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はてなキーワード: 明治時代とは

2024-11-16

減税しようとすると必ず財務省がやってきて妨害してくるんだよな

これって、まるで歴史の中で繰り返されてきた、権力者たちが自分たち特権を守るために、

民衆の声をかき消すあの「政治の闇」そのものだよ。

なんでこんな話をするかっていうと、実際に減税って言葉には希望が宿ってるんだよな。

税金が減ったら、私たち生活が少しでも楽になる、なんて思っちゃうわけよ。

でも、それを実現しようとすると、必ず現れるのが財務省

日本財政政策を取り仕切るあの官僚機構、まさに歴史を彩る陰の支配者って感じだよ。

明治時代富国強兵政策を引き継いだ、この官僚組織が、何十年も経ってもその力を失わず税金の使い道を握り続けている。

例えば、税制改革をしようとすると、必ず「財政健全化」が口にされるんだよな。

あの口先だけの「財政健全化」ってのも、実は「税収を減らすな、予算を減らすな」っていう

権力側の保身の一環なんだろうな。

これって、例えば、江戸時代幕府財政危機に直面したとき、税を軽減しようとする大名たちを抑え込んで、

支配を維持しようとしたのと似てるよね。上司権力者が「民衆のためにやってるんだ」って言うけど、

その裏にはいだって自分の首が危なくならないように」という本音がある。

それに、財務省の連中ってさ、まるで古代ローマ政治家みたいだよ。表向きは国のためだって言ってるけど、

その実、裏では必死自分たち権力を守ろうとしてる。

例えば、聖書にも「富を守る者は、失われることを恐れる」って教えがあるけど、

財務省にとってその「富」ってのは金だけじゃなく、権力も含まれてるんだよね。

で、さらにタチが悪いのは、財務省いくら言っても、減税が実現すると、

実際にはその効果最前線で感じるのは一般市民なんだよな。

特に地方の人々や、経済的に厳しい状況にある人たち。

減税で少しでも生活が楽になるってのに、それすらも奪われる。

それなのに、財務省が言う「財政健全化」を盾にして、どうしても「減税=国の危機」って言い続ける。

まるで中国の「過剰な中央集権」のようなものだ。

トップダウンで「これが正しい」って押し付けて、実際に現場で何が起きてるかを無視する。

かつての古代ギリシャローマでも、民衆の声を聞くことな支配していた支配者たちの末路がどうなったか歴史を見ればわかるだろう。

結局、政治家たちもその声に迎合ちゃうんだよね。支持率が下がったら恐いから、財務省に逆らえない。

どれだけ有能な政治家が出てきたとしても、その背後に控えているのが、あの恐ろしい「官僚制度」ってわけ。

民間の声や、国民意見よりも、どれだけ長年温存された既得権益の方が強いのかってこと。

から、最終的に減税は遠のいて、また一歩政治の泥沼に足を取られるんだよ。

なんかさ、時折ふと思うんだよね。減税の話って、本当に民衆のための話なのか?

それとも、あくま権力者たちが「安定した社会」とか「財政健全化」って名目で、

自分たちを守ろうとしてるだけなんじゃないのか?

実際に、財務省政治家たちが言う「財政危機」って、かなりの部分が作られた危機だったりするわけで、

それを盾にしてどんどん増税することが、本当に社会のためになるのか、って気がしてしょうがないんだよな。

正直言って、こういう状況がずっと続く限り、私たち未来希望があるなんて信じられないよ。

でも、歴史の中で何度も民衆が立ち上がってきたように、

いつかは、この腐敗したシステムを変える力が現れることを願ってる。

anond:20241116023523

国会議事録って誰でも無料ネットで見れるのね、知ってる?

明治時代帝国議会議事録電子化されてて検索できる。これもタダ。会員登録とか無し、簡単自由に使える。

敗戦国」で検索してみ

くっそほど出てくるから

 

特に日本が勝った戦争日露戦争日清戦争なんかのあとの議事録見てみ。

普通に相手国を「敗戦国」と言うてるから

 

太平洋戦争終戦後しばらくは自国を「敗戦国」と言うてたんだけど、いつからか言わなくなったんだよね。

2024-11-13

私文院生地主一人っ子アイコス吸ってる25歳イケメン

何回か海外留学経験があってパーソナルトレーニング通っててサウナには否定的で。

酒好きアイコス(アイコスじゃないやつかも。あれ区別つかない)好きで、学部時代に一瞬インターンしたことあるけどバイトみたいなことは一回もしたことないって言ってた。

富裕層ってヤツ、なんだろうなと思う。でも本当に不思議なんだけどイケメンなのに性的な魅力を一切感じなくて、話してる間何度も「この人は男より女に生まれてたほうが絶対モテた」って繰り返し思った。

明治時代大正時代貴族階級女性無職家事お手伝いさんやらせていたけど、男性資産で食っていけたとしても職があることが多かった。

自力で歩けないほど足が小さい女が最も性的とされた纏足のこととか、「戦争は女の顔をしていない」に出てきた兵隊として国のために戦った女性復員後に男性から女性から忌避されたエピソードを思い出した。

小学生の頃に通ってた自宅教室型のピアノ先生のことも思い出した。今思うと、音大を出て自宅に有孔ボードが貼られた防音室作って良いピアノを置いて、安い月謝とって、単体で生活成り立つわけがなかった。

こういう人って、強者男性奥さんしかいない。強者男性自身が、お姫様とかお嬢様かいう、高貴な生まれ教養だけをやっている女性に魅力を感じる傾向でもないとこうはならない。

女は金で男を選ぶ!みたいに言われるけど、稼ぐ能力があって男性から認められている男性性的に反応するのであって、仕事ができなさそうな相続人だと違うんじゃないかって思ってしまう。

金持ちイケメンなのにこんなに何も感じないとは、って思った。叩き上げ的なバックボーンを持つ人に対してのほうが反応してしまう。

2024-11-12

オレンジ色はなぜ橙(だいだい)色なのか、なぜ蜜柑色ではないのか、みたいな話の調べものメモを書きましょうね。

1862年文久2年)に堀達之助が編集した辞書であり、日本における最初英和辞書といわれている『英和対訳袖珍辞書』で「Orange」をひいてみる。

Orange, s. 橙柑橘ノ類

Orange, adj. 橙ノ

Orange-peel, s. 橙ノ皮

Orangery, s. 橙ヲ育テル園

Orange-tree, s. 橙樹

Orange-woman, s. 橙ヲ賣ル女

オレンジ以外の柑橘系の見出し語で見つけたものは以下となる。

Citrine, adj. 佛手柑又橙色

Citron, s. 佛手柑ノ類

Lemon, s. 橙ノ類

Lime, s. 黐石灰

Slacked lime. 消サレタル石灰.柑ノ類.菩提樹石灰ニテ肥シタル

Lime-tree, s.菩提樹.柑樹ノ類

Pomeron, s. 香リ良キ橙ノ類

Shaddock, s. 橙ノ類

なお余談だが、

Bergamot, s. 梨子一種

という見出し語もあったが誤訳だろうか?ベルガモットは梨ではなく柑橘という認識だけれど……。wikipediaによるとBergamotの語源は「トルコ語で「梨の王」を意味するBeg armudiが語源とする説が有る」らしいからそれが原因かもしれない。

さて、これを見ると「橙」と「柑」がはっきり区別して書かれているように感じる。

時代は後になるが1900年に書かれた『果樹蔬菜』には著者の私見ではあるが当時の柑橘類の分類が書かれていて興味深い。

皮が分厚く酸っぱい橙と、皮を手で向けて甘い柑は区別されていたのだろう。

オレンジ色に注目していく。この辞書ではOrangeではなくCitrineが「橙色の」と訳されている。

現代人の感覚だとCitrineはほとんど黄色に感じる。江戸末期~明治の人々の感覚でも同じだったのだろうか?

少なくとも『英和対訳袖珍辞書』が書かれた1862年前後では、ほとんど黄のような色も橙色表現していたかもしれない。

一つ目の根拠がCitrineのもう一つの意味、佛手柑(ブッシュカン)の色が黄色~濃い黄色ということ。

二つ目根拠1860年に書かれた『Familiar method for those who begin to learn the English language』という資料だ。

これは英蘭対訳のための参考書で、OrangeGreenyellowなどの他の色と並べられて書かれている。

この参考書単語の部を抜粋して対応する和訳を付記したのが1870年に書かれた『英吉利単語篇』になるのだが、そこでorangeという項は「orange」と「orange-yellow」という二つの項に分けて書かれている。

単なるorangepeachなどと並べて書かれ、色名の側にはorange-yellowが列挙されている。

このことから、当時のorange colour橙色はかなり黄色味が強かった可能性がある。

では、橙色が#f39800のようないわゆるオレンジ色になったのはいなのだろうか?

いったんここまで。

メモ

しかし「orange-yellow」の訳を橙色として、ふりがなに「カバイロ」(樺色、だいたい#C5591Aみたいな色)と書いてある資料1887年通俗英吉利単語篇』)もある。前述の論の反証だよね。

明治とかの輸入オレンジしわしわになっていて、皮の色はほとんど赤茶色だったらしいという未確認情報もある。これも反証になる。

橙色概念が生まれ最初期は黄色っぽくて、概念が普及するにつれて茶色みが強まったんじゃない?知らんけど。

・↑ありえなくはない。学術文脈以外で細かな色名が必要になるシーンは着物の色と絵画の色くらいしかない。当時の着物茶色灰色ばっかりだし

・↑これを裏付け調査がまだ出来ていないんだよな~

明治時代理科教育で分光を取り扱う際にorange橙色と訳したのが定着したようだ。

・↑「橙色が#f39800のようないわゆるオレンジ色になったのはいなのだろうか?」のアンサーはほぼこれでしょ、推測でしかないけど

明治後期には小学校の図工の時間カラーサークル概念を学んでいたらしい。その際に教科書には「だいだいいろ」と書かれている。

明治初期に数年だけ色彩教育を行っていたらしいのだが、そこではカラーサークルの赤と黄色の間の色は「柑色」「樺色」と記載された教科書もある(1875年『色図解 : 改正掛図』) 柑色には「だいだいいろ」とルビがあるようにもみえる 崩し字よめない……調べる事

英和辞書見出し語のorange橙色と訳されるが、和英辞書見出し語に橙色が登場するのはかなり後の時代

・「樺茶色」「鳶色」「柿色」「柑子色」「蜜柑色」「山吹色」「銅色」「飴色」「海老色」「渋色」などの見出し語はあるのだが…… 現代感覚だと茶色味が強いものが多い

・染色業界では「orange」を「樺色」と訳しているところもあったようだ(1895『染料乃栞』)(cf. 四十八茶百鼠)

大正4年(1915)と大正13年(1924)にオレンジ色流行色となった。おそらく化学染料の発展が影響 樺色、樺茶色はおそらくこれが決定打となり使用されなくなる

・冒頭に書いた「オレンジ色はなぜ橙(だいだい)色なのか、なぜ蜜柑色ではないのか」について言及してなくない?

・↑「オレンジ色はなぜ橙(だいだい)色なのか、なぜ蜜柑色ではないのか」のアンサーは江戸末期~明治の人はちゃん「橙」と「柑(みかん)」を区別していて、orange……いわゆるsweet orangeは皮が分厚く手で向けないから柑でなく橙の訳語をあてたからでファイナルアンサーじゃない?

・↑日本における果物類、柑橘類の歴史ちゃんと調べていないから、一応それを見てからじゃないとファイナルアンサーしたくない

・↑「オレンジ色はなぜ古い時代から存在する柑子色という訳語があてられなかったのか」のほうが問としてはいいかもしれん

児童向けクレヨンとかだと「オレンジ」でなく「だいだい」と表記されている率が高い

図書館に行って『日本の色彩百科 明治大正昭和平成』と『色の名前はどこからたか―その意味文化』を読むこと。

・この調べものは「現代においてだいだい色は外来語由来のオレンジ色と呼ぶことの方が多いのは何故?歴史をつぶさに追っていくぞ」の一環なのでまだ先は長い

・未調査:お坊さんの袈裟の色、あれは鮮やかなオレンジ色イメージがあるが色名、和名はついていたんだったか

・未調査サフランイエローインド国旗オレンジ色)は江戸末期~明治ごろの日本にないのかしら

・未調査:当時のにんじんかぼちゃの色をなんと表現していたか京野菜にんじん赤色かぼちゃ黄色な気がするけれど)

Twitterとかでイラストを描く人はWIPと称して描きかけイラストアップロードするが、調べもの日記においてもWIPと称して書きかけ日記アップロードしてよい。自由だ。

ライムが柑扱いされているのが腑に落ちなくなってきた、ライムって手で皮をむけないし酸っぱいよな……

実のサイズで呼び分けていた?うーん、当時の橙柑橘の呼び分けがどのようになっていたかを調べないといけない

「橙 柑 区别」でgoogle検索すると中国語圏サイトが沢山引っ掛かる 何かヒントがありそうな気配を感じる

『近現代英和対訳辞書における訳語変遷に関する研究─ ‘Giraffe訳語問題を中心に ─』という論文を見つけた

これを参考にして英和辞書をひたすら調べるのも面白そうだ

狭義のorangeスイートオレンジアマダイダイ(←未調査:この和名はいつ出来たんだ?)を指す

広義のorangeは橙柑橘類を指す(citrusよりも狭い範囲←この認識は正確?ちょっと怪しい)

その一方で日本語で「オレンジ」というと狭義のスイートオレンジ(甘橙)のみを指すことが多い

色名のorange訳語で「橙の色」となるか「橙柑橘類の色」「(橙以外の例えば)蜜柑色、柑子色」となるかどっちに転んでもよさそうな時期が江戸末期~明治期にあったような気配を感じている

その歴史の流れを追うのが楽しい

2024-11-08

ETV特集「1000番地 土地人間に関するリポート」が凄い感動するドキュメンタリーから見ろ

1000番地 土地人間に関するリポート - ETV特集 - NHK

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/8Q2XZWK77X/

札幌中心部、絶好の立地に810坪の真四角の土地がある。明治時代屯田兵が開墾し、「1000番地」と名づけられた土地。築98年の長屋駐車場の中にポツンと建つ。居酒屋などが入り、長年、酔客を迎え入れてきた。ただ不動産業界では“眠った土地”として有名だった。4月、再開発のため、更地となった。150年前は原生林だった土地。そこから始まった人間たちの数奇な運命土地をめぐる「有限であり無限価値」の物語

立ち退かされる居酒屋視点だけでなく立ち退かせる不動産屋やタワマン建てる開発業者視点も入る。

さらには屯田兵時代まで遡って原生林を開墾した人の人生を追いか台湾にまで飛ぶ。

そして更地になった後の驚愕ラスト

必見だわ

NHKプラスで9日まで

2024-11-07

anond:20241107152837

現代における名字明治時代に姓、氏、苗字悪魔合体して出来上がったものなので

由来が家だったり血筋だったり地名だったりとちぐはぐです

苗字に由来と結婚意味に応じて適切な名字選択しましょう

2024-11-06

anond:20241106130325

明治時代保険業雑誌には甲の記号がついているよ

通達に甲をつけるのは警察

天下り先なんだろうなあ

2024-11-03

🙋‍♀️「文化の日って何の日ですか?」

🙋‍♀️「はーい、質問でーす!文化の日って何の日ですか?」

👨‍🦳「それはのう、明治時代に、文明開花を記念して作られた祝日なんじゃよ」

🙅‍♀️「ブーッ!違いまーす!」

👨‍🦳「えっ!?違うのかい?」

🙆‍♀️「正解は、明治天皇誕生日でーす!」

👨‍🦳「そうなんだ!知らなかった。ワシ、物知り博士じゃなくてただのおじさんだから適当ぶっこいちまったよ」

🙍‍♀️「いいんですよ。文化の日明治時代天長節昭和初期では明治節といって祝日だったの。

その後、1946年11月3日日本国憲法公布され、日本国憲法文化平和を重視してるとして、1948年祝日として定められたの」

👨‍🦳「へぇ〜。ということは、明治天皇誕生日日本国憲法公布されたってことかい?」

🙎‍♀️「そうなの!まあ色々あったみたいだけど、今まで11月3日祝日だったから、それを続けたかったのかもしれないわね」

👨‍🦳「そうなんだ〜。教えてくれてありがとう

💁‍♀️「また何でも聞いてくださいね!」

2024-11-01

anond:20241101151909

これは『日本名乗史探究』の著者で歴史学者である佐藤光隆による説に基づいて否定するべき内容です。佐藤氏の著書には、以下のような異なる見解が示されています


1. **「姓」「氏」「名字」の区別について**

 佐藤光隆氏は「姓」「氏」「名字」の区別について、よく知られている理解とは異なる見解を示しています。彼によれば、「姓」(かばね)は実際には古代身分階級を示すものではなく、むしろ特定土地職能に基づく称号として利用されていた可能性が高いと述べています。また、「氏」(うじ)も血縁的な関係を示すというよりは、共同体を表す名前として使われていたとしています。したがって、投稿説明佐藤氏の見解とは異なります

2. **農民と姓について**

 佐藤氏は、「姓」が朝廷から与えられるもの一般農民には存在しなかった、という主張にも異を唱えています佐藤氏の調査によると、地方の村落にも「姓」に相当する称号を持つ農民存在し、その地位は村内の役職職務に応じて変わることがあったとされています。この点で、農民が「姓」を一切持たなかったという主張は、佐藤氏の研究に基づくと必ずしも正確ではありません。

3. **明治期の改革について**

 明治時代の姓氏不称令や苗字必称義務についても、佐藤光隆氏はこの説明に異議を唱えています。彼の見解では、「姓氏不称令」は制度上の変革を明確に指し示すものではなく、むしろ一時的文書上の措置に過ぎないとしています。また、1875年太政官布告1876年苗字必称義務も、実際には広範な周知が不十分で、地域によっては無視されていた例が多かったと述べています。したがって、これらの政策が即座に「公文書での姓の廃止」と結びつけるのは、過大評価であると指摘しています

4. **近世農民苗字について**

 さら佐藤氏は、江戸時代農民苗字の扱いについても異なる見解を持っています。彼によると、江戸時代寺院宗門帳で記載されていた名前は、必ずしも苗字ではなく、集団内でのあだ名仮称であったとしています。これらは法的な家系名とは異なり、通称一種に過ぎなかったと佐藤氏は述べており、この点でも投稿内容とは矛盾が生じます

以上のように、佐藤光隆氏の著書『日本名乗史探究』によれば、この説明歴史的事実と異なるとされています

anond:20241101151145

「姓」と「氏」と「名字」を語ると混迷するよね。

ただひとつ明らかなのは、それらは個人につけるものじゃなくて、「家」(家系)につけるものなんだよな。

それを個人を示すものとして運用しようとしたのが間違いの始まり明治時代はなんとかなってたけど、大正昭和でガタガタに。

anond:20241101145655

この投稿はいくつもの誤解と歴史的な誤りが含まれています

1. **「姓」と「氏」と「名字」の違いについて**

 確かに「姓」(かばね)、「氏」(うじ)、そして「名字」(苗字)は異なるものですが、その関係性や成り立ちは複雑で、簡単に整理できるものではありません。姓は古代天皇家貴族における血統地位を示すために与えられ、氏も同様に氏族を示す役割がありましたが、時代を経る中で意味合いや使われ方が変わっていきました。名字苗字武士階級を中心に広まったもので、農民が持っていなかったわけではありません。

2. **農民が持っていなかったのは「姓」という主張**

 この点も間違いです。農民が「姓」だけを持っていなかったという単純な説明では歴史の複雑さを捉えられません。農民庶民がどのように名前を名乗り、どのような役割果たしてたか時代地域によって異なり、一概に「姓」だけを持っていなかったという説明不正確です。

3. **「明治政府農民苗字をつけた」という点**

 「明治政府農民苗字をつけた」というのは一般的に正しい理解です。明治時代以前には農民苗字を持っていなかった場合も多く、名乗ることが禁止されていたケースもありました。明治政府国民統一的な制度として苗字を与える政策を進めました。よって、「明治政府農民苗字を与えた」という認識基本的には正しく、この投稿は誤解を招く表現となっています

4. **「姓尸不称令」について**

 「姓尸不称令」は「公用文書に姓を用いない」という布告であり、これは「姓」の廃止意味するものではありません。また、当時の日本社会における氏名制度の変遷は多岐にわたるものであり、単純に「廃止した」と表現するのは誤解を招くものです。


このように、この投稿には歴史的背景や制度の複雑さを無視した、誤解を招きやす説明が多く含まれています

2024-10-25

anond:20241025112126

明治時代言文一致運動文語口語区別しているから、

それまでの  〜で候 とかがカッコ悪いってんで文語だって話になって

小説家が改めようってなって、〜だ 〜である を使い出した

から、 〜である は口語のうちだよ

侍なんかが、手紙ならず公式の場で 〜で候 を会話に使ったとして

それがおそらく明治以降軍人なんかが 〜である に使い始めたと考えるとしっくりくる

ようは、口語口語だといいながら、実態文語だよということだね

https://www.trannet.co.jp/pre_up/new_column/2008/1113/kosei_7.html

2024-10-22

[] 有職読み

有職読み(ゆうそくよみ)」は、主に中世日本歌学に由来し、伝統的に特定人物名を音読みする方法を指す。例えば、藤原俊成ふじわら としなり)を「しゅんぜい」、藤原定家ふじわら さだいえ)を「ていか」と読むように、敬意を込めて古人の名前音読みする慣習である。このような音読みは、元々は歌人有名人名前に対して用いられ、特に江戸時代から明治時代にかけて広まった。

 

また、この「有職読み」は、個人名に特化した用法であり、姓(名字)には使われないことが多いとされる。例えば、源氏平氏を「げんじ」「へいし」と読むのは有職読みとは言わない​。

 

この読み方は、敬意を表すための一種文化的な慣習であり、現代でも一部で使われているが、誤解や誤用されることも少なくない。

 

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石破総理伊藤博文を「はくぶん」と呼んでいたので気になって調べたら出てきた。

ちなみに以下によると、はくぶん読みは有職読みではないらしい。

https://www.kanken.or.jp/project/data/investigation_incentive_award_2016_miura.pdf

筆者曰く、人名における有職読みは主に名乗訓み(訓読み)を用いたものであり、音読みではない。一方で、はくぶんと音読みすることは、名乗訓みを無視して漢字をそのまま音読みしているだけであり、有職読みの条件を満たしていない、ということらしい。

2024-10-19

明治維新について簡単解説して!

明治維新(めいじいしん)は、1868年から始まった日本の大きな変革のことや。

江戸時代が終わって、武士時代から近代国家へと移り変わる大改革やったんや。

まず、江戸時代は長いこと続いたけど、外国日本に「開国せぇへんか?」って迫ってきたんや。

特にアメリカペリーさんが「ドン!」って黒船でやってきたんが大きなきっかけやな。

それで、徳川幕府がグラグラし始めたんや。

その後、薩摩藩長州藩を中心に「このままじゃアカン!新しい政府を作ろう!」ってなって、徳川幕府を倒す動きが強まっていったんや。

それで、天皇を中心にした新しい政府ができて、これを「王政復古」言うんや。

明治維新では、封建制度廃止されて、武士特権もなくなったんや。

そして、中央集権政府が作られて、軍隊近代化されたんや。

さらには、学校も作って、外国技術文化をどんどん取り入れていったんやで。

簡単に言うたら、江戸時代の古いシステムを壊して、新しい時代を作ったんが明治維新やな。

これで、日本は急速に近代化していって、世界の仲間入りを果たしたんや。

(でも国内内乱があったんだよね?)

そうやね、明治維新過程では日本国内内乱もあったんや。

特に有名なんは「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」や。

戊辰戦争1868年から1869年にかけて起こった戦いやねん。

徳川幕府を倒して新しい政府を作ろうとする側(薩摩藩長州藩が中心やった)と、幕府側の勢力がぶつかり合ったんや。

この戦いは京都鳥羽伏見から始まって、東北地方まで広がったんやで。

特に会津戦争函館戦争が有名やな。会津藩幕府側を支援して戦ったんやけど、最終的には負けてしまったんや。

また、函館では旧幕府軍榎本武揚(えのもとたけあき)が五稜郭(ごりょうかく)で最後抵抗をしたけど、こちらも新政府軍に敗れてしまったんや。

この内乱は、ただの権力争いだけやなくて、日本全体が新しい時代に進むための大きな痛みとも言えるんや。

結果的に、天皇を中心にした新政府勝利して、日本中央集権化と近代化に向かって進んでいったんやな。

(その時西郷隆盛は何してたの?)

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新の中心人物のひとりで、戊辰戦争の間もめちゃくちゃ大きな役割果たしてたんや。

まず、西郷薩摩藩リーダーとして、新政府を作ろうとする側に立ってたんや。

鳥羽伏見の戦いでは、幕府側と戦って新政府軍勝利に導いたんや。

彼は戦術にも長けてたし、部下たちにも慕われてたから、戦争勝利に大きく貢献したんやな。

戊辰戦争が進む中でも、西郷東北地方函館方面派遣される新政府軍の指揮を取ったり、旧幕府側との和平交渉にも関わってたんや。

特に江戸城無血開城江戸城を戦わずに明け渡すこと)では、西郷勝海舟(かつかいしゅう)が話し合って、江戸戦火から守ることができたんや。

これは西郷人間的な魅力や度量があったからこそ、実現できたもんやね。

ところが、明治維新が進んで新しい政府ができたあと、西郷新政府方針対立するようになってくんや。

特に西郷は、急速な近代化中央集権化の進み方に対して反感を抱いてたんや。

そして、最終的には西南戦争1877年)で政府反旗を翻すことになったんや。

この時、西郷薩摩士族たちを率いて、武士伝統や誇りを守ろうとして立ち上がったんやけど、結果的には政府軍に敗れてしまい、自ら命を絶つことになったんや。

簡単に言うと、西郷隆盛維新立役者でありながら、最終的にはその維新の流れに反発して戦った、というめっちゃドラマチックな人生やったんやな。

(あと伊藤博文についても解説して。なんか悪いイメージもあるよね)

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣憲法の制定に深く関わった人物やけど、確かに彼に対する批判的なイメージもあるんや。

それにはいくつかの理由があるねん。

まず、伊藤博文明治政府の中で「近代化」を進めた立役者やけど、その一環として朝鮮半島への介入や植民地政策に深く関わってたんや。

特に伊藤朝鮮に対して行った政策や、朝鮮日本保護国したことで、彼は後の日本植民地支配の基盤を作ったと言われてるんや。

これが大きなマイナスイメージひとつやな。

伊藤は、1905年日本韓国保護国化した際、初代韓国統監(かんこくとうかん)に就任したんや。

この統監府は、事実上日本韓国支配するための機関で、伊藤はそのトップとして韓国の内政に強く介入したんや。

この時期に韓国独立自主権が大きく損なわれたことが、彼に対する批判の大きな要因や。

その結果、1909年伊藤博文韓国ハルビン駅で、独立運動家の安重根あんじゅうこん)に暗殺されてしまったんや。

安重根伊藤を、韓国侵略独立を奪った人物として憎んでおり、この暗殺日本韓国の歴史に深く影響を与えたんや。

また、国内でも彼が明治政府の中枢で権力を握ってたこから一部の人からは「藩閥政治」を進めたと見られ、権力を一部の有力者たちで固めたことに対する批判もあったんや。

まり政治一部の人たちの手で動いていて、庶民の声が届きにくいっていう不満があったんや。

総合的に言うと、伊藤博文日本近代化に大きく貢献した一方で、朝鮮韓国との関係、そして国内外での権力集中に対する批判があるからマイナスイメージが残ってるんやな。

(女癖も悪かったと聞いてるけど)

ああ、そういう話もあるな!伊藤博文は「女癖が悪い」って噂がよく出る人物でもあるんや。

彼は若いころからかなり遊び好きで、特に女性関係にはだいぶ自由奔放やったらしいで。

彼は明治時代政治家の中でも、遊び人として知られとったんや。例えば、若いから遊郭に出入りしてたし、いろんな女性関係を持ってたっていうエピソードも多いねん。

噂によると、50歳を超えてから若い女性に夢中になってたとか、何度も結婚離婚を繰り返したりして、結構な数の女性と浮名を流してたんや。

特に彼の「芸者好き」は有名やったんや。政治家としての公の顔とは別に、夜はよく芸者遊びをしてたというエピソードがたくさん残ってるんや。

これが「女癖が悪い」という評判の元になってるんやろな。

さらに、晩年でもそうした生活を続けとったみたいやから一部の人からは「品がない」とか「節度がない」とか批判されることもあったんや。

ただ、そういう奔放な生活があっても、政治家としては一流やったんやけど、そのプライベートの部分があまり良いイメージを持たれてないってことやろな。

から伊藤博文には偉大な政治家としての側面と、ちょっとだらしない私生活の一面があって、それが「女癖が悪い」という評価に繋がってるんやろうな。

2024-10-13

村上春樹作品ポリコレガン無視云々で思い出した恩師との会話

ノルウェイの森キモいとか嫌いだったとかコンプラの欠片もないとか色々言われている(私はノルウェイの森に関しては学生時代映画を観てヒロイン役の水原希子が「もう二度と演技の仕事はやりたくない」みたいなコメントをしていたこしか覚えていない)。

そういう意見に対する反応の中に「コンプラ違反キモい小説禁止されるようになったら小説は終わりだ」みたいなものがあった。

それを見て、以前に恩師と話したことを思い出したので、何となく回想する。ただ、記憶曖昧な部分も多いので、架空の話と思ってもらったほうがいいかもしれない。

恩師(A先生とする)は文学が専門の大学教員で、ゼミでお世話になった。私はリアル留年するレベル卒論に手こずったのだが、A先生は急かすこともなく私が自分なりに納得できるものを書き上げるまで待ってくれた。私がA先生を恩師と呼ぶのは、その「恩義」によるところが大きい。

昨年の5月、久しぶりにA先生を訪ねた。先生はその年の3月大学早期退職していたので、会ったのは駅の近くのルノアールだった。

挨拶やら近況報告やらを経て、話題A先生が定年を待たずに大学を去ったことに移った。先生退職理由について「学内の過剰な『コンプラポリコレ意識に窮屈さを感じた」というようなことを話した。

私は少し身構えた。当時の私(今もだが)はどちらかといえば「コンプラポリコレ重視派」というか、フェミニズム共感したり、不公正に違和感を抱くことは大切だと思ったりする人間だった。Twitter(現X)のおすすめタブも、かなりリベラル寄りに構築されている。だから尊敬するA先生がいわゆるポリコレアンチだとしたらちょっと嫌だなぁ困るなぁ、と思ったのだ。

私はA先生の話をもっと聴くことにした。先生言葉をどうにか納得できる形で解釈するための材料が欲しかった。

A先生は、最近学内には過剰な(と先生が感じる)ほどの「配慮」を求める空気がある、と言った。例えば、講義の中で残酷と思われる映像を扱う時に、事前に警告して「苦手な人は見なくていいですよ」と言わなければいけないのだという。

そのような「配慮」は、私も見たことがある。以前、NHK地上波ドラマで、作中に出てくるセンシティブな要素(性的描写暴力自傷行為など)について冒頭で警告していた。ある種のネタバレとも言えるのだが、人によってはフラッシュバックを起こしかねない描写に警告を入れるのは「正しい」ように思われた。

大学サイドはクレームを恐れている。事なかれ主義的に先回りして、学生を傷つける可能性の芽を片っ端から摘んでいる。それは学問を教える場としてあるべき姿だろうか? 人間が学び成長する契機の一つは『ショックを受けること』だ。本来人間には、ショッキング経験咀嚼し消化することで新たな知見や価値観を得る力がある。『コンプラ』に基づいた『配慮』によって学生たちをショックから『守る』ことは、彼らの『ショックを消化する力』を信頼していないということではないか?」

といった内容を、A先生は語った。確かに、誰でも見る可能性がある地上波ドラマと違い、大学講義を受けに来るのは一定以上のリテラシーを持った一定以上の年齢の学生に限られる。「後から訴えられるリスクを避けるため」という理由だけで、彼らの「ショックを受ける権利(≒成長する権利)」を奪うのは、学問の場の在り方としておかしいと言えるかもしれない。

また、A先生は「今これを読んでいるのだけど」と、明治時代私小説(確か森鷗外)を見せてくれた。詳しいあらすじは忘れてしまったが、端的に言ってクズな男の話だった。

「この話は、『ポリコレ』としては全く『正しくない』。だが、そういう『正しくなさ』を持っているのが人間ではないのか。そして、人間の正しくなくて醜くてクズな部分をも描くことができるのが文学(≒フィクション)ではないのか。『ポリコレ的に正しい』文学しか認めないというのは、非常に危ういことだ」

と、A先生は語った。これはまさに今回の村上春樹作品の「正しくなさ」論争に重なる話だろう。

ポリコレ」つまりポリティカル・コレクトネス」とは本来政治的な正しさ」を意味する言葉だった。ゆえに、配慮対象となるのはあくま現実社会を生きる人々であったはずだ。にもかかわらず、今ではフィクション評価軸として「ポリコレ」が使われており、なおかつ「ポリコレ的に正しくない」作品非難対象となっている。

だが、A先生の専門である(そして私が多少なりとも学んだ)文学という分野において、フィクションを「ポリコレ的に正しいか否か」で評価することはある意味危険視されている。文学にとって「多様性」は命だ。文学は唯一絶対の「真理」を信じない。なので、「ポリティカル・コレクトネスはどんな時も決して譲るべきではない」という立場とは、そもそも相性が悪いのだ。さらに、先ほどの先生言葉の通り、文学は「正しくないもの」の居場所でもある。フィクションには、現実社会では犯罪になるような行為差別的とされる感情も受け入れる余地がある。もちろん、受け手がそのようなフィクションに触れて「キモい」「傷ついた」「作り手の人格を疑う」などの反応を返すことは当然ありうるし、(特に商業的な作品では)作り手がそういった反応を回避するためにコンプラポリコレ意識することも普通にあるだろう。だが、「正しくない」フィクションを一律に禁じ、「正しい」フィクションけが存在を許される事態は、少なくとも文学畑の人間からすれば「あってはならない」ことなのだ。

1時間少々をルノアールで過ごし、私とA先生は再会の約束をした後、駅で別れた。電車の中で、私はずっと先生との会話を反芻していた。今思えば、私はまさに先生発言に「ショックを受け」、それを咀嚼し消化しようとしていたのだろう(この投稿自体がその行為の一環といえるかもしれない)。

最後に、フィクション受け手を傷つけることについて、思うことを書いておく。

私は昔から小説漫画など色々なものを読んできたが、その中でショックを受けたり傷ついたりしたことも少なくない。今でも覚えているのは、小学生の時に読んだ児童書で、登場人物クラスメイトのことを「グループ渡り鳥」とバカにしている描写だ。当時の私は特定グループ所属していなかったので、「私は『グループ渡り鳥』なんだ、良くない状態なんだ」と思い込み自己肯定感が下がっていった気がする。

それでも、私の基本的スタンスは「傷つくのは受け手事情」だ。明らかな悪意に基づくものならともかく、一般的フィクションに触れて傷ついたとしても、それは「自分の傷つきやすい部分に当たった」に過ぎない。「勝手に傷つくお前が悪い」とは言わないが、少なくとも「人を傷つける作品が悪い」とはならないと思っている。そもそも、誰も傷つけないフィクションなんて、誰も感動させないフィクション同義ではないのか。

以上、長々と書き連ねたが、今言えるのは、私が恩師にまた会える日を楽しみにしているということくらいだ。そしてその時には、また色々な話がしたいものだ。

2024-09-16

国立大学国立専門学校にしたほうがいいんじゃないかな

基礎研究とかそういうのは、金がある国に任せればいいじゃないか。だいたい、研究養成したって、優秀な人ほど日本に残らないよ。

知ってる?アカデミアはほとんどの分野で中国トップ。金が全てなわけ。逆立ちしても勝てない。

それに、世界と戦える人材が、こんな給料が安い国にすみたがるか?

物価が安くて治安がいい老後に住みたい国であって、研究の本場でもない国に住まないといけないのか。

研究養成なんか無駄から大学実学教育に全振り、全部専門学校にしたらいい。教授陣は外国人を雇え。必要人材留学させろよ。明治時代みたいにり

知の追求は道楽なんだから、そういうのこそ私立が担えばいいさ。

2024-09-09

どのように犯罪量刑は軽くなるのか??

江戸時代

殺人 → 死刑

10両以上の窃盗 → 死刑

・1両以上の詐欺 → 死刑

放火 → 死刑

人妻に手を出す → 死刑

・娘を手を出す → 重追放

強姦 → 重追放、手鎖

幼女強姦 → 遠島

 

明治時代

資料がみつからねー

 

昭和時代

資料がみつからねー

 

なんなん?面白い記事書こうとしたのに!!

 

海外の例だと、刑務所がいっぱいになったとかで量刑は下がりがちだよね

2024-09-08

丸子宿のとろろを食べてきた

静岡市に転勤してきたとき、同僚が薦めてくれた丁子屋・・・は前に行ってきたので、今日は別のお店である

(丁子屋は観光客向けで、近隣の人はあまり行かないらしい)

土日は混むらしいので、予約をしておく

自分一人のために飲食店予約って恥ずかしいな。うるせぇ、それでもやるんだ。と一人葛藤してから電話を掛ける

「席はどこでもいいの?」と聞かれて、構わないと答える。見晴らしのいい席とかあるんだろうか。

慣れない下手くそ運転でお店に向かう。

バイパスを降りて、細い道を進む。「これはひょっとして一通の道を逆走しているのでは?」と不安になりながらもさらに進む。

やべぇ対向車が来た。泣きそう。寄せて停止。というのを3回くらいやるとお店にたどり着いた。

お店の前の駐車スペースが埋まっており、再度泣きそうになる。

見回してみるとお店の駐車場・・・?なのかな?というスペースがあったのでそこに停める。違ったら謝ろう。

ツクツクボウシがうるさい。暑い。お店に向かう。

名前を告げ、座席に通される。田舎の親戚の家のような落ち着く空間

定食でいいですか?」と聞かれる。

メニュー定食しかないと聞いてたし、お店の前にも書いてあった。それでも聞くんだな。常連には裏メニューとかあるんだろうか。

定食を待つ。他のテーブルの奥様達の談笑が聞こえてくる。楽しそうだ。

あれが有閑マダムと言う奴だろうか。そうかマダムは日曜にとろろ汁を召し上がるのか。そんなことを考えて待つ。

定食がやってくる。量が結構ある。。

ごはんとろろ汁もずく冷奴、たくあん蕎麦。あと、薬味ネギと一味。

「一味はそばにどうぞ」だそうだ。

それよりも、正しいとろろの食い方を教えて欲しい。まぁいいや適当に食べよう。

まず、ごはんをそのまま食う。よくわからんが、とろろに合うご飯なんだろう。単体でも美味い。

そんで、とろろをそのまま食う。出汁なのかなんなのか知らんが味がついてて美味い。

ごはんとろろをかけて食う。もちろんうまい

後は、よく覚えてない。かき込んだ。美味かった。腹いっぱい。

マダムたちもこの量を完食したんだろうか。すごいな。それとも俺の胃がいつのまにか小さくなったのか。

お茶を一杯のみ、お会計を済ませ、お店を後にする。

このまま帰るにはさすがに早いので、近隣をブラブラすることにする。

とりあえず、現在地から最寄りの道の駅的な施設に向かう。

あぁ、道の駅駐車場はやっぱ広くていいな。車を停める。

案内板を観ると、峠を往復する散策コースがあるらしい。所要時間片道20分。ちょうどよいのでコースに向かう。

なんか昔の歌人が歌に詠んだとかどうとか謂れがあるらしい。ちゃんと読んでないからよくわからん

歩き始めて数分で後悔する。ぬかるんだ山道だ。片道20分は嘘だろ。騙された。

汗だくになりながら、登る方向に石段を進む。スニーカーでくる場所じゃないな。足の裏が痛い。

誰も居ないので独り言ブツブツ言いながら進む。どっこいしょとかよっこらせとか言いまくる

見晴らしの良い場所にたどり着き、ちょっと休む。

息を整え、進む。今度は下りだ。小川に沿って石段を下る。

足がプルプルしている。明日筋肉痛だろう。

昔の人もこんな道を通っていたのか?馬とか無理だろ?と思いながら、進む。

何かしらの柑橘類の畑の脇を通り抜け、山道の終わりが見えてくる。

家族連れがテントを拡げて寛いでいる。川遊びに良い場所なのだろう。

地理いまいち良くわからんが、峠を越えたようだ。一安心

引き続き散策コースに沿って歩こうとする・・・が、コースの一部である明治時代だかのトンネル通行止めになっているらしい。

ショック。今来た山道を引き返す必要があるのか?と絶望しそうになる。

とりあえず、こちらにも道の駅的なものがあったので休む。

ついでに店員さんに聞いてみると、1号線のトンネルを使って帰ればよいとのこと。徒歩では通れないと思い込んでいた。一安心

アドバイス通り、1号線に沿って歩く。トンネル。本当だ、しっかりした歩道がある。知らんかった。

ただ、歩くには騒音が激しすぎる。とくに見るべきものもないので、足早に進む。

強いて言えば、暗号めいた落書きが気になった。保守工事の人の目印か何かだろうか。

出口が見えてくる。

トンネルを抜けると、そこは俺が車を停めた道の駅だった。異世界でなくて良かった。

疲れたので帰路に着く。

ラジオでは山下達郎と思しき何かが、何かを喋っている。何かで揉めてなかったかこの人。元気で何よりだ。知らんけど。

途中でスーパーに寄って、3割引きの団子を買う。甘いものが食いたい。

家に帰ったら、日記を書いてからコーヒーを淹れよう。インスタントだけど。

まり、何が言いたいかと言うと、休日は体をちょっと動かして美味しいものを食べるのがいいよ、という話。

2024-09-03

anond:20240902215013

お前は考えているつもりなんだろうが、バカなんだから黙ってろ。以下の理由人口維持はありえないし、明治時代程度の人口で十分だとわかっている。

1 医療技術革新で人の寿命は急激に伸びる

2 AIロボットで人手が要らなくなる

3 人口を維持するとエネルギー食糧、水が足りなくなる地獄

2024-09-01

anond:20240901111019

明治時代陰謀論に今も騙されてるだけの低脳ジャップオスさんより、アカデミックな主張してる女性の方がはるかにまともやんけ

2024-08-30

anond:20240829195553

物事解像度上がる程度にしか捉えてない。例えば皇居だけど、日本史やるまでは「天皇住んでんだへー」くらいにしか思わないけど、やったあとには「あそこは江戸時代から続いていてすげー!!明治時代から天皇住むようになって(以下略)」になるじゃん?

教養ってそんなもん。

2024-08-24

ウクライナ人Alex Kさんの思い出と、キリスト教の話

ゼロ年代インターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語ウィキペディアで、ウクライナに関する有益記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。

しかし、Alex Kさんウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナ歴史上の人物や、都市や、教会についての記事執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事修正しようとした。それが問題のはじまりだった。

話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由キリスト教布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自日本語聖書を作った。正教会宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめし文体日本語聖書を作った。カトリックプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。

正教会カトリック
主教司教
顕栄変容
生神女聖母
至聖三者三位一体
イイスス・ハリストスイエス・キリスト

これがいいかいかは、その人の価値観によるだろう。他の教会共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利日本人の正教徒しかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。

このようにキリスト教各派が使っている用語バラバラなので、日本語ウィキペディアでは、「各派の独自用語尊重する」というデファクトスタンダード確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自呼称である教皇」が採用された。カトリック教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。

ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。

  1. 日本語ウィキペディアでは、各派の用語尊重することになっている。正教会事物は、日本語ウィキペディアでは日本正教会用語に従って書かれるべきだ。
  2. 日本正教会があえて違う訳語を使っているのではない。歴史的経緯から各派がバラバラ訳語を使っているだけである日本正教会用語だけ特殊扱いするのはおかしい。
  3. キリスト教徒は日本において人口の1%程度しかいない。したがってキリスト教用語の多くは国語辞典に載っていないかキリスト教用語としての意味が書かれていないので、国語辞典基準にしてしまうとウィキペディアにおけるキリスト教関係記事の多くが成り立たない。実際に、Alex Kさんが参照している国語辞典の「変容」の項には「キリストの変容」という意味は書かれていない。国語辞典基準にするなら、まずAlex Kさんが推す「変容」からしてアウトではないか
  4. 仮に「一般通用しているか」を判断基準にするなら、ウクライナ固有名詞の多くはロシア語読みで書くべきということになるはずだ。Alex Kさんウクライナに関しては慣用表記ではなく当事者呼び方を優先すべきだと主張するのに、日本正教会に関しては当事者呼び方ではなく慣用表記を使うべきだというのはおかしい。
  5. Alex Kさんが振り回す辞典の「顕栄」の項には、「立身出世」のほかに「名があらわれ、身のさかえること」という語義も書かれている。キリストの「名があらわれ、身がさかえる」というのは教義的におかし表現とはいえないだろう。そもそも顕栄は漢語であり、「えある姿をす」と解釈できる言葉だ。Alex Kさん漢文を読めないのか?

このような反論Alex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ投票に参加しなかったにもかかわらず勝手記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさん日本語ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。

Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会ロシア正教会の一部なのである

それの何が問題なのだろうか。日本カトリック教会は、全世界信徒を統べるカトリック教会地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会ロシア正教会支部であって何か問題があるのか? カトリック正教会組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界組織ピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだコンスタンティノポリスの全地総主教あくまで同輩中の首席にすぎない)。

正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会ブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自組織存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的日本人信徒神品聖職者)で決めているが、教会トップモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会ロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジア独立教会がない。中国正教会ロシア正教会の傘下だし、韓国香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。

まりウクライナ民族主義であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会尊重せよ」というのは、「ロシア正教会尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会カトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリック差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたこからウクライナ民族主義の核になっている)。

しかAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会日本人によって運営されている教会、という点である。確かに教会設立ロシア人によるものだし、ある時期まではトップロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒自分たち教会組織運営するようになり、ここ半世紀は教会トップ日本人が務めている。しかも、日露戦争ロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話であるロシア正教会が気に食わないというウクライナ人気持ち理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。

ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人あいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロコロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会用語法を意図的無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会管轄である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイート公然としている。まあ、こういうツイートウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教精神双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。

そもそもウクライナ正教会日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒基本的日本正教会聖堂に通うべきだからだ。とはいえ移民移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワ許可必要なんだ?」と嘯いたそうだ)

さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教日本正教会自治権を認めておらず、韓国派遣したギリシャ人神品日本正教会トップに任命しているのだ。彼は韓国正教会トップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情理解できる。だがそこでも、日本正教会日本人運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人日本正教会トップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?

ロシアウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンプーチン盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人特にウクライナ正教会関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。

ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。

На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].

この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナル記述である

Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».

Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法モスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<

2024-08-16

anond:20240816045740

個人的には、第二外国語自体必要だと思うけども、ドイツ語がそのリストに入っている必要はないと思う。

いやだってドイツ語、そんな重要ですか? 西洋史専攻で履修させるならともかく、全学で履修が必要ですか?

このへんはわかるよ? 政治的経済的にも、あるいは語学的にも必修にする意味はわかるよ? でもドイツ語ってさぁ……

ってなるじゃん! 明治時代の名残で残ってるだけで、現代日本には別に要らないじゃん!

全学の必修からは外して、トルコ語とかウクライナ語とかアイスランド語とかと同列の選択科目にすればよくないですか???

普通にドイツ語を外して他のアジア言語を必修にすべきなんだよな。特に東南アジアドイツよりも日本との交流が多いわけだし。フィリピン語とかインドネシア語とかベトナム語とかヒンディー語とかを必修に入れてドイツ語を必修の二外から外そう(提案)。

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