取りようが無いのに、どうやって成長を示せばいいのか。簡単な宿題を早く終わらせて一体何が悪いというのか。教科書を読めば一瞬でわかることを延々と説明する授業の一体なにを聞けばいいのか。僕は授業の邪魔することもなく、ただただ黙って大人しく時間が過ぎるのを待っていたのに。
ちなみに結局その後、試しに中学受験に向けた全国模試を受けたら偏差値は55~60くらいしかなくて、中学受験組の中では精々中の上程度だとわかった。そして日能研の「シカクいアタマをマルくする」とかいう広告の問題は全然解けなかった。別に自分が頭が良いわけではないことを理解出来た。そして実際に市川という上の下くらいの中学校になんとか滑り込んだ、というのが僕の実際の実力だ。開成?筑駒?渋幕?全然無理、って感じ。
当時を振り返ると嫌いになった要素がいくつかあると思う。
まず第一に、制度の問題。日本の公教育は、基本的に出来ない子に合わせざるを得ない環境であり、そもそも人間としての最低限の指導しかしてもらえない。加えてその基準は非常に低い所にありすぎて、子どもたちの学力すらもまともに測れない。物差しすら用意していない。当たり前のことが出来るだけでメーターを振り切ってしまう。そして相対評価の謎運用で無駄な不平等を生み出している。
そして先生の問題。先生の魅力というのは、学力だけでなく教育への熱意や広く言えば人間力など様々な観点があると思う。そしてその仕事の過酷さが度々話題になるように大変な仕事なのもわかる。
しかし僕が出会った先生は今思い出してもヒステリーなオバさんや脳筋が多く、学歴的にも大凡、他人に物を教える事ができるようなレベルではない。人間力含めたって精々小学生くらいにしか教えを説けるレベルになかったと思う。
考えてみれば、そこそこの学歴を持つ友人を見渡した時、高校の教員や大学教員になった奴はいても小学生の相手をしている奴なんて殆どいない。
そんなことを考えると、子供を私立の小学校に入れる選択肢を考える親の気持ちもわかる。ただ、個人的には小学校の時に悪かった友達が大人になって逮捕されたりしてるのを見ていると、人種の坩堝に身を投じて色々な人がいるということを理解するのも大事な気がする。
娘よ、そういうわけでパパは小学校が嫌いだった。お前が思ってるよりしょうもない大人が先生をやっているからな。そういうことにも一つ一つ気づいていきながら人生を歩んで欲しい。